INTEC JAPAN/BLOG

このブログは、異文化研修の教育機関(株)インテック・ジャパンの情報発信用です。(株)イー・メディアとの提携により、同社のドキュメント・レポート「Electronic Journal」をウィークデイの毎日お届けします。
「Electronic Journal」は様々な情報を400字詰原稿用紙7枚にまとめて配信する日刊メールマガジンです。

<< 2006年08月 | トップ | 2006年10月 >>

● 2006年09月 記事 ●

2006年09月01日

暗殺後の実行犯の行動の詳細(EJ第1451号)

 1963年11月22日――ケネディが暗殺された日の夕刻のことです。ニューオー
リンズから一台の車が夜を徹してヒューストンに向かっていたのです。運転していたの
は、あのデビット・フェリーです。折りしも天候は悪く、激しい雷雨をついてのドライ
ブだったのです。
 23日の午後、フェリーは、ヒューストンのウィンターランド・スケートリンクに着
いています。彼はスケート靴をはかず、公衆電話につきっきりで、四六時中電話をかけ
たり、受けたりしていたのです。なぜ、公衆電話なのかというと、通話記録を残したく
なかったと考えられます。その電話の主な相手とは、このあとオズワルドをピストルで
射殺することになるジャック・ルービーだったのです。
 ジャック・ルービーの方は、ダラス市内にあるガレージの中の公衆電話を使ったの
です。このときルービーが長い間公衆電話を使っていたことには目撃者がいるのです。
そして、ウォーレン委員会の記録にもこれは残っているのですが、電話で話していた相
手は地元の新聞記者になっています。
 これは明らかにウソです。なぜなら、もし、地元の新聞記者と話したのであれば、わ
ざわざ人目につく公衆電話を使わずに普通の電話を使うはずだからです。
 このルービーの会話の内容の断片は、ガレージのマネジャーが聞くともなしに聞いて
いたそうです。ルービーは通話の相手にオズワルドがダラス警察からダラス郡シェリフ
事務所に移送されることについて話していたというのです。一方、フェリーはヒュース
トンのスケートリンクの公衆電話から、クレイ・ショーとも連絡をとっています。おそ
らくこのプロジェクトの最終処理について指示を仰いだものと思われます。
 それが終わると、フェリーはヒューストンを発って75キロ南のガルヴェストンに向
かったのです。それからもう一人、連絡員としてウォールという男がガルヴェストン入
りしています。フェリーは何の目的でガルヴェストンに行ったのでしょうか。
 ガルヴェストンには4人のヒットマンたちがフェリーが来るのを待っていたのです。
4人のヒットマンは仕事を終えるとダラスから直接ガルヴェストンに向かったのです。
ダラスからガルヴェストンまでは車で6時間ほどしかかからないので、22日の夕刻ま
でには着いたはずです。
 23日の夕刻になって、フェリーはガルヴェストンに到着しま。そのとき連絡員のウ
ォールも同じ頃にガルヴェストン入りしています。フェリーは彼らとガルヴェストンの
どこかで落ち合いヒットマンたちに現金で報酬を支払っているのです。この現金は、ク
レイ・ショーからフェリーが預かっていたのです。
 これで終りではないのです。ヒットマンたちを米国内に残しておくわけにはいかない
からです。フェリーの役割は、ヒットマンたちを外国に逃がすことなのです。
 ここでフェリーのパイロットとしてのウデがものをいうことになります。フェリー
はその日にあらかじめ用意してあったプロペラ機に4人を乗せてメキシコに飛んだので
す。米国人の飛行機であれば、メキシコのローカル空港でも取り調べられることはない
からです。
 ガルヴェストンからメキシコまでは片道2時間であり、午後7時に発ったとすれば、
午後11時にはガルヴェストンに帰ってこれるのです。この仕事を完了して、フェリー
はガルヴェストンに残ってルービーからの連絡を待っていたウォールに会います。そこ
にダラスのルービーから連絡が入り、首尾がどうだったかを尋ねてきます。ヒットマ
ンたちが無事に国外に出たかどうかの確認です。もし、この逃亡が失敗していたら、次
の日、24日に実行しようとしていること――オズワルドの殺害がまったくの無駄に終
わってしまうからです。
 そして、11月24日、午前11時頃、2人のシェリフ助手に両側からかかえられる
ようにして地下室でエレベータをおりたオズワルドは、大声で質問を浴びせる新聞記者
の中を連行されたのですが、そのときは疲れの表情を見せてはいたものの、相変わらず
冷静そのものだったのです。
 しかし、人垣を分けてルービーが彼の前におどり出た瞬間、はじめてオズワルドの表
情が変わります。彼の顔には明らかに驚きと不可解さがまざった表情があらわれたので
す。その瞬間、ルービーが手にした38口径のピストルが火を吹いたのです。「オー!
ノー!」――これがオズワルドの最後のことばだったのです。
 ケネディ大統領暗殺犯の実行犯グループの仕事はこれですべて終わったのです。しか
し、ケネディ大統領暗殺直後から「この犯人は逮捕しなければ・・・」と意欲を燃やし
たギャリソン検事は部下である主任捜査官ルー・アイヴォンに22日の夜に電話して次
のようにいいます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       ギャリソン:ルーか、こんな遅くにすまない。いつものことだ
             が、このオズワルドのニューオーリンズでの動き
             をすぐにも探って欲しいんだ。記録に当って、こ
             の夏以降の交友関係も調べてくれ。あさって捜査
             会議を開くから、その時までに・・・・そう、日
             曜だ。11時に・・・ありがとう。ルー・・・・
                        ――映画『JFK』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ちなみに11月22日は金曜日であり、ギャリソン検事が捜査会議を開くといってい
るのは、確かに日曜日になります。どうもこのギャリソン検事は、仕事熱心で日曜日に
もよく会議を開くので、あまり部下の評判はよくないのです。
 24日に開かれた捜査会議の結果、オズワルドとの関係でデビット・フェリーが浮
かび、直ちにフェリーに召喚状を出したのですが上記に述べた理由で不在――結局26
日の昼になって、ギャリソン検事のオフィスに出頭してきたのです。
                                 ・・・・ [JFK028]

フェリー&ギャリソン/本人.jpg

2006年09月04日

フェリーの死/ギャリソンの誤算(EJ第1452号)

 デビット・フェリーは、ギャリソン検事の尋問に対して、次の3つのことを供述して
います。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.オズワルドは知らない。少年のとき、市民航空パトロール隊にいたということだ
   が、覚えていない。
 2.JFKが暗殺された金曜日は、スケートをやりたくなって若い友人とヒュースト
   ンに行ったこと。
 3.土曜日の夜はガルヴェストンに行き一泊した。日曜日は雁を撃ちに行ったが、一
   羽も獲れなかった。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、その時点でギャリソン検事は関係者から詳しく事情を聞いており、そのすべ
てがウソであると見抜いてFBIの尋問のため、フェリーを拘留するのです。
 しかし、FBIはフェリーを直ちに釈放してしまうのです。そして、FBIスポーク
スマンは、わざわざテレビで次のコメントを発表します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ・・・フェリー氏はリー・ハーヴィー・オズワルドの知人ではなく、また大統領暗
 殺事件とは何の関連もないということが判明しました。ここで、明確にしておきま
 すが、フェリー氏は尋問のためオーリンズ郡の地方検事によって拘留されたのであ
 って、その拘留にFBIは関与しておりません。当局はその件でフェリー氏を煩わ
 せたことに対して遺憾の意を表し
          ・・・――FBIスポークスマン/映画『JFK』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ギャリソン検事は、このFBIスポークスマンのコメントで、FBIもケネディ暗殺
事件に関与していることを知るのです。そしてその後も執拗にフェリーをマークし続け
るのです。
 しかし、CIAもFBIもフェリーが非常に危険な人物であるとして、ある筋を通し
てフェリーに圧力をかけます。これによってフェリーは精神的に追い詰められギャリソ
ンに身の安全を求めてきます。これを受けてギャリソン検事はフェリーをホテル・フォ
ンテンブローに匿うのです。
 映画『JFK』にこのフォンテンブローのシーンが出てくるのです。オリバー・ス
トーン監督によると、このホテルのシーンはフェリーとギャリソン(ジム)それにルー
・アイヴォン主任捜査官が実際にかわした会話を基に書いたそうです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 フェリー:俺はもう逃げられない。追手はそこまで来ているんだ。もうおしまいだ。
 ルー  :まあ、ディブ、ルーム・サービスでも頼もうじゃないか。何か腹に詰め
      て、くつろげよ。好きなだけここにいてやるから。≪一部略≫
 ジム  :ディブ、単刀直入に聞いていいかな?CIAに雇われたことがあるか?
 フェリー:(笑う)何だか遠い昔のことを聞いているような言い方だな。CIAから
      は抜けられないんだぜ。いったん入ったら死ぬまでな。
 ジム  :ショーは?
 フェリー:ショーは特別待遇だ。最高ランクさ。ショー、オズワルド、キューバ人、
      みんなCIAだ。
 ジム  :ルービーはどうだ?
 フェリー:ジャックか?ジャックはヒモさ。ダラスのマフィアの集金屋だ。よくカス
      トロ に銃を送ってたよ。 ≪一部略≫        
 ジム  :誰が大統領を殺したんだ?
 フェリー:おい、よせよ。そりゃ問題がデカすぎるぜ!誰がケネディをやったか?
      それは謎また謎に包まれたミステリーだ。狙撃した奴でさえ依頼人を知ら
      ないんだぜ。わかるだろう?こんなにしゃべってたら殺されてしまうよ。
      俺は死んじまうんだ!           ―――映画『JFK』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ことはフェリーが恐れていたようになったのです。フェリーは自分の家で死体になっ
て発見されるのです。明らかに何者かに殺害されたと考えられますが、検死官は自然死
――脳溢血と断定しています。JFKの死後、その重要証人はことごとくこのようにし
て殺されてしまっているのです。自然死を装って・・・。
 ギャリソン検事は、このデビット・フェリーの死について次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この陰謀の件で、良心の呵責らしきものを表したのはフェリーだけだった。だから
 殺されたんだ。  −−ジム・ギャリソン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 そして、フェリーと関わりのあったキューバ人の友人、エラディオ・デル・ヴァレも
殺されたという情報がギャリソン検事のところに届けられます。ギャリソン検事が尋問
を予定していた人物なのです。
 フェリーの死によって、ギャリソン検事の真相究明のマトはクレイ・ショーしかいな
くなってしまったのです。そして、1967年3月2日、ニューオーリンズ検事局はク
レイ・ショーをケネディ大統領暗殺の犯人として逮捕するのです。そしてギャリソン検
事はクレイ・ショーを裁判に持ち込むのですがさまざまな妨害にあって、陪審団はクレ
イ・ショーを無罪にします。
 しかし、ギャリソン検事はその翌日、ショーが共謀者といわれる人々と知り合いだっ
たことも会ったこともないと否定したことについて、偽証罪で起訴するのですところが
連邦政府は、ギャリソン側に「背信」ありとする珍しい処置をとり、二度目の起訴を禁
じたのです。なお、ウォーレン報告書には、デビット・フェリーもクレイ・ショーも
一切登場しないのです。               ・・・・ [JFK029]

