INTEC JAPAN/BLOG

このブログは、異文化研修の教育機関(株)インテック・ジャパンの情報発信用です。(株)イー・メディアとの提携により、同社のドキュメント・レポート「Electronic Journal」をウィークデイの毎日お届けします。
「Electronic Journal」は様々な情報を400字詰原稿用紙7枚にまとめて配信する日刊メールマガジンです。

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● 2006年12月 記事 ●

2006年12月01日

3人乗り宇宙船とランデヴー・ドッキング(EJ第1407号)

 ジョン・F・ケネディ大統領は、1961年5月25日の演説――人類を月に送り、
月面活動の後、地球に帰還させる――を決めるために、ジョンソン副大統領だけではな
く、彼が信頼を寄せる複数の人々に昨日のEJで述べたメモを送り、レポートを提出さ
せているのです。
 ジョンソン副大統領は、大統領のメモをフォン・ブラウンに示し、彼の意見を聞いて
います。フォン・ブラウンは、次のように答えたといわれています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       宇宙に実験室を送るというような方法では、ソ連を打ち負か
      すことは決してできません。しかし、人間を月面に着陸させる
      という絶好のチャンスを持っています。・・・月に人間を着陸
      させましょう。国の他の宇宙計画をすべて後回しにしても・・
                        ――フォン・ブラウン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ジョンソンは、このフォン・ブラウンのことばを下敷きにして大統領に人類初の月着
陸を目標にすべきことを回答しています。ケネディ大統領は、就任直後から宇宙開発に
は強い関心を示し、そのためにジョンソン副大統領を宇宙協議会議長に就任させ、NA
SAの長官には、ジェームス・E・ウェップを登用していたのです。このウェップとい
う人物は、弁護士、大企業の重役、科学教育の責任者、航海士の経験を持ち、政治の世
界でもトルーマン大統領の財務局長や国務次官を務めている大物だった人です。
 1961年5月8日、このウェップNASA長官とマクナマラ国防長官の署名の入っ
た覚書がケネディ大統領に届けられています。大統領のメモに関する回答です。そこに
は、次のようなことが書かれていたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       宇宙での劇的な偉業の成就は、国家の技術力と組織力を象徴
      するものです。だからこそ、宇宙で何を達成したかは、国家の
      威信に貢献するものです。・・・私たちは国家計画のなかに、
      1960年代の終わりまでに、有人月探査を行うという目的が
      含まれるべきであると考えます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ケネディ大統領は、彼が信頼する複数の人の意見を集め、そのうえで自ら決断し、1
961年5月25日のあの演説を行ったのです。そのとき、米国は有人月着陸どころか
有人宇宙飛行ですらクリアしていなかったのです。
 辛うじて同じ年の5月5日にシェパード飛行士がレッドストーン・ロケットの先端に
格納されたマーキュリー宇宙船「フリーダム・セブン」に乗り込んで、打ち上げの3分
後にブースターから分離し、弾道飛行を終えて帰還することに成功したレベルのことし
かできていなかったのです。したがって、「困難なことは、高い目標を掲げて国家を挙
げて挑む」――この目標による管理の原則をそのままケネディ大統領は実践したことに
なります。
 このケネディ大統領の演説を米国の議会と国民は歓呼の声を上げて迎えています。議
会は活発な活動をはじめ、まず、NASAに対して170億ドルの資金が予算化された
のです。NASAのウェップ長官は、この資金を使って、全米の産業界・科学界から最
高の頭脳のスカウトに着手したのです。
 ウエップ長官は、人材を集めるに当って、全米に広がる選挙区に平等になるように配
慮しています。要するに、特定の地域からだけ人を集めるのではなく、全国から集める
ようにしたのです。そのため、この計画は広範な人々から熱狂的な支持を獲得すること
に成功しています。人類の月着陸という目標は、これによって文字通り、米国民全体の
目標になったといえるのです。
 1962年2月20日、有人宇宙飛行の先陣はジョン・グレンによって行われました
が、二番手の宇宙飛行は、同じ年の5月にスコット・カーペンターによって行われてい
ます。しかし、このときは、逆噴射ロケットを噴かすタイミングが遅れて、帰還予定の
場所から400キロメートルも離れた場所に着水するという失敗を冒しています。
 しかし、同じ年の10月には、三番手として、ウォーリー・シラー飛行士が飛び、6
時間の軌道飛行を行い、制御用の燃料を十分に残して、地球に帰還――予定地域から6
.4キロメートルの地点に着水し、三番手の失敗をカバーしています。
 1963年5月マーキュリー計画の最後を飾って、ゴードン・クーパー飛行士が「フ
ェイス・セブン」によって地球を飛び立ち、地球を19周することに成功します。その
ため、人工衛星軌道で米国人としてはじめて眠りに落ちることを経験しています。しか
し、その後電子機器のトラブルにより、手動で大気圏突入を行い、無事に帰還していま
す。このことから分かるように、NASAの宇宙計画は着実に前進していたのです。
 ここにきて、月に行くためには、米ソともに次の2つの課題をクリアしなければなら
なかったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       1.2機の宇宙船が軌道上でのランデヴーすること
       2.1人乗りから3人乗りの宇宙船を開発すること
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ソ連にしても米国にしても、ここまでは、果たして人間が宇宙で生活できるかどうか
を試すことに重点が置いていたのです。それは、米ソにおける1人乗りの宇宙船での実
験において実証されたといってよいと思います。
 次は、宇宙で人間はもっと自由に動き回り、数日間をある程度快適に過ごせるように
する必要があるのです。そのためには、1人の飛行士では無理で、最低3人は必要なの
です。そういう宇宙船を果たして作れるのでしょうか。
 それに月面に到着して帰還するには、どうしてもランデヴー・ドッキングは不可欠で
す。米ソの宇宙競争は、この2つの問題をめぐる競争に移っていくのです。 
・・・ [アポロ計画/018]
              
J.F.K.jpg

2006年12月04日

世界を欺いた3人乗りヴォスホート(EJ第1408号)

 米国のマーキュリー計画の着実な前進にソ連政府は、大変な危機感をいだいていたの
です。しかし、フルシチョフ首相をはじめとする首脳部はその重要性を認識していたの
ですが、国防省が動かなかったのです。意識的サボタージュです。
 国防省の本音は「必要な資金は国家の安全強化のためにのみ支出されるべきである」
というものであり、コロリョフが推進しようとしていた有人月飛行計画には関心を示さ
なかったのです。今にして思えば、宇宙開発において、ソ連が大きく先行しながら結局
米国に遅れをとったのは、これが原因だったということがわかります。
 1日のEJで述べたように、本気で月着陸を目指すのであれば次の2つのことが必要
なのです。再現しておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       1.2機の宇宙船が軌道上でのランデヴーすること
       2.1人乗りから3人乗りの宇宙船を開発すること
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 米国はこれをクリアするために「ジェミニ計画」をスタートさせたのです。「ジェミ
ニ」というのは「ふたご座」のことで、3人乗りの宇宙船を作る前に2人乗りの宇宙船
を作り、月飛行に必要な数多くの実験を行うことにしたのです。
 「ジェミニ計画」は、1965年の第3号から有人飛行を行い1966年の12号ま
で続けられたのです。なお、副島隆彦氏の『人類の月面着陸は無かったろう論』(徳間
書店刊)の巻末にある「月ロケット・探査機の歴史年表」のP299には、ジェミニ計
画は「ソヴィエト」と記述されていますが、これはミスです。
 イージーミスは誰でもありますがアポロ計画の月着陸はウソと断ずる書籍において、
このようなミスを冒すことは、内容の真偽にかかわる大失敗であると考えます。
 ソ連のコロリョフは、米国のジェミニ計画の着実な前進を気にかけながら、それでも
人類の月着陸に向けて精密な計画を立てていたのです。それが「ソユーズ計画」です。
 この計画は、ごく簡単にいうと、2人乗りの宇宙船を2機地球周回軌道に打ち上げ、
軌道上でドッキングさせる――そして、宇宙飛行士の相互移乗ができるようにするとい
うものです。
 これに対して、ジェミニ計画は、ランデヴー飛行とターゲットとの自動的なドッキン
グのみを想定しており、コロリョフのソユーズ計画は、アポロ計画に近い計画だったと
いえます。
 しかし、コロリョフには当時これを実行に移す資金がなかったのです。それでいて、
国防省から課せられるミサイルとしてのロケットの納期は過酷であり、新しい技術を開
発する余裕はなかったのです。そのためコロリョフは既存の技術基盤を生かしながら、
できるだけシンプルなロケットを開発し、空いた時間で月着陸計画を練るしかなかった
のです。
 ケネディ大統領による1961年5月25日の演説は、ソ連に対して挑戦状を叩きつ
けたものであったのに、ソ連はこの挑戦に応えるのか、それとも独自の道を進むのか、
国として決めるべきであったのにそのどちらもやらなかったのです。ソ連という国は、
その時点で、宇宙開発に関して国として計画を一本化できなかったのです。
 実は、誰よりも焦っていたのは、フルシチョフ首相だったのです。彼は、宇宙開発の
ことなど何もわからない人物ですが、米国が何かをやるという情報が入ると性急にコロ
リョフに開発を命ずるのです。
 こんな話があります。フルシチョフは、米国がジェミニ計画で2人乗りの宇宙船を作
るという情報を掴むと、コロリョフを呼び出し、次のように命じたのです。
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      ただちに3人の宇宙飛行士が乗れる宇宙船を開発し、宇宙に
      発信させよ!     ――ニキタ・フルシチョフソ連首相
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 コロリョフは、このむちゃくちゃな命令を政治的に利用したのです。彼は首相直々の
命令であるということで国防省をけん制し、フルシチョフ首相とは月を目指すロケット
の開発を条件に、3人乗り宇宙船の打ち上げを約束したのです。
 といっても1人乗りの宇宙船を3人乗りにするのは至難のことなのです。まず、宇宙
服を着て乗ることを前提にスペースを広くとらなければならないし、危機の場合の緊急
脱出装置も3人分用意する必要があるからです。そのためには、ロケット自体もよりパ
ワーのあるものを建造する必要がある――難問山積です。
 しかし、コロリョフには時間も資金もなかったのです。そこでコロリョフは一計を案
じます。要は、米国よりも進んでいることを世界にアッピールするだけでよい。フルシ
チョフはそれで満足するはずである。それなら、急ごしらえの安普請の宇宙船を建造し
て対応しよう――こう考えたのです。
 こうしてはじまったのが「ヴォスホート計画」なのです。完成度の高いヴォストーク
宇宙船を土台とし、単座式のシートを改良して何とか3人乗れるようにしたのです。し
かし、宇宙服を着て乗ることは不可能であり、緊急脱出装置を3人分作ることも無理だ
ったのです。
 そこで、宇宙服を着用させないようにし、脱出用のハッチも外してしまったのです。
ただ、宇宙服を着用しないと飛行士の呼吸によって二酸化炭素が充満するので、その除
去装置を開発して設置したのです。
 しかし、そのスペースは猛烈に窮屈であり、飛行士たちは飛行中は一切身動きができ
ず、何もしていないのです。ただ、米国に見せつけるためだけに、ソ連は、このような
意味のない、危険きわまることをやってのけたのです。
 しかし、果たせるかな、世界は再びソ連に対して喝采を送ったのです。「ソ連、3人
乗り有人宇宙船開発!」と新聞は大見出しで書きたてたのです。
・・・ [アポロ計画/019]

