2010年07月01日

リビア

国連安保理の制裁解除後、国際社会へ復帰

“誠実でフェア”な国民性は他国のアラブ人も一目置くほど

 元外務省の塩尻宏さんは、大阪外国語大学でアラビア語を専攻し、外務省入省後もエジプトで2年間のアラビア語研修を受け、語学に磨きをかけた。その後、経済協力局、中近東アフリカ局、欧亜局等を経て、2001年にUAEへ在ドバイ総領事として赴任。そして2003年5月から2006年4月までの3年間、駐リビア大使を務めた。

 リビアはアフリカ大陸で4番目に広い国土(日本の約4.6倍)を持ち、東はエジプト、西はチュニジアとアルジェリア、南東にスーダン、南にはチャドとニジェール…と、計6ヶ国と国境を接している。(地中海沿岸地域を除いた)国土の9割以上は砂漠地帯である。同国内の地中海海岸線の距離は約2000キロで、欧州・中東・北アフリカの全ての沿岸諸国の中で最も長い。人口は約600万人。首都は、チュニジアとの国境から200キロほどの地点にある地中海沿岸都市・トリポリである。

 リビアといえば、日本では「カダフィ」の名がまず想起されるのではないだろうか。かつては“テロ支援国家”としての烙印を押され、長年に亘り、国際社会に背を向けられてきたリビアだが、その実像はどのようなものなのだろうか。塩尻さんの夫人は、イスラーム思想、比較思想学、中東地域論等を専門とし、現在筑波大学の副学長を務める塩尻和子氏である。本稿ではまず、和子夫人の著書『リビアを知るための60章』(明石書店)から、近代以降のリビアの歩みを簡略に紹介したい。

塩尻宏さん、和子さん夫妻
塩尻 宏さん・和子さん夫妻(レプティスマグナの競技場跡にて)

 近代史において、リビアはオスマントルコとイタリアの支配を受けたが、両者の統治の性質には大きな違いがあった。「オスマン帝国の支配は、植民地支配には変わりはないものの、同じイスラーム教徒同士でもあり、リビア人を懐柔して一部地域の支配を委ねるという間接支配を採用した柔軟なもので、また支配範囲も地中海沿岸地域に限られていた。しかし、イタリアの支配は、リビア人に教育も文化も与えることなく、彼らの宗教や文化を認めることもなく、リビア人を排除して土地を収奪することのみを目的としており、植民地支配の当初から激しい反発を招く性質をもっていた。」*注1)

 1951年、リビアは独立を果たす。第二次世界大戦の戦勝国、英・仏・ソ・米の巨頭会談によって、イドリース・アル・サヌーシーを国王とする「リビア連合王国(イドリース王国)」が成立したのである。イドリース国王は、イタリアの侵略に対する抵抗勢力であったサヌーシー教団の祖、大サヌーシーの孫であった。1959年、リビア国内で国際石油会社エッソにより石油が発見されたのを契機に、リビアは急速に経済発展を始めるが、政治的には不安定な状態が続いた。1967年の第三次中東戦争にリビアが参加しなかったことにより、リビア人の間で“同胞のアラブに冷淡な政府”への反対運動が激化。1969年9月、イドリース国王が病気療養目的でトルコに滞在している間に、青年将校らが革命を成功させる。その指導者は、弱冠27歳のムアンマル・アル・カダフィ(Muammar Al Qadthafi)であった。カダフィは砂漠の遊牧民の子で、祖父は対イタリア抵抗運動の中で命を失っている。*注2)

 カダフィは、革命後、自らが創出した「ジャマーヒーリーヤ体制」という政治体制(人民による直接民主主義)を敷いている。“直接民主主義”であるが故に、リビアには議会も政府も内閣もないことになっている。とはいっても、実質的には国民全員が国政に直接参加するのは不可能であり、一般の国会に相当する「全国人民会議」が存在する。*注3)カダフィはリビアの最高権力者として事実上元首ではあるが、今日に至るまでその肩書は「革命指導者」となっている。

 リビアは、1986年4月の西ベルリンの「ラ・ベル」爆破事件、1988年12月のロカビー事件、1989年9月のUTA機爆破事件*注4)などのテロに関与したとして国際的な非難を浴びた。こうした情勢を受け、1986年1月には、米国が経済制裁を発動。1992年3月には国連安保理で対リビア制裁決議が採択された。

 国連安保理が対リビア制裁解除の決議をしたのは2003年9月、米国が(リビアが大量破壊兵器計画の廃棄を宣言したのを受け)対リビア経済制裁措置を解除したのは2004年10月であった。(米国は2006年6月には「テロ支援国家」指定も解除した。)塩尻さんが駐リビア大使として着任したのは、ちょうど国際社会におけるリビアの立ち位置が劇的に変わった時期であった。

 「英語が通じにくい」「インターネットの使用可能地域が限られている」「クレジットカードを使える場所が少ない」といった不便さは残るものの、リビアの社会状況は徐々に変化を見せ、外国人が生活するのにも大分便利になってきた―と塩尻さん。沿岸部では、外資系企業の工場建設が相次いでいる。

 「リビア人は、実際に接してみると、とても誠実で親切」と塩尻さん。身近なところでは、それは例えば彼らの「商売」のやり方に表れる。アラブの人々は元来、商業民族であり、隊商を組んで広大な地域に物資を流通させるのが生業だった。日本人は普通「モノの値段=原価+マージン」ととらえているが、アラブ人には原価は関係なく、値段は交渉で決まるものと考えている。売り手が高値を言ってくると、大方の日本人は「ふっかけられた」という発想をもつが、アラブ人には「ふっかけた」という意識はない。“いくらで買うか、いくらで売るか―がビジネス”なのである。いずれにせよ、こうした価値観をベースとしているアラブ諸国では、外国人旅行者は何かとハンディを負ってしまうのが常である。しかし、リビアの商店主はそうしたアラブ一般の傾向と一線を画しており、現地での物価事情が分からず、言葉がわからない“一見の旅行客”にも、高い買い物をさせることが少ないという。こうしたリビア人のフェアな面は、他国のアラブ人にも好意的に見られているそうだ。

 「リビア人は、個人的に付き合うと親切な人たちだが、組織*注5)に入ると保身が優先する」―塩尻さんはこうも指摘する。ひとつひとつの案件について、担当者が自分の責任において判断することを避け、上に〜上に〜と次々にお伺いを立てるのである。塩尻さんは、仕事柄、折ある毎に「対外連絡・国際協力担当全国人民委員会」(外務省に相当)に照会や要請をしたが、なかなか返事が来ずに、気をもむことが多かった。(案件の重要性によっては、お伺いを立てる先は指導者のカダフィまで到達しているものと思われる。)

 「ところで―」と塩尻さんは更に続ける。「リビアに限らずアラブ諸国で暮らす日本人から“約束が守られないことがあって困る”という苦情がよく聞かれる。“インシャ・アッラー(神様の思し召しのままに)という言葉が返ってくるばかりで、埒が明かない”というのである。これについては、彼らの行動はひとえに“彼らが何を優先するか”によって決まるものであり、自分との約束が守られない場合には、それよりも大切な何かがあったのだ―と考える外ない。基本的に先約が優先される日本とは事情が違う」「日本人は約束を守ってもらえなかった事だけを記憶して不満を述べるが、裏を返せば、こちらが本当に助けてもらいたい時、相手が納得すれば、先約があってもそれを差し置いてこちらのために時間を割いてくれることもある。物事を片側からだけ見て、安易に評価しない方がよい。」

 さて、リビアの政治体制に話を戻すと、カダフィは革命以来40年以上に亘って、国のトップの座に居続けている。そのため、“リビアではカダフィによる「恐怖政治」が行われているのでは”という見方をされることもある。塩尻さんは、それに対し「自分はカダフィの支持者ではないが」と前置きしつつ、次のように語る。「カダフィはリビアで革命を成功させた後、アラブ諸国の一員としてパレスチナを支援した。そして、石油生産を源とする潤沢な資力を“世界中の抑圧された人々を救うため”に使おうとし、世界の紛争に関与したりもした。こうしたやり方は、国際社会と反目する結果にもつながったが、カダフィがリビア国内で権力を振り回しているかというと、決してそうは思わない。40年もの間、政権が揺らがないということは、すなわちカダフィの周辺に彼の政治理念や人間性に賛同する協力者たちがいることを示している。権力の座がどんなに盤石であろうと、リーダーとして人の心を動かす力がなければ、長年に亘り600万人の国民のトップに立ち続けることはできない。」

 塩尻さんによれば、カダフィは平素“二張のテント”を住まいとしている。権勢を誇示するような「パレス」を作ることはこれまで一度もなかった。(国内にある壮麗な「会議施設」などは人民会議やアフリカ首脳会議の際に使用されるもので、カダフィ自身のための施設ではない。)日本の要人がリビアを公式訪問する折に、塩尻さんは大使として表敬訪問の場に同席したが、カダフィは決して奢った風ではなく、同席者を見まわして「コーヒーはいっていますね」と確認するなど、細やかな気配りを見せたとのこと。「(元)テロ支援国家の指導者」という暗いイメージが先行しがちだが、実際に触れたその人となりの印象は全く違ったものだったそうだ。

 リビアでは報道規制によって、国民が外国メディアから隔てられているのが現状だ。「これは、カダフィ(及び指導者層)が、メディアが報じる内容が全て正しいとは考えておらず、国民がバイアスのかかった情報に左右されるのを防ぎたいと考えているため」と塩尻さんは分析する。「われわれ日本人は報道に接するとき、心のどこかで“100%は正確でないかもしれない”と思いつつ受け止めているが、長く、国際社会に対し“閉じた世界”であったリビアの人々がいきなり幾多の情報に晒されれば、自身で “善悪”“正確・不正確”といった価値判断ができずに翻弄されてしまう可能性がある。今後、外国メディアが“公正さや、正確さ”についてリビア首脳陣から一定の評価が得られるようになれば、報道規制も、徐々に緩められていくのではないか」との予測も示した。

 塩尻さんは大使在任中、休日にはトリポリの旧市街をよく散策したそうだ。ぶらりと入った店で、オスマントルコ時代からの民芸品である真鍮や銅製のコーヒーカップやお盆を見つけ、その緻密な細工に感嘆したり、「砂漠のバラ」と呼ばれる石(リビアの砂漠の地下から掘り出される石の結晶で、バラの花のような形をしている)を手にとって、その造形に魅了されたりした。リビアの沿岸地域には、かつてフェニキア人が地中海を支配した時代の遺跡やギリシャ・ローマ時代の遺跡が残っている。街にはモスクもあり、様々な文化が織り成す空間を歩くのは格別の楽しみであった。大学教員である和子夫人も、学校の休みの時期にはリビアに滞在し、大使夫人としての公務を果たしつつ、リビア各地を巡って専門分野の探求を重ねた。

 「リビアに駐在するのであれば、できるだけ興味をもって現地の生活に臨み、現地の人々の暮らしぶりをみてほしい」と塩尻さん。「言葉の問題もあろうが、リビア人だって同じ人間…知恵を出して、上手にコミュニケーションをとってほしい。待っているのではなく、こちらからアプローチすることが肝心」と説く。

 塩尻さんは、知人やその家族の訃報を聞いたときは必ずお葬式に足を運んだ。リビアでは、誰かが亡くなると遺体は24時間以内に近親者だけで埋葬するが、没後1週間ほどは、自宅近くにテントを張って、弔問客を迎えるのが習わしだ。テントの中には弔問客用の椅子が沢山置かれ、奥の方に喪主が座している。塩尻さんは、お悔やみに行った時は、挨拶だけして帰るのではなく、喪主の横に座ってポツリポツリと亡くなった人の思い出話や何気ない世間話をし、頃合いを見計らって「じゃあ…」とその場を失礼した。

 リビア人に食事に招かれることがあったら、出された料理について、あれやこれやと尋ねるのも、誠意の示し方の一つだそうだ。「この料理は誰が作ったのか?」「この食材は何か?」「どのように作るのか?」などと、日本人の感覚では、「そこまで聞いていいのか?」と思えるくらいに関心を示してよい。ちなみに、アラブの文化では、料理を残すことは決して失礼にはならない。(むしろ、裏方で働いている人たちが後で食べられるよう、わざと残すのが心遣い。)自分の取り皿も空にしないように注意する。「自分が食べたい料理を何種類か取り皿に載せるのがマナー。空のままにしていると、“何を遠慮しているのか”と、ホストにドサーっと料理をよそわれてしまい、かえって大変なことになるんですよ」と塩尻さんは笑う。

 砂漠がその国土の殆どを占めるリビアは「不毛の地」とも称される。しかし、塩尻さんは「科学技術の進歩によって砂漠の緑化が進めば、人がもっと住めるようになり、乾燥地農業が行えるようになるかもしれない。地下には希少資源が眠っているかもしれない。そう考えれば、砂漠面積が広いリビアは、それだけ大きな可能性を秘めているということ。地中海沿岸の港湾を“フリーゾーン”にして対外貿易を盛んにしようという計画もあり、交易面でも発展の余地は多いにある。外国との関係正常化が進めば、より多くの外資系企業が参入し、製造業にも弾みがつくであろう」―と将来の展望を語る。

 外務省退官後は、(財)中東調査会常任理事や日本リビア友好協会特別顧問を務め、リビアの実情についての理解を広めるために、求められればできる限り協力しているとのこと。今回のインタビュー要請にも、(「私の体験談が少しでも役立つのであれば」という控えめな言葉で)快く応じて下さった。塩尻さんのお話は“体験談”を超えて、深く、示唆に富む。リビアに限らず、他国について知ろうとする時に、先入観や自分が慣れ親しんだ物差しに拠らず、バランスのとれた見方をしようと意識することの大切さ…。それはおそらく塩尻さんが外交官として、また一個の人間として心がけられてきたことなのであろうが、聞く者の胸に響いてくるものがあった。

(齋藤志緒理)

注1)
塩尻和子著『リビアを知るための60章』(2006年 明石書店刊)p.81.

※イタリアによる植民地支配:
イタリアによる植民地支配は(オスマントルコがリビアをイタリアに譲渡した)1912年のローザンヌ条約を起点とする。イタリアはリビアの反対派の殲滅を図り、キレナイカ(リビアの北東・南東地域)の住民10万人を強制収容所へ移住させるなどした。非衛生な環境下で飢えや病気のために命を落とす者、イタリア軍に殺される者が8万人にも上ったという。1938年から翌年にかけて、ムッソリーニはリビア人から収奪した土地にイタリア人(延べ10万人以上と言われる)を入植させ、リビアの完全なイタリア化を図った。1912年のリビアのイタリア併合からの約30年間で、当時のリビア人人口の四分の一が死亡したといわれている。(上掲書:pp.58-60)

注2)上掲書(p.61)

注3)全国人民会議:
「全国人民会議」には、その下部組織として「地方人民会議(全国34の行政区それぞれに配置)」が、その更に下には「基礎人民会議(全国に四百以上ある地区それぞれに配置)」があり、ピラミッド構造となっている。内閣に相当するのが「全国人民委員会」で、「全国人民委員会書記」が首相に当たる。「省」と名のつく行政組織はないが、例えば、「対外連絡・国際協力担当全国人民委員会」(外務省に相当)、「経済・貿易担当全国人民委員会」(経済産業省に相当)…といった委員会が各分野の行政を担当している(これら「担当委員会」の「書記」が大臣に相当。)上掲書(pp.89-93)

注4)

  • 「ラ・ベル爆破事件」=1986年3月に米軍機がリビア軍機を撃墜した後の4月5日、当時西ベルリンのディスコ「ラ・ベル」で爆破事件が起こり、米兵2名、トルコ女性1名が死亡した。
  • 「ロカビー事件」=1988年12月21日、ロンドン発ニューヨーク行きのパンナム機が、スコットランドのロカビー村上空で爆破され、墜落した事件。乗員・乗客計270名全員が死亡した。ロカビー事件は、ラ・ベル事件の10日後に米軍機がリビアの首都トリポリとベンガジの市内を空爆した(=カダフィの暗殺を目論んで、彼の自宅を狙ったもの)ことへの報復とみられている。
  • 「UTA爆撃事件」=1989年1月に米軍機がリビア軍機二機を撃墜した後の9月19日、コンゴからパリへ向かうフランスのUTA機がニジェール上空で爆破され、乗員・乗客170名全員が死亡した。上掲書(pp.125-126)

注5)リビアの「組織」:
現在、リビア国内の事業体は原則として「公社」か「公団」のみ。個人経営の小規模な商店などを除けば「民間企業」は存在しない。

トリポリ旧市街
トリポリ旧市街、カラマンリー・モスクのミナレット(注:ミナレットとは、モスクに付設して建てられる尖塔のこと。礼拝時刻の告知を行うのに使われる。)向こうにはオスマン朝時代の時計塔が見える(撮影:塩尻 宏氏)


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2010年06月01日

フィジー

政情不安などにより、近年の経済活動は停滞

大家族制を基とし、教会と家族が最優先

 「フィジーというと、日本での一般的なイメージは“南太平洋の楽園”ということになるのでしょうが、政治的には安定しているとはいえず、それが経済にも暗雲を落としています」―そう語るのは、フィジー在住歴5年の中川治生(なかがわ・はるお)さんである。

