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2007年05月02日

歴史に学ばなかった橋本政権(EJ第1237号)

 最初に、フランクリン・ルーズベルト米大統領の失敗について書くことにします。と
いうと、ルーズベルト大統領は、フーバー大統領の失政を「ニューディール政策」とい
う積極財政で救った大統領ではないのかといぶかしく思われると思います。
 確かにEJ1224号ではそう書いていますが、その先の話があるのです。ルーズベ
ルト大統領は積極財政によって、1933年から1936年までの連邦歳出をほとんど
倍近くまで拡大させています。その結果、1937年には失業率は依然高かったものの
経済指標の一部は目立って改善のきざしを見せており、景気回復は確実と思われたので
す。
 ここまでは大成功だったのですが、ルーズベルト大統領はここで大きなミスを犯すの
です。景気回復の兆しを見てとったルーズベルト大統領は、1937年から財政再建を
はじめたのです。やはり、大統領も財政赤字は放置できないと考えたのです。
 ところが、これは大失敗でした。米国経済はあっという間に崩壊し、株価は再び半分
になり、鉱工業生産は30%近く落ち込みもともと高かった失業率はさらに急増し、景
気は一気に冷え込んでしまったのです。
 ルーズベルト大統領は、あわてて財政政策を元に戻したのですが、一度開いてしまっ
た傷口はふさがらず、経済は容易には回復しなかったのです。大統領は苦境に立たされ
ます。
 当時第2次世界大戦は始まっており、米国も参戦を求められいました。ルーズベルト
大統領もそのつもりでいたのですが、長引く不況に疲弊していた米国民は徹底的に「戦
争反対」であり、米国としてとても参戦できるムードではなかったのです。
 そして、1941年12月8日、日本が真珠湾を攻撃――これをキッカケにして米国
は第2次世界大戦に参戦するのです。日本の攻撃が米国民の愛国心に火を点けたので
す。ルーズベルトにとっては、まさにお誂え向きの日本の真珠湾攻撃であったといえ
ます。だから、日本の真珠湾攻撃はワナだったといわれるのです。
 ルーズベルト大統領の本当の狙いは、戦争によって政府がそれまでの何倍もの積極財
政を展開できることだったのではないかと思います。事実、米国の経済は第2次世界大
戦への参戦によって回復しているのです。
 このように戦争は、時によっては経済を活性化させる力があるのです。現在、米国で
は経済政策に失敗した大統領といえば、フーバー大統領ということになっていますが、
ルーズベルト大統領もフーバー大統領と同じ失敗をしており、経済失政の一歩手前まで
行って、戦争に救われたのです。
 しかし、ルーズベルト大統領の場合は、フーバー大統領が壊してしまった経済を一度
は立て直しています。彼は、「いま銀行に必要なのは資金ではなく資本である」と見抜
き、公的資金を銀行に注入して銀行を回復させるなど、見事な経済運営を見せているの
です。そのルーズベルトでさえ、途中で財政再建をしようとして失敗しているのです。
 その60年後の1997年、時の橋本龍太郎首相は、ルーズベルト大統領とまったく
同じ失敗をしているのです。橋本首相が、財政再建を決意した1996年度の財政赤字
は、22兆円に過ぎなかったのです。彼は、この財政赤字を減らそうとしたのです。景
気は後退局面に入っていたのですが、ルーズベルト大統領と同じように、財政再建に動
いても大丈夫と判断したのです。
 橋本首相は、消費税を3%から5%に引き上げ、社会保障負担費を増加させ、特別減
税を廃止し、しかも大型補正予算を見送るという財務省(当時は大蔵省)が手をたたい
て喜ぶような政策を行ったのです。
 その結果は、無残なものでした。GDP成長率は1996年の4.4%から、199
8年までの5期にわたってマイナス成長に落ち込んでしまったのです。どうして、この
ような事態になってしまったのでしょうか。
 当時、景気が後退局面で金融ビックバンを宣言し、そのための構造改革を掲げ、財政
再建に取り組んだので、投資資金が日本から一斉に逃げ出したのです。景気が底割れの
状態で日本の資産の将来収益を予測できなくなり、日本の資産を保有すること自体がリ
スクと感じる状況だったからです。これによって、株安と円安は同時進行し、「日本売
り」が加速したのです。
 しかも、橋本首相を支えるはずの当時の大蔵官僚は間違いを認めようとせず、景気悪
化の原因は、銀行問題とアジア通貨危機などが原因であると主張して政策を継続させた
のです。
 橋本首相の計画では、22兆円ある財政赤字のうち15兆円を削減するというもので
した。しかし、橋本政策は経済の大混乱を引き起こし、税収が激減し1999年には、
税収の減少と経済救済のための財政支出の増加によって、財政赤字は減るどころか38
兆円までに膨らんでしまったのです。当時の国民に課せられた「痛み」や「犠牲」は、
結局のところ経済の傷口を広げただけで景気回復にも財政再建にも何ひとつ貢献しな
かったのです。
 結局橋本自民党は参議院選に惨敗し、1998年に小渕政権が誕生します。小渕首相
は「我、二兎を追わず」をスローガンとして、財政再建と経済再生の2つを同時に追わ
ないことを宣言して経済再生に取り組んでいます。
 1998年10月15日に株価はバブル発生直後の最安値をつけますが、小渕政権は
直後に大型補正予算を組み、小渕首相が倒れる2000年4月2日まで、積極財政政策
を推進したのです。その結果GDP成長率は、1998年のマイナス1.9%から19
99年度はプラス0.5%、2000年度はプラス0.9%と順調に経済は回復基調に
乗ったと思われたとき、小渕首相は急逝してしまったのです。
 就任時にいまひとつ人気の出なかった小渕首相ですが、現時点から考えてみると、結
局一番の日本経済の立て直しのために実績を残した首相は、小渕首相ということになる
のです。小渕首相は在任期間を通じ、株価の時価総額を213兆円も増加させているか
らです。                 ・・・ [バランスシート不況/05]

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