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2011年07月01日

総集編

 「海外生活の達人 Part II」シリーズは、前号2011年6月の「アイスランド編」をもって一応のピリオドを打つこととなった。今月は、これまでの記事を振り返り「総集編」を掲載させていただく。

 「海外生活の達人」は、『日経ビジネス』(日経BP社)の月1回のコラムとしてスタートしたもので、同誌に2001年2月から同年9月まで計7編掲載した後、(株)インテック・ジャパンのホームページに場所を移して連載を続けてきた。

 「海外生活の達人」として34編、その後2年間の中休みを挟み「海外生活の達人 Part II」として41編、合計75編(国の数としては73ヶ国)の記事を掲載したことになる。各記事は、その国にゆかりの深い方々にお話を伺ってまとめた。毎月、毎月の出会いを大切に、限られたインタビュー時間ではあったが、その地に暮らし、その地と深く関わった方々の経験や実感に基づく視点を示せるよう心がけた。読者の皆様が、記事を通じて「この国にはこんな一面があったのか」という発見をして下さったのであれば嬉しい限りである。

●インタビューさせていただいた方たち

 「インタビューする方々はどのように決めるのか?」という質問をいただくことがある。連載を開始した当初は、インテック・ジャパンの主業務の一つである「赴任前研修」の講師の方々にお話を伺った。各国に(赴任、留学、研究等の目的で)長期滞在経験があり、その国の法務・経理財務・人事労務管理・ビジネス環境・文化・生活事情等について出講いただいている方々である。北南米(カナダ、米国、ブラジル)やヨーロッパの主だった国々、オーストラリア、そして日本からの駐在員数が堅調に伸びている東南アジア諸国や中国、インドについては、こうした講師陣のネットワークに助けていただくところ大であった。二十数ヶ国の取材・執筆を了えた頃、取材対象を「赴任前研修で扱ったことのない国」(=日本とその国との間の経済的な交流がまだ活発でない国)にも広げ、 “赴任前研修の講師陣”という範疇を超えて、お話を伺える方を探すようになった。

 そうした流れの中でインタビューを申し込むようになったのが、JICAやJETROなどで国際開発援助、経済交流に関わっていらっしゃる方々や、元青年海外協力隊員の方、民間機関を通じて諸外国で奉仕活動を行った経験をもつ方である。こうした方々のお話を伺ってまとめた国は、主にアフリカや中東地域に広がっている。

 第3のグループは、日本在住の当該国出身の方々である。(連載順で)ロシア、ポーランド、ベトナム、ブルガリア、カンボジア、パキスタン、ウクライナ、タジキスタン、ボスニア=ヘルツェゴビナ、マカオ、スロバキア、ニカラグアがこれにあたる。母国の文化に照らして日本人の暮らしや価値観をとらえ、印象を語って下さる場面もあり、心に残っている。

 弊社の赴任前研修の対象国・地域が年々拡充していく中で、新しく講師陣に加わられた方々をインタビューする機会にも恵まれた。また、2009年10月には「特別編」として「エスペラント」を取り上げることができた。

 ある国についてインタビューした方が、別の国のご専門家をご紹介下さることもあった。お忙しい中、取材に応じて下さった方はもとより、ご自身のお知り合いをご紹介下さった皆様のご厚情に、この場を借りて感謝申し上げたい。

●「海外生活の達人」から「海外生活の達人 Part II」へ

 本シリーズの開始当初には紙メディアへの掲載という目的があり、字数に制限があった。そのため、取り扱い国について一点か二点に絞ってコンパクトに紹介するスタイルであった。ホームページに場所を移した後も、基本的に同じ取材・執筆方針を踏襲したが、字数制限が外れたこともあり、従来より深く、広く掘り下げることが可能になった。特にPart IIシリーズとして2008年2月に再開してからは、かなり字数のボリュームが増えた。

 ちなみに、2001年に「日経ビジネス」に掲載したのは、英国、ドイツ、フランス、イタリア、オランダ、スウェーデン、オーストラリアの7ヶ国だった。その後ホームページに掲載した初期の記事は、タイ、香港、インド、韓国、フィリピン、中国など、日本人に身近な国々を多く含む。

 連載の基本的な方針として、その国の政治経済の現況など、常に移ろい行く点よりも、「国民性」や「人々の価値観」「暮らしの知恵」など、十年、二十年では変わりようのない、文化・社会的な側面に光を当てるようにした。従って、十年前の記事を改めて読んでも“古さ”を感じることはないが、中国やインドなど、この十年間で国際社会における立ち位置が大きく変わった国もあり、そうした社会の急激な変化が人々の心理にどのような影響を及ぼしているのか…など、気になるところである。シリーズ草創期に扱った国について、今改めて取材し直し、かつてよりも字数を尽くして書いたならば、また別の表情を浮き彫りにできるのかもしれない。

●インタビューの舞台裏

 インタビューにあたっては、弊社(飯田橋)にご足労をおかけしてお話を聞かせていただいた方もあるが、先方のご勤務先やホテルのラウンジ、お住まいの近くの喫茶室等でお話を伺ったことも多く、中にはご自宅にお招き下さった方もあった。今、一つ一つの記事を読み返すと、その方と向かい合った貴重な時間が蘇ってくる。

インタビュー風景
インタビュー風景:「ウクライナ編」の嶋崎イリーナさん(右)と。(撮影:原島一男氏)

 インタビュー場所はほとんどが首都圏内だったが、それ以外の県(つくば市、長野市、静岡市、沼津市、仙台市、岡山市、松本市)に出向いたこともあった。サッカーの試合ではないが、その方にとっての「ホーム」、筆者にとっては「アウェイ」でのインタビューというわけだ。「アウェイ」インタビューは、普段暮らしていらっしゃる地域・空間の中でお話を伺える分、その方の生き様がより伝わってくるような思いがした。取材のための海外出張はなかったが、筆者の休暇を利用してのタイ旅行(2003年)で、バンコクに赴任されている方のお話を伺ったことも忘れられない。尚、現在も海外に居住されている方のインタビューは、一時帰国のタイミングに東京で実施(UAE編)したり、インターネットのビデオ通話を利用して行ったりした(フィジー編、デンマーク編)。

 取材にはその国の基礎情報を把握してから臨むものの、こちらが描いた青写真に沿って質問をしたり、記事の流れを決めたりということは一切しなかった。全て、その方が「現地でどういう経験をし」そこから「何を伝えたいか」ということを基点に考えるので、インタビューを行うまでは、どのような論旨の記事が生まれるのか、想像がつかない不安や楽しさがあった。

 初稿が仕上がり、ご本人に修正箇所をご指摘いただいた後、修正版原稿を再度ご確認願い、ようやく最終稿となる。毎回、赤が入った原稿が戻ってくるのを待つ時間は、まさに緊張の面持ちであった。単語単位の若干の変更・修正で「可」とされることもある一方で、沢山加筆して下さる方もあり、筆者自身がインタビューで十分にその方の経験や思いを吸収しきれなかったことを反省した。

●印象に残った言葉たち

 多くの皆様をインタビューさせていただく中で、印象に残る言葉の数々に出会った。記事本編の中に書き記せた言葉も、残念ながら割愛せざるを得なかったものもある。この度、改めて取材ノートに目を通し、特定の国を離れてなお“普遍性のある”言葉たちを書き出してみた。

海外生活を送るにあたっての姿勢

 まず、海外駐在経験が豊富な3人の方の言葉をご紹介したい。

「駐在員は移住を前提としているわけではない。謙虚な気持ちで、数年間彼らの軒下で雨宿りさせてもらい、そこで行商をしている…そういった感覚を失わないことである。我々は決して家人にはなれない。そう認識していれば、土足で応接間に入るような奢った言動は自然と控えられるであろう。」(「米国編(2)」定森 幸生氏)

「現地生活にいかに柔軟になじんでいくかという点について付言すれば、自分が外国人であるということを、常に謙虚に言い聞かせることだ。そこで生まれ育った人たちとは、宗教観、生死の考え、経済観念、政治的信条、教育環境等が当然異なるわけで、3年、5年そこに居住したところで、所詮われわれは外国人だと思う。言葉を自在にこなしたとしても、彼らが背負っている物を完全に共有することはできない。」(「ルーマニア編」鳴尾 眞二氏)

「これまで赴任したどの国でも、“仕事をさせてもらっている”という思いを忘れないようにしてきた。また、日本では当たり前のこと、正しいことも、場所が違えば必ずしも同じとは限らないということを肝に銘じてきた。」「あらゆる国について学ぼうという意識をもった。相手とのfriction(摩擦・軋轢)が減ると、相手に迷惑をかけることも減る。異文化コミュニケーション、ビジネスコミュニケーションの要諦は、(自分がストレスを受けないようにするのと同時に)相手にもストレスを与えないことだ。」(「スペイン編」元商社 H氏)

危機意識

 アルゼンチンと米国で通算16年を過ごした光藤晃彦氏は、「アルゼンチン編」の中で、日本人の危機意識が薄いことへの危惧をこのように語った。

「アルゼンチン人や米国人は、普通に暮らしていても、明日は何が起こるかわからないという予感を誰もが持っており、不測の事態の発生の可能性を“いさぎよく”意識している。しかし、われわれ日本人は安全・安定を求め、それに慣れ親しみすぎて、非日常のことが起こり得るとはあまり考えたがらない。無風・平穏に暮らし得ている分にはよいのかもしれないが、今後、そのような暮らしはだんだん難しくなっていくように思える。このままで自ら変わろうとしなければ、危急の時、咄嗟に反応ができなくなってしまうのでは?」(光藤氏の商社マンとしての人生の中では、海外生活で命を落とした知人や同僚も少なからずあった。)

 アルゼンチン編が掲載されたのは2008年4月であった。光藤氏のこのメッセージは筆者の心に深く刻まれ、その後も世界各地や日本国内で自然災害や大きな事故が発生する度に思い起こされた。2011年3月11日の東北関東大震災を経た今、その言葉の重みが、さらにひしひしと感じられる。

若い世代へのエール

 若い世代へのメッセージとして、印象的だった言葉を二つ紹介したい。一つ目は、元商社でイラン会社社長を務めた野田修氏の言葉(イラン編本文には未掲載)。二つ目は元ウルグアイ大使、久山慎一氏(ウルグアイ編)の言葉だ。

<海外業務に関わる若いビジネスパーソンへ>

「サラリーマンは、成功体験をどれだけ積むかで、人生の充実度が変わってくる。駐在においても、幸せなのは“そこに(やりがいを感じられる)プロジェクトがある”ことだ。国情や暮らし易さを第一に考えて、ヨーロッパの先進国に赴任することを希望する人がいる。家族帯同の場合、その心情はわからぬではないが、市場が成熟した国では、事業が思ったように拡大せず、結果として駐在員が十分に能力を発揮できないこともある。生活環境が厳しい国であっても、そこに発展的な仕事があれば、社の業績に貢献できるばかりでなく、個々にとっての充実につながる。むろん、交渉や事業運営の過程で様々な障害が生じ、苦労もするが、そうしたハードルを一つ一つ越えていくことで、若いスタッフが成長できる。事業を通じてつながっている日本国内の担当部署のスタッフも、その経験を共有することで成長できる。」

<海外を志向しなくなった若者へ>

「違う価値観の国があるということを知ってほしい。そのためには、日本でしか暮らせないという先入観を排すべきだ。外国で幾多のハードルを越える経験は、必ずや人間としての器を大きくしてくれる。だが、外国といっても、どこでもいいというわけではない。私は“あまり危険なところに率先して行くべきではない”と考える。そもそも国情が不安定で命が危険にさらされるような国では、“脱皮”どころではなく、“shrink back”してしまうからだ。ある程度の安全性が確保されているところがよい。(ウルグアイはそういう意味で条件の整った国だ。)」

いかにあるべきか

 異文化環境に身を置くと、「自分はどうあるべきか」ということを、日本にいる時以上に意識する方が多いのではないだろうか。次にご紹介するお二人のメッセージは大変示唆に富む。

「日本もオーストリアも、長い歴史のある国であり、常日頃の自分の精神構造、性格、ものの考え方そのままで、品格をもって付き合えば、何ら憂えることはなく、対等な関係が築ける。敢えて言うならば、“自分を磨くこと”。表面を繕う必要はさらさらないが、自分の考えや行動の柱として誇れるような一貫した“基準”をもつことが肝要。そうすれば、相手もこちらを理解しようとし、日本人を尊重してくれる。」(「オーストリア編」吉野 鋼平氏)

「アイスランドでは風がめっぽう強い。強風の中を歩くためには、おなかに力を入れねば、ふきとばされてしまう。誰もが、“歩く”というごく日常的な動作ひとつとっても、のんべんだらりとは生きていけないのだ。私は、おなかに力をこめると同時に“目線を高く、背筋を伸ばして、堂々と”歩くよう心がけた。それは“お互い一人の人間としてここに存在する”という感覚につながり、自分は何人であるとか、日本ではどこに属していたといった意識を忘れられるようになった。ある意味、精神的に脱皮したような実感を覚えた。」(「アイスランド編」伊藤 盡氏)

●おわりに

 十年余りの間に取材した国々のほとんどは筆者にとって未踏の地であり、まるで一ヶ国一ヶ国を“探訪”しているかのような新鮮な思いに包まれて過ごすことができた。それぞれの国の歴史的背景や人々が抱えている問題を初めて知り、自分の不勉強を恥ずかしく思うことも少なからずあった。お話を聞かせていただいた方が現地で積まれた経験と年月の重みを、短い記事で表現せねばならないことへの申し訳なさを感じつつも、できるだけその国の像に迫りたいと願い、連載を重ねてきた次第である。

 長い“旅路”から戻った今、これまで本欄にアクセス下さってきた皆様方、様々な形でお力添えをいただいた皆様に改めて感謝申し上げたい。また、社内のことで恐縮乍、可兒鈴一郎社長からは、連載期間を通じて全面的なバックアップを受けた。可兒の直接・間接的ネットワークによってインタビューが実現した編は数知れず、また、多くの著書を世に出している可兒のプロフェッショナルな視点から毎回拙文についてアドバイスやコメントを受けられたことは大きな励みとなった。

 シリーズに一区切りつけることには一抹の寂しさを覚えるが、将来また新しい連載で皆様にお目にかかれることを楽しみに、これにて一旦おいとまさせていただきたい。

(齋藤志緒理)

2011年06月01日

アイスランド

「絶海の孤島」アイスランド

厳しい自然環境の中で自ずと生まれた “生”への強い意志と覚悟

 伊藤盡(いとう・つくす)さんは、1991年、慶應義塾大学の大学院生時代にアイスランド政府の奨学金によりアイスランド留学を果たした。日本からアイスランドへの留学は、1969年、現在も同国に在住のソルザルソン美也子氏に始まり、その後しばらく続いたが、1980年代に一旦途絶えていた。伊藤さんの留学が呼び水となったのか、その後、途切れなく毎年留学生がアイスランドの地を踏んでいるそうだ。

アイスランドにて(伊藤盡様)
留学時代の伊藤盡さん(右端):
アイスランド人・キャルタン氏と結婚された故稲葉隆子氏(左端)の家庭に招かれた折に。
左隣の女性は、文中にも登場するソルザルソン美也子氏。

 伊藤さんの専門は英語学である。英語の歴史を研究する中で、約1000年前の英語と20世紀のアイスランド語が似たような文法構造をもった言語であること、英語の基本語彙や文法構造が北欧言語の影響を受けている点に着目した。アイスランド人の祖先は、9世紀末から10世紀にかけてアイスランドに移住したノルウェー人と、アイルランドやスコットランドからの自由移民及び奴隷(“バイキング”による捕虜)により構成されたと一般的に言われており、その後、他地域からの人口流入はほとんどなかったとみられている。*注1)こうして北欧語を話す人々が絶海の孤島に育んだアイスランド語は、現在まで大きく変化することなく、脈々と受け継がれてきた。アイスランドは、英語学の研究者にとっては、いわば中世の英語の足跡に直接触れることができる大変貴重な地なのである。(9世紀には、逆に北欧からイングランドへの移住者の流れもあり、現在の英語の基本語彙の中には、北欧言語に源を発するものも多くみられる。)

 留学先のアイスランド大学では、アイスランド語を徹底的に学び、クラスでは世界各地(中国、カナダ、アメリカ、北欧諸国、ドイツ、英国、フランス、スペイン、アルゼンチン、チリ、ポーランド、バルト3国、ロシア)からの留学生と机を並べた。彼らとは英語で議論することもあったが、日常生活においては、つとめてアイスランド語だけで会話するようにした。

