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このブログは、異文化研修の教育機関(株)インテック・ジャパンの情報発信用です。(株)イー・メディアとの提携により、同社のドキュメント・レポート「Electronic Journal」をウィークデイの毎日お届けします。
「Electronic Journal」は様々な情報を400字詰原稿用紙7枚にまとめて配信する日刊メールマガジンです。

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● 2008年01月 記事 ●

2008年01月07日

●紅白歌合戦はいつどうしてはじまったか(EJ第1505号)

 明けましておめでとうございます。昨年の紅白歌合戦はご覧になりましたか。昨今で
は他にも多くの裏番組もあり、紅白の人気が一段と下がっているように思います。
 本日よりお届けするのは、2005年1月5日のEJ第1505号から、1月11日
のEJ第1508号までの4回にわたって取り上げたものですが、再現します。
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 新年早々から固いテーマは避けて、お正月らしいテーマを少し続けることにします。
大晦日の関東地方は予期せぬ大雪となりましたが、年末の紅白歌合戦はご覧になりまし
たか。視聴率は過去最低の39.3%(後半/昨年45.9%)であり、はじめて40
%を切る紅白としては最低の視聴率になっています。
 ところで、紅白歌合戦はどのような経緯でいつはじまったのかご存知でしょうか。今
朝はこの話題からはじめます。
 1945年――昭和20年の終戦直後のことです。国営放送であるNHKの上層部か
ら密かに次の命令を受けた2人の新進ディレクターがいたのです。近藤 積氏と三枝健
剛氏の2人です。
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      いま日本国民は心身ともに疲弊している。歌で人々に勇気を与
      え、日本の新しい時代の幕開けにふさわしい音楽の番組を制作
      して欲しい。           ――NHK上層部の命令
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 この命令を受けて、近藤、三枝両ディレクターの考案した番組が後の紅白歌合戦とな
るのです。ちなみに三枝健剛氏は、作曲家三枝成彰氏の父上であり、現在も続いている
「NHKのど自慢」を企画した人物なのです。「NHKのど自慢」は、「のど自慢素人
演芸会テスト風景」の名前で、昭和21年1月19日からはじまったのです。
 さて、近藤と三枝は「特別番組/紅白歌合戦」の企画書を作り上げ、番組企画書と台
本をGHQの民間情報教育局に提出したのです。この頃の日本はGHQの指導・監督下
に置かれていて、番組の企画書から台本はすべてチェックの対象になったのです。
 しかし、「特別番組/紅白歌合戦」はGHQの審査は通らず、却下されたのです。原
因は、企画書の「合戦」の部分を翻訳者が「バトル」と訳して提出したからです。敗戦
国日本がバトル(戦争)とは何事かというわけです。
 そこで、「バトルではなくマッチ(試合)なのです」といった何回かのやりとりを経
て、「合戦」を「試合」と改めて、その年の大晦日にラジオを通じて流すことが許可さ
れたのです。かくしてタイトルは「紅白音楽試合」と決まったのです。
 ここで大変興味深いのは、「歌」を「音楽」に変更したために歌だけではなく、演奏
もプログラムに入れることをNHKが決定したことです。このあたりに紅白歌合戦の再
生のかぎがあると私は思います。2003年の紅白歌合戦は、あの女子十二楽坊の演奏
だけでの出演を認めているのですから・・・。「音楽試合」にすれば、さまざまな楽器
でのエントリーが可能になります。
 それでは、昭和20年の大晦日にラジオで放送された「紅白音楽試合」では、どのよ
うな音楽が登場したのでしょうか。放送時間は、午後10時20分〜午前〇時です。総
合司会と紅組・白組の司会は次の通りです。
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            放 送 日:1945年12月31日
            総合司会:田辺正晴
            紅組司会:水の江滝子
            白組司会:古川ロッパ
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 登場した音楽家と曲目を全部記載すると、スペースを取りますが、貴重なデータとな
ると思うのでご紹介します。
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      ≪紅組≫小夜福子 ・・・・・・ 「小雨の丘」
      ≪白組≫波岡惣一郎 ・・・・・ 「春雨小唄」
      ≪紅組≫葦原邦子 ・・・・・・ 「すみれの花咲く頃」
      ≪白組≫伊藤武雄 ・・・・・・ 「からたちの花」
      ≪紅組≫長門美保 ・・・・・・ 「松島音頭」
      ≪白組≫藤原義江 ・・・・・・ 「出船の港」
      ≪紅組≫近藤 泉 ・・・・・・ 「ユーモレスク」(Vn)
      ≪白組≫平岡養一 ・・・・・・ 「峠の我が家」(木琴)
      ≪紅組≫川崎弘子 ・・・・・・ 「六段」(琴)
      ≪白組≫福田蘭堂 ・・・・・・ 「六段」(尺八)
      ≪紅組≫高峰秀子 ・・・・・・ 「煙草屋の娘」
      ≪白組≫松平 晃 ・・・・・・ 「花言葉の唄」
      ≪紅組≫並木路子 ・・・・・・ 「リンゴの歌」
      ≪白組≫永田絃次郎 ・・・・・ 「オー・ソレミオ」
      ≪紅組≫松原 操 ・・・・・・ 「悲しき子守唄」
      ≪白組≫霧島 昇 ・・・・・・ 「誰か故郷を思わざる」
      ≪紅組≫二葉あき子 ・・・・・ 「古き花園」
      ≪白組≫楠木繁夫 ・・・・・・ 「緑の地平線」
      ≪紅組≫川田正子 ・・・・・・ 「汽車ポッポ」
      ≪白組≫加賀美一郎 ・・・・・ 「ペチカ」
      ≪紅組≫市丸 ・・・・・・・・ 「天竜下れば」
      ≪白組≫柳家三亀松 ・・・・・ 「新内流し」
      ≪紅組≫比留間絹子四重奏団 ・ 「サンタルチア」
      ≪白組≫桜井 潔楽団 ・・・・ 「長崎物語」
      ≪紅組≫松島詩子 ・・・・・・ 「マロニエの木蔭」
      ≪白組≫下八川圭祐 ・・・・・ 「ヴォルガの舟唄」
      ≪紅組≫水の江滝子 ・・・・・ 「ポエマタンゴ」
      ≪白組≫古川ロッパ ・・・・・ 「お風呂の歌」
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 この紅白音楽試合に川田正子が出場していることは注目すべきことです。当時川田正
子は11歳でしたが、同年輩の子供が疎開して東京を離れるなか、東京にいて、数々の
童謡を歌わされていたのです。その歌のひとつに「兵隊さんの汽車」があるのです。
 この歌は「汽車汽車、ポッポポッポ、シュッポシュッポ、シュッポポ 兵隊さんを乗
せて・・」歌詞は別だが、誰でも知っているあの童謡です。紅白音楽試合で川田正子が
歌ったのは、その歌詞を変更した「汽車ポッポ」だったのです。
※本文中の比留間絹子四重奏団はマンドリン、桜井 潔楽団はバンド演奏である。
                         ・・・[紅白の歴史/01]

7川田三姉妹.jpg

2008年01月08日

●正月番組としての紅白歌合戦(EJ第1506号)

 終戦直前に12歳の川田正子がなぜ東京のスタジオで童謡を歌わされていたのか――
これは当時の軍部の指示だったのです。それは、12歳の子供がまだ東京にいるのだか
ら、まだ日本は大丈夫なのだと国民に思わせるためです。
 そのとき川田正子が歌っていたのが「兵隊さんの列車」でありNHKの近藤と三枝両
ディレクターはどうしてもこの歌を紅白音楽試合で歌わせたかったのです。しかし、歌
詞の変更をしなければならないし、時間がない。そこでやむなく「お山の杉の子」に差
し替えようと考えたのです。しかし作詞家の富原薫が短い期間で歌詞を作り直し、『汽
車ポッポ』が生まれたのです。
 昨日のEJで、国民を元気づける音楽番組を作れと指示したのはNHK上層部と書き
ましたが、異説があります。指示を出したのはNHK上層部ではなく、GHQであると
いう説です。ところで、1月2日のテレビ朝日の次の番組をご覧になりましたか。
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       戦後60年新春特別企画ビートたけしの陰謀のシナリオ
       日本を震撼させた前後7大事件はアメリカの陰謀
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 この番組の中で終戦直後GHQは、日本国民を懐柔し、闘争心を奪うため3S政策を
実行したという解説があったはずです。3Sには次の意味があります。なお、第3のS
については「スピード」とする説もありますが、私は「スクリーン」を採ります。
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           第1のS ・・・・・ セックス
           第2のS ・・・・・ スポーツ
           第3のS ・・・・・ スクリーン
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 紅白音楽試合は、紅組と白組に分かれて男女で競うというところは第1のSと第2の
Sをクリアします。戦時中はそういうことが一切できなかっただけに効果は大きかった
のです。
 そして、戦後の米国映画ブーム――そこで意識的に米国人の生活の豊かさを日本国民
に訴えて、米国を理想の国と思わせること成功しているのです。
 とにかく紅白音楽試合は大成功だったのです。放送と同時にNHKの電話交換台はパ
ニック状態に陥ったほどです。しかし、そうだからといって、次の年の暮れからこの番
組が定着したわけではなかったのです。当時は、年末特別番組を同じ形式で何年も続け
る例がなかったのです。
 昭和21年――1946年の大晦日には「明星まつり」1947年には「忘年音楽う
らおもて」を放送したものの、紅白音楽試合のような反響はなかったのです。
 近藤と三枝両ディレクターは、年末の番組から正月番組として紅白を復活させられな
いかと考えていたのです。当時「リンゴの歌」や「東京ブギウギ」など国民の心を奮い
立たせるような歌が流行しており、歌を中心とする番組は人気があったのです。
 そして、昭和26年――1951年1月3日に「紅白歌合戦」が始まるのです。正式
に第1回と銘打ったわけではないのですが、結果としてこれが第1回紅白歌合戦になる
のです。放送時間は、午後8時から9時までの1時間だけの放送でした。
 第1回の紅白歌合戦については貴重なデータとなりますので、資料として巻末にデー
タを記載しておきます。実はNHKにも最初の頃のデータは残っていないのです。当時
は単なる特別番組の企画書に過ぎず、こんなに長期間にわたって続くとは考えていなか
ったので処分してしまったからです。
 正月番組としての紅白歌合戦は、1953年の第3回まで次のように続いています。
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        ≪第2回紅白歌合戦≫
         ・1952年1月3日 午後7時30分〜9時
         ・総合司会/田辺正晴 紅白12組
          紅組司会/丹下キヨ子 白組司会/藤倉修一
        ≪第3回紅白歌合戦≫
         ・1953年1月2日 午後7時30分〜9時
         ・総合司会/志村正順 紅白12組
          紅組司会/本田寿賀 白組司会/宮田 輝
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 紅白歌合戦は大変好評だったのですが、ひとつ大きな問題点があったのです。何しろ
正月といえば、芸能人のトップスターは正月公演で忙しく、とても紅白歌合戦のための
時間を割くことはできなかったのです。録音技術も当時は発達しておらず、一定の時間
にトップスターを揃えることは困難を極めたのです。つまり、必ずしも主役が登場しな
い紅白になっていたわけです。
 当時は、マドロス歌謡で売っていた岡晴夫、田端義夫、小畑実の3大スター、それに
美空ひばりが正月公演で出場できなかったのです。とくに美空ひばりは江利チエミ、雪
村いづみと共に3人娘として活躍中であり、ぴっぱりだこだっのです。これらの大スタ
ーを欠いての紅白歌合戦ではNHKの歌番組としてのハクがつかなかったのです。
 このために、NHKとしてはどうしても次の2つのことをやる必要があったのです。
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      1.正月番組を避け、大晦日番組としてトップスター歌手を揃
        えること。
      2.NHKスタジオからの放送ではなく、劇場で紅白歌合戦を
        開催する。
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 問題は年末の劇場の確保でした。確かに正月期間よりは確保しやかったものの、NH
Kは会場の確保と歌手のスケジュールを取るのに苦心惨憺することになるのです。この
話は明日のEJで述べることにします。

