2008年12月01日

ラオス

血縁を越えた「家族」の意識

争いごとは好まず、和を重んじる国民性

 Yさんが、ラオスの首都ビエンチャンに着任したのは2005年であった。日本政府は「市場経済移行国」(中央計画経済体制から、市場経済体制への移行期にある国)の援助を進めており、東南アジア圏では、現在、ラオス、カンボジア、ベトナムがその対象国となっている。Yさんは、この援助政策の下、JICA(国際協力機構)専門家として派遣され、3年間教育関係のプロジェクトに携わった。

 ビエンチャンには、国民人口の1割にあたる約60万人が住む。主だった都市として、他にパクセ、サヴァンナケット、ルアンプラバンなどがあるが、首都も含め、どの都市も規模は小さい。国民の暮らしは、決して豊かとはいえない。貧困に由来して、乳児死亡率が高く(62.2%、2005年)、平均寿命は61.9歳(2005年)である。家庭の日常食も大変質素だが、「貧しい」ながらも、自給自足的な暮らしが機能しているため、飢饉が起こることはない。

 ラオスでは、暮らし向きが厳しい分、家族のつながりが強く、助け合いの精神が顕著である。ここでいう「家族」の概念はとても広く、祖父母、両親、子といった直系のつながりのみならず、伯父(叔父)、伯母(叔母)、従兄弟などが、大家族として、一つ屋根の下で暮らすことは珍しくない。Yさんは、同僚のラオス人に「あなたのご家族は何人?」と尋ね、「“多分”11人」という答えが返ってきて面食らったことがあるという。

 「家族」の範疇は、時には、血縁によらない関係にまで広がる。Yさんのカウンターパートだったラオス人男性A氏には、大学教授の夫人がいるが、そのA氏がある時、Yさんに「僕には結婚する前から娘がいたんですよ」と話してくれたという。A氏と夫人は互いに初婚同士。なぜ結婚前から娘がいたのか―そのストーリーはこうである。A氏の故郷の村で、ある貧しい夫婦の下に娘が生まれたが、養いきれないことが目に見えていた。そこで村長が、その娘を将来有望なA青年に託した。当時学生だったA氏は、赤子の内からその娘を引き取って学業を続けながら育て、十数年後にその娘が結婚するまで、養親としての役目を果たし続けた。A夫人も、婚約時にその事情を諒解し、結婚したその日から、養女の母親となって共に育てた。

 結婚後ではなく、独身時代に養子を迎えるのは稀有な話と思われるが、ラオスでは決して珍しいことではない。ラオス人には「持てる者が、持たざる者を助けるのは当然」という通念があり、A氏も、ごく自然に養父の役割を引き受けたのであろう。「家族」の意味合いの広さや、徹底した相互扶助の精神を浮き彫りにするストーリーとして、この話は、Yさんの心に大変印象深く残った。

 「相互扶助」といえば、こんな出来事もあった。ある時、メコン川が氾濫し、ビエンチャン市街が洪水に見舞われた。多くの人々が被災し、Yさん自身、一週間自宅から避難する事態となったのだが、洪水が発生すると、ほどなく周辺の村々から若者たちが派遣されてきて、浸水の恐れがある場所に土嚢を積み始めた。リーダーの指示の下、それぞれの持ち場できびきびと働く若者たち。日本人には、災害時の救援・復旧作業は行政や自衛隊など公的な組織が行うもの―という意識があるが、ラオスでは、地域コミュニティが連携して復旧活動に当たっている。Yさんは、それを目の当たりにし、この地では、コミュニティの連携が自治体、ひいては国家を支える基盤なのだという思いを強くした。

 こうしてみてくると、ラオス人は、他者との関係づくりにおいて、和を重んじ、自我を抑える側面があることがわかる。大家族での暮らしの中では、自分を中心にものを考えることはできず、常に他の家族と折り合っていかねばならない。また、他者を助けるのであれば、自分の時間や自由を云々してはいられまい。「このような環境で育つ故か、ラオス人は一にも二にも“争いごとを好まない”」とYさん。例えば、職場で、ちょっとした不満や要望があっても、それを口にすることはしない。伝えられない思いは蓄積されて一気に噴出するわけでなく、伝えないことで当人にストレスがたまるわけでもない。しかし、時には、何の“サイン”もない中で、突然、退職を切り出されることもある。一言言ってくれれば、意見を取り入れて修正する余地もあったのに―と思うものの、それができないのがラオス人の気質のようである。他者と波風を立てずに生きるための智恵といえば、そうなのであろうが、Yさんはラオス人スタッフの真意を読み取れずに困惑することも多かった。「世界には、何事につけ、言葉で意思表示し、交渉・議論して物事を決めていく国もある。日本人がそういう国に赴任すると、当初は“主張すること、主張されること”に慣れず、疲れを覚えるというが、ラオスではその対極の悩みを体験することになる」とYさん。

 Yさんが日本に帰任する日が近づくと、ラオス人の同僚が送別会を開いてくれた。送別会では、ラオスの伝統的な儀式「バーシー」が執り行われた。バーシーは、ラオスの民間信仰に則ったもので、祭司は(仏僧などの聖職者ではなく)その心得のある一般人が務める。結婚式や出産などの人生の節目や、歓迎・送別会の折、皆が心を一つにして、幸福や繁栄を願う儀式である。文末の参考写真をご覧いただくと、花で飾られた中心の祭壇から、白い糸が沢山伸びているのがわかる。この白い糸を参加者各人が一本一本両掌の間に挟んで、祭司の祝詞に合わせて祈る。祝詞が終わると、白い糸を祭壇から外し、皆がはなむけの言葉を贈りながら、Yさんの手首にお守りとして巻いてくれた。祭壇から伸びる沢山の糸、そして糸を通じて、つながっている同僚と自分―Yさんには、バーシーの儀式が、他者とのつながりを重んじて暮らすラオス人の生き様を象徴しているかに思えた。

 Yさんに、ラオス人と人間関係を築く際に心がけたことを尋ねてみると、「どこの国に行ってもそうだが、その国の人と一緒に過ごすこと。招かれる機会があったら、臆せずにどんどん入っていくこと」という答えが返ってきた。「ラオスでは、宴会には踊りがつきもの。宴もたけなわとなれば、必ずと言っていいほど踊りの輪ができ、皆が心ゆくまで踊る。そんな時は、見よう見まねでラオス人と一緒に踊る楽しみを共有すればよい。言葉ができなくても、恥ずかしがらずに一緒に踊れば、自然に輪に溶け込むことができるでしょう」とのこと。

 「踊りといえば…」Yさんは言葉を継いだ。ラオスには「シン」と呼ばれる、伝統的な長い巻きスカートがある。今や日常着は、ジーンズなど動きやすい格好に取って代わられているものの、女子学生や女性公務員は登校時や出勤時にシンを穿く決まりがある。シンには美しく刺繍が施され、それぞれの世代や社会的地位にふさわしい様々な柄目がある。彼女たちは、通勤・通学用のシンの他に晴れ着のシンも持っており、TPOに合わせておしゃれを楽しむ。「女性は、晴れの場に穿いていくシンを何着か誂えておくと、様々な行事に参加する際、役立ちます。シン姿で踊りの輪に加われば、現地の人たちとの距離もより縮まるでしょう」とYさん。

 家族を核とし、その延長に縁ある人々が連なり、網の目のように繋がり合って互助の関係を築いているラオス社会。信頼関係が培われれば、外国人であろうと、やはり“大きな家族”の一員として彼らの懐に受け入れられる。「ラオスに滞在する機会があったら、現地の人々との接点を大切に、ぜひそうした実感を味わってもらいたい」―Yさんは、朗らかな笑顔でそう結んだ。

(齋藤志緒理)

バーシーの風景

バーシー風景(Y氏ご提供)

2008年11月04日

ウガンダ

国内経済が低迷し、国民の大多数が困窮

ビクトリア湖湖岸域が抱える問題

 ビクトリア湖の北西岸に位置するウガンダ共和国。日本の本州と同じくらいの国土に約3000万人が住む。赤道直下にあるが、平均標高が1200メートルと高く、平均気温は年中21~23℃としのぎやすい気候だ。歴史的には、1962年に英国の植民地支配から独立するも、度重なるクーデターと内戦、政権交代で国情は安定せず、アミン大統領時代には独裁政治が敷かれた。1986年のムセベニ政権成立後は、政治・経済の建て直しが計られているが、大多数の国民の暮らしは未だ困窮の域を脱しておらず、一日1米ドル以下の生活を余儀なくされている人々も多い。(世銀がホームページで公開しているデータによると、2006年のウガンダの一人当たりの国民総所得は300米ドル)

 長年証券業界で活躍してきた古屋武夫さんは、こうしたウガンダの状況に心を痛め、数年来、東アフリカ貧困緩和プロジェクト*注1)に従事している。証券会社時代には、フランクフルト、香港、ロサンゼルス、ニューヨークなどに延べ14年の海外駐在歴があり、国際運用部長、外国部長といった国際部門の要職を歴任。現在はシンガポールの投資顧問会社のパートナーを務めている。

 ウガンダの首都、カンパラには電気と水道水は供給されているが、国土の大半では、きれいな飲み水の確保も困難な状況だという。古屋さんが訪れたある村では、子供たちがプラスチック製のタンクを抱え、片道3時間をかけて近くの湖まで水汲みに行っていた。帰りはタンクを頭の上に載せて歩くのだが、栓がないタンクの口に親指を差し入れて、水がこぼれないように押さえながら帰ってくる子供もいる。水汲みに行かずに飲料水を得るためには、村の水溜りの茶色く濁った雨水を沸かして飲むほかはない。古屋さんは日本で資金を集め、雨水をろ過する簡易浄水器を村単位に寄付する運動を続けている。

 さらに、ユニークな自立支援策として、ビクトリア湖沿岸地域で“エコビレッジ”の建設プロジェクトを始動させた。ビクトリア湖はアフリカで最大、世界でもカスピ海、スペリオル湖に次いで三番目の面積を誇る湖で、多くの固有種が生息しているところから“ダーウィンの箱庭”とも呼ばれる。しかし、近年は外貨獲得のために大型の肉食魚“ナイルパーチ”が放流され、豊かな生態系を壊しつつある。元々ビクトリア湖に生息していた魚は草食性で水中の藻を食べていた。しかし肉食魚のナイルパーチは湖内の在来種を餌にするため、藻がはびこり、湖が酸欠状態となる。そもそもナイルパーチは高価で、輸出に回されるため、地元の住民の口には入らない。在来魚が減って、伝統的な漁業が廃れていくため、住民の暮らしは一層困窮するという悪循環に陥ってしまうのだ。ウガンダでは、幹線道路沿いの住民に比べ、ビクトリア湖沿岸地域の住民の貧困の度合いが激しい。

