INTEC JAPAN/BLOG

このブログは、異文化研修の教育機関(株)インテック・ジャパンの情報発信用です。(株)イー・メディアとの提携により、同社のドキュメント・レポート「Electronic Journal」をウィークデイの毎日お届けします。
「Electronic Journal」は様々な情報を400字詰原稿用紙7枚にまとめて配信する日刊メールマガジンです。

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● 2006年11月 記事 ●

2006年11月01日

乗客の中にパイロットがいた(EJ第1501号)

 UA93便の乗客は、自分たちの置かれている絶望的な状況において、飛行機を操縦
する主導権をテロリストたちから奪回するために立ち上がります。
 この決意は、電話で家族や地上に伝えられていますが、最も重要なことには誰も電話
でふれていないのです。最も重要なこととは、テロリストから操縦かんを奪回したとし
ても、誰が飛行機を操縦するかということです。
 実は、UA93便の乗客の中にはパイロットの資格を持っている者が1人、航空管制
官の訓練を受けた者が1人搭乗していたのです。それは、93便のエコノミークラスに
いた次の2人の人物です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
           パイロット/ドナルド・F・グリーン氏
           航空管制官/アンドリュー・ガルシア氏
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、ドナルド・F・グリーン氏が持っていたのは単発4人乗り水陸両用機の免許
です。グリーン氏の妻の話によると、彼は双発ターボプロップ機キングエアの副操縦士
の資格も持っていたというのです。確かにこの資格では、猛スピードで急降下し、異常
な飛行を続けるジャンボ旅客機を安定させることは至難のわざであるといえます。
 アンドリュー・ガルシア氏はかつてカルフォルニア州空軍に属していたことがあり、
航空管制官の訓練を受けていたのです。したがって、グリーン氏をガルシア氏がサポー
トすれば、管制塔の指導と誘導でUA93便を無事に着陸させることは必ずしも不可能
ではないと思えるのです。
 しかし、乗客・乗員の地上への電話では誰ひとりとしてグリーン氏の存在を指摘して
いないのです。これはいささか不思議な話であると思います。
 テロリストがコックピットに侵入し、しばらくしてからジャラがお客に「みなさん、
こちらは機長です。・・・」と呼びかけてきたのですが、それ以来、機長も副操縦士も
一言も発していないのですから、乗客・乗員としては機長や副操縦士は殺害されたと考
えるしかないはずです。その場合、テロリストから操縦かんを奪回したあと誰が操縦す
るか考えておく必要があります。
 誰が操縦するのか――この話は乗客の間から必ず出たと思うのです。そういう話が出
れば、グリーン氏はきっと名乗り出たと思うのです。「小型機ですけど、パイロットの
免許は持っていますが・・・」と。
 ドナルド・F・グリーン氏の妻であるクローデッド・グリーン氏は次のようにいって
います。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       乗客の中にパイロットがいることを誰も口にしなかったのが
      不思議でなりません。電話の向こうの奥さんに大丈夫だと言っ
      て安心させたいのなら、「乗客の中に飛行機を操縦できる人が
      いる」と言うはずじゃありませんか。なのに、誰もそんなこと
      は言っていません。ドナルドは積極的な人でしたから、操縦の
      経験があると、はっきり名乗り出たはずです。
                     ――クローデッド・グリーン
          ――ジェレ・ロングマン著/『墜落まで34分』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 乗客からの電話の中で、トッド・ビーマー氏からの電話は一番適切に機内の様子を伝
えていると思われるので、ご紹介することにします。
 その電話は、9時45分にあったのです。UA93便の墜落は10時6分ですから、
墜落の21分前です。電話はシカゴのオヘア空港まで15分の距離にあるイリノイ州オ
ークブルック地上局につながったのです。彼は機内電話でかけてきたのです。
 最初は女性のオペレータが電話を受けたのですが、電話の内容が衝撃的なので、彼女
は電話を顧客サービスの責任者リーサー・D・ジェファーソン氏にまわしたのです。
 「わかりました。その飛行機がハイジャックされているのですね。何が起きているの
か詳しく話していただけますか?それから電話を切らないようにしておいてください」
とジェファーソン氏はトッド・ビーマー氏に話しかけたのです。以下は、ビーマー氏の
話したことの要約です。( )内は私のコメントです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       彼は小声だが、落ち着いた口調で説明した。3人組にハイジ
      ャックされた。(やはりテロリストは3人)ナイフを持った2
      人がコックピットに押し入ってドアをロックした。3人目はフ
      ァーストクラスにいて、爆弾らしきものを赤いベルトで腰に巻
      きつけている。(爆弾ではない偽装)男はみんなに席に着くよ
      う命令して、それからファーストクラスとエコノミークラスの
      仕切り のカーテンを引いた。
       ファーストクラスで2人が床に倒れている。まだ、息がある
      かどうかわからない。ジェファーソンの耳に、倒れているのは
      機長と副操縦士だとトッドの隣に座っている客室乗務員が話し
      ているのが聞こえた。―― 一部略 ――
       「飛行機が降下している。どんどん下がっている。いや待て
      よ。持ち直した。いま旋回している。北に向かっている。いや
      どこに向かって飛んでいるのかわからなくなった。
      ―― 一部略 ―― 乗客の中の数人が爆弾を巻きつけている
      ハイジャック犯に「飛びかかって」飛行機を奪回するつもりだ
      と彼は話した。
          ――ジェレ・ロングマン著/『墜落まで34分』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 その頃、 チェイニー副大統領はブッシュ大統領に対し、以後ワシントンに接近する
ジェット旅客機で、敵意があると見なされるものはすべて撃墜することの許可を得てい
たのです。そしてUA93便はペンシルバニア州に入ってきたのです。
・・・ [9.11/027]

パイロットと航空管制官.jpg

2006年11月02日

UA93便墜落の謎を探る(EJ第1502号)

  シカゴの郊外にユナイテッド航空のシステム・オペレーションズ・コントロール・
センターがあります。2001年9月11日――センターではレーダーが追跡中のUA
93便の機影をフォローしていたのです。機影はスクリーンに赤いアイコンで表示され
少しずつ動いていたのですが、機影は一瞬フリーズしたようにストップしたのです。
 ユナイテッド航空の運航管理責任者であるハンク・クラコフスキー氏は、部下の運航
管理者に地図を渡して位置を確認するよう指示を出します。直ちに運航管理者は、93
便が消息を絶った位置の緯度と経度を割り出して、「ペンシルバニア州ジョンズタウン
の南」と特定したのです。墜落現場です。
 墜落現場には近くの消防隊員リック・キング氏が7分後に到着しています。生存者の
救出のためにです。しかし、現場には、飛行機も遺体も何もなく、呆然としたといいま
す。ジェレ・ロングマンの本からその部分を引用します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      <どこに行っちまったんだ?>
      墜落したのは旅客機だったと確信しているが、キングが見る限
      り、小さな破片ばかりだった。ボーイング757は62万6千
      個の部品から成り、60万個のボルトやリベットで固定されて
      いる。使用されている電線は97キロメートル。だが、キング
      の目の前にあるのは小さな破片と化した部品やリベット、そし
      て無残に引き剥がされた配線の断片だけだった。現場に駆けつ
      けたほかの消防隊員や町の住民たちは一様に、狐につままれた
      ような表情を浮かべている。
          ――ジェレ・ロングマン著/『墜落まで34分』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 墜落から数時間後に、機体を捜査していたペンシルバニア州警察は「電話帳よりも大
きな破片は一つも見つからない」と報告しています。つまり、何もかも粉々になってし
まったのです。
 考えてみると、9.11テロに使われた4機の航空機は搭乗していた乗客・乗員を含
めて、全てが粉々になっていることになります。これでは、残骸から何が起きたのかと
いう真相に迫ることは不可能になります。まさに、完璧なテロの遂行ということになる
のです。
 どのような状況でUA93便は墜落したのでしょうか。
 93便の機体は完全に裏返しになったまま地面に激突したことがわかっています。速
度575マイル――時速925キロです。こういう猛スピードで地面に激突すれば、何
もかも粉々になってしまうのかも知れません。
 しかし、A機とB機の激突したWTCビルも、C機が突入したペンタゴンにしても、
いずれも爆発が起きているとされているのです。すべてが粉々になってしまうのは、爆
発が原因であれば十分納得ができるのです。
 しかも、その後に判明した状況によれば、93便の残骸は半径8マイル――約13キ
ロメートルにわたって散乱していたというのです。このことから、UA93便は墜落し
たのではなく、米空軍のF16戦闘機から発射されたサイドワインダー・ミサイルによ
って撃ち落とされているという説が出ているのです。実際にそのときジョンズタウンの
近くの空域には第119戦闘機航空団がいたことは目撃者もいて確かなことなのです。
 こんな話が伝えられています。その日、ブッカー小学校の近くのサラソタ国際空港を
エアフォース・ワンで飛び立ったブッシュ大統領は、飛行機がペンシツバニア州に墜落
したとの報告を受けると「その飛行機はわが軍が撃ち落したのか墜落事故だったのか、
どっちなんだ?」と尋ねたそうです。
 ホワイトハウスにいたコンドリーサ・ライス国家安全保障担当補佐官はこれを受けて
ペンタゴンに問い合わせたところ、2時間後に「その飛行機は軍が撃ち落したものでは
ない」という回答があり、一同は胸をなでおろしたというの話です。
 当然のことながら当局はF16戦闘機による撃墜説を必死になって否定しています。
残骸が墜落現場から南東に13キロメートルにわたって散乱していることについては、
これは「卓越風の方向」であり、クレーターから風で紙片などが運ばれたものであると
しています。卓越風というのは、ある地域にある期間最も頻繁に現れる風向きがあり、
その風向の風のことをいうのです。ちなみに鳥取砂丘は冬の北西卓越風によって千代川
の運んだ石英砂が内陸まで運ばれ、形成されたものといわれます。
 このミサイル撃墜説については、いろいろと調べてみたのですが、墜落と見るのが妥
当であると考えられます。なぜならミサイルによって撃墜されたのであれば、墜落地点
に至るまでの経路に破片が落下しているはずなのですが、そういう事実がないからです
それに、この状況では軍がミサイルを発射して撃墜しても許されたからであり当局があ
えてそれを伏せる必要はないと考えられるからです。
 しかし、それ以外のことで疑惑はたくさんあるのです。とくに謎が解けないのは、な
ぜ、コックピットがたいした武器を持たないテロリストによって制圧されたかです。あ
るパイロットは、次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      かみそりを持っていようが拳銃を持っていようが、誰もあのパ
      イロットから操縦かんを奪うことはできない。特にパイロット
      が2人乗っていたら絶対、無理だ。彼らには一番の防御方法が
      ある。機体を転がせばいいのさ。クリック4つで逆さになって
      クリック4つで元に戻る。10秒で終わる方法だ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ・・・ [9.11/028]