≪画像情報≫
[第1回紅白歌合戦]
 放 送 日:1951年1月3日
 放送時間:8:00〜9:00PM
 総合司会:田辺正晴
 紅組司会:加藤道子
 白組司会:藤倉修一

 ≪紅組≫菅原都々子 ・・・・・ 「憧れの住む町」
 ≪白組≫鶴田六郎 ・・・・・・ 「港の恋歌」
 ≪紅組≫暁テル子 ・・・・・・ 「リオのポポ売り」
 ≪白組≫林伊佐緒 ・・・・・・ 「銀座夜曲」
 ≪紅組≫菊池章子 ・・・・・・ 「母紅梅の唄」
 ≪白組≫近江俊郎 ・・・・・・ 「湯の町エレジー」
 ≪紅組≫赤坂小梅 ・・・・・・ 「三池炭鉱節」
 ≪白組≫鈴木正夫 ・・・・・・ 「常盤炭坑節」
 ≪紅組≫松島詩子 ・・・・・・ 「上海の花売娘」
 ≪白組≫東海林太郎 ・・・・・ 「赤城かりがね」
 ≪紅組≫二葉あき子 ・・・・・ 「星のためいき」
 ≪白組≫楠木繁夫 ・・・・・・ 「紅い燃ゆる地平線」
 ≪紅組≫渡辺はま子 ・・・・・ 「桑港のチャイナ街」
 ≪白組≫藤山一郎 ・・・・・・ 「長崎の鐘」
                         ・・・[紅白の歴史/02]

8マドロス歌謡3人男.jpg

2008年01月09日

●なぜ紅白は大晦日開催となったのか(EJ第1507号)

 第4回の紅白歌合戦から大晦日に紅白を実施するようになったのは、直接的にはNH
Kが正月の劇場探しに窮したからです。NHKは第4回の紅白歌合戦はそれまでのスタ
ジオ放送ではなく、劇場での実況放送を考えていたのですが、それには事情があったの
です。その事情については後で述べます。
 NHKは正月3が日のいつでも良いという方針で劇場探しをはじめたのですが、どこ
も満員で取れなかったのです。そんなとき日本劇場から提案があったのです。それは、
正月は駄目だが、大晦日であれば貸してもいいというものだったのです。
 NHKとしては、正月よりも大晦日の方がトップ歌手を確保しやすいと考えたので、
この話に乗ったのです。しかし、当時は大晦日の興行はリスクが大きかったのです。大
晦日に果たしてお客はくるだろうか――これには大きな不安があったのです。
 そこでNHKは、出場歌手を5組程度増やすという前提で歌手交渉を始めたのです。
大晦日であるので、年忘れの意味を込めて今年を代表する歌を歌った歌手を中心に選定
する――つまり、その年のブームを大晦日に振り返ろうではないかというコンセプトで
す。確かに当時は、パチンコブーム、八頭身ブーム、「君の名は」ブームなどなど「ブ
ーム」がブームだったのです。
 このコンセプトとNHKの意気込みが通じて、紅組、白組17組の一流歌手を確保で
きたのです。その中には、3人娘の1人である江利チエミ、マドロス歌謡3人男の1人
小畑実も入っていたのです。そして、3人娘の残りの2人である美空ひばりと雪村いづ
みも次の年の第5回(1954年)には出場しています。
 しかし当時人気絶頂でありながら、最後まで紅白には出場しなかった歌手がいます。
岡晴夫です。彼は、NHKからの度重なる出場要請を受けながらも、紅白では全部の歌
詞を歌わせないことを嫌って最後まで出場しなかったのです。なお、田端義夫について
は、なぜか、1963年の第14回の紅白まで出場の機会がなかったのです。
 さて、NHKが第4回の紅白歌合戦をスタジオではなく、なぜ劇場でやることにこだ
わったのかについて述べることにします。結論を先にいうと、第4回の紅白歌合戦から
テレビ中継を開始したからです。テレビの本放送は1953年2月1日から始まってお
り、当然その年の大晦日の紅白歌合戦ではテレビ中継をすることになっていたのです。
 1953年の第3回の紅白歌合戦――1月2日に東京放送会館第1スタジオで行なわ
れたのです。この年は大晦日にも紅白が行なわれていますので、1年に2回の紅白が行
なわれた珍しい年なのです。スタジオには客席も設けられており、そこにはテレビカメ
ラが3台設置されていたのです。しかし、それまでテレビカメラを見たことのないお客
も出演歌手も「何かをやっているんだろう」程度にしか気にとめなかったそうです。
 そのとき1ヵ月後のテレビの本放送に備えてのテレビでの仮放送と、年末の紅白歌合
戦の初のテレビ中継のための練習が行なわれたのです。しかし、テレビ受像機が非常に
高価であったため、テレビが本格的に家庭に普及するには、それから6年ほどの年月が
かかったのです。ちなみに、紅白歌合戦で視聴率を取り始めたのは1962年の第13
回の紅白からであり、そのときの視聴率は80.4%だったのです。
 このように紅白歌合戦のテレビ中継はかなり早くはじまっているのですが、それを見
ている人はごく一部であったため、当時のNHKのアナウンサーは、ラジオ時代のよう
に、登場する歌手の衣装などについて詳細に伝えていたのです。
 第3回の紅白歌合戦の総合司会者である志村正順アナウンサーは、紅組の月岡夢路に
ついて次のように実況しています。
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       紅軍の月岡夢路さん、お客様から向かって右手側の紅軍の応
      援席から舞台中央のマイクに向かいます。アメリカから買って
      きたという肩を出して胸からの真っ白いイブニング・ドレス姿
      です。胸には赤い薔薇の花。客席から盛んに拍手が送られてお
      ります。              ――志村アナウンサ−
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 1953年12月31日――その日の東京は昼頃から雪になったのです。ただでさえ
当たらないといわれる大晦日の夜の興行です。NHKのスタッフは客足の鈍ることは覚
悟したそうです。
 しかし、夜になると雪をついてお客が集まりはじめ、日劇の周囲を取り巻く長蛇の列
ができたのです。さらに、第3回までは連続して白組が勝利していたのですが、第4回
は初のテレビ中継を意識して衣装に気を配った紅組が勝利をおさめています。
 かくして、事実上の第1回紅白歌合戦になる第4回紅白は一応成功を収めたのです。
これによって、大晦日の紅白歌合戦は定着していくことになるのです。しかし、当時N
HKは紅白などの大きなイベントを開催できるホールを所有しておらず、NHKホール
が完成する1973年まで、毎年会場の確保に苦しむことになるのです。
 1961年の第12回紅白から1972年の第23回紅白までは、東京宝塚劇場を連
続して確保できたのですが、第5回紅白から第11回の紅白までの会場確保は大変だっ
たのです。それまでの7回の紅白の会場を調べてみました。産経ホールまで使ったので
す。なお、紅白歌合戦のテーマは11日まで続きます。
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       1954年(昭和29)第 5回 ・・ 日比谷公会堂
       1955年(昭和30)第 6回 ・・ 産経ホール
       1956年(昭和31)第 7回 ・・ 東京宝塚劇場
       1957年(昭和32)第 8回 ・・ 東京宝塚劇場
       1958年(昭和33)第 9回 ・・ 新宿コマ劇場
       1959年(昭和34)第10回 ・・ 東京宝塚劇場
       1960年(昭和35)第11回 ・・ 日本劇場
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≪画像および関連情報≫
・紅白歌合戦の結果を含む紅白歌合戦の最新情報がわかるサイトである。
            http://www1.plala.or.jp/nakaatsu/
                          ・・・[紅白の歴史/03]

9第4回紅白歌合戦/1953.jpg

2008年01月10日

●歌手選定プロセスを明確化せよ(EJ第1508号)

 多忙な歌手に懸命に出演交渉して出演してもらう大晦日の歌番組に過ぎなかった紅白
歌合戦は、回数を重ねるにつれてしだいに歌手にとって無視できない重要な番組になっ
ていったのです。とくにテレビが一般家庭に普及してからは全国放送の紅白歌合戦は、
歌手にとって出場を目指す大きな目標となったのです。
 そうなってくると、毎年紅白歌合戦にどの歌手が選ばれるかは大きな関心事となり、
それを決める側のNHKは大きな権限を持つようになります。このあたりにNHKのこ
のたびの不祥事を生む温床が出来上っていったといえます。
 しかし、どの歌手を紅白に出場させるかについては、その決定プロセスが必ずしも明
確ではなく、それがレコード会社や芸能プロダクションとのトラブルの原因になること
が多かったのです。
 そのひとつに「三浦洸一事件」というのがあります。三浦洸一は、当時のビクターの
看板スターであり、初期の紅白の常連歌手だっのです。
 三浦は第6回紅白に「落葉しぐれ」で初出場し、第7回は選ばれなかったものの、第
8回から第14回まで連続出場を果たしているのです。しかし、1984年の第15回
紅白歌合戦の出場リストには三浦洸一の名前はなかったのです。表向きの理由は、三浦
はその年に目立つヒット曲がなかったというものです。
 これに対してビクター側は反発します。確かにヒット曲はないが、三浦のこれまでの
実績はどうなるのかというわけです。そしてビクター側は「三浦を出場させないなら、
ビクター所属歌手全員を引き上げる」とNHKに迫ったのです。
 ビクターには、雪村いづみを筆頭にフランク永井、橋幸夫、吉永小百合、田辺靖雄、
三田明、和田弘とマヒナ・スターズなどのスター歌手を抱えており、これらの全員がす
べて抜ければ、紅白なんか成り立たないぞという圧力です。
 そもそもなぜ第15回で三浦が外されたかというと、本当はヒット曲がないというこ
とではなかったのです。それは、NHKが記念すべき第15回の紅白であるため、ベテ
ラン歌手4人を出すことを決めたことにあるのです。そのため、それまで暗に認めてい
たレコード会社の枠を縮小せざるを得なくなったのです。ベテラン歌手というのは、藤
山一郎、渡辺はま子、伊藤久男、淡谷のり子の4人です。
 ビクターの強硬な抗議に対し、NHKの態度は毅然たるものであったのです。「分か
りました。そういうことなら(ビクター所属歌手全員が引き上げても)仕方がありませ
ん」だったのです。結局、このときはビクター側が折れるかたちで、ビクター所属歌手
の三浦抜きの紅白出場が決まり、この騒ぎはビクターの完敗に終わったのです。
 しかし、その後紅白の視聴率が80%を超えるにいたって、もはやレコード会社がN
HKにビクターのような抗議をすることはなくなったのです。これは、NHKの権限が
それだけ強力になってきたことを意味しています。
 これに伴い、逆に歌手からの辞退という現象が生じてきたのです。つまり、NHKか
ら推薦されても歌手がそれを辞退するという現象です。辞退の理由はいろいろあるので
すが、NHKが紅白出場の条件として、その歌手がNHKの他の番組に対する貢献度を
カウントしているという噂が広がり、それが大方の歌手の反感を買っていたことは事実
なのです。
 皮肉な見方をすれば、番組への辞退があるということ自体が、紅白歌合戦という番組
の価値を物語っているといえます。辞退する歌手自身が紅白を特別の番組として認めて
いるからです。歌手になった以上、一度は出てみたいという番組であるからこそ、推薦
されてもあえて辞退するという行為が生きてくるのです。
 しかし、NHKの不正が発覚し、世間の批判が高まっている現在、紅白歌合戦はまさ
に正念場を迎えているといえます。視聴率も40%を割っているのです。
 とくに長年批判の対象になってきた歌手選定のプロセスの明確化は、NHKとして早
急に行う必要があります。一番良いのは、広く視聴者からの世論調査を行い、その順位
通りに出場させる方法です。もし、辞退者が出れば順番を繰り上げれば良いのです。
 実はNHKは紅白に関する世論調査を今までもやっているのですが、結果を公表して
こなかったのです。しかし、2004年は不祥事の発覚がきっかけで調査結果を公表し
ています。2004年10月29日の公表結果を示しておきます。
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        ≪白組≫           ≪紅組≫
        1.氷川きよし        1.天童よしみ
        2.SMAP         2.宇多田ヒカル
        3.北島三郎         3.柴咲コウ
        4.五木ひろし        4.坂本冬美
        5.平井 堅         5.浜崎あゆみ
        6.サザンオールスターズ   6.石川さゆり
        7.森 進一         7.小林幸子
        8.細川たかし        8.森山良子
        9.ポルノグラフィティ    9.夏川りみ
       1O.ゆず          10.大塚愛
       11.ORANGE RANGE    11.和田あき子
       12.Mr.Children       12.松田聖子
       13.鳥羽一郎        13.aiko
       14.美川憲一        14.島倉千代子
       15.さだまさし       15.BoA
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これを見ると、出場歌手がいろいろな世代にわたっており、それなりにバランスがと
れていると思います。2004年の出場者もこれに準拠しているといえます。しかし、
55回という回数は異常であり、紅白歌合戦は60回までに抜本的な改革をする必要が
あることは確かであるといえます。

