フォン・ブラウンとV−4ロケット(EJ第1398号)
1919年1月18日のことです。第1次世界大戦の後始末のためのパリ平和会議が
フランスのベルサイユで開かれています。この会議には、第1次世界大戦の戦勝27ヶ
国から70名の代表が参加して、さまざまな取り決めを行っています。
この会議は、敗戦国のドイツから多額の賠償を搾り取るためのものであり、また、締
結されたベルサイユ条約は、ドイツの再軍備を徹底的に封じ込める内容になっていたの
です。
ドイツとしては、その後必死に再軍備の方向を探ったのです。そして条約の抜け穴を
発見します。条約は、ロケットの開発についてはふれていなかったのです。そこでドイ
ツは液体推薬を燃料としたロケットの開発に踏み出していったのです。
このことによって、ドイツでは1920年代にロケット・ブームが巻き起こります。
そして30年代には、兵器としてのロケットが開発されるようになっていったのです。
1931年、当時ベルリン工科大学の学生だったフォン・ブラウンは、「VfR」、ド
イツ宇宙旅行協会の熱心なメンバーだったのです。このVfRというのは、宇宙旅行を
目標に民間からの寄付金を基にしてロケットを開発する人たちの集まりだったのです。
フォン・ブラウンは、人類は宇宙に積極的に出るべきであるという幼いころからの夢
があり、それを何とか実現したいという強い意思を持っていたのです。
当時のドイツ陸軍は、VfRのロケット開発には関心を持っていて、その実験場には
よく見学に来ていたのです。そして、陸軍の指定する区域内で実験をしてくれるなら、
もっと大型のロケットを開発する費用を出してもいいと勧誘してきたのです。
VfRのメンバーのほとんどは、軍のこの申し出に反対したのですが、フォン・ブラ
ウンはひとりこの誘いに乗るのです。彼は民間の乏しい寄付金だけで、ロケットを開発
していても宇宙飛行など不可能という現実的な考え方を持っていたからです。
兵器としてのロケットの開発はやりたくないが、たとえ悪魔に魂を売り渡しても宇宙
旅行を実現させるとして、軍に協力する決心をしたのです。
1932年11月、彼は陸軍兵器局に入って大型ロケットの開発をはじめたのです。
そして、豊富な資金を使って次々とロケットを制作し、1937年にはバルト海沿岸に
建設された秘密基地ベームミュンデにおいて、技術の責任者に昇格します。ときに、フ
ォン・ブラウン、弱冠25歳だったのです。
1939年にドイツがポーランドに侵攻・降伏させて第2次世界大戦が勃発します。
そのころになると、VfRの同志がフォン・ブラウンのところに馳せ参じたのです。そ
して、彼らの力もあって、フォン・ブラウンは近代ロケットの元祖ともいうべき、A−
4ロケット(V−2)の開発に成功するのです。
A−4ロケットは、1000キログラムの弾頭を積み、290〜340キロメートル
の射程を持つよう設計されたのです。全長14メートル、直径165センチメートル、
重さ1万2000キログラムという当時世界最大のロケットだったのです。
画期的だったのはその誘導システムなのです。あらかじめ決められたコースを記憶し
ておき、ジャイロスコープとドップラー・レーダーが示す変化をもとにして、実際の飛
行経路を電子回路でチェックするというものです。そして、その結果を記憶している予
定のコースと比較して適切な指令を出して、尾翼の舵と噴射版を動かして誘導するとい
う驚くべきものだったのです。
A−4ロケットは、1942年の春にテスト飛行を行ったのですが、失敗。2号機も
失敗に終わっていますが、1942年10月3日、遂にA−2ロケットは飛行実験に成
功するのです。
このA−2ロケットの成功のあと、ヒットラーはロケットに異常な関心を示し、A−
4ロケットの量産を命じてくるのです。しかし、フォン・ブラウンはA−4ロケットを
兵器として使うことに反発します。
そのため、1944年2月にフォン・ブラウンは、東プロセインのゲシュタポ(国家
秘密警察)本部から呼び出しを受け、そのまま拘束されてしまうのです。拘束理由は、
フォン・ブラウンは軍のめざす開発をさぼって、宇宙探査のことばかりやっているとい
うものだったのです。
これに驚いたのは、フォン・ブラウンの上司であるドルンベルガーです。彼はフォン
・ブラウンなくしてA−4ロケットの前進はないとして、ヒットラーの側近であるシュ
ペーアへの根回しでフォン・ブラウンを釈放させるのです。
一方、ドイツがベーネミュンデで、新兵器を開発しているという情報を掴んだ連合軍
は、1943年8月に英国空軍がベーネミュンデを爆撃します。米国空軍も1年後の7
月と8月にベーネミュンデを爆撃しますが、これによるドイツ側の技術面での被害は、
ほとんどなかったといわれます。
この事態になってベーネミュンデの支配権は完全に軍の手に握れ、遂に1944年9
月8日、A−4ロケットはベルギーに配置された可動発射台からパリとロンドンに向け
て発射されたのです。そしてその時点から、A−4ロケットはゲッペルス宣伝相によっ
て、報復兵器を意味する次のことばで呼ばれるようになるのです。
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Vergeltungswaffen = 報復兵器 → V−4ロケット
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このV−4ロケット――推定では、この兵器によって1万2685人の死者を出し、
3万3700もの住居や建物が破壊されたのです。不幸なことに人類のロケットの近代
化は、このような恐るべき殺人兵器を元祖とすることになったのです。
とくに英国の被害は深刻だったのです。1500発を超える殺人兵器V−4が南イギ
リスに落ち、2500人以上の命を奪い多くの住居や施設を破壊したのです。しかし、
それも1945年3月27日に終了するのです。 ・・・ [アポロ計画/009]
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