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2006年12月20日

雰囲気が異なる2つの歌の謎(EJ第1270号)

 今日からテーマとして「百人一首」を取り上げます。年末ですし、前から取り上げて
みたいテーマだったからです。しかし、難しいテーマでもあります。
 私は学生時代に百人一首に凝ったことがあり、大学の図書館に通っていろいろ調べた
ものです。競技かるたとしての百人一首も子供の頃からよくやりました。何とか強くな
りたいとよく練習をしたものです。そのため、百人一首には愛着があり、一度EJに取
り上げてみたいテーマだったのです。
 ところで、百人一首には多くの謎があります。その最も大きな謎からはじめることに
します。百人一首は、中世初期の大歌人といわれる藤原定家が1235年頃に、古来の
歌人百人から一人一首を選び集めた秀麗な和歌集のことです。
 百人一首に選ばれている歌は、いずれ劣らぬ妖艶華麗な歌、あるいはしみじみ人生を
述懐する歌など、心楽しませる秀歌が並んでいるのに、2首だけふさわしくない歌が入
っているのです。この2首だけは他の歌に比べて雰囲気が違うのです。
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       99.人も惜し人も恨めしあぢきなく
              世を思うゆえに物思う身は    後鳥羽院
      100.ももしきや古き軒端に忍ぶにも
              なおあまりある昔なりけり     順徳院
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 歌かるたには書かれていないのですが、百人一首の歌には配列順をあらわす歌番号が
ついています。1番は天智天皇の「秋の田のかりほの庵の・・」であり100番の「も
もしきや・・」の順徳院で終わるのです。
 したがって、江戸の川柳には「『智』ではじめ、『徳』でおさめる小倉山」というの
があるのです。天智天皇の歌ではじまって順徳院の歌で終わるという意味です。歌の
順番は、歌人の時代順といわれていますが、かなりアバウトであって、けっして厳密な
ものではないのです。
 この99番と100番の歌の作者はともに天皇です。後鳥羽院は、もと第82代の後
鳥羽天皇のことであり、順徳院はその第3皇子で第84代順徳天皇です。2つの歌の意
味は次の通りです。
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      「人も惜し」 ・・・・・ 後鳥羽院
       人がいとしくも思われ、また人が恨めしくも思われる。味気
       ない思いで世の中のことを考えている私にとっては。
      「ももしきや・・」 ・・ 順徳院
       皇居が荒れ果て、古びた軒端に忍ぶ草が生えているのを見る
       につけても、栄えた昔のことが忍ばれる。
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 これら2人の上皇は13世紀のはじめに武士の権力が強大化していく中で、京都王朝
の覇権奪回を期して鎌倉幕府に戦いを挑んで敗れた「承久の変」の首謀者なのです。戦
いに敗れた結果、後鳥羽院は隠岐の島、順徳院は佐渡ヶ島へ島流しにされ、20年にも
およぶ孤島生活のすえにその地に果てたのです。
 それでは、上記の2首はいつ詠まれた歌かというと、承久の変の前に詠まれているの
ですが、ともに朝廷の権勢が衰えていくことへの嘆きが歌い込まれています。つまり、
これらの2首は京都王朝を代表する公の立場から、時の世相、社会的、政治的情勢その
ものに対する憤りを歌った「政治歌」といえるのです。
 これらの2首が百人一首のトリに当たる99番と100番に配置されていることに
関しては多くの謎があります。それをまとめると次の2つになります。
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      1.百人一首の選者といわれる藤原定家は、幕府に咎められる
        可能性のある両院の2首をなぜ百人一首に入れたのか。
      2.後鳥羽院、順徳院といえば当時の代表的歌人であり、名歌
        を多く残しているが、なぜこの2首が選定されたのか。
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 冒頭に百人一首が選集されたのは、1235年頃と書いていますが、実は諸説がある
のです。有力な説としては、この年に島流しにされている両院を都に還御してはどうか
という、いわば特赦申請が京都から出されていたのですが、幕府はそれを拒否し、両院
が生涯孤島に幽閉されることが決まったのです。
 藤原定家にとって後鳥羽院こそは、当時しがない中流貴族に過ぎなかった藤原定家を
その歌の才能を認めて引き上げてくれた大恩人なのです。したがって、定家としては、
両院の京都への還御がかなわないことが決まった1235年に、百人一首を選集して両
院の歌をその最後に置いたのではないか――こういう説があるのです。そして、百人一
首の97番に配置している自らの歌の中にある「来ぬ人を」とは両院を指しているとし
ているのです。
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      97.来ぬ人をまつほの浦の夕凪に
             焼くや藻塩の身もこがれつつ  権中納言定家
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 「松帆の浦」とは淡路島の北端、明石海峡に面したところにあります。時刻は夕刻、
瀬戸内海特有の風がやんだ凪の蒸し暑いなかで、塩をとるために藻が火で焼かれてチリ
チリ音を立てている――そんな海辺の風景を背景に火に焼かれる海草に自分をなぞらえ
て「来ぬ人」をひたすら待っているというのが歌の意味です。
 問題の「来ぬ人」とは一般的には「恋人」のことと解釈されていますが、実はそうで
はなく、もう100%帰ってこない両院を身を焼かれる思いで私は待っているという意
味ではないかという解釈をしているのです。
 しかし、これには多くの反論があります。だいいち藤原定家という人は、後鳥羽院に
あれほど恩になっていながら、両院が島流しにされると、一転して現実的、自己保身的
な考え方で行動した人で、そんな殊勝な人ではない――こういう説が多いのです。
                         ・・・・・ [百人一首/01]

権中納言定家.jpg

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