UA93便墜落現場.jpg

2006年11月06日

一番利益を得たのはイスラエルである(EJ第1503号)

 9月25日から28回にわたり9.11同時多発テロの疑惑を追求してきて今回が2
9回目です。このテーマは語りつくしておりませんが、本日で終了します。
 9.11同時多発テロに関してはどのように検討しても、次の3つの疑問が残るので
す。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      1.世界貿易センタービルの2棟のビルに、相次いで大型旅客
        機を衝突させることのできるパイロットは現実には存在し
        ない。これは何者かが地上から旅客機を誘導したのではな
        いかという疑惑
      2.WTCビルの2棟が崩壊してビルは跡形もないまで粉々に
        なってしまったが、これはあらかじめ何者かが大量の爆薬
        を仕掛けて、それをタイミング良く爆発させなければ生じ
        ない現象である
      3.9月11日に4機の大型旅客機が米国東部地区でハイジャ
        ックされながら規定に違反して米空軍戦闘機は1機も緊急
        発進していない。これは米政府と軍の関与なしではあり得
        ないという疑惑
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 9.11の犯人は、米政府の公式発表によるとビン・ラディンの率いるテロ組織「ア
ルカイダ」ということになっています。しかし、この事件を精査して行くプロセスにお
いて、まるでアルカイダの存在を感じないのです。
 アルカイダはしょせんはテロ組織であり、行き当たりばったりのことしかできないの
です。9.11のように、これほど精緻な計画に基づく作戦は一組織によって実現する
ことは不可能であり国家の軍隊のレベルでないと実行不能なのです。
 現在、9.11のような作戦を立案し、実行できる国は次の3つしかないのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
                1.アメリカ
                2.ロシア
                3.イスラエル
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ミステリー小説での犯人探しは、それによって一番トクをする者を探せというのが常
道といわれます。このように考えた場合、9.11テロによって一番トクした国はイス
ラエルではないかと思います。
 イスラエルにとってアラブ諸国――とりわけイラクは直接的な脅威だったのです。そ
のため、歴代のイスラエル政権は米国に対し、何年にもわたってアラブ諸国の制圧を求
めてきたのです。
 WTCビルやペンタゴンへの攻撃によって、現在米国内では、反アラブ感情が急速に
高まっていますが、これはイスラエルには誠に都合が良いのです。そして、イラクが崩
壊したいま、イスラエルは大きな経済的利益も得ようとしているのです。
 具体的なものをひとつ上げると、イラクのモスルからイスラエルのハイファまでつな
がっている古い原油パイプがあります。これは現在閉鎖されているのですが、もし、2
005年はじめの選挙によってイラクに米国に友好的な新政権が誕生すると、この原油
パイプは復活され、イスラエルはイラクの原油の再輸入が実現する可能性が高まるから
です。
 イスラエルは、現在ロシアから石油を輸入しているのですが、距離が遠いので運搬コ
ストが非常に高額なのです。したがって、もし、イラクから原油が輸入できると大きな
コスト削減になるのです。また、これが実現すると、イラクの原油は直接地中海に運ば
れることになり、米国にとっても悪い話ではないのです。
 このイラクの石油をイスラエルまで運ぶパイプラインの建設にかつて暗躍したのがブ
ッシュ政権のラムズフェルド現国防長官なのです。そのため当時ラムズフェル
ド氏は、
ベクテル社の代理人として、あのサダム・フセインと手を結ぼうとさえしたのです。
 このように考えてくると、9.11テロは、米国とイスラエルが共同で行った作戦で
ある可能性が出てくるのです。なぜなら、この作戦を成功させることにより、最終的な
ターゲットであるイラクと戦争をするキッカケが掴めたからです。
 先の米国大統領選挙において、ブッシュ大統領が再選されたのは、米国国内における
キリスト教原理主義者がブッシュ支持を表明したことが大きいといわれます。うがった
見方をすれば、これは、米国がイスラエルからイラクの脅威を取り除いてくれたお返し
ととれなくもないのです。
 こうなると、ビン・ラディンは一体何だったのでしょうか。
 少なくともブッシュ政権は本気でビン・ラディンを捕まえようとしていないことは確
かです。
 『タイム』誌は最近表紙にビン・ラディンの写真を掲載し、「なぜ彼は見つからない
?」とい
うキャプションをつけているのです。答えは簡単で「見つけたくないから」なのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      もし、ビン・ラディンが見つかったら、テロリストを使った企
      てがすべて台なしだ。テロに対する世界規模のキャンペーンは
      すべて無用になる。だから、アフガニスタン戦争の直前タリバ
      ンがビン・ラディンの引き渡しをほのめかしたとき、それは拒
      絶されたのだ。これによって、「対テロ戦争」はスローガンに
      過ぎないということを露呈したくなかったからである。
                        ――『タイム』誌より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 全ては闇の中です。しかし、9.11テロは現ブッシュ政権と完全に無関係ではあり
得ないと思います。米国の象徴である世界貿易センタービルと国防の中心であるペンタ
ゴンまでもが攻撃されたからです。少なくとも、これで米国は戦争をする大義名分がで
きたことは確かなのです。米国が今までに起こした戦争のほとんどにはこの手のからく
りがあるといわれています。・・・ [9.11/029]

ラムズフェルド国防長官.jpg

2006年11月07日

人類月着陸はやはり捏造である(EJ第1390号)

 副島隆彦氏といえば、今やベストセラー書籍『預金封鎖』(祥伝社刊)の著者として
有名です。日米の政財界・シンクタンクなどに独自の情報源を持ち、鋭い評論で知られ
る人であり、EJでも何度もご紹介しています。
 この副島隆彦氏には、次の著作があります。今までの彼の著作を知っている人には、
少し意外と思われるはずです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
           副島隆彦著、『英文法の謎を解く』
                     ちくま新書刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 調べて見ると、この本は30万部以上のベストセラーになっているのです。副島とい
う人は、何でもベストセラーにしてしまう凄い人です。
 さて、2004年6月30日に、この副島隆彦氏がまたまた意外な本を出版したので
す。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        副島隆彦著、
        『人類の月面着陸は無かったろう論』(徳間書店刊)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『緊急指令!!これマジ!?/アポロは本当に月に行ったのか』の再現です。300ペ
ージを越す大書ですが、早速購入して読んでみました。しかし、期待した割にあまり新
発見はない――これが私の印象です。しかし、分析は鋭いと考えます。
 EJでは2002年10月15日の第966号から、同年10月30日の第977ま
で、この問題を取り上げていますが、結論は先送りしています。
 EJ第966号では次のような前置きがあって、この連載がはじめられています。再
現しておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       謎はたくさんあります。これからひとつずつ検証していきま
      すが、調べれば調べるほど「行っていない」という結論に導か
      れてしまうと思います。
       そこで、現時点での私の結論を最初に明らかにしておきたい
      と思います。結論は「行っている」と考えます。その理由は、
      月面に置いてきたとされるレーザー光反射装置を使って今でも
      月と地球の距離を正確に測定できるからです。
          ――2002年10月15日付、EJ第966号より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 現在、株式会社イー・メディアには、このテーマに関わる書籍と情報はほとんどすべ
てあります。そこで、副島氏の考え方を中心にもう一度この問題の検証をやってみよう
と思います。何しろ副島氏ほどの人が「人類の月面着陸は無かったろう」と考えている
のですから、再度検証する価値はあると思います。
 副島氏は、この本の冒頭に次のように書いています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       私は「アポロ計画」自体が無かったとは言っていない。
       アポロ計画は実際に有ったし、今も月面には何機かのアメリ
      カ製の月ロケットが軟着陸に失敗して地表に激突した痕跡が残
      っているはずである。従って、私は「アポロは月に行っていな
      い」という不正確な書き方はしない。アポロという名のロケッ
      ト(ただし、すべて無人)の残骸はあるのだ。だが、人間(人
      類)は、月には降り立っていない。そんなことは無理なのだ。
                     ――副島隆彦氏の前掲書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 なぜ、副島氏がこういうことを本のまえがきに書いたのかというと、月に置かれてい
るとされるレーザー光反射装置の存在を否定できないからです。これについては、あと
からじっくりと書くことにします。
 もし、副島氏の説――人類の月面着陸は無かったろう論に立つと、あの月面での宇宙
飛行士たちの映像は、すべてヤラセということになります。それでは、あの映像は誰が
どこで撮影したものなのでしょうか。
 副島氏はその作者は、スタンリー・キューブリック監督であると名指ししています。
スタンリー・キューブリック監督といえばあの映画『2001年宇宙の旅』の監督です
ちなみに、この映画が製作・上映されたのは1968年のことで、月着陸に成功したと
されるアポロ11号の打ち上げの1年前なのです。
 確かに時期的にはぴったりなのですが、衝撃的なのはキューブリック監督夫人である
クリスチャン・キューブリックがはっきりと次のように証言していることです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      人類月面着陸は、夫キューブリック監督も関係した捏造である。
                  ――クリスチャン・キューブリック
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この証言は、2003年12月31日の夜9時にテレビ朝日で放映された「ビート
たけしの世界はこうしてダマされた!?」の中で飛び出したのです。この番組は私自身も
見ましたし、確かにそういう証言があったことは確かです。
 その証言はもう少し詳しくいうと、次のようなものなのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       夫の遺品の書類の中から、NASAのトップ・シークレット
      の書類が出てきて、それによると、夫が月面着陸の2人の飛行
      士の様子を1969年にロンドンの撮影所で撮ることを米国政
      府に要請されて実行した。――クリスチャン・キューブリック
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここでいうロンドンのスタジオとは、シェパートン撮影所なのです。キューブリック
は、その後殺害されることを恐れてか、生涯飛行機には乗らず、亡くなるまでロンドン
を出なかったといわれているのです。       ・・・ [アポロ計画/001]

副島隆彦氏の新刊書.jpg

2006年11月08日

『月の雑学』のウラにはNASAがいる(EJ第1391号)