ニキタ・フルチショフ.jpg

2006年12月05日

フルシチョフの失脚とコロリョフ(EJ第1409号)

 世界を欺いたソ連のヴォスホート1号が地球に帰還したのは、1964年10月13
日のことです。ところが皮肉なことに、その翌日の14日にフルチショフ首相は突如失
脚してしまいます。その結果、コロリョフはソ連の宇宙開発計画について、フルシチョ
フの後を継いだブレジネフ書記長と折衝しなければならなくなるのです。
 このブレジネフという人物もフルチショフと同様に米国に遅れることは非常に気にす
るのですが、ソ連の宇宙開発に関して確固たるビジョンを持っておらず、コロリョフは
その点で苦労することになるのです。
 ここで考えてみるべきことがあります。この頃になると、ソ連は明らかに米国を意識
して宇宙開発を進めており、3人乗り宇宙船のように米国よりもソ連が宇宙開発で先行
しているように世界に印象づけるため、一種の騙しをやったという事実についてです。
ヴォスホート1号は、従来のヴォストーク宇宙船に多少の改良を施して、3人をすし詰
めにして押し込み、明らかに3人乗りの宇宙船と偽っています。
 もっとも騙しといっても、実際に宇宙に3人で行っていることは事実であり、単に宇
宙飛行中は座席に縛り付けられていて、何もやっていないというに過ぎないのですが、
米国をしてあたかも3人乗り宇宙船が既に完成していると思わせたのはやはり一種の騙
し(=戦術?)といえます。
 そういう観点で考えると、60年代中に人類を月に送り、月面に降りて探査を行い、
地球に生還させるという宣言をした米国が土壇場まできてできないことがわかったとき
、世界に対して騙しを行うことは可能性としてはないとはいえないのです。ソ連にして
も米国にしても、ともに国の威信を賭けているだけに、そういうことがあっても不思議
はないからです。
 しかし、調べてみると米国の宇宙計画は驚くほど緻密であり計画的なのです。このあ
とも明らかにしていきますが、あらゆる可能性を検討して月着陸に挑んでいるのです。
 このヴォスホート計画の頃になると、コロリョフの体調はかなり弱ってきていたので
す。コロリョフは外見こそ頑丈でたくましく見えますが、若いときに長期間にわたる収
容所生活を経験しており、その時点で健康を害していたのです。
 それでもコロリョフは宇宙開発におけるソ連の優位性を確保するためにがんばった
のです。1964年になって、コロリョフはそれまでの持論である地球軌道上で宇宙船
をドッキングさせて月に行くという計画を修正しています。
 N−1ロケットによって2人乗り宇宙船を月に向かって打ち上げ、月の軌道に入った
ら、宇宙飛行士1人を月面に着陸させ、1人は月の軌道上に残しておくというプランで
す。宇宙飛行士は2人ですが、アポロ計画とそっくりの内容です。
 1965年3月18日ソ連はヴォスホート2号を打ち上げるのです。このヴォスホー
ト2号には、ベリヤエフ大佐とレオノフ中佐の2人が乗っており、レオノフ中佐は17
周回に及ぶ飛行において21分間の船外活動をやっているのです。この快挙によって、
宇宙開発におけるソ連の優位性は保たれたといえます。
 船外活動を実施するには宇宙服のテストをやる必要があったので、ヴォスホート2号
の打ち上げに先立って、無人テストが行われたのです。しかし、その無人宇宙船は何ら
かのトラブルで壊れてしまったのです。調査の結果、宇宙船が非友好国に着陸しそうに
なったときに働く爆破システムが働いてしまったからです。
 このとき宇宙遊泳をやるかどうかでブレジネフとコロリョフは対立します。慎重に計
画を練り直す必要があるとするコロリョフに対して、宇宙遊泳で米国に先を越されるこ
とに怯えるブレジネフが計画強行を迫ったからです。ブレジネフに対して、コロリョフ
は次のようにいったといわれています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       私には技術だけでなく、人やプロジェクト全体についても責
      任があります。テスト計画を完了するまで進行させたくありま
      せん。もし、それでも「実施せよ」とおっしゃるなら、誰かを
      ここに派遣して私を更迭していただきたい。 ――コロリョフ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これにはさすがのブレジネフもコロリョフの意見に同意したといわれます。当時のソ
連において、時の権力者にこれほど明快にものがいえるのはコロリョフ以外にはいなか
ったと思います。それは、ソ連の宇宙計画は自分が支えているのだという強い信念があ
ったからこそいえることばであると思います。
 結局、宇宙服の件はその制作を担当したセヴェーリンにる地上テストの結果、打ち上
げ延期をする必要がないという結論に達し世界初の宇宙遊泳は行われて成功します。ベ
リヤエフ大佐とレオノフ中佐の2人は帰還後にパレードし、モスクワ市民に歓呼の声に
迎えられたのです。
 ブレジネフが先を越されることをあれほど恐れた米国では、レオノフ中佐が宇宙船の
外に出た時点においてNASAは船外活動の計画さえ立てていなかったのです。ソ連は
あらぬ影に怯えていたといえます。逆にいうと、それだけNASAのジェミニ計画の内
容が優れており、着実にソ連を追い詰める計画であることがコロリョフには理解できて
いたということになります。
 ここで知っておくべきことは、米国の宇宙計画の詳細は世界に公表されていたのに対
し、ソ連のそれはいわゆる鉄のカーテンに遮られて米国には掴めていなかったという事
実です。
 コロリョフの名前も「主任設計員」として登場するだけで、海外はもちろんのこと、
国内ですら伏せられていたのです。ソ連としては、コリョリョフの暗殺を極度に恐れた
からです。しかしながら、コロリョフはソ連の中では、必ずしも厚遇されていたとはい
えないのです。いなくなっては困るが、彼がやりたいようにはさせない――これが、ソ
連政府や国防省のコロリョフに対する扱いだったといえます。
・・・ [アポロ計画/020]

宇宙遊泳の飛行士のパレード.jpg

2006年12月06日

巨星墜つ/ケネディとコロリョフ(EJ第1410号)

 人類の月着陸に向けての米ソの激しい先陣争いが行われた60年代には、宇宙開発に
情熱を傾け、それを大きく前進させた次の2人の巨人が亡くなっています。
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      ジョン・F・ケネディ ・・・ 1963.11.22暗殺
      セルゲイ・コロリョフ ・・・ 1966. 1.14病死
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 ジョン・F・ケネディ――1961年1月に米国大統領に就任しわずか2年11ヶ月
しかその地位に留まれなかったが、多くの仕事を成し遂げた大統領であるといえます。
 とくに宇宙開発に関しては、それまで蛇行していた米国の宇宙開発計画に「人類の月
着陸・帰還」という明確な目標づけを行い強いリーダーシップで計画を推進した功績が
あります。
 しかし、それにしてもケネディ大統領はなぜ暗殺されたのでしょうか。その死後40
年が経過しても謎は深まるばかりです。EJでは、7月26日から9月22日にわたっ
て「J.F.Kの謎」を42回取り上げています。
 セルゲイ・コロリョフ――スターリン時代に収容所コリマに送られ、生死の境をさま
よいます。1955年にフルシチョフの時代になってやっと名誉を回復されそれ以来、
彼は幼い頃からの夢である「宇宙に人間を送る」の実現に、少しの時間も惜しむように
走り出すのです。
 それからというもの、コロリョフを中心とするチームは、国家をバックにして、かつ
てフォン・ブラウンがドイツ時代に開発したV−2ロケットをコピーしてR−1ロケッ
トを建造し、技術を積み重ねて完成度の高いR−7ロケットの開発で、先行していた米
国にやっと追いつくのです。そして最後まで米国を一歩リードしながら、志半ばにして
癌で死亡しています。59歳の生涯だったのです。
 ソ連には米国のNASAのような宇宙開発の総元締めというべき組織はなく、空軍を
中心とする軍部が力を握っていたのです。そのため、コロリョフが目指す非軍事の宇宙
開発にはつねに強いブレーキがかけられてきたのです。
 それにソ連は、スターリン時代からの伝統によって技術者を競争させるという趣旨か
ら、複数の設計局を作り、設計局同士で技術を競わせたのです。コロリョフは第1設計
局の局長だったのですが、フルシチョフは非常に多くの設計局を作り、権限を分散させ
ています。
 これに対してコロリョフはフルシチョフに対し、強く反対していたのです。コストが
かかるばかりか、開発のスピードも遅くなり、全体の整合性がとれないなど、きわめて
非効率的そのものだったからです。
 しかし、フルシチョフはコロリョフを内心恐れており、彼に権力が集中しないよう腐
心していたので、この点に関してコロリョフの意見には耳を貸さなかったのです。その
ため、設計局同士で良い意味の競争はあったものの、反コロリョフ派も少なからず、存
在したのです。
 なかでも最後までコロリョフと深刻な対立をした第456設計局長のグルーシュコの
存在は、結果としてソ連の宇宙開発の足を引っ張る原因となったのです。グルーシュコ
は優れた技術者であり、とくにロケットのエンジン開発には先進の技術を有していたの
ですが、コロリョフには一切協力せず、むしろコロリョフとはあえて反対のことをやっ
たといわれています。
 また、フルシチョフはコロリョフが他国に亡命したり、暗殺されたりしないよう、最
後までコロリョフの存在を徹底的に隠し通したのです。いかにもソ連らしいやり方とい
えます。
 後年フルシチョフから書記長職を奪ったブレジネフは、コロリョフとグルーシュコと
いう2人のエンジニアが反目しているのは国家的損失と考えて、2人を食事会に呼んで
和解を図ろうとしたのですが、失敗に終わっています。
 1965年12月、コロリョフは直腸にポリープが発見され、入院します。しかし、
病状が深刻なために1966年1月5日、政府高官が優先的に受診できるモスクワのク
レムリン病院に再入院し、14日に手術が行われたのですが、手術は成功せず、そのま
ま亡くなったのです。
 死の前日、コロリョフは2人の人物に会っています。人類の宇宙飛行に最初に成功し
たガガーリンと世界初の宇宙遊泳に成功したレオノフの2人です。コロリョフはこの2
人の宇宙飛行士をとくに買っていたのです。
 遂にソ連政府は、ソ連の国民、いや世界の宇宙開発の関係者に対してソ連の「主任設
計者」は誰であるかを語るときがきたのです。匿名はもはや必要はなくなったからです。 
1966年1月16日の「プラウダ」紙はコロリョフのメダルを着けた写真とともに、
彼の死を報ずる特集記事を3〜4面に掲載したのです。
 葬儀は赤の広場で行われています。ロシアでは、赤の広場で行われる葬儀は最高のも
のなのです。遺体を入れた棺は赤いカバーが掛けられ、ブレジネフ書記長をはじめ、ソ
連政府要人によって運ばれ、安置されたのです。クレムリンのソ連政府のビルにある大
ホールには、1月17日に労働者と従業員、科学者とエンジニア、作家、軍部指導者、
教員と宇宙飛行士たちが詰め掛けコロリョフに別れを告げたといわれています。棺には
次のように書かれていたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      偉大なるソヴィエト科学者、社会主義者労働英雄を二度受賞
      レーニン賞受賞、アカデミー会員 
          ―――セルゲイ・バーヴェロヴィッチ・コロリョフ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 モスクワ近郊の第1設計局が置かれたカリーニングラード市は1996年にコロリ
ョフ市と改称――うつむいて歩くコロリョフの石像が大通りの一角に今も立てられてい
ます。・・・ [アポロ計画/021]

