百人秀歌というものもある(EJ第1272号)
百人一首が選集されたのは、1235年頃ということになっていますが、何を根拠に
しているのでしょうか。
根拠は、藤原定家の日記『名月記』です。その1235年5月27日に次のように書
いてあります。
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予モトヨリ文字ヲ書くコトヲ知ラズ。嵯峨中院障子ノ色紙形、
コトサラ予ニ書クベキノヨシ、カノ入道懇切ナリ。極メテ見苦
シキ事トイエドモ、ナマジニ筆ヲ染メテコレヲ送ル。古来ノ人
ノ歌各一首。天智天皇ヨリ以来、家隆・雅経ニ及ブ。
――名月記/原文は漢文である
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ここで「カノ入道」とあるのは、定家の子息・為家の妻の父である宇都宮頼綱のこと
です。出家して「入道蓮生」と称したのです。宇都宮頼綱は下野の国宇都宮の領主であ
り、関東随一の富強といわれていたのです。
入道蓮生は、定家が所有する京都の小倉山荘の北側に当る中院の地に豪華な別荘を建
てて、1235年4月に定家を招待したのです。当時は、神社・仏閣・貴族の邸宅など
の障子に色紙を貼ることが流行していたのです。
入道蓮生としては、定家ほどの当代一の歌人の書いた色紙ならば別荘の自慢ができる
ということで、大広間の襖に貼るための色紙を書いて欲しいと定家に頼んだのです。
定家は、最初は固辞していたものの結局は引き受け、京都一条京極の私宅に戻り、約
20日あまりで歌の選定と色紙を書き上げています。冒頭の名月記にはそのことを書い
ているのです。これによると、「古来ノ人ノ歌各一首。天智天皇ヨリ以来、家隆・雅経
ニ及ブ」とありますので、百人一首の原型ではないかといわれているのです。
ここで、「天智天皇ヨリ以来、家隆・雅経ニ及ブ」の部分を解明しておく必要があり
ます。天智天皇は百人一首の1番歌ですが「家隆・雅経ニ及ブ」とは何でしょうか。
この家隆・雅経は、ともに当時の有名歌人であり、百人一首には、94番と98番に
登場するのです。
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94.み吉野の山の秋風さ夜更けて
ふるさと寒く衣うつなり 参議雅経
98.風そよぐならの小川の夕暮は
みそぎぞ夏のしるしなりける 従二位家隆
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しかし、入道蓮生に贈ったのが百人一首であるとすると、99番、100番の両院の
歌には言及していないのはなぜかということになります。これについて石田吉貞氏は、
上皇のように身分の高い人の名をあげるのを遠慮して「雅経・家隆などの時代の歌人」
というように大略的に表現したものと説明しています。
ここで考慮しなければならないことがもうひとつあります。それは、百人一首のほか
に「百人秀歌」というものが存在するということです。「百人秀歌」とは、1951年
になって宮内庁書陵において発見された古書です。ちゃんと『百人秀歌』というタイト
ルがついていたのです。
「百人秀歌」は、97首は百人一首と同じものが収録されており、次の4つの点が異
なっているのです。
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1.99番と100番の両院の歌がないこと
2.歌人の配列順序がかなり違っていること
3.百人一首にはない3つの歌が入っている
4.74番の歌が別な歌に入れ替わっている
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百人一首にない3つの歌とは次の3首のことです。
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夜もすがら契りしことを忘れずば
恋ひむ涙の色ぞゆかしき 一条院皇后宮
春日野のしたもえわたる草の上に
つれなく見ゆる春のあは雪 権中納言国信
紀の国の由良のみ崎に拾ふてふ
たまさかにだにあひ見てしがな 権中納言長方
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74番の歌は、源俊頼朝臣の「うかりける人を初瀬の」ですがこれがなくなって、同
じ源俊頼朝臣の次の歌に入れ替わっているのです。
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山桜さきそめしより久方の
雲井に見ゆる滝の白糸 源俊頼朝臣
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注目すべきは、百人秀歌では両院の歌が省かれ、3首が入っているので、101首に
なっていることです。問題は、定家が入道蓮生に贈った色紙が百人一首なのか百人秀歌
なのかという点なのです。実はわが国の国文学界では、これをめぐって大論争が行われ
ているのです。具体的には、百人一首対百人秀歌との関係をめぐる論争です。
一方を代表するのは、樋口芳麻呂氏による説です。氏によると百人秀歌の方が先にで
きて、それを定家自身の手で修正を加えたものが百人一首であり、中院別荘に貼られた
のは百人一首であるとするものです。後鳥羽院と順徳院の歌が入っている百人一首その
ものが中院別荘に貼られたというのです。
これに対して、真っ向から反対を唱えるのは、石田吉貞氏による説です。石田氏によ
ると、中院別荘に貼られたのは百人秀歌であって、両院の歌は入っていないとしていま
す。そして、石田氏は、百人秀歌に両院の歌を入れ、現在の百人一首のかたちにしたの
は定家ではなく、定家の死後に息子の為家がやったことであるとしているのです。もと
もと最初の百人一首には両院歌は入っていなかったと石田氏はいっているのです。
・・・ [百人一首/03]
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