≪画像および関連情報≫
 ・今回のテーマは、次の文献を主として参照している。
  合田道人著『紅白/歌合戦の真実』幻冬社刊
 ・2部制(1989)になるまでの紅白歌合戦の視聴率
   第13回 80.4%  第22回 78.1%  第31回 71.1%
   第14回 81.4%  第23回 80.6%  第32回 74.9%
   第15回 72.0%  第24回 75.8%  第33回 69.9%
   第16回 78.1%  第25回 74.8%  第34回 74.2%
   第17回 74.0%  第26回 72.0%  第35回 78.1%
   第18回 76.7%  第27回 74.6%  第36回 66.0%
   第19回 76.9%  第28回 77.0%  第37回 59.4%
   第20回 69.7%  第29回 72.2%  第38回 55.2%
   第21回 77.0%  第30回 77.0%  第39回 53.9%
                          ・・・[紅白の歴史/04]

10合田道人氏の本.jpg

2008年01月11日

●明智光秀にはアリバイがある(EJ第913号)

 加藤廣さんの『信長の柩』(日本経済新聞社)は超大ヒットしています。『本能寺の
変』を新しい角度から取り上げています。テレビドラマにもなっています。
 かつてEJでも「本能寺の変」を取り上げており、新しい説に立っているので、再現
することにします。 
本能寺の変があった天正10年6月2日前後の光秀の行動を分析してみると、光秀は
6月2日の午前4時前後の本能寺襲撃には参加していないことが明らかになるのです。
現代風にいえば「光秀にはアリバイがある」のです。これは、作家八切止夫氏の主張で
すが、それなりの説得力があります。
 世の中の人々――一般の人も歴史学者も「本能寺の変の犯人は明智光秀」ときめつけ
ています。確かに「本能寺の変」には謎が多いのですが、「首謀者は明智光秀である」
ことは誰もが認めてしまっています。しかし、本当にそうなのでしょうか。
 一般的に流布されている本能寺の変を光秀の側から記述するとこうなります。
 明智光秀は、天正10年(1582)6月1日の酉の刻(午後6時)に、1万300
0人の軍団を率いて亀山城を出発しています。軍団は4つに分かれています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
            先 陣:明智弥平次、明智次右衛門
            第2陣:藤田伝五、溝尾勝兵衛
            第3陣:明智光秀
            後 陣:斉藤利三
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 各陣をまとめる諸将は光秀の胸中を知らされていたのですが、それ以外の物頭たちに
は、軍団は中国筋に向かうのであるが、その前に、上様(信長)が陣容、馬揃えを検分
するということなので、夜道をかけて京まで行くといってあったのです。
 そして、桂川西岸に達したところで、全軍に命令が出されたのです。兵士は戦闘用の
草鞋に履きかえよ。鉄砲隊は火縄に火をつけよと。そして「敵は本能寺にあり」という
命令が出たのです。
全軍は桂川を渡り切り、まっすぐ七条通りを東進して千本七条に達し、そこを北に向
かって本能寺に攻め込んだのです。本能寺に到着した時間は、2日の午前4時前後とい
われています。
 それから約2時間で本能寺は炎上し、続いて明智軍は本能寺から約600メートルほ
ど離れている二条御所にいた三位中将信忠を攻め立て、かなり手こずったものの、辰の
刻(午前8時)までにはこれを攻め落としているのです。このように、すべては午前8
時までに終わっていたのです。
 以上は現代人が誰でも知っている「本能寺の変」の顛末なのですが、これは主として
『川角太閤記』からとられています。歴史というものは、基本的に権力者による権力者
のための歴史なのです。自分に都合の悪いことはもちろん隠すし、他人の日記でも平気
で書き替えてしまうものです。とくに、光秀の死後に記述された『信長公記』や『太閤
記』の記述には多くのウソが入っているはずです。死人に口なしだからです。
 さて、6月2日当日のことですが当の光秀は実に不可解な行動をとっているのです。
日本歴史学会の会長であり、とくに戦国期の解明には、最高権威といわれる高柳光寿博
士の『戦国戦記』(春秋社刊)には「6月2日、つまり、信長しい逆の当日、午前9時
から午後2時までしか、光秀は京都にあらわれていない」と書いてあるのです。これが
正しいとすると、光秀はすべてが終わったあとに京都に現れ、5時間ほど京都にいて午
後2時には京都を離れていることになります。
 いやしくも謀反を企てて信長を殺すというのに、その首謀者である光秀がその現場に
いないというのは不自然です。やはり、自分が直接指揮をとるのは当然のことです。万
一、失敗したら重大な結果を招くからです。
 6月1日前の光秀は次の行動をしたことになっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      5月27日:愛宕山/愛宕権現礼拝 一泊
      5月28日:愛宕百韻/連歌師里村紹巴による連歌会 下山
      5月29日:玉薬・長持など荷物百荷を西国に向けて出荷
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 愛宕権現では、おみくじを3回引いたのですが、すべて凶か大凶だったことは有名で
す。愛宕百韻で光秀は有名な発句「ときは今あめが下知る五月哉」と読み、天下をとる
決意表明だと思われています。5月29日の荷出しは偽装工作であるといわれています
が、しかし、これは高松に向けて出発するためには当然やらなければならない措置と素
直にとることもできます。
 さて、ここで考慮しなければならないのは6月1日前後の天候です。記録によると、
27日は雨、28日は晴だったのですが、29日は下末――すなわち、土砂降りの雨だ
ったのです。その次の日――このときの5月は29日までしかない――したがって、次
の日は6月1日ということになります。6月1日も朝から激しい雨が降り、夕方まで続
いていたのです。
 そうすると、光秀は本城である丹波亀山を午後6時頃出発したといっても、『川角太
閤記』に記述されているように、スムーズに進んでいないはずです。とくに当日の桂川
は水かさが増えて、とても軍馬が渡れる状況ではなかったのです。計算して見ると、明
智軍は6月2日の午前4時にはとうてい本能寺にはたどりつけないのです。
・・・[本能寺の変/01]

反町信長/萩原光秀.jpg

2008年01月15日

●信長殺しは3者の共同謀議?(EJ第914号)

 桂川西岸から現在の亀岡(当時の亀山)まではハイキングコースになっているそうで
すが、この山道は当時人2人が並んでやっと通れる道幅であったようです。天正10年
6月1日、朝から夕方まで降り続いた雨でぬかるんだその山道を1万3000人の軍勢
が夜を徹して行進したのです。
 1万3000人が2列になって6500段。行列に物頭以下の騎馬武者が200騎な
いし300騎。さらに輸送担当の小荷駄隊も100人前後で追随していたのですから、
行列距離は最短でもゆうに8キロ(2里)は超えていたことと思われます。
 しかも、雨のあとの夜で足場は最悪。ほとんどノロノロ歩行ということになります。
こういう状態で野条から1里3町――4200メートルで老ノ坂を上り切り、半里17
町――3700メートルで下り、途中沓掛に着き、行列順に30分ずつ休憩をとったと
して、午前1時過ぎに先陣隊がやっと桂川に到着するのです。その時点で第2陣以降は
まだ沓掛にすら達していないのです。
 しかし、問題は桂川です。桂川は2日連続の豪雨で300メートル以上の川幅になっ
ていたのです。激流が白い牙を剥き、川瀬は轟然と音をなしていたはずです。とはいえ
そこは軍隊――−舟橋、浮橋などを使って続々と到着する第2陣、第3陣、後陣の兵隊
を東岸に渡したのです。しかし、全部が終了したときはおそらく午前4時を大きく過ぎ
ていたはずです。
 それから陣替えをして本能寺目指して進軍するのに、さらに1時間程度は要したと考
えられます。しかし、その頃は既に本能寺では火の手が上がっていたのですから、明智
軍は本能寺襲撃に間に合っていないのです。
 それでは、本能寺を襲撃した軍勢――それは明智軍をあらわす桔梗の旗をかざして、
本能寺に突入している――とは一体何者でしょうか。
 本物の明智軍ではないのにこういう芸当がやれるとしたら、それは、徳川家康の配下
である服部半蔵が率いる忍びの集団か、秀吉の場合は蜂須賀小六率いる野武士集団が考
えられます。どちらかがある意図を持って明智軍を偽って本能寺の信長を襲撃したとし
ます。そして口々に「明智殿ご謀反!」と叫んで周囲を走り回る――そのようなことは
彼らにとっては朝飯前の仕事です。
 そこで、こういう推理が成り立ちます。秀吉か家康のどちらかが、信長を討つことを
企て、光秀を犯人に仕立てるということを考えたとします。そういうことを考えても不
思議ではないたくさんの事情が秀吉にも家康にもあるのですが、それについてはあとで
述べることにします。
 仕掛けとして、中国路に出立しようとする明智軍に、信長の命令として、「急遽軍団
の馬揃えを検分するので、早朝までに京に入れ」という偽命令を出しておきます。
 そして、明智軍が入京する前に明知軍の旗を立てた偽軍団が本能寺を急襲します。そ
して、信長を討ち取ります。しかし、その遺体はひそかに運び去ります。あとで光秀を
不安にさせるために有効だからです。忍者集団ならそのくらいのことは造作なくやるで
しょう。そこに、何も知らない本物の明智軍が本能寺にやってくる――これで明智光秀
は、確実に信長殺しの犯人にされてしまうことでしょう。
 この場合、光秀はどうするでしょうか。彼ほどの人物であればこれはどういい逃れを
しても、犯人の汚名を着せられると悟るはずです。信長も殺されていることであるし、
それなら、二条御所にいる信忠も殺しておくに限るとして、二条御所は本物の明智軍が
攻め落とす――こういう展開になると思います。
 この推理は明智光秀は最初から信長を討つ気がなかったという前提に立っています。
真犯人は秀吉か家康ですが、彼らには絶対的なアリバイがあります。しかし、この2人
は異常に早く「信長死す」という情報を掴んでおり、その後の動きは実に俊敏そのもの
です。明らかに信長が死ぬことを予測していたフシがあり、非常に怪しいのです。
 しかし、光秀の行動を分析してみると、信長を討つ気が全くなかったとはいい切れな
いのです。秀吉、家康、光秀はいずれも信長を恐れていたからです。
 本能寺の変の2年前に、信長は織田家功業の重臣といっていい佐久間信盛を石山城攻
略の怠慢を責め、嫡男の信栄ともども遠国追放の処置をとっています。信長の考え方と
しては「身代をなして無用になったものは殺す」という方針であり、秀吉、家康、光秀
はいずれも、自分もいずれは佐久間信盛のようになることを非常に恐れていたのです。
 そこで出てくるのは、秀吉、家康、光秀の三者共謀による信長抹殺説です。信長を討
つところまでは三者共謀だったのですが、あとは秀吉が一方的に家康と光秀を裏切り、
いち早く光秀を討つことによって、天下取りに優位を確保したとは、考えられないでし
ょうか。
 動機を整理しておきましょう。
 まず、秀吉ですが、光秀に対するいじめやいびりは、本当は秀吉に対してのものだっ
たのではないかと思われます。信長としては、家臣の中で一番不満をぶつけやすい男は
秀吉だったと思われるからです。表面上は笑ってごまかしているが、その屈辱感は相当
のものだったのでしょう。それに秀吉としては、天下がなったとき一番使い捨てにされ
るのは自分だと悟っていたようです。
 その点家康ははっきりした動機があります。それは信長の命令により妻を斬り、息子
の信康を自刃させざるを得なかったからです。そのため、家康犯人説は根強いのです。
 いちばん動機がないのは光秀です。のちの「太閤記」に書かれていた事実と異なり、
信長は光秀の力を買っており、光秀に対してはかなり厚遇していたからです。しかし、
光秀はインテリであり、天皇を無視し、自らを神として拝ませる傲慢さにはとたも我慢
がならなかったと思われます。
 このように、3人とも信長を殺す動機はあるのです。 ・・・[本能寺の変/02]

