リビア
国連安保理の制裁解除後、国際社会へ復帰
“誠実でフェア”な国民性は他国のアラブ人も一目置くほど
元外務省の塩尻宏さんは、大阪外国語大学でアラビア語を専攻し、外務省入省後もエジプトで2年間のアラビア語研修を受け、語学に磨きをかけた。その後、経済協力局、中近東アフリカ局、欧亜局等を経て、2001年にUAEへ在ドバイ総領事として赴任。そして2003年5月から2006年4月までの3年間、駐リビア大使を務めた。
リビアはアフリカ大陸で4番目に広い国土(日本の約4.6倍)を持ち、東はエジプト、西はチュニジアとアルジェリア、南東にスーダン、南にはチャドとニジェール…と、計6ヶ国と国境を接している。(地中海沿岸地域を除いた)国土の9割以上は砂漠地帯である。同国内の地中海海岸線の距離は約2000キロで、欧州・中東・北アフリカの全ての沿岸諸国の中で最も長い。人口は約600万人。首都は、チュニジアとの国境から200キロほどの地点にある地中海沿岸都市・トリポリである。
リビアといえば、日本では「カダフィ」の名がまず想起されるのではないだろうか。かつては“テロ支援国家”としての烙印を押され、長年に亘り、国際社会に背を向けられてきたリビアだが、その実像はどのようなものなのだろうか。塩尻さんの夫人は、イスラーム思想、比較思想学、中東地域論等を専門とし、現在筑波大学の副学長を務める塩尻和子氏である。本稿ではまず、和子夫人の著書『リビアを知るための60章』(明石書店)から、近代以降のリビアの歩みを簡略に紹介したい。

塩尻 宏さん・和子さん夫妻(レプティスマグナの競技場跡にて)
近代史において、リビアはオスマントルコとイタリアの支配を受けたが、両者の統治の性質には大きな違いがあった。「オスマン帝国の支配は、植民地支配には変わりはないものの、同じイスラーム教徒同士でもあり、リビア人を懐柔して一部地域の支配を委ねるという間接支配を採用した柔軟なもので、また支配範囲も地中海沿岸地域に限られていた。しかし、イタリアの支配は、リビア人に教育も文化も与えることなく、彼らの宗教や文化を認めることもなく、リビア人を排除して土地を収奪することのみを目的としており、植民地支配の当初から激しい反発を招く性質をもっていた。」*注1)
1951年、リビアは独立を果たす。第二次世界大戦の戦勝国、英・仏・ソ・米の巨頭会談によって、イドリース・アル・サヌーシーを国王とする「リビア連合王国(イドリース王国)」が成立したのである。イドリース国王は、イタリアの侵略に対する抵抗勢力であったサヌーシー教団の祖、大サヌーシーの孫であった。1959年、リビア国内で国際石油会社エッソにより石油が発見されたのを契機に、リビアは急速に経済発展を始めるが、政治的には不安定な状態が続いた。1967年の第三次中東戦争にリビアが参加しなかったことにより、リビア人の間で“同胞のアラブに冷淡な政府”への反対運動が激化。1969年9月、イドリース国王が病気療養目的でトルコに滞在している間に、青年将校らが革命を成功させる。その指導者は、弱冠27歳のムアンマル・アル・カダフィ(Muammar Al Qadthafi)であった。カダフィは砂漠の遊牧民の子で、祖父は対イタリア抵抗運動の中で命を失っている。*注2)
カダフィは、革命後、自らが創出した「ジャマーヒーリーヤ体制」という政治体制(人民による直接民主主義)を敷いている。“直接民主主義”であるが故に、リビアには議会も政府も内閣もないことになっている。とはいっても、実質的には国民全員が国政に直接参加するのは不可能であり、一般の国会に相当する「全国人民会議」が存在する。*注3)カダフィはリビアの最高権力者として事実上元首ではあるが、今日に至るまでその肩書は「革命指導者」となっている。
リビアは、1986年4月の西ベルリンの「ラ・ベル」爆破事件、1988年12月のロカビー事件、1989年9月のUTA機爆破事件*注4)などのテロに関与したとして国際的な非難を浴びた。こうした情勢を受け、1986年1月には、米国が経済制裁を発動。1992年3月には国連安保理で対リビア制裁決議が採択された。