コロリョフの棺が運ばれる.jpg

2006年12月07日

ジェミニ計画では何をやったのか(EJ第1411号)

 ケネディ暗殺の後、ジェミニ計画がスタートします。その前にマーキュリー計画とい
うのがあったのですが、これは宇宙飛行士が1人の計画、ジェミニ計画は宇宙飛行士が
2人の計画です。
 ジェミニ計画は、月着陸を前提として、そのために必要となる実験をすべてやること
になっていたのですが、その中心は長時間飛行とランデヴーとドッキングの3つにあっ
たのです。
 ジェミニ計画の記録は3号からはじまっていますが、1号と2号は無人のタイタンロ
ケットを打ち上げており、宇宙飛行士が乗り込んでの飛行は1965年3月の第3号か
らです。そこでジェミニの「G」とタイタンの「T」をとって「GT」というのです。
この計画は、1966年11月の第12号まで、かなり集中して行われ大きな成果を上
げています。
 そのすべてをメモ的に記すと、次のようになります。
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         1965. 3.23/GT− 3号
          ・人の操縦で2、3回の軌道変更の実験を実施
         1965. 6. 3/GT− 4号
          ・66周97時間。米国人初の宇宙遊泳に成功
         1965. 8.21/GT− 5号
          ・128周190時間56分。電力部分の故障
         1965.12. 4/GT− 7号
          ・220周330時間35分。2週間長期飛行
         1965.12.15/GT− 6号
          ・GT−7号と1メートルのランデヴーに成功
         1966. 3.16/GT− 8号
          ・無人のアジェナロケットと初ドッキング成功
         1966. 6. 3/GT− 9号
          ・ドッキングには失敗。レーダーの必要性認識
         1966. 7.18/GT−10号
          ・アジェナロケットとドッキングして40時間
         1966. 9.12/GT−11号
          ・アジェナを90メートルの綱で引く実験成功
         1966.11.11/GT−12号
          ・3日間で5時間半の船外活動。宇宙での作業
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 GT−3号は、グリソム船長とヤング副操縦士が乗り込んで行われたのですが、この
ときは手動で軌道を変更することがテストされ、これはいずれも成功しています。
 GT−4号は、マクディビット船長とホワイト副操縦士が乗り97時間に及ぶ長時間
飛行とホワイト副操縦士による宇宙遊泳に成功しています。米国人としては、はじめて
の宇宙遊泳ということになります。
 GT−5号は、クーパー船長とコンラッド副操縦士が乗ったのですが、電力部分が故
障してしまい、予定したことはほとんどできなかったのです。しかし、190時間に及
ぶ長時間飛行には成功しています。
 1965年12月4日、トラブルがあって先にGT−7号が打ち上げられ、330時
間を超える長期有人飛行に成功します。しかも、船内で宇宙飛行士は、宇宙服を脱いで
飛行しています。さらに、15日に打ち上げられたGT−6号と約1メートルのランデ
ヴーに成功したのです。
 年が変わって1966年3月にGT−8号が打ち上げられたのです。船長は月面着陸
に成功したアポロ11号の船長になるアームストロングとスコット副操縦士です。これ
については、少し詳しく述べることにします。
 GT−8号が軌道に乗る90分前に打ち上げられた標的衛星アジェナにGT−8号が
5時間後に追いつき、慎重に周囲を回って点検し、8号の先端をアジェナのドッキンク゜
・ポートに接触、ドッキングに成功しています。これは、月軌道上で着陸船を司令船に
ドッキングさせる必要があり、どうしてもやっておかなければならない実験だったので
す。
 ところが、ドッキングしたのはよかったのですが、アジェナのエンジンを噴かしたと
ころ、宇宙船がぐるぐる回転をはじめ、きりもみ状態になってしまったのです。アーム
ストロング船長は、これは容易ならざる事態と判断し、再突入用の姿勢制御システムを
作動――本来やってはならない操縦を行って、難を逃れるのです。このようにトラブル
が生じても、それを解決し、無事に地球に帰還することも大事な経験なのです。
 GT−9号は、スタッフォード船長とサーナン副操縦士が乗りランデヴーとドッキン
グを行ったのですが失敗――その結果、ランデヴー計画にはレーダーが必要なことが判
明するのです。
 GT−10号はヤング船長とコリンズ副操縦士が乗り、ランデヴーとドッキングはほ
ぼ完璧にこなしています。アジェナロケットとドッキングし、アジェナの燃料を使って
軌道遠地点762キロメートル(有人飛行として最高度)まで押し上げることに成功し
ています。さらに、GT−8号と切り離したアジェナロケットとランデヴーし、コリン
ズ副操縦士は船外に出て、背中の推進装置を使ってアジェナに達し、実験用測定装置の
取り外しに成功しているのです。
 GT−11号は、コンラッド船長とゴードン副操縦士が乗り、GT−10号でやった
ことのフォローを行っています。アジェナとのドッキングでは遠地点1440キロメー
トルと記録を更新しアジェナを90メートルの綱で引く実験も行っています。
 GT−12号はラベル船長とオルドリン副操縦士が乗り、アジェナとのドッキングの
ほか、時間をかけて船外活動を実施。3日間に5時間半の船外活動を行っています。こ
れは、月面で人間が宇宙服を着てどれほど活動ができるかを試したのです。
 どうでしょう。これだけのことをやって月着陸に臨んでいるのです。このあともアポ
ロ計画として11号まで10回も飛行しているのです。これでも月着陸はなかったとい
えるでしょうか。 ・・・ [アポロ計画/022]

ジェミニ計画.jpg

2006年12月08日

月探査機は何をやったのか(EJ第1412号)

 副島隆彦氏は、『人類の月面着陸は無かったろう論』において実に大胆な推測をして
います。その部分を引用しておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       私は本書の冒頭を含めて「アポロは月へ行ったか?」とか、
      「アポロ問題」という言葉を始めから慎重に構えて使っていな
      い。アポロ計画は確かにあったのであり、月にロケットを何機
      かは発射しているのである。だから、「アポロは月に行ってい
      る」のである。しかし、それは無人のロケットであり、かつ、
      それらは月の周回軌道に乗ることさえ失敗して月面に激突して
      いるのである。――副島隆彦著、『人類の月面着陸は無かった
      ろう論』より。(徳間書店刊)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 要するに、副島氏は人類の月着陸など大ウソで、実は無人の探査機を何とか月の周回
軌道に乗せ、月を周回させて、再び軌道を離脱、8の字形で、地球に帰そうとしたので
はないかといっているのです。しかも、その無人探査機を月の軌道に乗せることすら失
敗して、月面に激突している――こういっています。
 確かにNASAでは、マーキュリー計画、ジェミニ計画、アポロ計画のように人をロ
ケットに乗せる計画と平行して、レインジャー計画、サーベイヤー計画などの無人探査
機を月に何回も送っています。月に関する情報をできる限り集めるためです。
 レインジャー計画は、1961年8月の第1号から、1965年3月の第9号までの
9回、サーベイヤー計画は、それを引き継いで、1966年5月の第1号から1968
年1月までの第7号までの7回にわたって行われています。
 NASA発表のデータに基づいているので、それはウソといわれてしまえば何もいえ
ないのですが、サーベイヤー計画における7回をまとめると次のようになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      1966. 5.30/サーベイヤー1号
       ・嵐の大洋フラムスチード北軟着陸成功。1ヶ月写真送信
      1966. 9.20/サーベイヤー2号
       ・失敗。微調整ロケット故が障。位置が逆転し、月に激突
      1966. 4.17/サーベイヤー3号
       ・嵐の大洋ランスベルグ・クレーターに軟着陸。写真送信
      1967. 7.14/サーベイヤー4号
       ・失敗。月面着陸3分前にコンタクト不能。中央入江激突
      1967. 9. 8/サーベイヤー5号
       ・静かの海に軟着陸。土壌分析。アルファー線で物質分析
      1967.11. 7/サーベイヤー6号
       ・中央入江に軟着陸。姿勢制御ロケットで位置を移動する
      1968. 1. 7/サーベイヤー7号
      ・ティコクレーター軟着陸。月の土壌分析。データを送信
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 サーベイヤー計画は、無人探査機を使って、アポロ計画の有人月面着陸の遂行に必要
な科学的・技術的情報を得る目的で行われたものです。NASAはサーベイヤー計画で
月面に関して約9万枚の写真を入手しているのです。
 ところで、無人探査機でどのようにして月の土壌分析をするのかについてわかる範囲
で説明します。ロケットが月に軟着陸したあと、ロケットに付属している土壌分析小型
シャベルによって月面を少し掘ります。そして、土壌の中に磁石を突っ込んでアルファ
線を月面に照射して、反射して戻るアルファ線で月面物質を分析できるというのです。
 副島氏のいうように、失敗して月面に激突したロケットは確かに2機あります。しか
し5機については軟着陸し、地上に写真やさまざまなデータを送ってきているのです。
これがすべてウソだとはとても思えないのです。
 また、副島隆彦氏は、人類の月面着陸の絶対の証拠といわれている月面にあるレーザ
ー反射鏡についても無人探査機が運んだものではないかといっています。あくまでも人
類は月に行っていないという考え方に立っているのです。
 副島隆彦氏は「月面にはアポロ11号が置いてきたとされるレーザー反射鏡がある」
という副島氏の主張に対する匿名の反論メールについて、次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       本当ですか? 本当は、いつアメリカが、このレーザー反射
      鏡を月に打ち込んだロケットに載せていて、それが激突寸前に
      月面に転がらせたものであるのかをこそ調べるべきです。
       アメリカは月面に軟着陸させた無人探査機で置いてきた、な
      どと言う気さえ私にはない。それさえもできない。そうではな
      くて、ただ打ち込んだのだ。そこで月ロケット(これをミサイ
      ルと言い換えてもいい)は大破するが、硬質ガラス体の目印ぐ
      らいは地表に転がるように上手に仕掛ければ無事届くだろう。
      ロケット(月ミサイル)が月面に激突する直前に切り離して転
      がしたのだろう。それは、正四面体か立方体をしたガラス体だ
      ろう。            ――副島隆彦氏の前掲書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この副島氏の主張には、かなり説得力のある反論があります。それは、レーザー反射
鏡を無人計画で月面に設置する方が、人が月面に降りて置いてくるよりも難しいという
のです。それは、高い精度を要求される作業になるからです。逆にいうと、無人計画で
それが可能であるなら、それは人類が月に人を送り込む技術を持っている証拠になると
いうのです。
 高度な技術は、小さな科学的な研究や実験の積み重ねによって可能になるものなので
す。そこで米国がソ連と競争しながら、月に人を送るために何をしてきたのかをここま
で調べてきたのですが、それは想像を絶する努力の積み重ねであることがわかってきて
います。11日のEJでは、アポロ計画では何が行われたかについて分析することにし
ます。  ・・・ [アポロ計画/023]