15明智軍進路.jpg
                 

2008年01月16日

●三者謀議のフィクサーは一体誰か(EJ第915号)

 長年『週刊ポスト』誌に井沢元彦氏が「逆説の日本史」を連載しています。『週刊ポスト』2002年8月9日号は「本能寺の変」を取り上げています。井沢氏の推理はあとで述べるとして、「本能寺の変」の秀吉・光秀・家康の三者謀議説についてもう少し述べることにします。
 この三者謀議が仮にあるとした場合、誰がどのようなかたちでそれをまとめたかにつ
いて考えてみます。もちろん、本人たちが会うわけにはいかないので、フィクサー的存
在の人物がまとめたものと思われますが、それは一体誰だったのでしようか。
 その仕掛人として考えられるのは安国寺恵瓊です。安国寺恵瓊の願いはあくまで毛利
家の安泰なのですが、後継者の輝元の器量が今ひとつであり、それを考えると毛利家に
とって織田信長は、もっとも危険な存在なのです。その点、秀吉、光秀、家康はいずれ
も苦労人であり、誰が天下をとっても外交政策で毛利家の安泰は確保されると読んでい
たのです。
 安国寺恵瓊はいわば毛利家の外交官ですが、一方で京都東福寺の高僧でもあり、京都
に滞在することが多かったのです。毛利家代表として秀吉との接触も多く、信頼関係も
生じていたし、光秀との交流もあったのです。
 それでは、フィクサー役は安国寺恵瓊であるとして、秀吉、光秀、家康の3人の外交
官は誰だったのでしょうか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
           豊臣秀吉 ・・・・・ 黒田官兵衛
           明智光秀 ・・・・・ 斉藤 利三
           徳川家康 ・・・・・ 本多 正信
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 安国寺恵瓊の三者への説得のポイントは、信長の危険さを訴えて恐怖感を煽り、織田
家譜代の大名である柴田、丹羽、滝川は別として、信忠の代になると、秀吉、光秀、家
康は織田家にとって危険な存在になると説いたのです。
 しかし、その程度のことで3人が話に乗ってくることは考えられないと思います。歴
史研究家の大浦章郎氏によると、安国寺恵瓊は、信長亡きあとの処置を含めた具体的な
提案をして3者を納得させたといっているのです。
 その提案とは、朝廷に関しては現在の象徴天皇制をとり、その下に天下人は、ちょう
ど大統領のようなかたちで実質的な権限を握るという案です。天下人には一定の任期を
決めて、年齢順に光秀、秀吉、家康の順でどうかというものです。勢力圏としては中央
の京都は光秀、姫路以西は秀吉、駿河以東は家康ということではなかったでしょうか。
 この場合、実行犯となる光秀の背後には、闇の商人といわれる堺−納屋衆がおり、光
秀に情報を提供し、支援したと考えられます。堺−納屋衆にとっても、信長はきわめて
危険な存在であり、消えてもらうことは大きなメリットがあったといえます。そこで堺
−納屋衆は、光秀の企てには情報提供など、いろいろ支援をしたのです。その中心人物
は、千利休その人なのです。
 千利休は、信長の信頼が厚く、茶の湯の師匠的存在としてつねに信長の身近にいたの
です。そのため、信長の行動予定や軍勢の準備態勢などについても情報を掴んでいたと
考えられます。
 「本能寺の変」は、6月1日に信長が100人ほどの手勢で、ほとんど無防備に近い
本能寺に宿泊するという行動がなければ起こり得なかったといえます。信長は、6月3
日には大軍を率いて四国征伐に向かう予定になっていたからです。したがって、6月2
日に信長が京入りしていたら、明智軍はどうすることもできなかったと考えられるから
です。
 なぜ、信長は6月29日に安土を出てわずかな手勢で本能寺に泊まったかというと、
6月1日に茶会を予定していたからです。そして、その茶会の日を決めるのに影響力を
持っていたのは、千利休だったのです。利休は本能寺の茶会の席で博多の豪商の鳥井宗
室を信長に引き合わせているのです。
 その宗室は5月頃から京都に滞在していたのに、1日に信長に会うと、次の日には京
都を出立し、博多に帰っているのです。一説によると、宗室は「楢柴」という茶入れの
名品を持っており、信長はそれを見ることを楽しみにしていたというのです。
 いずれにせよ、信長が5月29日には本能寺に入り、1日に茶会を開き、その日は本
能寺に泊まっているのですが、そんな重要な情報がどのようにして光秀に伝わったのか
というと、堺−納屋衆が光秀に情報を流していたものと考えられます。とくに29日は
愛宕百韻が開かれており、その主催者の連歌師里村紹巴は利休や堺衆とごく近い間柄だ
ったのです。光秀に情報が流れるルートは間違いなくあったのです。
 さて、冒頭の井沢元彦氏の推理ですが、信長が亡くなって一番トクしたのは、四国王
となりつつあった長曾我部元親であると指摘しているのです。元親と信長の関係は、か
つてはよかったのですが、元親が四国統一を進めるにつれて信長が一方的に考え方を変
えたのです。
 天下統一を目指す信長にとって、あまりに巨大な勢力は潰しておくに限るのです。そ
こで、一転して6月3日に四国征伐に出発する予定だったのです。予定通りに出発して
いたら、長曾我部家は間違いなく滅亡していたはずです。
 実は信長政権において対長曾我部外交を担当していたのは光秀であり、光秀はそのた
めに重臣斉藤利三の妹を元親に嫁がせていたのです。その間に生まれたのが信親です。
 したがって、信長の心変わりは、自分の顔を潰されたばかりではなく、斉藤利三の妹
とその子である信親も殺されることになる――そんなことはさせられないと、光秀は斉
藤利三と相談をして決起したのではないかと、井沢氏は推理しているのです。
 ケネディ大統領が暗殺されたとき犯人としてオズワルドが直ちに逮捕されましたが、
そのオズワルドは連行中に今度はルビーという男に射殺されています。本能寺の変も国
のトップの暗殺事件ですが、何か雰囲気が似ていると思います。
                          ・・・[本能寺の変/03]
                 

2008年01月17日

●朝廷の手足として動いた兼見と前久(EJ第916号)

 光秀・秀吉・家康の三者共謀説で説得力がないのは、天正10年6月2日の時点で、
家康が、信長とともにもっとも危険な立場に置かれていたという点です。いや、信長よ
りも家康の方が危険な立場にいたといえます。というのは、6月1日〜2日にかけて家
康は、裸同然のわずかな護衛を連れて堺にいたからです。
 もし、家康が、信長が討たれることを事前に知っていたならばそんな危ないことはや
らないであろうというところから、家康シロ説が出ているのです。もっともこの説には
異論があるのですがこれについてはあとで述べます。
 光秀はむしろ三者共謀というよりも、朝廷側と組んでいたという説があるのです。と
いうのは、光秀は正真正銘の勤皇主義者であり、信長の、朝廷から皇位を取り上げよう
とする野望が明らかになったことに反発して、それを阻止するために相当周到な計画の
下に決起した――そう考えられるからです。
 光秀は天正7年7月に丹波を平定したのですが、そのとき朝廷の御料所であった山国
荘を朝廷に返しています。朝廷はこれを大いに喜んで、勅使を下向させ、賞詞と下賜品
を光秀に与えているのです。これは、官位のない陪臣に対する措置としては異例のこと
だったのです。
 光秀のこの考え方のバックボーンは「天下はすべて天皇の土地である」ということに
あります。しかし、信長は天下(自分のこと)を朝廷の上に置いていたのです。実は、
本能寺の変が起きる1年ほど前から、信長と光秀はこの考え方をめぐって深刻な対立を
繰り返していたのです。
 信長は自らの意のままになる第二朝廷を作ろうとし、ときの正親町(おおぎまち)天
皇に譲位を迫ったのです。譲位は二度行われましたが天皇はいずれも拒否しています。
しかし、朝廷の危機感は相当大きいものだったと考えられます。
 天正10年が明けると、信長は自ら生きた神体となる自己神格化を宣言しますが、こ
れは明らかに皇位簒奪計画と連動する政治的行為といえます。5月になると、朝廷はそ
の時点ですべての官位から離脱していた信長に対して「朝廷の三職(さんしき)推任」
を要請します。関白・太政大臣・征夷大将軍のいずれかへの就任要請です。就任させる
ことによって、朝廷の秩序につなぎとめようとしたわけです。しかし、信長はあざ笑う
ようにそれを拒否します。
 それに加えて、信長は毛利征伐の号令を発するのです。毛利家は元就以来の勤皇の大
名であり、ときの正親町天皇が即位できたのも毛利家の献金があったからですし、天皇
が信長の譲位要求をつっぱねられたのも毛利家が後ろ楯だったからなのです。信長はそ
の天皇家の後ろ楯である毛利家を討とうと宣言しているのですから、まさにのど元に匕
首をつきつけたに等しいのです。
 「信長を何とかしなければ朝廷が危ない」と考えた正親町天皇は、皇太子の誠仁(き
ねひと)親王を中心に信長暗殺の裏工作をはじめるのです。そのとき朝廷に一番近いと
ころにいた信長側の武将は光秀だったというわけです。この工作で誠仁親王と光秀との
間に立って動いたのが次の2人です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        吉田兼和(のちに兼見) ・・・ 従三位・神祇大副
        近衛前久 ・・・・・・・・・・ 前関白・太政大臣
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 兼和(以下、兼見)は、吉田神道の総帥であり、神官の頂点に立っていた人です。こ
の兼和の役割は、朝廷内の「反信長神聖同盟」と光秀を結びつけるオルガナイザーとし
て機能することではなかったかと思われます。この人は本能寺の変の前後に非常に怪し
い動きをしているのです。
 近衛前久は、「反信長神聖同盟」の盟主的存在であり、本能寺の変では重要な役割を
果たしているのです。近衛家というのは、藤原北家の流れを汲んだ五摂家――近衛、鷹
司、九条、二条、一条家――の筆頭という家柄であり、前久は19歳のときに既に関白
の職についているのです。
 近衛前久という人は、公家でありながら自ら軍勢を率いたりする異色の人として有名
です。どちらかというと、信長のためにいろいろ尽くした人なのです。石山本願寺との
和睦のときも、前久自身が軍勢を率いて、現代風にいうとPKO部隊のような形で一向
一揆が退却するのに立ち合うなどしていますし、薩摩に下って島津家との外交交渉をや
るなど、表面的には、信長の手足として働いているのです。ところが、本能寺の変の前
後では、兼見と同様に非常に怪しい動きをしているのです。
 吉田兼見の怪しい行動とは、明智軍が本能寺の信長と二条御所の信忠を討ち果たした
あと、光秀は大津に向かうのですが、その途中で吉田兼見と何やら密談していること。
そして、6月6日に安土城にいた光秀に兼見は勅使として下向しており、誠仁親王が朝
廷をくれぐれもよろしくと伝えた事実。光秀はこのとき親王に銀500枚を献上してい
ることなど、たくさんあります。
 本能寺の変の前には、兼見は信長にべったりで、年中京都奉行であった村井貞勝のと
ころに出入りしており、信長貞勝を通じて出した要求にいろいろと便宜を取り計らった
りしていたのです。その一方で光秀とも懇意でよく会っています。
 天正10年5月3日に兼見は、親王の信長への推挙によって位が上がっているのです
が、6月1日に信長が本能寺にきたのにもかかわらず、表敬の挨拶に行っていないので
す。
 近衛前久にも怪しい行動はたくさんあります。そのさいたるものは、変が終わった6
月7日に誠仁親王の居所で「信長打倒計画成功」の祝宴に嫡子の信基と一緒に参加して
いることです。
 それに、前久は、二条御所に隣接して居宅を信長から与えられていたのですが、6月
2日に宿舎の妙覚寺から二条御所に立てこもった信忠が明智軍に包囲されたとき、明智
軍は前久の屋形の屋根を利用して鉄砲や弓矢を射掛けて火を放っているのです。
 そして、変のあと兼見は秀吉に、前久は家康のところに身を預けているのです。やは
り、この二人とつながっているのです。        ・・・ [本能寺の変/04]
                 