 フィジーの正式名称はフィジー諸島共和国。332の島々から成る国で、総面積は日本の四国とほぼ同じ。約85万人の人口のほとんどは、2つの一番大きな島に住んでいる。フィジーには、原住系のフィジー人の他に、大英帝国植民地時代に流入したインド系の移民の子孫が多数住んでおり、インド系フィジー人(インド・フィジアン)と呼ばれている。(フィジーの公用語は英語と各々の民族語であるフィジー語、ヒンディー語である。)「1990年くらいまでは、人口比はほぼ5:5だったが、その後、インド系は海外に大量に移民してしまい、現在は全人口の40%を切っている。この割合は今後も更に減るものと予測されている」と中川さん。

 「最近までは、“経済と商業を握るインド系”と“軍事と土地の所有権を持つフィジー系”という政治的な対立構造*注1)があったが、インド系人口の減少により、この構図にも変化が出てきている。1987年から4度クーデターがあり、最初の3度(1987年に2度、2000年に1度)は、インド系対フィジー系の対立が主な原因だったが、2006年のクーデターでは、フィジー系同士の対立が主因。現在政権を担っているのは2006年にクーデターを起こした軍司令官で、議会は強制的に解散させられ、次の選挙は2014年まで行われない予定。フィジーのクーデターは、ほぼ無血で、街に軍服姿の兵士があふれているわけでもなく、日本人が訪れるような観光地には全く影響が出ていない。しかし、こうした政治的な不安定さと世界的経済不況とが相俟って、現在、国としての主な収入源である“観光業”“砂糖産業”“繊維産業”はどれも厳しい状態にある。また、“英連邦閣僚行動グループ*注2)”が求める民主化プロセスに応じなかったため、2009年9月には英連邦から追放(完全な資格停止)処分を受けている」―と、現在この国が置かれている状況を語る。

中川治生さん
中川治生さん(スキューバ・ダイビングのために訪れたベンガ島の教会前にて)

 中川さんは、国家公務員として東京で14年間勤務の後、退職してアメリカとオーストラリアに留学し、オーストラリア国立大学で経済学博士号を取得したという経歴の持ち主である。博士号取得後、2005年2月に、フィジーの首都、スバにある南太平洋大学(The University of the South Pacific)の政治開発国際学科・「ガバナンス・プログラム」に研究員として就職した。

 南太平洋大学は、フィジー国立ではなく「地域立大学」で、フィジーの他にクック諸島、キリバス、ナウル、ニウエ、ソロモン諸島、トンガ王国、トケラウ、バヌアツ、ツバル、サモアといった南太平洋の島嶼国の高等教育機関として1968年に設立された。1991年には北太平洋のマーシャル諸島が加わって、計12ヶ国の大学となった。運営しているのはこれらの国々だが、主要な建物などの設備は援助で賄われている場合が多く、援助額では、オーストラリア、日本(主にJICA)、EU、ニュージーランドの順に貢献度が高い。中川さんは、「予算制度」や「国営企業の健全経営」「地域の政府とガバナンス」といったテーマで大学院生の少人数のクラスを担当している。南太平洋大学の成り立ちを反映し、研究領域はフィジーのみならず、南太平洋諸国全般や域内国と域外国の関係にまで及ぶ。大学院の学生は、学部を出てすぐの20代前半の若者もいるが、30代、40代、50代の社会人が多数を占める。

 フィジー人もインド人も、首都で人口が集中しているスバ市とその隣のナシヌ町、その他のいくつかの町を除くと、村に暮らしている人々も多い。都市部とそれ以外の人口比は現在5:5だが、近年、都市への移民が増加傾向にあり、その多くがスクワッター集落(注1参照)で暮らしている。村に暮らすフィジー人は、大家族制で、未だに世襲制のチーフが統率しているが、日々の行政は政府が指名した村長(行政官)が行う。一方、都市や町の行政は、選挙で選ばれた議会と市長・町長が行うが、現在は軍事政権により全て解任され、政府により指名された行政官がその任にあたっている。

 フィジー人の村の暮らしでは、家族(親戚を含む大家族制)*注3)が核となり、教会や村での付き合いも重視される。こうした環境下では、個人主義はほぼ「悪」とみなされる。「核家族を基本とする生き方に慣れた人々には息苦しく感じられるかもしれないが、血族や一族など村に暮らす全ての人が助け合って暮らすという知恵が生きていて、私には温かいというイメージがある。都市や町に移り住んだフィジー人の間では、こうした濃密な関係は崩れつつあるものの、全てが崩れて、日本や他の先進国の都市のように核家族化するにはまだ相当に時間がかかると思われる」と中川さん。

 フィジー系はほぼ100%がキリスト教徒(メソジスト、英国国教会、カトリック、モルモン等)で、村には必ず教会があり、伝統的な暮らしを営む村々では、安息日である日曜日には仕事をしないのが普通。「フィジーの村の生活で一番優先されるのは教会と家族(注3参照)、その次が村ないし一族(特に土地共同所有集団)*注4)」と、中川さんは聞いている。

 フィジー人は父系社会で、男尊女卑の傾向も未だ根強い。地域により例外もあったようだが、普通、女性は村での意思決定の場に公式には参加を許されないのが伝統であった。インド系もこの辺りはあまり変わらない。男女とも10代後半や20歳そこそこで結婚することが珍しくなく、特にフィジー系では、最近まで一家の平均的な子供の数は4、5人と子沢山。地方ではフィジー人村も、インド人村も電化や機械化があまり進んでいないため、女性の家事・育児は重労働で、しかも、現金収入を得るための内職(お土産品の製作や小規模な畑作)もやっている場合が多い。都市や町に住んでいる女性は、配偶者の収入が十分でなければ、自身も働きに出るのが一般的だ。

 伝統的なフィジー人の主食はタロイモ(里芋の仲間)、ヤムイモ(山芋の仲間)、キャッサバなどの芋類で、基本的には茹でて食すが、手間と時間をかけ“焼き石料理”にすることもある。タロイモはその葉も食用となる(少々灰汁が強く、湯がいてココナッツ・ミルクと共に食べる)。近年は米食も盛んで、最近まではほぼ全量輸入されていたが、米の世界価格や輸送費が上昇したこともあって、フィジーでも栽培されるようになった。海岸近くの町や村では魚を多く食べるが、(冷凍冷蔵による)輸送網が十分に整備されていないため、内陸の村の人々は新鮮なシーフードを滅多に食することができない。地方でも都会でも、庶民は缶詰のコンビーフやサバを日々の蛋白源とし、まとまった現金収入のある人だけが、肉類(牛、豚、鶏)を常時購入できる。「芋類を主食とした伝統的なフィジー料理は食物繊維が豊富で健康食だが、ファストフードや缶詰の普及、野菜や果物の摂取不足、過食や運動不足などにより、生活習慣病が広まりつつあるのは残念なこと」と中川さん。

 ところで、首都であるスバでさえ、フィジー料理は基本的に家庭料理であり、フィジー料理レストランはあまり見かけないそうである。中川さんによると、その背景には、1)伝統的なフィジー人社会はまだ貨幣経済に慣れておらず、店舗経営のノウハウなど必要な知識が蓄積されていない(=経済・商業活動は、永くインド系の主導領域であった。)2)大家族主義かつ集団主義が原則のフィジー人は、たとえレストランや商店を開店しても、なかなかビジネスライクに割り切ることができない。親戚縁者や知人には無料や(いつ払ってもらえるかわからない)つけで食事を供したり、商品を渡さざるを得ず、また一族や村の“稼ぎ頭”とみなされれば、葬式などの儀式での金銭的負担も他の人より多くなる。こうしたことから、出費がかさみ、結局経営が成り立たなくなる―といった理由があるようだ。

 「僕は、民族学者や社会学者ではないので、自信をもっては言えないが、血縁や地縁で結ばれたフィジー人の人間関係の濃さは、明治から戦前までの日本の農村の風景に近いものがあるかもしれない」と中川さん。フィジー人の村では、食事時に誰かが家の前を通れば、「ご飯を食べていかないか?」と誘うのが礼儀。尋ねられた方は、食事はまだでも「ありがとう。でも今はお腹がいっぱいだから」「また今度ね」と断る。これは、首都のスバでもよく見かけられる光景である。誘う方も、誘われる方もその話に互いが乗らないのを承知で会話のキャッチボールをする。

 フィジー人の村には「カバ・セレモニー」という有名な儀式がある。カバとは、胡椒科の植物の根っこを乾燥させたもの。これを鉄製の筒に入れ、鉄棒で突いて粉砕し、水に溶かし、布で濾してから飲む。カバ・セレモニーは、訪問者を歓迎する際には欠かせない儀式で、一つのカップにカバを溶いた水を入れ、車座になった人々が順番に飲んでいく。一人が飲み干すと、同じカップに新しいカバ水を注いで、次の人が飲む。*注5)カバには、いわゆる“鎮静作用”があり、これを飲んだ後は心身の緊張感が失われるので、スポーツや仕事の前に飲むには適さない。お酒と違って、飲んで暴れる人はまずいないが、飲み過ぎは内臓に負担をかける。かつては、部族間紛争の調停の場でカバが飲まれたという話もあり、カバによって双方が穏やかな心境になれば、調停がうまくいく―というような効果があったのかもしれない。フィジー人の間では結婚のお祝いにも、不祝儀の際も、カバが贈呈品としてよく選ばれるが、その際は、乾燥した立派な根っこをきれいに束ねたものを進呈する。カバは乾燥後に粉砕したばかりのものが新鮮で美味と考えられているため、既に粉砕済みの粉をもらうより、根っこの状態でもらった方が贅沢感があるのだ。

 中川さんは大学付近の一軒家を借り、主にタクシーで通勤している(タクシー料金は非常に安価)。近いとはいえ、徒歩だと正門まで20分、正門からオフィスまで更に15分もかかり、熱帯気候下では、仕事前に汗をかきすぎてしまう。学内はインド系や外国人の比率が外の社会より高く、一般的なフィジー社会とはある程度隔離された世界とも言える。「私が日常的に接している人々との経験から、フィジー人全般について云々することはできないが…」と断わりつつも、中川さんは、フィジー人について感じたことを次のように述べた。

 (1)フィジー人は他者(含:外国人)に対して基本的に親切で、助けてくれることも多い。だが、頼まれた事ができないとわかっていても、正直に言わない傾向がある。「できません」と、はっきり断わってしまうのが大変失礼になると考えているのだ。相手が「できない」と明確には言わないので、仕事を任せておくと、後になって色々な理由と共に「できませんでした」と言われることになる。最初からできないと伝えてくれれば、別のルートを探すなり、手続きを変えるなりして対処もできたのに、手遅れになってから言われるので、頼んだ方は、かえって大変な思いをすることになる。

 (2)フィジーでは、約束したことが土壇場で覆されることもままある。日常的なアポイントメント然り、もっと大きな約束事も然り。「結果的にはだめだったが、ベストは尽くした。だから仕方がないでしょう。そのあたりの事情を分かってくれますよね」と考えるのがフィジー人の論理のようで、あまり悪びれることはない。フィジー人の“甘えの構造”と言えるかもしれない。

 (3)半年先に何か大きな行事があった場合、日本人ならば、逆算して時々刻々、すべきことをこなし、前倒しに準備を進める。だが、フィジー人は「なんとかなるさ」といたって楽天的で、なかなかエンジンをかけようとしない。フィジー人のあくせくしない、のんびりした国民性と背中合わせなのかもしれないが、日本の感覚で諸事進めようとするとストレスがたまる。

 (4)伝統的な社会(特に村社会)では、面子が重んじられる。何か交渉事がある際は、正しい経路で話をもっていくことが重要だ。しかるべき人が誰なのかを事前にしっかりとリサーチし、その人の頭越しに話を進めないように気をつける。

 インド系フィジー人が多く海外に移民していることは冒頭で述べたが、近年はフィジー系についても海外への人の流れが顕著となっている。*注6)出稼ぎ収入を本国へ送金することで、国家経済にはプラスに働いているが、国内に十分に就職口が確保されていない現状は、フィジー経済・産業の停滞を物語る。2000年のクーデター後、観光でフィジーを訪れる日本人は減少し、以後横ばいの状態だ。現在フィジーに駐在している日本人は、観光業界か大使館・JICA関係者にほぼ限定される。今後、日本企業や日本人の経済活動がフィジーで活発化することで、日本・フィジー間の交流ももっと多彩になるのではと期待されるが、そのためには日本人が安心して投資できるような状況の確保、特に政情の安定が大前提であろう。

 南太平洋大学には、定年まで職員を採用する制度はなく、雇用契約は3年毎に更新される。中川さんについては、最近3度目の契約が更改され、少なくとももう3年は引き続きスバの地で教職を続ける予定ということだ。12の大学設立国全てからとはいかないが、大学院の教え子にはサモア人、トンガ人、ソロモン人、ツバル人、キリバス人、バヌアツ人に、フィジーの離島出身の学生やオーストラリア人、日本人もいる。中川さんは、こうした学生たちと真摯に向かい合いながら、今後もフィジーやその他南太平洋の国々の情勢を見守っていきたいと考えている。

(齋藤志緒理)

注1)フィジー系とインド系:
地方では、フィジー系とインド系はほぼ完璧に“住み分け”ているが、近年都会へ移民してきた人々の多くはスクワッター(=違法占拠住民と訳されるが、その全てが“違法占拠”を行っているわけではない)集落に居住している。スクワッター集落のコミュニティではフィジー系、インド系が共住している場合が多い。(フィジー人口85万人の内、スクワッター集落の人口は10万人とも20万人とも言われる。)

注2)英連邦閣僚行動グループ:
CMAG(Commonwealth Ministerial Action Group)。英連邦(2010年現在54ヶ国)の外相などで構成される。ちなみに、フィジーは1987年のクーデター以降10年間、英連邦から離脱しており、1997年に復帰している。

注3)大家族制:
フィジー人の「家族」は、叔父、叔母、姪、甥なども含む大家族。

注4)フィジー人の土地集団所有(マタンガリ):
フィジーでは、憲法でフィジー人が集団所有している土地の売却が禁止されており、国土の82%はそのように集団所有されている土地。フィジー人の土地への愛着には非常に強いものがある。

注5)フィジー人とカバ:
フィジー人の間では、車座に座って順番に飲む儀式は、友達同士でカバを飲む場合にも尊重される。フィジー人の男性は週末(翌日に仕事がない土曜日)などにカバを大勢で飲み、語らい、歌を歌ったりしてリラックスする。ただし、週末以外にもカバを過剰に飲んで、翌日の仕事に差し支えたりすることも珍しくなく、伴侶のカバの飲み過ぎ(当然出費もかさむ)を嘆く主婦も多い。インド系の男性の中にもカバを好んで飲む人が多くいるが、フィジー人ほど儀式にこだわらない。尚、フィジー人は、お酒はクリスマスの時ぐらいしか飲まない。

注6)フィジー人の海外移住/出稼ぎ:
インド系は、IT関係や会計士等の専門家となってからその領域で給与の高い職を求めて渡航することが多い。フィジー系男性は、イラクなどの紛争地域に軍人として赴いたり(フィジー軍人として国連軍の一部として、または英国軍に採用されてイラクなどに派遣されたりする)、軍事補助活動を行う民間企業(注:米軍はイラクやアフガニスタンで軍隊の業務の一部を外注している)にガードマン(実質的には傭兵)として採用され、銃器を帯びて、物資輸送の護衛にあたるなどしている。フィジー人女性は、海外で看護婦や育児サポートを含む家政婦などの職を得るケースが多い。

フィジー風景写真
カンダブ島のワイサリマ海岸:
スキューバ・ダイビングで名高いグレート・アストロレイブ・リーフが近い(撮影:中川治生氏)


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2010年05月06日

スロバキア

二大年間行事はクリスマスとイースター

他家訪問時の手土産には“食べ物以外”を

 スロバキア出身のマルティン・マチュハ(Martin Macuha)さん、カタリーナ・マチュホヴァ(Katarina Macuhova)さん夫妻*注1)は、共に日本の文部科学省の奨学金を得て、2008年春に来日した。夫のマルティンさんは、早稲田大学大学院・国際情報通信研究科で博士課程に在籍し、“テレコミュニケーション・ネットワーク”を専攻。妻のカタリーナさんは、東京医科歯科大学の博士課程で“人獣共通寄生虫病”を研究している。カタリーナさんは、2004年〜2005年にかけて約半年間、佐賀大学に留学した経験があり、今回の留学が初来日ではなかった。マルティンさんも、カタリーナさんの1回目の留学中、3週間ほど佐賀に滞在している。

 チェコスロバキアが「チェコ共和国」「スロバキア共和国」に分離したのは、1993年のことである。1989年、東西冷戦の終焉に呼応するように、チェコスロバキアで「ビロード革命」と呼ばれる民主革命が起こり、社会主義体制が終わりを迎える。1992年、チェコとスロバキア各々の第一党が協議の上、連邦制解消に合意をみた。両国独立の背景にはスロバキアにおけるナショナリズムの高揚があったが、連邦制の解消は、こうして至極平和裏に行われた。スロバキアの人口は、542万人(2009年9月、スロバキア統計局)。国土面積は日本の約7分の1で、首都はブラチスラバにある。(一方のチェコは、人口約1000万人。国土面積は日本の約5分の1、首都はプラハ。)

マルティンさん、カタリーナさん夫妻
マルティンさんとカタリーナさん

 マルティン、カタリーナ夫妻は、共にブラチスラバの出身で、高校の同級生だった。社会主義国であった時代は、外国(非共産圏)の情報が充分得られなかったため、日本に対しても、ある種ステレオタイプ化されたイメージを抱いていたそうだ。例えば、「日本は国土全体が高層ビルで覆われており、“近代化”が徹底的に進んだ社会である」「日本人は勤勉すぎて、暮らしをエンジョイしていない」という先入観があった。「来日後、高層ビル群は大都市の一部地区に限られることを知り、高度に“近代化”された社会の中でも、伝統的な文化や生活習慣が維持されていることにも驚きを覚えた」と夫妻。しかし、「勤勉な日本人」像については、そのイメージが根本的に崩れることはなかったそうだ。