 かつてEJで人類の月着陸疑惑について書いたとき、参考になったサイトは次の「月
の雑学」のサイトです。URLを書いておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        http://moon.jaxa.jp/ja/popular/story03/index.html
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このサイトは、「アポロは月に行っていない!?」と題してその数々の疑惑に対し、
「疑惑」「真実」に整理して答えているのです。私の結論にも大きな影響を与えたサイ
トです。
 ところが、このサイトは副島氏の言によると、NASAが関与していると指摘してい
るのです。確かにURLをよく見ると、NASDAという文字があるのです。NASD
Aとは、宇宙開発事業団――現JAXA(ジャクサ)の前身です。
 このサイトは疑惑のひとつ一つに対してある意味では異常な丁寧さで答えています。
まるで疑惑に対するいい訳サイトを意図しているようです。
 世界中に巻き起こっているアポロ疑惑に対して、NASAは当然いろいろな手を打っ
ているはずです。そのひとつがこの「月の雑学」のサイトであるというのです。もう
少し正確にいうと、「月の雑学」のサイトは、JAXAが出している次の「月探査情報
ステーション」の中の数あるサイトのひとつなのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          http://moon.jaxa.jp/ja/index_fl.shtml
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、「月の雑学」はJAXAが作ったものではなく、次のサイトを翻訳したもの
なのです。あからさまにNASAとは明かしていないものの、実際はNASAと副島氏
は見ています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       http://www.badastronomy.com/bad/tv/foxapollo.html
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ロケットのテーマのときに述べた通り、対米一辺倒のJAXAはNASAには頭が上
がらないのです。したがって、NASAにアポロ疑惑封じを依頼されれば、必ずやるで
しょう。
 「月の雑学」のサイトにおけるやり取りに次のようなものがあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      ≪疑惑≫
       日本が2005年に打ち上げる月探査衛星「セレーネ」な
       ら、アポロの着陸船や月面車、旗などが月面に残っている
       かどうか見つけられるはず。
      ≪真実≫
       可能性があるとすれば、月面の朝(夜明け直後)または、
       夕方(日の入り寸前)に撮影することです。そうすると、
       長く伸びた影を捉えることができて、そこに少なくとも物
       体があることはわかるはずです。ただこれでも、岩とアポ
       ロ着陸船の残骸を区別することは、おそらく極めて難しい
       でしょう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ≪真実≫の記述はもっと長いのです。セレーネのカメラの解像度について詳しく説明
し、アポロ着陸船の大きさと比較しそれが点にしか見えないことを強調して、上記の記
述につないでいるのです。その書き方も可能性のあることを匂わせながら、結局はでき
ないというところへ結論を持ってきているのです。
 月への着陸に成功したアポロ宇宙船は、次の6つであり、その着陸地点は次の通りで
す。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       アポロ11号 ・・・・・ 静かの海
       アポロ12号 ・・・・・ 嵐の大洋
       アポロ14号 ・・・・・ フラマウロの丘陵
       アポロ15号 ・・・・・ ハドリー峡谷・アペニン山脈
       アポロ16号 ・・・・・ デカルト高地
       アポロ17号 ・・・・・ タウロス・リトロー峡谷
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 月にこれだけ行っているのであるから、着陸船の土台部分や月面走行車や機材の残骸
が今もそれぞれの場所に残されているはずである――それを高性能なハッブル宇宙望遠
鏡で写せ――副島氏はこのように主張しているのです。
 ハッブル宇宙望遠鏡というのは、高度約600キロメートルの軌道を回る、直径2.
4メートルの反射望遠鏡です。副島氏は、それを使って月面を精密に写して見せて欲し
いといっているのです。疑惑を晴らすには、サイトなどでゴチャゴチャ長い文章を書く
よりもよほど効果的のはずですが、NASAは「できない」の一点張りです。
 ハッブル宇宙望遠鏡は0.05秒角の世界最高の分解能を持っているのですが、それ
では月面の幅90メートルのものを見るのがやっとである――JAXA関係者はこうい
う見解なのです。分解能というのは、こまかいところまで見る能力です。
 これに対して副島氏は、スパイ衛星の精度を持ち出して、次のように反論しているの
です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       実におかしな話である。地球の表面を現在のスパイ衛星では
      直径5センチメートルもの(タバコの箱大)まで識別できる。
      それぐらい合成開口レーダーに搭載する光学技術は進歩してい
      る。それなのに、月面の残留人工物は絶対に写せない、写らな
      いのですの一点張りである。月面には大気がないのだから透明
      だから、もっとキレイに写る。どうして「写せない」とばかり
      言うのか。写せ。そして全世界に公開せよ。
       ――副島隆彦著、『人類の月面着陸は無かったろう論』より
                           (徳間書店刊)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
                    ・・・ [アポロ計画/002]

SELENE/セレーネ.jpg

2006年11月09日

宇宙開発技術は逆戻りしている(EJ第1392号)

 ごく常識的に考えてみたいと思います。そもそもアポロ計画は1967年1月27日
のアポロ1号から、1972年12月7日のアポロ17号まで、まるで何かにとりつか
れたように月を目指し、1969年のアポロ11号から13号をのぞく17号までの6
回にわたり月着陸を成功させて、その後実に35年間、月に行くことをぴたりとやめて
しまっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
              打 上   帰還      特 色
      アポロ11号 1969. 7.16 〜 7.24 ・・ 人類初の月着陸
      アポロ12号 1969.11.14 〜11.24 ・・ 観測機器を設置
      アポロ14号 1971. 1.31 〜 2. 9  ・・ フラマウロ高地
      アポロ15号 1971. 7.26 〜 8. 7  ・・ 月面移動車使用
      アポロ16号 1972. 4.16 〜 4.27  ・・ デカルト高地着
      アポロ17号 1972.12. 7 〜12.19  ・・ 最長月滞在期間
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 1962年2回、1971年2回、1972年2回というように年に2回月に行って
いるのです。これは、かなり異常なことといえます。1970年がないのは、アポロ1
3号が宇宙で爆発を起こしたためと思われます。
 1969年〜72年に、月に行って地球に無事に戻る技術を有していたとすれば、そ
れから35年も経てば宇宙開発に関しては、相当高度なことができてもおかしくないは
ずです。しかし、現在の米国の宇宙開発技術はもちろん世界最高ではあるものの、人類
の月着陸をぜんぜん超えていないのです。これは不思議なことであると思いませんか。
 アポロ11号が月着陸に成功したとき、世界中の人は米国の凄さに驚嘆したと思いま
す。 「やはりアメリカは凄いとても勝てない」と。とくに当時は一般の人にとって、
「コンピュータ」は遠い存在であり、「何でもできる神秘的なほど凄いマシン」という
イメージが強かった時代です。
 そのため、人類の月着陸にしても、コンピュータの力であんな凄いことができたのだ
と納得していたと思うのです。しかし、現代ではほとんどの家にコンピュータがあり、
それだけに多くの人がコンピュータの限界を知っています。つまりコンピュータという
ものを神秘的なマシンと見ず現実的なマシンとして見るようになっています。
 そのため、1969年のコンピュータで果たして月着陸のようなことができるのかと
いう素朴な疑問が出てきたと思うのです。35年という年月が経過して、はじめてそう
いう疑問が湧いてきたのです。それが「アポロ疑惑」ではないでしょうか。
 2003年2月1日に地上への帰還途中にスペースシャトルのコロンビアが爆発事故
を起こしていますが、スペースシャトルは宇宙といっても地上250〜400キロメー
トルを周回しているに過ぎないのです。それを35年も繰り返してきてまだ、その帰還
途中に事故を起こしているのです。人類の月着陸に比べればきわめて初歩的なミスとい
えます。
 月までには、24マイル=38万キロメートルも離れているのです。そんな遠いとこ
ろに生身の人間を運んで、そして、月面という真空の恐ろしいところで歩かせるなどし
てそれから発射台も司令塔もないのに、再発射して地球に無事帰還させる――そんな凄
いことを35年も前にやって6回も成功させているのです。あまりにもアンバランスだ
とは思いませんか。
 副島隆彦氏は、スペースシャトルについて次のようにいっております。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       スペースシャトル計画は、華々しく、1981年4月の「コ
      ロンビア号」の成功から始まった。ところが、スペースシャト
      ルというのは、何をやっている計画なのかがはっきりしない。
      地球の周りをぐるぐる回る以外のことをスペースシャトルとい
      うのは、やらない。ぐるぐる回ることが、そんなにすごいこと
      なのか。その最中に船内でいろいろの「無重量状態での実験」
      をすること以外に何があるのか。こうやって有人で地球をぐる
      ぐる回るだけでこの35年が過ぎたのだと言える。皆が夢見た
      あの月旅行は一体どうなった?
      ――副島隆彦著、『人類の月面着陸は無かったろう論』より。
                           (徳間書店刊)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 先ほど「月面という真空の恐ろしいところ」という表現を使いました。一般人は真空
の場所で人間が生きるには、口に酸素マスクをあてて呼吸すればよいと簡単に考えてい
ます。しかし、人間は100%の酸素があっても生きられないのです。それだけでは呼
吸ができないからです。呼吸をするには気圧が必要なのです。
 呼吸というのは、肺の中にある肺胞の膜を酸素が通過して血液の中に溶け込んでいく
現象のことをいうのです。この場合、酸素に圧力がかかっていないと、酸素は肺胞の膜
を通過できないのです。だから、気圧が必要なのです。
 高度1万メートルまでの対流圏までは、大気の組成は一定ですが、高度が高くなるに
つれて空気の密度は減少し、気圧が低下します。気圧が低下すると、体内に吸収される
酸素が減少するので酸素不足の現象が起きるのです。
 気圧が48ミリHGまで下がると、体液が体温で沸騰点に達してしまい、体内の水分
が水蒸気になってしまうのです。そうなると、体内にガスが充満し、口、鼻などからガ
スが吹き出し、全身が風船玉のようになって死んでしまいます。
 したがって、宇宙船は約260ミリHGの気圧が保たれている必要があり、100%
の酸素を宇宙飛行士に呼吸させるような設計が必要になるのです。月にまで行って戻っ
てくるには、もっと気圧を上げる必要がありますが、そのためには宇宙船の外被を厚く
しなければならないのです。これは、宇宙船をできるだけ軽くするという設計に反する
ことになります。宇宙船ひとつとっても月に行くということはこんなに大変なことなの
です。・・・ [アポロ計画/003]

2006年11月10日

月への軟着陸は現在でもできない!?(EJ第1393号)