クレイ・ショー(本人).jpg

2006年09月05日

ミスターXの語るJFK暗殺のウラ(EJ第1453号)

 JFKが1963年11月22日にどのように殺され、どういう経緯でオズワルドが
・人にされたかという点について、詳しく述べてきました。
 ここまでの分析においてこの歴史的事件は、ウォーレン委員会の出した結論である
「オズワルドの単独・行」でないことは明らかです。それでは、一体誰が計画し、それ
を指揮した真の・人は誰なのでしょうか。
 この疑問を解明するためのひとつのキーは、映画『JFK』の後半に登場する「ミス
ターX」のことばです。ミスターXはギャリソンに電話を入れ情報を提供したいので、
ワシントンのリンカーン記念堂で会おうといってギャリソンを呼び出したのです。
 ミスターXは、大統領を迎える1963年11月22日のダラスの警備体制は基本的
なことが何も行われておらず、それは陰謀があったという他拠であるとして次のように
述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 軍がシークレットサービスを補助するのは本来の任務だ。特にダラスのような危険
 な町ではね。我々ならたとえリムジンに・護用屋根をつけさせていたとしても、少
 なくとも100人から200人の警備用具は歩道に配置する。それが当たり前だ!
 そして数日前に現地に行って、ルートや周辺のあらゆるビルを点検る・・・
 ディーリー・プラザを見下ろせるビルの窓を開けることなど絶対に許い・・・
 絶対に・・・こっちも狙撃手を一帯に配置させる。
 全員無線機を持ち、窓が開こうものなら即、連絡が入る。群集の監視も怠らない。
 手荷物や丸めた新聞、腕にかけたコートなど。ルート沿いでは傘を開くことも許さ
 ない。大統領のリムジンには時速16キロを保たせる。特にヒューストン通りから
 エルム・ストリートへ入る急カーブではね。だが何も実行されなかった。警備ルー
 トの基本が無視された。ダラスに大掛かりの陰謀があったという他拠だ。
                            ――ミスターX
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このようにミスターXはケネディ大統領の暗殺には陰謀があったと指摘し、ギャリソ
ンに「君は近づいている。君が思っている以上に接近している」と、ギャリソンの捜査
の方向の正しさを賞賛したのです。
 そして、「ケネディは、体制にとってなぜ危険だったのか」と問うギャリソンに対し
てミスターXは次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  61年、私はピッグス湾事件の後、国家安全保障覚書55、56、57の策定に
 参加した。これは極めて重要な文書で、最高の国家機密だったが、要するにケネデ
 ィが統合参謀本部のレムニッツァ将軍に指示したもので、今後は平和時の準秘密工
 作はすべて統合参謀本部長が責任を持つというものだ。これで、CIA支配は終わ
 ることになる。                    ――ミスターX
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 つまり、ケネディはCIAの解体を指示したのです。これによって、名状し難い衝撃
波がワシントン上層部に広まったのです。それまでは、平和時の準秘密工作はCIAが
やっていたのを軍にやらせる――これでは軍産複合体としては困るわけです。
 なぜ、困るのか。これについて、ミスターXは次のように続けるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 それに、1963年にケネディの打ち出した予算削減案も見過ごせない。25遜の
 52の軍事施設、海外の21の基地を撤去するというものだ。これは大金だよ。
 ベトナムでどれくらいヘリコプターを失った?これまでに、3000機だよ。それ
 を作っているのは、ベル・ヘリコプター社だ。ベルの社長は?ベル社は破産寸前だ
 ったが、ボストンのファースト・ナショナル銀行がCIAに働きかけてベル社にベ
 トナム用のヘリコプターを開発させたために甦ったんだ。
 F−Ⅲ戦闘機は?フォートワースのゼネラル・ダイナミックス社だ。その社長は?
 ベトナム開戦以来の国・費は?750億ドルから1000億ドルだ。終結までには
 2000億ドルは費やす。1950年は国・費130億ドルだ。戦争もなく、金も
 ない。社会を結束させる原則は戦争だ。
 JFKが暗殺されたほんの4日後にジョンソンは、国家安全保障覚書273に署名
 した。これはケネディの撤退政策を根本から覆すもので、北ベトナムへの謀略のゴ
 ーサインとなった。
 それがトンキン湾事件を誘発する。あの文書でベトナム戦争は本格化だ。
                            ――ミスターX
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このミスターXは実在の人物といわれています。Xはケネディ政権時代を通じて、統
合参謀本部付きの特殊戦略局長を務めたフレッチャー・ブラウティ米国空軍大佐と思わ
れます。しかし、映画とは違い、ギャリソンがブラウティに実際に会ったのは、クレイ
・ ショー裁判の数年後ということです。
映画『JFK』では、ミスターXは最後にギャリソンに対して次のようにアドバイス
して去っていきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 もう選択の余地はないんだよ。君は国家の安全保障に脅威を与える人物になってい
 る。本来なら殺されているところだが、君は脚光を浴びている。だから連中は殺す
 代わりに、君の信用を台無しにするつもりだ。連中はワシントンの随所でその手を
 使っている。≪一部略≫
 いいか。起訴に持ち込むしかないんだ。何としてもやれ。逮捕して波乱を巻き起こ
 せ疑問を抱いている連中の心を掴むんだ。そうすれば大衆もついてきて政府側も折
 れる。いいか、大衆は心の底では真実を求めている。そして真実は君の側にある。
 成功を祈る。                     −−ミスターX
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
                                     ・・・[JFK030]

2006年09月06日

JFK暗殺とニクソンの関係(EJ第1454号)

 結局JFKの暗殺を計画し、推進したのは、軍産複合体の手先であるCIAとFBI
であり、実際に暗殺を実行したのはマフィアのシンジケートであるといわれています。
さらにもうひとつ陸軍諜報部という組織も一枚噛んでいるのです。
 軍産複合体を中心とするこういう諜報組織は、ちょうど日本の官僚組織のように堅固
な基盤が出来上がっていて、たとえ大統領といえどもその基盤を破壊して改革を進める
ことはきわめて困難なのです。彼らは自分たちにとって都合の良く動いてくれる大統領
をつねに求めているのです。つまり、本当に米国を動かしているのはCIAなどの「見
えざる政府」といっても過言ではないのです。
 しかし、ケネディ大統領は驚くべき不屈な実行力でその基盤を破壊しようとし、弟の
ロバート・ケネディとともに本気で取り組んだのです。それと平行して外交政策では、
ベトナム戦争からの撤退を行うとともにソ連とは融和政策を取り、キューバとさえ関係
正常化の努力を積み重ねて、戦争そのものをなくそうと緊張緩和に努力したのです。こ
れには軍産複合体は強い危機感を抱いたのです。「このままでいくとまずい」と…。
 ケネディ兄弟の父親であるジョセフ・ケネディは、一代で富を築いたやり手であって
息子たち以上にケネディ家から大統領を出したかった人なのです。そのため、目標を達
成するためには手段を選ばずで、JFKを大統領にするためにマフィアの支援をも積極
的に受け入れていたのです。
 ニクソンとの大統領選挙のさい、ケネディは米国史上初のテレビ討論で好印象を与え
たことが勝因であったといわれていますが実際には接戦となった各州においては、マフ
ィアによる力ずくの票の奪い合いが行われていたのです。
 そして、最終的には11万8000票の僅差でケネディが勝ったのです。もし、マフ
ィアが集めたとされる30万票がなければケネディ大統領は誕生していなかったもの
と思われます。
 しかし、大統領になったJFKにはやりたいことが山ほどあったのです。とくに「政
治の信頼性を回復すること」は彼にとって最大の政治課題であり、あの有名な「人民の
人民による人民のための政治」を何とかして実現しようとしたのです。
 そのために「見えざる政府」といわれるCIAを解体させるとともに、時の政権との
癒着を深めようとするマフィアとの関係も断絶するため、弟のロバートを司法長官に任
命して、本気で「マフィア一掃キャンペーン」を推し進めたのです。これではマフィア
としては、裏切られたと思って当然でしょう。
 子供の頃から金に不自由なく育ち、ハーバードで磨き上げられて政界入りしたJFK
には根になる思想というものがあったのです。それが「グレース・アンダー・プレッシ
ャー/圧力の下でも優雅さを保つ」という独特のケネディ・スタイルを生んだといえる
のです。
 歴代の大統領を見ても、そういう独自のスタイルを持っている人が多いのです。フラ
ンクリン・ルーズベルトには東部のエリート社会が背景についていたし、アイゼンハワ
ーには軍部が、ジョンソンでさえもテキサスの封建社会がバックにあったのです。
 しかし、ニクソンにはその生い立ちからいってもそういうもの何もなかったのです。
カルフォルニアで生まれ育ち、ノース・カロライナで教育を受け、ニューヨークで職に
つくというごく普通の人だったといえます。
 そういう人が熾烈な政界で厳しい生存競争に勝ち抜くには、強力なサポートが不可欠
だったのです。そのため、ニクソンはマフィアでも何でも利用できるものはすべて利用
したのです。そういう点では、ケネディの父親ジョセフ・ケネディにその考え方は似て
いるといえます。
 ところで、JFKの暗殺にはニクソンがかかわっているという説があるのです。JF
Kの暗殺をオズワルドの単独犯行であると決めつけたウォーレン委員会のメンバーは、
いずれもニクソンと近い関係の人物で占められ、シンジケートとの仲も古いのです。ニ
クソンは、明らかにマフィアであることがわかる人物からも平気で献金を受けるダーテ
ィーな政治家として知られています。
 このニクソンの評判はすこぶる良くないのです。以下は、米国の著名人によるニクソ
ン評です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   ・ニクソンって奴はペテン師で、とんでもない嘘つきだ。誰でもわかってい
    ることさ。                  ――ハリー・トルーマン
   ・ヤツは絶対に大統領になれん。ヤツを好きな人間はひとりもおらんからだ。
                        ――ドワイト・アイゼンハワー
   ・数ある大統領候補の中でも彼を大統領にするほどキケンなことはない。
                        ――ヘンリー・キッシンジャー
   ・もし、私が大統領として、この国のために何もできなかった としても、
    ディック・ニクソンからこの国を救ったことだけは確かだ。
                          ――JFKの選挙演説より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ニクソンは、1960年の大統領選挙でケネディに破れ、1968年に大統領選に再
挑戦します。このときは、ロバート・ケネディが最後のカルフォルニア予備選でユージ
ン・マッカーシーを破り、民主党候補者の代表を勝ち取っていて、本番ではロバート・
ケネディの勝利は間違いないといわれていたのです。ところがロバートが暗殺され、ニ
クソンはヒューバート・ハンフリーを破って大統領になっています。
 その4年後の1972年は、ニクソン、マクガバン、ウォラスの3人の接戦となった
のですが、ニクソンにとって最大の敵は、彼と政治思想が似ているジョージ・ウェラス
だったのです。無党派層の36%がウォラス支持となり、ニクソンは苦戦を強いられま
す。しかし、ウォラスは選挙運動中に何者かに狙撃され、下半身が不随となって選挙か
ら降りざるを得なくなったのです。ニクソンは2回とも対抗候補への銃撃の恩恵を受け
たのです。                       ・・・ [JFK031]


