米国を一歩リードするソ連(EJ第1402号)
ソ連は、宇宙を制するには、ドイツが既に達成しているロケット建造技術のレベルに
少しでも早く達する必要があると考えたのです。そして、そのためには、ペーネミュン
デその他でロケット建造にかかわっていたドイツ人の技術者を一人でも多く集める必要
があると考えたのです。
昨日のEJで述べたように、既に米国がロケット建造にかかわる秘密書類やロケット
の本体、部品、それにフォン・ブラウンをはじめとする中心エンジニア127名を米国
に持ち去ってはいましたが、約30機分のロケットの本体や部品それにロケット・エン
ジニアの大半はドイツに残っていたのです。
ソ連のロケットの専門家は、カリーニングラードというところにあるNII−88
(科学研究所88)にほとんど集められていたのですが、そこにドイツ人の技術者が増
えてきたので、ドイツ人は、モスクワ西方ゼーリガー湖に浮かぶゴロドムリヤ島に集め
られたのです。そして、中心はNII−88、その支所がゴロドムリヤ島というかたち
で開発が進められたのです。
ゴロドムリヤ島での目標はV−2ロケットの完全なコピーである「R−1」ミサイル
の完成だったのです。ドイツのロケットのコピーを作りながら、それをマスターする
――この方針は、スターリン自身が指示を出したといわれています。
そのとき、コロリョフは主任設計技師を務めていたのですが、この方針は彼自身不満
だったのです。そんなことをしなくても、V−2よりも、より長距離を飛び、より信頼
性の高いロケットを開発できると考えていたからです。しかし、当時、スターリンの命
令に背くことなどできることではなかったのです。
V−2ロケットのコピーであるR−1ロケットの発射が成功したのは1、1948年1
0月10日のことです。12機のR−1のうち9機が発射され、7機が成功したのです。
このあとR−1A、R−2というロケット開発が同時並行で進められます。
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R−1 ・・・ V−2のコピー
R−1A ・・・ R−1と同じエンジン+アルファ
R−2 ・・・ 新エンジン
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R−1AロケットはR−1ロケットと同じRD−100エンジン(推力28トン)を
使っていますが、何がプラス・アルファかというと、核弾頭が取り外しできるという点
なのです。これはコロリョフのアイデアであり、これをテストするのが目的であったの
です。
R−2ロケットは新エンジンRD−101(推力35トン)を使い、600キロメー
トル飛ぶように設計されたのです。このR−2は、1950年10月26日に打ち上げ
られ、計画通りに600キロメートルを飛んで成功し、次の年から赤軍に配備されてい
ます。
その頃、米国に渡ったフォン・ブラウンたちは、何をしていたのでしょうか。
フォン・ブラウンを米国に連行したトフトイ大佐は、フォン・ブラウンの意見を入れ
て、800キロメートルから1600キロメートルの射程を持つロケットの開発を考え
ていたのですが、陸軍の首脳は、そのようなものは望んでいないなど、なかなかフォン
・ブラウンの考え通りにことは進まなかったのです。
米国は、当時兵器としてのロケットの開発を陸・海・空の3軍で別々にやっており、
兵器としてのロケット開発と見せかけて、宇宙に人を送り出すロケットを作ろうとする
フォン・ブラウンと陸軍首脳とは、なかなか意見が合わなかったのです。
それでもフォン・ブラウンは、陸軍軍需局に対して、大型多目的のブースター・ロケ
ットの開発を進言しているのです。彼は、そのとき既に長距離戦略爆撃機よりも長距離
の誘導ミサイルの方が空を制するのに有利であることを主張していたのです。
考えてみれば、ソ連のコロリョフも同じ考え方であったということができます。両者
共に宇宙開発のための大型のロケット開発を主張し、そのつど上層部にそれを阻まれて
いたからです。しかし、その当時としては、国家として宇宙開発の重要性を認めていた
ソ連のコロリョフの方がかなり有利であったといえるのです。
もし、フォン・ブラウンの提案が、1948年当時に受け入れられていたら、米国が
最初の衛星を1955年か1956年には打ち上げていたことは確実であるといわれ
ますが、事態はフォン・ブラウンの思惑通りには動かなかったのです。
しかし、朝鮮戦争の足音が近づくにつれて、陸軍首脳は射程数百キロメートルの誘導
ミサイルの開発をフォン・ブラウンに命じるのです。1950年7月のことです。これ
は、フォン・ブラウンたちが米国にきて、はじめて命じられた大型開発プロジェクト
だったのです。
この開発は、それまでフォン・ブラウンたちがいたテキサス州フォート・ブリスから
、アラバマ州北部の町ハンツヴィルに移って行われたのです。このハンツヴィル軍需工
場は隣にあるレッドストーン軍需工場とともに大戦中は化学兵器の生産が行われていた
のですが、フォン・ブラウンが率いるチームが移ってきて、ここは米国の一大ロケット
開発基地となったのです。
フォン・ブラウンのチームが命令された誘導ミサイルは「レッドストーン」と命名さ
れ、「レッドストーン計画」として推進されたのです。1953年8月20日に1号機
の打上げが行われ、3号機ではじめて成功します。
このレッドストーンの誘導制御は、ジャイロを使った完全な慣性誘導で、自分自身で
現在位置と速度を判断して、目標に向かって飛んで行くシステムであり、フォン・ブラ
ウンの構想によるものだったのです。
ちなみに、1955年4月15日付でフォン・ブラウンと40名の同僚たちは正式に
米国人として認められています。・・・ [アポロ計画/013]
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