新勅撰和歌集選集の秘話(EJ第1273号)
22日のEJで、「名月記」とあるのは「明月記」の誤りです。読者からご指摘をい
ただきました。お詫びして訂正いたします。
百人一首と百人秀歌の関係――どちらが先にできて、どちらが後なのか。百人一首に
は最初から99番と100番に両院の歌が入っていたのかどうか――謎はたくさんあり
ます。
しかし、入道蓮生に定家が贈ったという色紙に両院の歌が入っていたかどうかについ
ては、客観的状況から考えると、入っていないとする方が正しいと思えるのです。
藤原定家の立場から考えると、そうでなくても両院とは距離を置きたいし、それで成
功してきているのに、たかが親戚の別荘の障子歌に幕府を刺激する両院の歌を入れるは
ずがないのです。まして、入道蓮生の妻は北条時政の娘なのです。そんな危険なことを
保身主義者の定家がするはずがないのです。
にもかかわらず、定家がしきりと両院の歌を入れようとしたのは事実です。だからこ
そ、現在伝えられている百人一首には、両院の歌が入っているのです。それにはちゃん
とした理由があり、それは、やがて明らかになります。
一方、入道蓮生の立場かにら考えると、両院の歌の入った色紙を贈られたら、当惑す
るに決まっています。というのは、入道蓮生が宇都宮頼綱のときに、一時、北条義時に
謀反の疑いがあると睨まれたことがあるのです。このときは一族60余人が頭を剃って
鎌倉に詫びを入れたのです。そのため、入道蓮生は北条氏を刺激することを非常に恐れ
ていたといいます。
当時の別荘というものは、多くの客人を招いてもてなすためのものなのです。その襖
に北条氏が神経をとがらせている両院の歌が入っていればどういう事態になるか――現
実主義者の定家がそんなことをするはずがないというのが石田吉貞氏の主張です。論旨
明快であり、説得力があると思います。
それでは、両院の歌が入った百人一首は定家の選ではないのかというと、そういうわ
けではないのです。石田氏のように定家の没後に息子の為家が入れたという説は小数派
なのです。
これに関して、樋口芳麻呂氏は非常に興味ある根拠を挙げて反論しているのです。そ
れは、両院歌(99.100)の直前に位置する次の6人の歌人の順序です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
93.鎌倉右大臣(実朝) 96.入道前太政大臣(公経)
94.参議雅経 97.権中納言定家
95.前大僧正慈円 98.従二位家隆
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93番から95番までの実朝、雅経、慈円は没年順、96番からの公経、定家、家隆
は年齢順というように、故人と現存者を区別する配列がされているのです。これによる
と、家隆は現存生存歌人中の最高齢というわけです。つまり、百人一首の配列は、家隆
の生前に完了していることになり、選者はどのように考えても藤原定家ということにな
るのです。
なぜなら、もし、百人一首の選定が定家死後のことであれば、この6人の順は、没年
順にしても、身分の上下順にしてもこれと異なることになり、説明がつかなくなる――
これが樋口芳麻呂氏の主張なのです。
それに加えて、1963年に後鳥羽院の「人も惜し人も恨めし・・・」の歌が書かれ
た定家のものと思われる小倉色紙が発見されているのです。吉田幸一、片桐洋一両氏に
よる筆跡鑑定によって定家の自筆であることが明らかになっているのです。どうやら、
百人一首については、定家自身が両院の歌を入れたことは、間違いないと思われます。
それでは、なぜ藤原定家は、両院の歌を百人一首に入れたのでしょうか。これを解明
する前提として、「新勅撰和歌集事件」というものについて知っていただく必要があり
ます。
藤原定家は1232年から1235年にかけて「新勅撰和歌集」の選集を行い、12
35年3月12日に前関白・藤原道家に提出しています。後の世にまで残る勅撰集の独
力選集ですから、歌の道にたずさわる者にとって最高の栄誉のはずですが、定家として
は、懊悩として楽しめない事情があったのです。
定家は勅撰集の完成草稿を1234年に藤原道家に提出しています。道家は前の関白
であり、鎌倉幕府の公卿将軍・九条頼経の父に当たり、政治的な実力者です。定家は、
道家のことを「大殿(おおとの)」と呼んでいたのです。
1234年11月の上旬になって、定家は勅撰集の完成草稿のことで、道家から呼び
出されます。古歌については非常に褒められたのですが、同時代の歌人に歌については
大きなクレームがついたのです。その原因は、定家が草稿本の中に後鳥羽院や順徳院の
秀歌を公平に多数選入していたからです。既に述べたように両院は歌人としては大変優
れており、定家としてはそれを省きたくなかったからです。その数は100首を大きく
超えていたとされています。
しかし、道家は、両院、とくに後鳥羽院は幕府の憎悪の的であり、これを入れるには
問題があるとして、すべて削れという命令を出したのです。定家としては、道家の命に
抗するすべもなく、それに従わざるを得なかったのです。
これについて、樋口芳麻呂氏は、これによって定家がどれほど傷ついたか計り知れな
いとして次のように述べています。
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最終段階の本から、特定歌人たちの歌だけを100首以上削る
のですから、歌の部類・配列の妙は損壊されざるを得ず、とく
にそうした点に細心の配慮を心がける定家にとっては、あまり
にも大きな痛手である。 ――樋口芳麻呂氏
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既に完成している草稿本から100首以上を削るには、小刀を使って切り取っていく
のですが、定家にとっては両院の首をはねているように感じられ、いい知れぬ恐怖感を
味わったに違いないと思われます。そしてそれは現実のものになります。
・・・ [百人一首/04]
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