第2のJFK裁判というものがある(EJ第1463号)
ハワード・ハントとフランク・スタージェス――この2人が暗殺日の1963年11
月22日にダラスにいたかどうかです。このアリバイについて知られざる裁判が繰り返
し行われたのです。
J・ウェーバーマンとマイケル・キャンフィールドという人がいます。彼らは熱心な
ケネディ事件研究家なのですが、1972年になって、ある写真と共に重大な声明を行
ったのです。72年といえば、ウォーターゲート事件がすべて表沙汰となり、実行犯が
起訴された年です。この写真については、添付ファイルを参照していただきたいと思い
ます。
この写真は、1963年11月22日、事件直後にデイリー広場の裏手鉄道操車場に
止まっていた貨車の中から3人の浮浪者が発見され、不審人物として連行されたときの
写真です。しかし、この写真は、別に目新しいものではなく、事件関係写真のひとつと
してそれまでとくに注目されてはいなかったのです。
それでは、ケネディ事件研究家たちは一体何を問題にしたのでしょうか。
それは、この写真に写っている2人がウォーターゲート事件で逮捕されたハワード・
ハントとスタージェスに似ているという事実なのです。浮浪者の一番後方の帽子をかぶ
っているのがハントであり、真ん中の大男はスタージェスにそっくりです。
それに加えて、一番前を歩く男は、暗殺前にダラス市のあちこちに出没したオズワル
ドのニセ者ではないかという証言まであらわれたのです。これが正しいとすると、やは
り、ウォーターゲート事件の実行犯であるハワード・ハントとスタージェスはJFK暗
殺の当日に現場にいたことになるのです。しかも、ニクソンまでダラスにいたことは確
実であり、ニクソン黒幕説は信憑性を帯びることになります。
この写真の件は、ニクソンが辞任に追い込まれたあとちょっとした騒ぎになり、時の
フォード大統領は、ロックフェラー委員会に何とか噂を鎮めてくれるよう要請していま
す。このフォード大統領はニクソンに対し、「全面、自由、絶対的な恩赦」を与えた人
物であり、何とか穏便に幕引きを図りたかったのでしょう。
その期待に応えてロックフェラー委員会は、FBIの報告をうのみにして、次の結論
を出して幕引きをしようとします。
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この「浮浪者」のいずれかが、ハントあるいはスタージェス
の名で通っているという証人はいないし、同一人物であること
を証明しようと名乗り出る専門家もいない。
――ロックフェラー委員会
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しかし、このロックフェラー委員会の決定にもかかわらず、これはある連続裁判を引
き起こしたのです。この裁判は、ギャリソン検事によるクレイ・ショー裁判以来の実質
的なケネディ暗殺事件裁判になったのです。
2人のケネディ事件研究家による写真告発に対してハワード・ハントは直ちに訴訟を
起こしたのです。訴訟罪名は「名誉毀損」であり、この裁判は「サード・プレス裁判」
と呼ばれたのです。
この裁判は1978年に原告ハントの一方的な勝訴に終わったのです。しかし、それ
を待っていたかのように1978年8月14日にマイアミの地方紙である「スポットラ
イト」に「CIAハントのケネディ暗殺関与を確認へ」という記事が出たのです。
寄稿者は、ビクター・マーチェッティ――約20年間米国の諜報活動に従事しそのうち
の14年間はCIAにその籍を置いており、しかも最後の3年間はリチャード・ヘル
ムズCIA長官の補佐官をしていたのです。
この記事の書かれた1978年3月〜8月という時期は、ちょうど1977年に発足し
た「米下院暗殺問題調査特別委員会」の活動がピークを迎えていたときだったのです。
この記事に対してもハワード・ハントは罪名「名誉毀損」で訴訟を起こしたのです。
そして、1981年12月、マイアミ地方裁判所は、またしてもハントに勝訴の判決を
出したのです。
しかし「スポットライト」を発刊している被告のリバティ・ロビー社は、直ちに高等裁
判所に控訴したのです。この控訴に対して、高裁は「裁判指揮に関しての重大な誤謬の
存在」を理由にマイアミ地方裁判所に事件を差し戻したのです。1985年1月に、こ
の名誉毀損裁判の差し戻し審が開かれています。この裁判は「マーチェッティ裁判」と
呼ばれたのです。
このマーチェッティの記事は長いのでご紹介できませんが、一言でいうと、次のように
なるのです。
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ハワード・ハントはJFK暗殺事件に明確に関与しており、
陰謀団の一員であったとCIAが近い将来暴露するであろう。
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実際にはそうはならなかったのですが、CIAは既にハワード・ハントを見放してい
たのです。差し戻し審の焦点は「ハントが1963年11月22日にダラスにいたか」
の1点に絞られ、これに対してハントは暗殺日当日はCIAに出勤していたと主張して
いたのです。きっとCIAが助けてくれると信じて・・・。
しかし、CIAは今回ハントを見限って、彼をJFK暗殺に結びつけることに踏み切
ったのです。CIAとしては、この裁判はあくまで「名誉毀損裁判」であり、それ以上
にはならないことを知っていたからです。
かくしてCIAの工作により、ハントのアリバイは崩れ、敗訴になります。事実上ハ
ントはJFK暗殺の実行犯の一人としてされたのですが、裁判の訴因が「名誉毀損」で
あったためにそれで裁判は結審したのです。
ハントは1963年11月22日に暗殺現場にいたのです。これが何を意味するか
――ここまで読んでいただいた読者にはおわかりになると思います。これにより、ニク
ソン黒幕説は一層説得力を持つことになります。 ・・・ [JFK040]
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