 「21世紀の今は、社交的な人も増え、外国滞在経験者も増えた。人口がたった三十数万人の国ゆえ、数十人単位で増えても国民の中での割合は高く、すぐにいろいろな影響を与える。だが、私が留学した頃は、まだ伝統的な、寡黙なアイスランド人が多かった。アイスランド人はおそらく、国民的に言語の才に溢れた人が多いと思うが、日本と同じ島国なので、外国に対してある種の嫌悪感とまで言わないまでも、“自分たちとは違うモノ”という感覚がある。ましてや、私の日本人的な外見は、1990年代初頭では、非常に珍しいものだった」と伊藤さん。その壁を乗り越えるため、伊藤さんは思いきって教会の合唱団に入ることにした。「最初のうちはアイスランド語がまだうまく話せず、団員の中で思うように意思疎通が図れなかった。皆も、私がアイスランド語を学びに来たことを知っているので、英語で話そうとはしない。私自身も英語で話したら負け…のような思いがあり、英語を忘れるくらいにアイスランド語に没頭した。」余暇には、二人の老人が経営する古書店に足繁く通ったが、この店が伊藤さんにとって、何とも心穏やかな学びの場となった。店主の一人はアイスランド語しか話さず、もう一人は訛りのきつい英語を少し話せた。その古書店で、ほぼ毎日のようにコーヒーをご馳走になり、クネッケルというパンをいただきながら、たどたどしいアイスランド語で少しずつ話していった。老人の話すアイスランド語はゆっくりで、若者の言葉よりもはっきりと聞き取れる。言葉についての質問をしたり、古書店の中の本の説明を聞いたりできたのも大変有難かったそうだ。

 さて、伊藤さんが感じたアイスランド社会とは、どのようなものだったのか。

 アイスランドと日本に共通するのは「島国根性」。しかも、日本もアイスランドも、大陸からちょっと離れたところにある島国という点が似ている。周りを豊かな海に囲まれているため、漁業も盛んだ。日本のように暖かな海、恵まれた日差しのもとで育つ珊瑚や海藻はないが、北の海の脂ののった魚がとれることは、北欧人の食生活の基礎を作っている。島国であるため、外国に対するコンプレックスや、憧れの混じった複雑な感情をもつこともある。世界の流行を追うことが好きで、最先端の流行を知っている自分を自慢したがるような微笑ましい一面もある。

 日本人との違いの最たるものは、アイスランド社会が“「超個人主義」に基づく村社会”であるという点である。最近の首都レイキャヴィーク周辺では密集した住宅地も見られるものの、アイスランドでは伝統的に家と家との距離が離れており、国民性としては、誰も住まないところに一軒家を建てて、そこに住むことを厭わない気風が根底にある。その一方で、むしろ、そのようなところだからこそ、困っている時には助け合うことも厭わない。たった一人になっても生きていく独立心、或いは最終的に頼るべきは自分だけという信念に基づきながら、それでも助けがなければ生きていけない自然環境のもとでは、他人に助けられること、他人を助けることはお互いに必要であると認識しているのだ。「いわば“どんな雪道でも独力で歩くが、行き倒れている人がいたら助ける”という感覚。日本のような、食べ物が豊かに実る温暖で優しい自然環境の村社会とは異なり、厳しい自然環境の中で、自ずから生まれた“生きていくこと”への強い意志と覚悟が備わっている人々が作った共同社会といえましょう。」冬の厳しさについては、スカンジナビア半島の国々も変わりはないが、スカンジナビア諸国と決定的に違うのは、“どんなにあがいても、海を越えない限り、世界とはつながれない”という孤立感、辺境感である。伊藤さん自身、四方に誰もいないアイスランドの野にひとり佇み、「今、自分にもしものことがあっても、その知らせが日本に届くまでには1週間はかかるのでは?」と腹の底からこみあげるような感覚をもったことがあったそうだ。「同じヨーロッパの島国でも、英国は“名誉ある孤立”を標榜し、大陸を離れているからこそ客観的な物の見方ができるのだと自負する。そこにはアイスランド人が抱えるような“辺境感”が漂うことはない。」

 「アイスランドでは、人間が自然の影響を受けながら生きる存在だということが、言葉ではなく身体の芯からわかる」―伊藤さんは、そう言葉に力をこめる。アイスランドの大地はまだ若い。火山活動が活発で、地震、噴火などに見舞われる頻度も高く、間欠泉や温泉の源泉*注2)などを国土の至るところで目にすることができる。滝の数も多い。天気が一日の間に、晴れ、雨、雪、雹…と次々と変わることも珍しくない。アイスランドの人々は、北海道よりやや大きい国土の中で、そうした大地のエネルギーを間近に感じて暮らすのである。

 アイスランドでは風がめっぽう強い。強風の中を歩くためには、おなかに力を入れねば、ふきとばされてしまう。誰もが、「歩く」というごく日常的な動作ひとつとっても、のんべんだらりとは生きていけないのだ。伊藤さんは、おなかに力をこめると同時に「目線を高く、背筋を伸ばして、堂々と」歩くよう心がけた。それは「お互い一人の人間としてここに存在する」という感覚につながり、自分は何人であるとか、日本ではどこに属していたといった意識を忘れられるようになった。ある意味、精神的に脱皮したような実感を覚えたそうだ。

 「アイスランドの季節感において、決め手となるのは“光”。すなわち、1年は“明るい季節”と“暗い季節”に二分される」と伊藤さんは言う。伊藤さんがアイスランドに渡ったのは9月初め…ちょうど夏が終わる頃だった。アイスランドでは9月を過ぎると徐々に天気の悪い日が増え、日照時間もぐんぐん減る。12月になり、冬至を迎えると、日の出は正午過ぎだ。太陽は空高く上がることなく、弱い光を斜めに地表に届けたかと思えば、午後3時くらいにはもう姿を隠してしまう。伊藤さんは、「アイスランドに来たからには、アイスランド人に100%なりきろう」と心に決めていたので、アイスランド人のように暗さに寄り添おうとし、むしろ、温かいろうそくの明かりの下、みなでトランプに興じる楽しみを知った。だが、2月のある日、3時になってもまだ日が高いのを見て「あっ、明るくなった!」と感じた時、暗い季節を平気で暮らしていたと思っていた自分が、実はどこかで、ふさぎこんでいたのだと気づいた。空の明るさが変わり、それによって影響を受けていた自分を知り、「人間は、そうして自然のサイクルに合わせて生きるのが本来の姿。人工の光で不必要に明るくする必要はないのだ」という思いが湧いてきた。

 先に、アイスランド人は、最終的に頼るべきは自分だけという信念をもちつつ、それでも本当に切実な状況下では手を差し伸べあう―と述べたが、これは裏を返せば、平常時には安易に助けを求め合わない社会だということだ。これについて、伊藤さんは「日本の“思いやり”社会では一切が過干渉だが、アイスランドはそれの正反対」とコメントする。伊藤さんは、アイスランドの学友に「あなたが何をしようと、楽しんでいる分には誰も何も悪くとらないのよ。でも、あなたが悲しんだり悩んだりしていればみんなが心配する」と言われたことがある。だが、内心心配していても、向こうから「大丈夫?」「何かあったの?」などと言い寄ってくることはない。相談に乗ってほしかったら、こちらから明確にSOSを発しなければならない。日常生活における、いわゆる“気働き”についても、こちらが先回りして、黙ってあれこれ世話をやくことはない。全て相手の意向を確かめてから行動する。(「コーヒーが飲みたそうだから、淹れて上げよう」ではなく、「何か飲みたいものはある?」と尋ねるところから始める。)その場合、尋ねられた方が相手の厚意を辞退しても、決して失礼にはならない。遠慮が働いて、本意でない言葉を口にすることもあろうが、発した言葉には最後まで責任をもつ。先のことを見越して何もいわずにやる美徳がないわけではないが、それができる人は「賢者」または「賢母」や賢い主婦などであって、希有な存在なのだ。

 アイスランドには“saga”(サガ)呼ばれる口誦伝承に基づく文芸があり、世々人々に受け継がれている。「“saga”を一言で訳すのは難しく、歴史、小説、物語など全てを含意している。“saga”の語源は英語の“say”やドイツ語の“sagen”などと同じゲルマン語に遡る。“おはなし、ものがたり”という日本語が一番しっくりくるのかもしれない」と伊藤さん。サガにはいろいろな種類があるが、中でもアイスランド人に馴染みが深い「焼討ちされたニャールのサガ」のストーリーの一部を語っていただいた。

 10世紀の終わりに生きた英雄グンナル(実在の人物)は、ニャールの親友で、誇り高く、強く、太っ腹で、懐の広さをもった男。様々な敵と戦う過程で、人を殺めてしまい、3年間の国外追放の罰を宣告される。グンナルは裕福な土地持ちで、海外の王様の庇護も受けられる立場にあったが、国を離れることには最後まで躊躇があった。しかし、「3年我慢すれば、また戻ってここに住み続けられるのだから」というニャールの説得を受け、国外に出るべく港に向かう。その途中、乗っていた馬が急に躓いたため、下馬して馬の体勢を立て直そうとしたグンナル。手綱を引きながら、ふと来た道を振り返ると、そこには住みなれたアイスランドの農場と自然の美しい風景が広がっていた。「自分は、やはりこの地を離れることはできない」という思いに突き上げられたグンナルは、踵を返して、アイスランドに留まる覚悟を決めた。“outlaw”という言葉がある。日本語では「無法者」と訳されることが多いが、本来は「法の保護の外にある者」を指す。グンナルは、3年間の国外追放を受け入れなかったがために“outlaw”<誰かに危害を加えられても、加害者が法によって裁かれない立場>におかれ、結果、恨みを抱く敵に命を奪われることになる。

 アイスランド人は、誰しも幼い頃からこの物語に親しみ、国外追放の身となっても国を離れられなかったグンナルの心情に自分自身を重ねる。「それは、最終的には自分たちの住む場所として、アイスランドこそ世界で一番素晴らしい国だという確たる思いです」と伊藤さん。

 「1年という年限ではありましたが、私には、アイスランドの社会、文化の真髄に分け入り、深いところで、それを感じ取ったという手ごたえがあります」―と往時を振り返る。帰国後、北欧の言語と英語の関連性をさらに追究するため、もう一つ北欧語を学びたいと願っていたところ、ある人の厚意によりスウェーデンに1ヶ月近く滞在を許され、その間にスウェーデン語をマスターしてしまったそうだ。アイスランドのみならず、北欧諸国や英国の歴史にも造詣が深い。現在は、信州大学人文学部の准教授として、英語学の研究、教育活動に勤しむ毎日だ。「アイスランドで過ごした日々のことや興味の尽きない“saga”の世界など、書き著したいことは沢山あるものの、専門分野の研究で手いっぱいになってしまって」と微笑む。アイスランドで感得した生きる姿勢「目線を高く、背筋を伸ばして、堂々と」は、今も伊藤さんを支える柱であり続けている。

(齋藤志緒理)

注1)アイスランドには、数世紀に亘って先祖を遡れる人が多く、家系図が保存されているケースもある。他民族の移入がほぼない状況下で、何世代もの「DNAの記録」が残されている、世界でも希少な地域として、近年遺伝子学の分野で注目を浴びるようになった。遺伝子治療の研究者・薬品業界からのアプローチもあり、国民がDNA検査を受け、そのデータを輸出品目とするプランも俎上に載せられているが、アイスランド国内でも世論が二分されている。

注2)アイスランドでは、全島至るところで温泉が噴出している。国のインフラとして温泉が引かれた一般家庭も多く、公営の“hot pool”もある。温泉水は、溶岩台地から浸み出たミネラル豊富な水質で、長く浸かっていても湯あたりすることがない。水道にも天然水が使われており、蛇口をひねれば、そのままミネラルウォーターが出る。伊藤さんの学生寮には湯船はなかったが、入寮後、温泉ミネラルたっぷりの天然水のシャワーを1週間浴びたら、まるで垢すりでもしたかのように、表面の古い皮膚がポロポロととれ、肌がぴかぴかになって驚いたとのこと。

レイキャヴィーク風景
アイスランドの首都、レイキャヴィークの風景:
9月の中旬。アイスランドの夏の終わりを漂わせる最後の青空(伊藤盡氏撮影)

2011年05月02日

トンガ

「南の聖なる島」の比類なき自然美

“The Friendly Islands”の愛称通り、友好的で心優しい国民性

 奥野照義(おくの・てるよし)さんとトンガ王国(以下、「トンガ」)とのつきあいは、1989年、内閣府主催の交流プログラム「日本青年海外派遣団(オセアニア団)」の団長として訪問した時に始まる。奥野さんは25歳の時に明治百年記念事業の第1回「青年の船」(1968年)に参加。旗手を務めた。その後、同窓会組織(後に事後活動団体)を立ち上げたり、リーダーとして第11回「青年の船」に乗船するなど、内閣府の青年国際交流事業を様々な形で支えてきた。オセアニア団・団長としての渡航も、こうした貢献の一端であった。

 これまで、国の事業や水泳コーチ、仕事、個人旅行などで38ヶ国(北朝鮮を含む)を訪れたことがある奥野さんだが、その中でもトンガは、最も印象に残る国だそうだ。「トンガの自然はたとえようもないほどで、まさに“息を飲むような美しさ”。神々が作った芸術品としか思えない。トンガの人々を見ていると、この美しい自然も、心美しいトンガの人々への神様の贈り物ではないか、とさえ思えてくる」…そう、しみじみ語る。

 トンガは立憲君主国で、現国王は「ジョージ・トゥポウ5世」である。国土の面積は、佐渡よりやや小さく、人口は10万人ほど。首都はトンガタプ島の北端に位置するヌクアロファにある。平均気温は北部で約24℃、南部で21℃と涼しく、首都の年間気温はおよそ17〜30℃だ。日付変更線の脇にある関係で、トンガは“世界で一番早く朝を迎える国”である。それ故、21世紀を一番最初に迎えたのもトンガであった。ちなみにトンガが朝を迎えた4時間後に、日本に朝がやってくる。

 トンガはその国土全体が真っ白い隆起サンゴ礁から成っているため、南太平洋諸国の中でも、とびっきり美しい海をもっている。「透明で澄み切った海の中、色とりどりの魚が切れ目ないコーラルに群がっている姿は、いつまで見ていても飽きることがない。美しいトンガの海の中でも、極めつけは、首都ヌクアロファから北へ270㎞の位置にある“ババウ諸島”。34の島から成るこのババウは、世界中のヨットマンの憧れの地になっている」と奥野さん。

 1773年に英国人、ジェイムス・クック(キャプテン・クック)が初めてこの地を訪れた時、心やさしく、友好的なトンガの人々に感激し、“The Friendly Islands”とヨーロッパ諸国に紹介した。トンガの人々も、この“愛称”とその響きを好み、民族の誇りにしている。トンガ国営のラジオ放送も、“Maloe lelei (こんにちは)! The Call of the Friendly Islands”と呼びかけて放送を開始するほどだ。「キャプテン・クックのこの愛称が示す国民性は、二百数十年経った今日も全く変わっていない。トンガは、風物が美しく雄大であるばかりでなく、人々が他人を愛する心を持ち、その愛情を“生活のリズム化”していることを、トンガの人々との交流の中でつくづく実感させられる」と奥野さん。

 奥野さんは、トンガから帰国後、来日しているトンガ人留学生や、在トンガの元留学生たちと交流を続けているが、中でも特に親しい盟友が、マサソ・パウンガ氏(前労働通商産業観光大臣/現トンガ開発銀行総裁)である。マサソ氏との付き合いでは様々なエピソードに事欠かないが、彼がまだ留学生だった頃、自分の限られた小遣いを割いて食べ物を用意し、日本滞在中の7年間、毎月近所の公園に集まるホームレスの人たちに配っていた。大臣になってからも、昔と全く変わらず、来日する度に過密スケジュールを縫って公園に行き、ホームレスの人たちと交流していた。かつて彼が早稲田大学で講演した時のこと。「どんな時に一番リラックス出来ますか?」と問う学生に、「ホームレスと一緒に居る時です」と答えたのは、今でも語り草になっているとか。

 トンガ人は一生の間に「走ることがあるのだろうか?急いだり慌てたりすることがあるのだろうか?」…奥野さんは、ふとそんな素朴な疑問を抱く。土砂降りの雨の中でさえ、男性も女性も楽しそうに歌などを歌いながら悠々と歩いており、濡れるのが嬉しくて仕方がないようにさえ見える。「素敵なドレスがあんなに濡れてしまって…」とこちらが心配気に視線を送って目が合うと、見知らぬ人でも、まるで数十年来の知己のように、こぼれるような笑顔で「こんにちは!」と手を振ってくれる。「トンガでは、歩いて10分で行かれる距離でも、30分前に出発しないと遅刻をしかねない。トンガ人は、知っている人とも知らない人とも明るく挨拶を交わし、親しく話しかけてくるからだ。人間が時間に追われるなどという発想は、トンガの人々にはないように見える」と奥野さん。

 初めてトンガを訪問した時、少々面食らったのは、トンガの食事のしきたりだ。トンガではまず「一番客」が食事をし、その後に「二番客」そして、「三番客」…と続き、最後に招待者側という順序になる。どんな場合でも、客人が食事をしている間は、トンガの人々は決して何も口にせず、歌や踊りでもてなしてくれるのだ。トンガ教育大学での「歓迎会」の時など、800人ほどの学生の前で延々3時間以上も日本人団員だけで食事を取り続けねばならなかった。ある時、教育省の担当官に「ぜひ一緒に食事を」とお願いしたところ、「これは、トンガの文化です!」と毅然と一蹴されてしまったそうだ。