 “エコビレッジ”は、住民が低予算で、自分たち自身の手によって、現在の劣悪な住環境を脱するための手立てとして構想された。古屋さんによると、エコビレッジは大きく4つのクラスター(円形の家の集合体)から成り、各クラスターは中央の給水塔(上総掘り井戸)を取り巻くように配置される。各クラスターには5つの住居があり、どの戸も「土嚢」を積み上げる工法で仕上げられる。材料の土さえあれば、誰でも簡単に建設技術を習得できるのが特長だ。耐震・耐火・弾丸非貫通の強度を備えており、構造上可能な直径は最大で8メートル。各戸にはそれぞれ一基の“土嚢野外バイオトイレ”と“鳥翼式風力発電機”が備え付けられる。(発電機は暴風時でも低速回転、低騒音。安価で入手しやすい材料で製造可能。)

 2008年9月、エコビレッジ第一号の建設を見守るべく、古屋さんはウガンダに飛んだ。現場では、地元の若者たちによって、次々と土嚢が積み上げられていった(写真参照)。第一号ビレッジは、エコビレッジ推進のためのモデルハウスとすると同時に、環境問題や貧困緩和に関心をもつウガンダ国内外の研究者や学生が集う“湖上大学”として機能させたいと心算している。

 ところで、ウガンダには、「ウガンダの父」と呼ばれる著名な日本人がいる。同国と四十数年に亘って関わり、現在もウガンダで縫製業を営んでいる柏田雄一氏である*注2)。柏田氏は、ウガンダ在住の日本人や、ウガンダ国民の信頼が厚く、日本政府がウガンダに大使館を開設する1997年以前には、外交の窓口としての役割も果たしていたほど。古屋さんも、柏田氏とは親交があり、柏田氏を通じてウガンダについて学ぶ機会も多い。

 清廉で汚職に対して厳しいことで有名な現ムセベニ大統領は、柏田氏の知己だが、そのムセベニ大統領が柏田氏に対して、日本への羨望の思いを口にするという。「日本は、欧米列強の圧力によって鎖国を解いても、英語を公用語にすることなく、自国の文化をついえさせることがなかった。そして世界に通用する国家となった。」ムセベニ大統領は、ウガンダにおいても、発展の過程で、その太い幹たりえるような精神的な支柱があればと模索し、かつての日本において「武士道」が果たしたようなスピリットが必要だと考えているという。複数の部族、複数の言語を抱えるウガンダの社会構成や、英国の統治時代に英語が共通語として長年使用されてきた歴史的背景を思えば、「英語を公用語としなかった」日本の状況と単純に比較はできないが、“ウガンダの言語と文化を次代につないでいきたい”という大統領の切々とした思いがそこにはある。

 古屋さんは、こうしたウガンダの指導者の心中に思いを馳せながら、持論を展開させる。「近年“グローバル化”が国際ビジネスの世界でのキーワードになっているが、グローバル化とは、“平均化”ではなく、むしろ、世界を遠心分離機にかけるようなものではないだろうか。中心に残れる国や人々はよいが、ウガンダの人々は、周辺に吹き飛ばされてしまう。ウガンダで、日本の知恵や経験が望まれている今、資金や施設建設などのハード面だけでは終わらずに、彼らの自立を支援するような援助や精神的サポートをしていくことが肝要だと思う。」

 「ウガンダの貧困は切実です。ウガンダ人の中には、一生を一キロメートル四方ほどの面積を出ずに暮らすのでは、と思うくらいの人もいる。身近に楽しめるかと思えるスポーツも、貧しい人々にとっては“金持ちのもの”。身体を動かせば、お腹がすく。お腹がすいても食べるものが十分なわけではない。同じお腹がすくのであれば、労働し、少しでも生活の糧を…という発想になるのです」と古屋さん。

 ウガンダ滞在中、古屋さんは、最低限の設備だけ整えたシンプルな宿に泊まる。そして、豆、メイズ、じゃがいも、米、バナナ、キャッサバなど、地元のものを食する。野菜は皆、無農薬でおいしく、蛋白源として貴重な山羊の肉はシコシコして噛みごたえがあるとのこと。古屋さん自身がルガンダ語、スワヒリ語などの現地語でコミュニケーションをとることはできないが、ウガンダ政府が識字教育に力を入れていることもあり、どの村に行っても英語が少しは通じる。無表情で、時に警戒感を表わす村民もいるが、こちらに敵意がないことを悟ると人懐こい笑顔を見せてくるという。

 証券や国際ビジネスの世界で “グローバル化”の渦を身をもって感じつつ、その巨大な“遠心分離機”から世界の最貧地域を守り、彼らの自立を支援したいと心を砕く古屋さん。成田空港からドバイを経由し、ビクトリア湖北岸のエンテベ国際空港まで片道20時間以上という移動距離は決して短くはないが、これからも地道に足を運び、ライフワークとして、プロジェクトを継続していきたいと抱負を語る。

(齋藤志緒理)

注1)
東アフリカ貧困緩和プロジェクト:ここでいう東アフリカとは、ビクトリア湖に面した3国(タンザニア、ケニア、ウガンダ)と隣接する2国(ルワンダ、ブルンジ)を含む地域を指す。上記5ヶ国はTICAD(アフリカ開発会議)の下で、“East African Community”(東アフリカ共同体)を形成している。

注2)
柏田雄一氏は1965年、33歳の時に、ヤマトシャツ(現ヤマトインターナショナル)の社員として、シャツ縫製工場の立ち上げのためにウガンダに渡った。順調に事業を拡張させるも、クーデターや内乱など数々の危難に遭う。1966年、オボテ首相による国王追放クーデターが起き、国王と同じブガンダ族が市中で殺戮された際、工場に押しかけたオボテ側の軍により、銃口を突きつけられ「ブガンダ族の社員を出せ」と脅されたが、即座に「NO」と拒否して、社員の命を守った。1985年には、社会主義的政治を行う、時のオボテ政権によって会社が国有化され、身辺にも危険が及んだため日本に帰国。国有化された工場は、結局経営難のために閉鎖されたが、2000年に競売に出されると知る。現ムセベニ大統領からのラブコールもあり、ウガンダの地に戻って自らの手で落札。同社を「フェニックス・ロジスティックス・ウガンダ」と名づけて再生させた。ウガンダ産の良質なオーガニックコットンを使ったシャツを生産し、世界市場を開拓中。(参照:日本経済新聞 夕刊「ひとスクランブル」欄“アフリカに不死鳥あり” 2008年6月2日~6日連載)


エコビレッジ建設風景(古屋武夫氏撮影)

2008年10月01日

モンゴル

厳しい遊牧生活から発した「合理主義」

モンゴル文化の真髄は草原の中に

 2006年、北海道・羊蹄山の東麓に居を構えた西村幹也さんは、2008年6月「NPO法人北方アジア文化交流センター・しゃがぁ*注1」を立ち上げた。1994年に「モンゴル情報紙しゃがぁ編集室」を創立し、以来モンゴルに関する情報を発信し続けてきたが、それをNPO法人の形にしたのは、モンゴルとの文化交流活動の地歩をさらに固めていくためである。

 西村さんとモンゴルとの縁は、1980年代半ばの大学進学時に遡る。元々国際政治に関心をもち、東アジア地域を専攻にと考えていたが、当時「米ソ対立」「中ソ対立」「米中接近」という構図の中で、ソ連と中国という大国に挟まれながらも、どちらにも呑み込まれずに独立を保っているモンゴルに目がとまったのだ。志望の東京外国語大学モンゴル語学科に進み、学問を重ねる中で、政治学や経済学では解釈できない人間の営みがあることを痛感し、「文化人類学」と「シャーマニズム」に目を向け始めた。シャーマニズムの研究は、人間と自然の関係を考えることにもつながる。厳しい自然と隣り合わせのモンゴルの人々は一体どのように世界を捉え、どう生きているのか―大学三年次、西村さんは、その答えを探求すべく、留学を決意した。

 当時、社会主義国だったモンゴルへの留学は容易でなく、西村さんは、1991年1月、中国の内モンゴル自治区内の内蒙古師範大学に留学を果たす。六ヶ月間、モンゴル語習得とシャーマニズム関連文献の収集に励んだ。中国国内には、天安門事件の余波が残り、内モンゴル自治区で学ぶ学生たちも、厳しい環境下に置かれていたが、学友たちは、異邦人である西村さんを親身に気遣い、生活・学問の両面で無欲に助けてくれた。その時の深い感謝と「彼らと一生付き合っていきたい」という思いが、今も西村さんの根幹にある。

 モンゴルは、1992年2月に「モンゴル人民共和国」から「モンゴル国」となり、西村さんは、同年10月から一年間、新生モンゴルの国立民族大学に留学。また1997年から1998年まで、国立外国語大学に留学し、フィールドワークを行った。日本でも博士課程に進み、研究機関や大学での職歴を積み重ねているが、西村さん本人は、「生涯フィールドワーカー」と自らを位置づけている。実際、10年前までは一年の三分の二を、現在も年に延べ1〜3ヶ月はモンゴルで過ごし、現地の動きを肌で感じている。

 「モンゴルのことを語り出すと、つい辛口になってしまうのです」―西村さんは、そう前置きしてから、率直なコメントを次々に繰り出した。「モンゴルの人々は、合理主義が徹底している。せっかく人間関係を培ってきても、自分に利がないと見ると、裏切ることがある」「これは、元を辿れば、草原での暮らしに因るところが大きい。厳しい自然が相手の遊牧生活では、他人の顔色を窺っていたら生きていけない。自分が全て決めていかなくてはならないから、自己本位に考える」「問題なのは、人々が秩序をもち、互いに配慮し合って暮らすべき都市に、そうした合理主義や自己中心的考え方を持ち込んでしまったこと」―西村さんの苦言は続く。