サーベイヤー月探査機.jpg

2006年12月11日

不幸なスタートをしたアポロ計画(EJ第1413号)

 1966年11月のジェミニ計画の終了地点では、人類の月着陸は目の先に迫ってい
ると考えられたのです。予定では、次の年の1月にアポロ宇宙船の船内システムの総点
検を行うことになっていたのです。具体的にいうと、無人の宇宙船に100%の酸素を
注入して加圧するテストです。なお、アポロ計画からは、3人の宇宙飛行士によるミッ
ションになります。
 当時、時の大統領であるリンドン・ジョンソンは、苦境に立っていたのです。米国全
土の都市で人種紛争が頻発し、ヴェトナム戦争についても事態は深刻の一途をたどって
いたのです。ジョンソンとしては次期大統領選に勝利するには、1967年中に何か手
を打つ必要がある――それには人類の月着陸を1967年中に実現させることが一番よ
いと考えたのです。
 そういうわけで、ジョンソン大統領はNASAに対し、予定よりも早く月着陸ミッシ
ョンを行うよう圧力をかけたのです。そこでNASAは、上記の無人の宇宙船に100
%の酸素を注入して加圧するテストを省略して、最初から有人のテストを実施すること
にしたのです。
 しかし、これが悲劇の原因となったのです。船長のガス・グリソム、エド・ホワイト
、ロジャー・チャフィーの3人の飛行士がカプセルに入り体をハーネスで固定します。
 宇宙船のハッチが閉められ、純粋な酸素が船内を満たしていきます。この状態で3人
の飛行士たちは5時間かけて、予定の作業をこなしていったのです。途中で通信回線が
混乱し、リハーサルのやり直しが提案されたのですが、ホワイトハウスからの圧力を考
えたのか、リハーサルはそのまま続行されたのです。
 その時点では、純粋酸素は船内のあらゆるものにしみこんでいたのです。そのとき、
ガス・グリソムのシートの下のどこかで剥き出しになったコードがこすられ、電流の流
れている電線が露出したとたんスパークが起こり、小さな火花は巨大な炎となって、船
室全体が炎につつまれたのです。グリソムの「火事だ!」という声がうまく司令室に届
かず、3人は焼死してしまったのです。
 この悲劇によって、NASAは計画中止の崖っぷちに立たされます。米国経済の厳し
いときに、人間を月に送り込むという夢のために、240億ドルもの資金を投入してい
いのかという批判が渦巻いたからです。その結果、アポロ計画は、1年半にわたって立
往生してしまうことになります。
 この悲惨な事故によって、NASAは非常に慎重になります。そして、アポロ計画は
1968年にアポロ5号として再開されるのですが、月着陸に成功する11号までのデ
ータをまとめておくことにします。
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      1967. 1.27/アポロ 1号
       ・訓練中発射台でコックピット内の火災事故で、3人死亡
      1968. 1.22/アポロ 5号
       ・サターンIBロケットに月着陸船を搭載、打ち上げ成功
      1968. 4. 4/アポロ 6号
       ・サターンVロケットで推進力・負荷・誘導制御諸テスト
      1968.10.11/アポロ 7号
       ・アポロ初の有人飛行。IBで260時間9分の有人飛行
      1968.12.21/アポロ 8号
       ・初の有人月周回飛行。月周回中に着陸地点を調査・測定
      1969. 3. 3/アポロ 9号
       ・飛行士移乗、切り離し、ランデヴー・ドッキングテスト
      1969. 5.18/アポロ10号
       ・月着陸船15キロメートル月面に接近。月着陸船テスト
      1969. 7.16/アポロ11号
       ・人類初月面着陸。活動。離陸後ドッキング、地球へ帰還
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1968年1月22日、無人のアポロ5号が打ち上げられ、無人のモジュールを軌道
上に置くという実験を行われます。同じ月の4月、やはり無人のアポロ6号が打ち上げ
られたのですが、サターンロケットにいくつもの不具合が発見されます。この修復には
フォン・ブラウンを中心とする500人の専門家が1500人日かけて取り組み、何と
か克服しています。
 1968年10月11日に、アポロ計画になって初めての有人飛行がアポロ7号とし
て行われたのです。ウォルター・シラー、ドン・エイゼル、ウォルター・カニンガムの
3人は、計画されたミッションをほぼ完璧にこなし、地球を163周して、アポロ計画
最初の有人宇宙飛行は成功に終わったのです。
 コロリョフ亡きあとも、この頃まではソ連も遅れながらも米国を追随してきたのです
が、ソ連の夢を打ち砕いたのは、同じ年の12月21日に打ち上げられたアポロ8号な
のです。宇宙飛行士は、フランク・ボーマン、ジェームズ・ラヴェル、ウイリアム・ア
ンダーズの3人でした。
 アポロ8号は、有人飛行としてはじめて月周回軌道に達しています。そして、月軌道
を10周して、月の景色を撮影してきたのです。その写真の中には、月の地平線上に浮
かぶ地球を撮影したあの有名な写真も含まれていたのです。
 1969年3月3日に打ち上げられた第9号では、初めて月着陸船を積んでいます。
そして、軌道上での切り離しとドッキングそして飛行士の移乗をテストして成功してい
ます。いよいよ月への最終チェックです。飛行士はジェームズ・マクデビット、デイビ
ツト・スコット、ラッセル・シュワイガートの3人です。
 そして、1969年5月18日、トーマス・スタフォード、ジョン・ヤング、ユージ
ン・サーナンの3人の宇宙飛行士が乗ってアポロ10号が打ち上げられます。地球周回
軌道上での月着陸船のテストを行い、そのうえで月周回軌道上で月着陸船をテストし、
月面15キロメートルまで近づいています。これで、人類の月着陸の準備はすべて整っ
たことになります。このテーマはあと少し続きます。 ・・・ [アポロ計画/024]

月から見た地球/アポロ8号.jpg

2006年12月12日

宇宙技術は退歩している !?(EJ第1414号)

 1969年7月16日に行われたアポロ11号による人類の月着陸――それまでに米
国とソ連は、どのような計画に基づいて何をやってきたか――これについてかなり詳し
く述べてきました。
1960年代にNASAが月に行って着陸し、地球に帰還する技術を果たして持ってい
たのかどうかを探るためです。
 ここまで調べて見てわかることは、当時の宇宙開発技術で月着陸は十分に可能なこと
であったといえると思います。月に行って月着陸船で月面に降り、再び月を飛び立って
軌道上で待つ司令船にドッキング、そして地球に帰還する――そのための計画を作り、
それを実現するために必要な実験を数多くの有人宇宙飛行を行い多くの失敗を乗り越
えて、アポロ11号でその目標を実現したのです。十分実現可能であると考えます。
 仮に100歩譲って、月に行く直前にそれが困難であることがわかったとしても、こ
れだけの実験を積み重ねながら、いかに国の威信がかかっているとはいえ、こともあろ
うに、映画を作ってあたかも月に行ったかのように見せかけるようなことをやるとは到
底思えないのです。その理由をまとめます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      1.秘密を共有する人があまりにも多くなり過ぎるので、35
        年もの間、秘密を保つことは不可能である。
      2.米国の宇宙開発の歴史にドロを塗るようなことを、中心技
        術者たちが賛成して協力するとは思えない。
      3.技術的に十分可能なレベルに来ているのに、それをやらな
        いで、国家として騙しをやる必要などない。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 同じ騙しといってもソ連のヴォスホート1号とは騙しのレベルが違うと思うのです。
そのようなことを、フォン・ブラウンをはじめとする宇宙開発技術者や宇宙飛行士たち
が賛成するとはとうてい思えないのです。
 副島隆彦氏が人類の月着陸がやらせであるとする最大の根拠は次の点であると思い
ます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       今の今でもロケットの軟着陸、そして再発射はできない。そ
      れをやって見せてくれ。スペースシャトル「コロンビア号」の
      ように、地球をグルグル回っているのが今でも関の山である。
      そして、地球上から出たり入ったりするだけで、爆発炎上して
      いるくせに、よくも38万キロメートルのかなたの月を周回し
      て無事帰還できたものだと、不思議きわまりない。
      ―――副島隆彦著『人類の月面着陸は無かったろう論』より。
      (徳間書店刊)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 彼がいいたいのは、「今から35年前に、人類の月面着陸を連続して6回も成功させ
たのだから、もう一度行ってみせてくれ」ということです。要するに彼は、今から35
年前には月に行ける技術などないし、今もないと考えているわけです。
 「今できないのにあの時代の技術で・・」という考え方に関連してEJの読者の池原
富貴夫氏から、「人類は退歩?」という題で、次のご意見をいただきました。確かにそ
の通りだと思いますので、全文をご紹介させていただきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      平野 浩 先生
       EJ、毎日大変興味深く読まさせて頂いております。
       人類の月着陸の真偽ですが、私はあったと信じています。今
      から見ると、「あの時代の技術で」という意見もありますが、
      あの時代の宇宙への人類の夢・熱気、ケネディ大統領が米国の
      威信をかけた国家事業。99.99%の精度と言ってのける、
      人、物、金の投入度合いから見ると、地球最後の日を除いて、
      将来とも人類が二度とできない空前絶後の事業だったと思いま
      す。アポロ計画の終わった後のNASAの優秀な科学者の失業
      雲散霧消を見るにつけ、再構築は至難の業だと思います。
       日本のナノテク等個別には多少の進歩はあっても、宇宙開発
      自体はアポロ計画達成以降、むしろ退歩の歴史の連続ではない
      でしょうか。太陽系惑星への宇宙探査機打ち上げの努力は賞賛
      に値するとは思いますが、アポロ計画と比べると「お茶を濁し
      ている」感じが否めません。
                            池原 冨貴夫
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 確かに米ソの息詰まる冷戦のさなかとはいえ、当時の宇宙開発に賭ける米ソの情熱は
尋常ならざるものがあり、だからこそあの空前絶後の大事業が成し遂げられたのです。
しかし、その冷戦が終わった現在、当時のような緊張感はなく、宇宙開発に関してはむ
しろ退歩しているのではないかという池原氏のご指摘は当たっていると思います。
 したがって、35年前にできたことでも現在ではできない――そういうことがあって
も不思議はないのです。単に年月が経過するだけでは技術は進歩するのではなく、ある
目標について個人や組織がたぎるような情熱をぶつけて研究し、努力を重ねない限り技
術は進歩しないのです。
 ただし、NASAの発表のしかたには不適切なことが少なくないのです。一番おかし
いのは写真です。そもそも「人類は月に行っていないのではないか」という疑問が出て
きたキッカケは写真の不自然さなのです。
 これに関しては、写真の専門家による次の著作があります。この本は、一連のアポロ
計画における写真についての疑惑を実に詳細に指摘しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      メアリー・ベネット/デヴィット・S・パーシー著
      『アポロは月に行ったのか/Dark Moon――月の告発者たち』
      雷韻出版刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
                        ・・・ [アポロ計画/025]