 副島隆彦氏は、人類の月着陸が現在の技術をもってしても困難である理由のひとつと
して、月面へのロケットの軟着陸の困難さを上げています。
 2003年2月1日にスペースシャトル・コロンビアが地球に帰還中に爆発炎上して
いますが、コロンビアは地表から約100メートルの高度から、大気圏に突入してその
あと地表62キロメートルのところで爆発しているのです。
 このときの落下速度は、時速2万2000キロメートルの猛スピード(マッハ18/
秒速6キロメートル)であり、スペースシャトルは、文字通り全身火だるまになって落
ちてくるのです。そのため、スペースシャトル全体を覆っているゼリー状の温度冷却物
質を溶かしながら船体の温度が上昇することを防ぎながら落下するわけです。生易しい
ものではないのです。
 これは、地上に降りる場合ですが、月に降りるのはもっと困難なのです。惑星を軌道
周回するときの速度から減速して、着陸船を垂直に着陸させるといいますが、そんなこ
とはとうてい無理な話なのです。
 何しろ着陸船は、月の地表からの高度100キロメートルぐらいの軌道上から、時速
7000キロメートル(マッハ6/秒速2キロメートル)の猛スピードで落下してくる
のです。その着陸船に、横方向から慣性減速を与えて姿勢を制御する装置は現在でも開
発されていないのです。それなのに、アポロ計画ではどのようにしてそれを克服できた
のでしょうか。まして月は真空であって摩擦、つまり空気抵抗がぜんぜんないのです。
それをどのようにして減速したのかについて何も明らかになっていないのです。
 一般人のイメージでは、着陸船が逆噴射をしながら少しずつ噴射口からの推進エネル
ギーを落として、月面に静かに着陸するというように考えます。そのような映像をわれ
われは見せられていますが、そういう芸当は「鉄腕アトム」の世界の中でしかできない
ことなのです。
 仮に月面に軟着陸できたとしてもです。その月面から着陸船を再発射し、月の周回軌
道上で待つ司令船とドッキングするという大仕事があるのです。それは、月面への軟着
陸よりも、はるかに難しい大変なことをしなければならないのです。それをどこからコ
ントロールしたのでしょうか。
 NASAによると、はるかかなたの地球のテキサス州ヒューストンの司令室から、電
波による遠隔操作によってやったとしているのです。あなたは信じられますか。
 2002年10月30日付のEJ第977号からの再現ですが、アポロ11号の月着
陸船「イーグル」とヒューストンで次の会話をかわしていることが記録に残っています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      ヒューストン:調子はどうだ。
      イーグル  :とてもいいよ。そちらはどうだい。
      ヒューストン:とってもいい。
      イーグル  :2000フィート。いよいよ、クライマックス
             だ。イーグルはすばらしいよ。
      ヒューストン:受像している。ゴー
      イーグル  :750フィート。540フィート。
             高度、風速よし。 220、200、100、
             80、85、40・・・
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このヒューストンとの会話はかなり怪しいです。初めての体験なのに、妙にリラック
スして、のんびりムードです。それに「風速よし」といっていますが、空気のない月に
風速があるはずがないではありませんか。
 資料を探していくと、次のような交信記録もあるのです。こういう交信が本当にあっ
たとした場合、こちらの方が、信憑性があるように思います。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      イーグル  :540フィート、30で降下、10で降下、
             400フィート、9で降下、前進、350フィ
             ート、4で降下、・・・(中略)
      ヒューストン:60秒
      イーグル  :ライトがついた。2.5で降下。
             前進、前進40、2.5で降下、ちりが舞い上
             がっている。(中略)
      ヒューストン:30秒
      イーグル  :コンタクト・ライト!OK。エンジン・ストッ
             プ。自動上昇システム。姿勢制御両方OK。
             降下用エンジン手動オフ。エンジンアーム・オ
             フ。413イン
      ヒューストン:了解、イーグル
      イーグル  :ヒューストン、こちら静かの海基地。イーグル
             は着陸した。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この交信で飛行士(アームストロング船長)がいう「30で降下」とは「秒速30フ
ィートで降下」というイーグルの速度をあらわしています。これに対して、ヒュース
トンのいっている、「60秒」とか「30秒」というのは、イーグルの燃料の残りを示
しています。
 しかし、実際にこんな交信があったかどうは、まったく不明です。それにしても「秒
速30フィートで降下」とは、秒速9.2メートルで降下という意味であり、非常にス
ローです。既に述べたように、月面から100キロメートルの高度から降りると、秒速
2キロメートルという猛スピードになるのです。こんな悠長な交信などできないはずで
す。
 月面への軟着陸など、現在の技術をもってしてもできるはずがない――この副島隆彦
氏の指摘に対して、NASAはどのように答えるのでしょうか。 
                      ・・・ [アポロ計画/004]

月着陸船「イーグル」.jpg

2006年11月13日

副島隆彦VS肯定派の論争(EJ第1394号)

 副島隆彦氏が「人類の月面着陸は無かったろう論」を書いたのは、2003年4月2
9日付の副島氏の公式サイト「学問道場」<今日のぼやき>においてです。副島氏のサ
イトをご紹介しておきましょう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      副島の「学問道場」    http://soejima.to/
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 それからというものこの議論は異常に盛り上がって、遂に本の刊行という運びになっ
たのです。世界中に巻き起こっているこの疑惑に対してNASAは軍事機密であるとし
て、正式には答えていないのです。
 その代わり、NASAに関連がある団体が「月の雑学」というサイトを立ち上げ、指
摘されている疑惑に対して、ひとつずつていねいに答えるなどして、必死に対応してい
ます。
 また、日本でのアポロ疑惑に火をつけたテレビ朝日の『緊急指令!!これマジ!?/ア
ポロは本当に月に行ったのか』に対してもさまざまな圧力をかけて以後の放映を中止さ
せるなど、疑惑の火消しに必死なのです。
 副島氏の「学問道場」に対しても賛成論や批判論など、非常に多くの書き込みがある
ようですが、批判論については名前こそ伏せているものの、とても個人の書き込みとは
思えない精緻な記述の反論が多いのです。何か特別の任務を帯びて、プロとして反論を
しているように思えるのです。そのひとつをご紹介しておくことにします。
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       はじめてメールします。フランスのコートダジュール観測所
      で行われている月と地球の距離を測る実験で、アポロ計画で月
      の表面に残された反射鏡が使われているそうです。この実験に
      より、月と地球の距離が数センチメートル単位で測定すること
      ができるそうです。リンク先にはネット上で見つけた、この観
      測所の研究員による論文の要約があります。(アドレスが掲載
      されているものの、アクセスするとエラーになる/平野注)
       この実験は、地球と月の距離を測るというある種単純な興味
      から、一般相対論による重力誤差を測定するという理論的な問
      題まで、さまざまな用途があるようです。これで月の上にある
      反射鏡の存在は確認できます。(一部略)
       副島氏はこのような科学的な研究の積み重ねをも無視するの
      でしょうか。日頃の「科学」へのコミットメントはどうしたの
      でしょうか。今回の件は正直がっかりしました。
           投稿者/Bread’n’butter/2003.05.05
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 どうでしょうか。副島氏の一番痛いところを衝いていると思います。しかしこれに対
する副島氏の反論は、いささか感情的であり、反論にはなっていないと思います。副島
氏の反論は非常に長いのですが、そのほんの一部だけをご紹介しておきます。
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       このレーザー反射鏡式の距離測定用の目印の存在だけを、私
      副島隆彦の「人類の月面着陸は無かったろう論」への反証とし
      て鬼の首を取ったように言い募っている連中がいる。愚か者た
      ちよ。君たちは何をそんなに怯えているのだ?
       何か隠さなければならない重大なことでもあるのか?君たち
      のほうが本当は私よりも、ずっと早くから「NASAの人類の
      月着陸の捏造=大犯罪」を知っていたのではないですか。
                      ――副島隆彦氏の本より。
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 副島氏は、投稿者/ブレドンバター氏が何者であるか、サイトを逆にたどって調査し
ています。その結果、このブレドンバターなる日本人は米国に居住していて、テキサス
州のある都市にいるらしいことがわかっています。もし、ヒューストンであるとすれば
この人がどういう職業の人であるかが、見当がつきます。
 このブレドンバターなる人物は、副島氏が反論に対する反論を送った同じ日にまた反
論を入れてきています。その一部を紹介しておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       副島さん、再びこんにちは。数学で「存在証明」つまり、あ
      る解が存在するという証明は、その条件を満たす解をひとつ挙
      げればよい。
       ですから、人類が月に行く技術を持っているという証拠は、
      反射鏡という精緻な機器が月上に残されているということを証
      明すれば足りる。後は、どんなに月着陸が「ありそうもない」
      という状況証拠を重ねても、この存在証明が揺るがなければ月
      着陸はあったと考えたほうがいい。
           投稿者/Bread’n’butter/2003.05.05
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この人物がNASAの関係者であるとすると、アポロ疑惑に対する唯一の反証として
反射鏡の存在で対抗しようとしていることがわかります。これに対する副島氏の反論で
す。副島さん、かなり、怒っています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       「無かったことの証明」というのはできない、というよりも
      しなくていいのです。それよりもまず、「有ったことの証明」
      をしなければならないのです。月面着陸は有ったと主張する者
      たちこそ、まず証明責任はあるのです。(一部略)
       「一点を反証したら、科学になるのどうの」という幼稚なこ
      とを、この、私、副島隆彦に向かって言うな。ファイアアーベ
      ントや、トマス・クーンらいわゆる科学哲学者たちが展開した
      反証可能性の問題は、君らよりも私の方がずっとよく知ってい
      る。いちいちふざけたことを、この日本の碩学の私に向かって
      説くな。          ――――副島隆彦氏の本より。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
                        ・・・ [アポロ計画/005]

反射鏡.jpg

2006年11月14日

EORかLORかの選択(EJ第1395号)