リチャード・ニクソン元大統領.jpg

2006年09月07日

リチャード・ニクソン黒幕説もある(EJ第1455号)

 『大統領の死』――ウイリアム・マンチェスターという著名な伝記作家で歴史学者の
書いた本です。この本の中で著者は、1963年11月22日――グラスでJFKが
暗殺されたとき、他の政治家たちがどこで何をしていたかについて記述しています。
 それによると、リチャード・ニクソンは、その日の朝ダラスを発ってニューヨークに
向かっていたと書いているのです。しかしウォーレン委員会では、暗殺日前後の政治家
たちの所在を調べているのですが、マンチェスターの指摘とは異なるのです。
 ウォーレン委員会の証拠文献1973号によると、ニクソンは20日にダラスを発っ
てニューヨークに向かっていると記録されているのです。この記録は暗殺の翌年の2月
28日にFBIニューヨーク支局がニクソンに会って事情を聴いており、本人からの回
答であるというのです。
 国際ジャーナリストである落合信彦氏は「JFK暗殺の主犯はニクソンではないか」
という説を立てておられます。落合氏は実際にJFK暗殺事件の関係者に可能な限り会
っており、その分析は実に緻密です。あのギャリソン検事にもインタビューをしている
のです。EJのここまでの記述も落合氏の調査とその分析を参考にさせていただいてい
ます。
 さて、マンチェスターが本に記述しているニクソンの足取りは暗殺日の11月22日
の朝ダラスを出発しているというのに対しウォーレン委員会の証拠文献1973号を
見ると、次のようになっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ≪ウォーレン委員会の証拠文献1973号≫
 1963年にテキサス州ダラス市にいた唯一の日は、ケネディ大統領暗殺のあった
 2日前(の1日のみ)である。
              ――FBIニューヨーク支局副局長ジョン・マローン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 どちらが正しいのでしょうか。本人がそういっているのであるから、20日が正しい
のではないかと普通は考えます。しかし、落合氏はニューヨークにあるアメリカン航空
本社に直接行き、事実を確かめているのです。その結果わかったのは次の事実です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
           ダラス出発日:1963年11月22日朝
           アメリカン航空/ニューヨーク行き82便
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 やっぱりニクソンはウソをついていたのです。FBIが事情を聴取したのは暗殺の翌
年の2月のことですから忘れるはずがないのです。もちろん、ニクソンが暗殺日の22
日にダラスにいたとしても、それをもってニクソンが主犯であるとはいえないことは当
然のことです。しかし、それなら、なぜウソをついたのでしょうか。本当のことをいっ
ても別に問題はないはずです。
 このニクソンのウソを不思議に思った落合氏は、ニクソンのダラスでの足取りを徹底
的に調査しています。そうすると、ニクソンがダラスに来た日が暗殺日の2日前である
11月20日だったことがわかったのです。これでウォーレン委員会の証拠文献197
3号が事実と異なることが証明されたのです。
 それではなぜニクソンはダラスに来たのでしょうか。
 当時ニクソンは、ペプシコーラ社の顧問弁護士をしており、ダラスに行ったのは清涼
飲料業者の大会に出席するためだったのです。このときのニクソンは失意のドン底にあ
ったのです。
 というのは、ニクソンは1960年の大統領選でケネディに敗れただけではなく、1
962年にはカルフォルニア州知事選にも敗北していたからです。つまり、ニクソンは
このとき政治的空白期間にあったのです。
 暗殺日前後のニクソンの行動については別の情報があります。国際ジャーナリストの
浜田和幸氏の最近の著作『黒いホワイトハウス』(祥伝社刊)には次のように記述され
ています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ニクソン大統領は「ペプシコーラ」の社外取締役を務めており、ケネディの暗殺
 の当日、ペプシコーラの社外取締役会がダラスで開催されていた。
  取締役会のあと、引き続いてペプシコーラの全販売店の代表たちが集まる、年一
 回のペプシコーラ全国大会が開かれることになっていたが、それが暗殺事件によっ
 て中止を余儀なくされた。  ――浜田和幸著『黒いホワイトハウス』(祥伝社刊)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、落合氏は22日のアメリカン航空に出向いて、搭乗記録を調べており、22
日の早朝に出発したことは間違いないと考えられます。
 さて、ペプシコーラ社の大会には、ニューヨークのクイーンズ地区にペプシコーラ販
売会社を所有しているエドワード・メイヤーズが来ていたのです。このことから、ニク
ソンとエドワード・メイヤーズは付き合いがあったと考えられるのです。
 エドワード・メイヤ−ズにはローレンス・メイヤーズという弟がいるのですが、その
弟とエドワード・メイヤ−ズの息子のラルフ・メイヤーズの3人がJFK暗殺日の前日
ダラス市内のカバナ・モテルに宿泊していたのです。
 それがなぜ問題かというと、ローレンス・メイヤーズは、あのジャック・ルービー
の友人であり、ラルフ・メイヤーズは陸軍の諜報員だったからです。しかも、暗殺前夜
にメイヤーズ兄弟とラルフ・メイヤーズ、それにジャック・ルービーがカバナ・ホテ
ルで夕食をとっているのです。
 それに加えて、暗殺の前夜そのカバナ・ホテルには、シンジケートのボス、ユージン
・ヘイル・ブレイディングが名前を変えて宿泊していたのです。このような状況から、
JFK暗殺を間接直接に指揮したと見られるグループがすべてダラスに顔を揃えていた
のは注目すべきことです。そして、疑惑の黒幕と見られるニクソンまでダラスにいたの
です。・・・ [JFK032]

落合氏と浜田氏の本.jpg

2006年09月08日

すべてのキーワードはキューバにある(EJ第1456号)

 2004年の米国の大統領選挙――どのような状況になってもブッシュ再選は揺るが
ない――こういわれてきたのですが、終盤において「無線機疑惑」が報道されブッシュ
陣営は一層追い込まれたように見えたものです。
 それでもブッシュ大統領は、自分は必ず再選されるという確信を持っており何ら動揺
を見せませんでした。軍産複合体、ネオコン一派、キリスト教原理主義などなど――
ブッシュ大統領が再選されないと困る団体がたくさんあるからです。このブッシュ陣営
を支える勢力は、かつてケネディに対抗してニクソンを支持した勢力と通じるものがあ
るのです。そして、結果はブッシュ陣営の圧勝でした。
 JFK暗殺に関して書かれている多くの本は、どの本も真実に迫っていないと感じま
す。何しろJFK暗殺の犯人としてオズワルド以外に逮捕されたのはクレイ・ショーだ
けであり、しかも彼は無罪になってしまったからです。
 ケネディ本といわれるほとんどは、ウォーレン報告書をベースにしてその真偽を論じ
たものです。しかし、ウォーレン報告書は真実を伝えていないのです。真相に迫る証拠
はすべて抹殺し、供述調書の改ざんなどもかなり行われているのです。そのようなもの
を下敷きにしても何も見えてこないと考えます。
 その中にあって、一番真相に迫っていたと考えられるのは、落合信彦氏の説だけであ
ると思います。落合氏は、ケネディ暗殺はミクロ的に見つめても、決して究明されない
といっています。彼は、ケネディ暗殺を含む次の3つの事件をつなぎ合わせて初めてそ
の全体的な構図が見えてくるといっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
         ジョン・F・ケネディ 暗殺事件 ・・・ 1963年
         ロバート・ケネディ  暗殺事件 ・・・ 1968年
         ジョージ・ウォラス暗殺未遂事件 ・・・ 1972年
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 落合氏は、これら3つの事件すべてにニクソンがからんでいるのではないかと見てい
るのです。
 ニクソンの立場から考えてみましょう。
 彼は1960年の大統領選挙で負けるとは露ほども考えていなかったのです。19
46年に初めて下院に当選して以来、順風満帆に政界のはしごを登り続けてきていたか
らです。
 しかし、相手は当時無名のJFKです。ニクソンが負けるはずはないと考えても不思
議はなかったのです。とくに激戦だったのはイリノイ州です。その差わずか9000
票――この僅差でケネディにイリノイ州を取られたのです。納得できないニクソンは、
選挙管理委員会に提訴して票の数え直しを求めたのです。委員会ではニクソンの求めに
応じ、票の数え直しをしたのですが、それでも結果は変わらなかったのです。
 ニクソンは次のような人生感を持っていたといいます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        大切なことは、闘技場の外にいる批評家たちや見物客の言葉で
        はない。大事なのは、そこに出て闘い、ノックアウトされても
        最後まで戦い抜く勇気と闘志を持つということである。
                         ――リチャード・ニクソン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 つまり、ニクソンは「人生は闘技場である」と考えているのです。そこには勝利しか
価値はないのです。いかなる方法で相手を倒そうが、また、そのさいに自分が血だらけ
になろうが、勝ちさえすれば、それらはすべて正当化されると考えていたのです。
 こういう人生感を持つニクソンが、勝つために軍産共同体やマフィアやシンジケート
の力を借りても何も不思議はないのです。もし、それでも破れれば、それは選挙の敗北
にとどまらず、人生の敗北につながったのです。
 1960年の大統領選に敗れたニクソンは、その2年後の1962年にカルフォルニ
ア知事選に出馬し、起死回生を図ったのですが、ここでもケネディは現職大統領の人気
と実力をフルに生かして、ニクソンの対立候補であるパット・ブラウンを当選させ、ニ
クソンはケネディに二度にわたって敗れているのです。このような経過を知ると、ニク
ソンとしてはケネディは自分の人生の敵と考えても不思議ではないと納得できます。
 しかし、大統領暗殺などという大それた犯罪をニクソンが一人でやれるはずはないの
です。それにはCIAやFDI、そしてその背後にいる軍産複合体、それにマフィアや
シンジケート――それらの利害が一致したからこそ、JFK暗殺という途方もない国家
的完全犯罪が成立したのです。ニクソンはそれに乗ったに過ぎないのです。
 それにしてもJFKは、国家やマフィアまでを、なぜ、敵に回してしまったのでしょ
うか。ここまでにもその理由についてある程度は述べてきていますが、まだ、十分では
ないと思います。そもそもなぜマフィアが、からんできたのでしょうか。
 JFKのテーマは近く終了しますが、最後にこの点を明らかにしておきたいと思うの
です。結論からいうと、すべてのキーワードは「キューバ」なのです。とくにこの事件
にマフィアが深くからんできた原因はキューバにあるのです。
 1957年のことです。合衆国上院にはマクレラン委員会というものがあり大がかり
な組織犯罪の調査を行っていたのです。この委員会のメンバーの中で最も積極的に動い
たのが、ジョン・F・ケネディ上院議員だったのです。そして、この委員会の首席顧問
として検事役を務めたのが、司法省から派遣されたロバート・ケネディだったのです。
                        ・・・ [JFK033]

