2010年02月01日

ガボン

ガボンの豊かな森林は“地球の左肺”

外国人人口も多く、殆どの産品は外国から輸入

 静岡県出身の山下真有美さんは、2008年1月〜2009年12月までの2年間、JICA(国際協力機構)・青年海外協力隊の派遣によってガボンに滞在した。

 ガボンは、中央アフリカの一国。西は大西洋に面し、首都リーブルビルはほぼ赤道直下に位置する。日本の約3分の2の国土に、人口は約145万人。*注1)旧宗主国フランスからの独立は1960年であった。ノーベル平和賞を受賞したシュバイツアー博士が医療活動に半生を捧げた国でもある。民族的にはバンツー系(全体の3分の2)とファン系(同3分の1)に大別され、部族毎に言葉が違うが、教育の普及もあり、全土でフランス語が共通語として機能している。

 オマール・ボンゴ氏が1967年から40年余年に亘り大統領職にあったが、2009年6月、7期目の途中で逝去。子息のアリ・ボンゴ氏が大統領選挙で当選し、2009年10月に新大統領に就任した。

 日本とガボンの関係は一貫して良好で、ガボンに日本大使館が開設されたのも、アフリカの中では比較的早かった(1972年)。とはいえ、経済面での交流はまだこれからで、日本からの進出企業はごく少なく、山下さんの赴任当時、約50人の在留邦人の大半は、大使館関係者やJICA関係者(職員、専門家及び青年海外協力隊員)だった。

 山下さんの赴任先は、首都リーブルビル市内のメレン精神病院で、協力隊員としては前任者に続き2代目だった。「大学時代に開発学を履修し、教授の引率による研修でフィリピンに3週間滞在した。卒業旅行の行き先には、かねてから訪れてみたかったアフリカのケニアを選び、学友との二人旅を実現。ケニアでは、観光のみでなく、ナイロビ最大のスラムにあるNGOを訪問したり、知的障害者の学校を見学するなどした」―山下さんは、協力隊を志すに至った自身の原体験を振り返る。卒業後に「精神保健福祉士」の国家資格を取得。協力隊員となる前は、千葉県内の研究機関の臨床チームにてソーシャルワーカーとして勤務していた。協力隊の「保健衛生」部門で、ソーシャルワーカー職の募集があることを知り応募。晴れてガボンの地を踏むことになったのである。

 メレン精神病院は、山下さんの着任時に開院26年目を迎えた、ガボンでただ一つの精神病院で、計3名の医師(精神科医2名と精神科の研修医1名)が勤務していた。*注2)公立病院のため入院・治療費は無料(10棟ある病棟の内、1棟のみが有料のVIP棟)。山下さんが配属された社会福祉課は総勢11名で、主な業務は、「患者の生活相談」「家族訪問」「省庁まわり(社会福祉の申請手続き)」だった。中でも特に困難を伴うのが「家族訪問」。患者が回復し、退院の見通しが立つと、ソーシャルワーカーが家族を訪ね、患者を受け入れてもらえるよう交渉するのだが、“養うべき家族が他に大勢いて、引き取るのは無理”と断わられてしまうケースもある。入院後、家族が連絡なく転居してしまい、行方を探す必要に迫られることもある。また、患者の中には、市民から「精神疾患が疑われる路上生活者がいる」との通報を受けて保護し、入院させた人もあり、戻れる家があるのかさえわからないことも。

勤務先の同僚とメレン精神病院の同僚たちと(右端が山下さん)
両親と伯母がガボン訪問の折に撮影。

 「ガボンで精神疾患の治療にあたる上でのハードルの一つは、アニミズム的な伝統療法の存在です」と山下さん。西洋医療の対極にある伝統療法では、患者が施術で“トランス状態”にされ、その状態に依存するようになったり、時には火傷を負うような治療をされるなど、かえって心身共に傷つく場合があるのだ。しかし、国民の間では、未だに伝統療法への信奉が強い。当事者(患者と施術者)はその内容を極力秘匿しようとするため、伝統療法の実態を掌握するのは容易ではない。

 地方にいる患者が、治療を継続できないという問題もある。「精神疾患は、種類によっては、ずっと薬を飲み続けることで、症状が出ない状態を保てることが多い。生活するのが精一杯の患者や家族にとっては、半年に一度でも首都に出てくるのは大変なこと。まとまった量の薬を渡したところで、それを決まった分量ずつ、定期的に飲む習慣が身につかなければ、薬効も期待できなくなる。」

 ところで、ガボンでの生活に必須なフランス語は、山下さんにとって初めての言語であった。出発前にJICAの研修施設で2ヶ月間の特訓を受け、渡航直後の1ヶ月も同期のガボン赴任隊員と共にフランス語の集中レッスンを受けた。この1ヶ月は、現地の家庭にホームステイし、30歳の長女を筆頭に5男3女のいる一家(当時同居していたのは、両親と叔母、息子3人)にお世話になった。

 ガボン人は、一般的にシャイで、それはプライドの高さの裏返しでもある。職場の同僚たちも、最初は様子を見る風で、山下さんと距離をとっていたが、山下さんの方から積極的に話しかけることで、段々と親しくなることができた。山下さんは、終業後も時間を見つけては、フランス語の雑誌記事や絵本を訳すなどして、少しずつ長文に取り組み、最終的には仏語新聞も読みこなせるようになった。会話面での心許なさは数ヶ月後にはなくなったが、「同僚は慣れてくると、こちらの表現がつたなくても理解してくれるので、それに甘えないよう、職場の外にも人間関係を広げるように努力した」とのこと。先輩隊員に紹介してもらうなどして、現地での友人を増やしていった。

 ガボン人同士のコミュニケーションを見ていて印象的だったのは、“職位の高低”による上下関係の厳しさである。例えば、職員が自分の担当業務の優先順位や緊急度に沿って仕事を進めていても、高い地位にある上司の突発的な指示・意向があれば、そちらを優先させる。また、挨拶をはじめ上司との良好な関係が仕事の出来不出来に関わらず重要となる。山下さんは、上司に顔を覚えてもらうために、活動初めの頃は手作りの名札をつけ、毎朝各病棟・事務室・医師のところへ挨拶まわりをした。帰る時も、通りがかった職員に「今日はこれで失礼します。また明日!」と声をかけるとより丁寧で喜ばれた。

 ガボン人は一般的に「仕事よりも家族を優先」する意識が強い。「家族」*注3)といっても、自身の親や妻子だけではなく“遠い親戚”も含めて考える。そして、親族の中に“稼ぎがある人”がいたら、その人が必然的に皆の面倒を見ることになる。自分の暮らしがきつくなるからと援助を断われば「薄情」と言われ、親族関係にひびが入ってしまう。毎月の給料日になると、同僚たちがよく丸1日休むので、最初は訝しく思った山下さんだが、よくよく聞いてみると、給料を銀行で下ろした後、それを手当てしなければならない親族のところに割り振り、届けて回らねばならないとのこと。山下さんの勤務した病院の職員は、皆公務員として安定した給与が得られる立場だが、かくして養うべき親族が多いだけに、貯蓄にまわせる余剰金はない様子だった。

 山下さんの住まいは市街地のアパートで、隣室には別の協力隊員が住んでいた。滞在中は、心身ともに健康でいられるよう、余暇の過ごし方を工夫した。一人の時間には、読書(JICA事務所や大使館の図書コーナーの本が借りられる)、音楽鑑賞、DVD鑑賞などで寛ぎ、時には、隣の同僚隊員と一緒に菓子作りを楽しんだ。休暇には、他地方で活動中の隊員仲間を訪ねたり、国立公園に足を延ばしたりした。

 ガボンは、国土の8割が森林(熱帯雨林)で、豊かな森と資源に恵まれた国だ。*注4)「アマゾンが地球の右の肺ならば、ガボン(+コンゴも含めた地域)は左の肺―といわれるほど」と山下さん。森林の他にも、サファリやビーチリゾートなどがあるが、そうした自然の美を堪能できるのは、悲しいかな、概して外国人である。ガボンでは「首都⇔国立公園」のツアー代金は、「首都⇔近隣国」のそれと大差なく、国内旅行といえども大変高いものにつく。山下さんの経験では、有名な大西洋岸のロアンゴ国立公園は2泊3日のツアーで一人15万円。他の国立公園でも10万円前後はかかる(ガボン人の平均的月収は4〜5万円。)大半のガボン人にとっての一番の娯楽はテレビで、その他、家を訪ねあって談笑したり、近くのバーでビールを飲み語らうなど、ごく身近なところで楽しみを見出している。

 ガボンの食文化についても触れておこう。ガボンには(注1で触れたように)自国生産品がほとんどなく、食料も含め、ほとんどは外国からの輸入に頼っている。(ビールとフランスパンと砂糖は、純ガボン産のものがあり、価格も低く設定されている。)野菜はカメルーンから輸入されており、国境を接している北部の州では比較的安く手に入るが、他の地域では大変高価。そんな中でも手に入りやすいのは玉葱とトマトだ。鮮魚は大西洋岸の各地では豊富に出回っている。

 ガボン人は主食として、フランスパン、タイ米、バナナ(調理法多種)を食べる。「マニョック」といって、タロイモを茹でてつぶし、バナナの葉で包んで蒸した料理も有名だ。魚料理は、魚一匹を丸焼きにしたもの、玉葱やトマトと煮込んだものなどいろいろある。ショコラという調味料(マンゴーの種を砕いたものと燻製の魚のすり身を練り合わせ、固めたもの)で味付けした煮込み料理はなかなか美味だった。山下さんもガボン人の友人宅で様々な料理を習い、可能な限り実践してみた。

 ところで、思いもかけないことであったが、山下さんの任期後半には、病院内で賃金倍増を要求するストライキが起こった。ストは帰国直前まで約1年間続いたが、その間、職員はほとんど出勤せず、医者や看護師もストに加わったため、医療活動が制限され、入院患者数を大幅に減らす事態となった。公務員である彼らは、全く働かなくても月給が満額支給される。当初はストに参加していなかった職員も、自分だけ真面目に出勤することに嫌気がさしてか、その内に来なくなったりした。「働き、その対価として得るのが給与であるのに、長期間ストをして、働かずに給与を手にし、その倍増を求めるとは…」山下さんの思いは複雑だったが、「大家族社会」の仕組みの中で、家族を支える彼らには彼らなりの事情や思惑があるのかと、現実を受けとめるほかなく、ソーシャルワーカーとして孤軍奮闘し、社会福祉課を切り盛りした。

 2009年12月末に任期を終えて帰国。メレン精神病院には、2010年6月から後任隊員が着任する予定だ。「ガボンは、渡航するとなると、パリや南アフリカ、エチオピアなどを経由して、二日がかりになる遠い国。入国にあたっても、ビザの取得と黄熱病の予防接種が必要―と、気軽に訪れられる環境ではないが、インターネットの普及にも助けられ、日本との距離をさほど感じずにいられる」と山下さん。現在は郷里に戻り、次なるステップに向け準備中だが、「今後の人生においても、何らかの形で、ガボンを含むアフリカ仏語圏の国際協力に関わる仕事ができたら」と希望を膨らませている。

(齋藤志緒理)

注1)ガボンの人口:
ガボンでは国勢調査が行われておらず、正確な数値は確定しづらい。2007年の世銀のデータでは133万人だが、150万人に上るとの説もある。いずれにせよ、ガボンはその国民人口の少なさから、多くの産業分野に、仏語アフリカ圏(ニジェール、ブルキナファソ、ベナン、セネガル、カメルーンなど)からの出稼ぎ者を受け入れている。また、この人口数では、自国生産をし、利益を上げるに見合うだけの消費者が確保できないため、工業産品、食品、野菜などほとんどの産品を外国からの輸入に頼っている。

注2)ガボン人の精神疾患:
男女それぞれで精神疾患の傾向が異なる。山下さんが勤務したメレン精神病院での治療状況から述べれば、女性は「うつ病」の患者が多く、出産後のいわゆる「マタニティ・ブルー」が高じたり、夫を亡くした喪失感からくるもの、HIVに感染したことを知ったショックで発症するケース等が見受けられた。統合失調症の患者も多かった。男性については、薬物依存症患者が多く、裕福な家で、外国に留学した先で薬物を覚え、依存症に陥ったという症例もみられた。山下さんの経験に照らすと「男女共に、日本に比べると回復が早い。重度の精神疾患患者は少なく、中程度の患者が多かった」とのこと。

注3)ガボン人の家族について:
ガボンには伝統的な一夫多妻制度の影響が今も残り、父または母が違う子どもが同居することもある。また、男性女性に関わらずパートナーをどんどん変えることが珍しくなく、生みの親に育ててもらえない子どもも多い。伝統婚では、新郎側から新婦の実家に相当の金品を贈る必要があるため、経済的な理由で、その手続きを踏まずに同居を始めることもよくある(多くの女性は、十代で未婚のまま初産を経験。)子どもが何人かできてから式を挙げるケースも少なくない。

注4)ガボンの主要産業は、鉱業(原油、マンガン)と農林業(木材、ヤシ油)である。

ガボンの結婚式ガボンでの結婚式風景:
ガボンでは、結婚式を行う際、新郎新婦が事前に招待客に同じ柄の布を(ご祝儀と引き換えに)プレゼントする。招待客は、それで思い思いの洋服を仕立て、当日身につけていく。
(山下真有美氏撮影)

2010年01月04日

ペルー

「人生を楽しむ」精神に長けたペルー人

魔法の言葉は“HASTA MANANA(アスタ・マニャーナ)”

 Kさんは、ある日本企業の駐在員として、1970年代と1980年代にそれぞれ5年ずつ、延べ10年間ペルーの首都リマに駐在した。一度目は販売担当部長、二度目は現地法人責任者としての赴任であった。その後ブラジルにも6年間赴任し、南米のスペシャリストとして東京本社から篤い信頼を受けた。1996年末にペルーで発生した日本大使公邸人質事件では、同社の駐在員も人質となったため、現地対策本部の舵取り役を務めるべく、急遽日本から派遣された経歴ももつ。

 「ペルーのマチュピチュ遺跡は、近年のアンケートで“日本人が行ってみたい世界遺産”No. 1の座を獲得している。アンデスの民族音楽・フォルクローレ(folklore)の代表作“エルコンドルパサ”(コンドルは翔んでいく)も多くの日本人に馴染みの深いもの。日系人による大統領が誕生したのも、世界中でペルーが初であり、未だそれに続く国はない」―Kさんはインタビューの冒頭、日本人とペルーの縁について、そう語った。