 アポロの有人月着陸計画は本当にあったのか――副島隆彦氏とそれがあったとする肯
定派との論争は、いわば水掛け論になっています。副島氏も、かなり乱暴な指摘をして
いるところがあることは否めないし、肯定派も副島氏の主張に十分には反論できていな
い――私はそう考えます。
 「ああいえば上祐」というのが一時流行しましたが、ああいう論争になっているので
す。これではどこまくでいっても水掛け論になります。副島氏は「もう一度月に行って
こい」といっていますが、確かに反論サイトを作ったりメールでゴチャゴチャ攻撃など
せず、もう一度やって見せれば、世界中納得するのではないでしょうか。再現性のない
ものは科学とはいえないからです。
 既にロケットの話のときに述べましたが、2004年1月4日に米ブッシュ大統領は
、宇宙開発計画に関して次のことを発表しています。再現しておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      1.2010年までにISS(国際宇宙ステーション)を完成
        させる。ISS完成後スペースシャトルを引退させる。
      2.新しい宇宙船として深宇宙探査可能なCEVを2008年
        までに開発し、2014年までに有人飛行を実施する。
      3.2020年までに月有人長期滞在を実現し、月を基地とし
        て火星に有人探査、それ以遠には無人探査を実施する。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 最近米国は月よりもはるかに遠い火星や木星などに世界の人々の関心を向けさせよう
としているように感じます。月の有人探査ではなく、火星の有人探査をいい出していま
す。それにしても、2020年に月有人長期滞在をするとは、まるで35年前のアポロ
計画がなかったような話です。
 世界的な規模でアポロ計画が疑われているのですから、ここでもう一回35年ぶりに
月に人を送り込み、それらの人々を無事に地球に戻せば疑惑はすっきりしますNASA
はなぜやらないのでしょうか。それともできないのでしょうか。
 さて、不毛の水掛け論争をしないために、ここで検証すべきは次のことに尽きると思
うのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      1969年当時において、人類が月に行って月面に降り立ち、
      再び無事に地球に戻ってくる技術があったのかなかったのか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 EJでは今週からこのテーマを検証していきたいと思います。そのためにはもっとア
ポロ計画の内容について、具体的な知識を持っている必要があると思います。
 どのようにして月に行くのか――これに対して次の3つの方法が検討されていたので
す。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        1.新ロケットによる直接方式
        2.地 球軌道ランデヴー方式 ・・・・・ EOR
        3.月  軌道ランデヴー方式 ・・・・・ LOR
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「新ロケットによる直接方式」というのは地上から月まで直接飛んで行く方式です。
当時は「サターンVロケット」の開発が進められていたのですが、この直接方式では、
少なくともサターンVの2倍ぐらいのパワーを持つロケットが必要だったのです。ちな
みに、このロケットは「ノヴァ」と呼ばれておりその第1段目に1つのチャンバー(燃
料室)で680トンの推力を有する、F−1エンジンが使われる予定だったのです。
 「地球軌道ランデヴー方式」(以下、EOR)というのはサターンVロケットを2機
打ち上げて、地球を回る軌道上で出会わせるのです。仮にA機とB機にしましょう。
A機は、宇宙船を月に運んで帰還させるのですが、地球からの打ち上げのさいに燃料を
使い果たすので、B機がタンカーとなって燃料を運び、それをA機のタンクに充填する
という方式です。
 「月軌道ランデヴー方式」(以下、LOR)というのは、着陸船を月の周回軌道に運
び、着陸船のみを月に降ろし司令船は月軌道に待機するという方法です。「新ロケット
による直接方式」もEORも、地球帰還に用いるロケットとカプセルを月に降ろす方式
ですが、LORは、着陸船だけを月に降ろすので、燃料を大幅に節約できるというメリ
ットがあるのです。
 しかし、「月軌道ランデヴー方式」は、月に行く途中で着陸船を切り離して逆向きに
ドッキングし、さらに月の周回軌道に入ってから再び着陸船を切り離し、それを月面に
降ろしたあと、帰るときにまた司令船とドッキングするなど、ミッションが複雑である
という欠陥があるのです。
 それに、これらのほとんどが地球局から見えない月の向こう側で行われるので、コン
ピュータに大幅に依存することになるのですが、当時のコンピュータの能力では不安が
あったのです。
 EORかLORか――結局はこの2つの方式に絞られて、激しい議論が行われたので
す。しかし、不安であったコンピュータがIBMによる劇的なコンピュータの進歩によ
って、性能が飛躍的にアップしたこと、それに、1961年10月27日に開発中のサ
ターンⅠロケットが成功裏に打ち上げられたことによって、結局はLORが採用される
ことになったのです。
 1962年7月11日――NASAは正式にLORを採用することにして発表が行わ
れたのです。そして、幻のロケット「ノヴァ」に搭載される予定であったF−1エンジ
ンは、サターンVの一段目エンジンとして採用されます。そして、1962年末には月
飛行のコンセプトは、ほぼ内容が固まり、NASAの月への挑戦がはじまったの
です。                          ・・・ [アポロ計画/006]

アポロ計画マネージャ会議.jpg

2006年11月15日

どのようにして月に行くか(EJ第1396号)

 どのようにして月に行って戻るか――その方式がLORに決定したことについては昨
日のEJで述べています。EORとLORは、次のことばの略です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
         EOR ・・・ Earth-Orbit Rendezvous
         LOR ・・・ Luna -Orbit Rendezvous
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 アポロ計画で使われたロケットは「サターン」という名前が付いています。サターン
には次の3種類があり、月飛行には「V」が使われたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
               全長     重量   地球軌道運搬能力
     サターンⅠ   57.8m   528t     10t
     サターンⅠB  68.3m   590t     17t
     サターンV  110.6m  2900t    129t
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このうち「サターンⅠ」と「サターンⅠB」は、月へ何かを運ぶことを想定していま
せんが、「サターンV」については、月に45トンのものを運べる能力を有していたの
です。
 サターンVは3段式ロケットですがその3段目の先端に位置するのが、いわゆる「ア
ポロ宇宙船」であり、次の3つの部分から成っています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        1.司令船 コマンド・モジュール ・・・ CM
        2.機械船 サービス・モジュール ・・・ SM
        3.着陸船 ルナー ・モジュール ・・・ LM
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 CM/司令船には、3人の飛行士が乗り、誘導・制御・航法用機器、姿勢制御スラス
ター、出入口および船外活動用ハッチ、先端にはドッキングボード、パラシュートが装
備されています。
 SM/機械船には、月に向かう遷移軌道における推進システム姿勢制御システム、電
力供給用の燃料電池とその燃料、飛行士たちの酸素や水その他サブシステムが積まれて
います。
 LM/着陸船には、降下用エンジンとその燃料および4本の脚を持つ着陸用の下半分
と、はるかに複雑な上昇用の上半分からできているのです。つまり、降下用の下半分は
上昇するさいの発射台の役割をするのです。
 上昇用のシステムには、エンジンと燃料、飛行士を収容する生命維持装置を付けた加
圧室、出入り口であるハッチ、姿勢制御システム、通信システム、ドッキング用ハッチ
ランデヴー用の機器が積まれているのです。なお、LMにはアポロ宇宙船15、16、
17号では、月面車がコンパクトに畳まれて着陸部分に付けられたのです。
 さて、このシステムでどのように月に行くかです。まず、宇宙船を月への遷移軌道に
乗せるところまでをまとめると、次の5段階になります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
           1.宇宙船を地球周回軌道に乗せる
           2.主要システム最後の総点検実施
           3.ロケット着火/月への遷移軌道
           4.3段目ロケットの切り離し実施
           5.CSMとLMのオペレーション
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 一番大変なのは、実は地上からロケットを発射させて宇宙船を地球周回軌道に乗せる
までなのです。サターンVロケットの第1段と第2段、第3段が順に点火され、打ち上
げ後、約8分30秒で地球周回軌道に達するのです。
 この時点で第3段ロケットはまだ切り離されておらず、残っているのです。宇宙船を
月への遷移軌道に乗せるという重要な役目が残っているからです。
 地球周回軌道に入ったら軌道上で主要システムの最後の総点検を行い、月への遷移軌
道を正確に定めるのです。そして、3段目ロケットに再着火し、6分後に宇宙船を月の
遷移軌道に投入するのです。そのうえで、3段目ロケットを切り離します。分離された
3段目は、制御を失ったまま月に向かい、月面に激突することになります。
 これからCSM――すなわち、司令船と機械船の結合体――と着陸船LMとの間に複
雑なオペレーションが開始されるのです。まずCSMがLMから切り離され、少し前方
に加速し、そこで180度方向転換をして、前からLMとランデヴーし、CMの先端を
LMのドッキング用ハッチに結合します。これで飛行士たちは、CMとLMを自由に往
復でき、居住空間が広がってリラックスできるわけです。こうして飛行士たちは、月へ
の3日間を過ごすことになるのです。
 ここまでの一連のプロセスは、映画『アポロ13』において、すべて見ることができ
ます。ご存知のように、アポロ13号は、1970年4月11日に打ち上げられたので
すが、月までの行程の6分の5を過ぎた13日午後10時に機械船SMの中の酸素タン
クのひとつが爆発し、同時に3個ある燃料電池の2つまでが使えなくなってしまうので
す。つまり酸素と電力という宇宙飛行の生命線がほとんど断ち切られてしまったのです。
 ヒューストン飛行管理センターからの指示にしたがい、月への着陸を断念して、大変
な苦労をして地球に無事に戻るのですが、ロケットの地上からの発射から地球周回軌道
に乗り、月への遷移軌道へ移り、CSMとLMのドッキング、CMとLMの内部の様子
などすべて映画の中で見ることができます。
 私もこの映画を観たうえで、今朝のEJを書いております。今ならDVDの格安価格
で手に入りますので、参考のためぜひご覧いただきたいと思います。もっとも副島隆彦
氏は、この映画をボロクソにけなしてはいますが・・・。  
                     ・・・ [アポロ計画/007]

映画『アポロ13』/DVD.jpg

2006年11月16日

フォン・ブラウンとコロリョフ(EJ第1397号)

