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2006年11月20日

コロリョフも逮捕されている(EJ第1399号)

 ドイツのフォン・ブラウンとソ連のコロリョフ――お互いの名前もやっていることも
熟知しているのに、生涯一度も会うことのなかった2人です。この2人について調べて
いると、そのあまりにも似ている運命に宿命的なものを感じてしまいます。
 セルゲーイ・コロリョフは、3歳のときに両親が離婚をしており、9歳のときに母マ
リア・ニコラーエヴァナは、グレゴリー・バラーニンという電気技術者と再婚します。
この新しい父にコロリョフは大いに感化されるのです。
 義父バラーニンはオデッサの空港発電所の所長をしており、その関係があってコロリ
ョフは航空に関して興味を抱くようになります。彼は、キエフ工科大学の航空学部に入
学し、「全ソ連グライダー・ラリー」に参加するために、グライダーの建造に夢中にな
った時期があったのです。
 1925年の秋、大学のグライダー活動がうまくいかなくなり、さらに両親がモスク
ワに引っ越すことになって、コロリョフもモスクワに行くことにしたのです。1927
年7月、コロリョフはモスクワ高等技術大学への入学許可を受けるのです。
 この大学は、1872年にニコライ・ジューコフスキーが赴任してから航空学の強力
な伝統ができていたのです。それに、コロリョフは、この大学で師としてアンドレイ・
ツポレフに仕えることになるのです。
 ツポレフは、多くのソ連の軍用機や民間機を50年以上の長きにわたって設計した人
であり、彼は「中央空気水力研究所(通称ツァーギ)」の数あるプロジェクトに精力的
にかかわっていたのです。したがって、モスクワ高等技術大学の学生は、何かを設計し
、建造することが義務づけられていたのです。コロリョフは、ツポレフの指導の下で、
グライダーと軽飛行機の設計と建造に取り組んだのです。
 このツァーギにおいて、コロリョフは、フリードリッヒ・ツァンダーという人物に出
会うのです。ツァンダーは、ソ連のロケットの先駆者といわれる人物であり、モスクワ
に本拠を置くロケット・グループGIRDのリーダーだったのです。このGIRDは、
フォン・ブラウンがかつて属していたVfRと同じような目的を持つ団体だったのです
 このフリードリッヒ・ツァンダーについて少し述べると、幼いときから非常な天分を
示し1908年にジェット推進の理論的研究をはじめ、その結果、飛行機とロケットの
能力を組み合わせた乗り物を作るアイデアを考え出しています。今日のスペース・シャ
トルと同じ発想です。
 さらにツァンダーは「ソーラー・セイル」――太陽の光の圧力で惑星間を飛行する着
想を生み出しており、1924年には、火星への飛行について論文を書いています。そ
して、1929年には、実際にロケット・エンジンの制作に着手し、実際にガソリンを
燃料とする小さなロケット・エンジンを完成させているのです。このささやかな実験は
、後に有名なロケット「OR−1」に受け継がれていくのです。
 コロリョフがこのツァンダーの影響を受けたことはいうまでもないことであり、彼ら
とともにGIRDでロケットの研究開発に情熱を燃やし続けたのです。
 1933年8月17日午後7時モスクワの西方約32キロメートルにあるナハビーノ
の森から、ソ連最初の液体燃料ロケット「ギルド09」が発射されたのです。これは、
GIRDのミハイル・チホヌラーヴォフの設計になるロケットで、最大高度400メー
トルに達したあと滑らかな弾道を描いて隣の森に落下しています。この時点でソ連は、
米国のゴダードによる液体燃料ロケットの打ち上げ成功に7年遅れていたのです。
 この「ギルド09」の成功の数週間後に、ツァンダーの「OR−2」ロケットの改良
型「ギルドX」が同じ地点から打ち上げに成功しているのです。今でもナハビーノの森
には、発射成功を記念する石碑が建っており、ツァンダー、チホヌラーヴォフ、コロリ
ョフに対する賞賛の辞が刻まれているのです。
 1933年10月31日、新組織RNII(反動推進研究所)が発足し、それまでモ
スクワとレニングラードの二手に分かれて進められていたロケット開発が組織として一
本化したのです。RNIIの初代所長は、レニングラードGDLからの軍事技術者イヴ
ァン・クレイメーノフ、コロリョフは副主任技術者という地位を与えられたのです。
 RNIIIの発足から5年、クレイメーノフ所長とコロリョフは精力的にロケット開
発の仕事を続けたのですが、その実績がソ連のロケット開発の進展という結果にはつな
がらず、無駄な足踏みをすることになったからです。
 それは、いわゆるスターリンの粛清によってソ連の多くの科学者、技術者、軍の指導
部が弾圧を受け、それから7年間、ソ連のロケットの研究開発はストップしてしまった
のです。
 1938年6月27日の早朝、内務省の役人がコロリョフの家にやってきて、コロリ
ョフを連行します。ときに、コロリョフは31歳だったのです。逮捕理由は、コロリョ
フよりも前に逮捕されていたクレイメーノフ所長、コロリョフの同僚のグルーシュコら
の陳述によるもので、ドイツにおける反ソ連団体と共謀しているという容疑だったので
す。そして、コロリョフは、禁固10年の刑に処せられ、収容所に収監されてしまうの
です。
 フォン・ブラウンもゲシュタポに逮捕されていますが、コロリフも内務省の国家機密
組織に逮捕される――ともにロケットの開発に従事し、大きな成果を上げていた2人が
です。しかし、フォン・ブラウンがそうであったように、コロリョフの逮捕に対して、
師のツポレフが動いたのです。
 そして、事件の再審議を求める嘆願書が提出され、それが認められてコロリョフは収
容所を離れ再審議を受けるためにモスクワに護送されることになったのです。しかし、
ことは簡単には済まなかったのです。        ・・・ [アポロ計画/010]

Iソーラー・セイル.jpg

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