 「ウランバートルの人々は、遊牧民として生きる術はもう持ち合わせていない。遊牧民の自然観も理解しない。そういう人たちが国のことを決めていくことに危惧を覚える。例えば、利水の問題がある。社会主義時代に、草原に井戸が掘られ、利水が管理されていたが、社会主義崩壊後は、施設の管理をする者がなく、荒れるに任せていた。都市の資産家がそうした施設を修復して私有化し、誰のものでもなかった周辺の土地をも私有化して遊牧地にする。結果何が起こったかというと、“過放牧”だ。遊牧の基本は、季節によって放牧地を変え、草原の再生サイクルを保つこと。しかし、彼らは遠くの遊牧地まで家畜を率いていく手間を惜しみ、同じ地で放牧を繰り返すので、再生サイクルが機能しなくなる。家畜も不健康になり、先細り状態。経済利潤を優先して地下水を吸い上げてしまい、水脈の下流に住む遊牧民の暮らしのことは顧みない。」

 西村さんによれば、モンゴルの人々は「都市定住者」「遊牧生活者」に二分される。首都ウランバートルには全国民の三分の一強に相当する100万人が住んでいるが、近年都市民の中で、富裕層と貧困層への二極化が進んでいる。利権や経済力を手中にした富裕層に相対する勢力は、芽が育つ前に摘まれてしまうか、取り込まれてしまうのが常で、「強いものが正しい」といった有無を言わせぬ力学が働く。貧困層の人々の意識も、「強者の暴を正そう」というのではなく、「自分たちも彼らに続いて、豊かになりたい」という風に傾きがちだ。

 西村さんは、モンゴル滞在中は、ほとんどの時間を草原で過ごす。大抵は単独行動で、車で寝泊りするが、知り合いの遊牧民と遭遇すれば、彼らの「ゲル」に泊めてもらい、語らっていく。モンゴルの草原では、ゲルの主がもてなし、客がもてなされる・・・という構図は生まれない。泊まる側には、“外の情報を伝える義務”があり、その義務を果たすことによって、両者が対等な関係になるからだ。茫漠たる草原地帯では、人との遭遇も限られている。他所で何が起こっているのか、情報をもたらしてくれる人の到来は貴重だ。西村さんが宿を借りると、大勢の人々がゲルに集まってきて、「日本の話をしてくれ」とせがまれ、いつしか夜が明けてしまうこともあるという。

 「必要な時に、必要なものを、必要なだけ使う」―これは、西村さんが、遊牧民から学んだ草原の哲学である。フィールドワークのため、ある遊牧民一行と長期に亘って共同生活をしていたときのこと、冬の間、狩りに出かけるといってその中の数名が集団を離れた。一ヶ月後に彼らが持ち帰ったのは、何と鹿一頭だけ。“それだけ長く狩りに出たのだから、今後の備蓄のために、もっと沢山獲ってくればよかったのに”と思ったが、彼らは“なくなったら、また行けばいいさ”―とあっさりしたものだ。モンゴルの遊牧民たちは、自然界や森のことを“ハンガイ”と呼ぶ。“ハンガイは自分たちに恵みを与えてくれる大きな存在。ハンガイに対して欲深くなったらおしまい”と自然への畏敬の念を忘れない。「元々あるこうした草原の哲学を崩しにかかっているのが、前述のような、近年の都市民の価値観なのです」と西村さんは表情を曇らせる。

 西村さんは、現在、モンゴルと日本との交流のため、様々な活動を行っている。「しゃがぁ」オフィシャルサイトでの情報公開、自らモンゴルで撮影した写真の展覧会、講演会、そして馬頭琴奏者とカザフ*注2の民謡の歌い手を招聘してのコンサート開催などだ。コンサートはここ5年の間に170〜180回実施した。小学校で実施することも多く、子どもたちの心に少しでも何かを残すことができればと願う。毎年夏になると、モンゴルの草原へのツアーをプロデュースし、同行する。最近はモンゴル旅行の人気が高まり、快適なバスで、冷えたビールで喉を潤しながら草原をドライブ…といったツアーもあるが、西村さんの旅では、敢えて旧型でエアコンのないバスを使う。「暑さの中、埃にまみれてバスに揺られ、ようやく目指すゲルに到着すれば、ゲルのありがたみや、そこで出される一杯のお茶のおいしさがわかるというもの。」「自然の中では、一人でつっぱりきれなくなる。いばっても、格好をつけてもしょうがない。自分が“等身大”になれる。わが子にモンゴルの草原での滞在を体験させてあげたいと、親子でツアーに参加する家族もある。中には親や周りに心を閉ざした子どももいるが、日を経るごとに生気を蘇らせていく姿を見るのは嬉しいもの」自らも三児の父である西村さんは微笑む。

 「モンゴルが好きだからこそ、そのありのままの姿を見つめ、時には苦言を呈することも厭わずにいたい。そうして、ずっとモンゴルと関わり続けていくことが自分の願い」―力みなくそう語る西村さんは、モンゴル国のモンゴル人のみならず、中国の内モンゴルや、周辺の諸民族(カザフ民族やトバ民族など)の生活文化も視野に入れて、研究や交流をしたいと考えている。立ち上げたNPO法人の名を「北方アジア文化交流センター」と名づけたのはそのためである。

(齋藤志緒理)

注1)
しゃがぁ:モンゴル語で羊のくるぶしの骨のこと。一頭の羊からは二つの「しゃがぁ」が取れる。故に、家に「しゃがぁ」が沢山あるのは、羊を沢山食べられる証であり、豊かさの象徴ともなる。モンゴルの遊牧民の子供たちは、「しゃがぁ」を集め、おはじきとして遊ぶ。西村さんは、自分が文化交流のくるぶし=“joint”(接合部分)になりたいと考え、情報紙にこの名を冠した。

注2)
カザフ:カザフスタン人と誤解されることが多いが、モンゴル国内に在住するカザフ民族を指す。歴史上のユーラシア大陸での戦乱や、民族間の相克の中で、長い時間をかけ、現在のモンゴル国北西部に定住した人々。カザフの民謡は、“口承芸術”として親から子へと伝承されている。

ゲルと家畜たち
2006年夏・トゥブアイマグ。これから母山羊、子山羊で別々に分けられて放牧に出される。
(西村幹也氏撮影)

2008年09月01日

フィンランド

「個人主義」を旨とし、表裏のないフィンランド人

本に親しむ国民性、子供の教育にも見所あり

 フィンランド語の講師や通訳・翻訳、TV映像の翻訳などで幅広く活躍中の山川亜古(やまかわ・あこ)さん。子ども時代から北欧に関心を抱いていたという彼女は、北欧研究が充実している東海大学で博士課程まで進み、フィンランド語の基本を学び了えると、フィンランド政府の外郭団体・CIMOの奨学生として、1996年にヘルシンキに渡った。以来6年間の留学中、まずはヘルシンキ大学でフィン・ウゴル語(言語研究)を専攻し、2年後には中部都市のオウル大学に移籍して文化人類学を専攻、さらに2年後にはノルウェーのサーミ大学にも1年留学した。「サーミ」とは、従来の呼び方でいう「ラップ人」(ラップランドの人々:スカンジナビア半島北部に広く居住する先住民)のこと。関心の領域を、フィンランド語から北方のサーミ語まで拡げ、人々の暮らしや社会・文化の研究に勤しんだ。

 山川さんが、フィンランドでの留学生活を通じて特に感じたのは、フィンランド人の「個人主義」であったという。他人がすることについて、一々干渉しない。故に、周りの目を気にして、行動を萎縮させる必要もない。日本であれば、何か思い切ったことをしようとすると、周囲からまず“否定的な反応”を受けることが多い。「それは無謀ではないか」「年齢的に無理があるのではないか」「それがどう将来につながるのか」「失敗したらどうするのか」など。しかしフィンランドの人々はいたって前向きだ。山川さんが何か志を抱いて、知人に打ち明けると、押しなべて「やってみればいいのでは?」「失敗したらその時はその時」といった反応が返ってきたという。彼らのこうした姿勢に背中を押されるように、山川さんは、留学中もひとところにとどまらず、夢を実現させていくことができた。

 もちろん「個人主義」には、別の側面もある。行動の結果は自分ですべて引き受けなければならず、責任が常についてまわるのだ。身近な例でいえば、大学内の掲示板に「○月○日の○時限、○○先生の授業は、休講になりました」或いは「いついつに変更になりました」という小さな張り紙がしてあったとしても、学友が「そういえば、あの掲示見た?」と言葉をかけてくれることはない。休講と知らずにいつもどおり教室に行ってしまっても、補講日を知らないままで授業を受けられなくなっても、「あら、一言教えてあげればよかったわね。ごめんなさい」などといった言葉をかけられることはない。掲示を見なかった自分が悪いのである。

 また、日本的に「相手の心情を慮って、自分の思いや行動を抑える」こともない。例えば、日本では、友人を誘ってどこかへ行くことになった時、「あの人、来てくれるといったけれど、本当は忙しいのに、無理をしているのではないか。本当は別の場所に行きたかったのではないか」などと、言葉の裏をつい考えてしまう。しかしフィンランドの人々は、グループで出かけていても、つまらなくなったら、「私帰るわね」といった風に、別行動をとることもある。自分の思いに逆らって相手に合わせようというところがない。協調性が求められる日本の文化に慣れ親しんだ身として、山川さんは当初この率直さには驚いたものの、その内に、彼らのオープンさや「裏表のない態度」が逆にすっきりと、心地よいものに感じられてきたという。「個人主義」とは、あくまで「干渉しない」「個々人の行動を尊重する」という意味においてであり、こちらから助けを求めれば、見返りを一切望まずに、出来る限りのことをしてくれる。そうした気風のよさにも、感じ入るところがあった。

 北欧の冬は夜が長い。山川さんも、留学して最初の冬には太陽が恋しく感じられたりもしたが、じきに慣れていったという。最近は日本で、北欧の家具やインテリアが注目を集めているが、北欧家具のデザイン性が優れているのは、冬の間、長時間を室内で過ごす彼らが、少しでも快適な空間を―と知恵を絞ってきた賜物である。フィンランドでも、家具はもちろん、光の使い方、特に間接照明に工夫を凝らし、温かい居住空間を作り出している。

 また、室内で過ごす時間が長いためか、読書を愉しみとする人が多い。図書館の利用率はかなり高く、文学書が充実している。子どもの本にも良質なものが多くあり、フィンランドの子供たちは、幼い頃から読書の習慣を身につける。眠る前に親に「読み聞かせ」をしてもらっている子供も少なくない。