暗殺されたロバート・ケネディ.jpg

2006年09月11日

労働組合IBTとマフィアの関係(EJ第1457号)

 マクレラン委員会が最初に手をつけたのは、労働組合の腐敗を調査することでした。
最大の標的は米国一のメンバーシップを誇るチームスター・ユニオンであり、そのトッ
プに君臨するジミー・ホッファ委員長だったのです。
 チームスター・ユニオンは正式には国際トラック運転手労働組合――IBTというの
ですが当時のメンバー数は250万人をはるかに超えていたのです。IBTは次の省略
です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
         IBT=International Brotherhood of Teamsters
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 どうして労働組合がマクレラン委員会の標的になったのでしょうか。それはマクレラ
ン委員会の目的が組織犯罪の撲滅にありIBTがマフィアとひどく癒着していたからで
す。
 なぜ、労働組合がマフィアと癒着するのでしょうか。それは、IBTの持つ巨額な資
金――そのほとんどは年金基金にあったのです。
 ジミー・ホッファが委員長のときにIBTは年金制度を導入し雇用者は労働者一人当
たり2ドルを毎週払い込むようになったのです。当初は1ヶ月当たり払い込み額は80
万ドル程度だったといわれていますが、組合員の増加によってその額は急激に膨れ上が
り、1960年代半ばには月に600万ドルを超えるレベルに達していたのです。
 一般的にいってこの種の基金は銀行に委託され、公債の購入などによって利子を積み
重ねるという堅実な運用が行われるのがつねなのですが、ホッファは自らが銀行になっ
て、直接IBTの利益につながる企業や個人に貸し付ける方が有利であると判断したの
です。当初ホッファの運用は好調で組合員の多くは「ジミーにまかせておけば安心」と
いう信用が生まれたのです。ホッファは典型的なカリスマ型のリーダーだったといえま
す。
 当時ホッファにはアレン・ドーフマンという忠実な専従がおり、彼はIBTの健康保
険や障害保険の保険料管理と運用をまかされていたのです。このドーフマンが関与する
保険企業――アマルガメイテッド・インシュアランス・エイジェンシーが莫大な年金基
金の投資先に選んだのがラスベガスなのです。
 ここからIBTとマフィアの親密な関係が生まれることになるのです。ラスベガスの
カジノ・ホテルの建設資金をIBTが融資して、仲介のドーフマンは多額のリベートを
受け取り、そのかなりの部分が裏金としてホッファに還流するかたちの腐敗の回路が形
成されていったのです。
 スターダスト、フリーマント、デザート・イン、デューンズ、アラジン、シーザース
バレス、サーカス・サーカスなどの有名なガジノ・ホテルは、すべてIBTの年金基金
からの融資を受けていたという事実があるのです。
 マクレラン委員会を通じてのケネディ兄弟とIBTのジミー・ホッファとの因縁の対
決は、ケネディが大統領になったときに頂点に達するのです。
 ロバート・ケネディは、マクレラン委員会で得た情報に基づきホッファを法廷に引き
ずり出すことに成功します。そして、ホッファを背任横領罪で起訴するのですが、もち
ろん、ホッファも全力で防御したのです。結果は陪審員の意見が分かれて未決となりホ
ッファは放免されます。しかし、こんなことであきらめるようなロバート・ケネディで
はないのです。
 ロバートは陪審員の意見が分かれた原因を追究し、その裏に陪審員へのホッファの脅
迫と猛烈な買収工作があったという事実を掴み、再び彼を法廷に引きずり出したので
す。そして、陪審員工作罪で8年間刑務所に送ったのです。
 日歯連事件で甘さを見せる日本の検察と違って、ロバートの追求は「悪は絶対に許さ
ず」という強い信念に基づいており、一般米国民からは大喝采を浴びたのですしかしそ
の一方で、ホッファをはじめとするIBT幹部やマフィアからはケネディ兄弟は憎悪の
対象となったのは当然といえるでしょう。
 しかし、このホッファは1971年に恩赦で解放されてしまうのです。この決定をし
たのは他ならぬ当時の大統領リチャード・ニクソンだったのです。
 しかし、悪いことはできないもので、ホッファは1975年7月30日に行方不明に
なり、今もってそのままです。また、そのホッファの下でエージェントとして縦横にウ
デを振るったアレン・ドーフマンは、1983年1月に何者かにピストルで射殺されて
いるのです。マフィアと付き合う者の末路はこうなるのです。
 続いて、マフィアのことを述べなければならないと思います。EJのテーマとしてJ
FK暗殺事件を取り上げようとしたとき、次の2つの方針を立てたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        1.マフィアやシンジケートのことには触れない。
        2.JFKにまつわる女性の問題には言及しない。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、分析を進めるうちに、1のマフィアに関してはそれを避けると、なぜ、ケネ
ディ兄弟が暗殺されたのかについての謎を解明できないことがわかったのです。
 国家権力が存在するためには、洋の東西を問わず、国家権力は裏の世界の実力者とつ
ながるものなのです。日本においてもよく「影の実力者」という言葉が使われています
が、この影の実力者が裏社会の実物であることは多いのです。
 1940年代初頭の米国の場合、マフィア組織と国家権力――とくにCIAとのつな
がりはかなり古く、それはCIAの前身であるOSSの時代までさかのぼるのです。
 1950〜60年代のマフィアやシンジケートについて述べるとき、キューバを抜き
には語れないのです。そして、このキューバ問題が結果とてしてケネディ兄弟の命を奪
ったのです。                     ・・・・ [JFK034]

2006年09月12日

キューバ問題がマフィアに与える影響(EJ第1458号)

 キューバは1492年にコロンブスの第1回の航海のときに発見された島です。以来
1902年までスペインの植民地だったのですが、米西戦争の米国勝利によって190
2年5月20日に独立しています。しかし、それはスペインに代わる米国による支配の
はじまりだったのです。
 米国は、独立は認めるが、米国による内政干渉権やキューバ各地に米国の軍事基地を
置くことを認めさせたのです。これでは本当の独立とはいえず、実質的な米国支配が続
きます。そして米国支配はフルヘンシオ・バチスタがクーデターで政権を奪取した19
52年に頂点に達するのです。
 このバチスタ政権は、米国政府、米国企業、マフィアと組んで富を独占し、大量の富
が米国に流れる仕組みを作ったのです。このバチスタのバックにいて、政権奪取を支え
たのがメイヤー・ランスキーという人物です。
 1920年代から30年代にかけて米国のマフィア組織はファミリーと呼ばれるグル
ープに分かれてお互いに反目し合っていたのです。これを強烈なリーダーシップでひと
つにまとめて組織化したのが犯罪組織の帝王と呼ばれるメイヤー・ランスキーだっので
す。
 ランスキーが組織化したマフィア組織は、防諜工作や港湾設備の共同作業においてC
IAに接近しCIAも各国との裏面工作にマフィア組織を活用するようになっていった
のです。そういう背景もあって、CIA(米国政府)はキューバのバチスタ政権樹立と
いう功績のあるメイヤー・ランスキーにキューバにおける利権のほとんどをまかせたの
です。かくして、カジノ、麻薬、売春などマフィア組織にとってはキューバは「金の成
る木」になったのです。しかも、メイヤー・ランスキーはそれを一人占めにせず、当時
国外追放の身であったラッキー・ルチアノや南部を押さえていたカルロス・マルセロ、
マイアミのボスであるサントス・トラフィカンテにも参加するよう呼びかけたのです。
 このようにキューバはランスキーによってギャンブル天国化したのですが、彼はさら
にキューバをヘロインの中継基地としても育て上げているのです。それまでヘロインは
フレンチ・コネクションといわれるフランス経由が中心だったのですが、取り締りが厳
しくなっており壊滅寸前だったのです。そのため、このハバナ・マイアミルートは脚光
を浴びたのです。
 1957年の段階で、ハバナの裏社会はランスキーを頂点とする強力なシンジケート
によって独占され、彼らに驚くべき利益をもたらしたのです。つまり、マフィアにとっ
てキューバ問題とは自らの死活を制する問題だったのです。
 このようなキューバの状態を憂い、半植民地化の克服を夢見てある若き弁護士が立ち
上がります。その弁護士こそフィデル・カストロであり、一時は逮捕・投獄されますが
恩赦によって出獄すると今度は反政府組織「7月26日運動(M26)」を結成し、メ
キシコに亡命します。
 このメキシコの地で、カストロはアルゼンチンの医師チェ・ゲバラと出会うのです。
そして高度なゲリラ戦闘訓練を受け、1956年12月にヨット「グランマ」号に乗っ
てキューバに上陸し、シエラ・マエストラ山脈を拠点として政府軍を相手に2年間にわ
たってゲリラ闘争に明け暮れたのです。
 マフィアたちは、はじめはカストロによる政権転覆行動を軽く見ていたのです。まさ
か、バチスタ政権が倒れるはずがないと考えていたのです。しかし、1959年1月に
そのまさかが現実化してしまうのです。
 カストロによる革命政権ができる直前、危険を感じてメイヤー・ランスキーは米国に
逃れたのですが、キューバ利権を温存するため、弟のジェーク・ランスキーとサントス
・トラフィカンテはあえてキューバに残しておいたのです。
 そして予想通りカストロはジェークとトラフィカンテを投獄したのですが、その理由
は彼らがシンジケートのボスであったことではなく、バチスタと親密な関係ということ
で捕えたのです。そのためか、キューバの刑務所での待遇はかなり良好であったといい
ます。キューバを制圧した時点でカストロは、キューバを共産化するつもりはなかった
のです。したがって、シンジケートに対して寛容な態度で望み、彼らの商売は自由に続
けられていたのです。それどころか、カストロは部下のひとりをギャンブル監督官とし
て任命して何かと便宜をはかったのです。この監督官に任命された人物はフランク・ス
タージェスというのです。このフランク・スタージェス――のちにウォーターゲートの
犯人の一人として逮捕されているのです。カストロの部下がなぜニクソンの腹心なので
しょうか。一体ウォーターゲート事件とは、何だったのでしょうか。これについてはあ
とで触れます。
 もうひとつカストロにとらわれていたサントス・トラフィカンテとジェーク・ランス
キーのところに頻繁に訪れていた人物がいるのです。その人物こそJFK暗殺事件の実
行犯の一人ジャック・ルービーだったのです。このようにキューバ問題に登場する人物
は、何らかのかたちでJFK暗殺事件にからんでいるのです。
 メイヤー・ランスキーは全米のシンジケートを集めてカストロの首に100万ドルの
賞金をかけ、亡命キューバ人に対し、武器、弾薬、財政援助などの積極的な支援を行い
ます。これにCIAがからんでいることについて既に述べた通りです。
 この支援を受けて亡命キューバ人たちはそれらの武器を使ってキューバに対し、連日
のように攻撃を行ったのです。しかし、この作戦は裏目に出てしまうのです。カストロ
は、この攻撃のバックには米国がいると見抜き、当初は考えていなかった共産化を急速
に進めようとします。そして国内の外国企業の共有化を推進したのです。これは、シン
ジケートにとって、キューバ利権のすべてを失う大打撃となったのです。  ・・・
[JFK035]

