なぜこの2首でないといけないのか(EJ第1271号)
昨日のEJで、百人一首のトリに配置された後鳥羽院と順徳院の2つの歌に関して2
つの謎を挙げましたが、再現して話を続けることにします。
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1.百人一首の選者といわれる藤原定家は、幕府に咎められる
可能性のある両院の2首をなぜ百人一首に入れたのか。
2.後鳥羽院、順徳院といえば当時の代表的歌人であり、名歌
を多く残しているが、なぜこの2首が選定されたのか。
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藤原定家といえば、新古今時代の最高の歌人といわれ、歌道の宗家として二条・京極
・冷泉(れいぜい)家のいしずえを築いた人ですが、それは定家が晩年になってからの
ことであり、それまでは恵まれない境遇だったのです。
藤原定家の生まれた御子左(みこひだり)家は、藤原全盛期の摂関・道長の六男から
発した名家のひとつです。しかし、定家の父である俊成の代になると家は没落し、「公
卿(くぎょう)」といわれる地位――「正三位非参議」という地位にまで落ちていたの
です。つまり、「卿」の地位から脱落寸前だったのです。
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太政大臣・左右大臣以上 ・・・・・・ 公
大中納言・参議・三位以上 ・・・・・・ 卿
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しかるに、藤原俊成は歌人としては有数の人であり、定家もその薫陶を受けて17歳
のときは一流歌人の歌会に父と同席を許されるほど、早くから歌道の天才として認めら
れていたのです。
当時なぜ天皇家や公卿が歌道に力を入れたかというと、公卿が没落し、武士が台頭す
るなかで、文化の世界で武士に圧倒的な差をつけて、王朝文化を興隆させようと考えた
からです。しかし、発展途上にあった定家の前衛的・実験的歌風は、意味不明として評
価されず、定家はなかなか出世できなかったのです。
その藤原定家が、宮廷歌壇の中心人物として飛翔できるようになったのは、ひとえに
後鳥羽院の引き立てによるものだったのです。それは、定家の反抗性を基調とする絢爛
・華麗なる歌風、自然の景色を詠みながら深い感情の述懐を織り込む抒情美――そうい
うものが後鳥羽院の心をとらえたからです。
しかし、後鳥羽院のおかげで、歌壇の世界で力を得た定家ですが、歌の評価をめぐっ
てはしばしば院と対立したといわれています。定家は、歌の評価に関して自説を主張し
て譲らないところがあったのです。
さらに批判の対象になっているのは、承久の変の後の定家の保身的な行動です。定家
の子息である為家は、順徳院の遊び相手としてしばしば宮中で寝所を共にするほどの仲
であったといわれています。そのため、順徳院の佐渡ヶ島配流にさいして、為家は当然
お供をすると誰も信じて疑わなかったのです。
しかるに、定家はその為家に佐渡随行どころか、見送ることさえ禁じたのです。さら
に、定家はその為家を関東下野の領主・宇都宮入道頼綱という大富豪の娘と結婚させて
いるのですが、この頼綱は北条時政の女婿であり、為家の妻は時政の孫娘ということに
なるのです。つまり、定家はこともあろうに後鳥羽院の仇敵である北条家の血族と縁を
結んだのです。
このような定家が百人一首を選集し、そのトリに両院を偲んで両院の歌を配すという
ことをするでしょうか。それほど百人一首の最後の2首には大きな謎が秘められている
のです。
続いて、2つ目の謎について考えましょう。後鳥羽院と順徳院といえば当代有数の歌
人であり、たくさんの名歌を残しているのです。しかし、定家が選んだ両院の歌は、必
ずしも名歌とはいえない作品なのです。
これについて百人一首の研究家として名高い丸谷才一氏は次のように述べています。
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藤原定家は後鳥羽院の最高の作品としてこの一首を選んだわけ
だ。――実を言うとかつてわたしはこのことに不審をいだいて
いた。定家が誰よりも恐れていたらしい当代の上手の、全作品
を代表させるに足る歌とは思えなかったからである。
――丸谷才一氏
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確かに後鳥羽院の歌には、名歌の誉れ高き次の歌があります。
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ほのぼのと春こそ空にきにけらし
天のかぐ山霞たなびく 後鳥羽院
見渡せば山もと霞むみなせ川
ゆふべは秋と何思ひけむ 後鳥羽院
我こそは新じま守よ沖の海の
あらき浪かぜ心してふけ 後鳥羽院
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さらに石田吉貞氏は、後鳥羽院の歌について次のように述べています。
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『人も惜し人も恨めし』というお嘆きのなかに、歴史の嘆きや
歴史の怒りさえ、深々と感じられて、妖艶の美に血をわかせて
いる(他の百人一首の)歌とは、まったくちがった次元のもの
であることが考えられる。それにしても・・・(百人一首は)
なにゆえに後鳥羽院の多くの歌のなかから、特にこのような、
暗い歌を選んだのであろうか。
――石田吉貞著、『鑑賞百人一首』より
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この謎については、実に多くの説があり、とてもすべてを紹介しきれませんが、その
ほとんどが間違っていると思われます。どうしてもこの2首でないと困る理由が別にあ
るのですが、これについてはやがて明らかになります。・・・・・ [百人一首/02]
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