 近年OECD(経済協力開発機構)が行った学習到達度テストで、フィンランドは欧米先進国や日本・韓国など進学競争の厳しいアジアの国々を抑え、世界一を獲得した。いきおい、日本でも「フィンランドの教育にヒントを得たい」という声が上がっている。山川さんは、「日本人は、自分たちよりも優れた相手に対して、すぐに“ヒントは何か”“いいものを取り入れて改善しよう”という風に反応するが、事はそんなに簡単なものではない。言ってみれば、フィンランドの土壌そのものにヒントがある」と冷静に分析する。「少ない国民人口(注:2007年の統計で530万人)ゆえに、人材こそが国の財産という考え方が徹底しているフィンランドでは、大学まで学費は無料。少人数制で、行き届いた公教育。暗記が少なく、常に考えて書くことを求められるテスト。前述のように“本を読み、調べる”習慣も、浸透している。」「幼少時のしつけは厳しくはなく、ホームパーティでもそこらじゅうを子供たちが元気に走り回っている。このまま大きくなったらどうなってしまうのか―と思いきや、成長すると、常識ある落ち着いた大人になるのが不思議。自我を抑えつけないで育てる分、成長してから鬱屈することもないのでは。日本では全く逆で、昨今の事件を見ていると、成長の過程で抑えつけられたものが、大人になってから爆発しているように見える」とも。

 さて、フィンランドの夏についても言及しておこう。山川さんによると、フィンランドの夏は“ベリー摘み”の季節でもある。いちご、ラズベリー、ブルーベリー、ラッカ(黄色い実)、こけももなどが郊外の森でふんだんに採れるため、森に入ってベリー摘みに励み、一年分のジャムを煮る家庭も多い。自然が豊かなフィンランドでは、首都ヘルシンキでも一歩郊外に出るとすぐに森があり、森にサマーコテージを建てる家族もある。摘み取って加工したベリーはビタミン源として一年中重宝する。

 フィンランド料理は、魚料理が主流で、ニジマス、カマス、鮭などを食する。夏至祭の頃には新ジャガ、その後ザリガニが出回り、10月にはバルト海産のニシンが水揚げされる。肉料理としては、牛肉のミートボールにマッシュポテトとこけもものジャムを添えたものが有名だ。主食のライ麦パンは、風味豊かで栄養価も高い。野菜は、トマト、きゅうり、パプリカなど輸入物ながら、常時手に入るとのこと。

 山川さんは、現在も、一年に一度は研究のため、そして友人を訪ねてフィンランドに足を運んでいる。会えば家族ぐるみでもてなしてくれる友人に、感謝の思いが尽きず、どうしたらお返しができるのだろうと悩んだこともある。しかし、「何よりもありがとうの一言、そして全てを受けとめて、喜びを身体一杯表現すること。日本に帰ったら御礼状を一筆書けば気持ちは伝わるもの」と感得した。

 フィンランドで学んだ「やりたいことがあったら臆せずに前に進む」という指針は、今も山川さんの歩みを支えている。フィンランド語学習者も徐々に増えつつあり、山川さんの出番も増えた。「“ムーミン”を原語で読みたい」「フィンランド人監督、アキ・カウリスマキの作品が好きで」「映画“かもめ食堂”(ヘルシンキを舞台にした人間模様。2005年:荻上直子監督)を観てフィンランドに惹かれ」など動機は様々だ。そうした学生の思いに応え、教室でフィンランド語を手ほどきしつつ、わかり易い教材の編集出版にも努めている。サーミ言語文化の研究者として、北フィンランドの地域文化を伝承することも大切なライフワークだ。今後、山川さんの発信する情報によって、日本人がフィンランドを知る機会が益々増えていくのではないだろうか―そんな楽しみな思いを強くした。

(齋藤志緒理)

フィンランドの食卓風景

山川亜古氏撮影。

イーサルミ(Iisalmi)にある友人の実家での食卓風景。友人の母(写真右端)が着ている赤と白の模様の洋服は、フィンランドの有名デザインブランド、マリメッコ(Marimekko)のもの。同ブランドは日本にも出店している。

2008年08月01日

カンボジア

発展の礎となる帰国留学生たち

「地雷」や「貧困」だけではないカンボジア像を

 カンボジアの首都、プノンペン出身のエアン・リーナさんは、カンボジア政府の国費留学生に選ばれて2002年に来日した。東京外国語大学で日本語学習をゼロからスタートさせ、猛勉強の末、翌年には東京大学教養学部1年に入学。現在は、同大学大学院修士課程で経済学を専攻している。

 エアンさんの両親は、ポル・ポト政権下(1975年4月17日?1979年1月7日)、全都市民を強制的に農村に送る政策によりプノンペンを離れることを余儀なくされた。父は二十代、母は十代の若さだった。待っていたのは共同農場での労働。100万人とも200万人とも言われる国民が犠牲になったポル・ポト政権時代、知識人は特に敵視され、学校教育も完全に停止した。この時代、母親は悲しいことに実母(エアンさんの祖母)と生き別れ、弟を食中毒で失ってしまう。ベトナムの侵攻によって、ポル・ポト政権が崩壊し、ヘン・サムリン政権によるカンボジア再建が始まると、母は兄姉と共にプノンペンに戻り、大家族で励まし合いながら再起を図った。エアンさんの母は末娘だったため、先に結婚した兄姉の子供たちの面倒を任されることになり、改めて学校教育を受ける機会はとうとう巡ってこなかった。

 エアンさんの両親は、その後プノンペンで出会い、1980年代前半に結婚。エアンさんと妹の二女を授かると、十分な学校教育を受けられなかった自分たちの夢を託すかのように、娘たちの勉強を熱心にバックアップした。当時、道路・電気・水道といったインフラはまだ不十分で、エアンさんの子供時代も、中学三年までは校舎には電気が引かれていなかった。学校は朝7時?11時と午後1時?5時までの二部制で、午前・午後の登校のシフトは月ごとに入れ替わる。午後の部を5時に終えると、今度は希望者のための課外授業(学費は別途必要)があり、それが夜7時まで続く。真っ暗な校舎で授業を受けるため、一人が一本ずつろうそくを持参して机に立て、先生を囲むように座って授業を受けたという。帰宅すると、今度は父親が勉強をみてくれた。常に1?2学年先の教科書を使って先行学習し、父はテキストの各課のポイントだけ説明すると、後は自分で練習問題を解いていった。

 こうした努力が実り、学校では常に優等生だったエアンさん。同居していた4歳年上の従兄の存在も大きく、彼がいつも一歩先を進んで、エアンさんの人生行路を照らしてくれたという。その従兄の話を聞く中で、いつしか「高校卒業後は海外に留学しよう」という思いが膨らんだ。留学先としては、日本の他に、ベトナム、中国、ロシアといった社会主義国が並んでいたが、エアンさんは、「第二次世界大戦の敗戦後、わずか数十年で世界の経済大国に変身した日本の素晴らしい教育システム、優れた技術・社会制度を学びたい」と日本を選んだ。

 「来日してからは、語学面で苦労し、今までは常に一番だった自分が、初めて逆の立場を味わった。でも、東大の学友たちは優しかった。手を差し伸べ、 “共に助け合おう”という姿勢で接してくれたのが、何より嬉しかった」と語る。

 来日して丸6年になる現在、エアンさんは、在日カンボジア留学生協会の司会通訳や、日本国際協力センターの青年交流プログラム(カンボジア高校生の訪日)のコーディネーターを務め、日本アセアンセンター主催のカンボジアへの投資視察ミッションに通訳として同行した経験ももつ。さらに、財団法人 国際教育映像協会の「留学生が先生!」教育プログラムの講師として、関東圏の小中高校に出講するなど、学業以外でも活動の幅を広げている。「日本の教育環境は本当に恵まれている。でもそのことに子供たち自身は気づいていない。カンボジアでは、今でも生活を支えるために学校に行かれない子供たちが多い。私は、自分が勉強をさせてもらえる環境に生まれたことを運命だと思い、与えられたチャンスを無にしないよう心に刻んでいる」と表情を引き締める。

 「カンボジア人は、日本人にとても親近感をもっている。日本は対カンボジアのODAで、No.1の国。道路や橋など、日本の援助で造られたものについては、地元の人は皆それを知り、感謝している。例えば、今まで川を隔てて行き来が困難で、交通手段は渡し舟しかなかったような場所に橋が架けられると、両岸の町が結ばれ、車でも移動できるようになる。こうしたインフラの整備が、人々の暮らしに与える影響は計り知れない」とエアンさん。「カンボジア人の日本に対する思いを考えると、日本にとってカンボジアは、まだまだ“近くて遠い国”なのではないか」と言葉を添えた。

 ところで、カンボジア人にとっては、“笑顔”がとても大切だという。コミュニケーションをとるときは、必ず目を合わせて、相手に微笑みかける。「日本では、丁寧な言葉を使っていても、表情が硬い人がいて、当初は戸惑った」そうだ。そう言われてみて、改めて、エアンさんの笑顔の明るさに気づかされた。「もちろん、いつでもということではありません。悲しい話、深刻な話をするときは、笑っていられないこともあるでしょう。でも相手への友好的な思いを伝えたいときは、笑顔が一番です」と、また微笑む。

 もう一つ、日本で気になったのは「帽子」だ。エアンさんは、日本で、他人の家の玄関に入っても、また目上の人に挨拶するときも、帽子を被ったままの人を見て、驚いたことがあるそうだ。カンボジアでは、身体の中で「頭」が一番大事な部位。相手に敬意を表する際、帽子を取らないのは礼儀違反になるとのこと。

 「日本人は勤勉で、時間をよく守る。また社会のマナーや道徳意識も高い。」―エアンさん自身の日本評価は、すこぶる高い。「反道徳的な事件を報ずるニュースが後を絶たず、“道徳”や“社会規範”といった言葉も、空回りしているかに感じられる昨今の日本だが」と敢えて私感をぶつけてみたが、エアンさんの目には、日本がまぶしく映る部分が多いという。リップサービスではなく、心底そう感じているのだといった風に、見つめ返された。

 「日本でのカンボジアの報道のされ方には、違和感を覚える」とエアンさん。世界遺産・アンコールワットは観光資源として着目されているが、ことカンボジア社会の話題となると、地雷除去の話、井戸を掘るために日本からカンボジアに渡っている青年の話など、内戦の痛手と、貧困の状況が報道されることが多い。「発展しつつある都市部の姿や、活気ある人々の暮らしぶりなどにも、ぜひ目を向けてほしい。今から5年後のカンボジアの姿は、大分変わってきているはず」と力強く述べた。

