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2006年12月27日

百人一首は平安朝和歌の総集編(EJ第1275号)

 今週から百人一首の謎の核心に入っていますが、最初にお断りしておきたいのは、百
人一首の研究はいまだに普遍的な解釈には到達していないということです。つまり、百
人一首には、いろいろな考え方や多くの解釈のしかたがあって、これからEJで述べよ
うとしている解釈は、そのワン・オブ・ゼムに過ぎないということです。
 ある国文学者の解釈を紹介しましょう。同志社女子大学学芸学部教授の吉海直人氏は
、百人一首を「和歌で綴る平安朝の歴史」と考えています。吉海教授は、百人一首は藤
原定家による私撰集というよりも勅撰集的な性格が強いとしています。ここで勅撰集と
は、天皇や上皇の命によって編纂される和歌集のことです。
 吉海教授は、その証拠として、百人一首に含まれる和歌は平安朝の勅撰集を完全に網
羅しており、さながら平安朝和歌の総集編といってよい内容になっていること、さらに
百人一首が第1番の天智天皇ではじまり、第100番の後鳥羽院で終わっていることを
上げています。天皇の歌ではじめ、天皇で歌で終わっているのです。天智天皇は平安朝
の皇祖であり、後鳥羽院は平安朝の終焉を意味しています。
 つまり、吉海教授によると、百人一首は、単なる秀歌集とは異なり、「勅撰集の小宇
宙的世界」を形成している――このように想定しているのです。
 また、定家が後鳥羽院・順徳院など承久の変の関係者の歌を断腸の思いで削った「新
勅撰集」は、そういう意味からも不幸な運命をたどったといえますが、何よりも悲運だ
ったのは、肝心の新勅撰集の下命者である後堀川院の突然の崩御により、それを献上で
きなかったことにあります。
 そのため、定家としては、新勅撰集の延長線上にある百人一首を後鳥羽院・順徳院へ
の献上を想定した準勅撰集として、編纂したのではないか、これは晩年の定家の最後の
野望であったと吉海教授は述べています。この説は、おおむね国文学者を代表する意見
といってよいと思います。
 しかし、これから述べようとする考え方は国文学者的解釈とは大いに異なるのです。
百人一首は必ずしも秀歌ではない――これは多くの国文学者が投げかけている疑問のひ
とつです。それもそのはずで、定家は壮大なるある目的のために、歌の優秀性に関係な
く特定の条件を満たす100首を集めているからです。その証拠を探ってみたいと思い
ます。
 証拠としては、次の2つのことがあります。
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      1.百人一首の中に1人で2首を詠んでいる歌人がいる
      2.他の歌集の「詠み人知らず」の歌が入っていること
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1の問題から考えていきます。
 百人一首というと、百人の歌人それぞれの一首ずつの和歌を集めたものと誰でも考え
ますが、実はそうではないのです。百首は間違いないのですが、歌人の方は99人しか
いないのです。ということは1人が2首詠んでいることになります。その問題の歌は、
次の2つの歌です。
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      22.吹くからに秋の草木のしをるれば
              むベ山風をあらしといふらむ   文屋康秀
      37.しらつゆに風の吹きしく秋の野は
              つらぬきとめぬ玉ぞ散りける   文屋朝康
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 22番の歌の出典は「古今集」です。藤原定家の家系である二条家の相伝本はこの歌
の作者を「文屋康秀」としています。しかし、この歌は「是貞親王家歌合」の席で詠ま
れているのですが、当時の参加者の年齢に比べて文屋康秀の年齢が飛び抜けて高すぎる
こと、それに他の歌集ではこの歌が朝康の作として載っていることから考えて、息子の
文屋朝康の作とするのが正しいとされています。これは、江戸時代の国学者・契沖によ
って指摘されたもので、現在では多くの国文学者によって正しいとされています。つま
り、かなり無理して特定の歌を集めているのです。
 続いて、2の問題です。
 百人一首の中で作者に疑問のある歌が4首あるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       1.秋の田のかりほの庵の苫をあらみ
              わが衣手は露にぬれつつ     天智天皇
       3.あしひきの山鳥の尾のしだり尾の
              ながながし夜をひとりかも寝む 柿本人麻呂
       5.おくやまにもみぢ踏み分け鳴く鹿の
              こえ聞くときぞ秋はかなしき   猿丸大夫
      27.みかの原わきて流るるいづみ川
              いつ見きとてか恋しかるらむ  中納言兼輔
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 順不同ですが、27の歌から説明します。兼輔には「兼輔集」という家集があります
が、その中にこの歌は見当たらず、「古今和歌六帖」で「詠み人知らず」の歌になって
いるのです。
 この歌は「古今和歌六帖」を出典として「新古今和歌集」に採られているのですが、
岩波文庫の『新古今和歌集』によると、この歌の撰者として定家と家隆の名前が上がっ
ているのです。したがって、定家と家隆は「詠み人知らず」であることを承知のうえで
兼輔の歌として百人一首に採ったことになります。なぜ、そのようなことをしたのでし
ょうか。
 第3番の柿本人麻呂の歌ですが、これは「万葉集」2802番に「或る本の歌にいわ
く」とあるだけで作者のわからない歌なのです。それが「拾遺集」に人麻呂作として採
り入れられていることから、定家はそれをそのまま採歌しています。
 残る天智天皇の歌と猿丸大夫の歌については、明日のEJで述べることにします。
・・・ [百人一首/06]

吉海直人氏の本.jpg

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