 「スロバキアの人々は、時間外労働はせず、プライベートの時間を大切に過ごす。家族や友人とスポーツを楽しんだり、子どものいる夫婦は宿題を見てあげたりする」とマルティンさん。スポーツに関しては、最も人気があるのがサッカーで、夏は水泳、サイクリング、ハイキングなど、冬は山間部に足を延ばしてのスキーやスケート、アイスホッケーなどがポピュラーだ。(首都ブラチスラバは、夏は北海道のように湿度が低く、冬の降雪は北海道ほどではない。)法律で、年間計4週間(33歳以上は5週間)の有給休暇が認められており、大抵はそれを余すことなく消化する。女性の就業環境も整っており、結婚・出産後も専業主婦にはなることはない。出産後は、2〜3年の育児休暇が保障されている。

 現在、スロバキアのテレビは、チャンネル数の半分がスロバキア語で、残り半分がチェコ語で放送されている。スラブ系の言語(チェコ語、ポーランド語、スロベニア語、クロアチア語等)は、スロバキア語に近いため、理解できる部分も多いそうだ。尚、スロバキア語には、「普通語」と「丁寧語」の2種類あり、話す相手が目上か同輩(或いは年少)かによって、使い分ける。学校で教師と話す際や、職場(特に政府系の組織)で上司・先輩と話す際には必ず「丁寧語」を用いねばならない。但し、マルティンさんが、来日前に勤務していた会社では、「上司・部下、先輩・後輩の関係に拘らず、自由に意見が言い合えるよう、社内で使用する言語は、普通語で統一する」というルールが敷かれていたという。こうしたルールは、外資系企業では珍しいことではないが、当初は、普通語で上司や先輩に話しかけるのは大変抵抗があったそうだ。

 スロバキアの民族構成は、スロバキア系・約85%、ハンガリー系・約10%となっており、ハンガリー系のほとんどは、ハンガリーに国境を接する南部地域に住んでいる。「ハンガリー系の人々がスロバキアからの独立を望んでいるとの見方があるが、これは、スロバキア、ハンガリー両国の民族主義者が “民族問題”の存在をまことしやかに語り、メディアがそれを報じることで、さもそこに“問題”が存在するかの印象を与えているにすぎない。実際にはスロバキア系とハンガリー系との共存関係には憂えるべき点は少ない」と夫妻。「スロバキア社会を不安定にさせる要素は、むしろ、人口比では2%に満たないロマ人の現状にある」とも。ロマ人( “ジプシー”と呼ばれる人々)の多くは、都市や郊外にスラムを形成しているが、失業、貧困、非識字率の高さなど様々な問題を抱えている。スロバキアのEU加盟(2004年)後、EUの援助により、都市部にロマ人のために公営集合住宅が建設されたが、社会主義時代の生活保護が大幅にカットされたこともあり、家賃を滞納し、退出を余儀なくされるケースも多い。スロバキアでは、旧社会主義時代から国土の西部地域に工業都市が集中し、東部が遅れをとる…という「西高東低」型の経済発展の構図があった。その後スロバキアに進出してきた外資系企業も、既に発展の礎が築かれている西部地域に拠点を置いたため、東西格差が益々拡がる結果となった。ロマ人のほとんどは元々東部に居住しており、構造的にも、西部の発展から取り残された存在であったことは否めない。

 キリスト教徒が大多数を占めるスロバキア(カトリック69%、プロテスタント7%)において、最も大切な年間行事はクリスマスとイースター。核家族化が進んだ今日において、親戚一同が集う大切な機会でもある。クリスマス休暇は12月24日、25日、26日の3日間で、英米とは異なり、スロバキアでは、キリストの生誕日である25日ではなく、24日が最も大切な祝日とされる。24日に家族(近親者)でクリスマスのご馳走を囲み、25日・26日はそれ以外の親類縁者を訪ね合うのが一般的だ。クリスマスやイースターに他家に招かれた時は、「食べ物以外の手土産」を持参するのがマナーで、マルティンさん夫妻も、花、ワイン、本などを選ぶことが多いそうだ。尚、クリスマス、イースター以外で、日常的に誰かの家を訪れる時は、必ずしも手土産を用意する必要はない。

 スロバキア人が伝統的に摂取してきた蛋白源は、豚肉が首位で、鶏肉が二番手だったが、最近は健康志向故か、その順位が逆転している。内陸国のため魚類では、マス、鯉などの淡水魚を食する。(クリスマスには鯉料理がご馳走のひとつとして食卓に上る。クリスマスの2、3日前に市場から鯉を活きたまま買ってきて、自宅の水槽で泳がせて泥臭みを抜き、12月24日に捌いてフライドフィッシュにする。)マルティンさん夫妻が、日本で最も恋しく思う母国の味は“羊のチーズ”だ。中央スロバキアの山岳地帯で生産される羊のチーズは、独特の風味があり、乳牛のチーズよりも塩気が多い。スロバキア料理に欠かせない食材で、これを使った代表料理が、「ポテトニョッキ」と「蒸しポテトパイ(スロバキア版蒸し餃子)」である。(ポテトパイの皮はジャガイモを練って作り、中にジャガイモと羊のチーズを詰める。)共に、料理の上に、羊のチーズとカリカリに焼いたベーコンの細切れをトッピングする。“ザワークラウト”(キャベツの酢漬け)もよく食卓に上る。かつては、新鮮な青野菜が手に入り辛い冬場の貴重なビタミン源だった。スロバキアでは、毎年、ザワークラウトを漬け込む時期になると、青果売り場にキャベツがうずたかく積まれるという。因みに、日本語では“酢漬け”と訳されるが、ザワークラウトが酸っぱいのは、酢を入れるからではなく、塩漬けにしたキャベツが発酵するためである。果物については、マルティンさん夫妻の子ども時代には、オレンジなどの柑橘類は滅多に手に入らず、大変貴重なものであったそうだ。一方、スロバキアでは、家の庭先に当たり前のように植えられているのがリンゴの木。来日して、リンゴがスーパーで一個単位で売られているのを見たときには大層驚いたそうだ。

 「スロバキアの人々が外国人に接するようになったのは、ごく最近のこと。社会主義時代には外国人とのコンタクトがほとんどなかった。だが、国の体制が変わり、外国からの観光客も徐々に増えてきている。ユネスコの世界遺産として7箇所が登録され(2010年1月現在)、観光立国として成長する可能性を十分に秘めていると思う」と夫妻。中でも有名なのは、スピシュ城(12世紀築城:文末の写真参照)。広大な丘の上に建てられており、その面積は4ヘクタールと中世期の城としては、中央ヨーロッパで最大級である。

 スロバキア国内だけでも、見どころには事欠かないが、首都ブラチスラバは、ウィーンまで車で小一時間という近さでもある。ウィーン観光と絡め、一日だけブラチスラバに足を延ばすことも可能だ。(ブラチスラバは人口50万人のこぢんまりとした都市で、半時間もあれば、中心街を散策することができる。)EU加盟後はパスポートが不要になり、スロバキア国民も気軽に国境を越えられるようになった。マルティンさんたちも、クリスマス前になると、よく日帰りでウィーンまで繰り出していたとのこと。「ウィーンでは、オーストリア製のソーセージやデザートを食したり、(レーズンや様々なベリーで風味付けされた)ホットワインを飲んだりするのが楽しみ。ホットワインはクリスマスの風物詩とも言える飲み物で、ブラチスラバにも、スロバキア独特のホットワインやハーブ入りの温かいはちみつ酒*注2)が出回ります」とカタリーナさん。「日本から訪れた方にもぜひ味わっていただきたいが、クリスマス最中の2、3日間は、商店が全て閉まってしまい、町から人が消えてしまうので、スロバキア旅行はお勧めできない。12月の第一週から22日、23日までの間に訪れれば、クリスマスに向けて華やぐマーケットも楽しめて最高と思う」とのこと。

 マルティンさんも、カタリーナさんも、博士課程修了後はスロバキアに帰国する。欧米社会には18歳で(大学進学時に)親許を離れる傾向があるが、スロバキアでは(大学が遠方でない限りは)結婚まで実家で暮らし、結婚後に独立するのが普通。二人とも結婚後すぐに来日したため、スロバキアに帰国後は、ブラチスラバでマイホームを構えるのが当座の展望だ。「日本企業も数社、スロバキアに進出しているので、在留邦人との交流などを通じて、日本との縁を大切にしていきたい」とマルティンさん。

 各々の専門分野で精進し、同時に奨学金を得るという幸運に恵まれた二人。二人三脚の安心感が生む心のゆとりからか、日本での暮らしにも無理なく馴染んでいる様子だ。カタリーナさんは日本料理の本を買って、和食のレシピも覚えているとのこと。来日したマルティンさんの父を“すき焼き”でもてなし、喜んでもらえた…とはにかみながら笑う。

 マルティンさん夫妻が「来日前は、日本に対してステレオタイプ化されたイメージがあった」と語ったが、翻ってわれわれ日本人は、どれだけかの国のことを知っているのかと考える。「海外生活の達人」シリーズも、パート1、2含めて、お蔭様で60編を越えたが、最近、ヨーロッパの旧社会主義諸国出身の方をインタビューさせていただく機会が増えた。東西冷戦終結後、人の流れが生まれ、その国の才ある若者が各々の志に導かれて、日本の地に降り立っている―そのエネルギーを感受できるのは嬉しい。インタビュー後、夕刻にもかかわらず、それぞれの大学に向かっていったマルティンさんとカタリーナさんを見送りながら、彼らの母国スロバキアに思いを馳せた。

(齋藤志緒理)

注1)女性の姓:
女性の姓には“ova”という接尾語が付く。(結婚前は「父親の姓+“ova”」、結婚後は「夫の姓+“ova”」となる。)カタリーナさんは父親の姓が“Schlosser”なので、結婚前の姓は“Schlosserova”だった。結婚後は、マルティンさんの姓“Macuha”(→末尾の母音aを取って “Macuh” )+“ova”で“Macuhova”となった。「米国のヒラリー・クリントン氏が仮に大統領になったとします。それをスロバキア語で記事にする場合はClintonovaと表記することになり、ファーストネームを書かなくても、夫のBill Clinton元大統領のことなのか、Hillary Clinton氏のことなのかがわかります。」(カタリーナさん談)

注2)
はちみつ酒(スロバキアのはちみつ酒は、現地語で“Medovina−メドヴィナ”と呼ばれる):はちみつ製品づくりは、スロバキアの伝統産業で、その品質は世界最高レベルを誇る。(2009年秋にフランスで実施されたはちみつ製品コンテストでも、はちみつ酒を中心に多くの部門でスロバキアの製品が金賞を受賞した。)はちみつ酒は、夏には冷たくして飲むこともあるが、大抵の場合はホットで飲む。特に冬には、戸外で冷えた身体を温めるのに最適。

スピシュ城
スピシュ城(Spišský hrad Castle)
撮影者:Alexander Vojček
出典:“The Slovak Tourist Board


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2010年04月01日

マカオ

「一本の道でつながる(?)」小さな社会

東西文化が交錯する地、散策の楽しみも尽きず

 李思思さんは、約20年前にマカオから来日した。日本語学校を経て、東京外国語大学の日本語学科に入学。学部卒業後は、同大大学院(言語文化専攻・日本語研究)に進んで更に5年間学業に勤しんだ。学友を介して知り合った日本人男性と結婚して一女に恵まれ、その後は、子育てと両立させながら、広東語教室や香港赴任者向け研修の講師を務めている。

 李さんは、香港で生まれ、小学校6年生の時に父の仕事の関係でマカオに移住した。香港とマカオは高速フェリーで1時間ほどの距離で、言語も同じ「広東語」。父は元々マカオ出身だが、母は香港出身で、双方に親戚が沢山いる。香港時代には旧正月や夏休みにマカオの親戚宅に滞在し、マカオに移住後は逆に香港の親戚を訪ねるなど、頻繁に行き来した。日本に定住後も、年に一度は里帰りして、香港・マカオの家族や友人を訪ねている。そうした経歴から、李さんは、香港・マカオ両方の暮らしや文化を熟知し、マカオについても、香港との対比において、その地域性をとらえることができる。

李思思さん一家
マカオの李思思さん一家:
中秋の名月(中秋節)の折、父母二人の70歳の前祝いを兼ねて会食。海鮮レストランで旬の「大閘蟹」(上海蟹)を食した。前列は李さんの両親、後列は左から、弟夫婦、李さん、妹。(2009年10月4日撮影)

 「マカオに移住したてのころ、子ども心に印象深かったのは“空の広さ”と“澄んだ空気”だった」と李さん。高層ビルが高密度に建っている香港とは違い、当時、マカオには高い建物がほとんどなかった。マンションは高くても5階建てで、裕福な人々は庭付きの平屋住宅に住む。町を歩けば、榕樹(ガジュマル)の街路樹が涼しげな木陰をつくっている。

 当時(1980年頃)はまだ埋め立てが進んでおらず、マカオは今以上に面積が小さかった。どこへ出向くにも歩いて行かれない距離ではない。人口も約20万人…と少なく、直接は知り合いでなくても、“誰それの親戚の友人の…”という風に辿れば、人と人とが何らかの縁でつながっているような小さな社会だった。(それは人口が約50万人に増えた今日でも根本的には変わっていない。)悪いことをすればすぐに知れ渡り、地域住民の目がよく行き届くので、治安はいたってよい。*注1)

 マカオの住民は、大きく分けて「中国人が9割、ポルトガル系(ポルトガル人とその子孫)が1割」である。中国人の中には、李さん一家のように香港から移住してきた人々や、中国本土からの移住者も含まれる。ポルトガル人がポルトガル人以外(実質的には中国人が殆ど)と結婚して生まれた子は、「土生(tou saan)/マカニーズ」と呼ばれる。*注2)マカオがポルトガルの領土であった時代*注3)には、マカオ政庁のトップをポルトガル人が占め、その次に高い役職にあったのが「土生」であった。中国人は主に商業の世界(飲食業や貿易業)に従事するのが今日に至るまでの傾向である。中国人とポルトガル系住民(含:土生)の関係は、手放しで“良好”と言えるほどではないまでも、両者の間にはさしたる摩擦はなく、共存関係が築かれてきた。

 「マカオの人々は和を重んじる意識が強い。何かもめごとが起こっても、長老格の人物が登場して“まあまあ”と事を収めるのが常。自己中心的な振る舞いや、強い自己主張はよしとされない」と李さん。立身出世に関しても、あまり欲を出さずに、ほどほどのところで満足する傾向がある。「香港人は坂道があれば上れるところまで上っていこうとするが、マカオ人は生活が安定してさえいれば、“平らなところで充分”と思う」―李さんは、香港人との価値観の違いをこう表現する。そして、その「上昇志向の弱さ」が、マカオ発展のブレーキの一つになっているのではないかとも考察する。

 現代史を振り返ると、マカオでは、概ね平和が維持されてきた。例えば、第二次世界大戦中、日本軍は香港を攻略したが、マカオまでは来なかった。中国で文化大革命の嵐が吹き荒れた時代も、マカオは本土ほど影響を受けなかった。マカオが中国に返還された後も、香港ほど際立った影響は受けていない。*注4)このように、長年、激しい歴史の波にもまれることなく「普通に生活できる環境」が守られてきたという背景も、少なからず、マカオ人の安定志向につながっているのではないか―と李さんはみている。

 「マカオは土地・資源・人材・技術に乏しい。GDPの約4割をカジノと観光業が占めるという状況下、この二つを最大限に生かす他に発展の道が見出せないのは苦しいところ。しかし、隣人との調和を大切に、あくせくせず、平穏な暮らしが営まれるという面において、マカオ人の生活充足度は非常に高い」と李さん。李さん自身も、マカオに帰省すると、どこか心がほっとするそうだ。

 マカオの学校教育についても触れよう。義務教育は小・中学校の9年間で、大別すると中国語(広東語)を教育言語とする中文学校と英語を教育言語とする英文学校の二つの流れがあり、その他に「土生」たちが通うポルトガル学校や、インターナショナルスクールがある。李さんは香港では中文教育の小学校に通ったが、マカオに移住後、英文学校に転じた。(転校は自由だが、中文学校から英文学校へ移る場合は、英語力を補うためにサマースクールに通う必要がある。)「シエスタ」(ポルトガル語で「昼寝」の意)と呼ばれる昼休みが、李さんの就学当時はたっぷり2時間(現在は1時間30分〜45分)確保されており、子どもたちは、その間自宅に帰って家族と昼食をとる。塾は香港ほど普及しておらず、個人的に補習するためには、家庭教師を頼むのが一般的だ。マカオでは、小学部(6年)と中学部(日本の中学3年+高校3年に相当)が併設されている学校が殆どなので、大抵は(使用する教材が同様である利点を生かして)上級生が下級生の家庭教師となる。李さんも、中学3年時から高校時代まで、同じ学校の小学生の勉強をみた経験がある。

 子どもたちが放課後や週末に習うスポーツは、水泳、バスケット、バレーボールなどで、その中でも水泳は特に人気がある。李さんの父・妹・弟は、広東省で水泳コーチの資格を取り、本業以外にスイミング指導者としても活躍している(李さんの父は、マカオ代表「水球チーム」のコーチ。)

