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2006年11月22日

ドイツロケット遺産の争奪戦(EJ第1401号)

 ドイツのペーネミュンデにおけるロケット開発は、米国はとくに強い関心を持ってい
て、開発責任者とそれに従事していたスタッフ、それにロケット本体や部品などを確保
し、それを少しでも早く米国本土に持ち去るというある意味でとんでもない計画が立て
られて実行に移されたのです。
 このうち開発責任者であるフォン・ブラウンの身柄は本人の投降により労せずして確
保したものの、残りのターゲットについては時間との勝負だったのです。そして、この
任務に当たったのは米陸軍ホルガー・トフトイ大佐だったのです。
 1945年春に連合軍がドイツに西から侵入したときに、多くの人の協力を得て、ト
フトイ大佐は100台分のロケット、ロケット部品、搭載機器、材料部品などを発見し
ています。それらを341両の貨物列車に乗せ、戦火のドイツをくぐり抜けて、ベルギ
ーのアントワープ港まで陸路を運んだのです。
 何しろことは急を要したのです。というのは、ヤルタ協定ではドイツの技術関係の設
備を占領地域から運び出すのを禁じていたからです。しかし、多くの検問を奇跡的にか
いくぐり、何とかアントワープまで運ぶことができたのです。そして、そこから先は1
6隻の貨物船に分散されて太平洋を渡り、ミシシッピの河口の町ニュー・オーリーンズ
まで運ばれたのです。
 一方、フォン・ブラウンの命を受けてデルンテン町の廃坑に隠された重要機密書類は
ステイヴァー少佐が現地の技術者の協力により、ソ連軍と英国軍がデルンテン町を占領
する3日前に、米国の占領地に運ばれたのです。これには、もちろん投降したフォン・
ブラウンが積極的に協力したのはいうまでもないことです。
 さらにトフトイ大佐のチームは、ノルトハウゼン、ブライヒェローデ、イルメナウ、
それにもっと東のペーネミュンデからの人々を1000人ほど確保(女性と子どもを
含む)し、至急に西に移動させたのです。それは、これらの地方にソ連軍が怒涛のよう
に侵入してくる寸前のことだったのです。
 フォン・ブラウンはこれら1000人ほどの人々をすべて米国に運んで欲しいと米軍
に掛け合ったのですが、結局本国からの指令によって米国に渡ることができたのは12
7名だったのです。
 考えてみると、米国は最初からドイツに侵入したら、ロケット開発に携わっていた人
物やロケット本体や部品をできる限り多く確保しようとしていたのに対し、ソ連は、そ
こまでは考えていなかったことがわかります。それは、ソ連軍がペーネミュンデに侵攻
しながら、ペーネミュンデをいち早く占領下に置いていないことでもわかることです。
 このことの差は大きいと思うのです。フォン・ブラウンを確保した米国が、ドイツが
世界に先行したロケット開発をそのまま引き継いで進めることができたのに対して、ソ
連はコロリョフを解放し、ロケット開発の責任者にしたものの、ロケット開発について
は、ほとんどゼロからのスタートになったといえるからです。
 それだけに、いったんはロケット開発において米国をリードしたソ連の宇宙開発の進
歩は素晴らしいものがありますが、後からアポロ計画――それが実際に行われたと仮定
しての話ですが――その計画によって、ソ連は米国に決定的な差をつけられる原因にな
ったのではないかと思えるのです。
 実はソ連がコロリョフを解放し、ペーネミュンデの調査責任者にしたのには理由があ
るのです。1944年7月14日に英国首相であるウィンストン・チャーチルは、ソ連
軍の最高司令官スターリンに対して一通の書簡を送っているのです。悪魔の兵器V−2
ロケットがロンドンに打ち込まれる2ヶ月前のことです。
 チャーチルの書簡というのは、ドイツが新しいロケット兵器を開発し、そのロケット
がロンドンにとって深刻な脅威となっている。そこで英国の専門家を派遣するので、ペ
ーネミュンデを調査できるよう秘密基地の裏側に接しているポーランドへの立ち入りを
許可して欲しいというものだったのです。
 スターリンは、チャーチルのこの申し出を理解できると回答し直ちにソ連側も技術者
のチームを作り、調査するとともに、英国の調査団をポーランドに受け入れたのです。
そして、その発射台などを空から観察し、戦時中にこれほどのロケットを開発するドイ
ツの底力に驚嘆したといわれるのです。
 しかし、その2ヵ月後の9月8日、ロンドンに1500発のV−2ロケットが打ち込
まれ、英国は壊滅的な被害を蒙ることになるのです。このように事前にその脅威に気が
付いていながら、英国もソ連も、ドイツに侵攻しながら、あまりペーネミュンデにこだ
わっていないというのは、今もって世界史の謎といわれているのです。単なるポカミス
なのでしょうか。
 このときコロリョフは、既に解放されており、カザンでロケットの研究を行っていた
のです。1945年の夏にコロリョフは赤軍の将校に任命され、9月8日、奇しくもV
−2ロケットによってロンドンが攻撃された一年後にドイツに飛び、北ドイツの秘密基
地ペーネミュンデを訪れるのです。
 もちろんその頃ペーネミュンデにはほとんど何も残ってはいなかったのですが、発射
台などの残骸から、自分が罪人であった空白の時代にこのペーネミュンデにおいて、宇
宙開発のためにいかに多くの偉業が成し遂げられたかを目撃して愕然とします。自分が
シベリアで夢見たロケット技術の構想がほとんど実現していたからです。そのときコロ
リョフは、フォン・ブラウンを生涯のライヴァルとして強く認識することになるのです。
 このときのソ連の遅れは、陸上の長距離競技にたとえると、2〜3周回遅れに等しか
ったと考えられます。しかし、その時点からは、フォン・ブラウンとコロリョフのロケ
ット開発の条件は逆転してしまうのです。
 というのは、社会主義の優位性を誇示するために宇宙を重視し始めたソ連は、三軍が
ばらばらに宇宙戦略をやろうとしていた米国と比較して、明らかに開発環境において勝
っていたからです。コロリョフは、巨額の予算を手にして、先行しているフォン・ブラ
ウンを少しずつ追い詰めていったのです。・・・ [アポロ計画/012]

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