 ペルーの国土面積は日本の約3.4倍、人口は2,850万人(2008年世銀)である。日本とペルーが国交を結んだのは1873年6月―と、中南米諸国の中で一番早い。その後、日本ではペルーはバラ色の新天地と喧伝され、多くの日本人が移住したが、待っていたのは綿花農園での過酷な労働であった。(南米諸国で奴隷制度が撤廃された後は、アフリカ系住民に代わる労働力として、日本人や中国人が綿花栽培の担い手となった。)尚、2009年は日本人のペルー移民110周年にあたり、現在は約9万人の日系人が在住している。

 「ペルー人の国民性を語る上で、キーワードとなるのは(1)HASTA MANANA(アスタ・マニャーナ)の精神、(2)インカ文明の末裔としての誇りと“南米の中心”としての意識、そして(3)“何があっても謝らない”姿勢…の3つ」とKさん。

 まず(1)の“HASTA MANANA”は、日本語に訳すと「また明日」という意味だ。別れ際の挨拶として用いられるが、時に「明日があるさ」であり、時に「明日は明日の風が吹く」となる。更に、「明日まで待って下さい」「明日になったらやります」という風に、頼まれ事をのらりくらりとかわす方便として繁用される。(Kさんが部下に「いついつまでにこれをして欲しい」と頼んで、色よい返事があっても、期日までに仕上がらないことが多かった。“HASTA MANANA”と言われて1日待つと、翌日また“HASTA MANANA”と言われ埒が明かない。一旦頼んだら、ほうっておいても部下自身が報告に来てくれるわけではなく、待っていては仕事が一向に進まないため、Kさんは、いつ誰に何を指示したのか、いつ催促をしたのか等々を大小問わずすべてメモしなければならなかった。)“HASTA MANANA”は、シチュエーション次第で融通無碍にその意味が変わる、何とも都合のいい摩訶不思議なフレーズなのである。

 (2)については、ペルーの歴史に触れる必要がある。ペルーの歴史は、その大半がインカの歴史といっても過言ではない。インカ文明は先史文明を含め紀元前から延々と続き、最盛期の13〜15世紀は、その版図は現在のコロンビアからチリの北半分にまで及んだ。しかし16世紀にスペイン人の征服と侵略を受け、1532年フランシスコ・ピサロの謀略のために、インカ帝国は一夜にして崩壊させられてしまう。以後1821年までの約300年、スペイン人の統治を受けるが、その間リマには南米総督府が置かれ、スペインの副王が代々総督として着任。ペルーはスペインの南米統治の中心地として栄えた。南米征服を果たした当時のスペインではカスティーリア王国が主権を握っており、カスティーリア語が正統スペイン語であった。現在、ペルーの人たちは「スペイン語を話す」とは言わず、「カスティーリア語を話す」という。「ペルー人の意識の根底では、インカ帝国の末裔としての誇りと、その後、宗主国スペインの南米拠点となったという別の形の誇りが同居している。インカ帝国はスペイン人に滅ぼされたが、その敵愾心も300年に亘る統治の間に薄れ、スペイン文化へ同化する意識に変わったのでは」とKさんはみる。

 (3)の“何があっても謝らない”姿勢は、仕事上の問題であれ、生活上のトラブルであれ共通で、ペルーの人たちはまずもって謝ることをしない。Kさんが、何か問題を起こした部下に苦言を呈しても、素直に過ちを認めることはない。たとえKさんが目の前で証拠を見せても、屁理屈で自分のせいではないと逃げ、他人のせいにしたり、ついには神様の思し召しとまで言うその徹底ぶりにはあきれるばかりだった。しかし、Kさんは、こうした“謝らない姿勢”は、ペルーの人々が被支配階級として300年を耐え忍んだ記憶と無縁ではないのではと考える。「被支配民として生きた時代、罪を認めれば、職を追われるか、殺されるか、放逐されるしかなかった。自分を守るために謝らないことは、彼らの生きる智恵であり、歴史の為せる業なのだ。謝ることが潔しとされ、場合によってはそれで社会的制裁が軽減される日本の文化とは根本的に違う」そう考えると、謝らない部下の頑なさも許せるようになっていった。ちなみに、ペルーの現在の人口構成をみると、先住民が約半数、混血が40%弱、スペイン系(欧州系)が約10%となっている。人口の9割弱が先住民とその血統を引いた人たちで、1割強が白人人口ということになる(これは、アルゼンチン人口の97%を、チリでは95%を欧州系が占めているのとは対照的だ)。ペルーでは、その1割の白人が政治・経済を実質的に掌握して来た。

 さて、次にKさんがペルーでの駐在経験から実感したという、いくつかの点について触れたい。

 Kさんにとって印象的だったのは、“人生を楽しむ”ペルー人のスタンスである。家族との時間を何よりも大切にし、終業時間になれば、さっと席を立つ。経理担当の女性が書きさしの帳簿を開いたまま退勤することにびっくりしたという。(本人からすれば、翌日すぐに続きを始められるから好都合ということなのであろうが。)ペルー人にとって、仕事はあくまで生活の手段。人生の目的は私的な時間の充実にこそあるのだ。

 「人生を楽しむ」精神の発露とも言えるのがパーティである。ペルー人のパーティ好きは半端なものではなく、ホームパーティを開けば、家の周囲数十メートルに響き渡るかと思われる大音響で音楽を流し、明け方まで皆が踊り続ける。最初に赴任した一週間後、近所のパーティの騒音が深夜の1時2時に及んでも止まないので、意を決して苦情を言いに行ったら、全く意に介されず、「あなたも一緒に踊って行きませんか?」と言われる始末だった。後でわかったことだが、パーティを開くのはどの家も同じなので、皆お互い様…と鷹揚に構えているようだ。パーティで供される食事は簡単なオードブルのみだが、お酒は各種飲み放題で、あとは音楽とダンスをひたすら楽しむのがペルー流だ。日本人は、そうしたパーティに招かれても、気力体力が続かず、日付が変わるころにスーッと消えるのが常だった(ホストに退出の挨拶をするのはかえって野暮になる)。

 ペルー人の人間関係の築き方も特筆の価値がある。一言で言えば、ペルー人は年齢も肩書きも関係なく、人と人として“even”に付き合おうとする。カスタマーとサプライヤーの関係であろうと、上司と部下であろうと、“カルロス!”などとファーストネームで呼び合い、対等に話を進めるのである。しかし同時にペルー人は公私をきっちりと分けるため、仕事後に同僚と飲みにいくことはなく、日常会話の中でもプライベートな質問を向けることはしない。日本人は、相手の人となりを知りたいという思いから「ご家族は?」などと気軽に問いかけてしまうことがあるが、ペルー人に同様のことをすると怪訝そうな表情をされる。もっとも、公私を分けるからといって、社内でのコミュニケーションがドライなわけではない。例えば、誕生日に出社すると、次々と社員が詰め掛け、「おめでとう!」の嵐に遭う。女性は頬に頬を当ててキスをし(口でチュッと音を鳴らす)、男性なら肩に手を回して叩いてくれる。初めてペルーで迎えた誕生日にはこの熱い歓迎の儀式にドギマギしてしまったKさんだが、日本に帰国してみると、ペルー人の温もりあるスキンシップがかえって懐かしく感じられたそうだ。

 仕事を進める上で困惑したのは、ペルーが徹底した「コネ社会」であることだ。物事を進めるのに、とにかく人間関係がものを言う。許認可の面倒な手続きがスムーズに進められるという点では助かるのだが、見返りに就職の世話を押し付けられることがある。能力ある人材を紹介されるのであれば有り難い話だが、そのような若者はコネなど頼らずとも就職先が決まるもの。大抵は口ばかり達者…といった子弟で、しかも、それなりのポストを用意せねばならない。ある程度は必要悪と考えて受け入れざるを得ないが、それが行き過ぎると真面目に働いている社員の士気に関わるので、悩ましい問題であった。

 「南米でいい仕事をしようと思ったら、万事において、まずは日本人としての感覚を捨てねばならず、いかに現地の人の目線になれるかが鍵となる。しかし、東京(本社)との関係の中では、それだけでは済まない場面が無限にある。失敗を繰り返して、自分なりに折衷のポイントを探るほかはないでしょう」―Kさんは当時を振り返って、そう述懐する。

 ところで、現地生活を送る上で、スペイン語のコミュニケーション力はKさんの大きな強みであった。一度目の赴任に先立ち、日本で短期間スペイン語講座に通ったが、本格的に語学と格闘したのはペルーに赴いてからである。Kさんは日々精力的に問屋や卸売業者、店舗を回り、まだ覚束ないスペイン語を駆使して自社製品の販売促進に努めた。庶民が集う市場で実演販売をしたことも多いという。こうして現地の人々と触れ合い、実地の経験を重ねる中で、3年後には大抵の局面には困らなくなったそうだ。現地語を学ぶ苦労は英語圏以外への赴任にはつきものだが、その厳しい道に正面から挑み、地道な努力で乗り越えたKさんの志に敬意を表したい。

 Kさんは同社を勤め上げた後は、日本に駐在している外国人ビジネスパーソンに日本語を教える仕事を続けている。自分自身の海外経験に重ね合わせ、外国人が日本社会でどのようなカルチャーショックを覚えているのか―日本人の価値観やビジネススタイルも踏まえて解説するKさんのレッスンは好評を博していると聞く。異文化の渦潮をくぐってきた先達としてKさんが繰り出すアドバイスが、多くの人たちの佳き道しるべとなるであろうことを確信している。

(齋藤志緒理)

広場とカテドラル

クスコ市街のカテドラルとアルマス広場。インカ帝国時代、ビラコチャ神殿があったこの場所に、スペイン人は1550年から100年もの歳月をかけて大聖堂を建設した。鐘楼には南米で一番大きな鐘があり、聖堂内には銀300トンを使った祭壇、400点の宗教画がある。尚、クスコは海抜3,600メートルの高地にあり、インカ帝国時代の首都であった。クスコとは「へそ」の意。宇宙の中心とされた。

(写真提供:佐藤惣一氏)

2009年12月01日

アルジェリア

自他ともに認める“アフリカのオピニオンリーダー”

南部サハラのタッシリ高原は圧巻

 アルジェリアは地中海に面した北アフリカの一国。フランスからの独立は1962年であった。東はチュニジ及びリビア、西はモロッコと国境を接し、地中海を隔てた対岸にはスペインとフランスが広がる。アフリカで二番目に広い国土(238万平方キロメートル)の大半は砂漠地域だが、首都アルジェを始めとする主だった都市は地中海沿岸や北部の高原地等に位置し、3,385万人の人口(2007年世銀)が国土の7%内に集中している。「アルジェの街には瀟洒な白亜の建物が立ち並び、その白さが地中海のブルーの中にひときわ映える。アルジェリア=砂漠の国というイメージから“酷暑の国”と思われがちだが、首都アルジェの緯度は東京より北で四季もあり、夏も松風がそよいで日陰に入れば涼しい。冬には雪も降るが、街中に積もるほどではなく、そう遠くない山間部に足を延ばせばスキー場もある。四季を通じてスポーツを楽しめる快適な気候」―そう語るのは元アルジェリア大使で、外交官として世界の全5大陸計9ヶ国に勤務経験のある浦辺彬さん(現在日本生命の顧問)である。

 アルジェリアは世界有数の天然ガス資源国で、生産量も輸出量も開発途上国中首位を誇る(2006年データ)。尚、世界でも生産量では5位(1位ロシア、2位アメリカ、3位カナダ、4位イギリス)、輸出量において4位(1位ロシア、2位カナダ、3位ノルウェー)である。*注1)アルジェリアの天然ガスは地中海海底のパイプランによって西欧に運ばれ、アルジェリアは西欧にとって、ロシアに次ぐ大供給国となる。日本企業は日本輸出入銀行及び国際協力銀行(JBIC)の融資を受け、アルジェリアの石油や天然ガス関連の施設や技術を供給してきており、日本輸出入銀行とJBICの融資総額は累計9600億円を超えている。「アルジェリアの天然ガスが日本人の暮らしに直結していないだけに、アルジェリアの知名度は高くないが、日本とアルジェリアの経済関係は、1980年代終盤まで、こうした天然ガス・石油関連事業を主軸に活況を呈していた」と浦辺さん。そうした状況を一変させたのが、1989年の憲法改正に端を発するアルジェリアの危機であった。*注2)

 テロにより年間6000人のアルジェリア国民が命を落とす事態となり、日本の外務省はアルジェリアを「危険度4(5段階中)」の国と指定、経済関係も一気に収縮してしまう。1978年にアルジェリア国内在住の日本人は3234人に達し、1980年代に入っても2000人程度で推移したが、1992年には日本政府から在アルジェリア日本人に退避勧告が出され、日本人学校も閉鎖に至る。観光ができなくなったため、海外旅行ガイド『地球の歩き方』シリーズは1997年版を最後に「アルジェリア」版の出版を取りやめたと思われる。その後、テロ活動は徐々に鎮静化に向かい、1999年の大統領選挙でブーテフリカ大統領が選出されると、同大統領はテロリストたちを厳罰に処さず、投降してきたものは赦免するという「国民和解」の政策を打ち出した。

 浦辺さんが大使を務めたのは、2001年6月〜2005年12月までの四年半。着任時、治安情勢は依然厳しく、アルジェリア国内にいる日本人はわずか数十人、首都アルジェには大使館員と単身赴任の商社員等しかいない状況であった。高い壁に囲まれたコンパウンドから外に出ることのできない生活が続いたが、浦辺さんは技術協力や文化交流を再開するなど、日本・アルジェリア間の各種交流の復興に力を尽くした。

大使公邸の前に立つ浦辺彬氏
大使公邸の中庭に立つ浦辺彬氏
(17世紀初頭オスマントルコ時代の建物)

 ブーテフリカ大統領は就任後、G8など先進諸国との外交を積極的に推進。2000年7月の九州・沖縄サミットには、同大統領はアフリカの主要なリーダーとして招聘された。ところが、ブーテフリカ大統領の就任後、いずれのG8諸国も同大統領の公式訪問を実現したが、日本政府のみが二の足を踏み続けていた。浦辺さんは両国の外交の現場で、その状況を何とか打開したいと奔走し、2004年4月にブーテフリカ大統領が再選された後、同年12月にようやくブーテフリカ大統領の(アルジェリア大統領として史上初めての)日本公式訪問を実現することができた。