写真の疑惑を追及.jpg

2006年12月13日

月には行っているが写真はヤラセ !?(EJ第1415号)

 昨日のEJで『アポロは月に行ったのか/Dark Moon ――月の告発者たち』という本
をご紹介しました。メアリー・ベネットとデヴィット・S・パーシーという写真の専門
家による人類による月着陸に関わる写真の告発書です。
 この本で指摘されていることをよく読むと、アポロ計画の写真には多くの疑惑がある
ことが素人にもよくわかります。テレビ朝日の「これマジ!?」でも取り上げています
し、前回のEJによるアポロ疑惑でも取り上げていますので、改めては述べませんが、
ひとつだけ指摘しておきます。
 当然のことですが、大気が存在する地球で撮影した写真と、真空の月や、宇宙空間で
撮った写真とは大きく異なる点があるのです。大気の存在しない宇宙や月面では、光は
地球上のように拡散しないので、太陽光の当たった場所の反射光は通常よりも明るくな
るのに対して、逆に影になった部分は完全な暗黒になって何も写らないはずなのです。
 こういう常識を踏まえて、アポロ11号の月着陸船から降りるオルドリンの写真(添
付ファイル)を見ていただきたいのです。この場合、太陽光は着陸船の反対側から差し
込んでいるのです。したがって、本来ならば、オルドリンは着陸船の大きく真っ暗な影
の中にすっぽりと入ってしまい、何も見えないはずなのです。
 しかし、オルドリンの背中はライトを当てたようにはっきりと写っています。こんな
ことはあり得ないのです。こういう写真が撮れるということは、明らかに太陽光とは違
う光源があることを意味しています。専門家によると、光源の位置はカメラの右方24
〜34センチメートルに位置し、月着陸船との距離はカメラと同じと指摘しているので
す。したがって、明らかにこの写真は月面での写真とは違うと考えられます。
 もうひとつヘンなことがあります。当初多くの人は、添付ファイルの写真は、アーム
ストロング船長だと思っていたことです。現在でも日本惑星協会のサイトには「月面に
降り立つアームストロング船長」とはっきりと書いてあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
         http://www.planetary.or.jp/know_apollo11.html
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、もし、写真の飛行士がアームストロング船長であるとすると、誰がこの写真
を撮ったのでしょう。したがって、最初にアームストロング船長が月面に降り、彼が次
に降りてくるオルドリン飛行士を写したとしか考えられないのです。そのように考えて
も疑問は残るそうです。カメラは飛行士の胸の位置に固定されており、それを前提とす
るとあのような写真が撮れたかどうかきわめて疑問なのです。
 このように、写真は明らかにおかしいのです。しかし、人類は月に行っていると考え
ます。その証拠はやはり月面に設置されているレーザー反射鏡をはじめとするさまざま
な観測機器の存在です。これらの存在は地球から確認されているのです。
 このレーザー反射鏡は、アポロ11号のアームストロング船長とオルドリン飛行士に
よって設置されています。さらに、アポロ12号によってALSEP(地震観測装置)
を設置しています。続いて、アポロ14号は、ロボット実験室「アポロ月面科学観測ボ
ックス」を構成する次の機器を置いているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      ≪ロボット実験室「アポロ月面科学観ボックス」≫
       1.受動型地震観測機
       2.活動型地震測定器
       3.全温度イオン検知機
       4.コールド・カソート・イオン計
       5.月面帯電粒子観測装置
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このロボット実験室には小型の原子力発電機が内蔵されており、それが装置類を暖め
るヒーターの役割をし、情報を地球に送る送信機に必要な電気を供給しているのです。
 さらにアポロ15号もアペニン山脈のふもとハドリー谷に着陸し、そこから90メー
トル西にロボット実験室を設置し、次の機器を設置しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       ≪アポロ15号によるロボット実験室≫
       1.熱流測定器
       2.受動地震計
       3.月面磁気メーター
       4.月面大気および太陽風観測機
       5.月面複式検査機
       6.レーザー測定逆反射鏡
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これらの機器は地球上で通信用に使用されているマイクロウェーブに近い通信波で、
今もデータを地球に送信しているのです。人類が月に行ったことは事実なのです。
 写真にはあまりにも疑惑が多いので、アポロはやらせではないのかというのがアポロ
疑惑です。しかし、推論としては、次のようにもいえるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      月面での写真にはウソが多いのでニセものである。しかし、人
      類は間違いなく月に行っている。米国は真の月面の様子を世界
     に知らせたくないので写真に細工を施したのである。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 月面に降りていないのに映画でそれを騙す――米国という国はこのようなことをする
国ではありませんが、月面の本当の姿を伝えたくないので、本当の写真を出さないとい
うことはあっても不思議ではないと思います。ある意味で月は、軍事上の重要な拠点と
なり得るので、軍事上の機密を保つため、あえてそれを隠蔽することは十分あり得るこ
とだと思います。・・・ [アポロ計画/026]

疑惑の写真/アポロ11号.jpg

2006年12月14日

米国は何を隠蔽しているのか(EJ第1416号)

 アポロ計画による数々の月面の疑惑写真――米国は、月面の本当の姿をなぜ隠蔽した
のでしょうか。
 これをめぐってはいろいろなことがいわれていますが、現時点ではこれは「謎」とい
うしかないのです。このことに関連して次のような話があるのです。NASAを引退し
た宇宙飛行士の情報としてです。
 米国の有人宇宙計画には「表」と「裏」があって、表はNASAであり、裏は空軍だ
というのです。もともと米国のロケット開発は、陸軍・海軍・空軍の3軍でそれぞれ行
っていたという経緯があり、空軍が現在でも戦略的な目的のために、宇宙開発計画を行
っていても不思議はないのです。
 空軍の有する施設は、何もかもNASAそっくりであり、NASAと空軍のそれぞれ
で、独立した宇宙計画が独自に進められているというのです。このうちNASAに関し
ては情報が一般公開されているのに対して、空軍のそれは軍の機密保護の下で一切表に
は出ていないのです。
 この空軍の有人宇宙計画によって、人類はアポロ17号以降も月に行っているという
情報すらあります。一体何のために、そのようなことをしているのでしょうか。21世
紀における宇宙の戦略防衛システム「SDI計画」に関係があるのでしょうか。
 ロズウェル事件というのをご存知でしょうか。
 1947年7月5日のことです。ニューメキシコ州ロズウェルの近くの牧場にUFO
が墜落し、機体や異星人が軍当局に回収されたという事件が起こっています。発見者は
牧場主のマック・ブレーゼルという人物で、それを保安官事務所に届けたのです。
 保安官事務所から連絡を受けて、近くのロズウェル陸軍航空隊飛行場のジェシー・マ
ーセル少佐が現地に赴き、残骸を拾い集めて飛行場に運んだのです。
 それらの残骸は見た目も地球上のものとは異なると考えられたので、ブランチャード
司令官の判断でプレス・リリースを作らせ地元新聞社に情報として流したのです。地元
新聞「ロズウェル・デイリー・レコード」紙は、それを7月8日の一面に次のようなタ
イトルで報道しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
           ロズウェル陸軍航空隊が
           ロズウェルの牧場で空飛ぶ円盤を捕獲!
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 当時UFOという言葉はなく、空飛ぶ円盤といわれていたのですが、目撃情報は多く
あったのです。このニュースはあっという間に世界中に広がり、世界中のマスコミから
問い合わせの電話がロズウェルに殺到したといわれています。
 その日の夕方になって、第8軍司令官ロジャー・レミー准将は「ロズウェル・デイリ
ー・レコード」紙に連絡を入れ、回収した残骸は空飛ぶ円盤のものではなく、気象観測
気球のものであったことを報道するよう要請したのです。新聞社がそれを次の日に報道
すると、騒ぎはひとまず収まったのです。
 しかし、それから30年経ってロズウェルは再び同じ問題で注目を浴びることになる
のです。1978年に核物理学者であるスタントン・フリードマンという人がこのUF
O回収事件を再調査し、目撃者を探し出してインタピューを行うなどして、この事件に
は、「宇宙版ウォーターゲート事件」ともいうべき、大がかりな隠蔽工作が行われたと
いうことを発表したのです。
 なお、フリードマンの調査に基づき、本も発刊されています。日本語へ訳された本の
名前をお知らせしておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       チャールズ・バーリッツ/ウイリアム・ムーア著
       南山宏訳、『ロズウェルUFO回収事件』徳間書店刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これによって、ロズウェルはUFOのメッカになった感があるのです。世界中のUF
O研究家がロズウェルに集まり、多くの著書も発刊されるようになります。
 また、牧場主からの知らせでUFOの残骸を回収したマーセル少佐は気象観測気球の
残骸であるという軍の結論に納得せず、あくまでUFOの残骸であると主張したため、
大変な苦境に陥ってしまうのです。このマーセル少佐については『ロズウェル』という
名前の映画で詳しく知ることができます。
 このロズウェル事件をめぐって大変大胆な予測があるのです。実はロズウェルに墜落
したのは紛れもなくUFOそのものであり米国政府はその残骸を基にして当時極秘の
プロジェクトを立ち上げているのです。そのプロジェクト名は「ソリューションG」と
いうのです。
 これは墜落UFOの複製プロジェクトではないかといわれているのです。このプロジ
ェクトでは、ノーベル賞クラスの学者たちによって「重力を相殺する反重力装置」の開
発・研究が行われたらしいのです。
 それがどのようなものであるかは、情報もなくはっきりしないのですが、開発の狙い
は、「光や電波のように重力を制御して航行する宇宙船」なのです。ごく簡単にいうと
垂直に上下し、そして水平に高速で移動できる宇宙船――まさにUFOそのものと考え
てよいと思います。
 このUFOや異星人に関して副島隆彦氏は、異星人の存在は完全に否定しているもの
の、UFOに関しては、米空軍が開発していると見られる垂直離着陸の円盤状の飛行体
が、その正体であるといっているのです。
 そこにロズウェル事件などで、異星人やUFO出現の話が出てきたので、それを逆手
にとってカモフラージュしている――そう述べています。UFOテクノロジーを使った
兵器――たとえば、ステルス爆撃機などは既に完成しており、米国は月にからめて何か
大切なことを隠していることは確かなようです。月に関して隠蔽したいことが何かある
と考えられます。・・・ [アポロ計画/027]

