INTEC JAPAN/BLOG

このブログは、異文化研修の教育機関(株)インテック・ジャパンの情報発信用です。(株)イー・メディアとの提携により、同社のドキュメント・レポート「Electronic Journal」をウィークデイの毎日お届けします。
「Electronic Journal」は様々な情報を400字詰原稿用紙7枚にまとめて配信する日刊メールマガジンです。

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● 2008年02月 記事 ●

2008年02月01日

●応援歌づくりの名人/古関裕而(EJ第829号)

 作曲家/古関裕而(敬称略)――といってもピンとこないかも知れません。とくに若
い人はほとんど知らないでしょう。古関裕而の作った曲はあまりにもたくさんあります
が、次の3曲なら若い人でも知っているでしょう。
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       1.「巨人軍の歌/闘魂こめて」
       2.「阪神タイガースの歌/六甲おろし」
       3.「全国高等学校野球大会の歌/栄冠は君に輝く」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このような応援歌を作らせたら、古関裕而の右に出る人はいないと思います。巨人と
阪神の、しかもプロ野球の応援歌としては、最も有名な応援歌を同じ作曲家が作ってい
るなんてとても珍しいことだと思います。
 それだけではないのです。古関裕而は早稲田大学と慶応義塾大学の両方の応援歌を作
っているのです。昨日のEJの最後の部分で、古関裕而の葬儀に早稲田と慶応の応援団
が駆けつけ、両校の校旗が掲げられる中で出棺が行われたと書きましたが、彼が両校の
応援歌を作曲しているからなのです。
 最初に作ったのは、早稲田大学の応援歌「紺碧の空」です。昭和6年のことです。こ
の歌は早慶戦のときに神宮球場のスタンドでよく聞いたものですが、慶応側の人間もこ
の曲がいい曲であることを認めていて、一緒に歌っている者もいるぐらいです。
 この歌は、古関裕而の同郷の歌手伊藤久男のいとこが早稲田大学の応援団をやってい
た関係で、依頼されたものといわれています。作詞は学生から募集して住治男という人
の作品が選ばれており、それに曲をつけたのです。
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            紺碧の空 仰ぐ日輪
            光輝あまねき 伝統のもと
            すぐりし精鋭 闘志は燃えて
            理想の王座を 占むる者われ等
            早稲田 早稲田 
            覇者 覇者 早稲田
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「紺碧の空」ができた昭和6年当時慶応義塾も新しい応援歌を作って対抗しました。
その歌は、橋本国彦(故人)の作曲で、「ブルー・レッド・アンド・ブルー」といった
のです。三色旗は慶応義塾の校旗です。しかし、この春の早慶戦は「紺碧の空」を歌っ
た早稲田が勝利して「ブルー」は消えたのです。
 戦後になって、中断していた東京六大学リーグ戦が復活した昭和21年のことです。
早稲田大学の「紺碧の空」があまりにもいい曲なので、慶応義塾大学の応援団が古関家
を訪れて「ぜひ応援歌を作って欲しい」と頼み込んだのです。
 古関裕而は早稲田大学の了解を取ることを条件に慶応義塾大学の応援歌を作曲してく
れたのです。曲が先にできて、あとから慶応出身の藤浦洸(故人)が歌詞をハメこみ、
完成したのが「我ぞ覇者」なのです。
 この歌は4番まであり、4番は早慶戦用の応援歌になっています。現在では4番だけ
が独立して歌われるようになっています。
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            よくぞ来たれり 好敵早稲田
            天日(てんじつ)のもとにぞ 戦かわん
            精鋭われに有り 力ぞあふれたり
            おお 打てよ砕け
            早稲田を倒せ
            慶応 慶応 慶応義塾
            叫べよ高く 覇者の名を
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ついでに「六甲おろし/阪神タイガースの歌」のことも書いておきましよう。この歌
は昭和11年に阪神球団から依頼されて作曲され、中野忠晴という人の歌でレコードが
作られていますが、これは一般発売ではなかったのです。このときのタイトルは「大阪
タイガースの歌」で、B面はやはり古関裕而作曲の「大阪タイガース行進曲」が収録さ
れていたのです。
 「阪神タイガースの歌」は、阪神ファンの間にじわじわと浸透し、やがて「六甲おろ
し」と呼ばれるようになったのです。1番の歌詞の最初が「六甲おろしに 颯爽と」で
はじまるところからそう呼ばれるようになったのです。
 東京にいかに巨人ファンが多くてもカラオケで「闘魂こめて」が歌われることはあり
ませんが、関西ではカラオケで「六甲おろし」が歌われることはさほど珍しいことでは
ないのです。そのくらいこの歌は関西人に浸透しているのです。
 ところで、昨日のEJでご紹介した歌手の藍川由美さん―――この人は声楽の分野で
わが国初の学術博士号を取得した人なのですが、古関裕而の研究家としても有名です。
それに、藍川さんには「古関裕而歌曲集」というCDもあります。
 藍川さんはその著書『これでいいのか、にっぽんのうた』(文春新書)の中で、古関
裕而がこれほどの名曲をたくさん作曲しているのに、意外に日本の音楽界の中で評価が
高くないことに疑問に感じ、調べはじめたと書いています。
 古関裕而は、昭和4年に行われた英国の国際作曲コンクールで堂々第2位を獲得して
いるという事実があるのですが、このことは日本の音楽史のどこにも記載はないとそう
です。
 しかし、これは事実であり、これによって古関は、日本ではじめて国際的に認められ
たクラシックの作曲家ということになるのです。日本の音楽ジャーナリズムは、東京音
楽大学出身者以外は音楽家として認めないという傾向があったのです。
                         ・・・ [軍歌と日本人/05]