 在任中は“プレス対策”にも心を砕いた。注2)でも触れたように、アルジェリアでは1989年に言論統制が廃止され、プレス(特に新聞)が自由化された。現在全国紙としては、仏語紙14紙、アラビア語紙4紙が発行されており、自由に政府批判も展開している。また、都市生活者や指導者層がその報道を熱心に読んでいる。“メディアにどう書かれるか”は政・官・民に共通して切実な問題で、アルジェリアでは各省庁や民間企業が主要部署には必ず専任の「プレス担当」を置くほどだ。駐在大使としても、メディア対策を怠ることはできない。「政府対政府の外交だけでなく、大使館が発信して、任国の国民に直接訴えかける必要がある。有り体に言えば、少しでもアルジェリア国民に“日本贔屓”になってもらわねばならない。国民の意見が国の外交を動かす力にもなるからです」と浦辺さん。例えば在任中の2003年5月、アルジェリアに大地震が発生した際、日本政府がすぐに緊急援助隊の派遣を決定すると、たまたま健康診断のための休暇で日本に一時帰国していた浦辺さんは、即日、緊急援助隊・第一陣と共に急遽アルジェリアへと戻った。日本から緊急援助隊が到着したことを、アルジェリア国民に知ってもらうためである。経由地のパリを発つ前に、緊急援助隊がアルジェの空港に到着する際、メディアを召集するよう手配しておくことも忘れなかった。地震の一報を受けてからわずか12時間後の援助隊派遣の決定は、(移動時間の長さ故、到着のタイミングでは欧州からの援助隊に及ばなかったものの)現地で全国にテレビ中継され、沢山の国民に大いに感謝されるところとなった。*注3)

 ところで、アルジェリアはアフリカ連合内で南アフリカ、ナイジェリアと共にリーダー国の地位にある。(前出の九州・沖縄サミットには、ブーテフリカ大統領の他に南アフリカとナイジェリアの首脳が招聘された。)アルジェリアはアフリカ域内における援助「供与国」として、サハラ以南のアフリカ諸国から毎年計1000人を超える留学生や研修生を受け入れている。

 例えば、アルジェリアには機関士や航海士を養成するための「上級船員養成学校」*注4)があり、日本の技術協力により、指導のための専門家が派遣されたが、アルジェリアは日本からの援助を受けるだけではなく、自国の費用でこの船員学校にも近隣諸国から一定枠の研修生を受け入れている。また、フランスの国立行政高等学院(ENA)に準じて作られたアルジェリアのエリート養成校(政官界に進む人材を輩出)も、他のアフリカ諸国からの学生枠を設けており、注目に値する。こうした地道な活動を通じ、アルジェリアは“アフリカのオピニオンリーダー”としての存在感を着実に高めている。

 アルジェリアの文化面についても触れておこう。アルジェリアは1962年に独立してから本格的に「アラブ化」「イスラム化」を始めた国である。仏領時代(1830-1962)の約130年間はフランス本土の一部として扱われ、アラブ社会であることを否定されていた。(隣国モロッコやチュニジアがフランスの「保護領」となり、アラブの文化を継続したのとは対照的である。)アルジェリアが対仏武装蜂起を始めた1954年、レジスタンス軍はフランス人にわからない言葉でコミュニケーションを図るべく、密かにアラビア語を教え始めた。そしてレジスタンス運動の勝利によって独立がもたらされた後は、その流れを継承し、シリアやエジプトからアラビア語の教師を招いてアラビア語による義務教育の普及に努めた。同時にイスラム化も進め、1970年代に養豚禁止令やアルコール禁止令が順次出されたのである。アラブ化、イスラム化はその後もひたひたと進み、浦辺さんも着任中に、今まで顔を覆わずに出勤していた大使館のタイピストが、いつの間にかベールを被っていたりする場面に出くわしたそうだ。しかし、義務教育がアラビア語で実施されても、大学では(特に理科系の学科では)フランス語を使用するケースが多く、完全にフランス語を断ち切れないジレンマもある。尚、パラボラアンテナの普及以降、フランスのテレビ番組が多くの人々に視聴されており、フランスのホームコメディやクイズ番組等の人気が高い。建前としてはアラビア語が国語・公用語であるが、フランス語やフランス文化に憧れを抱く心情もあり、なかなか複雑である。

 アルジェリア人のメンタリティについては「反骨精神が行き渡り、交渉相手にすると手強い」とのこと。アルジェリア人は議論が好きで、プライドが高く、自らのアイデンティティを守ろうとする意識も強い。「ローマ帝国、オスマントルコ、フランスなど、次々に外からの勢力と生存をかけて闘ってきた歴史的経験が、“簡単には折れない精神力”につながるのでは」と浦辺さんはみる。

 インタビューの最後に、浦辺さんの心をとらえたアルジェリアの景観を尋ねた。返ってきたのは「私がぜひ紹介したいのは、タッシリ高原の砂漠です」との答え。「タッシリ高原の砂漠は砂がパウダーのように細かいからなのか、周りの音が全て吸収されてしまうようです。そこに佇んでいると、虫の羽音ひとつなく、自らの呼吸の音までが聞こえてくるほどの静けさで“沈黙が聴こえるタッシリ”と言われます。人口密度が高い場所に住むのに慣れている日本人がこの地を訪れれば、精神がしんと鎮まり、ストレスから解放されるような経験ができます」と浦辺さん。余談になるが、浦辺さんが砂漠に惹かれるようになったのは、アルジェリア駐在時に始まったことではない。セネガル大使館に勤務していた1970年代の初め、管轄国であった隣国モーリタニアに出向く機会が多く、7時間かけて(運転手がハンドルを握る)車でサハラ砂漠を移動した。日中はじりじりと暑いが、夕暮れ時になると、夕日に染まった砂丘の遠くに、童謡「月の砂漠」さながらの隊商のシルエットが見える。その美しさに触れた経験から、砂漠をこよなく愛するようになったとのこと。

 経済面では、浦辺さんの在任中にアルジェリアを東西に横断するハイウェイ(モロッコ−アルジェリア−チュニジア)の建設計画が準備されていたが、その後、西側の3分の2の工事を中国が受注、残る東側の3分の1(山河を越えねばならず、トンネルや橋梁建築の技術が問われる難所多数)の工事を日本のグループが請け負うことになった。このプロジェクトが主たる機関車となって、日本との経済交流も再活性化しており、2008年10月現在、在アルジェリアの日本人人口は800人以上を数えるまでになった。帰国後、両国の交流を支援したいという気持ちから、「日本アルジェリア協会」の会長にも就任した浦辺さんは、現在、アルジェリア事情についての講演活動も積極的に行っている。「国民和解」が実施に移されてから10年−アルジェリアが着々と地歩を固め、アフリカのリーダーとして一層の輝きを見せてくれることを期待したい。

(齋藤志緒理)

注1)天然ガス:
日本で使われる天然ガスは、インドネシアやマレーシア等、地理的に比較的近い国々から液化してタンカーで輸入されている。アルジェリアの天然ガスは主として欧州に輸出され、日本には輸入されていないため、わが国ではアルジェリアが天然ガス資源国とのイメージが薄い。

注2)1990年代のアルジェリア危機とその背景:
1989年、それまでの一党独裁制を複数政党制に改めるための憲法改正が行われ、同時に新聞統制が撤廃された。翌1990年12月に改憲後初の国会議員選挙が行われたが、(言論統制の撤廃が裏目に出た形で)イスラム原理主義過激派(FIS)が国民の支持を集め、第一回投票にて大勝した。続く第二回投票でFISが勝利し政権をとることが明らかとなったため、危険を感じた政府と軍が第二回投票を強制中断させた。FISは選挙によって政権を奪取することが不可能と見て、武力に訴え、テロ活動が始まった。このテロ活動で大きな役割を果たしたのが、アフガニスタンの紛争から帰還した青年たちである。(下記※参照)

※アフガニスタン紛争とアルジェリア危機
アルジェリア危機から遡ること10年、1979年にソ連がアフガニスタン侵攻を開始した後、“アラブ世界であるアフガニスタンを共産主義化から守ろう”との大義の下、アルジェリアからも約4000人もの若者が志願してペシャワールに向かった。銃器の扱いや手製爆弾の作り方等のゲリラ戦法の訓練を受けた後、アフガニスタンの戦闘に加わったとみられている。彼らの多くが国内で職をもたない若者で、“食い扶持”を求めてアフガニスタンに流れたのである。約10年間の戦いの末、ソ連軍がアフガニスタンを去ると、彼らは一部少数を除いてアルジェリアに帰国する。だが、帰国したものの社会復帰の機会がなく、職業訓練も受けられなかった青年たちは、折から戦闘を開始していたイスラム過激派のテロにその身を投じ、アフガニスタン紛争で得た戦闘知識と実戦経験から、テロ活動の激化に重要な役割を果たすことになった。

注3)
日本の緊急援助は、第一陣から第三陣までの三段階に分かれてアルジェリア入りした。第一陣はトルコからの救助隊と協力して倒壊したホテルの下から生存者を救出。第二陣では負傷者の治療にあたる医療チーム、第三陣として再建復興に際しての耐震建築の専門家集団が到着し、それぞれ持ち場で活躍した。震災現場には、当然ながらサンドイッチや飲み物を購入できるような店舗はない。浦辺さんの夫人や大使館員の夫人たちが、協力し合い、緊急援助隊のためにおにぎりを作って差し入れた。

注4)上級船員養成学校:
1976年、首都アルジェリアの郊外、ブイスマイル地区に設立された。毎年、日本が技術協力によって教師を派遣したり、訓練機材を供与するなど支援してきた。この支援はアルジェリア危機の間中断されたが再開。アルジェリアから産出される天然ガスは、一部は液化されて大西洋経由でタンカーにてアメリカにも輸出されている。日本企業が現地に合弁会社を設立、日本から液化天然ガス・タンカーを調達し、アルジェリア人乗組員がこれら米国行きタンカーを操舵する。上級船員養成学校の学生の中には、卒業後こうした日本のタンカーに乗務する者もある。

首都アルジェの遠景
首都アルジェの遠景(写真提供:浦辺彬氏)

2009年11月02日

タジキスタン

国土の7〜8割を山岳地域が占める内陸国

地縁・血縁の堅固なつながりと客人への温かいホスピタリティ

 高橋ナイリャさんは、夫の仕事の関係で2005年から2008年までタジキスタンの首都、ドゥシャンベに滞在した。ナイリャさんの出身国は、タジキスタンの隣国ウズベキスタン。タジキスタンは元来ウズベキスタンと同根で*注1)文化的に共有している部分が大きいため、3年間の滞在中も母国に住まうような感覚で過ごせたという。

 ナイリャさんはウズベキスタンの大学(経済学部)に在学中、2年間ロンドンへ留学し、語学力に磨きをかけた。卒業後はウズベキスタンの外務省に入省し、その後在コーカサスの米企業に6年間勤務。以後フリーランスとなり、アジア開発銀行、世界銀行、欧州復興開発銀行(EBRD)、国際連合食糧農業機関(FAO)等の国際組織でキャリアを積んだ。現在は東京をベースにロシア語/英語の通訳・翻訳者として活躍中だ。

高橋ナイリャさん
高橋ナイリャさん

 「タジキスタンは政治的には、長くソ連邦の枠組みの中にあり、現在も経済面でロシアとの結びつきが強いが、文化的にはアジアの文化に通じる部分が多い」とナイリャさん。特に、年配者を敬う姿勢や、相手にものを伝えるのに直言を避け、言葉を選ぶ点。温柔で、家族や地域社会との結びつきを大切にする考え方などに、そうした傾向が感じられるという。ナイリャさんは、仕事でモスクワに滞在したこともある。ロシア語を完璧に話せ、コミュニケーション上はなんら問題がないだけに、すんなりと暮らしに馴染めるかと思ったが、現実は違った。直球でメッセージを伝え、時に強く主張しなければならないという状況に戸惑い、むしろ自分が育った文化とは異質なものを感じたそうだ。

 タジキスタンでは、独立直後の1992年から1997年まで続いた内戦により、6万人もの人々が命を失った。*注2)内戦終結から10年余りを経たものの、疲弊した経済状況が好転するには至っておらず、現在も旧ソ連の共和国中の最貧国に位置づけられる。国土面積(日本の約40%)の7〜8割が山岳地帯…と、耕地面積が非常に少ないことも貧困につながる一因である。

 「内陸国で海をもたないタジキスタンの人々は、古来、山から得られる食料や資源を生かして生活してきた」とナイリャさん。各種の山菜やきのこは貴重な食材。特に、きのこは“山の肉”と呼ばれるほどで、肉ときのこが同等の価格になることも。タジキスタンの気候は葡萄の栽培に適しており、大変甘い果実が採れる。ワインも甘口に仕上がるため、多くはデザートワインとして賞味される。果物では他にアプリコット、りんご、柿も収穫される。雪解け水を生かして栽培される大根なども大変美味だとか。

 タジキスタンの料理は、ペルシャ文化の伝統をベースとし、数世紀の間に中国、モンゴル、ロシアなどの影響を受け、現在の形になった。お米は日本米よりは粘り気の少ないイタリア米を使用。調味料として岩塩、黒胡椒、チリペッパー、ディルなどのハーブ類を、香味野菜としてニラ、コリアンダー、イタリアンパセリなどを用いる。蛋白源としては(イスラム教徒が多い国柄ゆえ)豚肉以外の羊肉か牛肉、淡水魚のニジマスなどを食する。ズフールと呼ばれる「羊脂」も料理によく用いられる。ズフール用に飼育される羊は、羊毛を刈るための羊とは種が異なり、その毛は硬くゴワゴワしているそうだ。

 タジキスタンの人々が地域社会を大切にすることは先に触れたが、ナイリャさんはその例として、「引越しパーティ」や「ラマダン明け後の(新婚夫婦による)パーティ」を挙げた。新しく越してきた住人は、地元の人々に招待状を送り、挨拶代わりのパーティを催すのが通例。パーティ当日は、表の門や扉を開放して歓迎の意を表する。開け放たれた門を見たら、招待状をもらった人でなくても(極端な話、たまたまその土地を通りがかった旅人でも)訪問してよいことになっている。

 「ラマダン明け後のパーティ」とは、断食期間が終わった後の3日間、その年に結婚したばかりの夫婦が親戚縁者を招くもので、イスラム教の伝統に則り、新郎は男性客を、新婦は女性客をそれぞれ別室でもてなす。開催中の三日間は、メインテーブルの料理をきらさない。新婦は2時間毎に客間に挨拶に現れるのだが、その都度衣装を換えるのがしきたりである。(タジキスタンでは、娘が生まれると、将来のパーティに備え、毎年衣装用の生地を買いためていく。)

 最近は恋愛結婚をするカップルも増えてきているが、結婚は本人同士の意思だけで決められるものではない。大抵の場合、親戚の誰かが相手の在所まで出向き、近所の住人に当人や一家の評判をさりげなく尋ねて、婿(嫁)にふさわしい人物どうかを確認する。子どもの頃からコミュニティの人々としっかり関わっているかどうかが、結婚に際しても重要なポイントとなるのである。