国連安保理が対リビア制裁解除の決議をしたのは2003年9月、米国が(リビアが大量破壊兵器計画の廃棄を宣言したのを受け)対リビア経済制裁措置を解除したのは2004年10月であった。(米国は2006年6月には「テロ支援国家」指定も解除した。)塩尻さんが駐リビア大使として着任したのは、ちょうど国際社会におけるリビアの立ち位置が劇的に変わった時期であった。
「英語が通じにくい」「インターネットの使用可能地域が限られている」「クレジットカードを使える場所が少ない」といった不便さは残るものの、リビアの社会状況は徐々に変化を見せ、外国人が生活するのにも大分便利になってきた―と塩尻さん。沿岸部では、外資系企業の工場建設が相次いでいる。
「リビア人は、実際に接してみると、とても誠実で親切」と塩尻さん。身近なところでは、それは例えば彼らの「商売」のやり方に表れる。アラブの人々は元来、商業民族であり、隊商を組んで広大な地域に物資を流通させるのが生業だった。日本人は普通「モノの値段=原価+マージン」ととらえているが、アラブ人には原価は関係なく、値段は交渉で決まるものと考えている。売り手が高値を言ってくると、大方の日本人は「ふっかけられた」という発想をもつが、アラブ人には「ふっかけた」という意識はない。“いくらで買うか、いくらで売るか―がビジネス”なのである。いずれにせよ、こうした価値観をベースとしているアラブ諸国では、外国人旅行者は何かとハンディを負ってしまうのが常である。しかし、リビアの商店主はそうしたアラブ一般の傾向と一線を画しており、現地での物価事情が分からず、言葉がわからない“一見の旅行客”にも、高い買い物をさせることが少ないという。こうしたリビア人のフェアな面は、他国のアラブ人にも好意的に見られているそうだ。
「リビア人は、個人的に付き合うと親切な人たちだが、組織*注5)に入ると保身が優先する」―塩尻さんはこうも指摘する。ひとつひとつの案件について、担当者が自分の責任において判断することを避け、上に〜上に〜と次々にお伺いを立てるのである。塩尻さんは、仕事柄、折ある毎に「対外連絡・国際協力担当全国人民委員会」(外務省に相当)に照会や要請をしたが、なかなか返事が来ずに、気をもむことが多かった。(案件の重要性によっては、お伺いを立てる先は指導者のカダフィまで到達しているものと思われる。)
「ところで―」と塩尻さんは更に続ける。「リビアに限らずアラブ諸国で暮らす日本人から“約束が守られないことがあって困る”という苦情がよく聞かれる。“インシャ・アッラー(神様の思し召しのままに)という言葉が返ってくるばかりで、埒が明かない”というのである。これについては、彼らの行動はひとえに“彼らが何を優先するか”によって決まるものであり、自分との約束が守られない場合には、それよりも大切な何かがあったのだ―と考える外ない。基本的に先約が優先される日本とは事情が違う」「日本人は約束を守ってもらえなかった事だけを記憶して不満を述べるが、裏を返せば、こちらが本当に助けてもらいたい時、相手が納得すれば、先約があってもそれを差し置いてこちらのために時間を割いてくれることもある。物事を片側からだけ見て、安易に評価しない方がよい。」
さて、リビアの政治体制に話を戻すと、カダフィは革命以来40年以上に亘って、国のトップの座に居続けている。そのため、“リビアではカダフィによる「恐怖政治」が行われているのでは”という見方をされることもある。塩尻さんは、それに対し「自分はカダフィの支持者ではないが」と前置きしつつ、次のように語る。「カダフィはリビアで革命を成功させた後、アラブ諸国の一員としてパレスチナを支援した。そして、石油生産を源とする潤沢な資力を“世界中の抑圧された人々を救うため”に使おうとし、世界の紛争に関与したりもした。こうしたやり方は、国際社会と反目する結果にもつながったが、カダフィがリビア国内で権力を振り回しているかというと、決してそうは思わない。40年もの間、政権が揺らがないということは、すなわちカダフィの周辺に彼の政治理念や人間性に賛同する協力者たちがいることを示している。権力の座がどんなに盤石であろうと、リーダーとして人の心を動かす力がなければ、長年に亘り600万人の国民のトップに立ち続けることはできない。」