 エアンさんは、日本で修士号を取得したら、母国に帰る予定だ。カンボジア政府派遣の留学生には、国費留学生によくある「卒業後は必ず国に帰らねばならない」という制約がないそうだ。学位を得たら、そのまま留学先に残るという選択肢もあるのに、海外留学生はそのほとんどカンボジアに帰るという。それだけ、母国や家族への愛着と、自分たちの学識を母国の発展のために活かしたいという思いが強いのであろう。エアンさんは、日本で出会った同郷の国費留学生と3年前に結婚し、一時帰国して挙式した。夫は3ヶ月前に学業を終え、カンボジアに帰国したばかり。「夫は、政府機関に奉職したいと、今就職準備をしているところです。私も帰国後は、公務員として、カンボジアの発展のために貢献したい」と抱負を述べる。

 「カンボジア人は、自分を大事にし、そして家族を大事にします。結婚したら、自分の親を大事に思うように、夫の両親を大事に思います。そして夫も同じように考えてくれます。日本で、“嫁姑”など、家族の問題が取り沙汰されるのを見るにつけ、どうしてそういうことが起こるのか、私には不思議に思えてなりません」とエアンさん。帰国後は、家族という一番大切なものを守りながら、夫婦手を携えて、それぞれの専門をカンボジアの未来のために活かしていってくれることであろう。

(齋藤志緒理)

エアン リーナさん

エアン・リーナさん

2008年07月01日

ニュージーランド

“質実剛健”なニュージーランド人

余暇にはアウトドアスポーツを満喫

 現在、東京理科大学大学院で「自動車産業論」を教えている吉田邦夫さんは、本田技研工業に在職時、1988年から3年ほどニュージーランドに赴任した。海外赴任はベルギーに次いで二度目。与えられたミッションは、ホンダが買収した元英国資本の自動車組立会社をホンダ・モーター・ニュージーランドとして立ち上げ、経営することであった。元々首都ウェリントンにあった本社を最大都市のオークランドに移し、社長として600人の現地従業員を束ねた。

 「ニュージーランド人は、英連邦の国々の中でも、どちらかというと遠慮がちで、シャイなところがある」と吉田さん。現地のエンジニアに「こういう方法を試してみたいのだがどうだろうか?」と打診すると、「わかりました、ミスター・ヨシダ。やってみます」と言って現場に帰っていく。しばらくして、困難な様子が見て取れたので、改めてそのエンジニアを呼び、「あの方法ではやはり難しいのでは?」と尋ねたところ、「はい。実は私もそう思っていました」という答えが返ってきた。「だったら、最初に聞いた時に、そう言ってくれればいいのに」という思いが湧いてきたが、“その場ではストレートに言わない”のが彼らのスタイルだと気づかされ、相手の思いを汲み取り、察することの必要性を感じた。仕事に対する姿勢は大変真面目で、勤勉。実直さを感じさせられることが多かったという。

 歴史を辿ると、ニュージーランド人の祖先は、英国の農村から移民してきた人々で、その痕跡は、英語のアクセントにもみられるという。(ニュージーランド北島の英語はイングランド中部の言葉、南島のオタゴ地方の言葉はスコットランドの言葉に近い。) いわゆる“オックスブリッジ”(ケンブリッジ大学やオックスフォード大学)出身者に代表される英国の上流階級は移民してこなかったため、英国文化の中でも貴族文化的な価値観はニュージーランドにもたらされなかった。現在のニュージーランド人の間にも経済格差はあまりなく、基本的に“皆が中流”という意識がある。

 ニュージーランドの緯度は、南北を逆転させれば日本列島とほぼ同じだが、西岸海洋性気候の影響で冬の寒さも山間部を除けばあまり厳しくない。主産業の酪農でも、年間を通して牧草地が枯れないので、畜舎を建てず、基本的に放牧制をとる。(羊や牛が牧草を食べ尽くさないよう、エリアを決めて定期的に移動させる。)夏の間に越冬用の芝草を備蓄する必要もなく、僅かな人手と牧羊犬で管理ができるため、牧畜のコストが大変低く抑えられ、それがニュージーランドの乳製品や畜産品の競争力につながっている。ちなみに、牧草だけで育った牛の肉には独特の匂いがあり、また日本人好みの“霜降り牛”を生産するために特別な飼料を与えることはないので、ニュージーランド・ビーフの日本向け輸出は隣国のオージー・ビーフ程多くはない。ニュージーランド人からは、「牛は牧草を食べれば自然に育つのに、なぜわざわざいろいろな混ぜ物をした飼料を与えなければならないのか」という感覚で捉えられるという。

 ニュージーランドは全人口が400万人、と東京都民の約三分の一なのに対して、国土は日本の四分の三である。山がちな地形、人口に対する国土の広さ(安定した利用客数の確保の難しさ)から、鉄道網を発達させるには不向きで、今も国内交通では、航空機と自動車が主な移動手段だ。ニュージーランド人には何事につけ“実質本位”なところがあり、自家用車も新車ではなく中古車を求める人が少なくない。同じ右ハンドルということで、整備の行き届いた日本の中古車は市場価値が高いという。

 質実剛健で、“皆が中流”という、いわば「横並び」の意識をもって暮らしているニュージーランド人だが、外国人として赴任生活を送った実感はいかがであったか、吉田さんに聞いてみた。

 仕事外では、何よりも隣近所の住人たちとの交流が印象的だったとのこと。オークランドでは、両側に15軒ほどが並ぶ住宅街の一軒家を借りて住んだが、引っ越して1ヶ月ほどしたある日、近所の人に「今度ホーム・パーティをやりますから、ぜひ参加してください」と誘われた。当初は事情が分からなかったが、その住宅街では、親睦のために“プログレッシブ・ディナー”と呼ばれる会を定期的に開いていることを知った。興味深いことに、パーティは毎回3軒の家がホストを担当し、“前菜はAさんのところで。メイン・ディッシュはBさんの家。デザートと食後のお酒はCさんの家”と客が順に移動していくのだ。第一の家に集まるのが夕方6時か7時。チーズなどのオードブルとワインで歓談する。続くメイン・ディッシュの部では、子供たちも集合して、にぎやかに庭でバーベキューをする。夜が更けてくるとミセス達が子供を寝かしつけに一旦帰宅し、第三の家で再び合流して食後の時間を過ごす。様々な話題を楽しみ、散会するのはいつも夜11時くらいになる。

 こうしたパーティは、半年に一度くらいの頻度で行われ、幹事役は3軒単位で移っていく。次に幹事役が巡ってきたときには、前回と同じ役割分担にならないよう配慮する。そもそも、ニュージーランドのパーティ料理は、オーブンで肉や野菜を焼くなどのシンプルなものが多いので、メイン・ディッシュの担当となっても、さほど気を張らずに済むようだ。招かれるほうもカジュアルな服装で全く問題ない。仕事を離れた交友の場として、吉田さんにとっても貴重な機会となった。ニュージーランド人は、前述のようにシャイで、決して開けっぴろげではないのだが、こうしたきっかけを機に人間関係の輪に飛び込んでみると、実に屈託のない付き合いができる相手であるという。

 自然が豊かで、住環境としても申し分ないニュージーランド。日本の大都市が抱えるような通勤ラッシュや渋滞もなく、ちょっと郊外に足を延ばせば牧歌的な風景が広がる。(ニュージーランドでは、羊の数が全人口の約20倍と言われる。)日頃のストレスを癒そうと、日本からニュージーランドを訪れる観光客も少なくない。しかし、こののどかさが、ニュージーランドに長期滞在する日本人の“逆ストレス”になることがあるという。旅行者として短期間過ごすのであればいざ知らず、長く暮らすとなると、恋しくなるのはいい意味での刺激、例えば 音楽会や美術展に足を運ぶ楽しみや、広いショッピングストリートをぶらりと歩くといった楽しみだ。

 「そういう意味で、ニュージーランド生活を満喫できるのは、屋外スポーツが楽しめる人でしょう」と吉田さん。ゴルフ、スキー、マリンスキー、ヨットなど、アウトドアスポーツの種類は豊富だ。特にヨットは、“平均的な家には、車が一台と、ヨットが一艘ある”というくらい、国民に身近なスポーツ。ヨットといっても、港に係留しておかねばならないような大型のものではなく、1~3人乗りの小型のもので、各屋の庭先に置き、海に出る日は、それを台車に載せて近くの浜まで自家用車で牽引していく。ニュージーランドの家庭では、男子も女子も幼い頃から親とヨットに乗り、操舵法を覚えてしまう。

 ニュージーランドには地勢上、湖や渓流が多いため、釣り天国でもある。また、南島は“南アルプス山脈”に貫かれ、山登りやトレッキングの場所に事欠かない。有名なのはミルフォードにあるトレッキングコースで、3000m級の山々を一週間かけて、ガイドと共に踏破するというものだ。

 「こうした自然環境を堪能するためには、渡航前に得意なスポーツを一つでも作っておくことをお勧めします」と吉田さん。現地で一から始めるのでも遅くはないが、余暇を満喫するために、予め何か楽しみの種を見つけておけば、“逆ストレス”に陥ることもないかもしれない。スポーツをきっかけに現地の人たちとの交流が深まれば、滞在が尚更心に残るものとなろう。

(齋藤志緒理)

写真提供:佐藤惣一氏

クィーンズタウンとワカティプ湖。
クィーンズタウンは、ニュージーランドで最も人気のある観光スポットで、ミルフォード・サウンドへのフィヨルド観光やミルフォード・トレッキングの出発点でもある。あまりにも風光明媚ゆえに「女王陛下の町」と名づけられたと言われる。(吉田邦夫氏)

2008年06月02日

ブルガリア

ホスピタリティ豊かなブルガリア人

“実際的・現実的”であることを重んじる国民性

 「日本では、ヨーグルトばかりが有名だが、それ以外のブルガリアの姿を伝えたい」−国際基督教大学・比較文化研究科博士課程に留学中のマルコバ・カテリナ・キロバ(Markova Katerina Kirova)さんは、特定公益増進法人/財団法人 国際教育映像協会の「留学生が先生!」教育プログラムの講師に応募し、学業の合間を縫って、積極的に各地の小・中・高校に出講している。

 日本に興味をもったきっかけは、12歳の時に見た映画「将軍」*注)だった。ブルガリアでは1989年に共産党体制が終焉するが、それ以前は、共産主義を礼賛・啓蒙する作品や、アメリカを敵視するようなスタンスの映画以外は、上映が許されなかった。しかし、ブルガリアの当時の政権に利害関係がない、日本の歴史ものがたりは検閲で排除されることがなく、「将軍」も、ブルガリア市民に鑑賞される機会があったのだ。マルコバさんは、その後、国立ソフィア大学の日本学科に進み、1999年に国費留学生として初来日した。