B−2ステルス爆撃機.jpg

2006年12月15日

都合の悪いことは徹底的に隠蔽する(EJ第1417号)

 かつて米国防総省の上級将校にフィリップ・J・コーソーという人がいたのです。こ
の将校はロズウェル事件で回収したUFOの残骸といわれる物質を何に使ったのかと
いうことを退役して本にまとめたのです。1998年のことです。
 この本は現在でも入手できますので、本のデータをご紹介しておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        フィリップ・J・コーソー著/中村三千恵訳
        『ペンタゴンの陰謀』/二見書房刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 昨日のEJでも述べたように、回収したとされるUFOの残骸を素材に使って、極秘
プロジェクト「ソリューションG」が立ち上げられているのですが、この本の内容はそ
の極秘プロジェクトの内容にかかわる事実が述べられています。ちなみに「G」とは、
「重力」を意味しています。
 コーソーは、1960年代当時の先端技術の水準において、兵器に応用可能な新素材
、機器の開発プランを立案する任務を負っていたのです。そして、コーソーは次の11
種類のテクノロジをUFOテクノロジとして上げています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       1.映像倍増管・・・・・・・・・・・・・・・ 暗視装置
       2.スーパーテナシイ ・・・・・・・・・ 光ファイバー
       3.レーザー切断装置 ・・・・・・・・・ レーザー兵器
       4.分子を圧縮した合金 ・・・・・・・・ 形状記憶合金
       5.集積回路および超小型ロジックボード・・・ 集積回路
       6.移動式原子力発電機 ・・・・・・・・ アポロ宇宙船
       7.ガンマ線照射食品 ・・・・・・・・・ 常温保存可能
       8.加速粒子ビーム兵器 ・・・・・ SDI迎撃ミサイル
       9.電磁推進システム ・・・・・ ステルス爆撃機に応用
      10.劣化ウラン発射体 ・・・・ 湾岸・イラク戦争で使用
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これによると、現代につながる先端技術は、ほとんどこのときのUFOの残骸から取
られたということになります。そして、兵器に転用されたものについては、湾岸戦争、
アフガン戦争、イラク戦争で使われているのです。UFOの残骸とは、にわかには信じ
難い話ではありますが、そういう事実があることは指摘しておきたいと思います。
 もうひとつ重要なのは、コーソーがこのUFO回収事件に関して組織的な隠蔽工作が
行われたと述べていることです。軍はこの隠蔽工作を「ソンブレロ作戦」というコード
ネームで呼び、徹底的に隠蔽しようとしたのです。
 このように米国という国は、絶対に秘匿すべきことは同じようなやり方で隠蔽してい
ます。UFO回収事件しかり、ケネディ大統領暗殺事件しかり、アポロの月着陸しかり
なのです。いずれも国家機密を楯にして同じようなパターンで隠蔽しているのです。
 ある事件が起こると米国は直ちに調査委員会を作り、結論を発表します。それに対し
て後日疑惑が生ずると、再び調査委員会を設立し、一定の期間をかけて調査します。そ
して、最初の調査と同じ結論を改めて発表し、幕引きを図るというパターンです。
 ロズウェル事件については、それが起こった直後に第8軍司令官であるロジャー・レ
ミー准将の名前で「残骸は空飛ぶ円盤のものではなく、モーグルという名の気象観測気
球のものである」と発表しています。
 しかし、それから30年が経過して疑惑が再燃されると、ある上院議員の働きかけに
応ずるかたちで調査委員会を作り、6ヶ月かけて再調査をやっています。1994年1
月のことです。ところが、調査結果は同じなのです。
 これとまったく同じことがケネディ大統領暗殺事件のときに起こっています。事件を
調査したウォーレン委員会の報告書によると、オズワルドの単独犯行がその結論とされ
たのです。
 しかし、その後、ウォーレン委員会の結論に反する数々の反論が出されたり、証拠隠
滅と見られる事件の証拠品が相次いで紛失するということが起こって、それが1972
年に「ニューヨークタイムズ」紙に報道されると、米国議会は再調査のための「暗殺事
件専門委員会」を設置して再調査を約束します。
 ところが、その結論は、「オズワルドの単独犯行に間違いなく彼の撃った一発の銃弾
がケネディ大統領とコナリー知事の2人を貫通した」というウォーレン報告の内容を踏
襲するものだったのです。ロズウェル事件とまったく同じパターンです。
 アポロの月着陸疑惑でも疑惑が深まると、NASAは直接答えることをせず、「月の
雑学」のサイトを作って反論したり、さらに本を発刊して反論する予定のようです。い
ずれにしても、どのように疑惑が深まったとしても、国家機密を楯にNASA自身は疑
惑に答えることはしないはずです。
 「9.11テロ」についても同じことがいえます。あの日、世界貿易センタービルに
ハイジャックされたジェット旅客機が、相次いで突っ込むのをわれわれはテレビで見て
います。しかも、世界貿易センタービルが噴煙を上げている最中に、犯人は国際テロ組
織アルカイダのオサマ・ビンラディンの疑いが濃厚との報道が、CNNテレビを通じて
流されています。
 犯人特定の異常なほどの速さについては、ケネディ大統領暗殺のときと同様です。大
統領がダラスの病院に運ばれて、必死の救命治療が行われているときに、後に犯人と特
定されるオズワルドが逮捕されているのです。なぜ、こんなに速いのでしょうか。
 米国の32代目の大統領であるフランクリン・D・ルーズベルトは、次のようにいっ
ています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      世界的な事件は偶然に起こることはけっしてない。そうなるよ
      うに前もって仕組まれていたと・・・私はあなたに賭けてもよ
      い。        ―――フランクリン・D・ルーズベルト
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
                        ・・・ [アポロ計画/028]

2006年12月18日

NASAを去るフォン・ブラウン(EJ第1418号)

 副島隆彦氏の『人類の月面着陸は無かったろう論』(徳間書店刊)をベースとするア
ポロ疑惑に関するテーマは、本日でちょうど29回目――まだ検討すべき点は残ってい
ますが、本日でこのテーマは終了します。
 最後に、ドイツ人でありながらソ連に対抗して、米国の宇宙開発を支え続けたフォン
・ブラウンの去就について述べておきたいと思います。
 1969年のはじめのことです。大統領に就任したニクソンは1990年に向けて米
国が取り組むべき宇宙計画の策定を副大統領のスピロ・T・アグニューを中心とするS
TG(宇宙問題特別委員会)に命じます。これを受けて、同委員会は1969年9月に
「ポスト・アポロ計画――未来に向かって」というレポートを大統領に提出しているの
です。
 その内容は、実に驚くべきものだったのです。その概要をメモしておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      1.1975年までに、12人を収容する宇宙ステーションと
        スペース・シャトルを建造する。
      2.1980年までに、その宇宙ステーションの規模を拡大し
        50人を収容できるようにする。
      3.その後5年をかけてさらに宇宙ステーションの規模を拡大
        し、100人を生活可能にする。
      4.1976年までに、月周回軌道に有人宇宙基地を乗せ、2
        年後に月面基地建設を実現する。
      5.以上4つの実績を踏まえて、1981年には火星に向けて
        人類が出発できる環境を整える。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 今から考えると、驚くほど意欲的な宇宙開発計画が当時答申されていたのです。しか
し、当時NASAにいたフォン・ブラウンは大統領の関心はいずれ薄れると考えていた
のです。
 事態はフォン・ブラウンの予測した通りになったのです。1969年の終わりになる
と、ニクソン大統領の宇宙開発への関心は急速に失われていったのです。しかも、宇宙
計画のトップである副大統領は不祥事で辞任――議会も難問山積で、財務当局は急増す
る赤字に悩み、まさに内憂外患、とても宇宙開発どころではなかったのです。
 このようなときには、よほど強い政治のリーダーシップがないと、金食い虫の宇宙計
画は進まないものです。NASAの宇宙開発の予算も年々減る一方だったからです。時
のNASAの長官はトマス・ペイン――彼は、フォン・ブラウンにワシントンのNAS
A本部勤務を要請し、フォン・ブラウンはそこで計画局の仕事をまかされることになっ
たのです。
 このフォン・ブラウンという人物は、NASAの宇宙開発用ロケット建造に実質的な
主導権を握っていたのですが、終始控え目な態度だったといわれます。この点、フルシ
チョフやブレジネフようなソ連のトップをバックにして、宇宙開発を仕切っていたコロ
リョフとはその地位も権限も大きく異なっていたのです。
 ペインNASA新長官は、フォン・ブラウンの力を買っておりしかも意欲的であった
ので、ペイン長官当時はうまくいっていたのですが、1970年7月にペイン長官がN
ASAを去って、9月にジョン・ローが長官代行に就任するようになると、もはやフォ
ン・ブラウンの計画局の仕事はほとんどなくなったのです。
 当時のフォン・ブラウンを振り返って、次のように述べた人がいます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       ウェルナー(フォン・ブラウンのこと)は、素晴らしい演奏
      で全世界の人びとを魅了した偉大な指揮者でした。その彼が、
      突然オーケストラを失い、演奏者も楽器も失い、コンサート・
      ホールも、ついには音楽の大好きな聴衆さえも失っている自分
      に気がついたのです。時には自分のヴァイオリンを弾くことが
      ありましたが、耳を傾けてくれる人は、もうあまりいなかった
      のです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1972年6月30日、フォン・ブラウンはNASAを引退しメリーランド州ジャー
マンタウンにあるフェアチャイルド社に招かれ、技術開発担当の副社長に就任します。
そこで、フォン・ブラウンは、衛星通信の仕事に取り組むのです。
 ATS(応用技術衛星)を使って教育プログラムを世界中に流し、恵まれない地域の
人びとに恩恵を与えたい――フォン・ブラウンはこういう構想を立て、その実現に取り
組んだのです。
 そして実現したのが、NASAから依頼を受けて開発したATS−6衛星です。この
衛星は1974年に静止軌道に打ち上げられ、1975年から1976年にかけてこの
衛星はインド上空にとどまって、2400に及ぶ過疎の村に番組を配信したのです。
 当時フォン・ブラウンは、次の中国の格言を引用して教育プログラムの重要性をさか
んに説いていたのですが、このインドにおける衛星通信はそれを花開かせたかたちにな
ったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       お腹のすいた人にサカナをあげれば、その人を1日だけ救う
      ことができる。しかし、その人にサカナのとり方を教えてあげ
      れば、一生お腹がすくことはないだろう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 その後フォン・ブラウンは、再びNASAに請われて国立宇宙協会(NSI)の初代
会長を務めましたが、1977年6月16日にアレクサンドリア病院の一室でその生涯
を閉じたのです。享年65歳、あまりにも早すぎる宇宙への旅立ちだったのです。
 フォン・ブラウンとコロリョフについては的川泰宣著「月をめざした二人の科学者」
(中公新書)からそのほとんど引用させていただきました。最近でもっとも感動した本
であったことをお伝えしておきます。・・・ [アポロ計画/029]