 子育てに関しては、「皆で子どもを育てる意識」が社会に浸透しており、親が自分の子を叱る前に、親戚や近所の人に叱られる…といったことも日常茶飯事だ。そのあたりも「小さな社会」ならではの温かさであろうか。祖父母の家が「通りの何ブロックか先」と近いことが多いので、親が共働きでも、子どもは寂しい思いをせず、夕食は(仕事から帰った両親と)祖父母の家でとれる。働く両親には、この上ないサポートであり、祖父母世代の生き甲斐ともなって、家族の結束をより強める効果を生んでいる。

 「小さな社会」の中で、隣人と調和して暮らすマカオの人々だが、外国人に対して排他的ではなく、日本人にも概して好意的である。マカオに在住している日本人の職種は、李さんの知る範囲でも、旅行社関係者や観光ガイド、飲食店経営、販売業など多方面にわたっており、日本人コミュニティも形成されている。そして、新しく来た日本人は先輩からいろいろな情報を分けてもらいながら、徐々にマカオ生活に馴染んでいく。「とはいえ、2年、3年という任期で赴任してきている人は、業務の多さ故か、なかなかゆとりがもてないのが常。マカオに定住するようになって、初めて自分の社会ができ、地元のマカオ人とのつながりができていくようだ」と李さん。

 マカオでの余暇の過ごし方を考える上で、忘れてはならないのが「カジノの誘惑」である。カジノがマカオ経済を支える一つの柱となっている現状を思えば皮肉な話だが、地元のマカオ人、外国人の別を問わず、カジノはある意味“鬼門”とも言える場所で、足を踏み入れるにしても、自分を見失わないよう意識することが肝心だ。カジノで借金がふくれ、勤務先のお金に手をつけた挙句、自殺してしまったという悲しい実話も少なからずある。「マカオに単身で赴任し、長期滞在する外国人は、寂しさを紛らわそうとカジノに行き、はまってしまうことが多いので特に注意が必要。マカオにはスイミング、テニス、釣りなど、身体を動かす場は沢山ある。健全にストレスを発散することが何よりも大事」と李さんはアドバイスする。

 マカオは狭いながらも自然が豊かな土地柄だ。ハイキングコースも充実しており、老若男女問わず、気軽に歩ける。李さんの母もハイキング愛好会に参加して、2〜3時間のコースをよく歩いている。李さんが好きな見晴らしスポットは、マカオで最も高いギアの丘(海抜90メートル)だ。マカオの東の海や街の中心部を一望できて、清々しい気持ちになる。ここには灯台(東アジアで最古の灯台の一つ)があり、中にも入れる。

 李さんは、「旧市街の裏路地などに分け入り、地名の標識を見ると、今は存在しない市場の名称が残っていたりして、古い街の名残を感じることができる」―と、街路を散策する楽しさも語る。ポルトガル統治時代の街並みを残そうと、中国返還前から、マカオ政庁が出資して修復を加えた経緯もあり、傷みの激しかった欧風建築物も、きれいに生まれ変わっている。2005年には、ユネスコ世界遺産委員会において、マカオの22の歴史的建造物と8ヶ所の広場が「マカオ歴史市街地区」として世界文化遺産に登録された。

 マカオは、東西文化が融合した地だけあって、新暦新年、旧正月(春節)、イースター、仏陀の誕生日、クリスマスなど、様々な宗教・東西文化の行事が目白押しだが、宗教的な行事の多くは、信者以外でも参加可能だ。例えば、毎年5月13日には「ファティマ聖母の行列」*注5)がある。司祭や子どもたちが聖母マリア像を掲げ、マカオ中心部・セナド広場の聖ドミニコ教会から南西部のペンニャ教会まで讃美歌を歌いながら行進するのだが、この行列には、カトリック信者以外の沢山のマカオ市民も参加する。「マカオの街はいつ歩いても発見があるが、こうした行事の折に居合わせると、マカオに息づく文化をより肌で感じることができる」と李さん。

 ところで、マカオのシンボルともなっている「聖ポール天主堂」跡をご存知の方も多いであろう。1835年の火災により消失し、石造りの大階段と前面の壁(ファザード)のみが残る場所である。壁面をバックに記念撮影をし、そのままここを後にしてしまう観光客が多いが、ファザードをくぐり、本堂跡地を進むと、奥に「天主教藝術博物館」があり、無料で開放されている。李さんは、この博物館を訪れると、いつも厳かな気持ちになるそうだ。博物館には中世の教会美術が展示されており、地下の納骨堂には禁教令のため日本を離れ、二度と故郷の土を踏むことが叶わずにマカオで生涯を閉じた日本人の遺骨も安置されている。

 「気づいてみたら、香港とマカオで育ったよりも、長い年月を日本で過ごしたことになります」―李さんはそう苦笑する。長女は既に高校生。長い学校の休みには、一人でマカオの祖父母を訪ねていかれるほどに成長した。担当している広東語教室や赴任前研修は、李さんの“豊富な引き出し”を活用し、新鮮な情報を発信するのに最適な場のようだ。広東語教室には、李さんの指導を仰いで十年になるという教え子たちもいるが、マンネリに陥らないよう、常に教材を工夫して、暮らしに根ざしたことばを伝授するよう心がけている。また、赴任前研修では現地生活に利する情報を提供し、個々人の不安を解消しようと心を砕く。今後もそのスタンスに変わりはない。「沢山の受講者との出会いの中で、香港・マカオの姿をありのままに伝えていかれたら」と穏やかな表情を浮かべた。

 インタビューの後日、李さんから「2010年3月28日より、成田⇔マカオ間の定期直行便(澳門航空:Air Macau)が就航予定」とのニュースが届けられた(これまで日本・マカオ間の定期直行便は、同航空の大阪発着便のみだった。)本稿は、期せずして、成田便就航直後の掲載となる。「これまで以上に、日本人に来ていただけるようになったら嬉しい」…文面には、彼女のそんな思いも書き添えられていた。

(齋藤志緒理)

注1)
香港とマカオを比較した広東語の表現に、「香港地、澳門街」がある(「澳門」は「マカオ」、「街」は「通り(道路)」のこと。)直訳すると“香港は(広さのある)土地だが、マカオは一本の通り”という意味。「一本の通り」というのはさすがに大げさだが、「マカオでは、皆が(一本の道でつながった)小さな社会に住んでおり、その道のどこかで起こったことは、誰もが知るところとなる」との含意がある。

注2)
「土生」とは、文字通り「その土地に生まれた」という意味。中国人同士の婚姻以外、即ち、ポルトガル人と非ポルトガル人との婚姻によって誕生した、マカオ生まれ・マカオ育ちの子を指す。

※婚姻による文化の継承:

  1. 中国人同士の結婚:100%中国の文化に則った生活習慣
  2. ポルトガル人と非ポルトガル人(実質的には殆ど中国人)の結婚(生まれた子は「土生」):
    中国とポルトガルの生活習慣が混合。
  3. ポルトガル人同士の結婚:
    ポルトガルの生活習慣が基本だが、何らかの形で中国人の文化を取り入れている。

2.と3.の家庭では(程度の差はあるが)ポルトガル語が話され、ポルトガルの行事や生活様式などが継承されている。

注3)マカオとポルトガルの関係史:
 ポルトガル人は、16世紀に入ってから中国南部地域に来航し始め、1510年にはインドのゴアを、翌年には現マレーシアのマラッカを占領した。1557年には、広州官憲の許可により、ポルトガル人がマカオに定住を始める。時代が下って1757年、清朝が外国との交易を広州に限定。これ以降、イギリスなどの列強各国の商人がマカオに駐留するようになる。
 1842年、アヘン戦争が終結し、香港がイギリスに割譲される。列強が世界各地で植民地の版図を広げようとする趨勢の中で、ポルトガルは1849年にマカオ地租の清朝への支払いを停止。1887年にはマカオをポルトガルの「領土」とした。1974年、ポルトガルで左翼軍事政権が樹立されたことをきっかけに、脱植民地主義の流れが生まれ、翌1975年にポルトガル軍がマカオから撤退。1999年に中国に返還される。(参考:菊間潤吾著『マカオ歴史散歩』新潮社)

※日本とポルトガル/マカオ:
種子島に漂着したポルトガル人により、日本に鉄砲が伝来したのは1543年。1612〜1613年にかけて江戸幕府が禁教令を布告し、1614年にはマニラとマカオへ日本人キリシタンが追放された。1639年、鎖国令によりポルトガル船の来航も禁止された。

注4)
中国返還後、香港では「表現の自由」の制限への反感が生じているが、マカオでは、かつてのポルトガル時代から、反中央政府的な言論や行動があまり起こっておらず、そのため、返還後に改めて「不自由感」が生じることがなかった。

注5)
ポルトガルの田舎町、ファティマで牧童三人が、1917年5月〜10月の毎月13日に聖母マリアのお告げを受けたという奇跡に由来する行事。マカオのペンニャ教会は普段は閉じられており、年に一度、この行列の日だけミサが行われる。

マカオ 旧正月のイルミネーション
旧正月(春節)を祝い、セナド広場に繰り出すマカオ市民:
電飾が施されている建物はポルトガル統治時代のマカオ政庁(李思思氏撮影)


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2010年03月01日

ボスニア・ヘルツェゴビナ

旧ユーゴ時代には、多文化・多民族が平和裏に共存(混住)

「隣人は家族より大切にせよ」の教えも

 ボスニア・ヘルツェゴビナは、バルカン半島に位置する人口約400万人の国で、面積は5.1万平方キロメートル(九州の約1.3倍)である。四季があり、東ボスニアでは紅葉も楽しめる。首都サラエボは「サラエボ渓谷」の中に位置し、冬は車を30分も走らせれば山スキーができる。また、サラエボから車で南南西に3時間ほど移動すれば美しい海岸線に至り、夏は多くの観光客で賑わう。ボスニア・ヘルツェゴビナは国土のほとんどが内陸だが、20kmだけアドリア海(イタリア半島の“ふくらはぎ側”の海)に面しているのだ。

 バルカン半島は、「東西が交差する十字路」であり、古来様々な勢力がその覇権を争った地域だ。少々長くなるが、ボスニア・ヘルツェゴビナを知る上で押さえておくべき歴史的背景について、最初に触れておきたい。

 同地域には、6世紀にスラブ系民族が定住を開始。14世紀には「ボスニア王国」が確立するが、1463年にオスマン・トルコにより征服され、以後400年以上にわたり、その支配を受けた。19世紀後半に入るとオスマン・トルコの趨勢が衰え、1878年のベルリン会議を経てボスニアはオーストリア・ハンガリー帝国の統治下に入る。(1908年には、同帝国によってボスニア、ヘルツェゴビナ両地域が併合される。)1914年、オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子夫妻がサラエボで暗殺されたいわゆる「サラエボ事件」は第一次世界大戦の引き金となった。

 第一次世界大戦での敗北によりオーストリア・ハンガリーが瓦解した1918年、同地に「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」が誕生(1929年にユーゴスラビア王国と改称)。第二次世界大戦中はナチス・ドイツに占領されるが、ユーゴスラビア共産党書記長チトーがパルチザン部隊を組織し、主権を奪回する。そして大戦終結後の1945年にユーゴスラビア連邦が成立し、ボスニア・ヘルツェゴビナは同連邦を構成する一共和国となる。*注1)東西冷戦時代に入り、ソ連が東欧諸国への圧力を強める中、1948年、ユーゴスラビアは東側陣営と袂を分かち、コミンフォルムから除名処分を受ける。そして西側諸国とも距離を置き、独自の社会主義路線を歩み始めた。(1948年のこの出来事は、“歴史的なNO”と言われ、旧ユーゴスラビアの人々の大きな誇りとして、今も語り継がれている。)

 東西両陣営の力学の狭間に位置したユーゴスラビアは、冷戦体制の中で政治的均衡を保っていたが、圧倒的だった指導者チトーの死や、冷戦の終焉に伴う民族独立の気運の高まりの中で、連邦としての求心力が失われ、1991年には3つの共和国が次々に独立した。*注2)ボスニア・ヘルツェゴビナもそれまでの「一党独裁」から「複数政党制」に移行し、1992年、独立を問う住民投票を実施するが、これを端に本格的紛争が勃発。死者20万人以上、難民・避難民が200万人といわれる、戦後欧州で最悪の紛争となった。*注3)

 今回お話を伺ったマヤ・ヴォドピヴェッツ(Maja Vodopivec)さんは、2005年にボスニア・ヘルツェゴビナから来日し、現在、東京外国語大学・大学院の博士課程に在学中だ。マヤさんのヴォドピヴェッツという姓は、スロベニアの名で、祖父がスロベニア出身であったことに由来する。マヤさんの父はスロベニア人の祖父とクロアチア人の祖母との間に生まれ、マヤさんの母はセルビア人である。マヤさんはサラエボで生を受け、成長した。

ラティンスキー橋の上で
マヤ・ヴォドピヴェッツさん(写真右)
サラエボで国際学会が開かれた折に東京外国語大学・博士課程の友人と。(2008年9月、サラエボ市内のラティンスキー橋にて)*注4)

 「ヨーロッパの火薬庫」とも呼ばれるバルカン半島だけに、実情を知らない者には「異民族や異教徒が日常的に反目し合い、長年一触即発の緊張感にさらされてきたのでは?」と見られがちだ。しかし、マヤさんによれば、旧ユーゴスラビアでは、多民族が平和裏に共存でき、差別や偏見もなく、(マヤさんの祖父、両親の結婚をみてもわかるように)異なる民族間での結婚も珍しいことではなかった。1974年生まれのマヤさんは、子どもの頃から「隣人は家族より大切」「他宗教を尊重しなさい」と教えられた。ボスニア・ヘルツェゴビナには「ボスニア語」「セルビア語」「クロアチア語」の3つの言語があるとされるが、それぞれが、自分たちの民族名を冠して呼んでいるだけのことで、言語学的には同一のもの。「関西弁と標準語ほどの違いもない」そうだ。但し、ボスニア語とクロアチア語はラテン文字で綴られ、セルビア語はキリル文字で綴られるため、マヤさんの小学校時代、授業では「一週間ラテン文字で勉強したら、次の一週間はキリル文字で」という風に、両方の書き言葉が教えられた。「そのことを大変だとも、強制されているとも感じたことはなく、ごく自然のこととして受けとめていた」とマヤさん。

 旧ユーゴの中でも、マヤさんの育ったボスニアでは、複数民族の「混住」が進み、多文化を許容する傾向が強かったそうだ。今「混住」と書いたが、実際のところ、ボスニアでは「○○人」という括りで、居住区が分かれることもなく、お隣同士が別の民族、別の宗教ということが当たり前であった。ボスニアは、(ユーゴスラビアの「多文化・多民族共存の理念」が象徴的に実現されている場所として)“リトル・ユーゴ”とも呼ばれた。外国人や外国文化に対しても寛容であり、“ホスピタリティの国”としての自負があった。

 「そうした歴史と精神性をもちながら、なぜあの凄惨な紛争が起きてしまったのか」マヤさんは当時を振り返る。「冷戦時代に微妙なバランスの上に成り立っていた、その力学が崩れたことが大きい。一党独裁から複数政党制にシフトしたことは、“民主主義”に照らせば歓迎すべきことだが、その結果、国民の支持政党が分かれた。各政党に加わった外部(外国)の力や、メディアによる扇情的な報道などが、国民の間に生じた亀裂をさらに深める結果となったことは否めない」―1984年にオリンピックに沸いたサラエボでも銃撃戦が繰り広げられ、多くの市民が犠牲となった。

 ボスニア・ヘルツェゴビナが紛争に突入した1992年、マヤさんはちょうどセルビアのベオグラード大学に進学していた。専攻は日本語と日本文学だった。ユーゴスラビアの人々は、元来日本人には好意的で、第二次世界大戦後の日本の経済発展を驚きの目で見つめ、「勤勉さ」や「日本製品の質の良さ」も高い評価を得ていた。マヤさんが日本に関心を向けたのも、そうした素地があってのことで、1996年に日本語・日本文学専攻コースを卒業すると、同じベオグラード大学で経済学部の3年に入り直して、更に2年間学んだ。

 卒業後は、紛争が終結したサラエボに戻り、2000年から5年間、日本大使館(当時は兼勤駐在官事務所)*注5)に勤務した。マヤさんはこの間、大使館のサポートを得て、ボランティアで市民に日本語を教える活動を続けた。当初日本語クラスの募集広告を出すと、何と200人からの応募があった。マヤさんはこの志願者を全て引き受ける覚悟を決め、200人を50人ずつ4クラスに分けた。そして、各クラス週1回・2時間のレッスンを継続して行った。週5日の内、4日は終業後に教壇に立ったことになる。クラスには幅広い年齢層の生徒たちが集まったが、50歳代以上の受講者も多く、彼らの向学心にはマヤさんも大いに刺激を受けたという。

 ベオグラード大学時代から「日本に留学したい」という夢を抱いていたマヤさんだったが、日本語クラスで「自分にはもう教えられるものは何もない」と感じるくらいにもてるものを出し尽くすと、留学への熱い思いに再び火がついた。2005年春、ついにその夢を実現させ、東京外国語大学に留学。2年間「日本語教育学」を学んだ後、2007年に同大学の博士課程・「平和構築・紛争予防専修コース」(Peace and Conflict Studies)に進んだ。