 近所にひとり暮らしのお年寄りがいれば、なにがしかの料理を届けるのも日常茶飯事である。タジキスタン人の平均的な子どもの数は3人。おじ・おば、祖父母世代との同居*注3)も珍しくなく、それだけの大家族であれば、調理する量もそれなりに多い。その中の一部を取り分けて、ひとり暮らしのお年寄りに届けるのはごくごく自然な行為で、見返りを求めるような心情はさらさらない。それを受けるお年寄りも、心理的な負担を感じることはなく、「ありがとう」の思いをその都度伝えるだけである。こうした「料理のお裾分け」を届けるのは、子どもたちの役割だ。子どもは日々の実践によって年長者を敬い、大切にする伝統を身をもって学び、お年寄りに感謝されることで、誰かの役に立ち、喜ばれる幸せを知る。

 タジキスタン人のホスピタリティは、イスラム教の教えによるところが大きい。「客人は神からの贈り物」とされ、来客があれば、家中で一番よい場所にかけてもらい、一番のご馳走を供する。“たとえその客が敵方であったとしても、家にいる間は厚く遇し、決して危害を加えない”のタジキスタンの倫理だ。「客人が遠来の外国人であれば猶のこと。二倍のホスピタリティでもてなすでしょう」とナイリャさん。

 隣接するアフガニスタンの情勢が及ぼす影響も無視しえず、外国人観光客が安心してタジキスタンを訪れられるようになるまでにはまだ時間が必要だが、山国ならではの景観、特にパミールの山並みの織り成す風景などは一見に値する。タジキスタンの主要産業は綿花、アルミニウム、そして(山がちの地形を生かした)水力発電だが、現在建設中の国内二基目のダムが完成すれば、更なる電力の輸出も可能となるため、その経済効果が期待されている。

 日本政府は、2004年から2年間に亘りタジキスタンの音楽振興のための援助プログラムを実施した。オーケストラ用の楽器一式を寄贈の上、指揮者とピアニストを日本から派遣して楽員の訓練をサポート。最終段階として、「西洋クラシック」「タジキスタンの伝統音楽」「日本の音楽」の3種の楽曲群を網羅したコンサートを現地で開催した。当時タジキスタンにいたナイリャさんも鑑賞の機会に恵まれ、日本とタジキスタンの文化交流の場に立ち会えた喜びを感じたとのこと。

 「他者との協調性を大切にする日本人のメンタリティや、直接的な物言いを避け、互いに言外の意味を汲もうとするコミュニケーションスタイルは、タジキスタン人に非常に近いものがある。日本は経済的に大きな発展を遂げたが、元々資源豊かな国であったとはいえない。国土の7割近くを森林が占め、その“森からの恵み”を最大限に生かしながら暮らしを営んできた。先人伝来のそうした知恵も“山に生きる民”タジキスタン人に相通ずるところがある」とナイリャさん。「今後もタジキスタンの歩みを見守りつつ、折々にタジキスタンの情報を日本の人々に発信していきたい」と抱負を語った。

(齋藤志緒理)

注1)ウズベキスタンとタジキスタン:
1924年、中央アジアの民族・共和国境界画定により、ウズベク・ソヴィエト社会主義共和国内に「タジク自治ソヴィエト社会主義共和国」が成立。5年後の1929年にウズベク共和国から分離し、「タジク・ソヴィエト社会主義共和国」に昇格した。人口構成をみると、ウズベキスタンの全人口2780万人(2008年/国連人口基金)の内訳は、ウズベク人(80%)、ロシア人(5.5%)、タジク人(5.0%)、カザフ人(3.0%)。タジキスタンの全人口約680万人(2008年/国連人口基金)の内訳は、タジク人(79.9%)、ウズベク人(15.3%)―となっている。1991年8月、ソ連邦の解体により、それぞれ「ウズベキスタン共和国」「タジキスタン共和国」に国名変更した。

注2)1992年〜1997年の内戦:
1992年、旧共産党勢力とイスラム勢力を含む反対派の対立により内戦が勃発。1994年に暫定停戦合意に至り、国連安保理は国連タジキスタン監視団(UNMOT)を派遣。その後も断続的に戦闘状態が続き、1997年に最終和平合意が達成された。1998年7月には、UNMOT政務官として日本政府からタジキスタンに派遣されていた秋野豊氏を含む4人のUNMOTメンバーが、首都ドゥシャンベ東方の町ラビジャール付近で襲撃され、殉職した。

注3)タジキスタンの家族構成:
タジキスタンには、一番下の息子が両親の家に最後まで留まり、家督を継ぐ伝統がある。息子が3人いるならば、長男がまず結婚して、その妻が主婦となる。次男が結婚すると今度は次男の妻が家を取り仕切り、三男が結婚すると、主婦の座は最終的に三男の妻へと移る。長男、次男は経済的に余裕があれば独立して別に一家を構えるが、独立せずに引き続き同居する場合もある。その場合、三男夫婦以外の大人は、農作業に出たり、実子や甥姪たち(或いは孫たち)の面倒をみるなど、それぞれに持ち場を見つけて働く。(息子がなく、娘がいる場合はケースバイケース。娘の結婚相手が三男であれば、娘はそちらに嫁ぐこととなり、三男以外であれば、こちらに婿入りしてくれることもある。)

パミール高原
パミール高原の山々(高橋ナイリァ氏撮影)

2009年10月01日

特別編:エスペラント

19世紀末のポーランドで考案された「国際語」エスペラント

国はないが、世界に広がるエスペラント・コミュニティ

 毎号、様々な国に滞在経験をもつ方にお話を伺って構成している「海外生活の達人」シリーズだが、今月は特別編として、国をもたない言語「エスペラント」について扱いたい。

 今回取材させていただいたのは、エスペラントに造詣の深い、石川尚志・智恵子夫妻である。尚志さんは、長年スウェーデン系企業、ガデリウス株式会社の法務室に勤務した経歴をもつ。仕事では英語を使ってきたが、そもそもエスペラントに関心を抱いたのが小学生時代、実際に独習を開始したのが中学生時代…とエスペラントとの付き合いは英語同様に長い。1976年に本格的に学習を始め、30余年を経た現在、財団法人 日本エスペラント学会の機関誌編集等に協力している。智恵子さんもエスペラント学習歴は1970年からと長く、現在は同財団の理事を務めつつ、エスペラント講師として各地で入門者から上級者まで、様々なレベルのクラスを担当している。

 「エスペラント」とは何か―その存在を知る日本人は多いが、どのような言語であるのか、いつごろ成立し、どのような歴史的変遷を辿ってきたのかは余り知られていないのではないだろうか。筆者もその一人であった。

 「エスペラント」はフランス語のエスポワール(希望)、スペイン語のエスペランサなどと同源の「希望する人、物」という意味で、“人類の希望の言語”という意味が込められた(エスペラントの)単語である。*注1)エスペラントを考案したザメンホフが1887年にロシア語で“Lingvo Internacia(国際語)”を著し、それを発表した際に、「エスペラント博士」というペンネームを用いたことから、言語自体もその名で呼ばれるようになった。世界各地に点在するエスペラントの話者は「エスペランティスト」と呼ばれる。*注2)

 ザメンホフは、帝政ロシア領のポーランド、ビャウィストクに生まれ、ワルシャワの眼科医であった。ポーランドは、何度も国家的帰属を変えさせられた歴史をもち、その結果として、多言語が交錯する社会だった。19世紀末のビャウィストクには、ユダヤ人、ポーランド人、ロシア人、ドイツ人、ウクライナ人が居住し、その内の半数以上をユダヤ人が占めていた。ユダヤ人社会ではイディッシュ(イディッシュは中世ドイツ語の色を濃くとどめた、ユダヤ人独特のドイツ語。ドイツ語の方言に分類されることもある)が話されていたが、「支配者の言葉」であるロシア語の影響力は強大だった。*注3)自身もユダヤ人であったザメンホフは、言葉の違いが憎しみを生み、人々を対立させる現実に幼い頃から直面し、その原体験から、一つの中立な言語を生み出したいと熱望するようになった。

 「ザメンホフは、家庭ではイディッシュを話し、帝政ロシアの下、ロシア語を学ぶことを余儀なくされ、ギムナジウム、モスクワ大学と進む過程でドイツ語、フランス語、ギリシャ語、ラテン語も身につけたという、いわば語学の天才。男性名詞、女性名詞や複雑な格変化が存在する語学を一通りマスターした後で、比較的遅い時期に英語を学び、その簡略さに“目から鱗が落ちる思い”を経験した。“シンプルでも通じるのであれば、そぎ落とせるだけそぎ落とせばよいのだ”と、新しい言葉の構想を練り、10代の内にエスペラントの原型を構築。そして、試しに聖書や詩を訳してみるなどし、どれだけの表現をなしうるかを検証したそうです」と智恵子さん。

 こうして出来上がったエスペラントは、前述の通り1887年に発表され、1905年に第1回世界エスペラント大会(注2参照)を開催するに至る。この時、エスペラントの骨格をなす基礎的な文法や造語法が“変更不可なもの”として規定されたが、以後の言語の発展は自然に任された。

 エスペラントの基本的な語彙2612語の内訳をみると、純スラブ系29、純ゲルマン系326、純ラテン系861、ラテン経由のゲルマン系663となっており、ラテン・ゲルマン系を合わせると1850語(約7割)に上る。アクセントはスペイン語やイタリア語に、構文はスラブ系に似ている。母音は日本語、スペイン語、イタリア語に近く、子音は英語に近い。「総じて西欧の言葉を母語とする学習者にアドバンテージがあるのは否定しえない」と尚志さん。しかし「誰もが容易に学べる言語」として考案されたエスペラントは、発音が一通りしかなく、母音の“a”をエイと読んだり、アと読んだりする複雑さはない。文法に例外がないのも特徴だ。

 日本にエスペラントが普及したのは、20世紀の初頭である。*注4)1906年には日本で初めてのエスペラントの入門書(二葉亭四迷著)が刊行され、1908年には、後に『広辞苑』の編者となる新村出が、第4回世界エスペラント大会(ドレスデンで開催)に出席している。更に時代が下った1920年代はじめには、国際連盟の委任統治委員会日本代表としてジュネーブにいた柳田国男や、国際連盟事務次長だった新渡戸稲造が、エスペラントを国際連盟の公用語とするよう働きかけた経緯もある。(実現はならなかった。)作家、宮沢賢治にエスペラントとの縁があったことも知られている。*注5)

 欧州では、その後ナチスドイツの台頭によって、エスペラント運動が迫害を受け、スターリン時代のソ連では、エスペランティストが大粛清を受けた。日本でも、太平洋戦争に向かう時勢の中で、エスペラントの目指す平和主義や国際性そのものが「反国家的」とされるなど、厳しい時代を経験した。

 「第二次世界大戦後は、国際社会におけるアメリカの影響力が増し、国際政治・経済の世界で英語が果たす役割が大きくなった。日本でも“外国語学習といえばまずは英語”という考え方が浸透。政治やビジネス、あらゆる分野での近年の“グローバル化”がその傾向にますます拍車をかけている」と尚志さん。「海外とつながるためのチャネルとして英語が選ばれるのは、現実問題として無理からぬこと」と納得しつつも、英語にはないエスペラントの個性がもっと認知されれば…との思いが尽きない。

 「エスペラントのよさは、それを母語とする話者がいないこと。従って、非英語圏の国民が、英語のネイティブスピーカーと渡り合わねばならない時に感じるようなストレスがない。話者各々の学習歴によって表現能力は変わってくるが、エスペラントにはその背後に“オーソリティ”となる国が存在しないので、誰もが対等な立場で話すことができる」―尚志さんはそう強調する。

石川尚志さん
ワルシャワのハリーナさん(右端)宅にて。
中央が石川尚志さん、左の二人はエスペランティストのスウェーデン人夫婦。食卓での会話はもちろんエスペラントで。(2005年撮影)

 「エスペラントは造語法が柔軟なため、例えば名詞が形容詞に、その形容詞が更に動詞化することも可能。120年前に考案された時と比べると、語彙数も格段に増えている。多くの言語学者は “計画言語”であるエスペラントを“自然言語”である他の言語と区別しているが、時代の流れの中で刻一刻変化しているという点で、エスペラントは紛れもなく“生きた言語”」と智恵子さん。

 世の中に新しい事物が登場したとき、その呼称はどのようなプロセスで決まるのかを伺ったところ、「あくまで、使用者の趨勢に任される。当初は複数の表現が並行して使われ、その後どれか一つの表現に集約されていく」とのこと。例えば「コンピューター」については、「コンプテーロ」「コンプティーロ」「カルクリーロ(“計算機”に由来)」などの言葉が同時並行で使われ、ある程度の年数を経て「コンプティーロ」が定着したそうだ。フランスにあるAkademio de Esperantoという組織も、新語の採用を採決するような権威はもたず、エスペラントの語法について混乱が生じた時などに、学問的立場から“指針”を示すにとどまる。

 さて、エスペラントを用いると、実際にどのような交流が可能になるのであろうか。エスペラントの活動の一つに、「国際民宿組織(Pasporta Servo:パスポルタセルボ)」がある。海外を訪れる際、訪問国のエスペランティストの自宅にホームステイする制度である。自宅に外国人を受け入れてもよいと考えるエスペランティストは、パスポルタセルボの名簿に自分の名前や住所と“条件”を記載する。(条件欄には、例えば、食事は家族と同じものを供するとか、寝室のみを提供するので食事は自前で―とか、寝袋を持参してほしいなどと書く。)いずれにせよ、「お客様扱い」をせず、普段着のもてなしをするのが一般的だ。訪問者がステイ先に謝礼を支払う必要はなく、「滞在中はエスペラントを話す」のが唯一の御礼とのこと。名簿を見て訪問希望先にコンタクトする際、手紙を書く言語はもちろんエスペラント。交渉開始段階からすでに「交流」が始まっている。

 石川さん夫妻は、子どもたちが小さい時分から、こうした海外からのお客の受け入れを積極的に行ってきた。何冊ものアルバムには訪問客と撮った家族写真や、彼らからの礼状がきれいに整理されている。「どの国の人とも、エスペラントをやっているという一点でつながり、すぐに友好的になれるのは楽しい」と智恵子さん。子育てなどもあり、自身が海外に出向けるようになったのは最近のことだが、「エスペランティストのネットワークによって、その国により深く分け入れるのが醍醐味。一般的な海外旅行のように、ホテルに滞在するのとは見える世界が違う」とその魅力を語る。

石川智恵子さん
アフリカ、ベナンのポルトノボで開催されたエスペラント会議に参加した石川智恵子さん。イタリア人(中央)、ブルンジ人(左)の参加者と。(2008年撮影)