塩尻さんによれば、カダフィは平素“二張のテント”を住まいとしている。権勢を誇示するような「パレス」を作ることはこれまで一度もなかった。(国内にある壮麗な「会議施設」などは人民会議やアフリカ首脳会議の際に使用されるもので、カダフィ自身のための施設ではない。)日本の要人がリビアを公式訪問する折に、塩尻さんは大使として表敬訪問の場に同席したが、カダフィは決して奢った風ではなく、同席者を見まわして「コーヒーはいっていますね」と確認するなど、細やかな気配りを見せたとのこと。「(元)テロ支援国家の指導者」という暗いイメージが先行しがちだが、実際に触れたその人となりの印象は全く違ったものだったそうだ。
リビアでは報道規制によって、国民が外国メディアから隔てられているのが現状だ。「これは、カダフィ(及び指導者層)が、メディアが報じる内容が全て正しいとは考えておらず、国民がバイアスのかかった情報に左右されるのを防ぎたいと考えているため」と塩尻さんは分析する。「われわれ日本人は報道に接するとき、心のどこかで“100%は正確でないかもしれない”と思いつつ受け止めているが、長く、国際社会に対し“閉じた世界”であったリビアの人々がいきなり幾多の情報に晒されれば、自身で “善悪”“正確・不正確”といった価値判断ができずに翻弄されてしまう可能性がある。今後、外国メディアが“公正さや、正確さ”についてリビア首脳陣から一定の評価が得られるようになれば、報道規制も、徐々に緩められていくのではないか」との予測も示した。
塩尻さんは大使在任中、休日にはトリポリの旧市街をよく散策したそうだ。ぶらりと入った店で、オスマントルコ時代からの民芸品である真鍮や銅製のコーヒーカップやお盆を見つけ、その緻密な細工に感嘆したり、「砂漠のバラ」と呼ばれる石(リビアの砂漠の地下から掘り出される石の結晶で、バラの花のような形をしている)を手にとって、その造形に魅了されたりした。リビアの沿岸地域には、かつてフェニキア人が地中海を支配した時代の遺跡やギリシャ・ローマ時代の遺跡が残っている。街にはモスクもあり、様々な文化が織り成す空間を歩くのは格別の楽しみであった。大学教員である和子夫人も、学校の休みの時期にはリビアに滞在し、大使夫人としての公務を果たしつつ、リビア各地を巡って専門分野の探求を重ねた。
「リビアに駐在するのであれば、できるだけ興味をもって現地の生活に臨み、現地の人々の暮らしぶりをみてほしい」と塩尻さん。「言葉の問題もあろうが、リビア人だって同じ人間…知恵を出して、上手にコミュニケーションをとってほしい。待っているのではなく、こちらからアプローチすることが肝心」と説く。
塩尻さんは、知人やその家族の訃報を聞いたときは必ずお葬式に足を運んだ。リビアでは、誰かが亡くなると遺体は24時間以内に近親者だけで埋葬するが、没後1週間ほどは、自宅近くにテントを張って、弔問客を迎えるのが習わしだ。テントの中には弔問客用の椅子が沢山置かれ、奥の方に喪主が座している。塩尻さんは、お悔やみに行った時は、挨拶だけして帰るのではなく、喪主の横に座ってポツリポツリと亡くなった人の思い出話や何気ない世間話をし、頃合いを見計らって「じゃあ…」とその場を失礼した。
リビア人に食事に招かれることがあったら、出された料理について、あれやこれやと尋ねるのも、誠意の示し方の一つだそうだ。「この料理は誰が作ったのか?」「この食材は何か?」「どのように作るのか?」などと、日本人の感覚では、「そこまで聞いていいのか?」と思えるくらいに関心を示してよい。ちなみに、アラブの文化では、料理を残すことは決して失礼にはならない。(むしろ、裏方で働いている人たちが後で食べられるよう、わざと残すのが心遣い。)自分の取り皿も空にしないように注意する。「自分が食べたい料理を何種類か取り皿に載せるのがマナー。空のままにしていると、“何を遠慮しているのか”と、ホストにドサーっと料理をよそわれてしまい、かえって大変なことになるんですよ」と塩尻さんは笑う。