2008年01月18日

●仕組まれていた家康の伊賀越え(EJ第917号)

 光秀、秀吉、家康が直接的に共謀して信長を討ったのではないにせよ、光秀の信長暗
殺の情報を秀吉と家康は事前に知っていたことは間違いないと思います。
 光秀がある日突然に思いついて本能寺を襲ったのではなく、昨日のEJで述べたよう
に、朝廷の内部の暗殺プロジェクトによりコトが動いたとすれば、つね日頃から情報収
集の重要性を熟知している秀吉と家康の耳に入らないはずがないからです。
 本能寺の変が起こった天正10年6月2日――秀吉は備中高松城(岡山)を攻めてい
たし、家康は30人ほどの家臣と一緒に京見物の途中で泉州・堺(大阪府南部)にいた
――これは、信長暗殺に関しては絶対的なアリバイであるといえます。
 しかし、彼らは信じられないほど素早く情報を入手すると、秀吉は電光石火、毛利と
和睦を結んで姫路に「大返し」をし、家康は選り抜きの家臣にガードされて、伊賀超え
をして岡崎に戻っているのです。これらはいずれも、かなり用意された行動であり、と
っさの判断でやれることではないのです。そこには、大きな疑惑があります。
 家康のケースから考えてみることにします。
 天正10年3月のこと、武田氏が滅亡したことにより、家康は駿河(静岡県)一国を
恩賞として与えられます。この恩賞のお礼を申し述べるために、家康は武田遺臣の穴山
梅雪と一緒に安土城を訪れたのです。天正10年5月15日のことです。こういう目的
の旅行ですから、あまり大軍を引き連れてくるわけにはいかずごく少人数の護衛しか連
れてこれなかったわけです。
 安土には6日間滞在し、21日に信長に京都遊覧をすすめられ京都に入るのです。2
9日には堺まで足を伸ばし、6月1日まで松井友閑や今井宗久などによって茶の湯の接
待を受けます。
 ところが、それまで悠然と旅を楽しんでいた家康は、6月2日朝、ひそかに重臣本多
忠勝を京に向けて先に出発させたあと、帰国に先立ち、もう一度信長に会うため京に行
くといって急いで堺を出発してしまいます。
 本多忠勝は、途中で徳川家御用達を務める京都の豪商茶屋四郎次郎が馬を走らせてく
るのに出会い、信長敗死を知って堺に引き返します。途中で家康一行と出会った本多忠
勝と茶屋四郎次郎は同行の服部半蔵と相談のうえ、伊賀越えをして岡崎に戻るコースを
選択してこれを見事に成し遂げるのです。
 後年家康は、この伊賀越えは「九死に一生の危険な逃避行」といっているのですが、
これにはウソがあります。ひとつには、本多忠勝が家康と一緒にいることです。本多は
徳川家の軍事を担当する指揮官であり、本来であれば、動乱の余韻覚めやらぬ甲斐にに
らみを効かせるためには不可欠な人物です。
 他に人がいないわけではなく、本多忠勝をあえて物見遊山の旅に連れてきたのは、こ
の旅が非常に危険であることがあらかじめ家康には分かっていたからです。
 それに、服部半蔵も物見遊山の旅にはふさわしくない人物であるといえます。服部半
蔵といえば、伊賀で圧倒的な勢力を持つ忍びの衆であり、伊賀越えをする場合、彼ほど
の適任者はいないはずです。なぜ、服部半蔵が同行していたのでしょうか。最初からそ
ういう事態が起こることを予測していたのでしょうか。
 徳川家は家康の祖父松平清康の代から伊賀忍者と縁が深かったのです。まして、天正
9年には信長による伊賀攻めで多くの忍者が殺戮されており、徳川家に投じる伊賀忍者
は増えていたといいます。つまり、服部半蔵についても信長は家康とともに家族殺しの
仇敵であり、「信長憎し」の感情に固まっていたのです。
 甲賀忍者についても、元亀元年には信長の甲賀攻めを家康が中止させたといういきさ
つから、甲賀忍者は徳川家に親和的であるといわれているのです。
 こういう事情から伊賀越えの途中、半蔵の呼びかけに応じて、たちまち三百余人の
伊賀・甲賀忍者が馳せ参じて家康の護衛に当たったといわれます。何のことはない――
伊賀越えは家康にとって、最も安全性の高い避難路だったのです。つまり、少人数で
も大丈夫な備えをしていたのです。ついでに述べておくと、この服部半蔵の遠祖は実は
渡来系氏族であり、具体的にはあの秦氏なのですが、ここではあえて詳しくは述べない
ことにします。
 なお、家康と同道していた武田の遺臣穴山梅雪は、家康より少し遅れて同じルートを
たどり、宇治田原に向かったのですが、途中一揆に襲われて殺害されています。もっと
もこれは表の話であり、梅雪の挙動に不審なものを感じた家康が、半蔵に命じて殺させ
たというのが正しいようです。
 さて、家康は、岡崎に戻ると、直ちに陣触れを領内に回し、光秀討伐軍を組織するの
ですが、それに10日を要し、6月19日にやっと出発して尾張(愛知県)の鳴海まで
進出します。そこで秀吉が6月13日に光秀を討ち滅ぼしてしまったということを聞く
のです。情報に強い家康といえども、秀吉の「大返し」は予測できなかったことになり
ます。
 家康は直ちに撤兵し、本城の浜松城に戻るや甲斐(山梨県)と信濃(長野県)両国を
自己の支配下に組み込むことに着手するのです。この両国平定は天正11年中に完了
し、甲斐一国と信濃の南半分を領国化し、5ヶ国の太守になることに成功します。
 しかし、家康がそうしている間に、秀吉は手際よく主家を盗み取って、30ヶ国の大
大名になり、朝廷権威を巧みに利用して、豊臣体制という中央集権機構を作り上げてし
まったのです。これは、明らかに家康の敗北といえます。
 天正12年になって、信長の次男である信雄(のぶかつ)が秀吉と事を構え、家康を
頼ってきたのを受けて、家康は挙兵して秀吉に立ち向かいます。この小牧・長久手の戦
いにおいて、家康は総力戦では秀吉に及ばないことを悟ることになるのです。
 光秀によって信長が暗殺されることを家康とともに知っていた秀吉が、その直後に見
せた「大返し」にはどのようなカラクリがあったのでしょうか。来週はその秘密に迫り
ます。                       ・・・ [本能寺の変/05]

18三河岡崎城.jpg
                 

2008年01月21日

●秀吉の大返し/1日80キロの謎(EJ第918号)

