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2007年04月20日

米宇宙ステーションに振り回される日本(EJ第1366号)

 2004年1月14日のことです。米国のブッシュ大統領は、有人月・火星探査を含
む大規模な宇宙計画を発表しています。その内容をまとめると、次の3点になります。
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      1.2010年までにISS(国際宇宙ステーション)を完成
        させる。ISS完成後スペースシャトルを引退させる。
      2.新しい宇宙船として深宇宙探査可能なCEVを2008年
        までに開発し、2014年までに有人飛行を実施する。
      3.2020年までに月有人長期滞在を実現し、月を基地とし
        て火星に有人探査、それ以遠には無人探査を実施する。
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 英語の読める方のために、ブッシュ大統領の演説の全文を参照できるようにしておき
ます。次のアドレスをクリックすると、ホワイトハウスのサイトが開きます。
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      www.whitehouse.gov/news/releases/2004/01/20040114-1.html
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 ISS――国際宇宙ステーションについてお話ししておく必要があると思います。
 米国が日本に対して宇宙ステーション計画(以下、SS)への参加を要請してきたのは、1982年5月のことです。時の科学技術庁長官は、中川一郎氏(現中川経済産業相の父)でした。これを受けて、日本は、宇宙開発委員会の下に宇宙基地計画特別部会を設置し、協力体制への検討をはじめたのです。
 1984年1月、レーガン大統領は年頭教書演説でSSの開発を進めることを正式に
表明し、その年の6月のサミットにおいてサミット関係国に対してISSの参加を求め
たのです。
 ここで日本はひとつの計算をしたのです。ここは「国際協力」を旗印としてSSに積
極的に参加し、そのプロセスを通じて米国から有人宇宙船やロケット開発技術の移転を
受ける――要するに技術を修得するためにSSに参加するという考え方です。何と甘い
考え方でしょうか。科学ジャーナリストの松浦晋也氏は、そういう日本を表現して次の
ようにいっています。
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      初心者はルールも知らずに、ポーカーの卓に座ったのである。
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 まことに適切な表現であると思います。「技術がないから参加する」のではダメなの
です。「技術があるから参加する」のでなければ主導権が取れないからです。
 1969年7月の米国との提携においては、東大のロケットが大きな存在感を有して
おり、米国から多くの技術を引き出すのに成功しましたが、SSでは日本が提供できる
技術は何もないのです。何しろ日本は有人飛行をやっていないからです。そういう国が
有人飛行を何回も成功させている米国やロシアに対抗できるでしょうか。まさに、ルー
ルを知らないでポーカーの卓に座る行為といえます。
 1985年1月には欧州宇宙機構(ESA)がSSに参加し、同じ年の4月にはカナ
ダが参加を表明するなど、1985年という年は、一種のSSブームが盛り上がった年
なのです。そして、日本がSSに正式に参加した年も同じ年の5月のことなのです。科
学技術庁とNASAの間で、宇宙ステーション計画予備設計了解覚書が署名され、これ
によって、日本の宇宙飛行士がスペースシャトルに搭乗できるようになったのです。
 この時点で米国は、スペースシャトルをして、低コストで革新的な宇宙輸送システム
として宣伝していたのですが、その運用現場では事故を出し続けるスペースシャトルを
なだめ、すかしながら、ひたすら打ち上げを繰り返していたのです。
 そして、決定的な事故が起こってしまいます。皮肉なことに、日本が米国と調印した
翌年の1986年1月28日、スペースシャトル「チャレンジャー」が、打ち上げ直後
に爆発事故を起こしてしまうのです。何しろ1985年はSSに期待が高まった年であ
っただけに、事故の衝撃はちょうど宇宙バブルの崩壊に等しいものだったのです。
 SSの計画に日本は、日本モジュールを制作して提供し、参加することになっていま
す。SSの乗組員8人のうち、日本の割り当て分は1人、1年中日本人が宇宙にいる計
画だったのです。しかし、チャレンジャーの事故によって、乗組員は4人に半減され日
本の割り当て分も半分になり、日本人の宇宙飛行士は1年の半分しか宇宙にいられない
ようになったのです。
 米国国内では、SS計画に対する批判が強くなり、1991年5月には、米下院でI
SS計画打ち切りの動議が可決され、NASAの多数派工作でやっと上院で否決すると
いう事態にまで発展するのです。
 そして、1993年2月には時のクリントン大統領がSS予算の縮小を指示したこと
から、SS計画は根底から見直されることになってしまったのです。そして、「宇宙ス
テーション・アルファ」として再出発することになります。
 しかし、計画の縮小に満足しなかったNASAは、ロシアを引き込むことに成功しま
す。ロシアは「ミール2」という宇宙ステーションを構築していたのですが、予算が確
保できずに苦しんでいたのです。
 そして、ロシアの「ミール2」をNASAの「アルファ」と合体させることにし、当
初の計画の規模にまで戻すことに成功したのです。搭乗員も7人に増やすことになった
のですが、ロシアは常時3人枠を強く要求したので、日本人の滞在枠は6ヶ月のままで
す。それに加えて、ロケットの製作はロシアとなり、打ち上げる軌道もロシアに合わせ
るというロシアの要求に翻弄される結果になっています。そしてこの時点で名称は「国
際宇宙ステーション」(ISS)に変更されたのです。日本の宇宙開発計画は思惑はず
れの連続という事態になったのです。       ・・・ [日本宇宙開発/21]

20日インテック画像・国際宇宙ステーション.jpg


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