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2006年11月29日

ドイツのフォン・ブラウン米国を救う(EJ第1405号)

 1955年7月にアイゼンハワー大統領は、1957年〜58年にかけての国際地球
観測年に人工衛星を打ち上げると宣言したのですが、その1957年10月2日と11
月3日の2回にわたり、ソ連によって人工衛星が宇宙軌道に投入されたのです。残るは
あと1年しかないのです。米国の焦りは相当のものです。
 しかし、その国際地球観測年に打ち上げる予定のロケット――スチュアート委員会が
選んだ海軍の「ヴァンガード」のテストは遅れに遅れていたのです。このままでは、ソ
連に出し抜かれると考えたフォン・プラウンは、既にテストの済んでいるレッドストー
ンを「ヴァンガード」の名前で使ったらどうかという譲歩までしたのですが、海軍首脳
の答えは「ノー」だったのです。
 ここまで追い詰められても海軍首脳がフォン・ブラウンの申し出を素直に受け入れな
かったのは、心の中ではフォン・ブラウンがドイツ人であったことが原因であったかも
知れません。ドイツ人ごときに負けてなるものか――そういう意識が働いたものと思わ
れるのです。
 実は、アイゼンハワー大統領は、ソ連がスプートニク2号を打ち上げた11月3日の
数日後に、フォン・ブラウンの率いる陸軍のプロジェクトに、ゴーサインを出していた
のです。たび重なるヴァンガード計画の遅れに業を煮やしたのでしょう。
 追い詰められた海軍は、1957年12月6日にヴァンガード衛星を打ち上げること
を発表します。打ち上げられるロケットはテスト・ロケット3号と命名された文字通り
のテスト発射用のものだったのですが、スプートニク・ショックによって打ち上げが数
ヶ月も繰り上げられ、本格的な衛星打ち上げ用のロケットに格上げせざるを得なかった
のです。
 12月6日が初の試射日と決まったとき世界中が注目したのです。何しろソ連が11
月3日にスプートニク2号を成功させてから1ヶ月しか経っていないのですから、文字
通り世界注視の中でロケットの打ち上げは行われたのです。
 しかし、無残なことに3段式ロケットは数センチメートルしか上昇せず、真っ二つに
裂けて火の玉となって崩れ落ちたのです。それは、ロケット先進国米国の姿そのものだ
ったのです。「米国敗れたり」と世界中が思ったのも無理はないことでしょう。
 アイゼンハワー大統領のゴーサインをもらった陸軍のフォン・ブラウンのチームは、
急ピッチで作業を進めていたのです。何が何でも国際地球観測年中に打ち上げないと、
米国は世界の笑いものになる――大統領はそう考えたのです。
 そして、1958年1月17日、「ジュノー1」と呼ばれるロケットがフロリダのケ
ープ・カナべラルに運ばれて発射台にセットされ、そして、打ち上げ予定日は1月29
日と決められたのです。実は海軍のヴァンガードの再挑戦が2月のはじめに組まれてお
り、陸軍の打ち上げ可能期間は数日の幅しかなかったのです。この時点においてもまだ
海軍が優先されていたわけです。
 ところが29日の天気は最悪だったのです。しかし、日がないので、打ち上げを決行
する予定でいたのですが、天気は悪くなる一方で遂に当日の打ち上げは断念し1月31
日まで延期されたのです。
 1958年1月31日22時55分に点火、ジュノー1はゆっくりと上昇しやがてぐ
んぐん速度を増して雲の中に消えていったのです。大きなスクリーンに映し出されるデ
ータはすべてが順調であることを示しています。
 やがてすべての上段ロケット・モーターの点火を確認――不気味な沈黙のあと、バハ
マのダウンレンジ局で衛星からの電波が受信されたのです。問題は、発射から約90分
後に地球を一周してきた衛星からの電波をカルフォルニアのゴールドストーン局が受信
できるかどうかです。
 どうやら衛星は予想よりも高い軌道に入ったらしいのです。そのため衛星からの電波
が数分遅れ、受信を待っているフォン・ブラウンたちをイライラさせたのです。そして
正式に衛星からの電波を受け取ったとき、フォン・ブラウンは記者団に対し、次のよう
にコメントしています。
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       これでわれわれは、宇宙に確固たる橋頭堡を作りました。絶
       対に手離しません。        ――フォン・ブラウン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 衛星打ち上げの成功を固唾を飲んで見守っていたアイゼンハワー大統領は、この衛星
を「エクスプローラ1号」と命名したのです。翌朝の新聞にはそのエクスプローラ1号
を頭上に掲げた幸せな3人の男たち――ジェット推進研究所長ピカリング、米物理学者
ヴァン・アレン、フォン・ブラウン――の写真が大きく掲載されたのです。やっと米国
は、国際地球観測年中に人工衛星を打ち上げるという約束が実現できたのです。
 エクスプローラ1号の成功のあと、フォン・ブラウンには全世界から祝福の言葉が寄
せられたのですが、おそらく彼が一番印象に残ったのは、英国のダンカン・サンディー
ズ戦争局長から電報であったと思われます。
 彼は、ウィンストン・チャーチルの娘婿であり、1943年8月に英国軍がペーネミ
ュンデを空爆したときの総指揮官だったのです。その後、フォン・ブラウンが開発した
V−2ロケットがロンドンを襲い、英国は大被害を蒙るのですが、エクスプローラ1号
の偉業を素直に称えて次の祝電を送ったのです。
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       ワシントンDC、国務省気付、ヴェルナー・フォン・ブラウ
      ン博士。偉大なる快挙に対し心よりお祝い申し上げます。ここ
      イギリスでも身震いし喜びに湧きました。戦争中には貴殿と私
      とは異なる立場にありました。今は同じ目的のためにともに働
      くことができることをたいへん嬉しく思っています。いつかお
      会いできる日を楽しみにしています。ダンカン・サンディーズ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
                         ・・・ [アポロ計画/016]

エクスプローラを持ち上げる3人.jpg

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