月旅行関連図書.jpg

2006年12月20日

雰囲気が異なる2つの歌の謎(EJ第1270号)

 今日からテーマとして「百人一首」を取り上げます。年末ですし、前から取り上げて
みたいテーマだったからです。しかし、難しいテーマでもあります。
 私は学生時代に百人一首に凝ったことがあり、大学の図書館に通っていろいろ調べた
ものです。競技かるたとしての百人一首も子供の頃からよくやりました。何とか強くな
りたいとよく練習をしたものです。そのため、百人一首には愛着があり、一度EJに取
り上げてみたいテーマだったのです。
 ところで、百人一首には多くの謎があります。その最も大きな謎からはじめることに
します。百人一首は、中世初期の大歌人といわれる藤原定家が1235年頃に、古来の
歌人百人から一人一首を選び集めた秀麗な和歌集のことです。
 百人一首に選ばれている歌は、いずれ劣らぬ妖艶華麗な歌、あるいはしみじみ人生を
述懐する歌など、心楽しませる秀歌が並んでいるのに、2首だけふさわしくない歌が入
っているのです。この2首だけは他の歌に比べて雰囲気が違うのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       99.人も惜し人も恨めしあぢきなく
              世を思うゆえに物思う身は    後鳥羽院
      100.ももしきや古き軒端に忍ぶにも
              なおあまりある昔なりけり     順徳院
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 歌かるたには書かれていないのですが、百人一首の歌には配列順をあらわす歌番号が
ついています。1番は天智天皇の「秋の田のかりほの庵の・・」であり100番の「も
もしきや・・」の順徳院で終わるのです。
 したがって、江戸の川柳には「『智』ではじめ、『徳』でおさめる小倉山」というの
があるのです。天智天皇の歌ではじまって順徳院の歌で終わるという意味です。歌の
順番は、歌人の時代順といわれていますが、かなりアバウトであって、けっして厳密な
ものではないのです。
 この99番と100番の歌の作者はともに天皇です。後鳥羽院は、もと第82代の後
鳥羽天皇のことであり、順徳院はその第3皇子で第84代順徳天皇です。2つの歌の意
味は次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      「人も惜し」 ・・・・・ 後鳥羽院
       人がいとしくも思われ、また人が恨めしくも思われる。味気
       ない思いで世の中のことを考えている私にとっては。
      「ももしきや・・」 ・・ 順徳院
       皇居が荒れ果て、古びた軒端に忍ぶ草が生えているのを見る
       につけても、栄えた昔のことが忍ばれる。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これら2人の上皇は13世紀のはじめに武士の権力が強大化していく中で、京都王朝
の覇権奪回を期して鎌倉幕府に戦いを挑んで敗れた「承久の変」の首謀者なのです。戦
いに敗れた結果、後鳥羽院は隠岐の島、順徳院は佐渡ヶ島へ島流しにされ、20年にも
およぶ孤島生活のすえにその地に果てたのです。
 それでは、上記の2首はいつ詠まれた歌かというと、承久の変の前に詠まれているの
ですが、ともに朝廷の権勢が衰えていくことへの嘆きが歌い込まれています。つまり、
これらの2首は京都王朝を代表する公の立場から、時の世相、社会的、政治的情勢その
ものに対する憤りを歌った「政治歌」といえるのです。
 これらの2首が百人一首のトリに当たる99番と100番に配置されていることに
関しては多くの謎があります。それをまとめると次の2つになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      1.百人一首の選者といわれる藤原定家は、幕府に咎められる
        可能性のある両院の2首をなぜ百人一首に入れたのか。
      2.後鳥羽院、順徳院といえば当時の代表的歌人であり、名歌
        を多く残しているが、なぜこの2首が選定されたのか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 冒頭に百人一首が選集されたのは、1235年頃と書いていますが、実は諸説がある
のです。有力な説としては、この年に島流しにされている両院を都に還御してはどうか
という、いわば特赦申請が京都から出されていたのですが、幕府はそれを拒否し、両院
が生涯孤島に幽閉されることが決まったのです。
 藤原定家にとって後鳥羽院こそは、当時しがない中流貴族に過ぎなかった藤原定家を
その歌の才能を認めて引き上げてくれた大恩人なのです。したがって、定家としては、
両院の京都への還御がかなわないことが決まった1235年に、百人一首を選集して両
院の歌をその最後に置いたのではないか――こういう説があるのです。そして、百人一
首の97番に配置している自らの歌の中にある「来ぬ人を」とは両院を指しているとし
ているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      97.来ぬ人をまつほの浦の夕凪に
             焼くや藻塩の身もこがれつつ  権中納言定家
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「松帆の浦」とは淡路島の北端、明石海峡に面したところにあります。時刻は夕刻、
瀬戸内海特有の風がやんだ凪の蒸し暑いなかで、塩をとるために藻が火で焼かれてチリ
チリ音を立てている――そんな海辺の風景を背景に火に焼かれる海草に自分をなぞらえ
て「来ぬ人」をひたすら待っているというのが歌の意味です。
 問題の「来ぬ人」とは一般的には「恋人」のことと解釈されていますが、実はそうで
はなく、もう100%帰ってこない両院を身を焼かれる思いで私は待っているという意
味ではないかという解釈をしているのです。
 しかし、これには多くの反論があります。だいいち藤原定家という人は、後鳥羽院に
あれほど恩になっていながら、両院が島流しにされると、一転して現実的、自己保身的
な考え方で行動した人で、そんな殊勝な人ではない――こういう説が多いのです。
                         ・・・・・ [百人一首/01]

権中納言定家.jpg

2006年12月21日

なぜこの2首でないといけないのか(EJ第1271号)

 昨日のEJで、百人一首のトリに配置された後鳥羽院と順徳院の2つの歌に関して2
つの謎を挙げましたが、再現して話を続けることにします。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      1.百人一首の選者といわれる藤原定家は、幕府に咎められる
        可能性のある両院の2首をなぜ百人一首に入れたのか。
      2.後鳥羽院、順徳院といえば当時の代表的歌人であり、名歌
        を多く残しているが、なぜこの2首が選定されたのか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 藤原定家といえば、新古今時代の最高の歌人といわれ、歌道の宗家として二条・京極
・冷泉(れいぜい)家のいしずえを築いた人ですが、それは定家が晩年になってからの
ことであり、それまでは恵まれない境遇だったのです。
 藤原定家の生まれた御子左(みこひだり)家は、藤原全盛期の摂関・道長の六男から
発した名家のひとつです。しかし、定家の父である俊成の代になると家は没落し、「公
卿(くぎょう)」といわれる地位――「正三位非参議」という地位にまで落ちていたの
です。つまり、「卿」の地位から脱落寸前だったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
         太政大臣・左右大臣以上  ・・・・・・ 公
         大中納言・参議・三位以上 ・・・・・・ 卿
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかるに、藤原俊成は歌人としては有数の人であり、定家もその薫陶を受けて17歳
のときは一流歌人の歌会に父と同席を許されるほど、早くから歌道の天才として認めら
れていたのです。
 当時なぜ天皇家や公卿が歌道に力を入れたかというと、公卿が没落し、武士が台頭す
るなかで、文化の世界で武士に圧倒的な差をつけて、王朝文化を興隆させようと考えた
からです。しかし、発展途上にあった定家の前衛的・実験的歌風は、意味不明として評
価されず、定家はなかなか出世できなかったのです。
 その藤原定家が、宮廷歌壇の中心人物として飛翔できるようになったのは、ひとえに
後鳥羽院の引き立てによるものだったのです。それは、定家の反抗性を基調とする絢爛
・華麗なる歌風、自然の景色を詠みながら深い感情の述懐を織り込む抒情美――そうい
うものが後鳥羽院の心をとらえたからです。
 しかし、後鳥羽院のおかげで、歌壇の世界で力を得た定家ですが、歌の評価をめぐっ
てはしばしば院と対立したといわれています。定家は、歌の評価に関して自説を主張し
て譲らないところがあったのです。
 さらに批判の対象になっているのは、承久の変の後の定家の保身的な行動です。定家
の子息である為家は、順徳院の遊び相手としてしばしば宮中で寝所を共にするほどの仲
であったといわれています。そのため、順徳院の佐渡ヶ島配流にさいして、為家は当然
お供をすると誰も信じて疑わなかったのです。
 しかるに、定家はその為家に佐渡随行どころか、見送ることさえ禁じたのです。さら
に、定家はその為家を関東下野の領主・宇都宮入道頼綱という大富豪の娘と結婚させて
いるのですが、この頼綱は北条時政の女婿であり、為家の妻は時政の孫娘ということに
なるのです。つまり、定家はこともあろうに後鳥羽院の仇敵である北条家の血族と縁を
結んだのです。
 このような定家が百人一首を選集し、そのトリに両院を偲んで両院の歌を配すという
ことをするでしょうか。それほど百人一首の最後の2首には大きな謎が秘められている
のです。
 続いて、2つ目の謎について考えましょう。後鳥羽院と順徳院といえば当代有数の歌
人であり、たくさんの名歌を残しているのです。しかし、定家が選んだ両院の歌は、必
ずしも名歌とはいえない作品なのです。
 これについて百人一首の研究家として名高い丸谷才一氏は次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      藤原定家は後鳥羽院の最高の作品としてこの一首を選んだわけ
      だ。――実を言うとかつてわたしはこのことに不審をいだいて
      いた。定家が誰よりも恐れていたらしい当代の上手の、全作品
      を代表させるに足る歌とは思えなかったからである。
                           ――丸谷才一氏
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 確かに後鳥羽院の歌には、名歌の誉れ高き次の歌があります。
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        ほのぼのと春こそ空にきにけらし
                天のかぐ山霞たなびく     後鳥羽院
        見渡せば山もと霞むみなせ川
               ゆふべは秋と何思ひけむ    後鳥羽院
        我こそは新じま守よ沖の海の
               あらき浪かぜ心してふけ    後鳥羽院
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 さらに石田吉貞氏は、後鳥羽院の歌について次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      『人も惜し人も恨めし』というお嘆きのなかに、歴史の嘆きや
      歴史の怒りさえ、深々と感じられて、妖艶の美に血をわかせて
      いる(他の百人一首の)歌とは、まったくちがった次元のもの
      であることが考えられる。それにしても・・・(百人一首は)
      なにゆえに後鳥羽院の多くの歌のなかから、特にこのような、
      暗い歌を選んだのであろうか。
                ――石田吉貞著、『鑑賞百人一首』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この謎については、実に多くの説があり、とてもすべてを紹介しきれませんが、その
ほとんどが間違っていると思われます。どうしてもこの2首でないと困る理由が別にあ
るのですが、これについてはやがて明らかになります。・・・・・ [百人一首/02]