 「日本人がブルガリアで、最初に驚くのは“相槌の打ち方”でしょう」とマルコバさん。ブルガリアでは、“はい”といいながら首を横に振り、“いいえ”といいながら頷く。ブルガリアに出張した日本のビジネスパーソンが、交渉でどんなによい提案をしても、首を横に振り続ける相手に戸惑うケースもあるという。また、「ブルガリアのレストランで、メニューの意味がわからない日本人旅行者が、店員に尋ねたところ、店員がメニューの料理名を一つ一つ説明してくれた。日本人がその都度首を横に振り、最後の一品であったオムレツのところで、ようやく頷いたところ、オムレツを除く全ての料理がテーブルに並んだ」という逸話もあるという。(ブルガリアには元々食べ物を多めに注文する習慣があり、店側には不審に思われなかった模様。)

 ブルガリア人のコミュニケーションのとり方については、「何かを伝えたいときは、ある程度言葉で説明しないとわかってもらえない。かといって逐一細かく伝えるのでは、相手が煩く感じる。その匙加減が、案外難しいかもしれない」とのこと。「日本人にとっては、ブルガリア人の言葉がストレートに感じられることがあるかもしれないが、相手を傷つけるつもりは毛頭ないので、あまり考えすぎないほうがよい」とも。

 「ブルガリア人の特徴を表わすキーワードは、“ホスピタリティ”そして“実際的・現実的(practical)であること”の二つです」とマルコバさん。まず、前者については、何よりも、友人知人を家に招く機会が多い。経済的余裕にもよるが、週一回以上客人を迎える家庭もあり、また沢山の料理でもてなすのが通例だ。招かれたほうは、返礼に招き返すのがベストだが、家の広さが十分でないなど、それがかなわないこともあるので、パーティにそれなりのお土産(お酒が主流)を持参して誠意を表わす。連れがある場合は、連れの分も合わせて手土産を用意する。

 ブルガリアの料理は、バルカン半島の食文化(ギリシャ、トルコ、セルビア、マケドニア、ルーマニア)に共通するものがあり、中央ヨーロッパ(ポーランド、チェコなど)の料理とは系統が異なる。トルコや中東の料理に近いが、中東と違うのは、豚肉も食する点である。たんぱく源としては、鶏肉と豚肉を同じくらい食べ、次が牛肉で、三番目に魚が来る。(黒海に面している地方では鯖などの海の魚も食べられるが、それ以外の地域では、鱒などの川魚を主に食す。)ヨーグルトを使った料理も多く、ズッキーニを天ぷらにし、塩味のヨーグルトソースに漬け込んだ料理など、大変おいしいという。

 ブルガリアでは、お酒のつきあいが重んじられ、ホームパーティでは、まずラキーアと呼ばれる食前酒(葡萄から作るアルコール度40度のお酒)が供される。8時にパーティがスタートしたとすると、チーズやサラダをつまみ、ラキーアを少しずつ飲みながらゆっくりといろいろな話をし、10時くらいになってようやく食事が始まる。食事に入れば、お酒はビールかワインに切り替わる。

 日本人がブルガリアのホームパーティに招かれた場合、招き主である知人は英語ができたとしても、家族全員がそうとは限らない。せめて挨拶や、自己紹介くらいでもブルガリア語でできるようにしておくと大変喜ばれる。元来ブルガリア人は外に対して壁を作らないので、外国人であっても、一緒にお酒を楽しみ、同じ料理をいただくだけで、先方に“私たちの家族”といった迎えられ方をするという。

 二つ目のキーワード、“実際的・現実的であること”については、マルコバさんはこう述べる。「ブルガリア人は、いろいろと工夫し、新しいやり方を考えることを好みます。これは暮らしに密着した場面から、広く民族問題への対処にも通じるものがあります。ブルガリア国民はブルガリア系が80パーセント、トルコ系が10パーセント、その他ロマ人などから成っています。圧倒的多数をブルガリア系が占めていることによる安定もあるでしょうが、それ以上に、ブルガリア人には、無意味な争いや、対立・競争を避けたいという思いがあるのです。どうしたら多民族が平和に共存していけるか方策を講じ、不満が生じないようにしていることで、対立が先鋭化しないといえます。」

 「かつてブルガリアでは、一滴も血が流されずに共産主義が終わりましたが、そのことをブルガリア人はとても誇りに思っています。ブルガリア人は、なんらかの理想や思想に夢中になったり、概念に燃えることはなく、“それをすることにどういう意味があるのか”を考え、実際的であると判断すれば行動します。結果的に“平和主義”のように見えますが、その実は現実主義者なのかもしれません。」

 博士論文完成まで、あと2年を残しているというマルコバさん。その研究テーマは「武士思想における和解の概念」とのこと。映画「将軍」をきっかけに日本に関心を抱いた少女が、着実に歩みを進め、今や日本文化に深く分け入って、研究を進めている。「将来の夢は小説家になること。いろいろな宗教・文化を背景とした人たちが出会い、互いを尊重しながら生きていくことの大切さを訴えるような小説が書きたい」と希望を語る。才能とバイタリティにあふれた彼女が、ブルガリア、日本そして国際社会で活躍の場を広げていってくれることを祈りたい。

(齋藤志緒理)

注)映画「将軍」:1980年公開のアメリカ映画。主演のリチャード・チェンバレンがウィリアム・アダムス(三浦按針)を演じ、日本からは三船敏郎、島田陽子らが出演。

首都ソフィアの風景

写真 注)
首都ソフィアの街の風景。EU加盟後とあって、EU旗とブルガリアの国旗が並んでいるのが大変象徴的。背景に写っているのは国立博物館。首都の中心部では、車両の進入が制限されており、この写真にも車がほとんど写っていない。
(2007年3月 マルコバ・カテリナ・キロバさん撮影)

2008年05月01日

イスラエル

「世界の力学」が見えてくる国

イスラエル、パレスチナ双方に目配りを

 JETRO(日本貿易振興機構)の村橋靖之さんは、1999年6月から2003年11月までの4年半近くを任地イスラエルで過ごした。与えられたミッションは、テルアビブ事務所で、日本とイスラエル、及びパレスチナとの貿易、投資、産業交流の促進を図ること。1990年代半ばには、4年間マレーシアに駐在しており、二度目の海外赴任生活であった。
 村橋さんがイスラエルに渡る一ヶ月前には、総選挙で労働党のバラク氏が、現職のネタニヤフ首相を破って、政権の座についたばかり。中東和平を頓挫させてしまったネタニヤフ氏からの政権交代により、和平プロセスが本格的に再開するものと、国中で期待が高まっていた時期だった。ITを中心とするハイテクブームにより経済は好況で、1999年から2000年にかけては、祝「ミレニアム」ムードの中、イスラエルを訪れる観光客の数がピークを迎えた。村橋さんは、こうした追い風を感じつつ、日本とイスラエルの経済交流が今後益々活発になっていくことを期して、職務に励んだ。
 しかし、2000年9月、和平の流れに逆行する出来事が起こった。当時リクード党の党首だったシャロン氏(2001年には首相に就任)が、ハラム・アッシャリフ(注1) に上って、イスラエルの威信を誇示。これがパレスチナ人の感情を逆撫でし、反イスラエル蜂起の発端となったのである。更に2001年9月11日の米国同時多発テロを経て、イスラエル国内では、ハマスなどの過激派が跋扈、治安が不安定になり、経済活動も停滞。日本企業はイスラエルへの投資を手控え、既に進出していた企業も続々と撤退していった。ようやく情勢が落ち着きだしたのは、村橋さんが帰国する2003年頃のこと。「4年間の間に、一番よい時期から、どん底に至る経過、そこから上向きになっていく情勢を経験しました」と村橋さん。「オスロ合意(注2)の後、時間をかけて、イスラエル、パレスチナ間で信頼関係を作ってきたのに、一瞬の出来事でそれが簡単に崩れ去ってしまう虚しさ」を味わったという。
 パレスチナ問題は、単純にユダヤ人(注3)対パレスチナ人(アラブ人)といった民族の対立や、ユダヤ教対イスラム教といった宗教の対立の構図で説明できるものではない。村橋さんによると、本質的には土地の所有を巡る問題であり、それがイスラエルによる「占領」という形で固定されていることが問題という。占領によって、パレスチナ人は移動の自由が制限され、水や電気などの社会的インフラもイスラエルによって管理されている。「パレスチナ人による自爆テロなどの激しい行為は、イスラエル建国以来、占領によって、50年以上抑圧され、鬱屈していた思いが爆発した結果である」と村橋さんは見る。一方のユダヤ人については、「ホロコーストではユダヤ人6百万人が虐殺されたという。民族として命が絶滅の危険にさらされたという過去は、彼らの中で拭い去ることのできないトラウマとなって世代が変わっても連綿と受け継がれている。ユダヤ人にとって“安全の確保”は絶対の命題であり、自分たちの命を守るという強い意識はわれわれ日本人には到底わからない。パレスチナ過激派のテロ行為に対する非情と思える報復攻撃の根底にはそうした恐怖心が存在している」と解釈。更に「安住の地を求め、父祖の地への“回帰”を願って建国したユダヤ人、それによってそれまでの居住空間と主権が奪われてしまったパレスチナ人―と、彼らが共に“被害者”であることが、問題を難しくしている。その被害者意識ゆえに、互いを思いやる余裕が生まれにくい」と、一歩下がって、両者の立場を慮る。
 村橋さんの洞察は、赴任中多くの人と接し、その生の声を受け止めてきた賜物であろう。4年半の間、村橋さんは、公私両面でユダヤ人、パレスチナ人の別なく付き合い、親交を深めた。元々環境問題に関心のあった夫人が、テルアビブ大学が提携する環境学の3ヶ月コースを受講し、それをきっかけにFriends of the Earth*という国際NGOの活動に参加したことで、村橋さん自身も交流の機会をもつことができた。(Friends of the Earth:本拠地はオランダ。イスラエル、ヨルダン、パレスチナが一緒になって環境問題に取り組んでいる。)仕事では得られないネットワークが生まれ、視野も広がった。また、対立が激化していく中、何か日本人としてできることはないか、と考え、将来に向けて、イスラエル・パレスチナ間の信頼醸成のための活動も模索した。そのときの思いから、帰任後の今も、イスラエルとパレスチナの子どもたちを日本に招聘して、対話によって相互理解を深めるプログラムを続けている。
 村橋さんによれば、日本人は、ユダヤ人、パレスチナ人双方から好意的に思われ、現地で、片方とつきあっていることにより、もう一方から反感を買うといったこともなかったという。ユダヤ人もパレスチナ人も、一旦友人になると、大変親切で面倒見がよく、自分の友人知人をどんどん紹介してくれるので、人間関係も多方面に広がった。
 日常生活で、村橋さんが困惑したのは、ユダヤ人の「自己主張の強さ」であった。例えば、JETROに情報を求めてきた人に、親切心からプラスアルファのサービスを提供すると、以後も、同等かそれ以上のサービスを要求され続けたりする。また、“駄目で元々”精神に溢れている。まずは自分が欲しい最大限の成果を要求して、だめなら少しずつ引き下がっていくのだ。日本の感覚では“ずうずうしい”と思うところだが、彼らにはそういう気は全くない。だから、できないことはできない、やりたくないことはやらない、とはっきり自分の主張を伝えることが肝心。最初は、主張することで相手を傷つけるのでは、と懸念したが、言われた相手は皆ケロッとしている。こうしたやり取りに慣れ、「自分を出す」ことができるようになると、却ってその方が居心地良く感じるようになってしまった。
 イスラエルは現在では資本主義国家ではあるが、建国から1990年くらいまでは社会主義に近い統制経済をとってきた。その影響からか、現在も公的機関のサービスは悪く、非効率的で、これが前述の「自己主張する文化」と併せて、日本人がイスラエルで感じるフラストレーションとなっている。村橋さんは「大切なのは、“何でそうなのか”と思わずに、“そういうものなのだ”と認めること」とアドバイスする。「外国で異なる習慣や文化に触れるのは、どの国であっても同じだが、イスラエルは、特に日本との振幅が大きいので、適応するために、より多くの努力が必要になる。」「海外派遣する人を選ぶ際も、寛容性・許容性のある人がよく、細かい人や神経質な人には難しい国と言える。また、ユダヤ人・パレスチナ人双方のことを考えられるようなバランス感覚も必要。」村橋さん自身、イスラエルに赴任して、自分の「変化への適応の範囲が広がった」と感じたそうだ。
 「イスラエルにいると世界観がわかる」―インタビューの最後に村橋さんは、こう言葉に力をこめた。「イスラエルでは、第一にアメリカのプレゼンスの圧倒的な大きさが実感できる。ヨーロッパ各国の首脳クラスが、毎年のようにイスラエルを訪問している事実にも驚かされた。中世以来、ヨーロッパはユダヤ人の歴史に影を落としてきたが、そうした過去への複雑な思いを内包しつつ、アメリカのプレゼンスに対する牽制の意味もこめての訪問であろう。また、ソ連崩壊後、旧ソ連から移民してきたユダヤ人は多く、今もロシア在住のユダヤ人との太いパイプは脈々と生き続けている。イスラエルには、こうして、西欧社会の歴史の結果として受け継がれたものが凝縮しており、今の世界情勢を理解する上でも大変重要な場所。西欧社会はそのことを認識し、イスラエルを国際政治上の“キー国”と位置づけているのです。」「イスラエルにいると、世界がどういう力学で動いているかが見えてきます。紛争、宗教、民族とは何なのか、いろんなことを考えます。イスラエルでの思い出や、そこで培った人間関係があるから…といった観点を超えて、私がこれからもこの国に関わっていきたいと思うのはそのためです」と結んだ。