キューバ共和国.jpg

2006年09月13日

なぜ、3者の利害は一致したのか(EJ第1459号)

 共産化をはじめたキューバ政府は投獄していたマフィア幹部――サントス・トラフィ
カンテやジェーク・ランスキーを合衆国に強制送還し、永久追放処分にします。これ
にメイヤー・ランスキーは激怒し、全米のシンジケートのドンを集めて会合を開き、カ
ストロの首に100万ドルの賞金を賭けたのです。
 さらに、キューバ政府は、国内からの米国企業の排除を加速させたのです。米国資本
の石油精製会社、製糖会社、電話会社、銀行・商業・工業の大企業を続々と国有化をは
じめたのです。さらに、コカコーラ、グッドイヤー、ユナイテッドフルーツ、ジェネラ
ルフーズ、プロクター&ギャンブル社などの財産も国有化されてしまったのです。
 これらは軍産複合体の中堅を占める企業なのです。軍産というと、ロッキードやジェ
ネラル・ダイナミックスを想像しがちでですが、タイヤ会社や食糧、飲料会社にとって
軍はつねに安定した消費を提供する最高の市場なのです。これらの大企業がカストロに
よって没収された財産は7億ドルに近かったのです。
 しかし、シンジケートにとっては7億ドルどころではなかったのです。シンジケート
が蒙った損害はギャンブルの上がりだけでも年間1億ドル、全カジノの没収、売春やヘ
ロインからの上がりを入れると年間数十億ドルの額にのぼったのです。
 これらの額もさることながら、ランスキーやマルセロにとって最も痛かったのは、せ
っかくの東南アジアからのヘロインの中継基地としてのハバナが使えなくなってしまっ
たことなのです。麻薬ルートを再検討しなければならなくなったからです。
 さて、数多くの企業を国有化されるという事態に、米国政府もキューバとの外交を断
絶したり、輸入を禁止するなどの対応策をとることになります。この時点で、米国政府
とマフィア組織との利害は一致してくるのです。
 ときあたかも大統領選の最中であり、ニクソンとケネディが激しい選挙戦を展開中だ
ったのです。ニクソン、ケネディ両候補ともスローガンとして「カストロ打倒!キュー
バ解放」を掲げていたので、シンジケートとしては、ニクソン、ケネディのどちらが勝
ってもよかったのです。キューバ進攻を実現し、自分たちが築いた利権を取り戻してく
れる政権を心から望んでいたのです。そのため、この大統領選挙へのマフィア組織の肩
入れは、それこそ尋常ではなかったのです。
 その一方でCIAが主導して、カストロ暗殺計画の推進とともに、ピックズ湾進攻作
戦の準備は着々と進められていたのです。もちろん、ニクソン勝利の前提ではありまし
たが・・・。しかし結果はケネディの勝利――それでもCIAも、マフィア組織も、ス
ローガン通り、ケネディ大統領は作戦遂行の先陣に立って作戦を推進してくれると思っ
ていたのです。
 しかし、既に述べたように、ピッグス湾作戦でケネディは先陣に立つどころか、正規
軍の投入を拒否して作戦は失敗してしまう始末です。これはCIAやマフィア組織にか
ら見ると、大統領の完全な裏切り行為であると感じたはずです。
 それだけではないのです。こともあろうにJFKはキューバを支援するソ連と融和策
を取り、それをキューバにまで適用しようとしていたのです。ケネディにこの決心をさ
せたのは1962年10月のキューバ危機だったといわれています。フルシチョフとの
ぎりぎりの折衝でこの危機を乗り切ったJFKはソ連との平和共存を画策したのです。
全世界はこれを歓迎し、恒久的平和の到来を夢見るようになったのです。
 さらにJFKは本気でベトナムからの撤退を検討しはじめるのです。これはメイヤー
・ランスキーを頂点とするシンジケートにとってとうてい耐えられるものではなかった
のです。なぜならキューバに戻る夢を絶たれ、ヘロインのハバナルートも使えなくなり
さらにベトナムからの撤退によって、密輸の母港であるサイゴンまで手離すことになる
かもしれないのです。
 さらに、マクレラン委員会で得た情報をベースにして、JFKは弟のロバート・ケネ
ディ司法長官と組んで、マフィア組織の壊滅にまで乗り出したのですから、ケネディ兄
弟が彼らの憎悪対象となっても不思議はないといえます。
 別の意味において、軍部、CIAにとっても同じ思いだっといえます。彼らにとって
ソ連と融和政策を取るなどの共産主義を容認するがごとき政策は絶対容認できないこと
に加えて、産業界にとっても平和は好ましい事態ではないのです。同じ平和といっても
自国の平和が揺るぎない条件下での緊張状態が好ましい事態なのです。かくして、シン
ジケート、軍産複合体、CIAの利害は完全に一致したのです。ケネディが大統領にな
る前CIAとシンジケートのジョイント・オペレーション「カストロ暗殺画」が練られ
ており、実行に移されたのですが、成功していなかったのです。この計画ではカストロ
を射殺するのではなく、毒殺する計画であり、実際に薬まで用意されていたのです。
 軍産複合体のトップの間で密かにJFK暗殺の計画が練られたとき、その具体的な実
現手段として浮上したのは、既に出来上っていた「カストロ暗殺計画」だったのです。
そのとき、アレン・ダレスは既にCIAを去っていたのですが、彼の腹心のリチャード
・ヘルムズがCIAの作戦部長を務めており、ヘルムズがこの作戦遂行の中心になった
と考えられるのです。時のCIA長官はケネディが任命したマコーンが務めていたので
すが、彼はつんぼ桟敷に置かれていたのです。
 「カストロ暗殺計画」を使ってJFKを暗殺する――計画のターゲットをキューバ
首相からJFKに切り換えれば、計画はそのままで機能するのです。この計画は、軍産
複合体の企業のトップであるハワード・ヒューズとダラスの石油成金H・L・ハントに
も伝えられているはずです。ハワード・ヒューズとH・L・ハントはいずれもその政策
によってケネディ政権に強く反発していた人物なのです。 ・・・ [JFK036]


フィデル・カストロ.jpg

2006年09月14日

ニクソンとジャック・ルービーの関係(EJ第1460号)

 JFK暗殺、いやケネディ兄弟暗殺といいかえましょう。このケネディ兄弟暗殺にニ
クソンが深くからんでいる――この説を公式に発表しているのは、私の知る限り落合信
彦氏だけです。しかし落合氏もニクソンを主犯と断定しているわけではなく、その可能
性があるという表現にとどめています。
 そこで、ニクソンについて情報を集めてみたのです。そうすると、ニクソン関与説を
裏付ける事実が明確に浮かび上がってきたのです。もちろんニクソンが直接暗殺計画を
立てたわけでも、手を下したわけでもないのですが、ニクソンは少なくともケネディ兄
弟暗殺に無関係であるとはいえないのです。
 10月15日のEJ第1455号で、1963年11月22日にニクソンがダラスに
いたことについて述べています。その前日の21日、エドワード・メイヤーズと弟のロ
ーレンズ・メイヤーズ、息子で陸軍諜報員であるラルフ・メイヤーズの3人とジャック
・ルービーがカバナ・ホテルで夕食の卓を囲んでいるということも書いています。これ
は、落合氏の情報です。
 ニクソンはペプシコーラ社の役員ですからペプシ社の大株主であるエドワード・メイ
ヤーズを知らないはずはないのですが、オズワルドを射殺したジャック・ルービーを知
っていたとは思えないのです。まさか、副大統領であり、大統領候補であるニクソンが
シカゴのギャングに過ぎないジャック・ルービーと面識があるとは思えないでしょう。
 ところが、それがあるのです。
 その関係を発見したのはマサチューセッツ州ウスターにあるホーリーカレッジ政治学
部のトローブリッジ・フォード助教授なのです。彼が1975年に機密解除された膨大
なFBI資料を点検していたところ、面白い文書を発見したのです。
 それは1947年のFBIの文書の中にあったのです。マフィアの行動を調査してい
たFBIの係官が、ニクソン共和党下院議員のワシントン事務所に、シカゴのジャック
・ルーベンシュタインなる人物が頻繁に出入りし、情報を提供している事実を報告して
いるのです。このユダヤ系の名前を持つチンピラやくざは、その年の暮れにはシカゴを
引き払ってダラスに移り住んでおり、通称ジャック・ルービーと名乗るようになったと
いうのです。
 フォード助教授がFBIに照会したところ、FBIから「これは偽造文書であった」
との回答が寄せられたそうです。これはおかしな話です。当時のFBI係官の宣誓まで
ついた報告書を、十分審査のうえ機密解除しておきながらそれを「偽造文書」とはよく
いったものです。
 おそらくニクソンは、共和党の下院議員のときからルービーのような人間を使って、
さまざまな情報を探らせていたものと思われます。そのような体質の人間であるからこ
そ、あのウォーターゲート事件を引き起こしたのです。
 ちなみに、フォード助教授は、その後も調査を続け、この報告書は本物であるとの確
証を得ているそうです。1946年に33歳で下院議員に当選してから1974年8月
の大統領辞任までの28年間に及ぶニクソンの政治経歴を調べた結果、政治献金とそれ
に対する見返りといったかたちでの暗黒街との関係が色濃く浮かび上がってきたとフォ
ード助教授はいっているのです。
 ニクソンが下院にはじめて打って出たとき、多額の政治献金を贈った人物がいます。
その人物の名はミッキー・コーエン――ロサンゼルスを根城とするマフィアのドンなの
です。ニクソンとコーエンを結びつけたのは、マレー・チョットナーという弁護士であ
り、のちにニクソンの側近の一人となっています。この弁護士が取り扱うケースのほと
んどは、マフィア・メンバーの弁護だったというのです。
 1960年の大統領選――ニクソンとケネディの対決のときはマフィアのシンジケー
トとしては、どちらが大統領になってもよいように両方とも支援したのです。ケネディ
に対しては、シカゴ地区のマフィアの巨頭サム・ジアンカーナが共通の友人であるフラ
ンク・シナトラを通じて、JFKの父ジョセフ・ケネディに巨額の政治献金を行うとと
もに集票に全力を尽くしたのに対し、ニクソンに対しては、ニューオーリンズの首領カ
ルロス・マルセロがその役割を担当したのです。
 ニクソンの場合はチームスター・ユニオンの委員長であるジミー・ホッファが一枚噛
んでおり、彼の腹心で後に重要な告発者になるエドワード・パーティンという人物が次
のように証言しているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  私はこの話し合いに出て会話を聞いていた。マルセロは50万ドルの現金をスーツ
 ケースに詰めており、この金はニクソンへ行くことになっている。ニクソンに対して
 は全部で100万ドルの政治献金が行われることになっていて、残金ニュージャージ
ーとフロリダの連中から出る予定である。
                          ――エドワード・パーティテン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 集票に関しては、チームスター・ユニオンが全面的に支援に動いています。ホッファ
の指揮のもと、労組副委員長のトニー・プロベンザノ、労組の財政担当のアレン・ドー
フマン、南部カルフォルニアのマフィア幹部ジョン・アレッシオがニクソン支持で動い
たのです。まさに、労組、マフィア一体の選挙です。
 1960年の選挙のときはニクソンは敗れましたが、1969年1月にニクソンがホ
ワイトハウス入りすると、選挙参謀でニクソン腹心のチョットナーは大統領特別補佐官
として大統領官邸に部屋を与えられています。
 このようにして、チョットナーの顧客でもあったマフィアの巨頭たちは彼を通じてニ
クソン政権に深く食い込むことになったのです。しかも、ニクソンはJFKと違って、
彼らにあらゆる面で協力してくれたマフィアの巨頭たちに対して、公然と「義理」を果
たしたのです。                 ・・・[JFK037]