 ところで、トンガは南太平洋諸国の中で、唯一植民地にならなかった国である。18世紀から19世紀にかけて、南太平洋に欧米列強がなだれこんできた。そして、オーストラリア、ニュージーランド、フィジー、キリバス、ソロモン、トウバル、クック諸島、ニウエが「英国領」に。マーシャル諸島とミクロネシア連邦が「スペイン・ドイツ領」に。ナウルとパラオが「ドイツ領」に。ヴァヌアツが「英・仏領」に。パプア・ニューギニアが「オランダ・英国・ドイツ領」に。サモアが「ドイツ・米国領」に。ニューカレドニアが「仏領」に。ハワイが「米国領」に…とそれぞれ植民地化された。

 トンガにおいても、「国の運命をどの国に託したらよいのか」…と、国の存亡をかけて国論が割れに割れた。その時、当時の国王トゥポウ1世は、国民に対し「わがトンガ王国は、いかなる国の干渉も許さない。わが国は神様にお守りいただくのです」と呼びかけたという。国王や人々の祈りが通じ、トンガは植民地化を逃れたが、その本当の理由は他にあったようだ。当時、トンガは南太平洋の盟主として、ほぼ全域に影響力を持ち、強大な勢力を誇っていた。だが、それは「力」によるものではなかった。南太平洋諸国・地域の人々は、古来トンガを「トンガタプ(「南の聖なる島」の意)」と、畏れ敬っていたのである。それ故、欧米列強もまたトンガを南太平洋の“聖地”として尊重し、“手出しすることを控えた”と見られる。触れてはいけないものを「タブー」と言うが、この言葉は、「トンガタプ」の「タプ」が語源である。

 トンガには王族だけではなく、貴族がおり、貴族と話す際は「貴族の言葉」を、国王と話す際は「国王の言葉」を用いなければならない。12年かけて、トンガ語の辞典「体験的『トンガ語会話』」(2002年発行)を完成させた奥野さんだが、「(普通のトンガ語はどうにか話せるものの)貴族・国王の言葉にはギブアップ」とのこと。その違いが、日本語の敬語に当たる程度ならまだよいのだが、全然別の言語といってよく、全てのトンガ人が自在に話せるわけではない。例えば、「こんにちは」は、普通の言葉なら「マロエ・レレイ」だが、貴族の言葉では「マロエ・ラウマーリエ」、国王の言葉に至っては「マロエ・ラコフィエ・レレイ・アエ・アフィオナ」と舌を噛んでしまいそうな長さだ。国王との謁見の機会はそうそう訪れないが、トンガで貴族階級の大臣を表敬訪問したり、日本で迎えたりする機会は少なくない。奥野さんは、そういう時に備え、貴族の言葉をいくつか頭に入れているそうだ。

 われわれ日本人に身近なトンガ人というと、元横綱武蔵丸(武蔵丸光洋)が筆頭に挙げられようか。本名はフィアマル・ベニタニ。トンガ人の父マヌとサモア人の母ニマラの子で、8人兄弟の3男。つまりサモア系のトンガ人だ。(トンガでの愛称は、「マル」。本名「フィアマル」の「マル」である。)たった一人で来日した18歳のマル少年は、1989年9月に初土俵を踏み、12回優勝を飾り、1999年には横綱に昇進を果たした。「われらが武蔵丸は“この一番に勝てば優勝”“この一番に勝てば大関”といった大事な一番には必ず期待を裏切ってくれた。そんな時、(前述の)マサソ氏(当時留学生)たちが、わざと怖い顔をして、大関武蔵丸に喝を入れたらしい。“トンガ人なら負けるはずがない”“トンガ人がなぜ負けるんだ”と。すると、すっかりしょげかえった武蔵丸は、あの巨体を縮め、か細い声で釈明をしたとか。“トンガ人は負けていない。負けたのはサモア人の武蔵丸だ”…と。(お母さんのサモアの血のせいにしたのだ。)何ともユーモラスな答えだが、“トンガ人武蔵丸”の誇りから出た、真面目な言い訳だったようだ」―奥野さんは、当時のエピソードを語り、「心も体も大きく、気は優しくて力持ち…武蔵丸は、まるでトンガ人を絵に描いたような愛すべき男です」と微笑んだ。

 奥野さんは、1995年から約10年間、「南太平洋トンガ王国観光省駐日代表」も務めた。トンガ人留学生とのネットワークを通じ、また様々な機会にトンガを訪問する中で、トンガ人の知己も増える一方だ。奥野さんを慕うトンガ人一家が、自分たちの息子に「テルヨシ」と命名するため、トンガには何人かの「テルヨシ君」が存在しているそうだ。(近頃「オクノ君」も出現。)

 トンガは国民のほとんどが敬虔なクリスチャンという宗教上の影響か、禁酒の国で、悪質な犯罪もない。刑務所も、土曜日には受刑者を全員帰宅させるので、週末は空っぽになる。受刑者は日曜日には家族と揃って教会へ行って祈りを捧げ、そののち一族で伝統料理の夕餉を囲み、月曜日の朝、自主的に刑務所へ戻ってくるというわけだ。

 だが、そんなトンガも、近年は“グローバリゼーション”という名の大きな渦に巻き込まれている。そのひとつの例は、外国人人口の流入と、土地の買い占めである。“価値観の違い”と言ってしまえばそれまでだが、例えば中国系住民は“防犯意識”から、目抜き通りに大きな鉄格子入りの家を建て、それが街の景観を随分と様変わりさせてしまった。元来 “他人を疑ってかかる”ことを知らないトンガ人にとって、鉄格子の出現は大変ショッキングなことであった。「私はトンガの自然や生活環境が(負の)“開発の波”に洗われることを恐れます。と同時に、トンガという国がそのような“俗化”に対して、稀に見る強い姿勢をもって相対している点に、大きな共鳴と祈りにも似た期待を抱いているのです」―奥野さんは、複雑な胸の内をそう語る。

 ここ数年は台湾に赴任中で、トンガをなかなか訪れることができずにいる奥野さんだが、“トンガ国際空港から王宮まで千本の桜を植樹し、5キロの桜のトンネルを作りたい”という大きな夢を温めている。また、冒頭で述べた、内閣府プログラムの事後活動団体(日本青年国際交流機:会員18,000人)の顧問として、次代を見据えた青年国際交流のあり方を模索している。「鳥は羽があるから飛ぶのではなく、飛ぼうとしたから羽が生えてきたのだ」「釣り鐘は打つ人が強く打てば大きな音が出るし、弱く打てば小さな音しか出ない。つまり、何をするにも自分自身の取り組む姿勢が肝心なのだ」―奥野さんは、若者たちと話す機会があると、自身が信念とするこの言葉を贈ることにしている。

(齋藤志緒理)

トンガ編写真(奥野照義氏)
トンガ王国の「テルヨシ君」とその両親。
パネルを手にしているのが奥野照義さん。パネルには“We are Teruyoshi.”と書かれ、上部にトンガ・日本両国の国旗が描かれている。右端は奥野さんの長女、英美さん。
(首都ヌクアロファのテニスコート施設で撮影)

2011年04月01日

ウルグアイ

地球の反対側の国、ウルグアイ

果てしなく続く草原に、心も広々…

 ウルグアイは、南米の二大国、北のブラジル、南のアルゼンチンに挟まれるように、大陸東岸の中南部に位置している。日本列島を地球の対極にもってくると、ちょうどウルグアイの沖合。まさに“地球の反対側”の国といってよい。国土の広さは日本の約半分、人口は350万人程だ。

 久山慎一、房子(くやま・しんいち、ふさこ)夫妻がこの国の首都、モンテビデオに赴任したのは2005年の春であった。慎一さんは、総務庁(省庁改編後、総務省)で統計局長、人事恩給局長、総務審議官等を歴任後、ウルグアイ大使として転出した。房子さんは、出身の岡山県で高校の美術教師を務めた後、同郷の慎一さんと結婚。東京で二人の娘を育てながら、近隣で子供のための絵画教室を主宰し、画家としての活動も続けてきた。和紙を用いて様々な色彩を織りなす、独特の抽象画である。

 大使としての公務は、ウルグアイ政府や各省の大臣との話し合い、関係省庁のセレモニーへの出席、在ウルグアイの各国大使との会合、メディアを通じての日本紹介、日本の対ウルグアイ援助(上限1千万円までの物品供与)にあたっての現地事情調査など、多岐に亘った。房子さんは、大使夫人として公邸を切り盛りし、特に、週1回〜4回の頻度で行われる「設宴」(食事会)のコーディネートに心を砕いた。お招きするお客様の使用言語を考慮しつつ座席を決め、料理の献立を考える。過去に供した料理と重複がないよう、また個々の好みにも配慮せねばならない。牧畜が盛んなだけに肉食文化が浸透しているこの国では、日本料理の食材を探すのも容易でなく、特に新鮮な魚介類を入手するのに苦労した。生け花の心得がある房子さんは、設宴の度に花屋に出向き、自ら会場に花を生けた。強風で公邸の松の木が根こそぎ折れてしまった時は、その根っこをさかさまにして大きな植木鉢のようにあしらい、そこに沢山の花を生けてオブジェにした。

久山慎一・房子夫妻
久山慎一さん・房子さん(大使公邸で開催した天皇誕生日のレセプションにて):
壁に掛けられているのは房子さんの抽象画。床に飾られているのは上述の花のオブジェ。

 気候が穏やかなウルグアイでは、冬でも雪や霜はほとんど降らない。モンテビデオはラプラタ川の河口に位置するが、その支流のウルグアイ川は現地語で“鳥の川”という意味で、その名の通り600種類もの色とりどりの鳥たちが生息している。「ウルグアイを象徴する風景は、果てしなく続く草原。モンテビデオは人口百数十万人の都市だが、一歩郊外に出れば、そこには “草の海”が広がっている。草原は四季折々に咲く花によって、その色合いを微妙に変え、牛や馬、羊たちは、そこかしこでのんびりと草を食む。青空の下、地平線の彼方に向かい、風を頬に受けながら馬を走らせるのは、えも言われぬ爽快さであった」と久山さん夫妻。

 地方視察は、通常大使が単身で行うものなのだが、慎一さんの「君がいた方が交流にふくらみがでる」という言葉に押され、旅費・経費は自前で房子さんも同行した。日本のODAが活かされている現場や、新たに援助が必要とされる分野・地域を視察する機会も多かった。「訪問先では大歓迎されるのが常だったが、複雑な思いになることもしばしばだった」と房子さん。「大使夫妻歓迎セレモニーのために衣装を揃えてダンスを披露してくれる。そのお金を別の形で、そのコミュニティのために使ってくれた方がどれだけよいか」

 パレードの時、マテ茶を片手に戸口にもたれて、大使夫妻を虚ろな目で見送る壮年の男たちが少なからずいた。真昼間である。“なぜ働かないのだろう?”という素朴な疑問が湧いた。注意して見ると、彼らが住む簡素な家々の周囲には、茫々と草が生えた手つかずの土地が広がり、生活排水で汚れた川が流れている。「利水に工夫をこらして、あり余る時間と土地を活用すれば、ジャガイモくらいは育てることができるのではないか?」「“食料不足”を訴え、援助を要請してくる以前に、村で、或いは個々人によって、精一杯の努力がなされているのだろうか?」「援助されることに慣れっこになり、それが人々の自助精神を削いでしまっているのであれば、悲しい。彼ら自身が誇りをもって労働し、生計を立てられるような社会になることが大切なのだ」…房子さんの胸中には様々な思いが去来した。

 日本政府は、ウルグアイへの援助の一環として、自閉症の児童のための施設を作って同政府に寄付しており、JICAのシニアボランティアが、自閉症児のための日本独自の教育療法=“生活療法”を根付かせるよう努力していた。房子さんは、大使夫人としての務めの傍ら、ボランティアでその施設に通い、アートによる生活療法を実践した。(注:生活療法では、患者に日常生活をきちんと送らせ、衛生観念を植え付けることを目指す。また、音楽、手工芸、ボール遊び、一輪車など、創造的な活動を積極的に行わせる。)従来のウルグアイでは、自閉症患者は専ら“薬物療法”を施されていた。薬物療法とは、いわば薬によって患者を“おとなしくさせる”もので、患者が人間らしく生きられるかといえば、決してそうではない。「薬物療法を受けている25歳の男性患者が、一日中ただブランコにゆられている姿を目にした時は大変ショックだった」という。

 房子さんは、他人と目を合わせず、コミュニケーションがうまくとれない自閉症の子供たちの感性に何とか働きかけようと、いろいろな仕掛けを考えた。ウルグアイは知る人ぞ知るワインの産地。(チリのサンチャゴからモンテビデオにかけては、ワインベルト地帯がある。)そこで、葡萄の絵をモチーフにしたベンチを共同製作することを思いついた。ベンチを組み立てるところまでは木工職人に頼み、子供たちには、背もたれや座面に下絵を描き、彫刻し、色付けする作業を任せた。筆で器用に絵を描くことはできないので、葡萄の葉っぱを取ってきて、スタンプ代わりにして自由に押してもらい、さらに指に絵の具をつけてポチポチ…と、一粒一粒の葡萄を表現してもらった。作業場は子供たちの真剣な表情と、皆で一つのものを作り上げようとする活気で満ちた。出来上がったベンチを愛おしそうに撫でたり、恐る恐る座ろうとする子どもたちの顔の中には、満足の火が宿っているように思えた。「笑うこと。愉快な気持ちになること。充足すること。…そうした感情を味わってこそ、人間らしい生が全うできる」房子さんは、自閉症の子供たちと接しながらその思いを一層強くした。アートを通じた生活療法の評判は、隣国ブラジルの日系人社会にも伝わり、サンパウロに同様の施設を作る機運を盛り上げた。そこでの、親を含めた集中授業も忘れられない体験になった。

 ウルグアイは、かつて畜産で繁栄した歴史をもつ。畜産業での国際競争力を失った今日でも、“昔の夢をもう一度”という思いから脱却できず、新たな産業分野を開拓・育成しようという動きがなかなか生まれない。慎一さんは「それが、ウルグアイが国際社会の中で“テイクオフ”できない大きな要因の一つ」とみる。ウルグアイでは、志ある若者は英語を勉強する。(英語に堪能な人は“すごい”という目で見られる。)だが、そうした努力の結果、志を持て余して、ブラジルに職を求めて出ていってしまう人も多い。「米国やブラジルは人種のるつぼと言われるが、ウルグアイは白人(スペイン系、イタリア系)が90%の社会。裏を返せば、旧インディオの人々はスペイン人の南米進出の過程で、ほとんど根絶やしにされてしまっている。民族構成的に“ホモ”(同一)であるウルグアイは、“ヘテロ”(不均一、多種多様)な社会に比べて、バイタリティに欠けてしまう向きがあるのかもしれない」と慎一さん。

 ウルグアイ人の国民性については、「日本人は、人との関係において、あれこれ考えて、気を遣い、結果的に自分を抑える局面が多々ある。その点、ウルグアイ人は正反対で、自分が振る舞いたいように振る舞い、生きたいように生きているように見える」とのこと。慎一さんは楽器演奏が趣味で、ウルグアイ赴任中も余暇にトランペットの個人レッスンを受けていたのだが、先生が約束の時間に現れないこともしばしばだった。しかも、遅れたり、約束をすっぽかしたりしても、悪びれずにケロっとしている。また、“駄目でもともと”とばかりに無理な頼みごとをしてくるウルグアイ人も多かった。「こんなことを頼んで迷惑ではないか?相手との関係がぎくしゃくしないか?」「断わられた時に気まずくならないか?」などと慮ることはない。こちらが難色を示すと「やっぱり、断わられちゃった!」とばかりに笑って、それで終わりだ。「ある意味、羨ましいほど伸び伸びと、自分の心に忠実に生きている」という印象だった。

 久山さん夫妻は、20代の頃、アメリカに2年間赴任したが、その時も“自分に正直な”アメリカ人の生き様を目の当たりにし、わが日本を顧みて「日本人は必要以上に周囲を気にしすぎでは?」という思いを抱いたそうだ。「30年の時を経て、南米のウルグアイで、その感覚が再び蘇った」という慎一さん。房子さんも「ウルグアイにいると、日本のようにくちゅくちゅ人目を気にする生活は何だったのか…という思いが湧いてきます」と傍らで頷く。慎一さんは更に、「ムラ社会が基盤の日本では、人は一人では生きていけない。大なり小なり組織や団体の“細胞”であることが求められる。だが、いつまでもそのままでは、国際社会の中で生きていくことができないのでは?」と言葉を継いだ。

 久山さん夫妻は2007年春に任期を終えて帰国。退官後は東京で再就職する道を選ばず、両親が待つ郷里の岡山に戻った。慎一さんはトランペット、トロンボーンなどの楽器修練、登山、スキー、インラインスケートを愉しみ、房子さんは自宅にアトリエを構えて、創作活動に精を出す。

 近年、日本の青年が“内向き志向”になっている風潮には首をかしげる。「違う価値観の国があるということを知ってほしい。そのためには、日本でしか暮らせないという先入観を排すべき。外国で幾多のハードルを越える経験は、必ずや人間としての器を大きくしてくれる。だが、外国といっても、どこでもいいというわけではない。私は“あまり危険なところに率先して行くべきではない”と考える。そもそも国情が不安定で命が危険にさらされるような国では、“脱皮”どころではないからだ」「ウルグアイは、そういう意味で条件のととのった国。日本からモンテビデオまでは、ニューヨーク経由で片道36時間…と遠いのが玉に瑕だが、若者ばかりでなく、幅広い年齢層の方々にぜひ訪れてほしい。そして草原を吹きわたる風を直に感じてほしい」―そう語る久山さん夫妻の肩越しに、ふと、まだ見ぬ、ウルグアイの“草の海”が広がっているような気がした。   

