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2007年04月06日

『マイクロラブサット』の奇跡(EJ第1356号)

「みどり」/「みどり2」運用失敗のウラに、ある意味において痛快な話があります。
実は、2002年12月の「みどり2」の打ち上げで、「マイクロラブサット」という
小さな衛星が打ち上げられているのです。その重量は54キログラムです。
 「マイクロラブサット」は、次の3つの目的のために開発された衛星なのです。
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       1.衛星の製造・試験・打上げによるエンジニアの育成
       2.小回りのきく小型衛星に必要な技術を開発すること
       3.安価な民生用電子部品を利用した衛星開発への挑戦
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 これは、ますます肥大化する衛星計画に対するアンチテーゼとして、小型衛星を開発
しようという動きの一環として開発されたものなのです。
 大型の衛星の開発には長大な時間とコストがかかり、次世代を担う人材が育たない
――このことに危機感を持ったNASDA内部の一部のエンジニアたちが、小型の低コ
スト衛星を自前で開発することによって、若手のエンジニアたちに経験を積ませること
を狙いとしたものなのです。
 このコンセプトがNASDA内部で提案されたのは1995年のことですが、実際に
開発が始まったのは1998年なのです。そして、2002年に打ち上げに成功してい
るのです。
 衛星の総開発費は4億円――2億円かけて筑波宇宙センター内に小型衛星の製造と試
験のための設備を建設し、残りの2億円で衛星を製造しています。
 皮肉なことに、当初寿命3ヶ月として設計された「マイクロラブサット」は、打ち上
げから1年6ヶ月を経過した現在でも正常に飛び続けているのです。
 秋葉原の電気街で入手できる民生部品で組んだ搭載コンピュータは、放射線が飛び交
う過酷な宇宙環境に耐えて正常な結果を出力し続けているし、同じく民生用の受光素子
を使ったデジタルカメラは、非常に鮮明な画像を送信してくれているのです。2003
年10月には、大規模な太陽フレアがあったのですが、それにも耐えて現在もなお動作
を続けているのです。
 その一方で膨大なコストをかけて3年の寿命として設計され、打ち上げられた「みど
り2」は、1年もたずに機能を喪失している――何とも皮肉な話ではありませんか。
 「みどり」/「みどり2」の失敗に見られるように、日本の宇宙開発のやり方は何か
しろおかしい点があります。何かが抜けているといったらよいのかも知れません。その
原因を究明するため気象衛星「ひまわり」について考えてみることにします。
 日本が気象衛星のことを真剣に考えるようになったきっかけは1959年9月26日
から27日にかけて中京地方を襲った伊勢湾台風だったのです。
 伊勢湾台風――最低気圧929.2ヘクトパスカル、上陸時の暴風半径250キロメ
ートルの巨大台風で、全国で死者・行方不明者が5098人、負傷者3万8000人以
上という昨今では考えられないほどの大被害を出してしまったのです。
 当時の気象観測は、陸上からの気象通報が主であって、海上の観測は一部船舶と航空
機に頼っていたのです。そのため、気象台が台風に関する警報を出したのは当日の午前
11時であって、台風に備える十分な時間的余裕がなかったのです。
 この伊勢湾台風の経験から、もっと広域的な気象観測によって台風の進路を予測する
べきであるという意見が出されたのです。ちょうど伊勢湾台風の翌年の1960年4月
米国は気象観測を目的とした試験衛星「タイロス1」を打ち上げています。そして19
65年までに米国は10機のタイロス衛星を打ち上げて技術開発力を高めていったの
です。
 そして、1966年に入って初の実用気象衛星「エッサ」の打ち上げに成功するので
す。しかし、「エッサ」は地球低軌道を回る衛星であり、気象衛星としては不十分だっ
たのですが、米国は同じ年の12月に気象観測センサーを搭載した実験衛星「ATS−
1」を静止軌道に打ち上げて、静止軌道からの気象観測を可能にしたのです。
 しかし、その当時の日本は、タイロス衛星やエッサ衛星の画像を受信してその利用法
を探るという程度のことしかできなかったのですが、1969年に「世界気象機関(W
MO)」が国際協力によって、静止軌道に衛星を打ち上げ、全世界的なリアルタイムの
気象観測を可能にする「世界気象観測計画」を打ち出すに及んで、日本もその一翼を担
うことになったのです。
 「世界気象観測計画」によると、大国の分担による衛星の提供により、1977年か
ら衛星5機による静止衛星観測体制を築こうというものだったのです。
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        米国 ・・・・・ 2機  欧州 ・・・・・ 1機
        日本 ・・・・・ 1機  ソ連 ・・・・・ 1機
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 この日本に課せられた1機の衛星の製造は、1969年に設立されたばかりのNAS
DAが担当して行うことになったのです。メーカは日本電気が選定され、米ヒューズ・
エアクラフト社が、開発していた静止気象衛星の技術を導入して、衛星を製造したので
す。そして、1977年7月14日、米国のデルタロケットによって打ち上げられたの
です。これが「ひまわり1号」なのです。
 「ひまわり」は、1978年から画像利用を本格的に開始し、気象観測に威力を発揮
するようになります。「ひまわり」は5号まで打ち上げられるのですが、その運用はま
さに綱渡りの連続で何ともすっきりしないものだったのです。
 しかし「ひまわり」という名前は、気象観測衛星の代名詞として定着し、国民生活に
欠くことのできない実用衛星となったのです。   ・・・ [日本宇宙開発/11]

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