 エスペラントは海外の文学作品を紹介する手段ともなる。話者の少ない言語の文学も、一旦エスペラント化されることで、更に多くの言語に翻訳される可能性が生まれる。言語として成熟してきている今日では、最初からエスペラントで書かれた小説や詩なども数多く存在し、それらを堪能するのも学習者の楽しみであるそうだ。また、エスペラントによって文通やメール交信をすることによって、(英語によるのとは違った)視点を与えられる思いがするとのこと。例えば、ある国際的な事件が起こった時に、海外の文通仲間に向け、エスペラントで“日本ではこのように報道されているけれど、貴国ではどう受けとめられているのか”を尋ねることができる。「日本のジャーナリズムは、英語的な思考に染まっている部分(=アメリカの価値観に影響されている部分)が大きいので、彼らからの反応に新鮮な思いを覚えることが多い。複眼的なものの見方をする上でも、エスペラントの効用は大きい」そうだ。

 智恵子さんのエスペラント講座の生徒の平均年齢は60歳を超える。子どもが巣立ち、或いは退職などを機に新たな言葉に挑戦したいと思い扉を叩いた人が多い。「“苦手だった英語に再チャレンジ”もよいが、ゼロからエスペラントを学ぶほうが、心理的に楽な面もある。生涯学習の選択肢にエスペラントも加えてみては?」と微笑む。

 もっとも、エスペラントの普及は両刃の剣ともいえるようだ。限られた数のエスペランティストが善意で交流しているうちはよいが、話者人口が広がれば、負の事件も起こり得る。最近では、日本人が海外からエスペラントでの文通を申し込まれ、応じると「あれを送って欲しい。これを送ってほしい」などと要求されるケースもあるそうだ。パスポルタセルボの名簿が国際詐欺などの犯罪に利用されないという保証はない。「しかし、社会の中に生きる言語である以上、きれいごとで済まされないのは当然。それもこれも含めてのエスペラントなのです」―石川夫妻は穏やかな表情で、そう締めくくった。

(齋藤志緒理)

注1)田中克彦『エスペラント−異端の言語』(岩波新書, 2007年)「はじめに」ページ vi

注2)
●エスペランティストとは:
1905年に開催された第1回世界エスペラント大会では、ザメンホフの起草による「ブローニュ宣言」が採択された。同宣言は、エスペランティストを「どのような目的に使うかにかかわらず、エスペラントを知り、使う人」と定義し、エスペラント主義を「異なる民族に属する人々の相互理解を可能にする、中立的な言語の使用を広める努力」と規定した。
(後藤斉「計画言語の可能性を実証したザメンホフ−Lazaro Ludoviko Zamenhof, 1859-1917」:『月刊言語』第30巻, 2001年2月別冊号「言語の20世紀101人」)

●エスペラントの話者数:
エスペラントは、それを母語とする国がないため、世界中の話者数の把握が容易でない。“表現能力も使用頻度も高い人”に限るのか、“使用頻度は低いが、基礎を知っている人”まで含めるのかによって数字が異なり、数十万人から百万人と諸説ある。※参考データ:日本エスペラント学会の2009年7月現在の日本の会員数は1,255名。また、世界エスペラント協会の機関誌“Esperanto”(2009年6月号)によると、2007年の同協会の会員数合計は18,503人である(これは、世界70ヶ国の国別組織と120ヶ国の個人会員を合計した数字。)「世界エスペラント協会」はエスペラント界最大の組織ながら、他にもいくつか世界規模の組織がある。また、どの組織にも所属しない話者も多いため、この数字は世界のエスペランティストの総数を反映するものではない。

注3)田中克彦, 上掲書(pp.102-103)

注4)アジアにエスペラントが最初に上陸したのはまず日本で、それには二つの経路があった。一つは日本に住むキリスト教メソジスト派宣教師によるものであり、もう一つは二葉亭四迷がウラジオストークで学んで、自ら持ち帰ったものである。(田中克彦, 上掲書:p.121)

注5)田中克彦, 上掲書(pp.124-151)

●宮沢賢治とエスペラント:
1926年、30歳だった宮沢賢治は、たまたま上京した折に、エスペランティストであった駐日フィンランド公使、ラムステットの講演を聞く機会があり、エスペラントを学び始める。自分の作品が海外でも知られるようになればとの願いからか、自作のいくつかの詩や短歌をエスペラントに翻訳した試作も残っている。賢治はエスペラントを極めるまで学習を続けることはできなかったが、作品中に登場する地名「イーハトーヴォ」などには、エスペラントの影響がみられる。

<エスペラントで挨拶>(発音はローマ字読み)

「こんにちは。田中です」 Saluton! Mi estas Tanaka.
 *Saluton! は朝昼晩いつでも使える軽い挨拶。

「私は日本人です」 Mi estas japano.
 *japano は「ジャパーノ」ではなく、「ヤパーノ」と読む。

「ありがとう」 Dankon!
「どういたしまして」 Ne dankinde.

2009年09月01日

アラブ首長国連邦

アブダビやドバイの姿は、UAEの一面

「誇り」を大切にし、人を見極める「眼力」に優れた人々

 近年、豪華リゾート施設の開発や、超高層ビルの建築など、経済の活況ぶりが報じられているアラブ首長国連邦(以後UAEと表記)。アブダビやドバイ*注1)には、日本からの駐在員やその家族約3000人が在住している。中東の中でも、特に日本との経済交流が盛んな国だが、UAEの文化について一歩踏み込んだ知識をもっている日本人は意外に少ないのではないだろうか。

 「UAEに滞在する日本人も、そのほとんどが、この国の人々のことを知らないまま帰国してしまいます。UAEでは外国人がアラブの文化やイスラムの教義に生活を規定されることはなく、たとえば、女性がアバーヤ(外出の際に纏う外套)やベールを身につける義務はありませんし、車の運転も自由にできます。加えてアブダビやドバイは“multinational”(多国籍)な文化で、英語が通じ、世界中のものが手に入る。日本人としての生き方を変えなくても済むのです」−そう語るのは、1991年にUAE人男性と結婚し、現在は18歳を筆頭に10歳までの三男二女の母となっている岸田直子さんだ。

 岸田さんによれば、UAEは人口のほとんどを外国人が占め、地元の人間はかなりの少数派である。(全体人口約5百万人のうち、UAE国民は18%。旅行者も含めると、都市部における人口比率は10%以下になる。)「アブダビやドバイにいる限り、日本人駐在員やその家族がUAE人に出会う機会そのものが限られている。*注2)仮に出会ったところで、アラブの伝統に則った生き方を踏襲しているUAE人と外国人は、そもそも生きている場所が違うのです」と岸田さん。

 岸田さんが住んでいるのは、夫の故郷ウンムアルクエイン首長国。首都アブダビから220km離れ、周囲に外国人はあまり住んでいない。夫のユーセフ氏は米国の大学で“industrial engineering”を専攻したエンジニア。ある産業を興す際、工場の立地条件、予定される生産高、必要な労働力、その土地の人口と消費傾向などを調査し、最適な規模とシステムで工場を設営するための方法論を学んだ。現在は国内で2つの工場を経営し、また政府の経済アドバイザーとして多忙を極める毎日である。

岸田直子さん
岸田直子さん

 結婚後の十余年は育児に専心し、ほとんどの時間を家の中で過ごしたが、子育てをする中で、「日本人としての自分と、UAE人と結婚した立場で、社会に貢献できることはないだろうか」という思いを抱き始めた。高校で米国、大学でメキシコに留学した岸田さんは、早稲田大学在学中にオペレーション・ローリー*注3)に参加してパナマで冒険生活を送り、総務庁(当時)の「東南アジア青年の船」でASEAN諸国を訪れた経験もある。その英語力を買われて、3年後、同庁の「世界青年の船」プログラムの通訳を務めた折、UAEの参加青年として乗船していたユーセフ氏に出会った。元々好奇心やチャレンジ精神が旺盛で、国際経験豊かな岸田さんだけに、家庭人としての充実とは別のところで、何かを始動させたいと思うのは時間の問題だったのかもしれない。2001年に子どもの通う公立校で課外活動のコーディネートを手伝い始め、2003年からはUAEの大学で週に一度日本語を教えた。

 2005年、夫が仕事上の便宜のため、アブダビにアパートを借りることになった。単身で行き来することを想定していた夫に、岸田さんは思い切って家族全員での転居を提案し、実現した。そして、このアブダビ滞在が岸田さんの本格的な再出発点となった。アブダビで日本人会に入ってみると、驚くことに、在留邦人のほとんどが何年もUAEに住みながら、UAEの友人をもたないままに帰国している。話してみると、皆UAEについてもっと知りたい、UAE人と知り合いたいという思いは抱いているのに、その手立てがないことがわかった。

 自分の経験や知識が役立つのであればと、岸田さんは自宅に駐在員夫人を招き、定期的に勉強会を催すことを思い立った。毎回「UAE女性の生き方」「UAEが抱える発展の弊害」などとテーマを決め、十分に準備して当日に臨んだ。参加夫人たちは、今まで誰にも聞くことができなかった質問を、この時とばかりにぶつけてくる。この勉強会の評判が、あるときドバイの総領事夫人の耳にも届き、「ドバイでもぜひ」という話になった。開催場所として総領事公邸を提供してもらい、参加者は夫人の呼びかけで集まった。二都市で続けたこの勉強会は、岸田さんにとってUAEについて改めて学ぶ絶好の機会となったが、今後の活動につながる人的ネットワークができたのは大きな意味のあることだった。

 1年後、手応えを感じてウンムアルクエインに戻ったあと、UAEと日本の交流の基点になればと、2008年3月、独力で「日本UAE文化センター」を立ち上げた。あくまで非営利の運営で、経費は参加者から集める費用(実費)でまかない、プロジェクトによっては企業にスポンサーになってもらう。賃貸が高額なUAEでは常設の事務所は持たず、女性福祉団体やスカウト施設を借りている。その活動の4本の柱は、(1)日本文化をUAE人に伝える活動:日本語講座、学生対象のサマーキャンプ等(2)UAE文化を日本人に伝える活動:「イスラム概念」「アラビア書道」「アラブ料理」等の講座、博物館見学やUAE人宅訪問などのフィールドトリップ(3)両国の人たちが交流するための“social day”や、学生会議等の開催(4)日本に留学経験のあるUAE人のネットワーク作り−である。

 「日本人の間では、“UAE人は大金持ちで、国から保護されて安穏と生きている”というイメージが一人歩きしているようだ。しかし、UAE人も実生活において、お金や家族、教育、結婚、介護のことなど、日本人と同じような問題を抱えて苦労している」と岸田さん。1971年に建国されたUAEは、以来三十数年の間に激動の発展をとげた。ユーセフ氏が生まれた頃は電気も水道もなく、初めて町に電気が通ったのは小学校2年生の時。水道が通った時は夢を見ているようだったという。「同じ中東でも、クウェートやサウジアラビアは豊かになってから既に何世代も経ている。しかしUAEは発展が遅れた分、苦しい時代の記憶はまだ新しい。皆、今の繁栄が当然とは思っていない。それだけに人々の心に素朴な温かみが残っている」とも。

 当初は双方の家族に反対された結婚も、年を経るごとに、周囲から受け入れられていった。UAEの人々は、人を見抜く洞察力は鋭く、何気ない会話や場面で深く評価する。例えば、脚の悪い義父のために毎月薬を取りに行く病院では、待合室にいる主婦たちが岸田さんの姿を見ている。また、炎天下タクシーを待ちあぐねているお年寄りの女性に声をかけ、家まで車で送り届けると、名乗ったわけでもないのに、あとで町の誰もが岸田さんであると知っている。「UAE人は、日常の無意識な行動から、その人が信用のおける人なのか、心打ち解けられる人なのか、見極めようとする。彼らの懐に一旦迎え入れられれば、その後の人間関係も円満に築いていくことができる」と岸田さん。そして、「UAE人は名誉をとても大切にする。私も結婚して以来、夫や子どもたちの名誉を傷つけぬよう、その点は非常に気を遣って自分を律してきたつもりです」と言葉を継いだ。

 夫が、結婚当初からUAEのやり方、特にイスラム教に則った生活規範を、まったく強制しなかったことは、とてもありがたかったという。彼女自身、その時々で、できることとできないことを見定め、夫婦でよく話し合ったそうだ。事ある毎に、“家族として何を最優先すべきか”、“そのためには誰が何を妥協したらベストか”を考え、折り合いをつけてきた。そうして年数を重ねるにつれ、彼女ができる範囲も徐々に広がっていった。

 子どもたちは皆、美しい日本語を話す。母国の言葉を伝えたいという岸田さんの思いもあったが、長男が生まれた時、夫から「自分が完璧に話せる言語で子どもを教育してほしい」と要望されたからだ。岸田さんはアラビア語も解するが、子どもの前では使わずにきた。“きれいなアラビア語”を話すことが社会的ステータスを表わすUAEで、子どもたちが中途半端なアラビア語を口にしては…という親心である。そのため家庭内では子どもたちとは日本語で会話し、夫とは英語で、夫と子どもたちはアラビア語で話している。

 日本UAE文化センターの運営は、生易しいものではない。UAE人と日本人の価値観の狭間で苦しむこともある。例えば、講座を受け持っているUAE講師が、当日急に来られなくなる。「今日は参れません。インシャアッラー(神の思し召しで)」と言われれば、アラブの文化では、それ以上理由を問うことはできない。家族が病気なのか、いずれにせよ、よんどころない事情が生じたことは確かだ。だが四角四面に考えがちな日本人受講者の中には、理由のないキャンセルに憤り、「受講料を返金して」と詰め寄ってくる人もいる。「私がセンターをやめようと思ったら、いつでもやめられる。でも続ける努力をすることで、その先が開けていこうというもの」と岸田さん。彼女のエネルギーの源は、10代から20代にかけて様々な機会に恵まれ、多くの人たちとの出会いの中で成長できたことへの感謝と、その恩を返したいという思いだ。「私がやっているのは“将来に託す”活動。今、こうして心を尽くしていることが、若い人たちに伝わり、その中からたとえわずかでも、私のバトンをつないでくれる人が出てきたら嬉しい。私自身が燃え尽きてしまわぬよう、バランスを保って、息の長い活動をしていきたい」と清々しい表情を浮かべる。

 昨年、岸田さんの長男が全国トップの成績で高校を卒業し、UAE政府の奨学金を得て、今春早稲田大学理工学部に入学した。その様子を気遣い、一時帰国した夏に、このインタビューは実現した。