 本能寺で信長父子が光秀に暗殺されたという情報が、岡山にいた秀吉に届けられたの
は、諸説はあるものの、天正10年6月3日の「それほど遅い時間ではない夜」と考え
てよいと思います。
 その夜秀吉はかねてから親交のあった安国寺恵瓊をに呼び出し飲める条件を示して
毛利側との和睦の交渉を依頼します。この時点で「信長死す」という情報は、毛利側に
はまだ届いていなかったはずです。事前に和睦の下交渉は行われていたのです。
 とはいうものの、清水宗治が治める高松城は、5月8日から水攻めにあって落城寸前
であり、まして信長が大軍を率いてやってくる直前でもあるのに和睦を結ぶ状況ではな
かったのです。安国寺恵瓊は、すべてを知ったうえで秀吉の意中を汲み取り、和睦交渉
をやったのです。秀吉と安国寺恵瓊はつながっていたと考えるべきです。
 毛利との和睦が成立し、秀吉が岡山を離れたのは、6日の未の刻(午後3時)です。
秀吉としては和睦は成立したものの、信長の死を知った毛利がどう出るか慎重に様子を
みていたのです。そして毛利軍に動きがないことを知ると、秀吉は驚異的なスピードで
上方に引き返します。
 これは後世「秀吉の大返し」として話題になるのですが、どのくらいのスピードで引
き返したのでしょうか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      ●6日午後3時「高松城」を出発
       同日6日夜「沼城」に到着 ・・・・・・ 約26キロ
      ●7日早朝「沼城」を出発
       7日夜「姫路城」に到着 ・・・・・・・ 約80キロ
      ●9日早朝「姫路城」を出発
       11日午前8時「尼崎」に到着 ・・・・ 約80キロ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 問題は距離です。本によってそれぞれ違うのですが、高松城から姫路までは27里
――約106キロあるといわれています。秀吉は、高松城を6日の午後3時頃出発し、
その日のうちに沼城に入り、そこで一泊します。そこまでは、普通のスピードです。し
かし、7日の早朝に沼城を出発した秀吉軍は、その日のうちに姫路城に入っているので
す。
 しかも、7日は朝から暴風雨であり、数ヶ所の大河、洪水を乗り切って姫路城に到着
したのです。その日の行程は約80キロといいますから、信じられないスピードといえ
ます。
 このときの秀吉の軍勢は約2万5千人――これほどの大部隊になると、あまり早くは
移動できないのです。強行軍を得意としていた旧日本陸軍については次のデータがあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       大部隊  ・・・・・・・・ 一昼夜20〜24キロ
       騎馬大隊 ・・・・・・・・ 一昼夜40〜60キロ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 つまり、旧陸軍でさえ3日かかる距離を秀吉軍はたった1日で踏破してしまっている
のです。こんなことはとても信じられないことです。おそらく秀吉を中心に、数人の供
回りの者が先行してひたすら姫路に向かったのでしょう。それにしても凄いスピードで
すが、秀吉としてはここ一番とばかり踏ん張ったのです。
 しかし、重い具足を身につけた兵隊たちは当然遅れてしまいます。それらの兵隊は後
から三々五々姫路にやってきています。中には、13日の山崎の戦いに間に合わなかっ
た兵隊も少なくないといわれています。
 兵隊が到着するのを待つということもあり、秀吉は次の8日一日は姫路城で過ごしま
す。そして、姫路城に蓄えてある金銀や兵糧米をすべての家臣たちに分配してしまうの
です。もちろん籠城の意思はなく、姫路にはもう戻らないという意思表示です。
 秀吉軍が姫路城を出発したのは9日の早朝です。秀吉としてはもう少し姫路城で人馬
を休ませるつもりでいたのですが、8日の酉の刻(午後4時)にある緊急情報がもたら
されたので、予定を前倒しして姫路城を出発したのです。その情報とは、大坂にいる信
長の遺児/信孝を光秀が襲って、切腹を迫っているというニセ情報です。
 しかし、姫路から尼崎までの秀吉軍の行程は、もちろん通常よりは早いものの、1日
40キロのペースで軍勢を整えながらの進軍となるのです。9日夜には明石到着。10
日の午後には兵庫。そして、11日の午前8時に尼崎に到着しています。ここまでの間
に多くの兵は追いつき、軍勢はほぼ整ってきていたのです。
 世にいう「秀吉の大返し」は、事前に周到な計画が立てられています。1日で80キ
ロという凄いスピードとはいうものの、それは秀吉と数人の供回りの者たちが踏破した
スピードであり、秀吉軍全体がそのスピードで動いたわけではないのです。しかし、秀
吉は姫路城に少し長く滞在することによって、ちゃんと時間を調整して軍隊が追いつく
のを待っているのです。
 しかし、いかにも全軍が姫路に結集したようにウワサをばらまいています。これで、
光秀をはじめとする各武将は秀吉軍が怒涛のように尼崎めがけて進軍してくると錯覚
するわけです。
 それだけではないのです。秀吉は畿内と近畿にいる味方と考えている諸将――これに
ついてはあとで述べる――に対して書状を送り、秀吉軍とともに光秀征伐戦に参戦する
よう呼びかけ、かれらの参着を待っていたのです。光秀討伐軍は少しでも多い方がよい
からです。
 秀吉が、事前に信長が暗殺されることを知っていたのではないかと疑われている理由
としては、高松城からのいわゆる大返しにあるのではなく、畿内や近畿にいる諸大名に
対して事前に何らかの工作をしていたのではないかという点にあります。
 そういう工作があればこそ、本来なら光秀につくはずの諸将がことごとく秀吉軍につ
いてしまったのです。秀吉はこれを計算に入れて、ひたすら高松城から尼崎へと派手な
演出を試みながら進軍してきたのです。        ・・・[本能寺の変/06]

21秀吉の大返し.jpg

2008年01月22日

●信長暗殺/細川藤孝フィクサー説もある(EJ第919号)

 天正10年6月2日に信長父子の暗殺に成功した明智光秀――不思議なことにその直
後の光秀は非常に時間を無駄に使っているように思います。
 近江坂本や安土、山崎北方の勝龍寺城、天王山、淀城などを右往左往しただけで、天
下取りのために何ら有効な手を打っていないのです。つまり、クーデター成功後に何を
どうするかというビジョンが何もないのです。
 これに対して秀吉は、まるでそれを予測していたかのように、きびきびと的確に行動
しています。そういうところから、実行犯は光秀であることは動かないとしても、秀吉
仕掛け人説が根強くあるのです。
 光秀の誤算といえば、もともと光秀の組下大名であった次の大名がすべて光秀に味方
しなかったことです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          丹後衆 ・・・ 細川藤孝 倅 忠興
          大和衆 ・・・ 筒井順慶
          摂津衆 ・・・ 高山重友 中川清秀
          兵庫衆 ・・・ 池田恒興 倅 元助
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これらの大名のうち、細川藤孝は山崎の戦いに参加していないものの、他の大名はす
べて秀吉に味方しているのです。これについて、やれ光秀の人間性に問題があるとか、
面倒見が悪いとか、ケチであるとかいろいろいわれていますが、光秀はけっしてそのよ
うな人物ではないのです。これは明らかに裏切りです。
 とくに不可解なのは細川藤孝/忠興父子です。なぜなら細川家と明智家は強いつなが
りがあるからです。織田信長に将軍足利義昭を引き合わせたのは光秀なのですが、その
とき足利将軍家の重臣だった細川藤孝も信長に紹介し、仕えるようになったからです。
そして、その後藤孝の息子忠興は、信長の命により、光秀の娘玉を正室に迎えているの
です。この玉が、有名な「細川ガラシャ」なのです。
 しかも、藤孝は里村紹巴の主宰する連歌会のメンバーでもあり光秀の企てを知ってい
たはずです。それに運命の5月28日の愛宕百韻にも藤孝は出席する予定だったのに急
遽欠席しています。これだけの関係ですから、光秀としては当然味方してくれると信じ
ていたと思います。
 しかし、細川父子は本能寺の変を知ると、髻を切って信長に弔意を示し、藤孝は家督
を忠興に譲って細川幽斉と名乗ります。忠興は、正室玉を離別し、光秀に使者を送って
義絶を通告しているのです。光秀としては、手の平を返したような細川父子の態度にが
くぜんとしたことでしょう。
 それどころか、光秀はこの細川藤孝に信長暗殺をそそのかされたという説があるので
す。これについて『信長権力と朝廷』(岩田書院刊)の著者であり、歴史学者の立花京
子氏は、作家/安部龍太郎氏との対談で次のようにいっているのでご紹介します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      安部:そうすると、やはり藤孝がフィクサーとして動いたん
         じゃないか、と。
      立花:そうなんです。それに、秀吉の大返しにしても、あれ
         は素早すぎると皆さんおっしゃいますね。だから、秀
         吉もある程度知っていたのではないか。本願寺から知
         らされたとか、藤孝が知らせたんじゃないか、ともい
         われていますが、ひょっとすると、これはまだまった
         く私の推測ですけど、光秀は、秀吉も一緒にやるから
         というようなことを言われていたのではないでしょう
         か。(『真説/本能寺の変』より。集英社刊)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この立花氏の説は改めて取り上げますが、その説では信長暗殺の意外な黒幕の存在を
示唆しています。
 さて、池田恒興は伊丹城、高山重友は高槻城、中川清秀は茨木城のそれぞれの城主で
すが、この中では一番大身である池田恒興が軍事的統率者になります。その池田恒興は
秀吉寄りであるということもあり、そのため、秀吉は大返しの途中、恒興や清秀に手紙
を書き参戦を呼びかけています。NHK大河ドラマ「利家とまつ――加賀百万石物語」
でも、池田恒興の秀吉へのベッタリぶりがよく描かれています。
 筒井順慶については「洞ヶ峠」(ほらがとうげ)という有名な言葉が残っています。
筒井順慶は光秀に大恩があるにもかかわらず、光秀からの要請に答えなかったのです。
実際はどうしたらいいかわからなかったのです。業を煮やした光秀は洞ヶ峠(京都府八
幡市)まで出陣し圧力をかけたのですが、筒井順慶は動かずこのとこから「洞ヶ峠」は「日和見」の代名詞となったのです。
 これらの池田、細川、高山、中川、筒井の諸将は、もともと信長の命により、光秀と
ともに中国の秀吉支援に赴く準備をしていたので、光秀にも秀吉にも参戦できる状況に
あったのです。秀吉としては、ぬかりなくすべてに手紙を送りけん制したのです。
 秀吉は大返しの途中、中川清秀に、次のような手紙を送っています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      いま京都から届いた確かな情報によれば、上様ならびに殿様
      (信忠)は、光秀の襲撃を切り抜けて近江膳所ヶ崎に逃れ、
      ご無事だとのこと。まずもって、めでたいことである。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 もちろん、ウソの情報です。しかし、情報が混乱しているあのときの状況で、この情
報を聞いて秀吉に乗った方がトクと考えた武将は多いと思います。
 しかし、この情報は単なるデタラメではなく、信長の遺体が発見されないからいえる
ことです。そうすると、秀吉は蜂須賀などの乱破を使い、家康の遺体をひそかに本能寺
から運び出した疑いは濃厚になります。        ・・・ [本能寺の変/07]

22立花京子&安部龍太郎.jpg

2008年01月23日

●八切止夫意外史は注目に値する(EJ第920号)