 マヤさんはベオグラード時代に学生結婚をし、一女に恵まれていたため、留学時も一人娘アナを伴って来日した。アナはちょうど小学校に上がるタイミングだったので、日本の公立小学校に通わせることにした。アナは日本語が全くわからないため、マヤさんは学校に願い出て、娘の横に自分用の席を設けてもらうことにした。そして、娘が1年生の間は、大学のスケジュールと両立させつつ小学校に通い、授業中の教諭の言葉を娘に通訳した。こうして日本の小学校教育の現場に身を置けたことは、マヤさんにとって得がたい経験となったそうだ。「ボスニアの学校では決して教えず、日本の学校で子どもたちが幼い内から何度も刷り込まれるキーワードは“我慢”と“反省”です」とマヤさん。「日本人は集団行動を得意とするというが、小学校1年生の頃から皆が共有のルールを理解し、ルールに従って行動するよう指導されている。(ボスニアではもっと個人主義的で、個々が思い思いに生きようとする。)また、日本の教諭は、何か間違いを犯した子どもに“反省”を促し、反省がしっかりできたと認めてから、その過ちを許していた。ボスニアの言葉には、日本語の“反省”にぴったり相当する言葉はない」と語る。

 日本での大学生活を通じても、感じるところは大きかった。「日本人は、日々どう身を処すべきか、気を遣い過ぎるくらい遣っている。そうすることで、集団の中での自分の評価や立ち位置が安定し、安心を得ることができている。しかし、外国人はどんなにがんばってみても、日本人と同じにはなれない」―マヤさんは、来日した当初は、自分自身のとるべきスタンスがわからず、自信をなくしてしまうこともあった。「自分は自分のままでよい。自分であり続けながら、日本という社会に適応していけばよいのだ」そう思い定めるのに2年かかったそうだ。

 日本人は、「以心伝心」「阿吽の呼吸」…といった風に、一々言葉にしなくても、互いに察し合える部分がある(マヤさんにとっては、これが “わかっていて当然”という無言のプレッシャーに感じられることもある。)しかし、ボスニアでは、(多民族が共存し、皆が別々の文化・価値観を背景に暮らしていることが大前提なため)、自分の考えは明確に言葉にして表現しないと、相手に理解してもらえない。マヤさんが幼い頃、何かもの言いたげにしていると親に「額に書いてあるわけではないのだから、言わないと分からないでしょう?」とよく言われた。「赤ちゃんが泣くまでは母親はミルクを与えるな」というくらいで、赤ん坊の頃から意思表示をするように育てられる。

 アナは、2010年春には小学校6年生に進級する。今や日本語を自在に操り、元気に登校する娘は、年に一度ボスニアに帰省すれば、母国の言葉でいとこたちと楽しそうに遊ぶ。「娘には、ボスニアと日本の美質を吸収して、豊かな人間性を育んでほしい」と願う。博士課程を修了した後は、ボスニアに帰国する予定だ。「平和構築・紛争予防」というテーマを選んだのは、無論、紛争で傷ついた母国への思いが根底にあってのこと。「母国で人生の新たな一ページを開く日に向けて、今は大いに学び、交友し、地力をつけたい」マヤさんは、静かなる決意を胸に、日本での日々を大切に過ごしている。

(齋藤志緒理)

注1)ユーゴスラビア連邦とチトー:
■ユーゴスラビア連邦は、「セルビア」「クロアチア」「ボスニア・ヘルツェゴビナ」「モンテネグロ」「マケドニア」「スロベニア」の6つの共和国から成った。

■チトー(1892-1980年)は、1945年の連邦成立時には首相に、1953年には初代大統領に就任する。1960年代には、インド首相のネルー(1889-1964年)、エジプト大統領のナセル(1918-70年)と共に、「非同盟主義運動」の指導者として名を馳せた。

注2)ユーゴスラビア連邦の崩壊:
1991年にクロアチア、スロベニア、マケドニアの各国が独立し、1992年にボスニア・ヘルツェゴビナが独立を巡って内戦に突入(1995年デイトン和平合意成立。)連邦はセルビアとモンテネグロの2ヶ国で構成されることになった。2003年には、「セルビア・モンテネグロ」と改名され、2006年のモンテネグロ独立により、連邦は消滅した。旧ユーゴスラビアは、現在6つの共和国と「コソボ(共和国)」に分かれている。コソボの独立を承認する国は日本を含め65ヶ国(日本は2008年3月に承認。)非承認国の間では、コソボは「セルビアの自治州」という位置づけとなっている。

※2006年から2007年11月までサッカー日本代表チームの監督を務めたイビチャ・オシム氏は、サラエボ出身で、1964年の東京オリンピックにはユーゴスラビア代表選手として来日している。オシム氏はユーゴスラビア連邦代表チームの最後の監督(1986年−1992年5月)でもあった。

注3)ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(1992年4月−1995年12月):
紛争突入当時、ボスニア・ヘルツェゴビナの人口構成は、「セルビア系(セルビア正教徒主体)33%」「クロアチア系(カトリック教徒主体)17%」「ボシュニャク系(イスラム教徒主体)44%」だった。セルビア系は、セルビア共和国やモンテネグロ共和国と共にユーゴスラビア連邦に残ることを望んだが、ボシュニャク系やクロアチア系は独立を望んだ。1992年、ボスニア・ヘルツェゴビナ政府は、セルビア系がボイコットする中で、国民投票を敢行し、独立を決定した。数の上では優位だったボシュニャク系指導者たちには、独立後の国家の主導権を握る目算があったが、セルビア系、クロアチア系がこれに対抗して、民族毎に武装化し、三つ巴の争いとなり、紛争が泥沼化した。1995年、国連の調停により、デイトン和平合意が成立。この合意によって、ボスニア・ヘルツェゴビナは、ボシュニャク系とクロアチア系主体の「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」とセルビア系主体の「スルプスカ共和国」から成る連合国家となった。

注4)ラティンスキー橋:
1914年6月28日、オーストリア・ハンガリー帝国のフランツ・フェルディナント皇太子とゾフィー妃が、セビリア人青年、ガブリロ・プリンツィップによって暗殺された「サラエボ事件」の発生場所。この橋は、第二次世界大戦後に「プリンツィップ橋」と称されるようになったが、ボスニア紛争終結後、再び旧名の「ラティンスキー橋」に戻った。

注5)兼勤駐在官事務所:
日本は1996年1月にボスニア・ヘルツェゴビナを国家承認し、同年2月に外交関係を開設。同年6月に在オーストリア大使館がボスニア・ヘルツェゴビナを兼轄し、1998年2月、サラエボに兼勤駐在官事務所を開設した。2008年1月にはこれを大使館に格上げした。

サラエボ市街の「チトー通り」
サラエボの中心街・チトー通り(撮影:マヤ・ヴォドピヴェッツ氏)


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2010年02月01日

ガボン

ガボンの豊かな森林は“地球の左肺”

外国人人口も多く、殆どの産品は外国から輸入

 静岡県出身の山下真有美さんは、2008年1月〜2009年12月までの2年間、JICA(国際協力機構)・青年海外協力隊の派遣によってガボンに滞在した。

 ガボンは、中央アフリカの一国。西は大西洋に面し、首都リーブルビルはほぼ赤道直下に位置する。日本の約3分の2の国土に、人口は約145万人。*注1)旧宗主国フランスからの独立は1960年であった。ノーベル平和賞を受賞したシュバイツアー博士が医療活動に半生を捧げた国でもある。民族的にはバンツー系(全体の3分の2)とファン系(同3分の1)に大別され、部族毎に言葉が違うが、教育の普及もあり、全土でフランス語が共通語として機能している。

 オマール・ボンゴ氏が1967年から40年余年に亘り大統領職にあったが、2009年6月、7期目の途中で逝去。子息のアリ・ボンゴ氏が大統領選挙で当選し、2009年10月に新大統領に就任した。

 日本とガボンの関係は一貫して良好で、ガボンに日本大使館が開設されたのも、アフリカの中では比較的早かった(1972年)。とはいえ、経済面での交流はまだこれからで、日本からの進出企業はごく少なく、山下さんの赴任当時、約50人の在留邦人の大半は、大使館関係者やJICA関係者(職員、専門家及び青年海外協力隊員)だった。

 山下さんの赴任先は、首都リーブルビル市内のメレン精神病院で、協力隊員としては前任者に続き2代目だった。「大学時代に開発学を履修し、教授の引率による研修でフィリピンに3週間滞在した。卒業旅行の行き先には、かねてから訪れてみたかったアフリカのケニアを選び、学友との二人旅を実現。ケニアでは、観光のみでなく、ナイロビ最大のスラムにあるNGOを訪問したり、知的障害者の学校を見学するなどした」―山下さんは、協力隊を志すに至った自身の原体験を振り返る。卒業後に「精神保健福祉士」の国家資格を取得。協力隊員となる前は、千葉県内の研究機関の臨床チームにてソーシャルワーカーとして勤務していた。協力隊の「保健衛生」部門で、ソーシャルワーカー職の募集があることを知り応募。晴れてガボンの地を踏むことになったのである。

 メレン精神病院は、山下さんの着任時に開院26年目を迎えた、ガボンでただ一つの精神病院で、計3名の医師(精神科医2名と精神科の研修医1名)が勤務していた。*注2)公立病院のため入院・治療費は無料(10棟ある病棟の内、1棟のみが有料のVIP棟)。山下さんが配属された社会福祉課は総勢11名で、主な業務は、「患者の生活相談」「家族訪問」「省庁まわり(社会福祉の申請手続き)」だった。中でも特に困難を伴うのが「家族訪問」。患者が回復し、退院の見通しが立つと、ソーシャルワーカーが家族を訪ね、患者を受け入れてもらえるよう交渉するのだが、“養うべき家族が他に大勢いて、引き取るのは無理”と断わられてしまうケースもある。入院後、家族が連絡なく転居してしまい、行方を探す必要に迫られることもある。また、患者の中には、市民から「精神疾患が疑われる路上生活者がいる」との通報を受けて保護し、入院させた人もあり、戻れる家があるのかさえわからないことも。

勤務先の同僚とメレン精神病院の同僚たちと(右端が山下さん)
両親と伯母がガボン訪問の折に撮影。

 「ガボンで精神疾患の治療にあたる上でのハードルの一つは、アニミズム的な伝統療法の存在です」と山下さん。西洋医療の対極にある伝統療法では、患者が施術で“トランス状態”にされ、その状態に依存するようになったり、時には火傷を負うような治療をされるなど、かえって心身共に傷つく場合があるのだ。しかし、国民の間では、未だに伝統療法への信奉が強い。当事者(患者と施術者)はその内容を極力秘匿しようとするため、伝統療法の実態を掌握するのは容易ではない。

 地方にいる患者が、治療を継続できないという問題もある。「精神疾患は、種類によっては、ずっと薬を飲み続けることで、症状が出ない状態を保てることが多い。生活するのが精一杯の患者や家族にとっては、半年に一度でも首都に出てくるのは大変なこと。まとまった量の薬を渡したところで、それを決まった分量ずつ、定期的に飲む習慣が身につかなければ、薬効も期待できなくなる。」

 ところで、ガボンでの生活に必須なフランス語は、山下さんにとって初めての言語であった。出発前にJICAの研修施設で2ヶ月間の特訓を受け、渡航直後の1ヶ月も同期のガボン赴任隊員と共にフランス語の集中レッスンを受けた。この1ヶ月は、現地の家庭にホームステイし、30歳の長女を筆頭に5男3女のいる一家(当時同居していたのは、両親と叔母、息子3人)にお世話になった。

 ガボン人は、一般的にシャイで、それはプライドの高さの裏返しでもある。職場の同僚たちも、最初は様子を見る風で、山下さんと距離をとっていたが、山下さんの方から積極的に話しかけることで、段々と親しくなることができた。山下さんは、終業後も時間を見つけては、フランス語の雑誌記事や絵本を訳すなどして、少しずつ長文に取り組み、最終的には仏語新聞も読みこなせるようになった。会話面での心許なさは数ヶ月後にはなくなったが、「同僚は慣れてくると、こちらの表現がつたなくても理解してくれるので、それに甘えないよう、職場の外にも人間関係を広げるように努力した」とのこと。先輩隊員に紹介してもらうなどして、現地での友人を増やしていった。

 ガボン人同士のコミュニケーションを見ていて印象的だったのは、“職位の高低”による上下関係の厳しさである。例えば、職員が自分の担当業務の優先順位や緊急度に沿って仕事を進めていても、高い地位にある上司の突発的な指示・意向があれば、そちらを優先させる。また、挨拶をはじめ上司との良好な関係が仕事の出来不出来に関わらず重要となる。山下さんは、上司に顔を覚えてもらうために、活動初めの頃は手作りの名札をつけ、毎朝各病棟・事務室・医師のところへ挨拶まわりをした。帰る時も、通りがかった職員に「今日はこれで失礼します。また明日!」と声をかけるとより丁寧で喜ばれた。

 ガボン人は一般的に「仕事よりも家族を優先」する意識が強い。「家族」*注3)といっても、自身の親や妻子だけではなく“遠い親戚”も含めて考える。そして、親族の中に“稼ぎがある人”がいたら、その人が必然的に皆の面倒を見ることになる。自分の暮らしがきつくなるからと援助を断われば「薄情」と言われ、親族関係にひびが入ってしまう。毎月の給料日になると、同僚たちがよく丸1日休むので、最初は訝しく思った山下さんだが、よくよく聞いてみると、給料を銀行で下ろした後、それを手当てしなければならない親族のところに割り振り、届けて回らねばならないとのこと。山下さんの勤務した病院の職員は、皆公務員として安定した給与が得られる立場だが、かくして養うべき親族が多いだけに、貯蓄にまわせる余剰金はない様子だった。

 山下さんの住まいは市街地のアパートで、隣室には別の協力隊員が住んでいた。滞在中は、心身ともに健康でいられるよう、余暇の過ごし方を工夫した。一人の時間には、読書(JICA事務所や大使館の図書コーナーの本が借りられる)、音楽鑑賞、DVD鑑賞などで寛ぎ、時には、隣の同僚隊員と一緒に菓子作りを楽しんだ。休暇には、他地方で活動中の隊員仲間を訪ねたり、国立公園に足を延ばしたりした。

 ガボンは、国土の8割が森林(熱帯雨林)で、豊かな森と資源に恵まれた国だ。*注4)「アマゾンが地球の右の肺ならば、ガボン(+コンゴも含めた地域)は左の肺―といわれるほど」と山下さん。森林の他にも、サファリやビーチリゾートなどがあるが、そうした自然の美を堪能できるのは、悲しいかな、概して外国人である。ガボンでは「首都⇔国立公園」のツアー代金は、「首都⇔近隣国」のそれと大差なく、国内旅行といえども大変高いものにつく。山下さんの経験では、有名な大西洋岸のロアンゴ国立公園は2泊3日のツアーで一人15万円。他の国立公園でも10万円前後はかかる(ガボン人の平均的月収は4〜5万円。)大半のガボン人にとっての一番の娯楽はテレビで、その他、家を訪ねあって談笑したり、近くのバーでビールを飲み語らうなど、ごく身近なところで楽しみを見出している。

 ガボンの食文化についても触れておこう。ガボンには(注1で触れたように)自国生産品がほとんどなく、食料も含め、ほとんどは外国からの輸入に頼っている。(ビールとフランスパンと砂糖は、純ガボン産のものがあり、価格も低く設定されている。)野菜はカメルーンから輸入されており、国境を接している北部の州では比較的安く手に入るが、他の地域では大変高価。そんな中でも手に入りやすいのは玉葱とトマトだ。鮮魚は大西洋岸の各地では豊富に出回っている。

 ガボン人は主食として、フランスパン、タイ米、バナナ(調理法多種)を食べる。「マニョック」といって、タロイモを茹でてつぶし、バナナの葉で包んで蒸した料理も有名だ。魚料理は、魚一匹を丸焼きにしたもの、玉葱やトマトと煮込んだものなどいろいろある。ショコラという調味料(マンゴーの種を砕いたものと燻製の魚のすり身を練り合わせ、固めたもの)で味付けした煮込み料理はなかなか美味だった。山下さんもガボン人の友人宅で様々な料理を習い、可能な限り実践してみた。

 ところで、思いもかけないことであったが、山下さんの任期後半には、病院内で賃金倍増を要求するストライキが起こった。ストは帰国直前まで約1年間続いたが、その間、職員はほとんど出勤せず、医者や看護師もストに加わったため、医療活動が制限され、入院患者数を大幅に減らす事態となった。公務員である彼らは、全く働かなくても月給が満額支給される。当初はストに参加していなかった職員も、自分だけ真面目に出勤することに嫌気がさしてか、その内に来なくなったりした。「働き、その対価として得るのが給与であるのに、長期間ストをして、働かずに給与を手にし、その倍増を求めるとは…」山下さんの思いは複雑だったが、「大家族社会」の仕組みの中で、家族を支える彼らには彼らなりの事情や思惑があるのかと、現実を受けとめるほかなく、ソーシャルワーカーとして孤軍奮闘し、社会福祉課を切り盛りした。

 2009年12月末に任期を終えて帰国。メレン精神病院には、2010年6月から後任隊員が着任する予定だ。「ガボンは、渡航するとなると、パリや南アフリカ、エチオピアなどを経由して、二日がかりになる遠い国。入国にあたっても、ビザの取得と黄熱病の予防接種が必要―と、気軽に訪れられる環境ではないが、インターネットの普及にも助けられ、日本との距離をさほど感じずにいられる」と山下さん。現在は郷里に戻り、次なるステップに向け準備中だが、「今後の人生においても、何らかの形で、ガボンを含むアフリカ仏語圏の国際協力に関わる仕事ができたら」と希望を膨らませている。