 最後に、今後UAEを訪れる人への思いを尋ねると、「旅行で来られる方には、ぜひアブダビやドバイ以外の首長国にも足を延ばしていただきたい。ウンムアルクエインの海岸線、フジャイラの渓谷、ラッセルハイマの土漠など見応えがあります。“砂漠に摩天楼”だけがUAEではないということを知ってほしい。赴任される方には、少しでもUAE人とのふれあいの機会を求めていただけたら」と柔和な笑みを返してくれた。

(齋藤志緒理)

注1)アブダビとドバイ:
UAEは7つの首長国から成る連邦国家で、各首長国から選出された大臣等で構成される連邦政府が政治経済全体を司っている。各首長国にはシェイクと呼ばれる首長がおり、細部の内政は自治となっている。但し、石油を産出する国とそうでない国とではGDPに大きな差異があり、石油の出るアブダビ首長国、商業が盛んなドバイ首長国が、実質的にUAEの経済を支えている。(大統領にはアブダビ首長が、副大統領兼首相にはドバイ首長が就任する決まりがある。)

注2)通常、日系企業が諸外国に現地法人を設立する際は従業員として現地の国民を雇うが、UAEではインド人やパキスタン人を雇用するのが一般的。その背景には、UAE人の高水準な人件費(=大学卒の初任給が50万円相当)がある。

注3)オペレーション・ローリーとは、英国の探検家ウォルター・ローリー卿の名を冠した国際的な青少年育成冒険プログラム(1984年創設)。世界中の若者たちが言葉や文化などの壁を乗り越え、共同生活を送りながら、世界各地の大自然の中で数々の冒険・調査・ボランティア活動を行うもの。

岸田さん一家
岸田さん一家:長男(後列中央)を囲んで。
長男が最年少16歳で全国トップの成績で高校を卒業した際、優秀学生を招いての祝宴がUAE首相によって催され、各学生に賞金とコンピューターが贈られた。(2008年6月撮影)

2009年08月01日

ネパール

約40の民族が共生する「超多民族国家」

人間関係が濃密で、“人の温かみ”を感じる国

 「ネパールとの縁は、10年前、あるきっかけによって始まりました」−山脇幸子さんは、そう当時を振り返る。山脇さんは、日本の大学で英文学を学んだ後、2年間英国の大学に留学し、修士課程で国際関係や開発問題を専攻。

 帰国後に就職したが、「自分はまだ発展途上国というフィールドを肌で感じたことがない」という思いが脳裏を離れなかった。そんな中、1999年の年末に2週間の休暇が取れることになり、その時期に参加できる、実践的な海外プログラムはないかと探したところ、大阪のある国際NGOが「ネパール国際ワークキャンプ」を主催するという情報に行き当たった。そこからの行動は早かった。大阪に行き、主催団体の人たちと直接会って、そのツアーが安心して自分の思いをかけられるものなのかを確認し、参加を決めた。

 2週間の滞在中、ツアー参加者の約15名は、首都カトマンドゥの東に位置する村の一軒家を借り、各自が持参した寝袋で休んだ。日中はフィールドに出て、様々な場所を見学したり、援助活動を行ったりする。主催団体のポリシーは「押し付けの援助にならないようにすること」で、ネパール側から助力を請われた分野の中から、毎年1つを選び、資金を募り、年間通して目的達成のために準備を積む。年1回のワークキャンプは年間の事業の完成を見届ける集大成的な行事。山脇さんが参加した年は、「小学校の建設」がテーマで、参加者は建築の最後の工程に携わり、落成式を見守った。年によっては、水道のない村に水道管を引いたり、医師が常駐していない農村に、カトマンドゥの医師団を送り、健康診断キャンプを行ったりしている。

 ネパールの国土は日本の約40%(北海道の約1.8倍)で、その中に40以上の民族が住んでいる(全人口は、約2800万人:2007年統計)。ネパール語以外の言語を話すマイノリティーグループは多数あるが、その中でも、カトマンドゥ市を中心としたカトマンドゥ盆地には、中世に都市国家を築いたチベット・ビルマ系民族の“ネワール人”が今も多く住んでいる。ネワール人の全人口に占める割合は5%程度だが、民族意識が大変強く、独自の言語・ネワール語や伝統文化を熱心に守っている。山脇さんたち一行を迎え入れたネパール側のメンバーもネワール人たちであった。

 市街を歩くと、中世を思わせるような古い建物が、崩れかかりそうになりながら、ひしめき合って建っている。レンガと木から成る、それらの建物に目を凝らすと、何ともいえない、美しい彫刻が微細に施されていた。ネワール人が伝統的に、高い建築・彫刻の技術をもっていること。インド・アーリア系の住民がインドから移住してくる以前に、ネワール人がその都市国家を建設したことを知り、山脇さんは新鮮な感動を覚えた。

 山脇さんは、翌年のキャンプにも参加し、じきに、裏方のキャンプ準備についても学ぶようになる。そして、キャンプ初参加から3年の間に、都合5〜6回はネパールに足を運んだ。

 そして、2002年9月からの半年間、山脇さんはネパールに滞在する機会を得る。神奈川県が、県内に在住在勤する青年の国際経験を促進するプログラムを実施しており、それに応募したのだ。県がアレンジする渡航先に赴くケース、応募者自身がテーマを決めて、特定の国への渡航を志願するケースと両方あるが、山脇さんの場合は後者だった。山脇さんは、思うところあって、自身のテーマを「ネパールの高齢者問題」と定めた。滞在中は、ワークキャンプでお世話になっていた日本人リーダーの紹介で、あるネワール人一家にホームステイさせてもらうことになった。

 「ネパールの高齢者問題」と聞き、筆者は当初、意外な印象を覚えた。ネパールの基盤は農村社会であり、多くの高齢者は大家族の中で、尊敬・尊重されながら暮らしているのではという先入観があったからである。しかし、山脇さんによると、賃金労働を求めて家族全員で都市に移り住む人々が年々増えてきており、都市化と過疎化の波は、ネパールにも確実に押し寄せてきているとのこと。農村にいれば、近隣とのネットワークも強く、高齢者が孤独感を抱くことはない。元気でいる限り、農作業に引退はなく、農閑期でもカゴを編んだり、小さい子どもの面倒をみるなど、家族の一員として十分に役割を果たしていくことができる。しかし、一旦都会に出れば、若夫婦は日中働きに、子供は学校に行き、高齢者が一人家に取り残されることが多くなる。

 貧困は、農村にあっても深刻な問題だが、都市においてはより憂えるべき状況をもたらす。高齢者が自分の存在が家族にとって重荷なのではと考え、いたたまれなくなり、自ら家を出て、物乞いになるケースもあるという。国の貧困政策も外国からの援助も、どちらかというと「女性・子ども」に向きやすく、高齢者の問題はあまり認知されていない。

 そんな状況もあってか、山脇さんが現地で高齢者に関するデータを収集するのは、困難を極めた。何とか実情を知りたいという思いで調べている内に、カトマンドゥ市内に、ネパールで唯一の国営老人ホームがあることを知る。つてもなく、様子を見に行くと、マザー・テレサの遺志を継ぐミッショナリー(インドのカルカッタに本部がある)が同ホームで長年奉仕活動をしているのがわかり、自身もボランティアとして受け入れてもらいたいと早速願い出た。以来、午前中は毎日ホームに通って、シスターたちと共に、掃除、洗濯、入浴、食事などを手伝い、高齢者介護を巡る状況を実体験した。*注1)

 ホームステイした一家は、両親と娘2人孫2人の家族構成だった。ホストファザーはかつて、まだネパールに自転車がなかったころ、インドから自転車を持ち帰り、事業にしたという起業家精神の持ち主。また、「男尊女卑」の傾向が強いネパールにありながら、3人の娘たち全員を留学させ、博士号まで教育をつけさせた。ネワール文化の維持・継承に熱心で、家の中での会話は全てネワール語。そうとは知らず、出発前にネパール語の基礎を身につけていった山脇さんは、「我々はネパール人である前にネワール人である」という家族の言葉に戸惑った。一方、一歩家の外に出れば、ネパール語も必須。山脇さんは、できる限り現地での交流を深めようと語学の習得に励み、老人ホームで奉仕活動をした後は、ネパール・ネワール両言語の先生のところへ日替わりで通った。その甲斐あって、家庭内ではもとより、老人ホームでも入居者たちと現地の言葉で心通わせ合うことができるようになっていった。

食事は右手で (山脇幸子氏)
ネパールでの食事風景:
食事の際は、必ず右手を用いる
(写真中央:山脇幸子氏)

 「ネパールでは、概して人間関係が日本より濃密」と山脇さん。ご近所同士、友だち同士…どんな間柄でも「直接会って話すのが基本」。親しくなったら「うちでお茶でも飲んでいって」と声を掛け合うのが普通で、朝7時くらいから来客があることも珍しくない。都市化が進んだとはいえ、日本の都市部のような、“アパートの隣の住人が誰か知らない”といった状況は、ネパールでは考えられないとのこと。大変人懐っこく、人助けが好きなので、困っている人やその土地に不案内な旅行者には、自然体で手を差し伸べる。「知らない人には関わらないほうがいい」という感覚はない。山脇さんも滞在中、ネパール人の温かさや人間味に救われる思いがしたことが幾度となくあった。

 ところで、ネパール人はヒンズー教徒8割、仏教徒が1割、イスラム教徒が4%弱という構成だ。「ヒンズー教は多神教で、人間の数より神様の数の方が多いといわれるくらい」と山脇さん。ちょっとしたものにも神様が宿るとされる。例えば、道路に穴がポッコリ空いていて、穴の中を覗いてみると石が−という場所にも頻繁に遭遇する。その石には赤い印がつけられている。昔から神様が宿っていると信じられてきた石で、道路を敷設する際も、そこを覆うようなことはしなかったのだ。歩行者が穴に足をとられかねず、危険といえば危険なのだが、そこは安全性や効率性よりも神様を大切にするネパール人ならではの考えだ。

 「輪廻転生」の考えも根強く、カースト*注2)が低い身分に生まれた者は、前世の行いが悪かったためと、諦めの境地に至ることもある。「様々な条件、制約はあるにせよ、自身の努力によって、未来を切り開いていかれる日本人との違いを思う」と山脇さん。「ある意味達観しているからなのか、彼らは、人生を大きな時間の流れに委ね、ゆったりとした心持ちで過ごしているように見える」−とも。

 現在、山脇さんは、東京で、英語教育専門の会社に勤務している。帰国して以来、時折、近所のディサービス施設でボランティアもしており、「今後も地域社会における高齢者の問題に積極的に関わると同時に、高齢社会の先輩としての日本の現状、政策、制度について知識を深め、将来はネパールのお年寄りの“エンパワーメント”に何らかの形で貢献したい」と力強く志を語る。“思いを思いとして終わらせず、自ら情報を求め、行動し、そしてまた次に進んで、考え、行動する”−お話を伺い、山脇さんのその一貫した姿勢に打たれる思いがした。

(齋藤志緒理)

注1)ネパールの国営老人ホーム:
病気や障害をもっており、同居できる家族がおらず(家にいたたまれなくなって出奔した人も含む)、経済的に困窮している人が入居していた。山脇さんが奉仕活動を行っていた当時の女性部屋は、「レンガの壁にトタン屋根、セメント製の床で、鉄格子の入った窓が3,4あったが、硝子は入っておらず(現地では一般的)、風雨を避けるため、外側から青のビニールシートやベニヤ板でふさがれており、日中でも薄暗い。ベッドは鉄パイプに板を張ったタイプのもの」−という状況。「介護者の人数は十分でなく、専門的な知識をもったスタッフの育成もまだまだで、入居者にとって理想的な場所とは言いがたいが、それでも“ここにいれば、食べるもの、着るものに困らず、緊張や不安を感じずに暮らせるから幸せ”というコメントをよく聞いた」と山脇さん。奉仕活動を通じて、「伝統的に“親の面倒は子が看るもの”と考えられているネパールでは、高齢者の問題に社会全体で取り組もうとする発想が起こりにくく、老人ホームのような施設は敬遠されがち」と実感したそうだ。「家族と一緒に暮らしながら、日中の時間を外で同世代の仲間と過ごす、デイケア・センターも若干出来てきているが、こうしたセンターに行けるのは、ある程度生活にゆとりがあり、体力的にも独りで通える人に限られている」「高齢社会の先輩として、日本にはどんなことができるのか。それは、インフラの問題だけでなく、文化や思想、宗教観まで関わってくる難しい問題」と考察する。

注2)ネパールのカースト:
ネパール語を母語とする、インド・アーリア系の“パルバテ・ヒンドゥー”は、もとはインドから移動してきた人々で、現在全人口のおよそ半分を占めている。彼らは、ネパールにヒンドゥー文化と職業集団“カースト”を持ち込んだ。パルバテ・ヒンドゥーのカーストには“バウン”(司祭カースト=ブラーマン)、“チェトリ”(王侯・軍人カースト=クシャトリア)の他、いくつかの職業カーストがある。18世紀に現国王の先祖がネパールを統一して以来、国の要職は、バウンやチェトリといった高カーストが占めてきた。(解説:山脇幸子氏)

ネパールの結婚式(写真提供:山脇幸子氏)

ネパールの結婚式:ネパールでは花嫁は白ではなく赤をまとう
(山脇幸子氏撮影)

2009年07月01日

ザンビア

“リアル・アフリカ”と呼ばれる国、ザンビア

穏やかで小さいことを気にかけない国民性

 中南アフリカに位置する内陸国、ザンビア。英国からの独立は、1964年のことであった。他の多くのアフリカ諸国と同様、民族構成は多様で、73の部族から成っている。2007年の世銀の統計によれば、国民人口は1,192万人で、首都ルサカには約140万人が在住する。公用語は英語だが、英語に加えて、代表的な7部族の言語が公共放送言語となっている(特に話者集団を多くもつ言語はベンバ語、ニャンジャ語、トンガ語、ロジ語)。標高1000m〜1350mの高地国(首都のルサカも海抜1227m)で、「熱帯性」の気候帯に区分される割には涼しい。

 木村哲郎(きむら・てつお)さんは、2000年〜2003年の3年に亘り、JICA(赴任当時は「国際協力事業団」、2003年から「国際協力機構」)・青年海外協力隊の派遣によってザンビアに滞在した。赴任先は、「東部州」*注1)にある「サウスルアングア国立公園」の管理局(スタッフは総勢約100名)である。「サウスルアングア」はザンビアに計20箇所ほどある国立公園の一つ。国立公園内は野生動植物の保護地区で、人間の居住やハンティング、植物採集(燃料用の薪の伐採など)は禁じられている。国立公園の周囲を取り囲むように設けられているのが、人間と動物が共存する「緩衝地帯」で、管理局のオフィスやスタッフの住居は、一般住民の居住区とともにこの緩衝地帯にある。

