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2006年12月26日

百人一首は祟り封じである(第1274号)

 百人一首の成立時期は、歌の作者表記からもおおよその推測ができます。百人一首の
選入歌の中で一番成立の遅い歌は、98番の藤原家隆の歌(風そよぐならの小川の…)
です。この歌は、1229年11月の「女御入内(にょうごじゅだい)屏風」の中にあ
る歌です。
 これによって、百人一首は少なくとも1229年11月以降の成立ということになり
ます。続いて、作者表記に注目して見ることにします。97番の定家の歌の表記は「権
中納言定家」となっています。定家が権中納言に叙せられたのは、1232年1月のこ
とですが、定家が百人一首成立時の官位で作者表記をしているとすれば、それは123
2年1月以降ということになります。
 そうであるとすると、ひとつ問題があるのです。それは家隆の官位についてです。百
人一首における家隆の官位は「従二位」となっていますが、家隆が従二位に叙せられた
のは、1235年9月10日のことなのです。したがって、これによれば、百人一首の
成立は、1235年9月以降となるのですが、明月記の関係記事によると、1235年
5月27日になっているのです。
 もし、5月27日に百人一首が成立していたとすると、家隆の官位は「従三位」でな
ければならないのです。ところが、百人秀歌の家隆の官位は「従三位」になっているの
です。そのため、国文学界では、百人秀歌を百人一首の草稿本とし、百人一首の「従二
位」は、9月10日以降の改訂とすることで、合理的に解釈されているのです。
 もうひとつ大きな問題があります。それは、99番と100番の後鳥羽院と順徳院の
作者表記です。これらの天皇の表記は「諡号(しごう)」というのですが、それは崩御
された後に贈られる称号なのであってそれまでは後鳥羽院は「隠岐院」、順徳院は「佐
渡院」と呼ばれていたのです。したがって、百人一首の成立が1235年5月であると
すると、その時点では両院ともに崩御されておらず、諡号は存在しなかったのです。
 実際に両院の諡号が定められた年代は次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
         後鳥羽院 
          死亡日/1239年 2月23日 
          諡号 /1242年 7月 8日
         順徳院
          死亡日/1242年 9月
          諡号 /1249年 7月20日
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 肝心の定家は、1241年8月20日に亡くなっていますから定家自身は、両院の諡
号を知らないのです。したがって、そのため、歌の選集は定家がやったものの百人一首
の作者表記は、1949年以降に定家以外の人によって行われている――少なくともこ
のことはいえると思います。
 さて、話を定家がなぜ執拗に両院の歌を百人一首の中に入れようとしていたのかに戻
します。結論からいうと、定家は後鳥羽院の生霊の祟りを恐れていたからです。現代人
であれば「祟りなんてばかばかしい」と考えるでしょうが、当時のことですから、かな
り現実味を帯びていたと思われるのです。
 それに定家という人は、人一倍そういうことを気にする人物であったと伝えられてい
るのです。とくに昨日のEJでお話しした新勅撰和歌集事件において定家は不本意なが
ら両院の歌を刃で切りすてているだけに生霊の祟りを恐れていたのです。
 それに加えて、当の後鳥羽院が「祟り」についてしきりに口にしていたという証拠が
残っており、後鳥羽院の祟りは一層現実味を帯びていたと想像されるのです。
 私の手元に「後鳥羽上皇置文案」という資料があります。これは遺書の下書きを意味
しています。増田繁夫氏による現代語訳でその一部をご紹介します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      私は法華経にお導きいただいて生死の境を超越したところにな
      んとかして出るつもりである。ただし、百千に一も現世への妄
      執の念にとりつかれて、魔縁になることになったら、現世に対
      して災害をもたらすことになるだろう。
      ・・・・・・・・・・・・・中略・・・・・・・・・・・・・
      関白以下の人々への祟りは、決してするつもりはない。私が祟
      りをしているという噂があったとしてもとりあげてはならぬ。
                   ―――「後鳥羽上皇置文案」より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 とにかく後鳥羽院という天皇は栄華の絶頂から一転幽閉の身になった人です。当時の
人から見れば、天皇が島流しにされるなど驚天動地のことなのです。祟りを恐れるのは
当然といえます。定家としては何とかして後鳥羽院の祟り封じをしたい――そう考えて
も不思議はないのです。その結果が百人一首であり、百人秀歌ではないか――こういう
壮大な仮説が存在するのです。
 後鳥羽院が崩御したのは、百人一首ができたときから4年後の1239年2月23日
のことです。その同じ年の12月に幕府評定衆三浦義村が頓死しています。さらに12
40年1月に北条時政も頓死したのです。次いで1242年6月、幕府の中心である執
権・北条泰時が熱病にかかり、辛苦脳乱して死亡。世間一般に後鳥羽院の祟りとして恐
れられたといいます。
 そして、北条泰時が死んだ同じ年の9月に順徳院が12日間の絶食のすえに崩御した
ので、このままではどんな祟りが生ずるかも知れないと、鎌倉側は、両院に対する慰霊
・謝罪の方向へと態度転換をしたのです。
 百人一首には多くの謎があります。少なくとも百人の優秀な歌を集めた歌集ではない
のです。百人一首全体で何かを訴えているのです。それに百人秀歌との関係ですが、一
般的に解釈されているものとは大きく違う不思議な事実があります。来週以降、その謎
を解いていきたいと考えています。・・・ [百人一首/05]

後鳥羽院.jpg

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