(齋藤志緒理)

ウルグアイの草原
どこまでも続く草原は、ウルグアイの象徴的な風景:
馬上の後ろ姿は慎一さん。(共に乗馬中の房子さんが後方から撮影)

2011年03月01日

ジンバブエ

温かくて屈託のないジンバブエ人

教育現場からみたジンバブエ

 南部アフリカに位置するジンバブエ。日本よりやや大きい国土に約1200万人が住む。国名・ジンバブエは「石の家」を意味し、この地に古くから存在する巨大な石の遺跡にちなんだものだ。気温は低過ぎず、高過ぎず、大変過ごし易い。秋には、ジャカランダの木々が美しい紫色の花を咲かせる。

 国民の暮らしは、都市部と農村部でかなり異なる。都市部は、整備が進み富裕層が住まう一部の地域と比較的貧しい人々が居住する人口過密地域(元々、白人支配の際に与えられた黒人居住区)での生活に大別される。農村部の多くでは、未だインフラが整わず、人々は井戸水を利用したりと昔ながらの生活様式が残っている。主要産業は、農業(たばこや綿花の栽培)、鉱業(プラチナ、クローム、ニッケル等)で、加工産業は育っておらず、国民の失業率も80%(2007年政府発表)と大変高い。政治的には、ジンバブエとして独立した1980年以降、今日に至るまでムガベ大統領が五選され、事実上の独裁体制が敷かれている。

 ムガベ政権は、1990年代後半より、経済の崩壊、情勢不安定、社会の混乱を招き、近年国内外の非難を浴びているが、ジンバブエ独立当初は、近隣国の中でいち早く、基礎教育や保健衛生といった社会開発に力を入れ、初等教育を無償化するなど、その施策には見るべきものがあった。ジンバブエは旧宗主国・英国の教育システムを(進学試験制度を含めて)採用しており、教育言語が英語のため、英語に触れる機会の多い子ども(=都市部の子ども)の方が、進学や就職に有利という国内格差はあるものの、1990年中頃まで、アフリカ諸国の中でも比較的高い教育水準を誇っていた。

 清水一平さんは、1997年から1999年までの2年半、青年海外協力隊員としてジンバブエに赴任した。赴任先は、人口3千人の村にあるミッション系の公立中学校。(注:ジンバブエでは、7年間の初等教育を終えた子どもは、4年制の前期中等教育に進む。)教師は、全部で十数人。生徒は通学生と寄宿生合わせて各学年120人、計480人いた。清水さんは、保健体育の授業と生徒指導を担当し、また、校内の教師宿舎に住み込み、放課後は寄宿生の寮監督として生活指導を行った。

ジンバブエ編 清水一平氏清水一平さん:教室で担任するクラスの生徒たちと

 着任後、清水さんは日本以上の学歴社会という現実に触れ、親の教育に対する想いに圧倒されたという。多くの親は、教育こそ子供の将来を切り開く手段と捉え、生活を切り詰めてまでも子供の教育費を捻出し、学校へ送り出していた。「子を想う親の気持ちは万国共通だと思うが、自分の食事を削って子供を学校に送るジンバブエの片田舎の親の姿は今でも強烈なインパクトとして残っている」と清水さんは話す。

 ジンバブエの中学校では、中学校卒業時に受験する全国統一試験の結果によって、高校への進学が決定されるため、日本の予備校のように、試験に合格するための勉強の場といった趣が強く、情操教育の普及は殆ど進んでいない。学校でのスポーツ活動に目を向けても、勉強同様エリート主義であり「上手い生徒だけがやるもの」という認識が根強い。放課後のクラブ活動では、学校代表選手として選ばれた一部の運動能力の高い生徒のみがスポーツを行い、他の生徒たちはそれを遠巻きに見ているような状況で、参加の機会が与えられていなかった。

 「スポーツは極めて知性的な行動であると思います。単に健康のために身体を動かし鍛えることだけではなく、ルールを理解し、そのルールに則って瞬時に状況判断し、個人や集団で行動する。グループで活動することにより、チームワークや社会性を育てる効果もあります」。清水さんは、保健体育の授業でジンバブエの生徒の自由で豊かな発想に感心されられることばかりだったという。道具がなくてもできる「手打ち野球」を授業で行った際、子どもたちは、1学期間かけて、野球のルールと試合の進め方を覚え、投げる、捕る、打つ練習をして、試合を楽しめるようになった。「試合中、長打を打った生徒がホーム・インした後、もう一点とりたくて2週目を回ろうとしたり、発想がとても柔軟なんです」と清水さんは笑う。

 当時二十代前半だった清水さんは、教師の中では一番の若手。「赴任当初は、日本から来た自分が学校に新風を巻き込む…と意気込んだものの、遠くから来た生意気な若造の話など誰も聞いてくれませんでした。今考えると当たり前ですよね」。「郷に入っては郷に従えの精神で全て勉強」という意識で、現地のやり方を尊重する姿勢をもったとき、初めて周りに受け入れられたように感じた。

 地域の学校対抗のスポーツ大会では、ジンバブエの教員は、生徒に準備体操をやらせずに試合へ送り出し、生徒は急に全力で動き出すのでとにかく怪我が絶えなかった。清水さんの赴任校で徹底していた準備運動を、近隣校の先生が真似して導入している姿を見た時には、「必要なことは、こちらが押し付けなくても、どこかで見ていて吸収してくれるもの」と実感した。

 食事は、寮の食堂で、毎日寄宿生たちと同じものを食した。主食はメイズ(トウモロコシ)の粉を蒸したもので、おかずは野菜や豆などをトマトベースで味付けするものが多かった。一学期に一度だけ牛肉が供されるのだが、その時には、学校で飼っている牛一頭を屠殺せねばならない。「運命を悟ったかのような牛の悲しい目を見、殺される瞬間の鳴き声を聞き、生き物の命を犠牲にして生きていることを実感しました。…それでも、絞めたての肉料理のなんとおいしかったことか!」と清水さん。

 水は、生徒や他の教員同様、学校の井戸水を飲んでいた。ある時、日本からの来客がペットボトルのミネラルウォーターを何本も土産に持ってきてくれ、何気なく自室に並べておいたのだが、それを見つけた同僚に「おれたちの井戸の水が飲めないのか?」と言われた。「同じ釜の飯」ならぬ「同じ井戸の水」である。“現地の暮らしに馴染む”のは、言葉でいうほど易しくない。今思えば、暮らしに一番身近な「水」で、こちらの姿勢を試されていたようなものであった。「現地の人々と同じ目線に立って活動することが青年海外協力隊の理念であり、現場主義こそ醍醐味。現地人と同じ生活をしてこそ受け入れられ、見えてくるものもあった」と言う。

 「温かくて、見栄っ張りでちょっぴりだらしのないジンバブエの人はとても魅力的でした」と清水さん。授業で何か生徒に質問すると、“ハイ!”“ハイ!”“ハイ!”“ハイ!”と、沢山の手が挙がるが、いざ誰かを当ててみると、答えを準備していなかった…ということもよくあった。「基本的に、どこの国の人とでもこちらが自然体で接すれば、さしたる壁を感じずに、相手の懐に入り込み、人間関係を築いていくことができる」というコミュニケーション術もジンバブエで会得したという。

 「ジンバブエ人は、皆、生きるための知恵を持っている。国としての社会保障や公共サービスが行き届いていない分、皆、自分の身は自分で守るという精神を持たざるを得ないのかもしれない。また、相互扶助の精神や村社会の絆が強い。様々なレベルでの「汚職」も、経済的にぎりぎりの生活をしている彼らからすれば、「生きる知恵」の一つとも言える。ジンバブエの現状についても、全てを先進国の基準や倫理観だけで一方的に判断することは危険かもしれない」と清水さんは話す。

 清水さんがジンバブエに滞在した1997年からの2年半は、政治上の安定期であり、同僚とも自由に気兼ねなく日常的に政治の話をしていたという。2001年にジンバブエを再訪した清水さん。懐かしい勤務校を訪ねてみると、同僚は誰も政治について口を開かなくなっており、状況の変化を感じた。「一方の政党支持の校長先生夫妻が、他方政党支援者に暴行を受け、大怪我を負ったというニュースや、同僚が誰々に狙われているという噂が流れるなど、社会の不安定さを実感した」という。

 また、再会した教え子に、担当したクラスの生徒たちの消息を尋ねると、一学年120人の内5人が病気で他界したとのことだった。彼らの笑顔がまだ記憶に新しく、受け入れ難い事実であったが、これもジンバブエの日常の一コマなのかもしれない。

 清水さんは、協力隊員としてジンバブエの教育現場の実情に触れ、教育支援の重要性に開眼したことを契機に、以後一貫して我が国の政府開発援助(ODA)事業に従事し、アフリカ地域における教育協力活動に携わっている。任期を満了した後は、JICA青年海外協力隊事務局国内協力員を経て、大学院にてアフリカ地域の教育開発計画を研究。JICAジュニア専門員として国内勤務の後、2004年からJICA東南部アフリカ地域支援事務所(在ケニア)教育分野広域企画調査員として域内の教育プロジェクト形成に関わり、2006年からの3年間はナイジェリアにて「初等理数科教育強化プロジェクト」専門家として同国の現職教員研修制度化を通じた教育の質改善事業に参画した。現在はJICAの人間開発部・基礎教育グループに勤務するが、本インタビューの一ヶ月後には、エチオピアへの赴任が決まっている。

 「ジンバブエでの経験がなかったら、今の自分はなかった。いつか仕事でジンバブエに戻り、恩返しがしたい」と清水さん。「この仕事を続ける中で注意していることは、教室、授業、教員、生徒といった現場の変化です。現場への裨益やインパクトなくして、教育支援の意味はありません。欧米の援助関係者や途上国の政府高官と議論する中で感じることは、現場が遠く、“政策のための政策”や“議論のための議論”陥っているなぁ、ということです。その点、日本のアフリカにおける教育協力は、現場の教育の質改善を常に意識し、中央政府関係者から現場の教員まで幅広い層を巻き込んでいる。我々は、彼らの主体的な取り組みを後押しするアプローチを採っています。彼らと同じ目線で考え協働するなかで、答えを決めるのは彼ら自身で、我々はあくまで選択肢を提示するスタンスです。外部者が去ったあと、何も残らない支援では意味がありませんから」。清水さんは続ける「アフリカで仕事をする上で、基礎となるのは“人間としての共感”です。これはジンバブエの2年半を通じて醸成したものだと思います」。「これからもアフリカとの付き合いは長くなると思いますが、常に“自然体”で、しかし、心はいつも“熱く”ありたい」―と、言葉に力を込める。

 「最近、私よりも若いスタッフが増えてきて、一献傾けた時など、ついこうしたことを蘊蓄したくなるのです。そうなったら、“ただのオヤジ”だと思って、ぐっと我慢するのですが・・・」清水さんは、そう言って茶目っ気たっぷりに笑った。

(齋藤志緒理)

ザンベジ川とビクトリアの滝:ザンビア(左側)とジンバブエ(右側)の国境

ザンベジ川とビクトリアの滝(ジンバブエとザンビアの国境):
写真左側(滝の上流側)がザンビア、右側がジンバブエ。滝の最大幅は1,700m、滝壺までの最大落差は108mである。

(写真提供:佐藤惣一氏)

2011年02月01日

コスタリカ

「プラ ビダ!」の精神で、しなやかに、前向きに…

自然の美を生かした「エコ・ツーリズム」

 中米一安定した民主主義国といわれるコスタリカは、九州と四国を合わせたほどの国土をもつ。太平洋とカリブ海両方に面し、自然の魅力にあふれた国だ。治安の良さも手伝って、海沿いのリゾート地を訪れる外国人も多い。

 理学療法士の元持幸子(もともち・さちこ)さんは、2006年から2008年までの2年間、JICAの青年海外協力隊員として、コスタリカのサンイシドロ・デ・ヘネラル・ペレスセレドン市に滞在した。同地は、コスタリカの首都サンホセから車で3時間ほどの距離にある地方都市で、高地にあるサンホセとは違い、年間を通じて半袖で過ごせるような温暖な土地柄だ。赴任先は同市周辺に一つしかない公立総合病院で、元持さんはコスタリカ人の二名の理学療法士と共に、患者のリハビリテーションに従事した。

 コスタリカは常備軍を保有していない。軍事費の代わりに教育・医療面に多くの国家予算を割いているため、国民の教育費・医療費の負担は(公立学校・公立病院に関しては)ゼロである。元持さんが勤務した公立病院には、近隣ばかりでなく、遠方の村々から時間をかけてやってきた患者たちが、連日開院前から長蛇の列を作る。受付窓口は受診科ごとに異なるわけではなく一元化されているため、列がさばけるのに長い時間がかかるが、患者たちは文句一つ言わず、自分の番が来るのを気長に待っていた。

 リハビリテーション科に着任した元持さんが最も重視し、同僚にも働きかけたのは、患者の置かれた状況を踏まえて治療計画を立てることだった。理学療法士の役割は、一言でいえば、怪我や病気などによって障害をもった患者(入院患者や外来患者)の基礎的運動能力の回復を図ることだが、治療にあたっては、年齢、仕事や役割、生活状況などを十分に考慮しなければならない。今後につながるアドバイスをすることも肝要だ。「病院でのリハビリテーションは、医療の現場と生活をつなぐもの。各人に最も適したリハビリ方法を考えるためには、患者さんの生活環境をよく知ることが必須」と考え、一人一人の話を細やかに聞くことを心がけた。スペイン語は、派遣前にJICAの研修所で3ヶ月学び、赴任後にサンホセで1ヶ月の研修を受けていたものの、当初は患者の話を聞き、理解することは一苦労だった。「具合が悪い中でも、根気よく、私に話して聞かせてくれた患者さんには今も感謝している」と当時を振り返る。

元持幸子さん
元持 幸子さん:コスタリカに生息する美しい野鳥「トゥカーン」(オオハシ)と共に。(オオハシは、森永製菓の製品“チョコボール”の名物キャラクター“キョロちゃん”のモデルにもなっている。)「コスタリカでは少し町から離れると、日本で言うならカラスのようにトゥカーンをよく見かけます。その他にも、オウムなどカラフルな鳥が上空を飛んでいます」(元持さん談)
※右上は「トゥカーン」の横顔

 冒頭で述べた、病院の朝の長蛇の列にも象徴されるが、コスタリカの人々はとにかく「辛抱強い」。バスを待つことなどは当たり前で、不平不満が出ることはない。日常生活のありとあらゆる場面で遭遇する不便さも鷹揚に受け止め、意に介さない。元持さんは、そうした彼らの特質を「自然の厳しさと対峙し、知恵とバイタリティでそれを乗り越えてきた彼らだからこそ持ち得る余裕なのでは」と見る。元持さんの滞在中に、市に洪水が押し寄せ、橋が落ちて封鎖されることもあった。だが、彼らは決してパニックになることなく「何とかなるさ」とばかりに壊れた橋を修復し、通常の暮らしを取り戻していった。

 元持さんによれば、この「何とかなるさ」の精神を如実に表しているのが、“プラ ビダ(Pura Vida)”という言葉だ。英語に直訳すると“pure life”…「純粋な人生」「素朴で自然な生活」という意味になる。同じスペイン語圏でも、他の中南米諸国では、コスタリカと同じような使われ方はしない。

 “プラ ビダ”は、「こんにちは!」という挨拶代わりにも、相槌を打つときの言葉にもなる。更には問題解決の決まり文句としても使われ、状況次第で意味が七変化する摩訶不思議な言葉だ。市場で売り手に客の入りを尋ねると、答えはきまって“プラ ビダ”。売り上げがよければ「最高だよ!」という喜びの表現となり、逆に客入りが悪い時は「ぼちぼちだよ」「まあまあかな」という意味になる。後者の場合は、言外に「まあ、気にせずにやっていくよ」という気持ちが込められている。

 辛い目にあった時も、“プラ ビダ”と発すれば、(自分に対してであれ、他人に対してであれ)「いいじゃないか」「しょうがないよ」「何とかなるさ」「前向きにいこうよ!」…と、くよくよせずに、人生を楽しんでいこうという思いが湧いてくる。元持さんの患者の中には、マンゴーの果実を収穫中に木から転落し、脊髄を損傷した人もいたが、本人も家族もこちらが驚くほどに、明るくたくましかったという。

 この言葉が生まれた背景については、一般に“スペイン人入植後の抑圧された歴史の中で、肉体労働への忍耐強さが培われたことと表裏一体なのでは”“貧困に対するストレスを避け、生活していくための精神であったのでは”という見方がされているそうだ。元持さんは、自身の経験を踏まえて「歴史的に多民族が入り交じって暮らす環境であったため、無用な争いごとを避け、平和や安定を築くために必要な精神だったのでは?加えて、穏やかな気候がおおらかな国民性を育み、“人生を大事に、ゆったりと暮らす方がよい”と考える、この国特有の生活感を作り出しているのだと思う」と考察する。