 サウスルアングア国立公園への入り口となる町は、広大な公園の周囲に幾つか存在するが、管理局オフィスは、その中の一つ、ムフエにあった。ムフエから首都ルサカへは直行便(小型機で約1時間)もあったが、木村さんは時間的な制約がなければ、大抵陸路を利用した。ムフエから東部州の州都チパタまで車で3時間、チパタからルサカまでは長距離バスで7時間の行程だ。木村さんは、3〜4ヶ月に一度、ルサカにあるJICA事務所を訪れる以外は、専ら任地に腰を据えて、職務にあたった。

 木村さんは、元々理学部卒で、専攻は生態学だ。ザンビアの赴任先では、調査部門に所属し、国立公園内の生態環境の調査にあたった。具体的には、公園や緩衝地帯に各種動物がどのくらい生息しているか−という個体数の確認・管理を行うのである。手法としては、一定の面積内にどれぐらいの個体数がいるか実測(目で確認)をした上で、その結果を元に調査対象地区(国立公園あるいは緩衝地帯)全体での個体数を算出する。国立公園と緩衝地帯の間に柵などはないが、地図上では明確に境界線が引かれており、面積ははっきりと算出できる。

 ザンビアでは銃の所有が法で禁じられているが、国立公園内の密猟者は後を絶たない。イノシシ、インパラなどの小型動物から、バッファローやゾウなど大型の動物まで狙われる。自家用の食料とするために密猟する者。他売を目的とする者など様々だ。「元々、狩猟を生業として暮らしてきた人たちもあり、彼らにしてみたら、いつの間にか自分たちの狩場が国立公園となり、猟を禁じられるというのは、理不尽な話なのかもしれない。顧みれば、換金性が高い、例えば象牙などの価値を彼らに知らしめたのは、この地に入植してきた白人たち。新しい価値に触れることがなければ、狩りと個体数維持のバランスは保たれ、“密猟”を規制する必要も生じなかったのでは」−木村さんの思いは複雑だ。

 サウスルアングア国立公園の管理局は、公園内にパトロールチームを出して、密猟を取り締まり、仕掛けられた動物捕獲用の罠を撤去している。一回のパトロールには通常約一週間をかけ、その間は公園内に野営する。パトロールチームは多数組まれており、それらが入れ替わり立ち代り(あるいは複数チームが同時に、複数の地域で)監視を行う。管理局は、こうしたパトロール活動に加え、折々にコミュニティーの人たちとの交流の機会をつくって、「野生動物を大切にしよう」との啓蒙活動も行っている。

 木村さんは、渡航直後はルサカで2週間の現地訓練を受け、任地の言語(ニャンジャ語)の基礎や、生活に対する心構えなどを学んだ。国立公園に赴任直後は、戸惑うことも多かったが、6ヶ月もすると、するべきことが明確に見え、現地スタッフとのコミュニケーションにも不安を感じなくなったとのこと。赴任前の研修では、「日本式のやり方の方が効率的と思えても、それを現地でやみくもに押し付けることはしないように」との指導を受けており、木村さんも、そのポリシーに沿って過ごした。とはいえ、時間感覚のズレにはやきもきさせられることも多かったそうだ。例えば、ある期間の内に必ず行わねばならない調査があり、その調査には車が必須という状況下、木村さんの車が故障し、修理を頼んだものの遅々として進まないなど。

 木村さんの宿舎は平屋の一軒家で、職場まで徒歩で通える距離だった。日ごろの食事は、自炊してまかなった。ザンビアの人々の主食はシマと呼ばれるもので、とうもろこしの粉を鍋に沸かしたお湯に入れてかき混ぜ、団子状の硬さになったものを食する。木村さんも、日々シマを調理して食した。おかずとしては、干した魚(煮干大)や鶏肉をトマト・玉ねぎ・塩で煮る現地の料理法を実践した。青物野菜は地元で手に入れることができ、肉類はチパタに出かけた時に、まとめ買いして冷凍しておいた。

木村哲郎さん(ムフエ緩衝地帯の宿舎前)
木村哲郎さん(ムフエ緩衝地帯の宿舎前で)

 宿舎にテレビはなく、情報源はラジオと、JICAから定期的に送られてくる新聞ダイジェスト、そしてチパタで入手できる英字紙などであった。週末は、ザンビア人の同僚に誘われて川や湖に釣りに出たり、サバンナの木陰に一人腰を下ろして、ゆったり過ごしたりした。クーラーボックスを持参し、大自然のパノラマを眺めながら、冷えたビールで喉を潤すのは、なんとも贅沢な時間だったという。

 滞在中、マラリアにかかってしまったこともあり、高熱にうなされて大変な思いをしたが、それ以外は体調を崩すこともなく、2年の任期があっと言う間に過ぎてしまったとのこと。「まだやり尽くしていない」という思いが強く、延長申請をして、更に1年の滞在が認められた。

 ザンビアでは乳児死亡率が高く、国民皆が十分な医療を受けられる状況ではないため、平均寿命は40歳に満たない(2005年のデータ)。AIDSの問題も深刻だ。実際に暮らしてみて、木村さんは、ザンビアでは「人の死」が身近にあることを感じた。3年間の滞在中にも、知人や近隣の人々の死を何度となく経験した。ある時、同僚が重病にたおれてしまい、家に見舞ったことがあった。「今すぐ病院に運ばないと」と焦る木村さんに、同道した別の同僚は言った。「いや、病院に連れていかないほうがいいんだ。」病院に行けば、家族には重い負担となる医療費がかかる。しかも助かる見込みは少ない。ザンビア人の家庭は、子沢山の大家族が当たり前。貴重なお金は、瀕死の家族のためにではなく、これから生きていくべき子供たちのために使わねばならない。そういう厳しい現実を、つきつけられる思いだった。

 ザンビア人の家族の絆は強い。親子や兄弟姉妹間の縦の関係に加え、いとこ同士などの横の関係も大切にする。病にかかった家族を、十分な手を尽くせぬまま失う悲しみは計り知れないが、皆、避け得ないものとしてそれを受け容れ、淡々と、また日々の生活に戻っていく。このように、「家族の死」と隣り合わせの暮らしの中では、大抵のことは小さく感じられて当然。ザンビア人の穏やかさや、些細なことにこだわらない大らかさは、こうした現実に根ざす面もあるのではと、木村さんは思うようになった。

 木村さんが協力隊員に志願した際、行き先はアフリカと決めていた。アフリカ諸国の中でもサハラ砂漠以南の国を希望し、ザンビアへの赴任が実現した。その志の根っこには、子どものころから漠然とした憧れを抱いていたアフリカの“大地”に身を置き、もてる技術や知識を生かせたらという思いがあった。「何が“アフリカらしさ”か、と問われれば、答えは一様ではないのかもしれませんが、ザンビアは、“real Africa”と称され、大地の息吹が感じられる場所。“アフリカらしさ”に満ちた国と言われます。各地の国立公園も、まだ観光地化が進んでおらず、整備・洗練されていない分だけ、自然の懐に包まれる実感がもてます。日本からザンビアを訪れるチャンスがある方には、個人的には、街よりも、ぜひ自然を見に来てほしい」と木村さん。帰国後は、東京都内で会社員をしており、現在の仕事はザンビアとは関連がないが、かつての任国の動向は常に気にかかり、いつかまた、プライベートで訪れられたらという思いが膨らむ。

 ところで、ザンビアの国民的スポーツはといえば、何といってもサッカー。木村さんと同時期に、若年層のサッカー指導のため、ザンビアに赴任していた協力隊員もいた。2010年のワールドカップ(南アフリカ大会)が近づく中、ザンビア代表チーム*注2)がアフリカ予選リーグで健闘しているというニュースも聞こえてきて、木村さんも楽しみに注目している。

(齋藤志緒理)

注1)ザンビアの州:
ザンビアには行政単位として次の9つの州が存在する。中央州、産銅州(カッパーベルト州)、東部州、ルアプラ州、ルサカ州、北部州、北西州、南部州、西部州

注2)サッカー・ザンビア代表チーム:
1994年のFIFAワールドカップ(アメリカ大会)に向けて、アフリカ予選リーグが始まった1993年のこと。4月17日、セネガルで行われる初戦のため、当時のザンビア代表選手18名を乗せて飛行中だった軍用機が墜落し、18名全員が死亡するという惨事が起きた。欧州リーグに在籍している数名の代表選手は、直接セネガル入りする予定だったため、事故を免れ、他の若手選手とともにチームを再編して予選リーグを戦ったが、あと一歩のところで、予選を突破できなかった。事故前のザンビア代表チームは、世界ランキング20位台…と、ワールドカップ初出場を狙える実力だったが、以後の3大会(フランス、日韓、ドイツ)には出場を果たせていない。

ムフエ 緩衝地帯 マンゴー
ムフエ緩衝地帯のマンゴーの木(木村哲郎氏撮影)

2009年06月01日

ウクライナ

逆境の中でも光を見出そうとするウクライナ人

周囲と歩調を合わせる国民性。「白いカラス」は嫌われがち

 来日して9年目を迎える嶋崎イリーナさんは、ウクライナ東部のザポリージャ(Zaporizhya)出身。ザポリージャ国立総合大学では生物学(専門はマイクロバイオ)を学び、工業地帯からの排気や排水が植物にどのような影響を与えるかを研究した。在学中、英国に語学留学し、同時期に留学中だった嶋崎氏と出会う。大学卒業後に結婚、来日した。

 ウクライナとは一体、どのような国なのか。「旧ソ連邦の一員であったこと」「近年はロシアと距離を置き、EUに加盟して西欧ヨーロッパ社会に連なろうとしていること」などは、国際政治の脈絡で周知されているものの、多くの日本人にとって、ウクライナはまだ馴染みの薄い国であろう。

 世界中のどんな国でも、歴史を紐解けば辛苦の時代が存在するものだが、ウクライナは何世紀にも亘って諸外国による厳しい外圧や内憂を経験してきた国だ。現在の首都があるキエフは、かつて「キエフ大公国」が築かれた中心地だが、13世紀には、モンゴル帝国の侵略を受け、1569年にはポーランドの領土となる。ポーランドの圧政に対する抵抗運動は、独立運動へと発展。1654年、独立運動の指導者は、ロシア皇帝にポーランドからの保護を求め、その代償としてロシアの宗主権を受け入れる。しかし、当初認められた自治権は徐々に失われていき、18世紀後半にはロシアの一部となる。1917年のロシア革命後は、内戦状態に突入し、1922年にソビエト連邦に組み込まれる。1932〜33年には、スターリンによる農業集団化政策と、苛烈な食料調達により「大飢饉」が発生し、数百万人のウクライナ人が餓死する事態に至る。注1)第二次世界大戦中は国土が戦場となり、ドイツ空軍の攻撃を受け、多くの人命と歴史遺産を失った。1986年に旧ソ連体制下のウクライナでチェルノブイリ原発事故が発生したのはまだ記憶に新しい。1991年には独立を果たし、ソ連邦崩壊の契機となる。2004年の大統領選挙に端を発した「オレンジ革命」注2)の後は、指導者が国民の支持を得、政情は比較的安定している。

 「ウクライナは、自分から戦争を起こしたことのない国。歴史上、他国の攻撃や圧力に晒され続けてきたためか、“何事があっても、その波が去るまで忍び、耐える精神性”が根付き、日常生活においても極力我慢する性向がある。また、悪い状況の中でも、少しでも明るい要素を見いだし、希望を持とうとする」とイリーナさん。人間関係においても然り。イリーナさんは、幼少時代、両親から常々「嫌いな人がいたら、つとめてその人のいいところを見なさい」と訓育されたそうだ。

嶋崎イリーナさん
嶋崎イリーナさん(原島一男氏撮影)
 「和を重んじ、互いに助け合うところは、日本人の美徳に通じるものがある」―イリーナさんはそう分析する。但し、その際、ウクライナ人は「相手と同じ目線になる」ことに大変こだわるそうだ。困っている人がいたら、自分を高い位置に置いたまま「助けて上げる」のではなく、相手と同じ高さに立ち、共に悩み、活路を見出そうとするのが、ウクライナ人の誠意の示し方である。「ウクライナに赴任し、現地で部下をもった場合、部下の失敗を叱ることは(大勢の前で面子を失わせるような形でなければ)構わない。ウクライナ人は、叱られても大抵は素直に謝らず、言い訳をするが、言い訳をすることは、ウクライナでは一つの“謝罪”の形なので、目くじらを立てず、受けとめて上げるのが肝要」とイリーナさん。「その上で、なぜ失敗してしまったのか、よくよく理由を聞いて、共に解決法を考えるのがよい上司」とのこと。

 職場では、周りとの協調姿勢が大切だ。「あまりに真面目で、隙がないくらいに職務に実直であり、その真面目さを他者にも求めたりすると、“白いカラス”になって浮いてしまう。」(注:ウクライナでは、仲間はずれにあうことを“白いカラスになる”と表現する。)言うなれば、一人だけ「いい子ぶる」のは好まれない。あくまで程度とバランスの問題だが、ウクライナでは、仲間や部下の至らぬ部分に対してもおおらかに向かい合える人物の方が、人間的に評価される。

 ウクライナは、農業国としての伝統が長いこともあってか、農業以外で暮らしを立てている多くの都市民も、余暇には家庭菜園で野菜作りに励む。郊外に別荘を持っている家庭も少なくなく、週末は家族皆で別荘に滞在し、じゃがいも、人参、たまねぎ、なす、トマトなど様々な野菜を作る。子供たちは、幼い頃から土に親しみ、祖父母や両親を手伝う内に、野菜の栽培法を身体で覚えていくそうだ。栽培した野菜は、自家用にするほか、余剰分は気軽に市場で売ることができる。市場では、自分たちの菜園では栽培しなかった野菜を買うなどして食材を補充する。寒さの厳しい冬には野菜を栽培できず、かといって輸入物は割高で鮮度も落ちるため、秋までに収穫した野菜を、各家庭で塩や酢で漬け、瓶詰めにして保存食とする。

 料理は、身体を温める煮込み料理が主である。最近日本でもお馴染みになってきている「ラタトゥイユ」や、ロシアのボルシチのような料理だ。スープの味付けは、塩コショウでするか、トマト味にするのが一般的。シンプルに、素材の味を生かす料理法が主流で、イタリア料理に近いのでは…とイリーナさん。主食としては、小麦粉が多用され、パンを焼いたり、水餃子を作ってスープに入れたりする。蕎麦も食されているが、挽かずに「蕎麦実」のまま、炊いて食べる。また、ウクライナ東部は比較的湿潤で、米作に適しているため、お米も(ジャポニカ米、カリフォルニア米共に)流通している。蛋白源としては(牛肉はスジっぽいため)豚肉の方が好まれ、値段も高い。魚料理もポピュラーで、ムニエルにしたり、煮込んだり、オーブンで焼いたりして食する。