(齋藤志緒理)

注1)ガボンの人口:
ガボンでは国勢調査が行われておらず、正確な数値は確定しづらい。2007年の世銀のデータでは133万人だが、150万人に上るとの説もある。いずれにせよ、ガボンはその国民人口の少なさから、多くの産業分野に、仏語アフリカ圏(ニジェール、ブルキナファソ、ベナン、セネガル、カメルーンなど)からの出稼ぎ者を受け入れている。また、この人口数では、自国生産をし、利益を上げるに見合うだけの消費者が確保できないため、工業産品、食品、野菜などほとんどの産品を外国からの輸入に頼っている。

注2)ガボン人の精神疾患:
男女それぞれで精神疾患の傾向が異なる。山下さんが勤務したメレン精神病院での治療状況から述べれば、女性は「うつ病」の患者が多く、出産後のいわゆる「マタニティ・ブルー」が高じたり、夫を亡くした喪失感からくるもの、HIVに感染したことを知ったショックで発症するケース等が見受けられた。統合失調症の患者も多かった。男性については、薬物依存症患者が多く、裕福な家で、外国に留学した先で薬物を覚え、依存症に陥ったという症例もみられた。山下さんの経験に照らすと「男女共に、日本に比べると回復が早い。重度の精神疾患患者は少なく、中程度の患者が多かった」とのこと。

注3)ガボン人の家族について:
ガボンには伝統的な一夫多妻制度の影響が今も残り、父または母が違う子どもが同居することもある。また、男性女性に関わらずパートナーをどんどん変えることが珍しくなく、生みの親に育ててもらえない子どもも多い。伝統婚では、新郎側から新婦の実家に相当の金品を贈る必要があるため、経済的な理由で、その手続きを踏まずに同居を始めることもよくある(多くの女性は、十代で未婚のまま初産を経験。)子どもが何人かできてから式を挙げるケースも少なくない。

注4)ガボンの主要産業は、鉱業(原油、マンガン)と農林業(木材、ヤシ油)である。

ガボンの結婚式ガボンでの結婚式風景:
ガボンでは、結婚式を行う際、新郎新婦が事前に招待客に同じ柄の布を(ご祝儀と引き換えに)プレゼントする。招待客は、それで思い思いの洋服を仕立て、当日身につけていく。
(山下真有美氏撮影)


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2010年01月04日

ペルー

「人生を楽しむ」精神に長けたペルー人

魔法の言葉は“HASTA MANANA(アスタ・マニャーナ)”

 Kさんは、ある日本企業の駐在員として、1970年代と1980年代にそれぞれ5年ずつ、延べ10年間ペルーの首都リマに駐在した。一度目は販売担当部長、二度目は現地法人責任者としての赴任であった。その後ブラジルにも6年間赴任し、南米のスペシャリストとして東京本社から篤い信頼を受けた。1996年末にペルーで発生した日本大使公邸人質事件では、同社の駐在員も人質となったため、現地対策本部の舵取り役を務めるべく、急遽日本から派遣された経歴ももつ。

 「ペルーのマチュピチュ遺跡は、近年のアンケートで“日本人が行ってみたい世界遺産”No. 1の座を獲得している。アンデスの民族音楽・フォルクローレ(folklore)の代表作“エルコンドルパサ”(コンドルは翔んでいく)も多くの日本人に馴染みの深いもの。日系人による大統領が誕生したのも、世界中でペルーが初であり、未だそれに続く国はない」―Kさんはインタビューの冒頭、日本人とペルーの縁について、そう語った。

 ペルーの国土面積は日本の約3.4倍、人口は2,850万人(2008年世銀)である。日本とペルーが国交を結んだのは1873年6月―と、中南米諸国の中で一番早い。その後、日本ではペルーはバラ色の新天地と喧伝され、多くの日本人が移住したが、待っていたのは綿花農園での過酷な労働であった。(南米諸国で奴隷制度が撤廃された後は、アフリカ系住民に代わる労働力として、日本人や中国人が綿花栽培の担い手となった。)尚、2009年は日本人のペルー移民110周年にあたり、現在は約9万人の日系人が在住している。

 「ペルー人の国民性を語る上で、キーワードとなるのは(1)HASTA MANANA(アスタ・マニャーナ)の精神、(2)インカ文明の末裔としての誇りと“南米の中心”としての意識、そして(3)“何があっても謝らない”姿勢…の3つ」とKさん。

 まず(1)の“HASTA MANANA”は、日本語に訳すと「また明日」という意味だ。別れ際の挨拶として用いられるが、時に「明日があるさ」であり、時に「明日は明日の風が吹く」となる。更に、「明日まで待って下さい」「明日になったらやります」という風に、頼まれ事をのらりくらりとかわす方便として繁用される。(Kさんが部下に「いついつまでにこれをして欲しい」と頼んで、色よい返事があっても、期日までに仕上がらないことが多かった。“HASTA MANANA”と言われて1日待つと、翌日また“HASTA MANANA”と言われ埒が明かない。一旦頼んだら、ほうっておいても部下自身が報告に来てくれるわけではなく、待っていては仕事が一向に進まないため、Kさんは、いつ誰に何を指示したのか、いつ催促をしたのか等々を大小問わずすべてメモしなければならなかった。)“HASTA MANANA”は、シチュエーション次第で融通無碍にその意味が変わる、何とも都合のいい摩訶不思議なフレーズなのである。

 (2)については、ペルーの歴史に触れる必要がある。ペルーの歴史は、その大半がインカの歴史といっても過言ではない。インカ文明は先史文明を含め紀元前から延々と続き、最盛期の13〜15世紀は、その版図は現在のコロンビアからチリの北半分にまで及んだ。しかし16世紀にスペイン人の征服と侵略を受け、1532年フランシスコ・ピサロの謀略のために、インカ帝国は一夜にして崩壊させられてしまう。以後1821年までの約300年、スペイン人の統治を受けるが、その間リマには南米総督府が置かれ、スペインの副王が代々総督として着任。ペルーはスペインの南米統治の中心地として栄えた。南米征服を果たした当時のスペインではカスティーリア王国が主権を握っており、カスティーリア語が正統スペイン語であった。現在、ペルーの人たちは「スペイン語を話す」とは言わず、「カスティーリア語を話す」という。「ペルー人の意識の根底では、インカ帝国の末裔としての誇りと、その後、宗主国スペインの南米拠点となったという別の形の誇りが同居している。インカ帝国はスペイン人に滅ぼされたが、その敵愾心も300年に亘る統治の間に薄れ、スペイン文化へ同化する意識に変わったのでは」とKさんはみる。

 (3)の“何があっても謝らない”姿勢は、仕事上の問題であれ、生活上のトラブルであれ共通で、ペルーの人たちはまずもって謝ることをしない。Kさんが、何か問題を起こした部下に苦言を呈しても、素直に過ちを認めることはない。たとえKさんが目の前で証拠を見せても、屁理屈で自分のせいではないと逃げ、他人のせいにしたり、ついには神様の思し召しとまで言うその徹底ぶりにはあきれるばかりだった。しかし、Kさんは、こうした“謝らない姿勢”は、ペルーの人々が被支配階級として300年を耐え忍んだ記憶と無縁ではないのではと考える。「被支配民として生きた時代、罪を認めれば、職を追われるか、殺されるか、放逐されるしかなかった。自分を守るために謝らないことは、彼らの生きる智恵であり、歴史の為せる業なのだ。謝ることが潔しとされ、場合によってはそれで社会的制裁が軽減される日本の文化とは根本的に違う」そう考えると、謝らない部下の頑なさも許せるようになっていった。ちなみに、ペルーの現在の人口構成をみると、先住民が約半数、混血が40%弱、スペイン系(欧州系)が約10%となっている。人口の9割弱が先住民とその血統を引いた人たちで、1割強が白人人口ということになる(これは、アルゼンチン人口の97%を、チリでは95%を欧州系が占めているのとは対照的だ)。ペルーでは、その1割の白人が政治・経済を実質的に掌握して来た。

 さて、次にKさんがペルーでの駐在経験から実感したという、いくつかの点について触れたい。

 Kさんにとって印象的だったのは、“人生を楽しむ”ペルー人のスタンスである。家族との時間を何よりも大切にし、終業時間になれば、さっと席を立つ。経理担当の女性が書きさしの帳簿を開いたまま退勤することにびっくりしたという。(本人からすれば、翌日すぐに続きを始められるから好都合ということなのであろうが。)ペルー人にとって、仕事はあくまで生活の手段。人生の目的は私的な時間の充実にこそあるのだ。

 「人生を楽しむ」精神の発露とも言えるのがパーティである。ペルー人のパーティ好きは半端なものではなく、ホームパーティを開けば、家の周囲数十メートルに響き渡るかと思われる大音響で音楽を流し、明け方まで皆が踊り続ける。最初に赴任した一週間後、近所のパーティの騒音が深夜の1時2時に及んでも止まないので、意を決して苦情を言いに行ったら、全く意に介されず、「あなたも一緒に踊って行きませんか?」と言われる始末だった。後でわかったことだが、パーティを開くのはどの家も同じなので、皆お互い様…と鷹揚に構えているようだ。パーティで供される食事は簡単なオードブルのみだが、お酒は各種飲み放題で、あとは音楽とダンスをひたすら楽しむのがペルー流だ。日本人は、そうしたパーティに招かれても、気力体力が続かず、日付が変わるころにスーッと消えるのが常だった(ホストに退出の挨拶をするのはかえって野暮になる)。

 ペルー人の人間関係の築き方も特筆の価値がある。一言で言えば、ペルー人は年齢も肩書きも関係なく、人と人として“even”に付き合おうとする。カスタマーとサプライヤーの関係であろうと、上司と部下であろうと、“カルロス!”などとファーストネームで呼び合い、対等に話を進めるのである。しかし同時にペルー人は公私をきっちりと分けるため、仕事後に同僚と飲みにいくことはなく、日常会話の中でもプライベートな質問を向けることはしない。日本人は、相手の人となりを知りたいという思いから「ご家族は?」などと気軽に問いかけてしまうことがあるが、ペルー人に同様のことをすると怪訝そうな表情をされる。もっとも、公私を分けるからといって、社内でのコミュニケーションがドライなわけではない。例えば、誕生日に出社すると、次々と社員が詰め掛け、「おめでとう!」の嵐に遭う。女性は頬に頬を当ててキスをし(口でチュッと音を鳴らす)、男性なら肩に手を回して叩いてくれる。初めてペルーで迎えた誕生日にはこの熱い歓迎の儀式にドギマギしてしまったKさんだが、日本に帰国してみると、ペルー人の温もりあるスキンシップがかえって懐かしく感じられたそうだ。

 仕事を進める上で困惑したのは、ペルーが徹底した「コネ社会」であることだ。物事を進めるのに、とにかく人間関係がものを言う。許認可の面倒な手続きがスムーズに進められるという点では助かるのだが、見返りに就職の世話を押し付けられることがある。能力ある人材を紹介されるのであれば有り難い話だが、そのような若者はコネなど頼らずとも就職先が決まるもの。大抵は口ばかり達者…といった子弟で、しかも、それなりのポストを用意せねばならない。ある程度は必要悪と考えて受け入れざるを得ないが、それが行き過ぎると真面目に働いている社員の士気に関わるので、悩ましい問題であった。

 「南米でいい仕事をしようと思ったら、万事において、まずは日本人としての感覚を捨てねばならず、いかに現地の人の目線になれるかが鍵となる。しかし、東京(本社)との関係の中では、それだけでは済まない場面が無限にある。失敗を繰り返して、自分なりに折衷のポイントを探るほかはないでしょう」―Kさんは当時を振り返って、そう述懐する。

 ところで、現地生活を送る上で、スペイン語のコミュニケーション力はKさんの大きな強みであった。一度目の赴任に先立ち、日本で短期間スペイン語講座に通ったが、本格的に語学と格闘したのはペルーに赴いてからである。Kさんは日々精力的に問屋や卸売業者、店舗を回り、まだ覚束ないスペイン語を駆使して自社製品の販売促進に努めた。庶民が集う市場で実演販売をしたことも多いという。こうして現地の人々と触れ合い、実地の経験を重ねる中で、3年後には大抵の局面には困らなくなったそうだ。現地語を学ぶ苦労は英語圏以外への赴任にはつきものだが、その厳しい道に正面から挑み、地道な努力で乗り越えたKさんの志に敬意を表したい。

 Kさんは同社を勤め上げた後は、日本に駐在している外国人ビジネスパーソンに日本語を教える仕事を続けている。自分自身の海外経験に重ね合わせ、外国人が日本社会でどのようなカルチャーショックを覚えているのか―日本人の価値観やビジネススタイルも踏まえて解説するKさんのレッスンは好評を博していると聞く。異文化の渦潮をくぐってきた先達としてKさんが繰り出すアドバイスが、多くの人たちの佳き道しるべとなるであろうことを確信している。

(齋藤志緒理)

広場とカテドラル

クスコ市街のカテドラルとアルマス広場。インカ帝国時代、ビラコチャ神殿があったこの場所に、スペイン人は1550年から100年もの歳月をかけて大聖堂を建設した。鐘楼には南米で一番大きな鐘があり、聖堂内には銀300トンを使った祭壇、400点の宗教画がある。尚、クスコは海抜3,600メートルの高地にあり、インカ帝国時代の首都であった。クスコとは「へそ」の意。宇宙の中心とされた。

(写真提供:佐藤惣一氏)


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2009年12月01日

アルジェリア

自他ともに認める“アフリカのオピニオンリーダー”

南部サハラのタッシリ高原は圧巻

 アルジェリアは地中海に面した北アフリカの一国。フランスからの独立は1962年であった。東はチュニジ及びリビア、西はモロッコと国境を接し、地中海を隔てた対岸にはスペインとフランスが広がる。アフリカで二番目に広い国土(238万平方キロメートル)の大半は砂漠地域だが、首都アルジェを始めとする主だった都市は地中海沿岸や北部の高原地等に位置し、3,385万人の人口(2007年世銀)が国土の7%内に集中している。「アルジェの街には瀟洒な白亜の建物が立ち並び、その白さが地中海のブルーの中にひときわ映える。アルジェリア=砂漠の国というイメージから“酷暑の国”と思われがちだが、首都アルジェの緯度は東京より北で四季もあり、夏も松風がそよいで日陰に入れば涼しい。冬には雪も降るが、街中に積もるほどではなく、そう遠くない山間部に足を延ばせばスキー場もある。四季を通じてスポーツを楽しめる快適な気候」―そう語るのは元アルジェリア大使で、外交官として世界の全5大陸計9ヶ国に勤務経験のある浦辺彬さん(現在日本生命の顧問)である。

 アルジェリアは世界有数の天然ガス資源国で、生産量も輸出量も開発途上国中首位を誇る(2006年データ)。尚、世界でも生産量では5位(1位ロシア、2位アメリカ、3位カナダ、4位イギリス)、輸出量において4位(1位ロシア、2位カナダ、3位ノルウェー)である。*注1)アルジェリアの天然ガスは地中海海底のパイプランによって西欧に運ばれ、アルジェリアは西欧にとって、ロシアに次ぐ大供給国となる。日本企業は日本輸出入銀行及び国際協力銀行(JBIC)の融資を受け、アルジェリアの石油や天然ガス関連の施設や技術を供給してきており、日本輸出入銀行とJBICの融資総額は累計9600億円を超えている。「アルジェリアの天然ガスが日本人の暮らしに直結していないだけに、アルジェリアの知名度は高くないが、日本とアルジェリアの経済関係は、1980年代終盤まで、こうした天然ガス・石油関連事業を主軸に活況を呈していた」と浦辺さん。そうした状況を一変させたのが、1989年の憲法改正に端を発するアルジェリアの危機であった。*注2)

 テロにより年間6000人のアルジェリア国民が命を落とす事態となり、日本の外務省はアルジェリアを「危険度4(5段階中)」の国と指定、経済関係も一気に収縮してしまう。1978年にアルジェリア国内在住の日本人は3234人に達し、1980年代に入っても2000人程度で推移したが、1992年には日本政府から在アルジェリア日本人に退避勧告が出され、日本人学校も閉鎖に至る。観光ができなくなったため、海外旅行ガイド『地球の歩き方』シリーズは1997年版を最後に「アルジェリア」版の出版を取りやめたと思われる。その後、テロ活動は徐々に鎮静化に向かい、1999年の大統領選挙でブーテフリカ大統領が選出されると、同大統領はテロリストたちを厳罰に処さず、投降してきたものは赦免するという「国民和解」の政策を打ち出した。

 浦辺さんが大使を務めたのは、2001年6月〜2005年12月までの四年半。着任時、治安情勢は依然厳しく、アルジェリア国内にいる日本人はわずか数十人、首都アルジェには大使館員と単身赴任の商社員等しかいない状況であった。高い壁に囲まれたコンパウンドから外に出ることのできない生活が続いたが、浦辺さんは技術協力や文化交流を再開するなど、日本・アルジェリア間の各種交流の復興に力を尽くした。

大使公邸の前に立つ浦辺彬氏
大使公邸の中庭に立つ浦辺彬氏
(17世紀初頭オスマントルコ時代の建物)