(齋藤志緒理)

注1)
ハラム・アッシャリフ:イスラム教徒は、「岩のドーム」とその傍に建てられた「アルアクサ・モスク」一帯の高台を指して、(アラビア語で「高貴なる聖域」を意味する)「ハラム・アッシャリフ」と呼んでいる。一方、ユダヤ教徒は「岩のドーム」の地中に、聖地としてあがめるユダヤ王国の神殿跡が埋まっているとして、「ハラム・アッシャリフ」と同じ場所を指して「神殿の丘」と呼ぶ。イスラム、ユダヤ教双方にとって共通の聖地となっているこの場所の主権をどうするかが、和平交渉最大の難問になっている。

注2)
オスロ合意:和平プロセスの過程で、1993年にイスラエルとパレスチナ解放機構の間で結ばれた協定。イスラエル、パレスチナ双方と良好な関係をもつノルウェー政府の尽力により、オスロで両者の交渉が行われた。

注3)
ユダヤ人:「イスラエル人」と言った場合、基本的にはイスラエル国籍を持つ人のことを指す。これにはユダヤ人もパレスチナ人も含まれるので、本稿では、「ユダヤ人」という言葉で統一した。

マサダの遺跡から死海を望む

写真 注)
金曜日の日没から土曜日の日没まではユダヤ教の安息日で、イスラエルでは一部を除き店舗は閉まる。しかし、国立公園だけは、安息日でも開いているため、村橋さん夫妻は、滞在中、国立公園(計五十数か所)を全て訪れた。イスラエルでは、冬に降雪する北部ではスキーを、南のアカバ湾では、ダイビングが楽しめる。その他にも、砂漠ツアーや、死海、数々の歴史遺跡の探訪など、様々な観光が楽しめる。この写真は、死海のほとりにあるマサダという遺跡から死海を望んだもの。マサダは、ローマ帝国にユダヤ王国が滅ぼされた時、最後までユダヤ人が立て篭もって戦い、最後は全員が自決したといわれる砦。

2008年04月01日

アルゼンチン

外交性豊かなアルゼンチンの人々

相手によって態度や物言いを変えず

 光藤晃彦(みつふじ・てるひこ)さんは、三菱商事に在職中、二度アルゼンチンでの生活を経験している。一度目は1968年にスペイン語の語学研修生として渡航し、二年余を過ごした。その間の一年は、アルゼンチン西部のメンドーサにある国立大学の政治社会学部に在籍し、近代政治史の勉強を通じて国勢や国情を学んだ。帰国して10年ほど鉄鋼の輸出業務に携わった後、1981年に辞令を受け、再びアルゼンチンに赴任。1987年までブエノスアイレスで主に鉄鋼製品の日本との国際取引に従事した。

 二度の滞在期間のアルゼンチン情勢は異なる。一回目は軍政で社会・経済は安定していたが、民主主義は潰えていた時代。二回目の滞在時は、またもや軍政が敷かれていたが、対英戦争での失敗を経て、1984年には民主制への回帰が始まった。この間の政情や経済の不安定さは、ビジネスを進める上で、厳しい逆風となった。政治体制の変わり目には、輸入許可の手続きが停滞し、深刻な外貨不足と対外債務のため、支払いの猶予や債権の切り捨てを行う必要も生じた。また、ハイパーインフレと呼ばれる未曾有のインフレにも遭遇した。光藤さんの着任から離任までの6年の間に、通貨は呼称まで変わり、その貨幣価値も二万二千分の一に下落したという。
 市民生活においては、当初「時間感覚」の違いに戸惑った。相手にもよるが、約束の期日や時間が厳密には守られないことが多いのである。ビジネス社会では、この限りではないが、それでも全般的に時の流れや物事の進展がゆっくりしているのは否めない。その背景には、「時間をおおまかにとらえる生活習慣」や「あくせくしなくてもある程度豊かに暮らせる環境」があるようで、「時は金なり」の意識や、「他人の時間を無駄にしてしまうことへの申し訳なさ」といった感覚はいずれも薄く感じられた。日本から渡航、生活する人は、その点を理解し、ストレスをためないようにすることが賢明である。もっとも、開放経済となって、様々な外国人が新たに流入してきている今日では、経済活動や市民生活のテンポがスピードアップし、かつての状況が徐々に変わりつつある。また、全人口の約3分の1が集中する首都ブエノスアイレスと、地方社会とでは時間感覚にもかなりの隔たりがあるという。
 アルゼンチン人の人口構成を見ると、スペイン系、イタリア系がほぼ同率で、合わせて約9割を占め、残る1割は極めて多彩な人種・地域に由来し、その混合度も今やかなり高い。スペイン征服前の原住民インディオの子孫の人口は非常に少ない。
 光藤さんは、アルゼンチンでの赴任を終えた後、7年間(1988〜1995年)米国に駐在して、鋼材加工の事業子会社を作り、社長を務めた経験がある。そのため、(旧大陸からの移民が国家形成した点では共通する)米国とアルゼンチンとを比較してみる機会に恵まれた。「人種のるつぼといわれるアメリカは、入ってくる移民を感化し、同化させる力が強い。移民は時を経ずしてアメリカ人としての価値観や生き方を身につけていく。一方アルゼンチンでは、そうした感化力、同化性はあまり感じられない。人々が“私はどこそこの国生まれの子孫”といった意識をもったまま、アルゼンチンという土地で混ざり合って暮らしているという印象。更に言えば、多くのアメリカ人に強く見られる自国意識も、アルゼンチンでは一般に希薄であるように思われる。これは、幾多の政変を重ねて社会が不安定化したことや、失政や腐敗のため、政治や公権力に対する不信感が根強く深いという事情にもよる。また、近年は中間階級の崩落が顕著で、かつてなかったような治安の悪化や社会の荒廃ぶりも顔を出している。そのためか、アルゼンチンの人々は、自国を礼賛するようなことはあまりせず、極めてクールに自国の文化のことを見つめ、語る」と光藤さん。*注)
 こうしたアルゼンチン人の気風は、一方で「自分のことは自分で守らなければならない」という強い自我の意識につながっていると光藤さんは捉えている。アルゼンチンには、生活の中で何かと主張しなければならない場面が多いが、彼らの目には、日本人は往々にして「争わない人たち」「主張しない人たち」と映る。いい意味では「温和」だが、言ってしかるべき時に言わなければ、「不可思議な人たち」或いは、「信頼できない人たち」と思われる可能性もある。アルゼンチンでは「以心伝心」の意識や「何かを慮るあまりに発言できない」といった心情が理解されないと思っておいたほうがよいようだ。
 光藤さんは、一般にある「人が良く陽気なラテンアメリカ気質」といったステレオタイプを否定し、アルゼンチン社会を「日本と比べると、他人を信用しない社会」と表現する。由緒や来歴に異質性が高い人々の集合体だけに、どんな相手にも特別な先入観はもたないで進んで接する必要があるが、それだからこそ、相手に丸々気を許すことには慎重だ。もちろんアルゼンチン人の中にも、「他人からよく思われたい」「温かい心を示したい」という気持ちはあり、家庭でも幼い頃から、他人に対しては礼儀正しく、節度をもって接するよう訓育される。日本人の感覚からは、不思議に思えるかもしれないが、信頼関係ができたから親しく付き合うのではなく、信頼関係がなくても親しく付き合うのである。(この面を日本人は“相手の人の良さ”と誤って受け止めてしまいがちだ。)こうした「外交性」や「バランス感覚」は、光藤さんが最初にアルゼンチンの地を踏んでから、現在に至るまで、アルゼンチン人の国民性として、殊に意識されるものだという。
 「アルゼンチン人は、人間味を表に出すことが上手」と光藤さん。「相手が近しい存在であってもなくても、自分の欠点ととられかねないことを隠さず、心の内もさらけ出す。また、彼らは一人の人間に宿っている性格や人柄といったものは、一つしかないと考えている。その表れとして、誰に対しても同じような態度で接する。相手によって物言いや応対を変えることはほとんどない。日本人は、相手との距離や関係により、物腰や言葉遣いを変えることが習い性になっているが、そうした切り替えがあまりに露骨に出ると、“二面性がある人” “不誠実な人”とマイナスに評価される恐れがある。特に、上司には腰を低くし、部下に背を反らして…といった態度は疎まれるので、注意が必要」とのこと。
 光藤さんは、最後に、アルゼンチンや米国での通算16年の経験を通じて実感したこととして、こんなメッセージも送ってくれた。「アルゼンチン人や米国人は、普通に暮らしていても、明日は何が起こるかわからないという予感を誰もがもっており、不測の事態の発生の可能性を“いさぎよく”意識している。しかし、われわれ日本人は安全・安定を求め、それに慣れ親しみすぎて、非日常のことが起こり得るとはあまり考えたがらない。無風・平穏に暮らし得ている分にはよいのかもしれないが、今後そのような暮らしはだんだん難しくなっていくように思える。このままで自ら変わろうとしなければ、危急の時、咄嗟に対応ができなくなってしまうのでは。」光藤さんの商社マンとしての人生の中では、海外生活で命を落とした知人や同僚も少なからずあるという。「それだけに、安全・安定を当たり前のように享受する気持ちにはなかなかなれません。やはりどこかで緊張感をもって過ごすことが必要なのでは」――その静かな語り口から、“(無防備な)安穏さ”への懸念の思いが伝わってくる。
 光藤さんは、三菱商事を早期退職して10年余、前職での企業経営の経験を生かし、経営コンサルタントとして、主に日本で中小企業の経営者を支援している。また、社会経済生産性本部と提携し、JICAやAPO(アジア生産性機構)、AOTS(海外技術者研修協会)の海外協力事業にも参加している。公私両面でのアルゼンチンとの交流歴は、最初の渡航以来40年を数える。