 家でパーティを開く際は、飲み物はビールから、ワイン、コニャックまで様々なラインナップを揃えてもてなす。興が乗ってくると歌とダンスが始まり、皆がその輪に加わる。(歌は、民族音楽からポップスまでと幅広い。)どの家庭も頻繁にパーティを開くので、夜10時くらいまでであれば、多少の騒音は“お互い様”と隣家が気にとめることもないそうだ。

 ウクライナの人々の外国人への意識はどうなのか―イリーナさんに尋ねてみると、旅行者や外国人滞在者に対しては、概してオープンで、友好的だとのこと。一般的に英語はあまり通じないので、言葉を介したコミュニケーションはとりづらいが、何かを尋ねれば、たとえ言葉がわからなくても一生懸命理解しようとする姿勢を見せてくれるそうだ。「キエフでは公共交通も整備されており、地下鉄を利用すれば移動も便利だが、表示がキリル文字のみで、英語表記がないのが難点」とのこと。現地語がわからない旅行者が独力で観光するには、まだハードルが高そうだが、将来、外国人に配慮した環境が整えば、ウクライナはもっと身近な国になっていくかもしれない。

 ところで、日本語は来日後に学び始めたというイリーナさんだが、その流暢さには驚くばかりだ。インタビュー後、嶋崎氏と2歳になる娘マリヤちゃんも合流し、食事をご一緒したが、イリーナさんは、お行儀よくテーブルに座っている愛娘に日本語で穏やかに語りかけている。ウクライナのニュースには、インターネット新聞等を通じて日常的に接するが、日本在住のウクライナ人は大変少ないため、同郷の友人をつくり、故郷の話題で盛り上がるようなこともなく8年間を過ごしてきたという。それまで全く縁のなかった東京という土地で、正に一から新生活を築いてきたのである。完璧なまでに鍛えた語学力は、その静かなる奮闘の証でもあろうか。現在は育児に専念しているが、「少しでもウクライナのことを日本の方々に知ってもらえれば」と今回のインタビューを快諾して下さった。彼女の機が熟した時、どのようなフィールドであれ、その能力が存分に発揮されることを願わずにはいられない。

(齋藤志緒理)

注1)1932-33年の大飢饉:
スターリン政権は、工業化を推進し、国際連盟に加盟して国際社会で一定の地位を得ることを目指していた。その命題の下、工業化を進める財政基盤づくりのために食料の輸出を積極的に行い、豊かな穀倉地帯であったウクライナでは強圧的な農業集団化と厳しい食料調達が推し進められた。ウクライナの人々は自分たちが生きるための食料も供出せざるを得なくなったが、農業集団化に反対したり、課せられた食料調達量が達成できない場合は厳しく罰せられた。飢餓状態に陥った人々が、種用の穀物や家畜用の飼料に手を出すことができないようパトロールが行われ、国境も封鎖された。2年間で数百万人の餓死者を出した、このウクライナの大飢饉は、自然災害によってもたらされたのではなく、旧ソ連の意図的な方策による「ジェノサイド(大量虐殺)」であったということが、近年、欧米を中心とする国際社会に認知されるようになった。

注2)オレンジ革命:
2004年に行われた大統領選挙では、上位2候補者(与党のヤヌコーヴィチ首相と、野党のユーシチェンコ前首相)の決選投票が実施されたが、与党候補勝利との結果発表に対して、野党側から不正の存在が指摘され、大規模な抗議行動に発展。ウクライナの最高裁判所は投票のやり直しを命じた。その結果、野党のユーシチェンコ候補が勝利し、2005年1月に大統領に就任した。野党支持者が、オレンジ色をシンボルカラーとしたことから、この一連の動きは「オレンジ革命」と称される。

<背景解説>
ウクライナは、「南東部の工業地域」と「北西部の農業地帯」に大きく二分されるが、南東部は産業上、ロシアとの交流が盛んで、ロシア語を解する住民も多い。一方、北西部は西隣のハンガリーとの結びつきが強い。(2004年の大統領選挙で、ヤヌコーヴィチ氏はロシアの後押しを受け、南東部住民の支持を受けた。一方のユーシチェンコ氏は、ヨーロッパ諸国や米国の後押しを受け、北西部を支持母体としていた。)ウクライナは、地理的にも、ヨーロッパとロシアの境界に位置しており、“今後もロシアとの関係を重視していくのか、それともヨーロッパ諸国の一員となるのか”という選択を迫られていたが、2004年の大統領選挙はウクライナの民意を問う選挙でもあった。しかし、オレンジ革命当時の欧米諸国のサポートが翳りを見せ始めていることや、ロシアの影響力などもあって、2009年現在、ウクライナのEU及びNATOへの参加は未だ実現していない。

キエフの聖ソフィア大聖堂
キエフの聖ソフィア大聖堂

<写真解説>
聖ソフィア大聖堂は、キリスト教と国家の権威を主張するために1037年に造られた。ビザンティン様式で建てられ、ビザンティン帝国のコンスタンティノーブルの聖ソフィア大聖堂にちなんで名付けられたといわれている。その後、キエフが諸勢力の征服・占領を受け、大聖堂も損害を受けるが、16世紀にウクライナ・カトリック教会の司教座となって、再建が始まる(1740年に完成)。大聖堂内部では創建時の装飾技法が踏襲され、外部だけウクライナ・バロック様式に造り変えられた。現在の大聖堂は再建当時のまま。聖ソフィア大聖堂は、キエフ・ペチェールシク大修道院と共に1990年に世界遺産に登録された。(嶋崎イリーナさん撮影:写真下に写っているのは、イリーナさんの父、カルーズニ・イヴァン氏。)

2009年05月01日

スリランカ

複数の民族や宗教が混在する国

スマトラ沖大地震による津波で甚大な被害

 一級建築士の遠藤和夫さんは、2008年6月、日本赤十字社の派遣により、スリランカに赴任した。スマトラ沖大地震による津波のため、家屋損壊などの大被害を受けた同国の復興支援が目的である。スリランカはインド大陸の先端に位置する島国だが、北西部を除く全ての沿岸が津波の被害を受け、3万人以上が犠牲になったといわれている。スリランカの伝統的な住宅は椰子の木を骨組みとし、ブロックやレンガを積み上げる工法で作られている。その際、つなぎとして使われているのが“モルタル”だが、モルタルは水に弱いため、多くの家屋が瓦解する事態となったのである。

 スマトラ沖地震後、12ヶ国の赤十字が復興支援に乗り出し、「建築」「援助施設の運営」「水不足解消(井戸の掘削)」「Eye Project(主に白内障や緑内障の治療)」など、様々なプロジェクトを進めてきた。地震から4年以上を経た現在は、既に幾つかの国の赤十字が撤収し、現在もスリランカに残っているのは日本、ドイツ、カナダ、デンマークのみである。

 遠藤さんは、専門の建築の知識を生かして被災者のための住宅や病院の建設に携わってきたほか、各国の赤十字から寄せられた義援金の使途を確認する業務(モニタリング)も担当してきた。スリランカ人の部下をもち、赤十字組織外のスリランカ人と折衝をする機会も多いが、海外で仕事をした経験のあるスリランカ人はまだ少なく、色々な面で“やり辛さ”を感じることもある。例えば、スリランカ人スタッフに、より効率的なやり方を指導すると、その時はそのやり方を試すのだが、すぐに自分が慣れている、もとのやり方に戻ってしまう。“なぜそのやり方がよいのか”を理解し、吸収しようと努める姿勢があまりみられない。また “時間の感覚”も異なり、約束に遅れても謝らずに言い訳をし、「これがスリランカのカルチャーだ」と開き直ったりもする。

 スリランカでは、大学までの教育費は無償である。一見、教育環境が整っているかに思えるが、高校でも、授業が午後1時半には終わってしまい、学習量が充実しているとは言い難い。経済的に困窮している層では、“子どもが生まれると働き手が一人増えたと感じる”傾向が依然残っている。もっとも、スリランカの上流階級では、子女を海外(主に英国)に送って、高等教育を受けさせるケースも多く、教育をめぐる状況も一様ではない。

 ところで、スリランカといえば、首都は「コロンボ」と記憶している方も多いだろうが、1985年にスリ・ジャヤワルダナプラ・コッテというコロンボから東に15キロの地に遷都されている。遷都に伴い、国会議事堂が新首都に建設されたものの、多くの企業や政府機関は今もコロンボ市内に残っている。コロンボ市内に勤務するスリランカ人の多くは郊外の住宅地から通勤するが、道路事情が悪く、ディーゼルの電車も本数が少ないなど便が悪いため、片道2~3時間かかることも珍しくない。こうした通勤難を避けるため、週末のみ家に戻り、週中は共同でアパートを借りるスリランカ人もいる。

 スリランカの国民は、シンハラ人が73%、タミル人が18%、スリランカ・ムーア人が8%という構成である。シンハラ人もタミル人も、かつてインド大陸から渡ってきたという点は同じだが、その民族対立の歴史は浅くなく、この国が抱える不安定要素の一つとなっている。1983年以降、タミル人の反政府武装勢力が分離独立を目指し、政府との間で内戦状態となっている。言語的には、シンハラ語、タミル語が共に「公用語」として認定され、英語は双方の架け橋となる「連結語」とされている。

 宗教については、仏教徒が国民の70%、ヒンドゥ教徒が10%、イスラム教徒が8.5%、カトリック教徒が約11%という内訳である。○○人だからどの宗教を信仰している…といった図式はなく、民族と宗教が入り混じっている状態だ。遠藤さんによると、個々の民族や宗教は、普段の服装などで明確にわかるものではないとのこと。

 スリランカには、インドとは異なった「カースト制度」があるが、外国人にはなかなか見えてこない領域である。ある時、数名で尋ねてきた訪問客にお茶を出すにあたり、より役職の高い人物に先に茶碗を運ぼうとしたところ、「彼から先にお願いします」と若手の同行者を示されたことがあるという。その若手スタッフの方が上位のカーストであったためである。

 スリランカでは、結婚の相手も親同士によって決められることがまだ多い。しかし故郷を離れ、都市の大学に進んだ子女が、そこで知り合った学友との結婚を望む場合もある。そんな時、もし互いのカーストが違えば当然障害になるが、よりカーストの低い方が、形式上、誰か高いカーストの一家の養子・養女になり、ランクを同等まで上げれば、道は開かれるという。

 「観光業に身を置くスリランカ人は、決してシャイではなく、外国からの観光客に対し、とても愛想よく、積極的にサービスを提供しようとする。しかし、一般的なスリランカ人は、外国人とはあまり交際したがらない。海外からスリランカに進出した外資系企業においても、あるレベル以下(=トップマネジメント以下)では、外国の人間を排除しようという動きが起きがちである。長期滞在する外国人にとっては、宗教面、文化面で、簡単に理解しえない部分も多く、正直、なかなか深く入り込めないものを感じる」と遠藤さん。1ヶ月前に派遣任期を満了し、約1年間の赴任生活にピリオドを打ったが、今後は半月毎にスリランカ、日本を往復し、引き続き支援業務に携わる予定だ。コロンボの住まいもそのままに残してある。

 前述の通り、国家が内戦状態にあるため、日本政府からはスリランカへの渡航自粛が呼びかけられている。しかし、「内戦状態であるが故に、政府によって積極的な治安維持政策がとられている面もあり、駅やショッピングモールなど、テロの標的になりそうなスポットへの外出を控えれば、危険な目にあう可能性も低く抑えられる」とのこと。遠藤さんが住まうマンションは、コロンボの海岸近くにあり、休日には海岸を散歩するのが日課になっているが、その海岸にも、海からの侵入者に備え、数十メートルおきに護衛が立っている。津波の爪痕、そして内戦…遠藤さんは、スリランカが置かれている状況の厳しさを受けとめつつ、「この国のために自分ができること」を考え続けてきた。

 遠藤さんは、かつてアラビア石油に勤務していた時代、延べ17年間にわたり、サウジアラビアで赴任生活を送った。*注1)同社を退職後は、JICAの派遣によりアフリカのブルキナファソに2年間滞在し、小学校建設工事の常駐監理責任者として従事した。そして、ブルキナファソから帰国後わずか3ヶ月で、人生三度目の任地、スリランカに赴いたのである。厳しい環境をいとわず、積極的に海外に向かう遠藤さんの思いを尋ねてみた。

 「海外で、自分の経験を教えられるのは何より嬉しい。知らない人と出会う楽しみもあり、知らないところで仕事をすれば新しい発見もある」「建築というのは、成果を比較することのできない世界だ。同じものを二度作ることはないので、これがベストなのかどうかはわからない。それでも次の建物に経験や知識を生かしていくことはできる。そうした目に見えない伝統と蓄積が、次の世代、そしてまた次の世代へと受け継がれていけばよい」「日本は、高い技術力によって成長してきた国。世界はそれを日本に求めている。私は建築の分野で、自分のもてるものを、必要とされる国に伝えていきたいと願っている。そのためにはその国の歴史や風土など、その国の拠って立つところをよく学び、その地に合ったものを、その地に合ったやり方で伝えていかねばならないと思う」―遠藤さんは、よどみなく自身の考えを語る。

 「スリランカにはジェフリー・バワ *注2) という稀代の建築家が存在し、数々の魅力ある建物を作りました。彼の作品を見て回ることができるのは大きな喜びであり、この地で任に当たるためのエネルギーやインスピレーションを得られる思いがします」遠藤さんの目がきらりと輝いた。

(齋藤志緒理)

注1)
遠藤さんのサウジアラビア滞在については、インテック・ジャパンホームページの「海外生活の達人」バックナンバーでご覧いただけます。
http://www.intecjapan.com/abroad/2007/05/post_26.html

注2)ジェフリー・バワ(Geoffry Bawa:1919-2003年):
スリランカがセイロンと呼ばれていた時代のコロンボに生まれ、英国ケンブリッジ大学で英文学を学ぶ。1946年に故郷に戻り、その後世界旅行に出て、建築家を志すようになる。再度渡英して建築学を修め、スリランカに帰国後、38歳で初めての建築を手がける。その後亡くなるまでの40年余り、スリランカにリゾートホテル、公共施設、学校など多数の建築を残した。

Heritance Hotel
Heritance Hotel(遠藤和夫氏撮影)
スリランカの南西部海岸沿いの町、アフンガッラ(Ahungalla)にある欧米人に人気のリゾートホテル。ジェフリー・バワの代表建築作品の一つ

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