 斯く言う元持さんも、コスタリカでの暮らしに慣れるにつれ、「不便さが心地よい」と感じられるようになっていった。バスは待ってもすぐに来るものではないとわかっているから、本を一冊カバンに入れて行く。バス停で見知らぬ人に話しかけられることも多く、たわいもない話をしているとあっという間に時間が経っていたりする。

 コスタリカ人は、とにかく会話が好きで、普段の生活の中でも言葉を掛け合うのが至極当たり前だ。買い物のため、初めて入った店では「どこから来たの?」「今日は何がほしいの?」と聞かれ、二回目以降は、「久しぶりだね」「元気にやっている?」「今日は○○が入荷しているよ」と気さくに話しかけてくれる。レジでお金のやりとりだけすることなどまずない。さらに、同僚や患者の紹介で、どんどん人間関係が広がるので、街には知った顔が増える一方だった。ホームステイ先から病院までは徒歩5分の距離だったが、途中、「あら、サチじゃない?」(注:“サチコ”と“コ”を付けると、スペイン語では男性風の名前になってしまうため、コスタリカではサチと呼ばれていた)と話しかけられ、ちょっと立ち話をしてから歩みを進めると、また知り合いの誰かに会う…といった具合で、結局20分もかかるという塩梅だった。「仕事に遅れるから…」と言っても、「そんなこと気にしなくてもいいじゃない」といわんばかりで、今、ここで自分と会ったことを喜び、話しかけてくれる彼ら。“忙しくても急がない”のがコスタリカ流なのだ。

 さて、ここでコスタリカの国情について、もう少し触れよう。
 冒頭で、「中米一安定した民主主義国家」と記したように、コスタリカは治安・教育・医療など様々な面で水準が高い。学校教育は7時〜と13時〜の二部制ながら、就学率が高く、非識字率は5%以下である。国民の平均寿命は70歳代後半と高く、乳児の死亡率が大変低い。元持さんの言葉を借りれば「コスタリカの医療は、“死ぬ生きるの医療”ではなく、それよりもステップアップした段階に達している。」確かに、世界を見渡せば、国によっては、貧困による栄養失調や伝染病、内戦による重症者の治療・看護など、死と常に向き合いながらの医療現場も少なくない。コスタリカについては、たとえ数が限られているとはいえ、国民が平等に医療を受けられる無料の公立病院がある。そして、元持さんが従事した「リハビリテーション」の分野も、いわば怪我や病気の治療の次の段階に来るステップであり、ある程度余裕のある国でなければ対応ができるものではない。コスタリカの社会・経済基盤の充実を示しているといってよい。

 とはいえ、コスタリカにも社会問題は存在する。一番の問題といえば、産業・商業が首都に一極集中しており、地方の発展が遅れがちなことである。(特に先住民、インディヘナの人々の生活水準が比較的低い。)コスタリカの代表的な産品であるコーヒー豆、バナナ、パイナップルなどは、米国資本によって大規模農場で栽培されているが、栽培に携わるコスタリカ人労働者の待遇は低く、そこで生産される高品質な産物は彼らの口には入らない。家計を支えるために米国に出稼ぎに行く男性も多いが、当初は出稼ぎ先から送金してきたものの、その内に現地に根を下ろして別の女性と家庭をもつケースもあり、結果として、コスタリカのシングルマザーの数が増えている。

 救いとなっているのは、一般的にコスタリカ人が一族で固まって住んでいるという環境だ。一つ屋根の下に大家族で…というわけではないが、同じエリアに家を構える親戚が多く、互いに支え合って生きている。したがって、シングルマザーも孤軍奮闘する必要はなく、働きに出ている日中は誰かが子どもの面倒をみてくれる。

 コスタリカ人の生活を考える上では、発展のスピードが急速すぎるのも問題だ。「日本では、音楽の媒体が“レコードからカセット、CD、MD、そしてMP3”…と段階を追って進化していったものが、コスタリカではカセットから急にMP3にジャンプしてしまったようなもの。彼らが生活環境の急激な変化に対応するのは大変なことで、例えば、かつて食べ物をくるむのに使ったバナナの葉を地面に捨てていたのと同じ感覚で、(決して土に返ることのない)プラスチックの容器をポイと捨ててしまったりする」と元持さん。

 「だが、コスタリカには、こうした発展の渦潮に呑みこまれるばかりではない一面もある。近年、コスタリカの人々は、国中の多様で豊かな自然や伝統工芸など、“身近なもの”に価値を見出し、誇りを抱き始めている。コスタリカ政府が“エコ・ツーリズム”に力を入れているのは、そういう意味で、大変意義のあることだと思う」―元持さんは、そう言葉に力を込める。「政府は、コスタリカが誇る自然を貴重な資源ととらえ、国立公園の入場制限を行うなど、“自然の許容を超えない範囲で人間活動を行う”という考え方を徹底させている。エコ・ツーリズムの目的も、単に旅行者が自然に触れることではなく、生活と自然のバランスの大切さを感じてもらうことにあるのです。」

 元持さんは、余暇にはよく旅行をした。エコ・ツーリズムを体験したのはもちろん、知り合いがいない町や村へも、思い切って出かけ、「プラ ビダ!」のスピリットで現地の懐に飛び込んでいった。そうした中で出会い、親交を深めた人々も多い。また、「言葉ではないコミュニケーション」にもチャレンジしようと、終業後にダンス教室に通い、サルサやメレンゲなどのラテンの踊りを習得したが、これはパーティなどで、臆せずに人の輪に入るために大いに役立ったという。理学療法士として「健康増進のための運動教室」を開くこともあり、そこに集まってきた女性たちの明るいパワーには圧倒されたそうだ。

 2年の任期を終え、帰国の途に就く際は、病院内外の大勢の人たちと別れを惜しんだ。「将来、コスタリカのためにまた働きたいという思いはあります。協力隊員時代は、ボランティアという枠組の中で、ある種のもどかしさを感じ、今一歩踏み込めないこともあったので、今後行くのであれば“仕事”として一層深く関われたらと思う」と元持さん。現在、宮城県の仙台医健専門学校の理学療法科で教えている彼女は、「学生たちの中から、海外貢献活動に興味を持ち、私の後に続いてくれるような人材が出たら嬉しいのですが」と、教師らしい温かな表情を見せた。

(齋藤志緒理)

果物販売所
コスタリカでは、パイナップル、バナナ、マンゴー、パパイヤなど、熱帯気候に適した果物が多く栽培されている。これは、道端に設置された果物販売所。パイナップルやパパイヤ、ココナッツの実が整然と並べられている。(撮影:元持幸子氏)

2011年01月04日

ハワイ

“どんな人種も境なく平等に”の融和精神

ハワイの伝統文化「フラ」の世界とは

 静岡県沼津市在住の石橋成美(いしばし・しげみ)さんは、地元沼津や神奈川県平塚市などでハワイアンフラのインストラクターを務めている。フラと出会うきっかけとなったのは、十数年前のハワイ留学であった。

 石橋さんはダンス歴が長く、東京で短大を卒業した後はプロのダンサーとして東京ディズニーランドに勤務していた。20代後半で本格的に英語を勉強したいと志し、1996年10月から1年間、ハワイ州立大学マノア校附属の語学学校に留学した。

 キャンパスはオアフ島内の緑豊かなマノア地区に位置し、語学学校生も図書館や学生食堂を自由に利用することができた。授業は毎日午後1時〜5時までの4時間。全ての科目で、“考えさせる授業”が徹底しており、「自分で考えて言葉を発する訓練を毎日のように重ねたのは、よい修練になった」と振り返る。カリキュラムには、日本人留学生2人にハワイ人学生1人が付く個別レッスンもあり、会話力の向上に役立った。

 滞在中はホームステイをし、計3家族にそれぞれ3〜4ヶ月ずつお世話になった。(最初は留学あっせん業者が手配した家族にステイし、それ以後は大学の友人のつてを頼りにホストファミリーを見つけた。)ハワイは、民族構成が多彩で、州人口約130万人のうち、先住ハワイ人の人口は10%に満たない。全人口の40%以上を占めるアジア人(フィリピン系、日系が多い)の他、ヨーロッパ人や、少数ながらヒスパニック(メキシコ系、プエルトリコ系)やアフロアメリカンなど…多様な人々が住み、相互間の婚姻も進んでいる。石橋さんがホームステイをした先も、フィリピン系やドイツ系など、ハワイ系以外の家庭であった。

 ハワイの歴史的背景について、ここで若干述べておきたい。ハワイの先住民は、ポリネシアにルーツをもつということは分かっているものの、文字をもたない人々であったため、具体的な年代などはっきりしたことは明らかになっていない。記録が残されているのは、1778年のクック来航や、カメハメハ大王(1795年にハワイ王国の樹立を宣言、1810年にハワイ諸島を統一)の治世頃からで、それまでの歴史は口承により伝えられているに留まる。

 19世紀は、ハワイにとって激動の時代であった。1820年、多数のキリスト教宣教師の上陸によって、自然崇拝を基とする先住民族の宗教が否定される。1850年代にはハワイ語*注)に代わり英語が公用語となり、同じ時期、サトウキビ農園の労働者として、(日本やフィリピン、中国、プエルトリコ他の諸国から)大量の移民が流入。移民によってもたらされた病原菌によって免疫のない先住ハワイ人の人口が大幅に減少した。そして、1898年にはアメリカ合衆国がハワイを併合。1959年にはハワイは米国の50番目の州となった。1978年、ハワイ語は(英語と並ぶ)州の公用語として復活したが、現在、州民の大多数は英語でコミュニケーションをとっている。「ハワイ文化の継承」という観点からは、長きにわたり、逆風が吹き続けてきたといってよく、石橋さんが滞在した1990年代半ばも、身近でハワイ語の会話を聞く機会はあまりなかったそうだ。

 ハワイの住民が多民族構成なのは、こうした歴史的背景に拠るところが大きい。石橋さんは、「私の場合はわずか一年の滞在であり、決して社会を深く観察できたとはいえないが」と断わりつつも、「ハワイでは、民族による扱いの格差や差別といった負の要素が全く感じられなかった。出自がどうこういうことは関係なく、ハワイの住民として皆が融和して暮らしているように見受けられた。この融和精神、言い換えるなら、他の民族へのこだわりのなさが、ハワイ社会の一番の美徳なのではないか」と実感を語る。

 こうしたハワイの融和精神を、思いがけず、間近で感じる出来事があった。友人のホームステイ先に遊びに行ったときのこと。その家庭は、中国系の夫とドイツ系の妻、そして幼稚園児の男の子一人のファミリーだったのだが、その日は、父親が男の子と一緒に、マイケル・ジャクソンの“Black or White”という有名な楽曲のプロモーションビデオを観ていた。ビデオでは、マイケルの歌に合わせて様々な人種の人たちの顔が次々に出てくる。父親はビデオに見入るわが子に優しく、「人間はみんな同じなんだよ。差別してはいけないよ」と語りかけ、男の子もその言葉に神妙に頷いていた。石橋さんは、「どんな人種も境なく、平等に」というハワイの心が、家庭で、実際に幼い子どもに伝えられている現場に遭遇し、厳粛な気持ちになった。

 ハワイでは、行政が各種の市民講座を開催しており、石橋さんが居住していた地区でも、近くの高校で、英会話や手芸、フラなどのクラスが開講されていた。石橋さんは、大学で授業がない午前中を有効に過ごそうと、英会話の講座に通い、夜間には「何か身体を動かすことがしたい」という思いから、フラのクラスに通い始めた。「スポーツジムに行けば、エアロビクスなどのダンスメニューもあったが、日本でダンスを生業にしていた身としては、どうしても物足りなさを感じてしまう。せっかくなら、ハワイならではのダンスに挑戦してみたかった」と石橋さん。市民講座のフラクラスには、ハワイ生まれの人たちに交じり、老後をハワイで過ごそうとアメリカ本土からやってきている夫婦もいたそうだ。フラを極めようというよりも、“健康維持”を目的に習っている中高年の人たちが多く、クラスのムードものんびりしたものだったが、石橋さんにとって、伝統的なハワイ文化に触れる、大変貴重な時間であった。

 石橋さんが滞在していた地域は、オアフ島のワイキキビーチから車で15分ほどの距離だった。午前中に市民講座で英会話を学び、そこから大学へ、そして夕方はフラのクラスへ…と寸暇を惜しんで飛び回る毎日で、公共バスだけに頼るとなれば、待ち時間が多く効率的でない。そこで、思いきって原付自転車を購入し、目的地から目的地へと自在に移動できるようにした。海風を身に受けつつ、原付のハンドルを握り、ふと目をやると、道路脇にはプルメリアやハイビスカスなどの花々が咲き乱れている。忙しい毎日ではあったが、石橋さんはハワイでの一瞬一瞬を心に刻みながら、「今しかできないこと」にチャレンジした。

 学校での勉強と市民講座での英会話とフラ…傍からみれば、これだけでも十分に充実しているが、石橋さんには、もう一つの楽しみがあった。サーフィンである。ハワイは言わずと知れたサーフィン発祥の地。“ビッグウエーブ”と呼ばれる大波が寄せる海岸から、安全な入り江まで、レベルに応じて楽しめる様々なポイントがある。石橋さんは、日本でボディーボードの経験があり、ハワイに来て初めてロングボードに挑戦した。板は浜辺に住む友人のマンションに預け、週末に時間ができるとワイキキビーチに原付を走らせて、海に入った。

 「空気がきれい、海がきれい、そして人や気候がいい…とハワイには三拍子も四拍子も揃った魅力がある」と石橋さん。ハワイ諸島の内、石橋さんが暮らしたオアフ島は人口が最も多く、州都ワイキキがある。マウイ島は人口が少なく自然が豊か。ハワイ島は変化に富む地勢で、西部は乾燥していて樹木が育たず、東部沿岸地域は雨が多く、南部は活火山「マウナ・ロア」の溶岩に覆われた黒い大地…と一周するだけで景観の違いが楽しめるそうだ。ハワイ島の北部には「マウナ・ケア」というハワイの最高峰があり、その標高は4,025メートル。山頂周辺には世界各国の研究機関が設置した天文台が存在する。マウナ・ケアにはマイカーで登ることはできないが、山頂行きの車のツアーがある。石橋さんは、留学中マウナ・ケアを訪れる機会はなかったが、マウイ島の「ハレアカラ火山」(標高約3,000メートル)には行ったことがある。ハレアカラの方はマイカー規制がないため、レンタカーを借りて自分で運転して登り、山頂から360度のパノラマを満喫した。

 1年間の留学を終え、日本に戻って進路を考えた時、「今後もずっとハワイとつながっていきたい」という思いが自然に湧き起こってきた。そして、「ハワイの伝統文化であるフラをきちんと学ぼう」と方向性を見定め、平塚のフラスタジオに入門した。日本のフラ指導者の草分け的な先輩から2年間教えを受け、その後自らが講師として、生徒を指導する立場になった。ちなみに、「フラ」というハワイ語には、ダンス、楽器演奏、歌唱、チャント(詠唱)の全てが含まれる。一般的には「フラダンス」という風に“ダンス”という言葉を補って呼ばれることが多いが、専門家は「フラ」という総称を用いるのが普通だ。

 「フラの世界は大変奥が深い。元来はハワイの先住民が神話の神様に捧げた祈祷の儀式で、男性が踊りを担っていた。その後、キャプテンクックが来訪した頃から、西洋の客人をもてなすため、女性が優美な踊りを披露する場が増え、フラが様々な形で進化を遂げてきた」とのこと。なお、映画“フラガール”(2006年公開)では、常磐ハワイアンセンター(現:スパリゾートハワイアンズ)の演目として、速いテンポの踊りが登場していたが、あれは“タヒチアンダンス”といって、タヒチからハワイに伝わったもの。ハワイのオリジナルではないそうだ。

 フラには、“カヒコ”と呼ばれる古典フラと、“アウアナ”と呼ばれる現代フラがある。“カヒコ”は大きな瓢箪のような太鼓を先生が叩いて拍子をとり、生徒たちが詠唱しながら群舞するもの。流派によって基本的なステップが違う。“アウアナ”は、ウクレレ、ギターなどの近代的な楽器に合わせ、歌や踊りを披露するもので、新しい曲もどんどん作られている。我々に比較的馴染みがあるのは、後者の方かもしれない。

フラ・カヒコを踊る石橋成美さん
フラ・カヒコを踊っている石橋成美さん

 石橋さんは、「ハワイの文化をきちんとした形で伝えたい」という信念の下、生徒たちにはただ振付を教えるのではなく、ハワイ語の歌詞や一つ一つの動作の意味を知り、心で反芻した上で表現するよう指導している。フラの歌曲には、ハワイの自然が歌い込まれているため、ハワイの風、木の葉のゆらぎ、陽光の温かさ、花の香りなどを五感で感じることで、踊り手として醸し出せるものも変わってくる。そのため、年に最低一回はハワイを訪れて、感性を研ぎ澄ませ、新しいエネルギーを吸収できるよう心がけている。「つい先月もハワイに行ってきたばかりです。今回は、ちょうど様々なフラの流派が一堂に会してフラを教える大会があり、そこに生徒として参加してきました」と石橋さん。80歳の女性が、ソロのフラを披露する演目も観ることができたそうで、年を重ねても美しく踊れるフラの魅力に改めて感じ入ったそうだ。