丸谷才一氏の本.jpg

2006年12月22日

百人秀歌というものもある(EJ第1272号)

 百人一首が選集されたのは、1235年頃ということになっていますが、何を根拠に
しているのでしょうか。
 根拠は、藤原定家の日記『名月記』です。その1235年5月27日に次のように書
いてあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      予モトヨリ文字ヲ書くコトヲ知ラズ。嵯峨中院障子ノ色紙形、
      コトサラ予ニ書クベキノヨシ、カノ入道懇切ナリ。極メテ見苦
      シキ事トイエドモ、ナマジニ筆ヲ染メテコレヲ送ル。古来ノ人
      ノ歌各一首。天智天皇ヨリ以来、家隆・雅経ニ及ブ。
                    ――名月記/原文は漢文である
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここで「カノ入道」とあるのは、定家の子息・為家の妻の父である宇都宮頼綱のこと
です。出家して「入道蓮生」と称したのです。宇都宮頼綱は下野の国宇都宮の領主であ
り、関東随一の富強といわれていたのです。
 入道蓮生は、定家が所有する京都の小倉山荘の北側に当る中院の地に豪華な別荘を建
てて、1235年4月に定家を招待したのです。当時は、神社・仏閣・貴族の邸宅など
の障子に色紙を貼ることが流行していたのです。
 入道蓮生としては、定家ほどの当代一の歌人の書いた色紙ならば別荘の自慢ができる
ということで、大広間の襖に貼るための色紙を書いて欲しいと定家に頼んだのです。
 定家は、最初は固辞していたものの結局は引き受け、京都一条京極の私宅に戻り、約
20日あまりで歌の選定と色紙を書き上げています。冒頭の名月記にはそのことを書い
ているのです。これによると、「古来ノ人ノ歌各一首。天智天皇ヨリ以来、家隆・雅経
ニ及ブ」とありますので、百人一首の原型ではないかといわれているのです。
 ここで、「天智天皇ヨリ以来、家隆・雅経ニ及ブ」の部分を解明しておく必要があり
ます。天智天皇は百人一首の1番歌ですが「家隆・雅経ニ及ブ」とは何でしょうか。
 この家隆・雅経は、ともに当時の有名歌人であり、百人一首には、94番と98番に
登場するのです。
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       94.み吉野の山の秋風さ夜更けて
              ふるさと寒く衣うつなり     参議雅経
       98.風そよぐならの小川の夕暮は
              みそぎぞ夏のしるしなりける  従二位家隆
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 しかし、入道蓮生に贈ったのが百人一首であるとすると、99番、100番の両院の
歌には言及していないのはなぜかということになります。これについて石田吉貞氏は、
上皇のように身分の高い人の名をあげるのを遠慮して「雅経・家隆などの時代の歌人」
というように大略的に表現したものと説明しています。
 ここで考慮しなければならないことがもうひとつあります。それは、百人一首のほか
に「百人秀歌」というものが存在するということです。「百人秀歌」とは、1951年
になって宮内庁書陵において発見された古書です。ちゃんと『百人秀歌』というタイト
ルがついていたのです。
 「百人秀歌」は、97首は百人一首と同じものが収録されており、次の4つの点が異
なっているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
         1.99番と100番の両院の歌がないこと
         2.歌人の配列順序がかなり違っていること
         3.百人一首にはない3つの歌が入っている
         4.74番の歌が別な歌に入れ替わっている
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 百人一首にない3つの歌とは次の3首のことです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        夜もすがら契りしことを忘れずば
              恋ひむ涙の色ぞゆかしき   一条院皇后宮
        春日野のしたもえわたる草の上に
              つれなく見ゆる春のあは雪  権中納言国信
        紀の国の由良のみ崎に拾ふてふ
             たまさかにだにあひ見てしがな 権中納言長方
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 74番の歌は、源俊頼朝臣の「うかりける人を初瀬の」ですがこれがなくなって、同
じ源俊頼朝臣の次の歌に入れ替わっているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        山桜さきそめしより久方の
              雲井に見ゆる滝の白糸     源俊頼朝臣
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 注目すべきは、百人秀歌では両院の歌が省かれ、3首が入っているので、101首に
なっていることです。問題は、定家が入道蓮生に贈った色紙が百人一首なのか百人秀歌
なのかという点なのです。実はわが国の国文学界では、これをめぐって大論争が行われ
ているのです。具体的には、百人一首対百人秀歌との関係をめぐる論争です。
 一方を代表するのは、樋口芳麻呂氏による説です。氏によると百人秀歌の方が先にで
きて、それを定家自身の手で修正を加えたものが百人一首であり、中院別荘に貼られた
のは百人一首であるとするものです。後鳥羽院と順徳院の歌が入っている百人一首その
ものが中院別荘に貼られたというのです。
 これに対して、真っ向から反対を唱えるのは、石田吉貞氏による説です。石田氏によ
ると、中院別荘に貼られたのは百人秀歌であって、両院の歌は入っていないとしていま
す。そして、石田氏は、百人秀歌に両院の歌を入れ、現在の百人一首のかたちにしたの
は定家ではなく、定家の死後に息子の為家がやったことであるとしているのです。もと
もと最初の百人一首には両院歌は入っていなかったと石田氏はいっているのです。
                           ・・・ [百人一首/03]

2006年12月25日

新勅撰和歌集選集の秘話(EJ第1273号)

 22日のEJで、「名月記」とあるのは「明月記」の誤りです。読者からご指摘をい
ただきました。お詫びして訂正いたします。
 百人一首と百人秀歌の関係――どちらが先にできて、どちらが後なのか。百人一首に
は最初から99番と100番に両院の歌が入っていたのかどうか――謎はたくさんあり
ます。
 しかし、入道蓮生に定家が贈ったという色紙に両院の歌が入っていたかどうかについ
ては、客観的状況から考えると、入っていないとする方が正しいと思えるのです。
 藤原定家の立場から考えると、そうでなくても両院とは距離を置きたいし、それで成
功してきているのに、たかが親戚の別荘の障子歌に幕府を刺激する両院の歌を入れるは
ずがないのです。まして、入道蓮生の妻は北条時政の娘なのです。そんな危険なことを
保身主義者の定家がするはずがないのです。
 にもかかわらず、定家がしきりと両院の歌を入れようとしたのは事実です。だからこ
そ、現在伝えられている百人一首には、両院の歌が入っているのです。それにはちゃん
とした理由があり、それは、やがて明らかになります。
 一方、入道蓮生の立場かにら考えると、両院の歌の入った色紙を贈られたら、当惑す
るに決まっています。というのは、入道蓮生が宇都宮頼綱のときに、一時、北条義時に
謀反の疑いがあると睨まれたことがあるのです。このときは一族60余人が頭を剃って
鎌倉に詫びを入れたのです。そのため、入道蓮生は北条氏を刺激することを非常に恐れ
ていたといいます。
 当時の別荘というものは、多くの客人を招いてもてなすためのものなのです。その襖
に北条氏が神経をとがらせている両院の歌が入っていればどういう事態になるか――現
実主義者の定家がそんなことをするはずがないというのが石田吉貞氏の主張です。論旨
明快であり、説得力があると思います。
 それでは、両院の歌が入った百人一首は定家の選ではないのかというと、そういうわ
けではないのです。石田氏のように定家の没後に息子の為家が入れたという説は小数派
なのです。
 これに関して、樋口芳麻呂氏は非常に興味ある根拠を挙げて反論しているのです。そ
れは、両院歌(99.100)の直前に位置する次の6人の歌人の順序です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      93.鎌倉右大臣(実朝) 96.入道前太政大臣(公経)
      94.参議雅経      97.権中納言定家
      95.前大僧正慈円    98.従二位家隆
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 93番から95番までの実朝、雅経、慈円は没年順、96番からの公経、定家、家隆
は年齢順というように、故人と現存者を区別する配列がされているのです。これによる
と、家隆は現存生存歌人中の最高齢というわけです。つまり、百人一首の配列は、家隆
の生前に完了していることになり、選者はどのように考えても藤原定家ということにな
るのです。
 なぜなら、もし、百人一首の選定が定家死後のことであれば、この6人の順は、没年
順にしても、身分の上下順にしてもこれと異なることになり、説明がつかなくなる――
これが樋口芳麻呂氏の主張なのです。
 それに加えて、1963年に後鳥羽院の「人も惜し人も恨めし・・・」の歌が書かれ
た定家のものと思われる小倉色紙が発見されているのです。吉田幸一、片桐洋一両氏に
よる筆跡鑑定によって定家の自筆であることが明らかになっているのです。どうやら、
百人一首については、定家自身が両院の歌を入れたことは、間違いないと思われます。
 それでは、なぜ藤原定家は、両院の歌を百人一首に入れたのでしょうか。これを解明
する前提として、「新勅撰和歌集事件」というものについて知っていただく必要があり
ます。
 藤原定家は1232年から1235年にかけて「新勅撰和歌集」の選集を行い、12
35年3月12日に前関白・藤原道家に提出しています。後の世にまで残る勅撰集の独
力選集ですから、歌の道にたずさわる者にとって最高の栄誉のはずですが、定家として
は、懊悩として楽しめない事情があったのです。
 定家は勅撰集の完成草稿を1234年に藤原道家に