 LMとドッキングしたCSMが月に向かい、どのようにして地球に戻るかですが、そ
のステップは次の7段階です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
            6.月周回軌道に到達/LMを分離
            7.2人の飛行士LMで月面に着陸
            8.上昇エンジンでLM月面を離陸
            9.CSMと結合/飛行士CM移動
           10.LM廃棄/地球遷移軌道に乗る
           11.CMとSM分離/CM大気突入
           12.パラシュートの力を借りて着水
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 月の周回軌道に乗ると、LMに2人の飛行士が乗り込んでLMはCSMから分離され
月に向かい、降下用エンジンで減速しながら、月面に着陸します。副島氏は、そのよう
なことは現在の技術をもってしても不可能としていますが、・・・。
 月面活動を終えた2人の飛行士はLMに乗り込み、降下用エンジンを含む着陸船の下
半分を発射台に使って、上昇用エンジンに点火し、軌道で待機しているCSMとランデ
ヴー、ドッキングします。この段階で、飛行士と月面からの採集物――月の石などをは
じめ、必要な機器類をCMに移動します。この重量は最初から厳密に計算されているの
です。
 アポロ13号の場合、月着陸を断念したので、帰還するさいのCMの重量が足りず、
LMからいろいろな機器をCMに積んで指定の重量にするシーンが映画で見ることが
できます。
 そのあと、LMはCSMから分離され、廃棄されます。そしてSMのエンジンが点火
され、CSMは地球に向かう遷移軌道に投入され、一路地球周回軌道を目指すのです。
 そして、地球大気に到達する直前、CMとSMは切り離されCMは大気圏に突入し、
パラシュートの力を借りて減速し、指定の海域に着水する――これがアポロ計画の全プ
ログラムです。
 プログラムとしては完璧です。アポロ計画の詳細を知るには、どうしてもNASA
サイドに立って書かれた書籍を参照するのでここまで精緻に練られた飛行計画を示され
ると、当時の技術で十分実現可能であったのではないかと考えてしまいます。
 しかし、NASAサイドの資料では大きく抜け落ちていることがひとつあります。そ
れは、1958年にジェームズ・ヴァン・アレン博士が発見した「ヴァン・アレン帯」
が月に向かう宇宙飛行士に与える影響についてです。月には、ヴァン・アレン帯を突破
しないと行けないからです。ここを通っても人体に影響を与えない技術を人類は当時も
今も有しているのでしょうか。
 ヴァン・アレン帯については、改めて述べる予定ですが、NASAの記述によると、
この問題をあまりにも軽く考えているところがあり、それもアポロ疑惑が騒がれるよう
になってから、例の「月の雑学」のサイトなどで、「ロケットは超高速で通過するので
問題はない」とまるで問題にしていない説明ぶりです。
 確かに今まで、ヴァン・アレン帯の外に出た宇宙飛行士は27人いるのですが、放射
線の影響とみられる症状を示したのは、アポロ8号の宇宙飛行士、フランク・ボーマン
氏だけなのです。
 また、月面に降り立った宇宙飛行士12人のうち、1998年までに死亡した人はた
ったの1人であり、健康面には何も問題はないのです。もっとも月に行っていないので
あれば、十分納得できる話ではありますが・・・。
 しかし、EJでは、もう少し「人類を宇宙(月)に送り込む」という壮大なるプロジ
ェクトの歴史について、探ってみたいと思います。
 人類による宇宙旅行という壮大な夢を持ち、それを長年にわたる研究開発と実験によ
って、その目標をかなりのレベルまで実現させた科学者といえば次の2人が上げられま
す。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        ヴェルナー・フォン・ブラウン      ドイツ
         1912〜1977
        セルゲイ・パーヴロヴィッチ・コロリョフ ロシア
         1906〜1966
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この2人の科学者は、ドイツとロシアという別の国に生まれながら、実に数奇な運命
に左右された科学者なのです。あの米ソの有人宇宙飛行競争の米国の旗頭がフォン・ブ
ラウンであり、対抗するソ連の旗頭がコロリョフであるからです。
 1961年4月12日にコロリョフが率いるソ連のチームが、ガガーリンを軌道に乗
せて世界中の大喝采を浴びると、フォン・ブラウンが率いる米国NASAは、最初から
有人月着陸に目標を絞ったアポロ計画をスターさせ、遂に1969年7月20日にアポ
ロ11号による月着陸を成功させる、というようにです。
 フォン・ブラウンとコロリョフは、生涯を通じて一度も会うことはなかったのですが
、まさに2人は資本主義と社会主義の代表選手として、国家の誇りと名誉にかけて、1
960年代に息づまる先陣争いを戦ったのです。
 まさに史上最強のライヴァルというべき2人ですが、米国とソ連という20世紀の2
大強国を舞台とはしているものの、ともに人類を宇宙に送り出し、いつの日か宇宙旅行
を実現させたい−−この幼い頃の夢を大きく現実に近づけた2人だったといえます。
 アポロ計画による人類の月着陸はあったのか、なかったのか――疑問は数多くありま
す。NASAは、正式には軍事機密と称して何もコメントしませんが、そのウラでは数
々の手段を使って疑惑の火消しにやっきとなっているように見えます。
 このテーマの分析が単なる水掛け論に終わらせないためにも、フォン・ブラウンとコ
ロリョフの2人の科学者がいかにして、人類の宇宙旅行という自分たちの夢を実現させ
ようとしたのか、その軌跡をたどって見るのも無駄ではないと思います。明日から、こ
の2人について考えていきます。      ・・・ [アポロ計画/008]

フォン・ブラウンとコロリョフ.jpg
               

2006年11月17日

フォン・ブラウンとV−4ロケット(EJ第1398号)

 1919年1月18日のことです。第1次世界大戦の後始末のためのパリ平和会議が
フランスのベルサイユで開かれています。この会議には、第1次世界大戦の戦勝27ヶ
国から70名の代表が参加して、さまざまな取り決めを行っています。
 この会議は、敗戦国のドイツから多額の賠償を搾り取るためのものであり、また、締
結されたベルサイユ条約は、ドイツの再軍備を徹底的に封じ込める内容になっていたの
です。
 ドイツとしては、その後必死に再軍備の方向を探ったのです。そして条約の抜け穴を
発見します。条約は、ロケットの開発についてはふれていなかったのです。そこでドイ
ツは液体推薬を燃料としたロケットの開発に踏み出していったのです。
 このことによって、ドイツでは1920年代にロケット・ブームが巻き起こります。
そして30年代には、兵器としてのロケットが開発されるようになっていったのです。
1931年、当時ベルリン工科大学の学生だったフォン・ブラウンは、「VfR」、ド
イツ宇宙旅行協会の熱心なメンバーだったのです。このVfRというのは、宇宙旅行を
目標に民間からの寄付金を基にしてロケットを開発する人たちの集まりだったのです。
 フォン・ブラウンは、人類は宇宙に積極的に出るべきであるという幼いころからの夢
があり、それを何とか実現したいという強い意思を持っていたのです。
 当時のドイツ陸軍は、VfRのロケット開発には関心を持っていて、その実験場には
よく見学に来ていたのです。そして、陸軍の指定する区域内で実験をしてくれるなら、
もっと大型のロケットを開発する費用を出してもいいと勧誘してきたのです。
 VfRのメンバーのほとんどは、軍のこの申し出に反対したのですが、フォン・ブラ
ウンはひとりこの誘いに乗るのです。彼は民間の乏しい寄付金だけで、ロケットを開発
していても宇宙飛行など不可能という現実的な考え方を持っていたからです。
 兵器としてのロケットの開発はやりたくないが、たとえ悪魔に魂を売り渡しても宇宙
旅行を実現させるとして、軍に協力する決心をしたのです。
 1932年11月、彼は陸軍兵器局に入って大型ロケットの開発をはじめたのです。
そして、豊富な資金を使って次々とロケットを制作し、1937年にはバルト海沿岸に
建設された秘密基地ベームミュンデにおいて、技術の責任者に昇格します。ときに、フ
ォン・ブラウン、弱冠25歳だったのです。
 1939年にドイツがポーランドに侵攻・降伏させて第2次世界大戦が勃発します。
そのころになると、VfRの同志がフォン・ブラウンのところに馳せ参じたのです。そ
して、彼らの力もあって、フォン・ブラウンは近代ロケットの元祖ともいうべき、A−
4ロケット(V−2)の開発に成功するのです。
 A−4ロケットは、1000キログラムの弾頭を積み、290〜340キロメートル
の射程を持つよう設計されたのです。全長14メートル、直径165センチメートル、
重さ1万2000キログラムという当時世界最大のロケットだったのです。
 画期的だったのはその誘導システムなのです。あらかじめ決められたコースを記憶し
ておき、ジャイロスコープとドップラー・レーダーが示す変化をもとにして、実際の飛
行経路を電子回路でチェックするというものです。そして、その結果を記憶している予
定のコースと比較して適切な指令を出して、尾翼の舵と噴射版を動かして誘導するとい
う驚くべきものだったのです。
 A−4ロケットは、1942年の春にテスト飛行を行ったのですが、失敗。2号機も
失敗に終わっていますが、1942年10月3日、遂にA−2ロケットは飛行実験に成
功するのです。
 このA−2ロケットの成功のあと、ヒットラーはロケットに異常な関心を示し、A−
4ロケットの量産を命じてくるのです。しかし、フォン・ブラウンはA−4ロケットを
兵器として使うことに反発します。
 そのため、1944年2月にフォン・ブラウンは、東プロセインのゲシュタポ(国家
秘密警察)本部から呼び出しを受け、そのまま拘束されてしまうのです。拘束理由は、
フォン・ブラウンは軍のめざす開発をさぼって、宇宙探査のことばかりやっているとい
うものだったのです。
 これに驚いたのは、フォン・ブラウンの上司であるドルンベルガーです。彼はフォン
・ブラウンなくしてA−4ロケットの前進はないとして、ヒットラーの側近であるシュ
ペーアへの根回しでフォン・ブラウンを釈放させるのです。
 一方、ドイツがベーネミュンデで、新兵器を開発しているという情報を掴んだ連合軍
は、1943年8月に英国空軍がベーネミュンデを爆撃します。米国空軍も1年後の7
月と8月にベーネミュンデを爆撃しますが、これによるドイツ側の技術面での被害は、
ほとんどなかったといわれます。
 この事態になってベーネミュンデの支配権は完全に軍の手に握れ、遂に1944年9
月8日、A−4ロケットはベルギーに配置された可動発射台からパリとロンドンに向け
て発射されたのです。そしてその時点から、A−4ロケットはゲッペルス宣伝相によっ
て、報復兵器を意味する次のことばで呼ばれるようになるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       Vergeltungswaffen = 報復兵器 → V−4ロケット
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このV−4ロケット――推定では、この兵器によって1万2685人の死者を出し、
3万3700もの住居や建物が破壊されたのです。不幸なことに人類のロケットの近代
化は、このような恐るべき殺人兵器を元祖とすることになったのです。
 とくに英国の被害は深刻だったのです。1500発を超える殺人兵器V−4が南イギ
リスに落ち、2500人以上の命を奪い多くの住居や施設を破壊したのです。しかし、
それも1945年3月27日に終了するのです。  ・・・ [アポロ計画/009]

V-4ロケット.jpg

2006年11月20日

コロリョフも逮捕されている(EJ第1399号)