 「沼津に住んでいると、冬の富士山が雪を頂いたマウナ・ケアに見えてしまいます。また、国道一号線を沼津から西に向かって車を走らせていると、右手に愛鷹連峰(最高峰:越前岳1,504メートル)、その奥に富士山がそびえている光景が目に入り、ハワイ島のコナ・コーストに似ているなあと思います。笑われてしまうかもしれませんが、ハワイになかなか行かれない時は、こうした身近な場所をハワイに重ねて、自分自身のフラに少しでも現地の息吹を吹き込もうとしているんです」と石橋さん。日本のフラ人口は、石橋さんが平塚の教室の門をたたいた頃と比べると段違いに増えた。「これからもフラを通じてハワイの伝統文化を究め、日本でフラを学ぶ方たちに、自分なりにフラの魂を伝えていかれたらと思います。それが巡り巡ってハワイでお世話になった方々への恩返しにもなれば嬉しい…」とやわらかな笑顔で結んだ。

 (齋藤志緒理)

注)ハワイ語:
ハワイ諸島に先住していたポリネシア人が話していたオーストロネシア語族の言語。現代ハワイ語は、英語や移民人口の影響を受け、発音・語彙などが変化したもので、現在、19世紀当時のハワイ語を話せる人々は大変希少(先住ハワイ人の高齢者に限られる。)ハワイ文化の継承を目的とし、ハワイ人のためにハワイ語で授業を行う学校もある。

ダイヤモンドヘッド山頂からの光景
オアフ島・ダイヤモンドヘッド山頂からは、ワイキキビーチ全体が見晴らせる。ダイヤモンドヘッドは約30万年前に火山の噴火によってできたクレーターで、その外輪山の最高地点は232メートル。ふもとから山頂までの道のりは1.1キロあり、片道約30〜40分…と絶好のハイキングコースになっている。(撮影:石橋成美氏)

2010年12月01日

デンマーク

デンマーク人の「個人主義」と「自立精神」

知っておきたい風刺の文化

 九州とほぼ同じ広さの国土に約550万人が住む国、デンマーク。全土でデンマーク語が話され、自然な形で「国民意識」が形成されている。世界中の多民族・多言語国家が抱えるような苦悩とは無縁といってよい。他の北欧諸国と同様、高福祉国家で大変民度が高いといわれている。

 デンマークでの在住歴が37年になるという田口佑三さんにお話を伺った。

 田口さんはかつて東海大学(湘南キャンパス)で機械工学を専攻し、卒業後は大学に残って助手や講師を務めた。東海大学は故松前重義氏がデンマークの「国民高等学校」の教育方針にインスピレーションを受け「望星塾」を開いたのがその始まりで、デンマークとの縁が深い。田口さんの在学当時は学生は理系・文系に関わらずデンマークの哲学を履修していた。田口さんは、学生時代にはデンマークを訪れる機会はなかったが、教職員となった後、1971年10月にシェランド島北部の町に東海大学ヨーロッパ学術センターが設立されたのを機に、1972年の夏季休暇を利用して一週間ほど滞在した。これが田口さんのデンマーク初訪問で、翌1973年の春には、スタッフの一員として同地に赴任することになった。

 センターの勤務体制は日本の一般的な職場と同様で、残業や休日出勤があり、公私を明確に分けるデンマーク生活には馴染まないものであった。2年後の1975年、田口さんはデンマーク人のリジーさんと結婚し、新たな人生に踏み出すことにした。独身のうちはともかく、デンマーク人と家庭をもつ以上は同じ環境で仕事をし続けることは困難…と判断した田口さんは、同大学を退職する道を選んだ。

 とはいえ、デンマークで外国人が職を得るには、デンマーク語能力や高度な専門知識が不可欠だ。田口さんは一時帰国してデンマーク政府・日本政府間の取極めによる奨学金に応募し、3年間のスカラシップを取得。デンマーク工科大学に入学した。授業はもちろん全てデンマーク語。受け身で講義を聴くだけの授業などなく、積極的に議論に加わらねば評価されない。「デンマーク人と同じ土俵に立って、言葉のハンディを抱えて勉強する厳しさは半端なものではなかった」という田口さんだが、努力の甲斐あって無事卒業の日を迎えることができた。

 デンマークには昔も今も、日本のように企業が一斉に新卒採用をするシステムはない。一つのポストが空いたら募集広告が出る仕組みのため、学生は在学中から新聞広告をマメにチェックせねばならない。田口さんは延べ60社に応募の手紙を出し続け、その結果、大手造船会社“ボウマイスター・ウエイン”(Burmeister & Wain Shipyard)への就職を果たした。1978年のことである。しかし六年後、世界的な造船業界の不況によって約600人の社員がレイオフされることになり、田口さんもその一人に入ったため、新たな就職先を見つける必要に迫られた。幸い、会社がその後も一年半は田口さんを完全解雇せず、他の部署に回して雇用し続けてくれたため、その間は収入を得つつ就職活動を行うことができた。

 田口さんは、造船コンサルティング会社を転職先として見定め、募集広告は出ていなかったが、直接その会社に出向いて、自分の学歴と職務経験をアピールした。そして「三ヶ月の試用期間」を条件に入社を許可された。ところが、その試用期間が終わる二日前に人生が思いがけない方向に転換した。半年前に別途応募していたデンマーク空軍から採用面接の知らせが届いたのだ。後でわかったことだが、軍隊という特殊な組織だけに、応募者の身元調査が念入りに行われていたらしく、通知が来るまでに時間がかかったのはそのためであった。田口さんはこうして1987年、晴れてデンマーク空軍(Royal Danish Air Force)の物資調達課に就職した。2005年にはデンマークの陸・海・空軍の「物資調達課」が一つに統合されたが、その際の人事にも残ることができ、現在も同課に勤務している。

 以上、田口さんの歩みを駆け足で紹介したが、田口さんが自身の経験から、デンマークで必須な要件として強調するのは、何よりも「積極性」と「自立精神」である。

 「例えば、入社時には、日本なら研修やオリエンテーションがあり、新入社員は先輩の指導を受けながら職務を覚えていく。また、職場では、チームワークを重んずる意識から、自分が突出するのをきらって、自己主張を抑えることもある。だが、デンマークでは個人主義が徹底しており、遠慮や他人への甘えは禁物。会議でも、自分の意見が言えないようでは周囲に認めてもらえない」とのこと。田口さんは、空軍に就職した当初から、「新人」としてではなく、独立した一個のポストの責任者として扱われ、誰を頼ることもできなかった。分からないことがあって課長や部長に尋ねると、「私はこうしてきたが、君は君で考えなさい」…とアドバイスはくれるものの、最終的な判断は田口さんに委ねられる。「座していたのでは、誰も何も教えてくれない。空軍での最初の10年間は手探りで色々な部署にコンタクトし、職務上の知識やノウハウを獲得していった。言葉はきついかもしれないが、“サバイバル”の世界。しかし、自分の職責をしっかり果たしていけば、認められ、受け入れられる。外国人だからといって特別視されることは全くない」と田口さん。

 勤務時間は午前8時から午後3時24分(444分/日)で、月曜日から金曜日までに計37時間(※444分x5日=2220分)働けばよく、土日は完全に休みとなる。個人の生活を大切にするので、よほどのことがない限り残業はしない。

 デンマークでは、古いしきたりのある一部の大企業を除けば、組織内に上司・部下の縦の関係がなく、個々人が対等に接し合える。軍隊といえば、上官の命令は絶対…というイメージがあるが、田口さんの所属している組織はデンマーク企業の大半と同様で、皆、上下関係を意識せずに働いている。廊下で軍の高官とすれ違ったら、ごく普通に「こんにちは」と挨拶を交わす。デンマーク語の二人称には尊敬語と普通語の二種類があるが、上官に対しても普通語の“du”(日本語の「きみ」に相当)を使って差し支えない。

 個人主義とはいっても、職場でのハーモニーがないがしろにされるわけではない。田口さんの部署では、年に一度、15人全員が自転車に乗り、サイクリングに繰り出すのが恒例となっている。首都コペンハーゲンは人口約68万人の都市だが、ちょっと郊外に出れば緑がいっぱいだ。互いに助け合い、ペースを計りながら自転車を走らせ、気持ちのよい場所でくつろぎ、談笑してまた帰ってくる。「デンマーク人は、そうした楽しい企画を催すのが得意で、誰かが“今年もサイクリングに行こう”と言い出すと、“よしっ”とばかりに計画が具体化する。そして、部の誰もが、義務感からではなく、ほんとうに楽しみたくて参加する」と田口さん。皆の和の意識を高めるのに一役買っているこのサイクリングだが、各々の家庭に影響を及ぼさないよう、週末ではなく平日の日中に企画されるのもまた、デンマークらしい。

 さて、職場における人間関係が「対等」であることは先に述べたが、家庭においてもそれは同じで、夫婦が家事・子育てに対等に関わるのがデンマーク流だ。デンマークでは、夫婦共働きが基本。田口さんのリジー夫人もソーシャルワーカーとして働いている。田口家では、夫妻の内、早く帰宅した方が夕食の用意をする。食材の買い出しは車で通勤している田口さんの方が担当し、職場からの帰り道にスーパーに寄るのが日常だ。「対等」な関係は、夫婦の間だけでなく、親と子の間にも成り立つ。例えば、(デンマーク語には英語の“Dad” “Mom”にあたる“Far”“Mor”という表現もあるものの)子どもたちは、両親を名前で呼ぶのが普通だ。田口さんとリジー夫人の間には、長女リセッタ(日本名:美知子)さん、長男トーマス(日本名:佑一)さんの二人のお子さんがいるが、彼らも子どもの時から夫妻のことを“Yuzo” “Lizzi”と呼んできた。また、親は子どもの人格を尊重し、過ちを正すときは、冷静に根気よく言葉で諭さねばならない。(子どもは親の説諭に筋が通っていないと納得しない。)子どもが言うことをきかないからと、怒りにまかせて手を上げたりしたら、デンマークでは犯罪とみなされる。

 親として子どもたちの学校生活を傍で見守りながら、田口さんがなるほどと納得させられたのは、「参加型」の授業が(大学教育に限らず)初等教育から徹底していることである。生徒たちは、日頃から何か課題を与えられ、その課題に取り組む。そうして、「自ら考え」「調べ」「発表する」という訓練を幼い頃から積み重ねるのだ。友だちは大切にするが、何か問題につき当っても、友を頼らず、極力自力で解決しようとする。田口さんがデンマークの職場で感じた「個人主義」や「自立精神」は、このように一貫した教育方針の賜物であったことを改めて思い知った。

 さて、デンマーク社会の特性として、田口さんがもう一点挙げたのは「風刺文化」である。「デンマークに限らず、ヨーロッパの成熟した社会には、風刺の伝統がまま見受けられるが、デンマークもその例に漏れない」と田口さん。新聞に風刺画が載るのは日常茶飯事で、毎年夏になると「サマーレビュー」といって王室を風刺する芝居が興行され、人気を博したりする。(そもそもデンマークでは王族が警備なしで自家用車を運転したり、自転車に乗ったり、街を歩いたりするなど、王室と庶民の距離が大変近い。)

デンマーク紙の風刺画
デンマークの新聞に掲載された風刺画の例。左下にはデンマーク語で「ティーパーティ:米国のティーパーティ派がオバマ政権に反発」と書かれてある。(資料提供:田口佑三氏)

 日常の会話においても、ユーモアや皮肉たっぷりにその場にいない第三者のことをあてこすり、或いは、目の前の誰かに皮肉を言って、相手の気持ちを刺激したがる。田口さんが最初にデンマーク人の風刺に接したときは、(田口さん個人に向けられたものでなく、第三者に対してであったが)ドキッとして、風刺の内容が本当なのか、嘘なのか…紙一重のようなぎりぎりの危うさを感じたそうだ。デンマーク人の風刺は本来悪意のないものであるが、これをまともに受け止め、激昂したりすると、人間関係が壊れかねない。

 実は、2005年にデンマークの風刺画が物議を醸してしまったことがある。デンマークの大手新聞社、“モーゲン-アビィス ユランド-ポステン”(Mogenavis Jylland-Posten)がイスラム教過激派のテロリストを風刺して、ターバンにダイナマイトを巻き付けた絵を掲載し、トルコとイランの駐デンマーク大使館が抗議を申し入れる事態となってしまったのである。デンマークはキリスト教国だが、国内にはトルコ系住民や、戦火を逃れてきた旧ユーゴスラビアからの移民、アフガニスタンからの移民など一定数のイスラム教徒も存在する。ターバンにダイナマイトの風刺画は、彼らの神経を逆なでしてしまったのだ。 そこで“デンマークの風刺文化”を云々しても始まらず、彼らに容易に理解されるものではない。「デンマークはアフガニスタンにも派兵しており、イスラム系住民の感情を損ねていたところに風刺画が出て、余計に反感が高まってしまったようだ」と田口さん。固有の文化とはいえ、多様化する社会、価値観の中で軋轢が生まれている現状もあるといえようか。

 さて、話題は一転するが、次にデンマーク人の余暇の過ごし方に触れよう。デンマーク人の大好きな言葉に“ヒュッケ”がある。英語の“cozy”に近く、「心地よい」「くつろいだ」…といった意味合いだ。デンマーク人はこの“ヒュッケ”を信条とし、休日にはのんびりと愉しむことを旨とする。例えば、多くのデンマーク人は「サマーハウス」を持ち、週末や長い休みをそこで過ごす。(サマーハウスを持たずにキャンピングカーで旅行する人や、ステイ型の宿をとって、長期滞在する人もいる。)サマーハウスは大きいもので敷地面積がざっと1500㎡というから、その広さには驚かされる。田口さん一家も、コペンハーゲンから車で約1時間のカルンボーという港町の近くにサマーハウスをもっている。「300㎡の敷地に65㎡の一階建てのこじんまりした家で、日中は草刈りをしたり、苺を育てたり、海水浴に行ったりし、日が暮れると家の中でのんびり読書や家族団らんの時間を過ごす」と、大変健康的な暮らしだ。コペンハーゲンの自宅の庭のテラスも、田口さん自らが大工仕事をして作り、手間暇をかけて拡張したものだ。

田口佑三さん一家(ご自宅の庭で)
夏の休日には自宅のテラスで日差しを受けながら、家族で食事を楽しむ。(左から田口さん、リセッタさん、リジーさん、トーマスさん)

 自宅に友人を招いたり、招かれたりという交遊も多く、夜になっても明るい夏は庭でバーベキューに興じる。日暮れが早い北欧の冬は憂鬱になりがちだが、室内にろうそくを灯して目にも暖かい空間を作り、客人を迎える。おもてなしのキーワードはやはり“ヒュッケ”。ワインを飲み、料理を食しながら、深夜12時、1時くらいまで語り合う。ゲスト側があまり晩くならない内に引き上げようと気を遣ったり、ホスト側が「晩い時間まで居られて迷惑」という心情に陥ることもない。時間の過ぎゆくままに、互いにゆったりと、心おきなく愉しむのがデンマークの休日なのだ。

 長女のリセッタさんは、コペンハーゲン大学・大学院で経済学を専攻後、プリンストン大学博士課程に進んでおり、現在ニューヨーク在住である。長男のトーマスさんは、コペンハーゲン大学法学部の修士3年目に在学中で、最近法律事務所に就職が決まった。共に頼もしい限りだが、日本語教育に関しては心残りもあるそうで、「子供たちが幼いころは“桃太郎”など、日本の絵本の読み聞かせをしていたが、意味を聞かれるので、ついデンマーク語に訳して聞かせるようになってしまった。以来、体系的に日本語を教える機会がないまま来てしまい、もったいないことをした」…と田口さん。夫婦の絆にも触れ、「離婚率が高いデンマークで長年家庭を営んでこられたのは、妻が私を辛抱強く見守ってくれていたから」とリジー夫人を温かく思い遣る。

 「デンマークで職を得、根を張って暮らしていくためには、それ相応の学歴と専門知識が必要。私の場合、デンマーク工科大学で学んだことが大きな強みになった。デンマークでは目標をもって、個人のユニークな点を発揮していくことが肝心」と来し方を振り返りつつ述懐する。そして、「人生のいろいろな変動の中をこれまで通ってこられたのは、多くの良き人々に巡り会えたからこそ。それは、何にも勝る私の幸運であったとつくづく思う」と感謝の念を忘れない。

 「デンマークは、北欧の大国スウェーデン、ノルウェーに比してとても小さいが、その大国に文化的に呑まれることなく、歴史を通じてデンマーク語を維持してきた。今日でも海外でその存在感を示しており、EUの自然環境長官はコニー・ヘイザゴー氏(注1)が務めている。またNATOでは、アナス・フォー・ラスムセン氏(注2)が最高司令官として活躍している。手前みそになるが、小国だからと委縮せずに、国際社会で堂々と渡り合っていく気概はなかなかのもの」と田口さん。田口さんの経験談を伺う中で、その“気概”の根っこにあるものが見えてくるような思いがした。