サム・ジアンカーナ.jpg

2006年09月15日

ケネディ研究家が疑うニクソン関与(EJ第1461号)

 7月26日のEJ第1424号からスタートした「JFK暗殺事件」テーマは今日で
38回目です。いままでの最長記録になると思いますが、このテーマは来週で終了しま
す。大詰めです。
 JFKは、1960年の大統領選挙において、シカゴ・マフィアのドンであるサム・
ジアンカーナから、父親のジョセフ・ケネディを通じてではあるが、多額の政治献金を
受け、選挙でも集票において多大の協力を受けています。
 このことをケネディ兄弟は当然知っていたはずです。しかし、大統領になると、ケネ
ディ兄弟は政治を人民の手に取り戻すため自らが正しいと信ずる政策を強力に推し進め
るとともに、マフィアやシンジケートの解体に着手したのです。たとえマフィアに裏切
り者として命を狙われようとも、敢然としてそれを実行したわけです。
 これに対してニクソンは、たとえマフィアであっても、助けてもらった義理はそれが
できるようになった時点で、きちんと返しているのです。いくつか例をあげてみましょ
う。
 ロバートケネディ司法長官の率いる司法当局によって逮捕され、2年間の刑に服して
いたカルロス・マルセロに対してニクソン大統領は、親しいフーバー長官に特別の要請
をして、マルセロの刑期を4分の1の6ヶ月に減刑させています。しかも、その6ヶ月
も健康上の理由ということで、連邦受刑者病院で優雅に過ごせるよう配慮しているので
す。マルセロには多額の政治献金をしてらっているからです。
 マルセロは、1971年3月に釈放されますが、彼はやはり司法当局によって捕らえ
られ、13年の刑に服していたジミー・ホッファの釈放をニクソン大統領に働きかけま
す。これに対してニクソンは、1971年12月、ホッファの刑期を5年に減刑したう
え、クリスマスに間に合うよう仮釈放の措置をとっているのです。ホッファには、チー
ムスター・ユニオンを挙げて選挙に協力してもらったからです。
 しかし、ニクソンがそういう政治家であったとしても、まさかニクソンがケネディ兄
弟の暗殺にかかわっているとはほとんどの人は考えていないはずです。しかし決定的証
拠はないものの状況的にはきわめて疑わしいのです。
 1972年になって、JFKの暗殺にニクソンがからんでいるのではないかという噂
が米国に多数いるといわれるケネディ研究家たちの間で突如出てきたのです。1972
年というと、あのウォーターゲート事件が発覚して世間が騒然としていた時期に当りま
す。
 それは、ウォーターゲート事件の実行犯として、次の3つの名前が取り沙汰されたこ
とによります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
             1.フランク・スタージェス
             2.ハワード・ハント
             3.バーナード・バーカー
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これらの3人は、ウォーターゲート事件の逮捕者ですが、ケネディ研究家たちは、こ
れらの名前が出たとき驚愕したというのです。なぜなら、彼らはいずれもピッグズ湾作
戦に関わりがある人物であり、それはそのままJFK暗殺事件にも関係してくるからで
す。1人ずつ説明していきます。
 フランク・スタージェス――この名前は、EJ第1458号に既に登場しています。
そう、カストロによってギャンブル監督官に任命された人物です。スタージェスはカス
トロのゲリラ活動に参加して、カストロとともに革命を闘ったのです。
 しかし、カストロはソ連に接近し、米国に対抗するためにカジノを国有化したので、
スタージェスはギャンブル監督官の役職を失うのです。そのスタージェスに目をつけた
のがシンジケートです。カストロに近いことを利用してカストロの暗殺をひそかにスタ
ージェスに頼んだのです。
 しかし、これに気がついたカストロは、スタージェスを逮捕して処刑しようとするの
ですが、逮捕される直前にスタージェスは盗んだB25でキューバを脱出してフロリダ
に逃れます。彼はパイロットなのです。そこで彼は「カリブ海反共連盟」を結成し、反
カストロ運動を展開しはじめたのです。その運動のスポンサーがシンジケートとCIA
なのです。
 スタージェスは毎日のようにキューバ上空を飛び、反カストロのビラを撒き続けたの
です。そして、グァテマラで亡命キューバ人パイロットを訓練したのです。
 ここで思い出されるのがデビット・フェリーです。彼もその頃グァテマラでキューバ
人パイロットの訓練に当っていたので、スタージェスとフェリーは知り合いであったは
ずです。
 しかし、ピッグズ湾作戦は失敗に終わり、彼はこのときピッグズ湾に上陸した亡命軍
を手ひどくたたいたカストロと米空軍の援護助を与えなかったJFKをひどく憎んだの
です。そして、その後もスタージェスはカリブ海反共連盟の活動を続けます。
 ところが、1962年のキューバ危機で、ソ連がキューバから攻撃用ミサイルを撤去
する代わりに、JFKは、米国における反カストロ運動をやめるとフルシチェフに約束
します。そしてこの約束を履行するため、司法省はロバート・ケネディの指令のもとに
反カストロ運動をしている諸団体をかたっぱしから、たたきはじめたのです。
 その最初のターゲットになったのが、スタージェスのカリブ海反共連盟です。スター
ジェスは、パイロット・ライセンスを取り上げられ運動の継続はできなくなってなって
しまったのです。
 スタージェスの憎悪は当然ケネディ兄弟に向けられます。CIAがこれを見逃すはず
はないのです。その結果、スタージェスはクレイ・ショー、デビット・フェリーなどと
一緒にCIAの手先となって、ケネディ兄弟の暗殺に向けて活動をはじめることになる
のです。                        ・・・ [JFK038]

〓〓〓〓E〓〓[×〓〓.jpg

2006年09月19日

複数のハントが登場するJFK暗殺事件(EJ第1462号)

 ウォーターゲート事件の実行犯として逮捕された3人のうち、フランク・スタージェ
スについてについては説明を終わっています。続いて、ハワード・ハントについて述べ
ます。
 ケネディ大統領暗殺事件を調べていくと、「ハント」と名乗る人物が何人か登場しま
す。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
                 E.H.ハント
                 H.L.ハント
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここで問題としているのは「E.H.ハント」の方ですが最初に「H.L.ハント」
について説明します。H.L.ハントは、ミシシッピ川に浮かぶ遊覧船のギャンブラー
から身を起こし、石油によって世界で2番目の金持ちに成り上がった立志伝中の人物で
す。石油王といわれていた人です。
 それでは、H.L.ハントがJFK暗殺に無関係かというとそうではないのです。彼
の政治思想は自他ともに認める超保守主義であり、ダラスにある数々の右翼団体に財政
的援助を与えていたのです。ハントの本拠もダラスにあるのです。
 H.L.ハントは当然のことながらシンジケートともつながっており、あのジャック
・ルービーとも面識があるのです。ウォーレン委員会証拠書類2270によると196
3年11月21日――ニクソンをはじめペプシ社関係者JFK暗殺にかかわったとされ
るほとんどの人物がダラスに集結した日、ルービーはハントの本社を訪ねているので
す。したがって、H.L.ハントは明らかに、JFK暗殺に無関係ではないのです。
 E.H.ハント――この人物はJFK暗殺にはもちろんのことウォーターゲート事
件に深くからんでいます。ところでひとつ分からないことがあります。というのはE.
H.ハントのEは落合信彦氏によると「エベレット」であるとしているのに対し、私の
調べたデータでは「エドワード」となっていることです。どうでもよいことではありま
すが、同一人であることだけは間違いないのです。なお、E.H.ハントについてはE
J第1447号で取り上げていますがそのときは落合氏のいう「エベレット」と書いて
います。
 このE.H.ハントは、ニクソン大統領下のホワイトハウスで働き、ウォーターゲー
ト事件において、侵入、共謀および盗聴の有罪判決を受け、刑務所で33ヶ月にわたっ
て服役しています。
 ところで、このハワード・ハントはホワイトハウスで何をやっていたのでしょうか。
 彼のやっていた仕事は「鉛管工」なのです。といっても文字通りの鉛管工ではなく、
CIAの秘密工作班です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
            鉛管工 = plumber ――情報漏れを防ぐ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このハワード・ハントはニューオーリンズに拠点を持っています。その拠点とは「5
44キャンプ・ストリート」です。この名前で何かを思い出しませんか。
 そうです。ガイ・バニスターが探偵社を持ち、キューバ革命委員会のあるあのビルで
す。そのビルには、フェリー、クレイ・ショー、オズワルドが出入りしていたのです。
ここは、CIA工作員の巣窟なのです。
 もともとニューオーリンズには、複数の反カストロ団体があったのですが、横の連絡
は一切なく、バラバラだったのです。そこで、そのための調整役としてCIA本部から
回されてきたのが、ハワード・ハントとバーナード・バーカーだったのです。そして作
り上げたのが、キューバ革命委員会です。このようにして、JFK暗殺事件とウォータ
ーゲート事件の実行犯は「544キャンプ・ストリート」というビルでひとつに重なる
のです。そして、そのウラのウラにはニクソンがいる――決して荒唐無稽な推理ではな
いと思うのです。
 ところで、このハワード・ハントは、CIAの仕事に加えてスパイ小説の作家として
も知られているのです。しかし、このハントは大変なワルでニクソンを恐喝しており、
ニクソンはそれに応じているのですが、これについてはあとで述べます。
 最後は、バーナード・バーカーです。しかし、バーカーについてはハントとともにホ
ワイトハウスの鉛管工の一人であり、ウォーターゲート事件の実行犯の一人であるとい
う以外には、あまりよくわかっていないのです。
 フランク・スタージェス、ハワード・ハント、そしてバーナード・バーカー――これ
ら3人について述べたのは、3人がJFK暗殺にかかわっているか否かの解明のためで
す。ポイントは、暗殺日当日に彼らがどこにいたか、つまりアリバイです。もし、当日
にダラスにいたとしたら、重大疑惑ということになります。
 なぜなら、これによってJFK暗殺事件とウォーターゲート事件はつながってしまう
ことになるからです。そうすると、これらの歴史的事件の黒幕としてリチャード・ニク
ソンが浮上してくることになります。
 バーナード・バーカーについては、JFK暗殺日に事件現場にいたことが確認されて
います。これについては、EJ第1441号の終わりの方を読み直していただきたいの
です。
 事件現場の木の生い茂った丘の方から銃声が聞こえたので、セイモア・ワイズマンと
いう警察官がそこに駆けつけたところ、1人の男がいたのです。その男はシークレット
・サービスの証明書をワイズマンに見せて「ここは大丈夫です。何事もなかったです」
といったのです。
 しかし、この男はシークレット・サービスではなく、ニセ者と判明します。そして、
後になってワイズマンはその男がバーナード・バーカーであると証言したからです。つ
まり、バーカーはきわめて疑わしいポジションに暗殺日当日いたことになります。他の
2人――ハントとスタージェスについては明日述べます。・・・・ [JFK039]