 ドイツのフォン・ブラウンとソ連のコロリョフ――お互いの名前もやっていることも
熟知しているのに、生涯一度も会うことのなかった2人です。この2人について調べて
いると、そのあまりにも似ている運命に宿命的なものを感じてしまいます。
 セルゲーイ・コロリョフは、3歳のときに両親が離婚をしており、9歳のときに母マ
リア・ニコラーエヴァナは、グレゴリー・バラーニンという電気技術者と再婚します。
この新しい父にコロリョフは大いに感化されるのです。
 義父バラーニンはオデッサの空港発電所の所長をしており、その関係があってコロリ
ョフは航空に関して興味を抱くようになります。彼は、キエフ工科大学の航空学部に入
学し、「全ソ連グライダー・ラリー」に参加するために、グライダーの建造に夢中にな
った時期があったのです。
 1925年の秋、大学のグライダー活動がうまくいかなくなり、さらに両親がモスク
ワに引っ越すことになって、コロリョフもモスクワに行くことにしたのです。1927
年7月、コロリョフはモスクワ高等技術大学への入学許可を受けるのです。
 この大学は、1872年にニコライ・ジューコフスキーが赴任してから航空学の強力
な伝統ができていたのです。それに、コロリョフは、この大学で師としてアンドレイ・
ツポレフに仕えることになるのです。
 ツポレフは、多くのソ連の軍用機や民間機を50年以上の長きにわたって設計した人
であり、彼は「中央空気水力研究所(通称ツァーギ)」の数あるプロジェクトに精力的
にかかわっていたのです。したがって、モスクワ高等技術大学の学生は、何かを設計し
、建造することが義務づけられていたのです。コロリョフは、ツポレフの指導の下で、
グライダーと軽飛行機の設計と建造に取り組んだのです。
 このツァーギにおいて、コロリョフは、フリードリッヒ・ツァンダーという人物に出
会うのです。ツァンダーは、ソ連のロケットの先駆者といわれる人物であり、モスクワ
に本拠を置くロケット・グループGIRDのリーダーだったのです。このGIRDは、
フォン・ブラウンがかつて属していたVfRと同じような目的を持つ団体だったのです
 このフリードリッヒ・ツァンダーについて少し述べると、幼いときから非常な天分を
示し1908年にジェット推進の理論的研究をはじめ、その結果、飛行機とロケットの
能力を組み合わせた乗り物を作るアイデアを考え出しています。今日のスペース・シャ
トルと同じ発想です。
 さらにツァンダーは「ソーラー・セイル」――太陽の光の圧力で惑星間を飛行する着
想を生み出しており、1924年には、火星への飛行について論文を書いています。そ
して、1929年には、実際にロケット・エンジンの制作に着手し、実際にガソリンを
燃料とする小さなロケット・エンジンを完成させているのです。このささやかな実験は
、後に有名なロケット「OR−1」に受け継がれていくのです。
 コロリョフがこのツァンダーの影響を受けたことはいうまでもないことであり、彼ら
とともにGIRDでロケットの研究開発に情熱を燃やし続けたのです。
 1933年8月17日午後7時モスクワの西方約32キロメートルにあるナハビーノ
の森から、ソ連最初の液体燃料ロケット「ギルド09」が発射されたのです。これは、
GIRDのミハイル・チホヌラーヴォフの設計になるロケットで、最大高度400メー
トルに達したあと滑らかな弾道を描いて隣の森に落下しています。この時点でソ連は、
米国のゴダードによる液体燃料ロケットの打ち上げ成功に7年遅れていたのです。
 この「ギルド09」の成功の数週間後に、ツァンダーの「OR−2」ロケットの改良
型「ギルドX」が同じ地点から打ち上げに成功しているのです。今でもナハビーノの森
には、発射成功を記念する石碑が建っており、ツァンダー、チホヌラーヴォフ、コロリ
ョフに対する賞賛の辞が刻まれているのです。
 1933年10月31日、新組織RNII(反動推進研究所)が発足し、それまでモ
スクワとレニングラードの二手に分かれて進められていたロケット開発が組織として一
本化したのです。RNIIの初代所長は、レニングラードGDLからの軍事技術者イヴ
ァン・クレイメーノフ、コロリョフは副主任技術者という地位を与えられたのです。
 RNIIIの発足から5年、クレイメーノフ所長とコロリョフは精力的にロケット開
発の仕事を続けたのですが、その実績がソ連のロケット開発の進展という結果にはつな
がらず、無駄な足踏みをすることになったからです。
 それは、いわゆるスターリンの粛清によってソ連の多くの科学者、技術者、軍の指導
部が弾圧を受け、それから7年間、ソ連のロケットの研究開発はストップしてしまった
のです。
 1938年6月27日の早朝、内務省の役人がコロリョフの家にやってきて、コロリ
ョフを連行します。ときに、コロリョフは31歳だったのです。逮捕理由は、コロリョ
フよりも前に逮捕されていたクレイメーノフ所長、コロリョフの同僚のグルーシュコら
の陳述によるもので、ドイツにおける反ソ連団体と共謀しているという容疑だったので
す。そして、コロリョフは、禁固10年の刑に処せられ、収容所に収監されてしまうの
です。
 フォン・ブラウンもゲシュタポに逮捕されていますが、コロリフも内務省の国家機密
組織に逮捕される――ともにロケットの開発に従事し、大きな成果を上げていた2人が
です。しかし、フォン・ブラウンがそうであったように、コロリョフの逮捕に対して、
師のツポレフが動いたのです。
 そして、事件の再審議を求める嘆願書が提出され、それが認められてコロリョフは収
容所を離れ再審議を受けるためにモスクワに護送されることになったのです。しかし、
ことは簡単には済まなかったのです。        ・・・ [アポロ計画/010]

Iソーラー・セイル.jpg

2006年11月21日

乾坤一擲のレポート(EJ第1400号)

 1939年、再審議の結果コロリョフの刑期は10年から8年に減刑になったのです。
彼はシベリアのコリマの収容所に送られるはずであり、もしそうなっていたら、彼は
生還することは困難だったと思われます。コロリョフは壊血病を患っており、当時相当
悪化していたからです。
 しかし、ツポレフをはじめとする大勢の人の嘆願により、シャラーシュカの収容所に
送られたのです。ここは、かつてツポレフも入れられていたことがある小さな収容所で
、同僚などの密告で犯罪者にされた科学者や技術者が中心だったのです。
 しかし、コロリョフは、その後シャラーシュカからプチールスカヤ刑務所に移行され
、1941年にはシベリアのオムスク、さらに次の年にはモスクワから650キロメー
トル離れたカザンへと移され、1944年7月になってやっと長い長い囚人生活から開
放されたのです。この間、ソ連のロケット開発は停止したままだったといっても過言で
はないでしょう。
 その頃、ドイツのフォン・ブラウンは、ペーネミュンデの秘密基地でV−2計画を遂
行中だったのです。しかし、1944年になると、連合軍の足音は日増しに大きくなっ
てきたのですが、フォン・ブラウン以下、元VfRのメンバーは、きちんとロケットの
建造に取り組んでいたのです。
 それは、祖国が勝利するための兵器としてのロケットの開発というよりも、彼らが抱
く未来の夢――宇宙を探査し、宇宙に人類を送り出すためのロケットを開発する――そ
ういう気持だったのです。彼らはこの時点で、ドイツがどのような巨大なロケットづ
くりに成功しても、もはや戦況を逆転する力にはならないことをよく知っていたのです。
 フォン・ブラウンは、こうした状況の中にあって、冷静に戦後のことを考えていたの
です。重要なことは次の3つです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
           1.V−2計画機密書類を死守する
           2.ロケット開発技術者の安全確保
           3.必要な機材・部品の移動と確保
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 フォン・ブラウンとしては、戦後になっても宇宙開発のためのロケットづくりを続け
たい――そのためには、ペーネミュンデにある上記の3つものを死守する必要がある。
それには、どうすればよいか――フォン・ブラウンは、自分たちの夢を実現できるのは
米国しかないと考えていたのです。
 1945年1月、ソ連軍はペーネミュンデの東150キロメートルのところまで迫っ
ていたのです。そのとき、フォン・ブラウンは、上層部から次の2つの命令を受けてい
たのです。
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       ●ナチス親衛隊(SS)将軍/ハンス・カムラー
        ペーネミュンデの全人員、全機材を中部ドイツのブライヒ
        ェローデに移動せよ
       ●ポメラニア地方の長官
        ペーネミュンデを死守せよ
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 フォン・ブラウンはどちらの命令を選んでも未来はないと判断したのです。まして、
ポメラニア地方の長官の命令は自殺行為そのものです。そこで彼は仲間と相談をして、
上記の2と3、すなわち、技術者と必要な機材の移動についてはカムラーの命令を受け
入れるふりをして、ペーネミュンデの部局をひとつずつ南のブライヒェローデに向かわ
せ、状況を判断して西側の連合軍に投降するというシナリオを組んだのです。
 1945年3月、ソ連軍はペーネミュンデの30キロ東まで接近してきます。その時
点においてペーネミュンデからは技術者はすべて脱出し、設備の破壊を担当する人たち
がナチスのSS隊員の監視の下に作業をしていたのです。しかし、ソ連軍はすぐにはペ
ーネミュンデに進入してこなかったのです。なぜなら、ペーネミュンデはソ連軍の主要
なターゲットではなかったからです。
 さて、フォン・ブラウンは、上記1の機密書類については、彼の2人の腹心にハルツ
山脈のデルンテンの廃坑を隠すよう委託したのです。そのとき、SSの将軍カムラーか
ら、次の命令を受け取ります。
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      ブライヒェローデを去って、さらに南のバイエルン・アルプス
      のオーバーアンマーガウをめざせ。
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 1945年4月、500人から成るペーネミュンデ・チームは列車でペーネミュンデ
を出発し、オーバーアンマーガウに到着します。そこにはSS隊員が大勢おり、フォン
・ブラウン一行は彼らの厳重な監視の下に置かれたのです。
 しかし、4月30日にヒットラーの死がラジオで伝えられるとオーバーアンマーガウ
からは、目に見えてSS隊員の姿が消えていったのです。
 そして、1945年5月2日、フォン・ブラウンを中心とするロケット技術者のグル
ープは、米国第44歩兵師団第324連隊に身柄を確保されます。フォン・ブラウンの
狙い通りに米軍に投降することができたのです。
 フォン・ブラウンは、ガルミッシュ・パルテンキルヒェンで連合軍の専門的技術者た
ちから、いろいろな質問を受け、ドイツのロケット開発についてレポートを書くよう命
令されるのです。そのレポートの中でフォン・ブラウンは、今まで6万回に及ぶロケッ
トの改良を詳細に述べたあと、ロケット技術はまだ発展途上であること、さらに努力す
れば、人工衛星を実現することは可能であり、月や火星に人間を送れることを力説した
のです。未来の夢の実現をめざして、乾坤一擲のレポートを書いたのです。
                     ・・・ [アポロ計画/011]

2006年11月22日

ドイツロケット遺産の争奪戦(EJ第1401号)