(齋藤志緒理)

注1)Conny Hadegaard:デンマークの Conservetiv政党(コンサーバティブ党)の女性議員
注2)Annas Fog Rasumussen: デンマークのVenstra政党(リベラル党)の前首相

サンクト ハンス祭
サンクト・ハンス祭(毎年6月24日にデンマーク各地で行われる夏至祭):厄除けを祈願して、中央の魔女の人形を燃やしたり、音楽の催しを楽しんだりする。お祭りは午後5時から始まり、午後11時頃まで沢山の人々で賑わう。(撮影:田口佑三氏)

2010年11月01日

イラン

プライド高く、「本音と建前」が交錯

親日感情は広く浸透

 「日本とイランは①“政・官”のレベル、②“ビジネス”のレベル、③“草の根”のレベル―それぞれで交流があり、イラン人は日本に対して、概して好印象をもっています」元商社勤務の野田修(のだ・おさむ)さんは、そう語り出した。野田さんは、1976〜1978年のペルシャ語研修派遣を皮切りに、1980〜1981年、1994年〜1997年、2001〜2005年…と、計4回・延べ10年に亘り、イランに駐在した経験をもつ。4度目の駐在は同社のイラン会社社長としての赴任であった。野田さんの言う「3つのレベル」での交流について概観すると次のようになる。

①“政・官”のレベル:イランでは、ホメイニ師の指導により1979年2月にイスラム革命*注1)が成立し、パーレビ王朝が崩壊。同年11月に首都テヘランでアメリカ大使館占領人質事件*注2)が起こり、翌1980年4月にはアメリカがイランとの国交を断絶。更に同年9月にイラン・イラク戦争が勃発…と、1970年代終わりから国内的・対外的に激動した。だが、その間も(国情不安により外交のパイプが一時的に細くなることはあっても)日本との政・官の交流が途絶えることはなかった。イラン人は、「アメリカにある程度モノが言えている日本外交」を評価している。

②“ビジネス”のレベル:アメリカは1953年に、当時のイランのモサデク政権を(CIAの秘密工作によって)転覆させ*注3)、それに連動して西側諸国がイランの石油不買運動を展開した。そうした中、日本の出光石油が日章丸を派遣してイランの石油を買い取り、イラン経済を窮地から救った経緯がある。最近ではイランの核開発問題*注4)への制裁として、また2001年9月11日の米国同時多発テロの影響で、イスラム体制を掲げるイランから多くの米系企業が撤退する中、野田さんの商社をはじめとする幾つかの日系企業はイランに留まり、同国とのビジネスのネットワークを堅持してきた。

③“草の根”のレベル:日本では一時期、“上野公園にたむろするイラン人”“イラン人が偽造テレフォンカードを違法販売”といったニュースが報じられ、イラン人の負のイメージを広める結果となった。「当時は国内の経済不況から、多くのイラン人が日本に職を求めてやってきていた。(日本が、トルコ、韓国、UAEと同様、イラン人がビザなしで入国できる国であることも背景としてある。)中には違法な行動をとったイラン人もいたが、その多くは中小企業に就職し、日本人社長に可愛がられ、真面目に勤め上げている。滞在中に日本人女性と結婚し、妻を伴ってイランに帰国している人も少なくない。テヘラン在住の日本人は現在500人ほどで、その内の約200人はイラン人男性と結婚した日本人女性だが、大半は国際結婚のハードルを乗り越えて仲よく暮らしている。イラン人の元々の親日感情や、来日したイラン人の体験がそれを裏切らないものであったことの表れといえよう」と野田さん。

野田修様(執務室にて)
野田修さん(テヘランの執務室で秘書と):
秘書の女性は、イランの法律でコートにスカーフの着用を義務付けられていた。

 野田さんは、イスラム革命が発生する2年前に20代で初めてイランの地を踏み、以後30年以上に亘ってこの国を見守ってきたわけだが、その目にはイランはどのように映ったのであろうか。

 まず、海外駐在員として最も心配なのが“治安”問題だが、イランの治安は安定しており、テロや凶悪な事件はほとんどない。むしろこわいのがテヘランの交通事故だとのこと。イランでは石油が安価なため、自動車の保有数が急増し、首都の交通渋滞は日常茶飯事だ。また、横断歩道や歩道橋が少なく、歩行者の安全が十分に確保されていないため、幹線道路を横断する際は、左右を見ながら命がけで渡る羽目になる。(運転者は道路に横断者を認めてもスピードを落とすことなく、自分の車が到達するまでに横断者が渡り切るものと判断して走り抜ける。)ここ30年の間に、日本人駐在員(他社も含め)や長期滞在者で、テロや殺人事件の被害に遭った人は皆無だが、交通事故で死亡した人は5人もいた。

 イラン人の国民性については、「上昇志向の高さ」「プライドの高さ」「お金に対するシビアな感覚」「情緒的な面」など、幾つかの点を挙げていただいた。

 野田さんは、ペルシャ語の研修のためにイランに初渡航した際、大学に入るまでの一時期は町の語学塾に通って、ペルシャ語の手ほどきを受けた。当時はイスラム革命前でもあり、英語学習熱が高く、こうした語学塾が市内に多数あったそうだ。女性の進学率が大変高いのも(革命前、後にかかわらず)イラン社会の特長である。尚、イラン人は一般的に「暗記型学習」に長け、公園のベンチなどで一生懸命教科書を覚えている学生の姿が当たり前のように見られるとのこと。(その反面、「論理的な思考」が苦手な傾向があるとか。)

 「プライドの高さ」といえば、イラン人社員の人事管理を行う上でつきものなのが「人事評価」にあたっての“強気な”自己申告である。「自分はこれだけできる」「自分はこれだけ会社に貢献した」ということを遠慮なくぶつけてくるのだが、実際にはそれをそのまま受け止められない業績であることも多い。社員同士が給与明細を見せ合うことも普通なので、上司として評価の基準をクリアにしておかないと、「どうして自分の給与が誰それより低いのか?」と追及されて困る事態になる。

 「お金に対するシビアな面」は、人事評価や給与について上述したことからもわかるが、野田さんには他にもこんな経験がある。テヘランでは駐在の度に家やアパートを借りて住んだが、どんなにうまくいっている大家さんとも、いざ帰国となると、お金の問題でもめて、すんなり退去とはいかないのだ。計4度の赴任の内、3度目までは単身赴任だったため、風邪で寝込んでしまった時など、心配して食事を届けてくれる大家さんもいた。そうした厚情に感謝することしきりで、野田さんも日本に一時帰国する度にお土産を持ち帰るなど、心通わせる付き合いをしていた。だが、時が満ちて帰国の辞令が下り、挨拶に行くと、大家さんはきまってその態度を一変させる。家中をくまなくチェックし、「ここが壊れている」「あそこが傷んでいる」とあれこれ難癖をつけて、必要以上の修繕費用を要求してくるのだ。今までの、あの友好的な関係は何だったのか…と、その落差には驚くばかりであった。

 四点目の「情緒的な面」については、多分に日本人と通じるところがある。海外に赴任する日本人に対して、よく「日本人は、すぐに謝りすぎる。自分に非がなくても、相手との関係を良好に保つための潤滑油として“ごめんなさい”という言葉を口にしまいがちだが、それはよくない」というアドバイスが送られるが、野田さんによると、ことイランに関しては当てはまらないそうだ。「ごめんなさい」と言った方が、関係が良くなるケースの方が多い。

 また、イラン人との交渉では、共に英語という第二言語を用いるため、互いに母国語でないもどかしさを抱えての話し合いになる。野田さんは、自分たちの側の利を決して譲ろうとせず、畳みかけるように攻勢をしかけてくるイラン側に、つい感情的になり、悪気はなかったがイランの悪口ともとれる言葉を口にしてしまったことがある。それが彼らのプライドを傷つけ、一時は「出ていけ!」と机を叩いて言われるほどに紛糾した。だが、「こっちもこっちで必死に頑張っている」という姿勢が伝わったのか、その後は互いの間に通じ合うものが生まれ、交渉は決裂するどころか、むしろ進展し始めたのだ。熱くなりすぎて発言が行き過ぎた点は反省し、「金輪際、相手の国について悪いことは言うまい」と肝に銘じたが、結果的には、その交渉相手とは、その後も長く付き合える関係が築けた。「ただ理詰めでいけばよいというわけではない。相手の心を動かさねば何も始まらない」―ということを、痛切に感じる出来事となった。イランの他にインドにも赴任経験がある野田さんだが、終始冷静に、理論的に、互いに決して激昂することなく進行したインドでの商談とは鮮やかな対比を成しているそうだ。

 2002年1月にアメリカのブッシュ大統領(当時)の一般教書演説で、イランが(イラク、北朝鮮と並んで)「悪の枢軸」と呼ばれたことは、まだ記憶に新しい。この発言は、核開発問題とも相まって、「イラン=中東の不穏分子、或いは国際社会の鼻つまみ者」といったイメージを増幅させてしまった感がある。だが、イランの革命政権は一貫して「反米」を掲げているものの、その実、“アメリカに恋焦がれ”、アメリカとの関係を回復させたいという思惑がある。*注5)一般的な市民感情としても、アメリカへの敵愾心よりは、むしろアメリカ文化への憧れの思いが強い。「こうした中でブッシュ大統領が“悪の枢軸”発言をしてしまったのは、イランの“本音と建前”を読みきれなかったというべきか…いずれにしても、大変残念なことだった」と野田さん。

 イランは日本の約4.4倍の国土を擁する中東の大国だが、その立ち位置は非常に孤独であるといってよい。野田さんによれば、イラン人は“ペルシャ人”としての誇り*注6)からか、トルコ人やアラブ人(アラブ諸国)を下に見る傾向がある。イランで信仰されるイスラム教は、中東アラブ諸国の大勢を占める“スンニ派”ではなく、少数派の“シーア派”であり、自分たちは同じイスラム教徒でも“別格”という意識もはたらいている。また、他のアラブ諸国への思いには屈折したものがあり、例えば近年のUAE(ドバイ)の目覚ましい発展ぶりについては「彼らはアメリカの資本と技術で発展しているだけだ。我々イラン人は自前の技術で国の産業を切り盛りしている」とやっかみ半分の見方をする。しかし、そう言う一方で多くのイラン人が休暇にはUAEに羽を伸ばしに行き、移動には、ナショナルフラッグであるイラン航空よりも安全性の高いUAEのエミレーツ航空を選びたがる。(米国の経済制裁措置もあって、新しい部品や機体を導入できないイラン航空は、極めて旧式の機体のままで飛ばざるを得ない。)

 こうして見てくると、「本音と建前」が交錯し、近隣諸国や国際社会とうまく付き合っていけないイランの姿が浮かび上がってくるようだ。「イランは、OPECのメンバーになったパーレビ王朝時代、特に1970年代初めから革命前までは日の出の勢いで成長し、大変平和な国だった。だが、その平和な国にイスラム革命、イラン・イラク戦争が相次いで起き、隣国からミサイルが降ってくるようになった。たとえていうならば、日本に明治維新と太平洋戦争が一気に来たようなもの。イランはそうした混乱を乗り越え、したたかに、したたかに生きてきた」「米欧の経済制裁を受けて、新しい技術の導入がままならないが故、イランの優秀な若者は率先して工学部や医学部を目指そうとする。そこには、自分たちが国の発展の担い手になろうとする志がある」…野田さんは、イラン暮らしで何か苦い思いをすることがあると、イランが歩んできた険しい道のりと現況に思いを馳せ、「この国を嫌いにならないよう」自らに言い聞かせてきたそうだ。

 ところで、イランの映画は世界的に評価が高く、国際映画祭などで受賞する作品も多い。野田さんの4度目の赴任中には、「風の絨毯」(2003年)という日本・イランの合作映画が制作され、テヘランでは日本大使館を中心に、これを契機にイラン人と日本人の接点づくりをしようという機運も生まれた。日本の映像文化といえば、NHKの連続ドラマ「おしん」(1983年4月〜1984年3月放映)が、後年アジア諸国で放映され、好評を博したことはよく知られているが、この「おしん」がイランでも、野田さんの赴任当時に全国放送された。週末に集中して何話分かずつ放映され、視聴率が80%に上るという人気ぶりだったとのこと。当時、週明けの土曜日(注:イスラム教国であるイランの休日は金曜日)の朝一番のオフィスの会話は「昨日のおしんを見た?」から始まるのが常だったとか。艱難辛苦を乗り越えて、人生を切り拓こうとする「おしん」の前向きな生き様は、イラン人の心にも沁み入るものがあったようだ。

 4度の赴任それぞれに、野田さんが背負った責務は異なるが、特に4回目は社長として心を砕くことが多かった。10人の日本からの駐在員をまとめ、彼らが心身ともにストレスを溜めぬよう配慮した。イスラム教の理念から、プールも時間制で男女が仕切られるお国柄。テニスやゴルフに興じるにも様々な制約があるため、駐在員の夫人方は、社の共用の車で買い物に出るなど、限られた機会しか外出のチャンスがない。野田さんの夫人、直子さんは社宅を開放して、頻繁に会社内外の夫人たちと集まる機会をもち、家族ぐるみで、テヘラン生活を少しでも和やかに過ごせるよう心を配った。

 2005年3月25日には、サッカー・ドイツワールドカップに向けてのアジア最終予選でイランと日本の対戦カードがあり、12万人を収容するテヘランのスタジアムで試合が開催された。イランでは男女が同席してスポーツ観戦をすることが禁じられているため、日本大使館や日本人会が協力してイランのサッカー協会に掛け合い、何とか日本人駐在員が妻子と一緒に試合を見ることができるよう、日本人専用エリアを設けてもらった。当日、日本人女性はイランのしきたりに倣い、髪を覆ってスタジアム入りし、恙無く観戦することができた(結果は2-1でイランの勝利。)“勝者の余裕”もあったのであろうが、試合後に、イラン人観客が日本人選手に「共にワールドカップに出場しよう!」と、温かいエールを送ってくれたことが印象深かったそうだ。

 インタビューの締めくくりに、野田さんは自身の「イラン観」を次のように語った。
「イランの価値観は二本立てで、“仕事面での成功(経済的地位)”“宗教の世界での精進”という二つの基準がある。メッカへの巡礼を済ませた男性の名前には“ハジ”、女性の名前には“ハジャ”という称号が付き、(たとえ社会的な“成功者”といえなくても)皆から尊敬を受ける。かといって、宗教一辺倒で、イスラム教を押しつけられるような圧迫感があるわけではない。そうしたバランスが、イランの社会に、ある種の落ち着きを与えているのかもしれない」…そして、さらに一呼吸置き、「幸い、私はイランを好きなままで去ることができました。これからイランと縁がある方たちにも、できるだけそうあってほしい」―そう穏やかな口調で結んだ。

(齋藤志緒理)

注1)イスラム革命:
1979年のイスラム革命は、親米だったパーレビ王政が “イスラム”を軽視したことへの反動でもあったため、革命後のイスラム体制は反米を掲げた。政教一致のイスラム体制下では、イスラム法学者(聖職者)が最高指導者として国政全般の最終決定権を握っている。

※出典:春日孝之著『イランはこれからどうなるのか―「イスラム大国」の真実』(新潮新書、2010年9月刊)p.14.