砂漠がその国土の殆どを占めるリビアは「不毛の地」とも称される。しかし、塩尻さんは「科学技術の進歩によって砂漠の緑化が進めば、人がもっと住めるようになり、乾燥地農業が行えるようになるかもしれない。地下には希少資源が眠っているかもしれない。そう考えれば、砂漠面積が広いリビアは、それだけ大きな可能性を秘めているということ。地中海沿岸の港湾を“フリーゾーン”にして対外貿易を盛んにしようという計画もあり、交易面でも発展の余地は多いにある。外国との関係正常化が進めば、より多くの外資系企業が参入し、製造業にも弾みがつくであろう」―と将来の展望を語る。
外務省退官後は、(財)中東調査会常任理事や日本リビア友好協会特別顧問を務め、リビアの実情についての理解を広めるために、求められればできる限り協力しているとのこと。今回のインタビュー要請にも、(「私の体験談が少しでも役立つのであれば」という控えめな言葉で)快く応じて下さった。塩尻さんのお話は“体験談”を超えて、深く、示唆に富む。リビアに限らず、他国について知ろうとする時に、先入観や自分が慣れ親しんだ物差しに拠らず、バランスのとれた見方をしようと意識することの大切さ…。それはおそらく塩尻さんが外交官として、また一個の人間として心がけられてきたことなのであろうが、聞く者の胸に響いてくるものがあった。
(齋藤志緒理)
注1)
塩尻和子著『リビアを知るための60章』(2006年 明石書店刊)p.81.
※イタリアによる植民地支配:
イタリアによる植民地支配は(オスマントルコがリビアをイタリアに譲渡した)1912年のローザンヌ条約を起点とする。イタリアはリビアの反対派の殲滅を図り、キレナイカ(リビアの北東・南東地域)の住民10万人を強制収容所へ移住させるなどした。非衛生な環境下で飢えや病気のために命を落とす者、イタリア軍に殺される者が8万人にも上ったという。1938年から翌年にかけて、ムッソリーニはリビア人から収奪した土地にイタリア人(延べ10万人以上と言われる)を入植させ、リビアの完全なイタリア化を図った。1912年のリビアのイタリア併合からの約30年間で、当時のリビア人人口の四分の一が死亡したといわれている。(上掲書:pp.58-60)
注2)上掲書(p.61)
注3)全国人民会議:
「全国人民会議」には、その下部組織として「地方人民会議(全国34の行政区それぞれに配置)」が、その更に下には「基礎人民会議(全国に四百以上ある地区それぞれに配置)」があり、ピラミッド構造となっている。内閣に相当するのが「全国人民委員会」で、「全国人民委員会書記」が首相に当たる。「省」と名のつく行政組織はないが、例えば、「対外連絡・国際協力担当全国人民委員会」(外務省に相当)、「経済・貿易担当全国人民委員会」(経済産業省に相当)…といった委員会が各分野の行政を担当している(これら「担当委員会」の「書記」が大臣に相当。)上掲書(pp.89-93)
注4)
- 「ラ・ベル爆破事件」=1986年3月に米軍機がリビア軍機を撃墜した後の4月5日、当時西ベルリンのディスコ「ラ・ベル」で爆破事件が起こり、米兵2名、トルコ女性1名が死亡した。
- 「ロカビー事件」=1988年12月21日、ロンドン発ニューヨーク行きのパンナム機が、スコットランドのロカビー村上空で爆破され、墜落した事件。乗員・乗客計270名全員が死亡した。ロカビー事件は、ラ・ベル事件の10日後に米軍機がリビアの首都トリポリとベンガジの市内を空爆した(=カダフィの暗殺を目論んで、彼の自宅を狙ったもの)ことへの報復とみられている。
- 「UTA爆撃事件」=1989年1月に米軍機がリビア軍機二機を撃墜した後の9月19日、コンゴからパリへ向かうフランスのUTA機がニジェール上空で爆破され、乗員・乗客170名全員が死亡した。上掲書(pp.125-126)
注5)リビアの「組織」:
現在、リビア国内の事業体は原則として「公社」か「公団」のみ。個人経営の小規模な商店などを除けば「民間企業」は存在しない。

トリポリ旧市街、カラマンリー・モスクのミナレット(注:ミナレットとは、モスクに付設して建てられる尖塔のこと。礼拝時刻の告知を行うのに使われる。)向こうにはオスマン朝時代の時計塔が見える(撮影:塩尻 宏氏)