 NHKの大河ドラマ「利家とまつ――加賀百万石物語」を見て「本能寺の変」に興味
が湧き、EJに書くことを前提に多くの本や資料を真剣に読んでみました。
 そして理解できたことは、現在われわれが知っている本能寺の変は、『川角太閤記』
や『信長公記』など、後年の権力者秀吉の立場から書かれた文書をベースとしていると
いう事実です。要するに、秀吉にとって都合が悪いことはすべてカットされ、内容がね
じまげられており、真実は闇の中になっています。歴史とはそういうものです。
 実は5月のはじめのことですが、次のような本を購入したのです。そのときは、本能
寺の変をEJで取り上げることはぜんぜん考えていませんでした。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        八切止夫著『信長殺し、光秀ではない』作品社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 著者の八切止夫氏は故人であり、あとでわかったことですが、歴史の世界で奇書とい
われているものの復刻版だったのです。八切氏には「八切意外史」全12巻というのが
あるようで、上掲書はその第1巻目の本だったのです。今から30年前の本ですが、当
時ベストセラーになったそうです。
 しかし、この本は話がいろいろなところに飛び、悪くいえば支離滅裂で、良くいえば
奇想天外――何をいいたいのかよく分からない本なので、途中で読むのを止めてしまっ
たのです。しかし、本能寺の変についてEJで取り上げるようになって、本気で読み直
して見ると、非常に重要なことが書かれていることがわかってきたのです。
 今週発売の『週刊ポスト』8月16日号で、井沢元彦氏も取り上げているのですが、
八切氏はその本の中で、当時の鉄砲に使う火薬の原料「硝石」についてふれているので
す。多くの史書では鉄砲という銃器の製造については言及しているものの、それに使う
火薬がマカオからの輸入に依存していた事実がまったく書かれていないのです。
 「パソコンはソフトがなければタダの箱」といわれますが、鉄砲も「火薬がなければ
タダの鉄棒」なのです。種子島が鉄砲の産地であるとか、紀州の雑賀衆が鉄砲を量産し
ていたという銃器の生産の話はよく出ますが、火薬の話、ましてその原料の話などは、
八切氏以外、誰もいっていなかったはずです。
 八切氏によると当時の火薬の配合は、75%が輸入硝石(当時の言葉では「煙硝」)
に頼っていたのです。しかし、この硝石は、あたかもマカオが原産地であるように見せ
かけていますが、正しくはマカオは中継地に過ぎないのです。
 当時のポルトガルの商人は、火薬を輸出するに当たって、ヨーロッパやインドの払下
げ品を集めてきて、マカオで新しい樽につめかえさせて、日本に輸出していたのです。
そして、日本にはマカオが硝石の産地のように見せかけていたのです。信長はこれに完
全に騙されていて、彼は火薬確保のためにマカオを本気で攻め落とすことも視野に入っ
ていたと考えられます。
 当時マカオはポルトガル領であり、火薬商売だけでなく、ポルトガルのカトリックの
イエズス会の宗教セールスマンが宣教師としてどんどん日本に入ってきていたのです。
当然彼らは火薬を布教の道具として使ったのです。当時は良質の火薬がなかなか入手で
きなかったので、火薬欲しさに切支丹に帰依した大名も少なくなかったのです。
 さて、井沢元彦氏によると、30年前は八切氏以外に火薬の原料――硝石についてふ
れた歴史家はいなかったのに、現在はそのことに触れていない人はいないと述べていま
す。しかし、現在の歴史家はことごとく八切氏を無視し、参考文献や引用資料に八切止
夫の名前はないのです。はじめは八切氏の説をこきおろしておきながら、それがどうや
ら正しいとわかると、だまってそれを引用する――日本の歴史学者の悪いクセです。
 さて、八切氏は本能寺の変について意外なことをいっているのです。2日の早暁に丹
波の軍勢とみられる約1万3千の兵が本能寺を取り囲んだのは事実なのですが、これを
日本側の史料では、予想外のこと――すなわち「異変」としているのに対し、本能寺の
すぐ近くにあった南蛮寺のイエズス会のポルトガル人の宣教師たちは「通常の出来事」
と考えていたというのです。
 というのは、信長はいつも少人数で出動し、それから1日か2日で黒山のような軍隊
を編成し、自ら引率して行動を開始するのが通例である――と京にいるポルトガル人の
宣教師たちは認識していたといっているのです。そういうわけで、2日の早暁に約1万
3千の兵が本能寺を取り囲んでも彼らは「いつもの命令受領」と考えていたようです。
 ところが軍勢が本能寺を包囲後数時間経過して、突然本能寺から火の手があがったと
いうのです。それはもの凄い火力で燃え上がり、四方の民家に類焼しているのです。八
切氏は、これは明らかに爆発であり、本能寺の中にいた者は一人残らず「髪の毛一筋残
さず」吹き飛ばされたといっているのです。もちろん、信長もです。一体本能寺に何が
起こったのでしょうか。
 実は、本能寺の地下に煙硝蔵(火薬庫)があって、それが爆発したと考えられるので
す。何によって爆発したのかについては明日述べることにして、マカオから運び込まれ
た火薬の原料である硝石は、本能寺の地下に納められ、そこから目的地に運ばれていた
というのはどうやら事実なのです。この本能寺の煙硝蔵の存在については、最近発刊さ
れた津本陽氏の『本能寺の変』(講談社刊)でもふれられています。
 そうすると、本能寺の変とは一体何だったのでしょうか。本能寺はなぜ爆発をしたの
でしょうか。本能寺を取り囲んでいた軍隊はどこの軍隊だったのでしょうか。
 昨日ご紹介した立花京子氏によると、信長暗殺にイエズス会が深く関与していたので
はないかと述べています。              ・・・[本能寺の変/08]

23八切止夫/意外史.jpg
                

2008年01月24日

●朝廷は深く関与していた−−立花説(EJ第921号)

「信長を殺したのは誰か」――八切止夫氏のように「光秀は犯人にあらず」とする説
もありますが、本能寺の変のあとの光秀の行動を考えると、光秀が実行犯であることは
動かしようがない事実であると思います。
 しかし、その動機となると諸説が乱立しています。定説としては、「怨恨説」「野望
説」ですが、私が調べた限りでは、それらは一番あり得ない説であると思います。動機に関しては今までEJで述べてきたところでは、次の2つがあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       1.光秀/秀吉/家康3者共謀説
         実行犯/光秀 ・・・ 黒幕/秀吉/家康
       2.朝廷黒幕説
         実行犯/光秀 ・・・ 黒幕/正親町天皇、誠仁親王
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 殺人事件の犯人というものは、その動機が怨恨でない場合、その人が死んで一番トク
をする人物を疑えというのが常識です。結果論として見ると、信長が死んでトクをした
人物というと、やはり天下を取った秀吉ということになります。しかし、秀吉が天下を
取れたのは、信長死去のあとの秀吉の判断と努力、それに加えて彼の運の強さによると
ころが大きく、単に信長を殺せば天下が取れたわけではないのです。
 それなら、家康はどうかというと、彼の場合は怨恨なら分かりますが、あの時点で天
下取りを企てることは考えられなかったといえます。家康は、信長が死去したあとの戦
略において秀吉に大きく遅れをとっているからです。しかし、家康は秀吉に強い対抗識
を持ち、その後も執念を燃やして、時期は遅れたものの結果として天下を取るのです。
そういう意味で、本能寺の変と関ヶ原の戦いはつながっているといえます。
 このように考えていくと、光秀/秀吉/家康の3者共謀説は考えられないことになり
ます。それならば、2の朝廷黒幕説はどうでしょうか。既に述べたように、朝廷も当時
信長には相当の危機感を抱いており、信長がいなくなって一番ほっとしたのは朝廷では
ないかと思います。しかし、現在、ほとんどの歴史学者は、この朝廷黒幕説を否定して
います。
 『逆説の日本史』の著者の井沢元彦氏は、朝礼黒幕説は十分考えられるとしながらも
ある疑問が解決しない限り、その説には乗れないと述べています。
 そのある疑問とは、本能寺の変のあと、天正10年6月9日付で光秀が細川藤孝に出
したという書簡――細川家文書として有名――の内容に関するものです。光秀は藤孝に
一緒にやってくれと申し入れたのに、藤孝は髻を切って剃髪したということを聞き、秀
は非常に腹を立てたけれども、よく考えてみればもっともなことだと考え直し、重ねて
協力を要請したという内容です。
 井沢氏がいう疑問とは、その書簡で重ねて野心がないことを強調しているけれども、
もし、朝廷からの指示でやったものであれば、そのことを書くはずなのに書いていない
――それはおかしいというものです。確かに、朝廷からの何らかの勅があれば自らに野
心のないことの何よりもの証明になるし、逆賊の汚名も着せられることはないのです。
 これに対して、歴史学者の立花京子氏は、その細川家文書はニセではないかという大
胆な疑問を呈しています。立花氏はその細川文書について次の3つのことを指摘してい
ます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          1.花押が光秀本人のものではないこと
          2.光秀の字ではなく祐筆が書いている
          3.内容が弱々しく、光秀にそぐわない
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 立花氏は、細川藤孝が怪しいと考えているのです。光秀としては、藤孝の息子である
忠興のところに三女玉子が嫁に行っており藤孝が同意しないのであれば、信長を討つこ
となどできなかったのです。もし、藤孝が信長側に立っているならば、光秀は玉子を犠
牲にすることになるからです。したがって、藤孝は事前に光秀に何らか合意を与えてい
たかむしろ藤孝が光秀にクーデターを仕掛けたとも考えられる――としているのです。
 立花氏は自ら『光秀文書目録』を作っているほどの光秀研究家ですが、その目録を作
るさい、光秀の花押を120個ほど集め、そのかたちの変化でその年次比定ができる表
を作成しています。それによると、問題の細川家文書は?Z型になるのですが、花押の形
はそうであっても、他には絶対に見られない筆の太さがそこに現れていると指摘してい
ます。それに筆跡も光秀のものとは違うのです。光秀の自筆は、もっと流れるような筆
跡で、大変な達筆であるといっています。
 したがって、問題の細川家文書は、誰かが形を真似て作った偽物ということになりま
すが、立花氏によると、犯人は藤孝自身ではないかといっているのです。要するに、光
秀は藤孝に乗せられて事件を起こし、そのあとハシゴを外されたのではないか、と立花
氏は推理しているのです。
 もちろん藤孝のバックには朝廷がいて、天皇、親王、前久、兼見、晴豊たちは、信長
暗殺に深くかかわっていたと立花氏は分析しています。しかしそれを秀吉が知るところ
となり、以後秀吉に秘密を握られた朝廷は秀吉に何もいえなくなって、秀吉政権の成立
・全国制覇の事業達成を可能にさせることになる――これが立花京子氏の推論です。多
くの証拠を用意し、緻密に推論が積み上げられ、非常に説得力がある所説であると思い
ます。
 さて、本能寺の変の黒幕として、もうひとつ取り上げなければならない黒幕がいるの
です。それは、イエズス会です。立花氏はそもそも信長の全国制覇にイエズス会が深く
かかわっていたと述べています。イエズス会とは何でしょうか。彼らは何を目的として
日本にきたのでしょうか。             ・・・ [本能寺の変/09]
                        

24本能寺想像図.jpg

2008年01月25日

●≪黒衣の宰相≫天海僧正は光秀である(EJ第923号)