注2)アメリカ大使館占領人質事件:
1979年11月に学生グループがテヘランのアメリカ大使館を占拠。1981年1月に大使館員52人が解放されるまで、解決に444日間を要した。同事件の端緒は、パーレビ王政崩壊の直後、国外に逃れた国王をアメリカが受け入れたことにある。「アメリカは国王を利用して反革命を企てる危険性がある」という危機感が広がり、それを阻止するために学生たちがアメリカ大使館を占拠。ホメイニ師がこの事件を支持したことで、イランの反米主義の流れが決定づけられた。(上掲書:pp.176-178)

注3)モサデク政権転覆クーデター(1953年):
民族主義者として知られたモサデク首相は、第二次世界大戦後、当時イギリスが握っていたイランの石油利権を取り戻すべく「石油国有化」運動の先頭に立った。同首相はアメリカの協力を期待したが、アメリカはイギリスの利権を守る側に立ち、CIA主導によってモサデク政権を転覆させた。(CIAは大量の資金を投入して反政府暴動を扇動し、イランのメディアの大半を影響下に置いて政権を揺さぶった。)当時は、王政ながら、国王、首相、国会の勢力が均衡していたが、モサデク首相の失脚により、このバランスが崩れ、国王独裁につながる。そして、アメリカがその後の王政を通じてイランの内政に干渉し続けた。この事件は、イランのアメリカ不信の原点となった。(上掲書:pp.180-181)

注4)イランの核開発問題:
イランは、NPT(核拡散防止条約*)に加盟しており、自国の「核開発」は電力などの平和利用を前提とした「核エネルギー開発」であり、「核兵器開発」ではないと表明している。しかし、イランが国内でウラン濃縮活動を続けることは、核兵器保有に向けた潜在能力を将来に残すことになるため、国連安保理は、イランに対して「ウラン濃縮活動の即時停止」を求める決議を採択して圧力を強めてきた。(*NPTは、国連安保理常任理事国の核保有五ヶ国〜米英仏露中〜以外の加盟国に対して、核兵器保有を禁じる一方で「平和利用としての核エネルギー開発」の権利を保障している。)イランがこうした措置を受ける一方で、(NPTに加盟せず、核兵器保有を宣言した)インド、パキスタンや、(同じくNPT未加盟で核兵器保有が公然視されている)イスラエルの「核」は事実上不問に付されており、イランは、これを米欧の“ダブルスタンダード”であるとして反発している。(→インド、パキスタン、イスラエルは、いずれも米国にとっての“与国”である。)(上掲書:pp.142-148)

注5)
イランは、実際に、2001年の同時多発テロ以後、アフガニスタンのタリバン政権を倒したいというアメリカの意向に沿って水面下で協力。タリバンの潜伏先に関する情報などを提供したり、イラン上空の米軍機の通過を認めたり、アフガニスタンでの負傷兵をイラン国内で治療したりした(上掲書:pp.188-189)

注6)ペルシャ人:
イランの国民総人口7000万人の半数強はペルシャ人で構成される。(ペルシャ人以外には、アゼリ人、クルド人、アラブ人など多数の少数民族が存在する。)

※「ペルシャ人」としての意識
ペルシャという国名がイランに変わったのは1935年、パーレビ王朝の初代王の治世である。「ペルシャ」とは、元々古代ギリシャ人が、(アケメネス朝ペルシャが発祥した)イラン南西部のファールズ地方(現シーラーズ市周辺)を指した呼称であったため、元来の自称である「イラン」(「アーリア人の国」を意味する)に改称したのである。パーレビ王朝は自らを「ペルシャ王朝の後継者」と位置づけ、ペルシャ文化を礼讃したが、パーレビ王朝を倒した革命体制は、それを否定して、国民統合の核に(ペルシャ王朝を懐古する)「イラン民族主義」ではなく、「イスラム」を据えた。しかし、近年は「イスラム」の求心力が衰えつつあり、 “イラン暦の正月にシーラーズのペルセポリス宮殿跡に詣でる国民が100万人に上る”“子供に命名する際、イスラム名ではなく、ペルシャの民族的英雄名を選ぶ親が増えてきた”といった傾向が指摘されている。(上掲書:pp.64-66, p.70)

事務所から見たテヘランの風景
事務所から見たテヘランの風景:
事務所は海抜1700メートルの所にあり、先に見える山並みは、4000メートル級の山。夏の一ヶ月を除き、山頂は雪に覆われている。(撮影:野田 修氏)

2010年10月01日

ギリシャ

“ego”発祥の地 ギリシャ

他者を容易に信じない国柄―ビジネスには高いハードル

 「ギリシャの言葉は、あまり認識はされていませんが、意外に日本人に馴染みがあるんですよ」元三菱商事の佐々木正さんは、にこやかな表情で、そう語り出した。「例えば、“アクロバット”の“アクロ”は“高い”という意味のギリシャ語で、“アクロポリス”(小高い丘の上の城市)も、その派生語です。」「また、今や英語圏をはじめ、全世界的に通用する“OK”は、元々は “Ora Kala”というギリシャ語が起源で、“Ora”が“all ”、“Kala”が“good”、すなわち“全てよし”という意味。古来、海運業が盛んだったギリシャでは、船への荷積み作業が完了すると、リストと照らし合わせて積み込んだ品々の確認をし、作業員たちが“Ora Kala”と掛け声を上げて、いざ出港となったわけです。」

 佐々木さんがアテネに駐在したのは1980年7月から1986年9月までの6年余りで、入社後初めての赴任であった。渡航翌年の1981年にギリシャが欧州共同体(EC)に加盟したが、その変化を肌で感じたのはギリシャ人の「時間感覚」であったそうだ。EC加盟前には、「シエスタ」と呼ばれる長い昼休みをとる慣習があり、勤め人は通常、早朝7時〜11時頃まで仕事をすると一旦帰宅して家族とゆっくり昼食をとり、昼寝もして、16時〜20時くらいまで働くという生活パターンだったが、EC加盟後は昼休みが短縮化され、9時から17時まで集中して働く勤務体制が徐々に定着していった。(当時、ギリシャでは会社訪問を申し入れる際などに、「お宅の会社はギリシャタイム?ECタイム?」と尋ねたそうである。)

佐々木正さん写真
赴任当時の佐々木 正さん(ピレエウス港付近で撮影)
背景には、係留された船舶が見える。

 ギリシャでの佐々木さんの任務の最たるものは、三菱重工の新造船を販売することだったが、そうした大型取引は4、5年に一度あるかどうか。そのため、日常的な業務は、ギリシャ船の修繕のニーズを探し、いつ頃日本に寄港するのかを確かめ、そのタイミングで日本のドッグに入ってもらえるよう交渉することであった。アテネ近くの港町ピレエウスには当時3000社もの船会社があったが、それらが幾つかの大きなビルの中に集結し、1フロアーに数十社(1部屋=1社)といった塩梅で、ひしめいていた。佐々木さんは、この3000社を次々に訪問し、顔を覚えてもらおうと、積極的に営業活動を行った。

 ギリシャには、海運王オナシスのような大財閥も存在するが、大企業は極めて稀で、ほとんどの企業は中小規模のオーナー会社である。「財布の紐を握っているのは社長だけであり、部下たちはどのような肩書をもっていても、決定権がないケースが多い」と佐々木さん。「これは、“お金に関して他人を信用しない”ギリシャ人のシビアな傾向の表れでもある。社長一人でできることには限りがあり、それ故、大企業に成長する会社がなかなか出てこないのでは」と分析する。

 冒頭のギリシャ語の話に戻るが、英語でも日本語でもお馴染の “エゴ”という言葉は、はギリシャ語で「私」の意味である。「(哲学上、言語学上の検証は定かでないが)この “エゴ”が単なるギリシャ語の一人称に留まらず、“自我”“自尊心”を示す言葉に派生し、ひいては“自己中心的”といった意味合いをもつ“エゴイスト”“エゴイズム”といった表現をも生んだのは、ギリシャ人の“他者を信ぜず、自己を中心に据える”一面に因るところが大きいのでは」―佐々木さんは、そう実感している。「彼らが、なぜ“エゴ”を大切にするようになったのか、それを考える上で忘れてはならないのは、ギリシャ人の源流がローマ帝国に400年支配され、その後オスマン帝国に400年蹂躙されたという歴史的背景。幾世紀にも亘り外的勢力の支配を受ける中で、ギリシャ人が代々その意識の底で“いつ何時、何があるかわからない”という警戒心を抱き続けたことは想像に難くなく、“非常時に信じられるのは自分や家族だけ”という思いが徹底するのも無理はない」と推し量る。ちなみに、日本社会では “嘘をついてはいけない”“人を騙してはいけない”と教えられるが、ギリシャでは 子供が幼い内から“人に騙されるような人間にはなるな”と教え諭すそうである。

 通常、ギリシャは地理的にも文化的にもヨーロッパの一員と考えられるが、佐々木さんが、実際に住んだ印象では、ギリシャにはヨーロッパとしての顔と中近東としての顔の二つが存在する。中近東方面から来ると“ヨーロッパの玄関口”であるギリシャを感じるが、出張でイギリスなどに出向いてから、再入国すると、中近東の雰囲気を強く感じるそうだ。前述のように、ローマ帝国、オスマントルコ支配下にあった時間が長かったこともあり、古代ギリシャ文明の遺跡群などを除けば“これがギリシャ建築”と呼べるような建築文化も育っていない。佐々木さんの赴任当時には、コンクリートの打ちっぱなしの家が多く、西欧の先進国にみられるような意匠を凝らした住宅はごく少数だった。

 さて、ビジネスを行う環境としては、“ギリシャは一筋縄ではいかない国”というのが佐々木さんの正直な感想であった。ギリシャ人はとにかく議論好きで、日本人の感覚だと“そこまで理屈をこねくりまわさなくてもいいのに”と思うほど、簡単なことでも難しく論じる。また、自分の間違いに対してすんなり謝らない姿勢にも戸惑った。加えて、「他者を信じない」という精神土壌の中で、契約を成立させるのは容易なことではなかった。交渉をまとめる過程はもちろんのこと、契約書にサインするまでたどり着いても、気が抜けないのである。ある時、1ドル250円だった円相場が、契約成立後に120円に下落したことがある。契約書には「為替の変動があった場合でも、円建てで全額支払う」と明記されていたが、ギリシャの取引先は「私は騙された。契約書などトイレットペーパーと同じだ」と豪語して契約を破棄してきた。「ギリシャでのビジネスは、“いかに裏切られないようにするか”を常に念頭に置いて進めねばならず、そのためには相手と友好的な関係を築くことが第一。人と人との絆をもたない限り、ギリシャで商売をしていくことは不可能。しかし、どんなに友好的な関係になれても、利害が絡めばギリシャ人の“エゴ”が頭をもたげ、ビジネスの障壁となることがある」―佐々木さんは、当時の苦労をそう振り返る。

 そうした数々の困難を乗り越える中で、佐々木さんは次の3ヶ言を自分に言い聞かせるようになった。(1)人は嘘をつく (2)お金は嘘をつかない (3)“貧乏人”とは仕事をしない。―(3)には語弊があるかもしれないが。“貧乏人”を馬鹿にしているわけではないのだと、佐々木さんは強調する。「交渉で双方が応酬し合うのは常だが、資金が潤沢にある会社は、どんなにうるさいことを言ってきても、最終的には支払うべきものは払ってくれる。しかし、そうでない会社を相手とすると、交渉で消耗させられた挙句に御破算となりかねない。そうしたリスクを避けるためには、相手の経営状況を事前にしっかり見極める必要がある」というわけだ。佐々木さんの赴任当時は、興信所や“ダンレポート”などを活用して企業の信用調査を行うことはできず、自身の目でリスク管理するほかなかった。佐々木さんは、交渉先の会社を訪れた際、「従業員が生き生きと働いているか」「事務所内が飾り立てられていないか」に注意し、判断の材料にした。前者は「従業員に給与がしっかりと支払われているか」を見る手立てであり、後者については、資金が乏しい会社ほどオフィスを豪勢に演出する傾向があるからだ。(オーナー会社が多いギリシャでは、税金対策上、事務所は極力簡素にしつらえるのが普通。オフィスは質素でも、オーナー自身が蓄財していることが多い。)

 佐々木さんのギリシャ駐在中の忘れられない大仕事は、1982年、ポーランドの造船会社とギリシャのある財閥(海運部門)を結びつけ、ポーランド製の貨物船5隻を販売する橋渡しをしたことである。ギリシャ側は、当初三菱重工製の貨物船を購入希望だったが、当てにしていた新造船が他国の顧客に回されることになったため、取引が無くなりかけていた。そんな折、ポーランドで製造された貨物船が販売予定先からキャンセルされ、行き場を失っているとの情報を英国のブローカーから入手した。ポーランド側の提示価格とギリシャ側の購入希望価格には大きな開きがあったが、「ポーランド側としては、船を遊ばせ、維持管理に出費し続けるよりも、何とかして売りたいはず」「ギリシャ側は、船が必要なはず」という両者のニーズを読んで、粘り強く交渉を続け、ついに価格の落とし所を見つけたのだ。佐々木さんは、その間、交渉及び引き渡しのため何度もポーランド北方の港町グダニスクに赴いた。当時のポーランドは戒厳令下にあり、(後年大統領となる)ワレサ氏が政府批判の咎で拘束されていた。ワルシャワの街のここかしこに銃を構えた兵士がいるような状況で、アテネ支店の上司には「奥さんと水杯を交わしてから行きなさい」と冗談にならないような言葉で送り出されたそうだ。

 船の引き渡しにあたっては、第三国であるドイツのキール港がその場所として選ばれ、ポーランド人2名、ギリシャ人1名、日本人2名(佐々木さんと本社派遣の三菱商事社員)、ブローカーの英国人1名が1台のマイクロバスに同乗。ポーランドから冷戦下の東西ベルリンを通過してドイツに入るという緊迫した行程を、(船1隻を納品する毎に)メンバーを変えずに繰り返した。交渉開始時には、ギリシャ人もポーランド人も互いを全く信用せず、契約成立後も「入金が先か」「納品が先か」のせめぎ合いがあったが、佐々木さん方が提示した妙案に双方が納得して1隻目の引き渡しが滞りなく完了。以後マイクロバスの行脚を重ねる内に、当初の不信感が嘘のように、メンバー全体が同志の如く団結したそうだ。

 さて、ビジネスの話が先行したが、佐々木さんのギリシャでの暮らしは、どのようなものであったのだろう。佐々木さん夫妻は、3階建て住宅の2階を間借りして住まいとしていた。ギリシャというと年中温暖のように思われがちだが、アテネの緯度は仙台と同じくらいで、冬の寒さが存外身に沁みた。住宅内の暖房は、各部屋の窓辺に配された管の中に熱湯を通して温めるシステムで、3階に住む大家さんが18時から22時までの間だけ通してくれた。

 当時、アテネには日本食の食材を入手できる店がなく、英国出張の折に沢山買い込んでくるのが常だった。日本からは出発時に醤油の10L缶を5缶持参したが、長期保存する間に水分が蒸発してとろりとした刺身醤油のようになってしまったとのこと。ラーメンが食べたいという佐々木さんのリクエストに応えるため、夫人は、市場で首だけ切られ、毛抜きした鶏を丸ごと一羽買ってきて捌き、(部位毎に小分けされ、パックされた精肉は売られていなかった)、鶏ガラの出汁をとってスープを作るなど手間暇をかけた。

 もっとも、当初はなかなか馴染めなかったギリシャ料理も、段々と夫妻の口に合うようになり、「レッチーナ」(ワインの一種で、樽の口をコルクではなく松脂で塞いだもの。松脂の独特の香りがする)や、「ウゾー」(白濁酒で、水で割るとカルピスのような色になる。ジントニックに近い味)を嗜みながら、「グリークサラダ」(トマト、きゅうり、玉ねぎをザクザク切り、ヤギの乳から作るフェッタチーズ、オリーブオイル、塩胡椒で味付けしたもの)、「ムサカ」(茄子と挽き肉を層状にして焼くオーブン料理)、「ドルマダキァ」(味付けしたご飯を葡萄の葉で巻いたもの)、「タラモサラダ」(ジャガイモとタラコを和えたもの)などを食すのも楽しみとなった。

 夏場の身近な娯楽は、野外での映画鑑賞だった。公園などの仕切られた一角に、観客用の椅子と白いスクリーンが設置され、日没後に映画上映が行われていたのだ(料金は当時150円〜200円程度)。星空の下で、スクリーンを眺めるその開放感が好きで、夫婦で時折足を運んだ。演目は、英米の映画、フランス映画、イタリア映画など様々だった。

 休暇が取れた時は、クレタ島、ミコノス島などをはじめとするエーゲ海の島々を訪れ、6年間で行った島の数は20を下らないとか。佐々木さんによると、エーゲ海の透明度が高いのは、ギリシャの山が主に石灰岩でできている“禿山”であるからとのこと。川から流れ出る水に山の木が流す栄養分がほとんど含まれないため、プランクトンが発生せず、濁りが少ないのである。佐々木さんが最も好きだったのはサントリーニ島(文末写真)で、2〜3日間ゆったり過ごして、英気を養った。

 佐々木さんは、ギリシャ人の間では、“Sasakis”(ササキス)という名で親しまれた。余談になるが、ギリシャ人の男性名は(クレタ島の出身者を除くと)末尾に“S”が付く。(注:アリストテレス、ピタゴラス、ソクラテスなどの古代ギリシャの著名な学者も、名前の最後はSである。また、2010年FIFAワールドカップに出場したサッカー・ギリシャ代表チームの選手名を見てみると、23名中19名が姓・名ともにSで終わり、4名が姓名のどちらかがSで終わる名前であった。)赴任後、 “Sasaki”はギリシャでは女性名なのでSを付けた方がよいと進言されたとのことで、以後ずっと公式文書以外では“Sasakis”で通し、初対面の人には“ego Sasakis”と自己紹介をした。

 ギリシャから帰任後、佐々木さんは船舶部門から航空機部門に異動になり、2000年から2003年まで米国のロスアンゼルス支店長を務めた。その後三菱商事を早期退職し、現在は小糸工業株式会社・営業本部国際部にて、航空機の座席の販売を担当している。「ファーストクラス・ビジネスクラスの座席は有名デザイナーがプロデュースすることも珍しくない。航空会社の予算内で、実用面・安全面に配慮しつつ、いかにデザイナーの意を汲み、そのスペックを具現化するかが我々の腕の見せ所。商社からメーカーに移ったが、“調整役”としての経験は今の仕事にも大いに役立っている」と語る。

 「交渉では、自分のパッションだけで突き進むのではなく、相手が何を期待しているのかをきちんとつかむことが大切。相手も自分もハッピーになるような “Win-Win”の形で妥結させることがギリシャ時代からの信条」とのこと。「今の仕事を引退したら、こうした国際ビジネスの要諦を、学生たちに実例を挙げながら講義してみたい。妻と共に、ゆっくりギリシャを再訪するのも楽しみ」と微笑むが、国際営業に多忙を極める佐々木さんの日々は、まだまだ続きそうである。

(齋藤志緒理)

サントリーニ島風景
サントリーニ島風景(佐々木 正氏撮影)