ハント/バーカー.jpg

2006年09月20日

第2のJFK裁判というものがある(EJ第1463号)

 ハワード・ハントとフランク・スタージェス――この2人が暗殺日の1963年11
月22日にダラスにいたかどうかです。このアリバイについて知られざる裁判が繰り返
し行われたのです。
 J・ウェーバーマンとマイケル・キャンフィールドという人がいます。彼らは熱心な
ケネディ事件研究家なのですが、1972年になって、ある写真と共に重大な声明を行
ったのです。72年といえば、ウォーターゲート事件がすべて表沙汰となり、実行犯が
起訴された年です。この写真については、添付ファイルを参照していただきたいと思い
ます。
 この写真は、1963年11月22日、事件直後にデイリー広場の裏手鉄道操車場に
止まっていた貨車の中から3人の浮浪者が発見され、不審人物として連行されたときの
写真です。しかし、この写真は、別に目新しいものではなく、事件関係写真のひとつと
してそれまでとくに注目されてはいなかったのです。
 それでは、ケネディ事件研究家たちは一体何を問題にしたのでしょうか。
 それは、この写真に写っている2人がウォーターゲート事件で逮捕されたハワード・
ハントとスタージェスに似ているという事実なのです。浮浪者の一番後方の帽子をかぶ
っているのがハントであり、真ん中の大男はスタージェスにそっくりです。
 それに加えて、一番前を歩く男は、暗殺前にダラス市のあちこちに出没したオズワル
ドのニセ者ではないかという証言まであらわれたのです。これが正しいとすると、やは
り、ウォーターゲート事件の実行犯であるハワード・ハントとスタージェスはJFK暗
殺の当日に現場にいたことになるのです。しかも、ニクソンまでダラスにいたことは確
実であり、ニクソン黒幕説は信憑性を帯びることになります。
 この写真の件は、ニクソンが辞任に追い込まれたあとちょっとした騒ぎになり、時の
フォード大統領は、ロックフェラー委員会に何とか噂を鎮めてくれるよう要請していま
す。このフォード大統領はニクソンに対し、「全面、自由、絶対的な恩赦」を与えた人
物であり、何とか穏便に幕引きを図りたかったのでしょう。
 その期待に応えてロックフェラー委員会は、FBIの報告をうのみにして、次の結論
を出して幕引きをしようとします。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     この「浮浪者」のいずれかが、ハントあるいはスタージェス
     の名で通っているという証人はいないし、同一人物であること
     を証明しようと名乗り出る専門家もいない。
                     ――ロックフェラー委員会
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、このロックフェラー委員会の決定にもかかわらず、これはある連続裁判を引
き起こしたのです。この裁判は、ギャリソン検事によるクレイ・ショー裁判以来の実質
的なケネディ暗殺事件裁判になったのです。
 2人のケネディ事件研究家による写真告発に対してハワード・ハントは直ちに訴訟を
起こしたのです。訴訟罪名は「名誉毀損」であり、この裁判は「サード・プレス裁判」
と呼ばれたのです。
 この裁判は1978年に原告ハントの一方的な勝訴に終わったのです。しかし、それ
を待っていたかのように1978年8月14日にマイアミの地方紙である「スポットラ
イト」に「CIAハントのケネディ暗殺関与を確認へ」という記事が出たのです。
寄稿者は、ビクター・マーチェッティ――約20年間米国の諜報活動に従事しそのうち
の14年間はCIAにその籍を置いており、しかも最後の3年間はリチャード・ヘル
ムズCIA長官の補佐官をしていたのです。
この記事の書かれた1978年3月〜8月という時期は、ちょうど1977年に発足し
た「米下院暗殺問題調査特別委員会」の活動がピークを迎えていたときだったのです。
この記事に対してもハワード・ハントは罪名「名誉毀損」で訴訟を起こしたのです。
そして、1981年12月、マイアミ地方裁判所は、またしてもハントに勝訴の判決を
出したのです。
しかし「スポットライト」を発刊している被告のリバティ・ロビー社は、直ちに高等裁
判所に控訴したのです。この控訴に対して、高裁は「裁判指揮に関しての重大な誤謬の
存在」を理由にマイアミ地方裁判所に事件を差し戻したのです。1985年1月に、こ
の名誉毀損裁判の差し戻し審が開かれています。この裁判は「マーチェッティ裁判」と
呼ばれたのです。
このマーチェッティの記事は長いのでご紹介できませんが、一言でいうと、次のように
なるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      ハワード・ハントはJFK暗殺事件に明確に関与しており、
      陰謀団の一員であったとCIAが近い将来暴露するであろう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 実際にはそうはならなかったのですが、CIAは既にハワード・ハントを見放してい
たのです。差し戻し審の焦点は「ハントが1963年11月22日にダラスにいたか」
の1点に絞られ、これに対してハントは暗殺日当日はCIAに出勤していたと主張して
いたのです。きっとCIAが助けてくれると信じて・・・。
 しかし、CIAは今回ハントを見限って、彼をJFK暗殺に結びつけることに踏み切
ったのです。CIAとしては、この裁判はあくまで「名誉毀損裁判」であり、それ以上
にはならないことを知っていたからです。
 かくしてCIAの工作により、ハントのアリバイは崩れ、敗訴になります。事実上ハ
ントはJFK暗殺の実行犯の一人としてされたのですが、裁判の訴因が「名誉毀損」で
あったためにそれで裁判は結審したのです。
 ハントは1963年11月22日に暗殺現場にいたのです。これが何を意味するか
――ここまで読んでいただいた読者にはおわかりになると思います。これにより、ニク
ソン黒幕説は一層説得力を持つことになります。     ・・・ [JFK040]

2006年09月21日

2本の映画で見るニクソン大統領(EJ第1464号)

 JFK暗殺事件とウォーターゲート事件がつながっている――これは尋常ならざる事
態です。そもそもウォーターゲート事件とは何だったのでしょうか。
 その謎に少しでも迫るために、次の2つのDVDを入手して、鑑賞してみたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          オリバーストン監督、映画『ニクソン』
          アラン・バクラ監督、映画『大統領の陰謀』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この2本の映画は、両方ともウォーターゲート事件を取り上げているのですが、その
取り上げる角度が対照的なのです。『ニクソン』は『JFK』のオリバー・ストーン監
督が膨大な記録や証言を基にして、あくまでニクソンを中心に内部からウォーターゲー
ト事件が原因で辞任に追い込まれるまでのニクソンの苦悩を描いています。
 これに対して『大統領の陰謀』は、カールとボブというワシントンポスト紙の記者が
あくまで外部からウォーターゲート事件の真相に迫るという筋立てになっています。ダ
スティン・ホフマン演ずるカール、ロバート・レッドフォード演ずるボブ、迫力満点に
敏腕記者を演じています。
 とくに映画『ニクソン』を観てわかったことは、ニクソンは卑屈なほど大衆の人気に
こだわり、思うように人気が出ないことを悩み、苦しみ抜いていたということです。ホ
ワイトハウスの中に飾られているケネディ大統領の肖像画を見ては、次のようにつぶや
くニクソンの姿がとても印象的でした。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       国民は君(JFK)を見るとそこに理想の姿を見る。しかし、
       私(ニクソン)を見ると、そこに現実を見るのだ。 ニクソン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 それにニクソンという人物は猜疑心が強く、ホワイトハウス内のあらゆる会話を録音
しており、それが結局はニクソンの命取りになったということです。彼が大統領をして
いた期間の後半はこれらの録音テープを守ることに費やされたようなもの――そういっ
ても過言ではないと思うのです。
 ハワード・ハント――この名前は両方の映画に頻繁に出てきますが、ハントはことも
あろうにニクソンを恐喝していたのです。以下は、1973年3月21日の大統領執務
室におけるニクソンと側近ディーンとの会話です。これは明らかにハントの脅迫にどう
対処するかについて話しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       ディーン:まず、第一の問題はハントやほかのウォーターゲー
            ト犯人たちによって引き続きなされるであろう脅迫
            です。金もかかるし、非常に危険だ。こういう問題
            にわれわれは慣れていない。きれいな金、きたない
            金、これらの問題はマフィアの連中の専門とすると
            ころです。
       ニクソン:その通りだ。
       ディーン:非常に難しい問題ですね。
       ニクソン:多分、ギャングにやらさなきゃならんかもしれん。
              ――ホワイトハウス・テープ記録146ページ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この会話によると、ハントの脅迫に対してニクソン大統領は金を支払おうとしている
のです。それは、単にウォーターゲート事件のことだけで強請られているだけではなく
もっと大きな秘密があることを示唆しています。
 また、1972年6月23日のテープには、次の会話があります。側近ハルデマンに
ニクソン大統領が話しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        この、ハントという男がいることは非常にまずい。言ってお
       け。奴は知り過ぎている。もしこの話が外部に出たら、「キュ
       ーバのこと」がめちゃくちゃになる。CIAはまずい立場に置
       かれるし、ハントも同様だ。
        それに「ピッグズ湾についての事柄」が、すべて明るみに出
       されてしまう。そうなれば、国家にとっても、またアメリカの
       外交政策にとっても不幸だ。彼(ヘルムズCIA長官)に止め
       るよう言っとくことだな。 ――ホワイトハウス・テープより
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この会話の中の「キューバのこと」と「ピッグズ湾についての事柄」というのは、文
字通りの意味ではないのです。この時期において、ピッグズ湾のことはすべて明るみに
出ていることであり別に表沙汰になってもどうということはなかったからです。
 したがって、この「キューバのこと」と「ピッグズ湾についての事柄」は、おそらく
「JFK暗殺についての秘密」を意味する符牒であると考えられます。このことは、上
記の2つの映画でも確かめられます。そういう会話が出てくるからです。
 前述の1973年3月21日のテープには次のような会話が録音されています。これ
によって、ニクソン大統領がハントというやくざに強請られて、金を渡していたことは
確かなのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       ディーン:私も出席した会議で、あいつらに支払う金は、ミッ
            チェル(司法長官)を通すことで合意がなされた。
            カルムパック(ニクソンの弁護士)が金を作った。
       ニクソン:キューバ委員会か。トンネルを通したろうな。
       ディーン:もちろん。キューバ委員会を通して、そのいくらか
            はハントの弁護士に回され、そこから分けられた。
            ハントの妻がその中から1万ドルを持ってシカゴに
            飛んだが、それをキューバ人の一人に、渡すつもり
            だったらしい。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 JFK暗殺事件のテーマは、いよいよ明日で終了します。・・・ [JFK041]       

