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2006年12月18日

NASAを去るフォン・ブラウン(EJ第1418号)

 副島隆彦氏の『人類の月面着陸は無かったろう論』(徳間書店刊)をベースとするア
ポロ疑惑に関するテーマは、本日でちょうど29回目――まだ検討すべき点は残ってい
ますが、本日でこのテーマは終了します。
 最後に、ドイツ人でありながらソ連に対抗して、米国の宇宙開発を支え続けたフォン
・ブラウンの去就について述べておきたいと思います。
 1969年のはじめのことです。大統領に就任したニクソンは1990年に向けて米
国が取り組むべき宇宙計画の策定を副大統領のスピロ・T・アグニューを中心とするS
TG(宇宙問題特別委員会)に命じます。これを受けて、同委員会は1969年9月に
「ポスト・アポロ計画――未来に向かって」というレポートを大統領に提出しているの
です。
 その内容は、実に驚くべきものだったのです。その概要をメモしておきます。
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      1.1975年までに、12人を収容する宇宙ステーションと
        スペース・シャトルを建造する。
      2.1980年までに、その宇宙ステーションの規模を拡大し
        50人を収容できるようにする。
      3.その後5年をかけてさらに宇宙ステーションの規模を拡大
        し、100人を生活可能にする。
      4.1976年までに、月周回軌道に有人宇宙基地を乗せ、2
        年後に月面基地建設を実現する。
      5.以上4つの実績を踏まえて、1981年には火星に向けて
        人類が出発できる環境を整える。
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 今から考えると、驚くほど意欲的な宇宙開発計画が当時答申されていたのです。しか
し、当時NASAにいたフォン・ブラウンは大統領の関心はいずれ薄れると考えていた
のです。
 事態はフォン・ブラウンの予測した通りになったのです。1969年の終わりになる
と、ニクソン大統領の宇宙開発への関心は急速に失われていったのです。しかも、宇宙
計画のトップである副大統領は不祥事で辞任――議会も難問山積で、財務当局は急増す
る赤字に悩み、まさに内憂外患、とても宇宙開発どころではなかったのです。
 このようなときには、よほど強い政治のリーダーシップがないと、金食い虫の宇宙計
画は進まないものです。NASAの宇宙開発の予算も年々減る一方だったからです。時
のNASAの長官はトマス・ペイン――彼は、フォン・ブラウンにワシントンのNAS
A本部勤務を要請し、フォン・ブラウンはそこで計画局の仕事をまかされることになっ
たのです。
 このフォン・ブラウンという人物は、NASAの宇宙開発用ロケット建造に実質的な
主導権を握っていたのですが、終始控え目な態度だったといわれます。この点、フルシ
チョフやブレジネフようなソ連のトップをバックにして、宇宙開発を仕切っていたコロ
リョフとはその地位も権限も大きく異なっていたのです。
 ペインNASA新長官は、フォン・ブラウンの力を買っておりしかも意欲的であった
ので、ペイン長官当時はうまくいっていたのですが、1970年7月にペイン長官がN
ASAを去って、9月にジョン・ローが長官代行に就任するようになると、もはやフォ
ン・ブラウンの計画局の仕事はほとんどなくなったのです。
 当時のフォン・ブラウンを振り返って、次のように述べた人がいます。
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       ウェルナー(フォン・ブラウンのこと)は、素晴らしい演奏
      で全世界の人びとを魅了した偉大な指揮者でした。その彼が、
      突然オーケストラを失い、演奏者も楽器も失い、コンサート・
      ホールも、ついには音楽の大好きな聴衆さえも失っている自分
      に気がついたのです。時には自分のヴァイオリンを弾くことが
      ありましたが、耳を傾けてくれる人は、もうあまりいなかった
      のです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1972年6月30日、フォン・ブラウンはNASAを引退しメリーランド州ジャー
マンタウンにあるフェアチャイルド社に招かれ、技術開発担当の副社長に就任します。
そこで、フォン・ブラウンは、衛星通信の仕事に取り組むのです。
 ATS(応用技術衛星)を使って教育プログラムを世界中に流し、恵まれない地域の
人びとに恩恵を与えたい――フォン・ブラウンはこういう構想を立て、その実現に取り
組んだのです。
 そして実現したのが、NASAから依頼を受けて開発したATS−6衛星です。この
衛星は1974年に静止軌道に打ち上げられ、1975年から1976年にかけてこの
衛星はインド上空にとどまって、2400に及ぶ過疎の村に番組を配信したのです。
 当時フォン・ブラウンは、次の中国の格言を引用して教育プログラムの重要性をさか
んに説いていたのですが、このインドにおける衛星通信はそれを花開かせたかたちにな
ったのです。
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       お腹のすいた人にサカナをあげれば、その人を1日だけ救う
      ことができる。しかし、その人にサカナのとり方を教えてあげ
      れば、一生お腹がすくことはないだろう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 その後フォン・ブラウンは、再びNASAに請われて国立宇宙協会(NSI)の初代
会長を務めましたが、1977年6月16日にアレクサンドリア病院の一室でその生涯
を閉じたのです。享年65歳、あまりにも早すぎる宇宙への旅立ちだったのです。
 フォン・ブラウンとコロリョフについては的川泰宣著「月をめざした二人の科学者」
(中公新書)からそのほとんど引用させていただきました。最近でもっとも感動した本
であったことをお伝えしておきます。・・・ [アポロ計画/029]

月旅行関連図書.jpg

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コメント (3)

読みごたえ ありました・・♪

ところで、元・宇宙飛行士 秋山さんの証言もある、月面着陸の大嘘・・・↓。どうなんでしょう・・

http://www.akashic-record.com/k/y2005/lune.html#p01


月面着陸、ケネディ、911・・・・・

世界的な事件は偶然に起こることはけっしてない。そうなるように前もって仕組まれていたと・・・私はあなたに賭けてもよ
      い。  ―フランクリン・D・ルーズベルト の言葉は意味深ですね〜。

日本においても、神戸の少年の事件やオウム真理狂、ライブドア野口氏の死の謎と背後に在る深い闇、植草氏や元検察官の三井環氏の国策捏造事件等々・・、真相を闇に葬り去ろうと図っている国家権力側の姿勢は 怖ろしい。
我々は、現世では本来持っている筈の霊的な直観力さえも失い、おとなしく家畜化されて、生涯を終えるこのシステムを 子ども達にも引き継がせることになるのか・・ ・・。
ことの善悪なんぞはさておき(興味は無い)、真相を尻鯛。 

どうなってんだ〜!と、吠えてみる。

対立が絶えないユダヤ教 毎日更新 スポーツ イスラエル国内で カラフルフルーツ 犯罪の要因も指 イスラミヤ 労働党 摘されている 海兵隊

見事な考察、と思っておりましたら、フレア、中性子線、被曝、遮蔽、mSvといった言葉が一度も出てこないのですよ。「高速で通過する為、ヴァンアレン帯は問題にならない」というNASAの主張にあなたも乗っかっている様に見えるのですが。「放射線被曝」と言う概念を廃している時点でSF小説になってしまいます。NASAは如何にして乗組員をSPEの脅威から守ったのか? これを抜きにしてアポロは語れません。

それと月への無人探査船は逆噴射の後、激突。壊れなかった場合を「軟着陸」と呼び作業を開始したと聞いております。当時、激突を軟着陸と偽るのは常套手段であったそうです。マーズ・パス・ファインダーに於いてもパラシュートを開いて下降、エアバッグに守られた船体は「最高12mの高さまで飛び上がり、少なくとも15回弾んだ後の着地」であったそうです。これも軟着陸と呼ばれております。

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