 有名な話ですが、比叡山に明智光秀が寄進したという石灯籠が現在も立っています。
もともと比叡山は光秀の領地だったところであり、寄進の石灯籠があっても不思議はな
いのですが、問題はそこに刻まれている日付なのです。
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         慶長二十年二月十七日 奉寄進願主光秀
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 慶長20年(1615年)2月というと、大坂夏の陣の開始直前であり、額面通りに
受け取れば、光秀はこの年まで生きていたことになります。この石灯籠は、大坂夏の陣
に向けて、明智一族の怨念を晴らすため、豊家滅亡を祈願して寄進されたものとされて
いるのです。
 といっても、本物の光秀が寄進した証拠はなく、別の光秀という人が寄進したのかも
知れません。しかし、光秀が山崎の戦いのあと、生き延びていたという状況証拠は山ほ
どあるのです。
 通説によれば、光秀は最後の砦となった勝龍寺城を夜陰と雨に紛れて抜け出し、大雨
の中を数人の家臣と一緒に近江坂本城に向かっていたのですが、山科の小栗栖にさしか
ったとき、中村長兵衛という土民の繰り出した竹槍にわき腹を刺されて深手を負いその
場で自害したと伝えられています。
 介錯をしたのは溝尾庄兵衛――光秀は自分の首は知恩院に葬るよう庄兵衛に命じたと
いいます。そして、進士作左衛門、比田帯刀という2人の家臣は殉死しています。とこ
ろが、溝尾庄兵衛は光秀の首を知恩院に持っていかず、鞍覆いに包んで近くの藪の溝の
中に隠して坂本に落ち延びたといわれているのです。
 しかし、これはデタラメなのです。殉死したといわれる進士作左衛門、比田帯刀は死
んでおらず、細川興秋に仕えていることが「細川家記」で明らかになっていますし、光
秀を竹槍で指したという中村長兵衛は、寛永年間に行われた調査では、実在しなかった
ことが明らかになっているからです。
 それでは光秀は、誰のところに身を寄せていたのでしょうか。相当の権力者でもない
限り、主君を討った逆臣光秀を匿うことはできなかったはずです。
 光秀を匿っていたとされる人物は徳川家康なのです。光秀は家康の宗教政策を一手に
担い、江戸の霊的防衛網を完成させた「天海僧正」に身を変えていたといわれているの
です。
 この天海なる人物は、「南光坊・智楽院」と称する天台宗の僧であり、号を「慈眼大
師」というのです。大師号は、平安時代の智証上人以来700年ぶりのことであるとい
うので、当時の仏教界では相当力のあった人物であったといってよいのです。これは比
叡山復興に尽力した功績によるものといわれます。
 実は一度EJでこの天海僧正を取り上げたことがあるのです。それは、1998年1
1月13日のEJ第21号です。当時、NHKの大河ドラマでは「徳川慶喜」をやって
おり、そのことに関連して取り上げたのです。
 天海僧正は「黒衣の宰相」といわれ、徳川の帷幕にあって権勢を振るったのです。天
海僧正は、江戸城の構築に当たって八門遁甲の秘法により、子孫繁栄の方位を使って建
築をしています。そのうえ、江戸城にとって最悪の凶方とされる艮位(東北)――つま
り鬼門の方角「上野」に東叡山寛永寺を建立して運気の破れを防ぎ、さらに念を入れて
江戸そのものの鬼門に当たる「日光」に東照宮を建立、次いで巽位(東南)の破れには
愛宕山神社を作り裏鬼門の坤位(西南)の方角には、遁甲玉埋めの法に基づき、城内の
某所に黄金の玉を埋めるなど万全を施しているのです。
 その結果はどうでしょう。あの明治維新という大革命のさいにも徳川家は命を全うし
て、維新後は公爵という人民最高の扱いを受けていますし、江戸城そのものも今もその
雄姿は何も変わっていないのです。天海僧正の霊的処置は効いていたのです。
 おそらく光秀は小栗栖を脱出して比叡山に逃れたのです。延暦寺では、憎き信長を討
ってくれた光秀を粗略には扱わなかったと思います。そして、この比叡山で横河飯室谷
長寿院に入り得度し、「是春」を名乗ったのです。そして、そこで、会津生まれの「隋
風」という名の光秀と同年輩の僧侶――本人は死亡――の存在を知り、是春はその隋風
になりすましたものと思われます。この隋風がやがて天海僧正になるのです。そのため
には、どこかで家康と会う必要があります。
 天正16年(1588年)に隋風は東下し、江戸崎不動院に入山します。その東下の
途中の駿府で家康に再会したと思われるのです。初対面であるにもかかわらず2人は、
「人払いをして旧知の仲のように二刻(4時間)もの長時間かけて話し合ったという記
録が残っているのです。
 家康がどうして天海を受け入れたかについてはいろいろな話がありますが、それを書
くのは別の機会にして、光秀が天海僧正であったという証拠をもう少し述べます。
 まず、天海が差配して作った日光東照宮には数多く明智の桔梗紋があり、日光明智平
の地名、それに光秀の位牌のある京都慈眼寺と天海の号「慈眼」の一致など枚挙にいと
まはないのです。
 それに、天海が光秀だとすると、江戸幕府初期の春日局の謎も解けるのです。なぜな
ら、春日局(お福)は、光秀の重臣斉藤利三の娘なのです。家康が逆臣の子のお福にな
ぜあれほどの権限を持たせたか――天海が光秀ならそれはありうるでしょう。
 それに三代将軍家光は、本当はお江の子ではなく、家康とお福の子という説がありま
す。それで家康は天海の勧めによって、家康の「家」と光秀の「光」をつけたといわれ
ているのです。
 そうすると、本能寺の変は明らかに関が原の戦いにつながってます。天海僧正は関が
原の戦いでは鎧をつけて従軍してきているのですが、この話は改めて取り上げることに
します。
 本能寺の変について、いろいろな角度から分析してみました。解けない謎は多いです
が、今回で終わりです。来週からは、別のテーマを取り上げます。
                         ・・・ [本能寺の変/10]

25天海僧正.jpg

2008年01月28日

●軍歌は日本精神史の結晶である(EJ第825号)

 慶応義塾大学の塾員を原則として会員とするBRBという会員制クラブが銀座8丁
目にあります。BRBというのは「ブルー・レッド・アンド・ブルー」のことであり、
慶應義塾大学の校旗/三色旗の色を意味しています。
 このクラブの売りは午後7時から30分ごとに演奏されるピアノの演奏にあります。
曲は季節にふさわしい曲や映画音楽などのごく一般的なものですが、ステージの最後の
曲はピアノで慶応義塾大学の応援歌が必ず演奏されるのです。
 なぜBRBのことを書いたかというと、学校の歌に関連して国歌と軍歌について書こ
うと思うからです。映画脚本家の林秀彦氏の著書に、『日本人と軍歌/海ゆかば山ゆか
ば』−−PHP研究所刊というのがあり、なかなか面白いからです。
 軍歌というタイトルをつけた本を書いているといっても林氏は国粋主義者でも軍国主
義者でもありません。彼は、テレビドラマや映画の優れた脚本家でありその作品には、
「ただいま11人」「若者たち」「七人の刑事」「鳩子の海」などの名作があるので
す。それに林氏は、1988年からオーストラリアに移住しており、外国の地から日本
を見ているのです。この本を読んでいくつかの発見をしました。そのひとつは、米国に
は、「軍歌」というジャンルの歌が存在しないことです。それどころか、世界中に日
本のような軍歌は存在しないのです。林氏は終戦直後は、「タキシード・ジャンクシ
ョン」が米国の軍歌だと思っていたようです。
 林氏は映画『グレンミラー物語』に関して、次のように書いています。
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      『映画の一場面にもヨーロッパ戦線に慰問に出かけたミラー楽
      団が、大きな飛行機格納庫の中でGIに囲まれ、「チャタヌガ
      ・チューチュー」を演奏する場面がある。
      パードンミーボーイ、イズザッツァチャタヌガ・チューチュー
      と女性歌手が歌うと、男性コーラスが
      イェース、イェース、トラックトゥエンティナイン
      と歌い返す。驚異だった。当時ラジオで聞き、こんな軍歌を歌
      いながら進軍されては、わが皇軍が負けるはずだと肝に銘ずる
      ように納得した』。
        (林 秀彦著、『日本人と軍歌/海ゆかば山ゆかば』より)
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 あの映画で、軍艦の中で米軍の兵士がジャズを聞きながら攻撃するシーンがあるので
すが、昔の日本人が見たら「これでは勝てない」と思うはずです。
 「軍歌」というジャンルが日本特有のものであるとすると、日本人がいかにも戦争好
きの国民のようにとられ勝ちですが、それは大きな間違いというものです。
 工学博士の新津靖氏の書物によると、日本以外の世界では、ユダヤ人がバレスチナに
移住した紀元前1880年から、米国のリンカーン大統領が暗殺された1865年の約
3700年間の間に10000回の戦争が起きているのです。その間8000回の平和
条約が各紛争当事国同士で結ばれ、その条約は平均2年で破られています。
 これに対して日本は、曽我・物部氏の争いから西郷隆盛の西南の役まで、50回しか
“戦い”を経験していないのです。日本はそれまで戦争ということばを使っていないの
です。日本における戦争とは、ムラとムラの間の「諍い」からヤクザの「出入り」、元
寇の役といわれたりする「役」どまりです。あとは「合戦」であり「乱」なのです。ま
して、日本には宗教戦争などは経験したことがないのです。
 戦争と呼ばれ出してからは、世界の帝国主義に巻き込まれた明治以来、日清・日露・
日中を経て大東亜戦争の終結にいたるまでわずか4回なのです。軍歌は、このような戦
争の異常に少ない日本という国から生まれたものであることをよく認識する必要があり
ます。
 林氏によると、軍歌の起源は「久米歌」であるとのことです。「久米歌」とは、神武
天皇がながすねひこを征伐に行くとき、大和朝廷の親衛隊である「久米部」を連れてい
き、彼らの戦意を鼓舞して歌った歌であり、その歌に合わせて舞った舞が「久米舞」な
のです。この「久米歌」は、現在でも雅楽歌曲として宮内庁に受け継がれています。実
はこの久米歌の中に「撃ちてし止まむ」や「神風」が出てくるのです。
 日本民族は古代から歌が好きな民族であり、雅楽はすでに1000年以上前から日本
に存在しているし、民謡もわらべ歌も起源が探れないほど昔からあるのです。日本人は
嬉しいにつけ、悲しいにつけ、また、恋をし、恋にやぶれ、人を送り、人を迎える――
そういうときに歌を歌い続けてきたのです。このような国はどこを探しても日本しかな
かったのです。
 歌合戦、歌合せというのもあります。林氏の表現を借りると、「古代、歌は戦いであ
り、戦いは歌である」といわれていますが軍歌もそういう環境の中から自然に生まれて
きたものなのです。
 林氏は、軍歌は消し去ることのできない、質文明としての武士道的価値観を反映した
「日本精神史の結晶」であり、世界に類を見ないものであるといっています。 
                        ・・・ [日本人と軍歌/01]

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2008年01月29日

●軍歌が生み出された背景を探る(EJ第826号)

 『海ゆかば山ゆかば』の著者、林秀彦氏は現在オーストラリアに移住して、海外から
日本を見ているのですが、最近の祖国日本の在りように強い疑問を持っています。
 林氏によると、2001年11月8日のCNNのインターネット画面には、翻る旭日
旗をバックに凛々しく挙手の礼をとっている若い日本の“軍人”の写真が載っており、
「第二次世界大戦後日本のトゥループス(軍隊)ははじめて日本の領域から離れる」と
いう英文のコメントが出ていたそうです。
 記事を読むと、日本の軍隊がどっと押し寄せるという語感があり、きっとタリバン側
もそう受け取ったのではないかと林氏は、いっています。それなのに、日本ではこの際
に当たって、“武器使用基準”についてもめていたのです。何と現実離れをした発想な
のでしょうか。それは、「戦争」というものが何もわかっていない日本の無残な姿であ
るといえます。
 林氏が住んでいるオーストラリアのテレビニュースの映像でも自衛隊の戦車訓練風
景の紹介を含め、日本が自分たちの同盟国側の一員として、戦後初めて武力参加すると
決め込んでいるような報道ぶりであったと林氏はいっています。
 林氏は、日本人は伝統的にデモクラシーならぬ「ブラカシー」をDNAとして持って
いるといいます。「ブラカシー」は古い日本語の「ぶらかし」であり、その意味は次の
通りです。
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      「態度をきめかね、曖昧に問題処理を一寸延ばしの先送りに
      する姿勢」――→ ぶらかし
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 このブラカシーは、かのペリー艦隊を目の当たりにしても、右往左往した幕府の対応
を見てもいえることです。「テロ対策特別措置法」に基づく“出兵”などは、ブラカシ
ー法案とそれに基づく行動そのものである――と林氏はいっています。
 これは、米国の日本占領政策から続く左翼的日本国家改造計画の実行部隊である日教
組のメンバーが長年にわたってじわじわと刷り込んでいった日本抹殺プログラムが遂
に国民の骨の髄まで浸透した結果ではないか――と林氏は激白しています。
 林氏は、日本の崩壊は日本が“戦争”ということばをはじめて使った明治以来の4回
の戦争からはじまっているといいます。明治以来の日本の4回の戦争は、アジアの侵
略を実行する欧米の列強を跳ね除けようとしてはじめた、やむにやまれぬ戦争であった
のですが、そもそも量を争う戦争に質で対抗しようとして日本は敗れたといえます。
 絶対的な量としての軍事力を向こうに回して、大和魂とか武士道とか一億一心とかの
質で対抗しようとしたのです。軍歌はそういう中で生み出されたものですが、林氏は、
軍歌は日本の精神的基盤から生まれた貴重な芸術であるといっています。そして、日
本の芸術について次のようにいっています。
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      『芸術は理屈ではない。情のバイブレーションである。特に日
      本で生まれる芸術は、日本人しか持ちえないと私が確信してい
      る“情波”の一つである。音楽にしても絵画にしても建築にし
      ても、いまは同じ芸術という言葉にくくられても、日本のそれ
      は、他に類型を見ない独特の形と内容を持っている。それは、
      「量」の価値観を排する「質」の追求から生まれている。量の
      美と質の美の違いである』。(林 秀彦著、『海ゆかば山ゆか
      ば』より。PHP研究所刊)
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 音楽を例にとると、確かに日本本来の音楽は、西洋のオーケストラによる圧倒的な量
の芸術ではなく