ウォーターゲート事件/2つの映画.jpg

2006年09月22日

ケネディとニクソン/対照的な大統領(EJ第1465号)

 1974年に入ると、巨大な軍産複合体は「ニクソンはもはやこれまで」と判断して
動き出すのです。ニクソンはこれまで軍産共同体にとっては便利な存在だったのですが
ウォーターゲート事件で次々とボロが出るに及んで、このまま付き合うことは危険であ
ると判断したからです。
 そのためニクソンに辞任を促す説得役として、アレキサンダー・ヘイグがニクソンの
第2期政権の特別補佐官として送り込まれたのです。ヘイグ特別補佐官は、ニクソン
の数々の疑惑――とくにシンジケートとのつながりや、東南アジアの麻薬を支配するマ
フィアのリーダーたちとの付き合いについて、証拠を握ろうと陸軍犯罪調査局の責任者
ヘンリー・タクト大佐に調査を命じます。
 実はニクソンには麻薬に関して大きな疑惑があるのです。それは、ニクソンが副大統
領の頃、ペプシ社に対してラオスに工場を建てるよう便宜を図ったことがあります。こ
ういう関係があってニクソンは無役になっとき、ペプシ社の役員として迎えられたので
しょう。
 しかし、その工場は1本のペプシも製造しなかったのです。そして2年も経たないう
ちに、そこは東南アジア第一のヘロイン工場と化してしまったのです。ペプシ社がいつ
の間にかシンジケートの出先工場となっていたわけです。このような事実をヘイグは、
少しずつ積み上げてニクソンに辞任の説得に当ったのです。映画『ニクソン』では、ウ
ォーターゲート事件への関与の責任をとって辞任したことになっていますが、それはあ
くまで表向きの理由であり、もっと大きな疑惑の証拠を突きつけられて、辞任せざるを
得なくなったのです。
 ヘイグは、特別補佐官の立場からニクソン大統領に辞任を迫りますが、ニクソンは聞
く耳を持たなかったのです。そこで、ヘイグは、今度は軍産複合体からの代表として、
強く辞任を要求したのです。そして、もし、それでも拒否すれば、ニクソンとシンジケ
ートとの腐れ縁や、ヘロインから吸い上げられた金がニクソンの懐に還流する仕組みな
どの一切を明るみに出すと文字通りの脅迫をしたのです。
 そして、最後にこういったのです。「いま、辞任されれば、次期大統領の特別恩赦を
約束できる」と。
 こういうとき必ずニクソンを救ってくれたかつてのFBI長官フーバーは、ウォータ
ーゲート事件が発覚する1ヶ月前に死亡していたのです。まさに孤立無援、絶体絶命で
す。ヘイグは、ニクソンに辞任の文書へサインを求め、こういったそうです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        部屋の外でお待ちしております。サインをいただくまでは帰
        りません。 ――アレキサンダー・ヘイグ大統領特別補佐官
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 さすがのニクソンも自らが敗北したことを知って、辞任の書類にサインします。ヘイ
グが陸軍犯罪調査局に対して調査を命じてから2ヶ月後、1974年8月8日のことで
す。
 ニクソンは、約束通りフォード大統領によって特別恩赦を受けますが、ニクソンに仕
えた元補佐官や側近はことごとく法的・社会的制裁を受けたのです。しかし、ヘイグだ
けは、NATOの最高司令官に栄転しています。これを見ても、彼が軍産複合
体からの
ニクソンの刺客であったことは明らかでしょう。
 ケネディとニクソンは本当に対照的な大統領であったと思いま。1960年の大統領
選挙においてニクソンを追い続けたジャーナリストのセオドア・ホワイトは、その著書
の中でニクソンについて次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        ニクソンの政治能力はすばらしく、その勇気は疑問の余地は
       なく、その忍耐力は相当なものであった。しかし、それは所詮
       潮の満引きや風の具合を知り、嵐をついて突き進む水夫の能力
       勇気、忍耐力でしかなかった。
        彼には、常に欠けている要素があった。それは星を知り、星
       に導かれ、嵐によって航路からはずれた場合、星と太陽が再び
       現れるのを待ち、それらをみつめながら進んでいく航海士の要
       素だった。このような哲学の欠如から、その政治生活を通して
       常に彼を悩ませた、あの有り難くないあだ名「トリッキー・デ
       ィックが生まれたのである。
          ――セオドア・ホワイト『大統領の誕生、1960年』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1975年に米上院では、「上院外国要人暗殺委員会」が設立されます。ここで「外
国要人」とはカストロのことです。カストロ暗殺計画について調査をはじめたのです。
その狙いはケネディ兄弟暗殺事件の真相を明らかにすることにあったのです。カストロ
暗殺計画を明らかにすれば、当然ケネディ暗殺も浮かび上がってくると考えたのです。
少し遅れて下院でも、「ケネディ暗殺調査委員会」の再設置を行っています。
 そして、次々と関係者が証人として呼ばれはじめたのです。それと時期を同じくして
次のマフィア側の重要3証人が次々に殺されているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
              サム・ジアンカーナ
              ジョン・ロゼリ
              ジョージ・デ・モーレンシルツ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 彼らは、FBIに厳重に包囲されているにもかかわらずやすやすと殺されています。
恐ろしい想定ですが、逃げられないようにして殺されたのではないかといわれているの
です。そこに巨大な軍産複合体の強い意志を感じ取ることができます。
 軍産複合体は現在の米国にも厳然として存在しています。これに立ち向かえる大統領
は果たして今後登場するのでしょうか。
 42回にわたって続けてきたJFK暗殺事件のテーマはこれで終わります。長い間の
ご愛読を感謝します。 ・・・・ [JFK042/最終回]

ケネディ大統領.jpg

2006年09月25日

8:24AMに分かっていたハイジャック(EJ第1475号)

 JFK暗殺事件のテーマを書きながら、関連データを多く集めたのですが、その中に
「9.11同時多発テロ」関連の情報がたくさんあります。考えてみれば、9.11同
時多発テロによってアフガン攻撃が起こり、続いてイラク戦争が誘発され、国際情勢は
混沌としてきています。
 2004年の米大統領選は、僅差の接戦といわれた割には予想を超える得票で現職ブ
ッシュ大統領の勝利に終りましたが、これによってこの傾向は一層加速されるのです。
 9.11同時多発テロは、本当にオサマ・ビンラディンが起こしたテロなのでしょう
か。疑惑はあまりにも多くあります。このテーマをまともに書くと、JFK暗殺事件な
みの大テーマに発展します。しかし、残念ながら、まだ情報量が不足しています。
 そこで、第1部として、9.11同時多発テロの疑惑を整理するところからはじめた
いと思います。そして、情報収集を続けながら、断続的にテーマを発展させて行く――
そういう方針で進めたいと思います。
 2001年9月11日――その日は米国東海岸から西海岸まで見事に晴れ上がり、絶
好の飛行条件だったのです。しかし、その日4機の旅客機が次々とハイジャックされた
のです。それら4機を便宜上それぞれABCDと名づけることにします。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
           A.アメリカン航空11便/ボーイング767
             ボストン発ロサンゼルス行き
             8:00AM出発
           B.ユナイテッド航空175便/ボーイング767
             ボストン発ロサンゼルス行き
             8:14AM出発
           C.アメリカン航空77便/ボーイング757
             ワシントン発ロサンゼルス行き
             8:20AM出発
           D.ユナイテッド航空93便/ボーイング757
             ニューアーク発サンフランシスコ行き
             8:42AM出発
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これら4機の運命は次のようになっています。WTCというのは、世界貿易センター
・ビルのことです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
           A機 ・・・ WTC北タワー衝突
           B機 ・・・ WTC南タワー衝突
           C機 ・・・ 国防総省ビルに衝突
           D機 ・・・ ペンシルベニア州郊外墜落
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 今朝はA機――アメリカン航空11便がどのようにしてWTCタワーに衝突したのか
について、新聞・雑誌では知りえない情報を交えて書いてみることにします。
 A機は、50歳になるジョン・オゴノウスキ機長とトマス・マクギネス副操縦士のコ
ンビのベテラン・パイロットが操縦を担当していたのです。
 A機は、ボストンローガン国際空港を8:00AMに出発しています。出発後13分
後の8:13AM――ボストン管制センターはA機を呼び出し次の対話をしています。
このやりとりのあと、A機は管制センターの連絡に応答しなくなります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       管制センター:アメリカン航空11便へ、20度右方向へ旋回
              せよ。
       A機    :アメリカン航空11便、上昇して、35000
              フィートを維持
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 8:24AM――いきなりA機のコックピットからパイロットではない男の声が管制
センターに入ってきたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       われわれは数機の旅客機を手に入れた。静かにしていれば、
       大丈夫だ。空港へ引き返すところだ。誰も動くな。そうすれば
       すべてうまく行く。もし、動いたりしたら、おまえたちの身の
       安全はない。飛行機も危険に陥る。静かにしていろ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これは、おそらくA機をハイジャックしコックピット内に侵入した犯人が、機内マイ
クを使って乗客に伝えようとしたメッセージと思われます。その声がなぜ管制センター
に入ったかというとおそらく機長が犯人に気づかれないように、管制センターにつなが
るスイッチを入れたものと思われます。A機がハイジャックされたことを伝えるために
です。
 A機は、その後北西に進路を取り、マサチューセッツとニューヨーク、ヴァ−モント
三州の境である地点を超えるとさらに北上し、8:29AMに突然、大きく左手前方向
へVの字に旋回、今度は南へ直進の進路を取ったのです。そして、ハドソン河に沿って
高度を下げながら南下し、ニューヨーク市に近づく頃には実に900フィートの低空を
飛行、市内上空を抜けるようにして、マンハッタン南端にそびえる世界貿易センター・
ビルの北棟に激突したのです。時刻は、8:47A