ルーマニア
市場経済化の道を歩むルーマニア
未来は「混沌」の中から
2004年春、鳴尾眞二さんはルーマニアの首都ブカレストに降り立った。渡航のきっかけとなったのは、たまたまJICA国際協力人材募集のWebサイトで「ルーマニア鉄道インフラ会社の経営支援公募」情報に遭遇したことで、それから人材登録、応募、審査、面接、研修を経て、2ヶ月の内に派遣決定となった。
ルーマニアでは国鉄が1998年に「鉄道インフラ会社」「旅客サービス会社」「貨物サービス会社」の三社に分割され、2007年のEU加盟を目指し、民営化に向けた経営改革に取り組む過程にあった。日本はJBIC(国際協力銀行)がブカレストと黒海沿岸最大の都市コンスタンツァを結ぶ線路の近代化計画に約256億円の円借款を行ったが、その経営改革支援のためJICA専門家として鳴尾さんが派遣されたのである。20年来勤めた大手シンクタンクは退職し、家族を伴っての渡航となった。
鳴尾さんの着任時は、チャウセスク政権が崩壊した1989年の革命から15年の時を経ていたが、旧社会主義体制の足跡がまだそこここに感じられた。革命後は市場経済化されているものの、40代から50代の国の指導者たちは皆旧体制時代に教育を受けており、社会主義の行動パターンから脱皮できていない。資本主義経済への理解や、「経営管理」の意識が欠落しているのは否めなかった。
ルーマニアがこれまで辿ってきた道をあらためて考察し、鳴尾さんは、その背景にあるものとして、次のような点に思い至った。まず、学問についてである。社会主義時代、自然科学や工学(物理・化学・数学・生物学、エンジニアリング)は国を富ます原動力として重視された。文学等の芸術も許容される範囲であれば(体制批判の様を呈さない限りは)認められた。しかし、社会科学など「国家の体制や構造」を“研究対象”とするような学問は廃れてしまっていた。社会主義の原則は計画経済であり、そこには「周囲の状況が動かない中での発展」という大前提がある。動きつつある国際情勢や社会情勢の中で、どう舵取りをしていくかという視点が欠けてしまい、それが経営やビジネスを進める際には決定的なマイナス要因となってしまう。
次に、ルーマニアは日本や英国が経験したような「産業革命」を経ぬままに社会主義化したという点である。今ある産業は社会の発展に伴って自然に出来上がったものではなく、国家主導で導入されたものであった。産業を支えるための社会的・人的インフラが育っていないまま、社会主義というタガが外れ、資本主義の海に放り出されることになった。
その結果何が起こったかといえば、国内的には国営企業の混乱がある。1989年の社会主義崩壊後、労働者への給金の支払いが途絶え、やむなく工場にあった在庫や加工前の備品を売る者が続出。1990年代の元国営企業は、「生産ができない」「在庫がなくなる」「設備がない」という大変深刻な状況に置かれた。対外的には、ルーマニアが、2007年のEU加盟に向けてクリアしなければならない条件の一つが「国営企業の民営化率のアップ」であった。しかし、そもそも国内に資本の蓄積がなく、ルーマニア人に国営企業を買収できるだけの財力の持ち主は皆無といってよかった。株式公開は一部あったものの、市民の間には、株式購入が、本来平等に得られるべき権利であるという認識が浸透していなかった。そこで国営企業が外資に売却される傾向が続いた。現在、金額ベースでルーマニアの資本の外資比率が9割以上―と高いのは、こうした事情によるもので、ルーマニア政府が外資優遇政策をとったからではない。ルーマニアにおいては、民営化=外資戦略である、といっても過言ではない、と鳴尾さんは言う。
2年間のJICAでの任務を終えた鳴尾さんの心の中には、これからもルーマニアの成長を支援していきたいという思いが膨らんでいた。日本政府からの援助はルーマニアがEU加盟を果たせば打ち切られるが、実際には、国や社会が一足飛びに次のステージに行かれるものではない。
経営やビジネスの基本を身につけた人材の不足を常々感じていた鳴尾さんは、次世代の育成に注力すべく、2006年4月からブカレスト大学経営・管理学部の客員教授となった。現在もルーマニアと日本を往復する生活で、月の内一週間はブカレストに滞在し、その間連日授業を行っている。学生気質はいたって現実的で、よりよい就職のために修士号を目指すという若者が少なくない。しかし、“就職に有利な知識”のみでは、学問が空洞化してしまうと危惧する鳴尾さんは、基礎を重視した授業を実施。問題を設定して与え、“自ら考え解決していく”トレーニングを学生たちに積ませているという。
客員教授の仕事と共に、ルーマニア企業「マイクロ・エレクトロニカ」(CMOS、発光ダイオード等が主力製品)他一社のボードメンバーの職務も続けている。マイクロ・エレクトロニカ社は元国営企業で、社会主義の時代に欧米から導入された高性能な設備をもっていたが、体制崩壊後の混乱で機能していなかったところを、あるルーマニア人が買い取って経営を始めた。残っていた労働者1300人を改めて面接して、精鋭50人だけを採用し、古い設備を何とか生かしながら再スタートを切ったところに、鳴尾さんに協力の要請が来た。前述の通り、社会主義崩壊後のルーマニア人には資力が乏しく、個人で国営企業を買い取れること自体、大変稀なこと。「もし資金が後ろ暗いものであるならば、私は協力できません」と毅然と伝えた鳴尾さんに、そのルーマニア人社長は、会社買収の資金は、それに先立っての欧米企業とのある特許契約によって、正当に得た対価であると清々しく答え、出所を明らかにした。取引で得た大金は、一生黙って暮らせるほどのものなのに、それを敢えて旧国営企業を立て直すために投じたこの社長の心に鳴尾さんは動かされ、以来経営の手助けをしている。
「ルーマニアでは、個々の人間の勤勉性は決して他国と引けをとらない。しかし社会のしくみがまだ出来上がっていない。それがこれからの課題であり、ルーマニアが成長するために必須なこと」「“可能性がある国”と評するのはポジティブすぎる。むしろ“混沌”といった方がよい。どう動き転んでいくかわからない不安定さ。それがリスクでもあり、関わっていく者にとっては挑戦する原動力にもなっていく」と鳴尾さんは語る。
「志あるルーマニア人を見るとサポートしたくなるのです」―その言葉には、先達として経験や知識を伝授しているという高所からの目線は全くなく、あるのは、ただこの国の将来のために力を貸したいという真摯で力みのない姿勢であった。
インタビュー後日、鳴尾さんからメールをいただいた。「現地生活にいかに柔軟になじんでいくかという点について付言するならば、自分が外国人であるということを、常に謙虚に自分に言い聞かせるということです。そこで生まれ育った人達とは、宗教観、生死の考え、経済観念、政治的信条、教育環境等が当然異なるわけで、3年、5年そこに居住したところで、所詮は我々は外国人だと思います。言葉を自在にこなしたとしても、彼らが背負っている物を完全に共有する事はできません。我々外国人は、その国に許容して、置いてもらっているのだというくらいに謙虚に考えておいた方が快適に生活できます。他人の家に土足で上がるようなことはしてはいけない、と常に自制しておくほうがスムーズに生きていけます。ルーマニアでも多くの信頼できる友人ができたと自負しておりますが、自分は所詮外国人であるという自覚を持って、彼ら、彼女らと付き合っていくように心がけております。」

シナイアにある木造建築、ペレシュ城。1875年に建設が始まり、1914年に完成。
カロル1世の在位中に作られたもの。(鳴尾眞二氏撮影)