(齋藤志緒理)

*注)
この点に関して、光藤さんは、「アルゼンチン人に自国意識がないという意味では決してない。自国へのクールな眼差しは、“豊かな資源を生かせず、誇れる資質の少ない現状”への嘆きの表れとも受け取れる。これは逆に、サッカーのように、高い能力を発揮できることには皆が揃って、国を意識し、熱中するところをみてもわかる」とコメントしてくれた。

ハカランダの花
11月に咲くハカランダの花
ブエノスアイレス レコレタ地区
(アルゼンチン大使館観光部提供)

2008年03月03日

ルーマニア

市場経済化の道を歩むルーマニア

未来は「混沌」の中から

 2004年春、鳴尾眞二さんはルーマニアの首都ブカレストに降り立った。渡航のきっかけとなったのは、たまたまJICA国際協力人材募集のWebサイトで「ルーマニア鉄道インフラ会社の経営支援公募」情報に遭遇したことで、それから人材登録、応募、審査、面接、研修を経て、2ヶ月の内に派遣決定となった。
 ルーマニアでは国鉄が1998年に「鉄道インフラ会社」「旅客サービス会社」「貨物サービス会社」の三社に分割され、2007年のEU加盟を目指し、民営化に向けた経営改革に取り組む過程にあった。日本はJBIC(国際協力銀行)がブカレストと黒海沿岸最大の都市コンスタンツァを結ぶ線路の近代化計画に約256億円の円借款を行ったが、その経営改革支援のためJICA専門家として鳴尾さんが派遣されたのである。20年来勤めた大手シンクタンクは退職し、家族を伴っての渡航となった。
 鳴尾さんの着任時は、チャウセスク政権が崩壊した1989年の革命から15年の時を経ていたが、旧社会主義体制の足跡がまだそこここに感じられた。革命後は市場経済化されているものの、40代から50代の国の指導者たちは皆旧体制時代に教育を受けており、社会主義の行動パターンから脱皮できていない。資本主義経済への理解や、「経営管理」の意識が欠落しているのは否めなかった。
 ルーマニアがこれまで辿ってきた道をあらためて考察し、鳴尾さんは、その背景にあるものとして、次のような点に思い至った。まず、学問についてである。社会主義時代、自然科学や工学(物理・化学・数学・生物学、エンジニアリング)は国を富ます原動力として重視された。文学等の芸術も許容される範囲であれば(体制批判の様を呈さない限りは)認められた。しかし、社会科学など「国家の体制や構造」を“研究対象”とするような学問は廃れてしまっていた。社会主義の原則は計画経済であり、そこには「周囲の状況が動かない中での発展」という大前提がある。動きつつある国際情勢や社会情勢の中で、どう舵取りをしていくかという視点が欠けてしまい、それが経営やビジネスを進める際には決定的なマイナス要因となってしまう。
 次に、ルーマニアは日本や英国が経験したような「産業革命」を経ぬままに社会主義化したという点である。今ある産業は社会の発展に伴って自然に出来上がったものではなく、国家主導で導入されたものであった。産業を支えるための社会的・人的インフラが育っていないまま、社会主義というタガが外れ、資本主義の海に放り出されることになった。
 その結果何が起こったかといえば、国内的には国営企業の混乱がある。1989年の社会主義崩壊後、労働者への給金の支払いが途絶え、やむなく工場にあった在庫や加工前の備品を売る者が続出。1990年代の元国営企業は、「生産ができない」「在庫がなくなる」「設備がない」という大変深刻な状況に置かれた。対外的には、ルーマニアが、2007年のEU加盟に向けてクリアしなければならない条件の一つが「国営企業の民営化率のアップ」であった。しかし、そもそも国内に資本の蓄積がなく、ルーマニア人に国営企業を買収できるだけの財力の持ち主は皆無といってよかった。株式公開は一部あったものの、市民の間には、株式購入が、本来平等に得られるべき権利であるという認識が浸透していなかった。そこで国営企業が外資に売却される傾向が続いた。現在、金額ベースでルーマニアの資本の外資比率が9割以上―と高いのは、こうした事情によるもので、ルーマニア政府が外資優遇政策をとったからではない。ルーマニアにおいては、民営化=外資戦略である、といっても過言ではない、と鳴尾さんは言う。
 2年間のJICAでの任務を終えた鳴尾さんの心の中には、これからもルーマニアの成長を支援していきたいという思いが膨らんでいた。日本政府からの援助はルーマニアがEU加盟を果たせば打ち切られるが、実際には、国や社会が一足飛びに次のステージに行かれるものではない。
 経営やビジネスの基本を身につけた人材の不足を常々感じていた鳴尾さんは、次世代の育成に注力すべく、2006年4月からブカレスト大学経営・管理学部の客員教授となった。現在もルーマニアと日本を往復する生活で、月の内一週間はブカレストに滞在し、その間連日授業を行っている。学生気質はいたって現実的で、よりよい就職のために修士号を目指すという若者が少なくない。しかし、“就職に有利な知識”のみでは、学問が空洞化してしまうと危惧する鳴尾さんは、基礎を重視した授業を実施。問題を設定して与え、“自ら考え解決していく”トレーニングを学生たちに積ませているという。
 客員教授の仕事と共に、ルーマニア企業「マイクロ・エレクトロニカ」(CMOS、発光ダイオード等が主力製品)他一社のボードメンバーの職務も続けている。マイクロ・エレクトロニカ社は元国営企業で、社会主義の時代に欧米から導入された高性能な設備をもっていたが、体制崩壊後の混乱で機能していなかったところを、あるルーマニア人が買い取って経営を始めた。残っていた労働者1300人を改めて面接して、精鋭50人だけを採用し、古い設備を何とか生かしながら再スタートを切ったところに、鳴尾さんに協力の要請が来た。前述の通り、社会主義崩壊後のルーマニア人には資力が乏しく、個人で国営企業を買い取れること自体、大変稀なこと。「もし資金が後ろ暗いものであるならば、私は協力できません」と毅然と伝えた鳴尾さんに、そのルーマニア人社長は、会社買収の資金は、それに先立っての欧米企業とのある特許契約によって、正当に得た対価であると清々しく答え、出所を明らかにした。取引で得た大金は、一生黙って暮らせるほどのものなのに、それを敢えて旧国営企業を立て直すために投じたこの社長の心に鳴尾さんは動かされ、以来経営の手助けをしている。
 「ルーマニアでは、個々の人間の勤勉性は決して他国と引けをとらない。しかし社会のしくみがまだ出来上がっていない。それがこれからの課題であり、ルーマニアが成長するために必須なこと」「“可能性がある国”と評するのはポジティブすぎる。むしろ“混沌”といった方がよい。どう動き転んでいくかわからない不安定さ。それがリスクでもあり、関わっていく者にとっては挑戦する原動力にもなっていく」と鳴尾さんは語る。
 「志あるルーマニア人を見るとサポートしたくなるのです」―その言葉には、先達として経験や知識を伝授しているという高所からの目線は全くなく、あるのは、ただこの国の将来のために力を貸したいという真摯で力みのない姿勢であった。
インタビュー後日、鳴尾さんからメールをいただいた。「現地生活にいかに柔軟になじんでいくかという点について付言するならば、自分が外国人であるということを、常に謙虚に自分に言い聞かせるということです。そこで生まれ育った人達とは、宗教観、生死の考え、経済観念、政治的信条、教育環境等が当然異なるわけで、3年、5年そこに居住したところで、所詮は我々は外国人だと思います。言葉を自在にこなしたとしても、彼らが背負っている物を完全に共有する事はできません。我々外国人は、その国に許容して、置いてもらっているのだというくらいに謙虚に考えておいた方が快適に生活できます。他人の家に土足で上がるようなことはしてはいけない、と常に自制しておくほうがスムーズに生きていけます。ルーマニアでも多くの信頼できる友人ができたと自負しておりますが、自分は所詮外国人であるという自覚を持って、彼ら、彼女らと付き合っていくように心がけております。」 

(齋藤志緒理)

ペレシュ城

シナイアにある木造建築、ペレシュ城。1875年に建設が始まり、1914年に完成。
カロル1世の在位中に作られたもの。(鳴尾眞二氏撮影)

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