 ドイツのペーネミュンデにおけるロケット開発は、米国はとくに強い関心を持ってい
て、開発責任者とそれに従事していたスタッフ、それにロケット本体や部品などを確保
し、それを少しでも早く米国本土に持ち去るというある意味でとんでもない計画が立て
られて実行に移されたのです。
 このうち開発責任者であるフォン・ブラウンの身柄は本人の投降により労せずして確
保したものの、残りのターゲットについては時間との勝負だったのです。そして、この
任務に当たったのは米陸軍ホルガー・トフトイ大佐だったのです。
 1945年春に連合軍がドイツに西から侵入したときに、多くの人の協力を得て、ト
フトイ大佐は100台分のロケット、ロケット部品、搭載機器、材料部品などを発見し
ています。それらを341両の貨物列車に乗せ、戦火のドイツをくぐり抜けて、ベルギ
ーのアントワープ港まで陸路を運んだのです。
 何しろことは急を要したのです。というのは、ヤルタ協定ではドイツの技術関係の設
備を占領地域から運び出すのを禁じていたからです。しかし、多くの検問を奇跡的にか
いくぐり、何とかアントワープまで運ぶことができたのです。そして、そこから先は1
6隻の貨物船に分散されて太平洋を渡り、ミシシッピの河口の町ニュー・オーリーンズ
まで運ばれたのです。
 一方、フォン・ブラウンの命を受けてデルンテン町の廃坑に隠された重要機密書類は
ステイヴァー少佐が現地の技術者の協力により、ソ連軍と英国軍がデルンテン町を占領
する3日前に、米国の占領地に運ばれたのです。これには、もちろん投降したフォン・
ブラウンが積極的に協力したのはいうまでもないことです。
 さらにトフトイ大佐のチームは、ノルトハウゼン、ブライヒェローデ、イルメナウ、
それにもっと東のペーネミュンデからの人々を1000人ほど確保(女性と子どもを
含む)し、至急に西に移動させたのです。それは、これらの地方にソ連軍が怒涛のよう
に侵入してくる寸前のことだったのです。
 フォン・ブラウンはこれら1000人ほどの人々をすべて米国に運んで欲しいと米軍
に掛け合ったのですが、結局本国からの指令によって米国に渡ることができたのは12
7名だったのです。
 考えてみると、米国は最初からドイツに侵入したら、ロケット開発に携わっていた人
物やロケット本体や部品をできる限り多く確保しようとしていたのに対し、ソ連は、そ
こまでは考えていなかったことがわかります。それは、ソ連軍がペーネミュンデに侵攻
しながら、ペーネミュンデをいち早く占領下に置いていないことでもわかることです。
 このことの差は大きいと思うのです。フォン・ブラウンを確保した米国が、ドイツが
世界に先行したロケット開発をそのまま引き継いで進めることができたのに対して、ソ
連はコロリョフを解放し、ロケット開発の責任者にしたものの、ロケット開発について
は、ほとんどゼロからのスタートになったといえるからです。
 それだけに、いったんはロケット開発において米国をリードしたソ連の宇宙開発の進
歩は素晴らしいものがありますが、後からアポロ計画――それが実際に行われたと仮定
しての話ですが――その計画によって、ソ連は米国に決定的な差をつけられる原因にな
ったのではないかと思えるのです。
 実はソ連がコロリョフを解放し、ペーネミュンデの調査責任者にしたのには理由があ
るのです。1944年7月14日に英国首相であるウィンストン・チャーチルは、ソ連
軍の最高司令官スターリンに対して一通の書簡を送っているのです。悪魔の兵器V−2
ロケットがロンドンに打ち込まれる2ヶ月前のことです。
 チャーチルの書簡というのは、ドイツが新しいロケット兵器を開発し、そのロケット
がロンドンにとって深刻な脅威となっている。そこで英国の専門家を派遣するので、ペ
ーネミュンデを調査できるよう秘密基地の裏側に接しているポーランドへの立ち入りを
許可して欲しいというものだったのです。
 スターリンは、チャーチルのこの申し出を理解できると回答し直ちにソ連側も技術者
のチームを作り、調査するとともに、英国の調査団をポーランドに受け入れたのです。
そして、その発射台などを空から観察し、戦時中にこれほどのロケットを開発するドイ
ツの底力に驚嘆したといわれるのです。
 しかし、その2ヵ月後の9月8日、ロンドンに1500発のV−2ロケットが打ち込
まれ、英国は壊滅的な被害を蒙ることになるのです。このように事前にその脅威に気が
付いていながら、英国もソ連も、ドイツに侵攻しながら、あまりペーネミュンデにこだ
わっていないというのは、今もって世界史の謎といわれているのです。単なるポカミス
なのでしょうか。
 このときコロリョフは、既に解放されており、カザンでロケットの研究を行っていた
のです。1945年の夏にコロリョフは赤軍の将校に任命され、9月8日、奇しくもV
−2ロケットによってロンドンが攻撃された一年後にドイツに飛び、北ドイツの秘密基
地ペーネミュンデを訪れるのです。
 もちろんその頃ペーネミュンデにはほとんど何も残ってはいなかったのですが、発射
台などの残骸から、自分が罪人であった空白の時代にこのペーネミュンデにおいて、宇
宙開発のためにいかに多くの偉業が成し遂げられたかを目撃して愕然とします。自分が
シベリアで夢見たロケット技術の構想がほとんど実現していたからです。そのときコロ
リョフは、フォン・ブラウンを生涯のライヴァルとして強く認識することになるのです。
 このときのソ連の遅れは、陸上の長距離競技にたとえると、2〜3周回遅れに等しか
ったと考えられます。しかし、その時点からは、フォン・ブラウンとコロリョフのロケ
ット開発の条件は逆転してしまうのです。
 というのは、社会主義の優位性を誇示するために宇宙を重視し始めたソ連は、三軍が
ばらばらに宇宙戦略をやろうとしていた米国と比較して、明らかに開発環境において勝
っていたからです。コロリョフは、巨額の予算を手にして、先行しているフォン・ブラ
ウンを少しずつ追い詰めていったのです。・・・ [アポロ計画/012]

2006年11月24日

米国を一歩リードするソ連(EJ第1402号)

 ソ連は、宇宙を制するには、ドイツが既に達成しているロケット建造技術のレベルに
少しでも早く達する必要があると考えたのです。そして、そのためには、ペーネミュン
デその他でロケット建造にかかわっていたドイツ人の技術者を一人でも多く集める必要
があると考えたのです。
 昨日のEJで述べたように、既に米国がロケット建造にかかわる秘密書類やロケット
の本体、部品、それにフォン・ブラウンをはじめとする中心エンジニア127名を米国
に持ち去ってはいましたが、約30機分のロケットの本体や部品それにロケット・エン
ジニアの大半はドイツに残っていたのです。
 ソ連のロケットの専門家は、カリーニングラードというところにあるNII−88
(科学研究所88)にほとんど集められていたのですが、そこにドイツ人の技術者が増
えてきたので、ドイツ人は、モスクワ西方ゼーリガー湖に浮かぶゴロドムリヤ島に集め
られたのです。そして、中心はNII−88、その支所がゴロドムリヤ島というかたち
で開発が進められたのです。
 ゴロドムリヤ島での目標はV−2ロケットの完全なコピーである「R−1」ミサイル
の完成だったのです。ドイツのロケットのコピーを作りながら、それをマスターする
――この方針は、スターリン自身が指示を出したといわれています。
 そのとき、コロリョフは主任設計技師を務めていたのですが、この方針は彼自身不満
だったのです。そんなことをしなくても、V−2よりも、より長距離を飛び、より信頼
性の高いロケットを開発できると考えていたからです。しかし、当時、スターリンの命
令に背くことなどできることではなかったのです。
 V−2ロケットのコピーであるR−1ロケットの発射が成功したのは1、1948年1
0月10日のことです。12機のR−1のうち9機が発射され、7機が成功したのです。
 このあとR−1A、R−2というロケット開発が同時並行で進められます。
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        R−1  ・・・ V−2のコピー
        R−1A ・・・ R−1と同じエンジン+アルファ
        R−2  ・・・ 新エンジン
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 R−1AロケットはR−1ロケットと同じRD−100エンジン(推力28トン)を
使っていますが、何がプラス・アルファかというと、核弾頭が取り外しできるという点
なのです。これはコロリョフのアイデアであり、これをテストするのが目的であったの
です。
 R−2ロケットは新エンジンRD−101(推力35トン)を使い、600キロメー
トル飛ぶように設計されたのです。このR−2は、1950年10月26日に打ち上げ
られ、計画通りに600キロメートルを飛んで成功し、次の年から赤軍に配備されてい
ます。
 その頃、米国に渡ったフォン・ブラウンたちは、何をしていたのでしょうか。
 フォン・ブラウンを米国に連行したトフトイ大佐は、フォン・ブラウンの意見を入れ
て、800キロメートルから1600キロメートルの射程を持つロケットの開発を考え
ていたのですが、陸軍の首脳は、そのようなものは望んでいないなど、なかなかフォン
・ブラウンの考え通りにことは進まなかったのです。
 米国は、当時兵器としてのロケットの開発を陸・海・空の3軍で別々にやっており、
兵器としてのロケット開発と見せかけて、宇宙に人を送り出すロケットを作ろうとする
フォン・ブラウンと陸軍首脳とは、なかなか意見が合わなかったのです。
 それでもフォン・ブラウンは、陸軍軍需局に対して、大型多目的のブースター・ロケ
ットの開発を進言しているのです。彼は、そのとき既に長距離戦略爆撃機よりも長距離
の誘導ミサイルの方が空を制するのに有利であることを主張していたのです。
 考えてみれば、ソ連のコロリョフも同じ考え方であったということができます。両者
共に宇宙開発のための大型のロケット開発を主張し、そのつど上層部にそれを阻まれて
いたからです。しかし、その当時としては、国家として宇宙開発の重要性を認めていた
ソ連のコロリョフの方がかなり有利であったといえるのです。
 もし、フォン・ブラウンの提案が、1948年当時に受け入れられていたら、米国が
最初の衛星を1955年か1956年には打ち上げていたことは確実であるといわれ
ますが、事態はフォン・ブラウンの思惑通りには動かなかったのです。
 しかし、朝鮮戦争の足音が近づくにつれて、陸軍首脳は射程数百キロメートルの誘導
ミサイルの開発をフォン・ブラウンに命じるのです。1950年7月のことです。これ
は、フォン・ブラウンたちが米国にきて、はじめて命じられた大型開発