 ブーテフリカ大統領は就任後、G8など先進諸国との外交を積極的に推進。2000年7月の九州・沖縄サミットには、同大統領はアフリカの主要なリーダーとして招聘された。ところが、ブーテフリカ大統領の就任後、いずれのG8諸国も同大統領の公式訪問を実現したが、日本政府のみが二の足を踏み続けていた。浦辺さんは両国の外交の現場で、その状況を何とか打開したいと奔走し、2004年4月にブーテフリカ大統領が再選された後、同年12月にようやくブーテフリカ大統領の(アルジェリア大統領として史上初めての)日本公式訪問を実現することができた。

 在任中は“プレス対策”にも心を砕いた。注2)でも触れたように、アルジェリアでは1989年に言論統制が廃止され、プレス(特に新聞)が自由化された。現在全国紙としては、仏語紙14紙、アラビア語紙4紙が発行されており、自由に政府批判も展開している。また、都市生活者や指導者層がその報道を熱心に読んでいる。“メディアにどう書かれるか”は政・官・民に共通して切実な問題で、アルジェリアでは各省庁や民間企業が主要部署には必ず専任の「プレス担当」を置くほどだ。駐在大使としても、メディア対策を怠ることはできない。「政府対政府の外交だけでなく、大使館が発信して、任国の国民に直接訴えかける必要がある。有り体に言えば、少しでもアルジェリア国民に“日本贔屓”になってもらわねばならない。国民の意見が国の外交を動かす力にもなるからです」と浦辺さん。例えば在任中の2003年5月、アルジェリアに大地震が発生した際、日本政府がすぐに緊急援助隊の派遣を決定すると、たまたま健康診断のための休暇で日本に一時帰国していた浦辺さんは、即日、緊急援助隊・第一陣と共に急遽アルジェリアへと戻った。日本から緊急援助隊が到着したことを、アルジェリア国民に知ってもらうためである。経由地のパリを発つ前に、緊急援助隊がアルジェの空港に到着する際、メディアを召集するよう手配しておくことも忘れなかった。地震の一報を受けてからわずか12時間後の援助隊派遣の決定は、(移動時間の長さ故、到着のタイミングでは欧州からの援助隊に及ばなかったものの)現地で全国にテレビ中継され、沢山の国民に大いに感謝されるところとなった。*注3)

 ところで、アルジェリアはアフリカ連合内で南アフリカ、ナイジェリアと共にリーダー国の地位にある。(前出の九州・沖縄サミットには、ブーテフリカ大統領の他に南アフリカとナイジェリアの首脳が招聘された。)アルジェリアはアフリカ域内における援助「供与国」として、サハラ以南のアフリカ諸国から毎年計1000人を超える留学生や研修生を受け入れている。

 例えば、アルジェリアには機関士や航海士を養成するための「上級船員養成学校」*注4)があり、日本の技術協力により、指導のための専門家が派遣されたが、アルジェリアは日本からの援助を受けるだけではなく、自国の費用でこの船員学校にも近隣諸国から一定枠の研修生を受け入れている。また、フランスの国立行政高等学院(ENA)に準じて作られたアルジェリアのエリート養成校(政官界に進む人材を輩出)も、他のアフリカ諸国からの学生枠を設けており、注目に値する。こうした地道な活動を通じ、アルジェリアは“アフリカのオピニオンリーダー”としての存在感を着実に高めている。

 アルジェリアの文化面についても触れておこう。アルジェリアは1962年に独立してから本格的に「アラブ化」「イスラム化」を始めた国である。仏領時代(1830-1962)の約130年間はフランス本土の一部として扱われ、アラブ社会であることを否定されていた。(隣国モロッコやチュニジアがフランスの「保護領」となり、アラブの文化を継続したのとは対照的である。)アルジェリアが対仏武装蜂起を始めた1954年、レジスタンス軍はフランス人にわからない言葉でコミュニケーションを図るべく、密かにアラビア語を教え始めた。そしてレジスタンス運動の勝利によって独立がもたらされた後は、その流れを継承し、シリアやエジプトからアラビア語の教師を招いてアラビア語による義務教育の普及に努めた。同時にイスラム化も進め、1970年代に養豚禁止令やアルコール禁止令が順次出されたのである。アラブ化、イスラム化はその後もひたひたと進み、浦辺さんも着任中に、今まで顔を覆わずに出勤していた大使館のタイピストが、いつの間にかベールを被っていたりする場面に出くわしたそうだ。しかし、義務教育がアラビア語で実施されても、大学では(特に理科系の学科では)フランス語を使用するケースが多く、完全にフランス語を断ち切れないジレンマもある。尚、パラボラアンテナの普及以降、フランスのテレビ番組が多くの人々に視聴されており、フランスのホームコメディやクイズ番組等の人気が高い。建前としてはアラビア語が国語・公用語であるが、フランス語やフランス文化に憧れを抱く心情もあり、なかなか複雑である。

 アルジェリア人のメンタリティについては「反骨精神が行き渡り、交渉相手にすると手強い」とのこと。アルジェリア人は議論が好きで、プライドが高く、自らのアイデンティティを守ろうとする意識も強い。「ローマ帝国、オスマントルコ、フランスなど、次々に外からの勢力と生存をかけて闘ってきた歴史的経験が、“簡単には折れない精神力”につながるのでは」と浦辺さんはみる。

 インタビューの最後に、浦辺さんの心をとらえたアルジェリアの景観を尋ねた。返ってきたのは「私がぜひ紹介したいのは、タッシリ高原の砂漠です」との答え。「タッシリ高原の砂漠は砂がパウダーのように細かいからなのか、周りの音が全て吸収されてしまうようです。そこに佇んでいると、虫の羽音ひとつなく、自らの呼吸の音までが聞こえてくるほどの静けさで“沈黙が聴こえるタッシリ”と言われます。人口密度が高い場所に住むのに慣れている日本人がこの地を訪れれば、精神がしんと鎮まり、ストレスから解放されるような経験ができます」と浦辺さん。余談になるが、浦辺さんが砂漠に惹かれるようになったのは、アルジェリア駐在時に始まったことではない。セネガル大使館に勤務していた1970年代の初め、管轄国であった隣国モーリタニアに出向く機会が多く、7時間かけて(運転手がハンドルを握る)車でサハラ砂漠を移動した。日中はじりじりと暑いが、夕暮れ時になると、夕日に染まった砂丘の遠くに、童謡「月の砂漠」さながらの隊商のシルエットが見える。その美しさに触れた経験から、砂漠をこよなく愛するようになったとのこと。

 経済面では、浦辺さんの在任中にアルジェリアを東西に横断するハイウェイ(モロッコ−アルジェリア−チュニジア)の建設計画が準備されていたが、その後、西側の3分の2の工事を中国が受注、残る東側の3分の1(山河を越えねばならず、トンネルや橋梁建築の技術が問われる難所多数)の工事を日本のグループが請け負うことになった。このプロジェクトが主たる機関車となって、日本との経済交流も再活性化しており、2008年10月現在、在アルジェリアの日本人人口は800人以上を数えるまでになった。帰国後、両国の交流を支援したいという気持ちから、「日本アルジェリア協会」の会長にも就任した浦辺さんは、現在、アルジェリア事情についての講演活動も積極的に行っている。「国民和解」が実施に移されてから10年−アルジェリアが着々と地歩を固め、アフリカのリーダーとして一層の輝きを見せてくれることを期待したい。

(齋藤志緒理)

注1)天然ガス:
日本で使われる天然ガスは、インドネシアやマレーシア等、地理的に比較的近い国々から液化してタンカーで輸入されている。アルジェリアの天然ガスは主として欧州に輸出され、日本には輸入されていないため、わが国ではアルジェリアが天然ガス資源国とのイメージが薄い。

注2)1990年代のアルジェリア危機とその背景:
1989年、それまでの一党独裁制を複数政党制に改めるための憲法改正が行われ、同時に新聞統制が撤廃された。翌1990年12月に改憲後初の国会議員選挙が行われたが、(言論統制の撤廃が裏目に出た形で)イスラム原理主義過激派(FIS)が国民の支持を集め、第一回投票にて大勝した。続く第二回投票でFISが勝利し政権をとることが明らかとなったため、危険を感じた政府と軍が第二回投票を強制中断させた。FISは選挙によって政権を奪取することが不可能と見て、武力に訴え、テロ活動が始まった。このテロ活動で大きな役割を果たしたのが、アフガニスタンの紛争から帰還した青年たちである。(下記※参照)

※アフガニスタン紛争とアルジェリア危機
アルジェリア危機から遡ること10年、1979年にソ連がアフガニスタン侵攻を開始した後、“アラブ世界であるアフガニスタンを共産主義化から守ろう”との大義の下、アルジェリアからも約4000人もの若者が志願してペシャワールに向かった。銃器の扱いや手製爆弾の作り方等のゲリラ戦法の訓練を受けた後、アフガニスタンの戦闘に加わったとみられている。彼らの多くが国内で職をもたない若者で、“食い扶持”を求めてアフガニスタンに流れたのである。約10年間の戦いの末、ソ連軍がアフガニスタンを去ると、彼らは一部少数を除いてアルジェリアに帰国する。だが、帰国したものの社会復帰の機会がなく、職業訓練も受けられなかった青年たちは、折から戦闘を開始していたイスラム過激派のテロにその身を投じ、アフガニスタン紛争で得た戦闘知識と実戦経験から、テロ活動の激化に重要な役割を果たすことになった。

注3)
日本の緊急援助は、第一陣から第三陣までの三段階に分かれてアルジェリア入りした。第一陣はトルコからの救助隊と協力して倒壊したホテルの下から生存者を救出。第二陣では負傷者の治療にあたる医療チーム、第三陣として再建復興に際しての耐震建築の専門家集団が到着し、それぞれ持ち場で活躍した。震災現場には、当然ながらサンドイッチや飲み物を購入できるような店舗はない。浦辺さんの夫人や大使館員の夫人たちが、協力し合い、緊急援助隊のためにおにぎりを作って差し入れた。

注4)上級船員養成学校:
1976年、首都アルジェリアの郊外、ブイスマイル地区に設立された。毎年、日本が技術協力によって教師を派遣したり、訓練機材を供与するなど支援してきた。この支援はアルジェリア危機の間中断されたが再開。アルジェリアから産出される天然ガスは、一部は液化されて大西洋経由でタンカーにてアメリカにも輸出されている。日本企業が現地に合弁会社を設立、日本から液化天然ガス・タンカーを調達し、アルジェリア人乗組員がこれら米国行きタンカーを操舵する。上級船員養成学校の学生の中には、卒業後こうした日本のタンカーに乗務する者もある。

首都アルジェの遠景
首都アルジェの遠景(写真提供:浦辺彬氏)


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2009年11月02日

タジキスタン

国土の7〜8割を山岳地域が占める内陸国

地縁・血縁の堅固なつながりと客人への温かいホスピタリティ

 高橋ナイリャさんは、夫の仕事の関係で2005年から2008年までタジキスタンの首都、ドゥシャンベに滞在した。ナイリャさんの出身国は、タジキスタンの隣国ウズベキスタン。タジキスタンは元来ウズベキスタンと同根で*注1)文化的に共有している部分が大きいため、3年間の滞在中も母国に住まうような感覚で過ごせたという。

 ナイリャさんはウズベキスタンの大学(経済学部)に在学中、2年間ロンドンへ留学し、語学力に磨きをかけた。卒業後はウズベキスタンの外務省に入省し、その後在コーカサスの米企業に6年間勤務。以後フリーランスとなり、アジア開発銀行、世界銀行、欧州復興開発銀行(EBRD)、国際連合食糧農業機関(FAO)等の国際組織でキャリアを積んだ。現在は東京をベースにロシア語/英語の通訳・翻訳者として活躍中だ。

高橋ナイリャさん
高橋ナイリャさん

 「タジキスタンは政治的には、長くソ連邦の枠組みの中にあり、現在も経済面でロシアとの結びつきが強いが、文化的にはアジアの文化に通じる部分が多い」とナイリャさん。特に、年配者を敬う姿勢や、相手にものを伝えるのに直言を避け、言葉を選ぶ点。温柔で、家族や地域社会との結びつきを大切にする考え方などに、そうした傾向が感じられるという。ナイリャさんは、仕事でモスクワに滞在したこともある。ロシア語を完璧に話せ、コミュニケーション上はなんら問題がないだけに、すんなりと暮らしに馴染めるかと思ったが、現実は違った。直球でメッセージを伝え、時に強く主張しなければならないという状況に戸惑い、むしろ自分が育った文化とは異質なものを感じたそうだ。

 タジキスタンでは、独立直後の1992年から1997年まで続いた内戦により、6万人もの人々が命を失った。*注2)内戦終結から10年余りを経たものの、疲弊した経済状況が好転するには至っておらず、現在も旧ソ連の共和国中の最貧国に位置づけられる。国土面積(日本の約40%)の7〜8割が山岳地帯…と、耕地面積が非常に少ないことも貧困につながる一因である。

 「内陸国で海をもたないタジキスタンの人々は、古来、山から得られる食料や資源を生かして生活してきた」とナイリャさん。各種の山菜やきのこは貴重な食材。特に、きのこは“山の肉”と呼ばれるほどで、肉ときのこが同等の価格になることも。タジキスタンの気候は葡萄の栽培に適しており、大変甘い果実が採れる。ワインも甘口に仕上がるため、多くはデザートワインとして賞味される。果物では他にアプリコット、りんご、柿も収穫される。雪解け水を生かして栽培される大根なども大変美味だとか。

 タジキスタンの料理は、ペルシャ文化の伝統をベースとし、数世紀の間に中国、モンゴル、ロシアなどの影響を受け、現在の形になった。お米は日本米よりは粘り気の少ないイタリア米を使用。調味料として岩塩、黒胡椒、チリペッパー、ディルなどのハーブ類を、香味野菜としてニラ、コリアンダー、イタリアンパセリなどを用いる。蛋白源としては(イスラム教徒が多い国柄ゆえ)豚肉以外の羊肉か牛肉、淡水魚のニジマスなどを食する。ズフールと呼ばれる「羊脂」も料理によく用いられる。ズフール用に飼育される羊は、羊毛を刈るための羊とは種が異なり、その毛は硬くゴワゴワしているそうだ。

 タジキスタンの人々が地域社会を大切にすることは先に触れたが、ナイリャさんはその例として、「引越しパーティ」や「ラマダン明け後の(新婚夫婦による)パーティ」を挙げた。新しく越してきた住人は、地元の人々に招待状を送り、挨拶代わりのパーティを催すのが通例。パーティ当日は、表の門や扉を開放して歓迎の意を表する。開け放たれた門を見たら、招待状をもらった人でなくても(極端な話、たまたまその土地を通りがかった旅人でも)訪問してよいことになっている。

 「ラマダン明け後のパーティ」とは、断食期間が終わった後の3日間、その年に結婚したばかりの夫婦が親戚縁者を招くもので、イスラム教の伝統に則り、新郎は男性客を、新婦は女性客をそれぞれ別室でもてなす。開催中の三日間は、メインテーブルの料理をきらさない。新婦は2時間毎に客間に挨拶に現れるのだが、その都度衣装を換えるのがしきたりである。(タジキスタンでは、娘が生まれると、将来のパーティに備え、毎年衣装用の生地を買いためていく。)

 最近は恋愛結婚をするカップルも増えてきているが、結婚は本人同士の意思だけで決められるものではない。大抵の場合、親戚の誰かが相手の在所まで出向き、近所の住人に当人や一家の評判をさりげなく尋ねて、婿(嫁)にふさわしい人物どうかを確認する。子どもの頃からコミュニティの人々としっかり関わっているかどうかが、結婚に際しても重要なポイントとなるのである。

 近所にひとり暮らしのお年寄りがいれば、なにがしかの料理を届けるのも日常茶飯事である。タジキスタン人の平均的な子どもの数は3人。おじ・おば、祖父母世代との同居*注3)も珍しくなく、それだけの大家族であれば、調理する量もそれなりに多い。その中の一部を取り分けて、ひとり暮らしのお年寄りに届けるのはごくごく自然な行為で、見返りを求めるような心情はさらさらない。それを受けるお年寄りも、心理的な負担を感じることはなく、「ありがとう」の思いをその都度伝えるだけである。こうした「料理のお裾分け」を届けるのは、子どもたちの役割だ。子どもは日々の実践によって年長者を敬い、大切にする伝統を身をもって学び、お年寄りに感謝されることで、誰かの役に立ち、喜ばれる幸せを知る。

 タジキスタン人のホスピタリティは、イスラム教の教えによるところが大きい。「客人は神からの贈り物」とされ、来客があれば、家中で一番よい場所にかけてもらい、一番のご馳走を供する。“たとえその客が敵方であったとしても、家にいる間は厚く遇し、決して危害を加えない”のタジキスタンの倫理だ。「客人が遠来の外国人であれば猶のこと。二倍のホスピタリティでもてなすでしょう」とナイリャさん。

 隣接するアフガニスタンの情勢が及ぼす影響も無視しえず、外国人観光客が安心してタジキスタンを訪れられるようになるまでにはまだ時間が必要だが、山国ならではの景観、特にパミールの山並みの織り成す風景などは一見に値する。タジキスタンの主要産業は綿花、アルミニウム、そして(山がちの地形を生かした)水力発電だが、現在建設中の国内二基目のダムが完成すれば、更なる電力の輸出も可能となるため、その経済効果が期待されている。

 日本政府は、2004年から2年間に亘りタジキスタンの音楽振興のための援助プログラムを実施した。オーケストラ用の楽器一式を寄贈の上、指揮者とピアニストを日本から派遣して楽員の訓練をサポート。最終段階として、「西洋クラシック」「タジキスタンの伝統音楽」「日本の音楽」の3種の楽曲群を網羅したコンサートを現地で開催した。当時タジキスタンにいたナイリャさんも鑑賞の機会に恵まれ、日本とタジキスタンの文化交流の場に立ち会えた喜びを感じたとのこと。

 「他者との協調性を大切にする日本人のメンタリティや、直接的な物言いを避け、互いに言外の意味を汲もうとするコミュニケーションスタイルは、タジキスタン人に非常に近いものがある。日本は経済的に大きな発展を遂げたが、元々資源豊かな国であったとはいえない。国土の7割近くを森林が占め、その“森からの恵み”を最大限に生かしながら暮らしを営んできた。先人伝来のそうした知恵も“山に生きる民”タジキスタン人に相通ずるところがある」とナイリャさん。「今後もタジキスタンの歩みを見守りつつ、折々にタジキスタンの情報を日本の人々に発信していきたい」と抱負を語った。

(齋藤志緒理)

注1)ウズベキスタンとタジキスタン:
1924年、中央アジアの民族・共和国境界画定により、ウズベク・ソヴィエト社会主義共和国内に「タジク自治ソヴィエト社会主義共和国」が成立。5年後の1929年にウズベク共和国から分離し、「タジク・ソヴィエト社会主義共和国」に昇格した。人口構成をみると、ウズベキスタンの全人口2780万人(2008年/国連人口基金)の内訳は、ウズベク人(80%)、ロシア人(5.5%)、タジク人(5.0%)、カザフ人(3.0%)。タジキスタンの全人口約680万人(2008年/国連人口基金)の内訳は、タジク人(79.9%)、ウズベク人(15.3%)―となっている。1991年8月、ソ連邦の解体により、それぞれ「ウズベキスタン共和国」「タジキスタン共和国」に国名変更した。

注2)1992年〜1997年の内戦:
1992年、旧共産党勢力とイスラム勢力を含む反対派の対立により内戦が勃発。1994年に暫定停戦合意に至り、国連安保理は国連タジキスタン監視団(UNMOT)を派遣。その後も断続的に戦闘状態が続き、1997年に最終和平合意が達成された。1998年7月には、UNMOT政務官として日本政府からタジキスタンに派遣されていた秋野豊氏を含む4人のUNMOTメンバーが、首都ドゥシャンベ東方の町ラビジャール付近で襲撃され、殉職した。

注3)タジキスタンの家族構成:
タジキスタンには、一番下の息子が両親の家に最後まで留まり、家督を継ぐ伝統がある。息子が3人いるならば、長男がまず結婚して、その妻が主婦となる。次男が結婚すると今度は次男の妻が家を取り仕切り、三男が結婚すると、主婦の座は最終的に三男の妻へと移る。長男、次男は経済的に余裕があれば独立して別に一家を構えるが、独立せずに引き続き同居する場合もある。その場合、三男夫婦以外の大人は、農作業に出たり、実子や甥姪たち(或いは孫たち)の面倒をみるなど、それぞれに持ち場を見つけて働く。(息子がなく、娘がいる場合はケースバイケース。娘の結婚相手が三男であれば、娘はそちらに嫁ぐこととなり、三男以外であれば、こちらに婿入りしてくれることもある。)

パミール高原
パミール高原の山々(高橋ナイリァ氏撮影)


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2009年10月01日

特別編:エスペラント

19世紀末のポーランドで考案された「国際語」エスペラント

国はないが、世界に広がるエスペラント・コミュニティ

 毎号、様々な国に滞在経験をもつ方にお話を伺って構成している「海外生活の達人」シリーズだが、今月は特別編として、国をもたない言語「エスペラント」について扱いたい。

 今回取材させていただいたのは、エスペラントに造詣の深い、石川尚志・智恵子夫妻である。尚志さんは、長年スウェーデン系企業、ガデリウス株式会社の法務室に勤務した経歴をもつ。仕事では英語を使ってきたが、そもそもエスペラントに関心を抱いたのが小学生時代、実際に独習を開始したのが中学生時代…とエスペラントとの付き合いは英語同様に長い。1976年に本格的に学習を始め、30余年を経た現在、財団法人 日本エスペラント学会の機関誌編集等に協力している。智恵子さんもエスペラント学習歴は1970年からと長く、現在は同財団の理事を務めつつ、エスペラント講師として各地で入門者から上級者まで、様々なレベルのクラスを担当している。

 「エスペラント」とは何か―その存在を知る日本人は多いが、どのような言語であるのか、いつごろ成立し、どのような歴史的変遷を辿ってきたのかは余り知られていないのではないだろうか。筆者もその一人であった。

 「エスペラント」はフランス語のエスポワール(希望)、スペイン語のエスペランサなどと同源の「希望する人、物」という意味で、“人類の希望の言語”という意味が込められた(エスペラントの)単語である。*注1)エスペラントを考案したザメンホフが1887年にロシア語で“Lingvo Internacia(国際語)”を著し、それを発表した際に、「エスペラント博士」というペンネームを用いたことから、言語自体もその名で呼ばれるようになった。世界各地に点在するエスペラントの話者は「エスペランティスト」と呼ばれる。*注2)

 ザメンホフは、帝政ロシア領のポーランド、ビャウィストクに生まれ、ワルシャワの眼科医であった。ポーランドは、何度も国家的帰属を変えさせられた歴史をもち、その結果として、多言語が交錯する社会だった。19世紀末のビャウィストクには、ユダヤ人、ポーランド人、ロシア人、ドイツ人、ウクライナ人が居住し、その内の半数以上をユダヤ人が占めていた。ユダヤ人社会ではイディッシュ(イディッシュは中世ドイツ語の色を濃くとどめた、ユダヤ人独特のドイツ語。ドイツ語の方言に分類されることもある)が話されていたが、「支配者の言葉」であるロシア語の影響力は強大だった。*注3)自身もユダヤ人であったザメンホフは、言葉の違いが憎しみを生み、人々を対立させる現実に幼い頃から直面し、その原体験から、一つの中立な言語を生み出したいと熱望するようになった。

 「ザメンホフは、家庭ではイディッシュを話し、帝政ロシアの下、ロシア語を学ぶことを余儀なくされ、ギムナジウム、モスクワ大学と進む過程でドイツ語、フランス語、ギリシャ語、ラテン語も身につけたという、いわば語学の天才。男性名詞、女性名詞や複雑な格変化が存在する語学を一通りマスターした後で、比較的遅い時期に英語を学び、その簡略さに“目から鱗が落ちる思い”を経験した。“シンプルでも通じるのであれば、そぎ落とせるだけそぎ落とせばよいのだ”と、新しい言葉の構想を練り、10代の内にエスペラントの原型を構築。そして、試しに聖書や詩を訳してみるなどし、どれだけの表現をなしうるかを検証したそうです」と智恵子さん。

 こうして出来上がったエスペラントは、前述の通り1887年に発表され、1905年に第1回世界エスペラント大会(注2参照)を開催するに至る。この時、エスペラントの骨格をなす基礎的な文法や造語法が“変更不可なもの”として規定されたが、以後の言語の発展は自然に任された。

 エスペラントの基本的な語彙2612語の内訳をみると、純スラブ系29、純ゲルマン系326、純ラテン系861、ラテン経由のゲルマン系663となっており、ラテン・ゲルマン系を合わせると1850語(約7割)に上る。アクセントはスペイン語やイタリア語に、構文はスラブ系に似ている。母音は日本語、スペイン語、イタリア語に近く、子音は英語に近い。「総じて西欧の言葉を母語とする学習者にアドバンテージがあるのは否定しえない」と尚志さん。しかし「誰もが容易に学べる言語」として考案されたエスペラントは、発音が一通りしかなく、母音の“a”をエイと読んだり、アと読んだりする複雑さはない。文法に例外がないのも特徴だ。

 日本にエスペラントが普及したのは、20世紀の初頭である。*注4)1906年には日本で初めてのエスペラントの入門書(二葉亭四迷著)が刊行され、1908年には、後に『広辞苑』の編者となる新村出が、第4回世界エスペラント大会(ドレスデンで開催)に出席している。更に時代が下った1920年代はじめには、国際連盟の委任統治委員会日本代表としてジュネーブにいた柳田国男や、国際連盟事務次長だった新渡戸稲造が、エスペラントを国際連盟の公用語とするよう働きかけた経緯もある。(実現はならなかった。)作家、宮沢賢治にエスペラントとの縁があったことも知られている。*注5)

 欧州では、その後ナチスドイツの台頭によって、エスペラント運動が迫害を受け、スターリン時代のソ連では、エスペランティストが大粛清を受けた。日本でも、太平洋戦争に向かう時勢の中で、エスペラントの目指す平和主義や国際性そのものが「反国家的」とされるなど、厳しい時代を経験した。

 「第二次世界大戦後は、国際社会におけるアメリカの影響力が増し、国際政治・経済の世界で英語が果たす役割が大きくなった。日本でも“外国語学習といえばまずは英語”という考え方が浸透。政治やビジネス、あらゆる分野での近年の“グローバル化”がその傾向にますます拍車をかけている」と尚志さん。「海外とつながるためのチャネルとして英語が選ばれるのは、現実問題として無理からぬこと」と納得しつつも、英語にはないエスペラントの個性がもっと認知されれば…との思いが尽きない。

 「エスペラントのよさは、それを母語とする話者がいないこと。従って、非英語圏の国民が、英語のネイティブスピーカーと渡り合わねばならない時に感じるようなストレスがない。話者各々の学習歴によって表現能力は変わってくるが、エスペラントにはその背後に“オーソリティ”となる国が存在しないので、誰もが対等な立場で話すことができる」―尚志さんはそう強調する。

石川尚志さん
ワルシャワのハリーナさん(右端)宅にて。
中央が石川尚志さん、左の二人はエスペランティストのスウェーデン人夫婦。食卓での会話はもちろんエスペラントで。(2005年撮影)

 「エスペラントは造語法が柔軟なため、例えば名詞が形容詞に、その形容詞が更に動詞化することも可能。120年前に考案された時と比べると、語彙数も格段に増えている。多くの言語学者は “計画言語”であるエスペラントを“自然言語”である他の言語と区別しているが、時代の流れの中で刻一刻変化しているという点で、エスペラントは紛れもなく“生きた言語”」と智恵子さん。

 世の中に新しい事物が登場したとき、その呼称はどのようなプロセスで決まるのかを伺ったところ、「あくまで、使用者の趨勢に任される。当初は複数の表現が並行して使われ、その後どれか一つの表現に集約されていく」とのこと。例えば「コンピューター」については、「コンプテーロ」「コンプティーロ」「カルクリーロ(“計算機”に由来)」などの言葉が同時並行で使われ、ある程度の年数を経て「コンプティーロ」が定着したそうだ。フランスにあるAkademio de Esperantoという組織も、新語の採用を採決するような権威はもたず、エスペラントの語法について混乱が生じた時などに、学問的立場から“指針”を示すにとどまる。

 さて、エスペラントを用いると、実際にどのような交流が可能になるのであろうか。エスペラントの活動の一つに、「国際民宿組織(Pasporta Servo:パスポルタセルボ)」がある。海外を訪れる際、訪問国のエスペランティストの自宅にホームステイする制度である。自宅に外国人を受け入れてもよいと考えるエスペランティストは、パスポルタセルボの名簿に自分の名前や住所と“条件”を記載する。(条件欄には、例えば、食事は家族と同じものを供するとか、寝室のみを提供するので食事は自前で―とか、寝袋を持参してほしいなどと書く。)いずれにせよ、「お客様扱い」をせず、普段着のもてなしをするのが一般的だ。訪問者がステイ先に謝礼を支払う必要はなく、「滞在中はエスペラントを話す」のが唯一の御礼とのこと。名簿を見て訪問希望先にコンタクトする際、手紙を書く言語はもちろんエスペラント。交渉開始段階からすでに「交流」が始まっている。

 石川さん夫妻は、子どもたちが小さい時分から、こうした海外からのお客の受け入れを積極的に行ってきた。何冊ものアルバムには訪問客と撮った家族写真や、彼らからの礼状がきれいに整理されている。「どの国の人とも、エスペラントをやっているという一点でつながり、すぐに友好的になれるのは楽しい」と智恵子さん。子育てなどもあり、自身が海外に出向けるようになったのは最近のことだが、「エスペランティストのネットワークによって、その国により深く分け入れるのが醍醐味。一般的な海外旅行のように、ホテルに滞在するのとは見える世界が違う」とその魅力を語る。

石川智恵子さん
アフリカ、ベナンのポルトノボで開催されたエスペラント会議に参加した石川智恵子さん。イタリア人(中央)、ブルンジ人(左)の参加者と。(2008年撮影)

 エスペラントは海外の文学作品を紹介する手段ともなる。話者の少ない言語の文学も、一旦エスペラント化されることで、更に多くの言語に翻訳される可能性が生まれる。言語として成熟してきている今日では、最初からエスペラントで書かれた小説や詩なども数多く存在し、それらを堪能するのも学習者の楽しみであるそうだ。また、エスペラントによって文通やメール交信をすることによって、(英語によるのとは違った)視点を与えられる思いがするとのこと。例えば、ある国際的な事件が起こった時に、海外の文通仲間に向け、エスペラントで“日本ではこのように報道されているけれど、貴国ではどう受けとめられているのか”を尋ねることができる。「日本のジャーナリズムは、英語的な思考に染まっている部分(=アメリカの価値観に影響されている部分)が大きいので、彼らからの反応に新鮮な思いを覚えることが多い。複眼的なものの見方をする上でも、エスペラントの効用は大きい」そうだ。

 智恵子さんのエスペラント講座の生徒の平均年齢は60歳を超える。子どもが巣立ち、或いは退職などを機に新たな言葉に挑戦したいと思い扉を叩いた人が多い。「“苦手だった英語に再チャレンジ”もよいが、ゼロからエスペラントを学ぶほうが、心理的に楽な面もある。生涯学習の選択肢にエスペラントも加えてみては?」と微笑む。

 もっとも、エスペラントの普及は両刃の剣ともいえるようだ。限られた数のエスペランティストが善意で交流しているうちはよいが、話者人口が広がれば、負の事件も起こり得る。最近では、日本人が海外からエスペラントでの文通を申し込まれ、応じると「あれを送って欲しい。これを送ってほしい」などと要求されるケースもあるそうだ。パスポルタセルボの名簿が国際詐欺などの犯罪に利用されないという保証はない。「しかし、社会の中に生きる言語である以上、きれいごとで済まされないのは当然。それもこれも含めてのエスペラントなのです」―石川夫妻は穏やかな表情で、そう締めくくった。

(齋藤志緒理)

注1)田中克彦『エスペラント−異端の言語』(岩波新書, 2007年)「はじめに」ページ vi

注2)
●エスペランティストとは:
1905年に開催された第1回世界エスペラント大会では、ザメンホフの起草による「ブローニュ宣言」が採択された。同宣言は、エスペランティストを「どのような目的に使うかにかかわらず、エスペラントを知り、使う人」と定義し、エスペラント主義を「異なる民族に属する人々の相互理解を可能にする、中立的な言語の使用を広める努力」と規定した。
(後藤斉「計画言語の可能性を実証したザメンホフ−Lazaro Ludoviko Zamenhof, 1859-1917」:『月刊言語』第30巻, 2001年2月別冊号「言語の20世紀101人」)

●エスペラントの話者数:
エスペラントは、それを母語とする国がないため、世界中の話者数の把握が容易でない。“表現能力も使用頻度も高い人”に限るのか、“使用頻度は低いが、基礎を知っている人”まで含めるのかによって数字が異なり、数十万人から百万人と諸説ある。※参考データ:日本エスペラント学会の2009年7月現在の日本の会員数は1,255名。また、世界エスペラント協会の機関誌“Esperanto”(2009年6月号)によると、2007年の同協会の会員数合計は18,503人である(これは、世界70ヶ国の国別組織と120ヶ国の個人会員を合計した数字。)「世界エスペラント協会」はエスペラント界最大の組織ながら、他にもいくつか世界規模の組織がある。また、どの組織にも所属しない話者も多いため、この数字は世界のエスペランティストの総数を反映するものではない。

注3)田中克彦, 上掲書(pp.102-103)

注4)アジアにエスペラントが最初に上陸したのはまず日本で、それには二つの経路があった。一つは日本に住むキリスト教メソジスト派宣教師によるものであり、もう一つは二葉亭四迷がウラジオストークで学んで、自ら持ち帰ったものである。(田中克彦, 上掲書:p.121)

注5)田中克彦, 上掲書(pp.124-151)

●宮沢賢治とエスペラント:
1926年、30歳だった宮沢賢治は、たまたま上京した折に、エスペランティストであった駐日フィンランド公使、ラムステットの講演を聞く機会があり、エスペラントを学び始める。自分の作品が海外でも知られるようになればとの願いからか、自作のいくつかの詩や短歌をエスペラントに翻訳した試作も残っている。賢治はエスペラントを極めるまで学習を続けることはできなかったが、作品中に登場する地名「イーハトーヴォ」などには、エスペラントの影響がみられる。

<エスペラントで挨拶>(発音はローマ字読み)

「こんにちは。田中です」 Saluton! Mi estas Tanaka.
 *Saluton! は朝昼晩いつでも使える軽い挨拶。

「私は日本人です」 Mi estas japano.
 *japano は「ジャパーノ」ではなく、「ヤパーノ」と読む。

「ありがとう」 Dankon!
「どういたしまして」 Ne dankinde.


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