藍川由美

2008年02月04日

●情感あふれる古関裕而の軍歌(EJ第830号)

 藍川由美氏の指摘によると昭和のヒトケタの時代には、中山晋平の「波浮の港」「東
京行進曲」「東京音頭」「天龍下れば」などや古賀政男の「影を慕ひて」「酒は涙か嘆
息か」「丘を越えて」が一世を風靡し、昭和フタケタに入ると古関裕而や服部良一が登
場するのです。
 ところで中山晋平といえば、東京音楽学校を卒業したわが国のクラシック音楽の総本
山とされている人ですが、古関裕而は、福島商業学校卒で正式に音楽教育を受けておら
ず、独学で作曲を勉強したのです。
 その古関裕而が、福島商業学校の5年生の夏から翌年の5月にかけて作曲したオーケ
ストラの作品が、昭和4年の英国国際作曲コンクールで第2位に輝いたというのですか
ら、それは日本の音楽史上の快挙というべきものです。
 しかし、藍川由美氏の指摘によると、その快挙が事実であるにもかかわらず、堀内敬
三の『音楽50年史』、中島健蔵の『証言・現代音楽の歩み』には一切記載されていな
いのです。
 古関裕而は日本の音楽界にまったく後ろ盾がなく、独学でもあるので、東京音楽学校
のメンツを重んじようとしたのか、それとも国内の著名音楽家に遠慮したのか、この快
挙が報道されることはなかったのです。日本の音楽界は、古関のような在野の音楽家を
冷淡に扱う傾向が強かったことを藍川氏は指摘しています。
 古関裕而のオーケストラの作品がいかに素晴らしいかは、今でもNHKがスポーツ放
送のテーマ曲にしている「スポーツ・ショウ行進曲」や、昭和39年、55歳のときに
作曲した東京五輪用の「オリンピック・マーチ」を聴けば明らかです。
 とくに「オリンピック・マーチ」は、古関裕而の天分がいかんなく発揮された名曲で
あり、世界中から、誰の作曲かという問い合わせがNHKに相次いだといいます。そし
て、いつしか古関は、「日本のスーザ」といわれるようになったのです。それなのに、
いまだに古関裕而の業績は高く評価されていないのです。
 軍歌の話からかなり脱線してきているようですが、国民歌謡や時局歌謡(軍歌)は、
そのまま校歌や応援歌につながってくる歌であり、その根は同じものというべきです。
そういう意味で古関裕而も数多くの軍歌を作っているのです。
 その中でもとくに有名であり、名作といわれるものをいくつか上げ、最初の歌い出し
を書いておきます。
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       1.露営の歌 ・・・・・・ 勝ってくるぞと勇ましく
       2.暁に祈る ・・・・・・ ああ あの顔で あの声で
       3.若鷲の歌 ・・・・・・ 若い 血潮の 予科練の
       4.ラバウル海軍航空隊 ・ 銀翼つらねて 南の前線
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 おそらく現在60歳以上の人であれば、最初の歌い出しを見れば自然にメロディが出
てくるはずです。それほど何回も聞いたし聞かされた歌なのです。しかし、それ以上に
これらの歌が質的に良かったからこそ、記憶に残ったのです。
 この中でとくに印象的なのは「露営の歌」です。この歌は、昭和12年7月に支那事
変がはじまったときに、東京日日・大阪毎日新聞社(現在の毎日新聞社)が時局歌を募
集したところ、次点になった歌詞に基づいて作られたのです。ちなみに一等当選歌は、
「進軍の歌」であり、これは陸軍戸山学校軍楽隊が曲をつけ、次点は古関裕而に作曲が
委嘱されたのです。
 そのとき古関裕而は満州を旅行中だったのですが、電報で急遽呼び戻されたのです。
古関は下関で買った新聞で「露営の歌」の歌詞を知り、下関から東京に戻る汽車の中で
曲を作り、東京に着いたときにはできていたという逸話が残っているのです。
 このときの選者のひとりに北原白秋がいたのですが、北原はこの「露営の歌」を評し
て、「うまく曲がつけば第二の『戦友』になるだろう」と評しているのを知り、古関は
「それなら・・」と車中にもかかわらず曲をつけたといっています。
 第1位の「進軍の歌」は、いかにも軍歌らしく武張った印象であるのに対して、「露
営の歌」は戦陣に在って生きていくことの実感と感慨とをにじませたヒューマンな、も
ののあわれに通じる感傷性がみなぎっている良い歌です。
 「露営の歌」は5番までありますが、3番は少しトーンを落として歌うよう古関は指
定しています。3番の歌詞を紹介します。
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         弾丸(たま)もタンクも 銃剣も
         暫し露営の草枕
         夢に出てきた 父上に
         死んで還れと 励まされ
         さめて睨むは 敵の空
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 一般的に軍歌というと、行進曲風のいかにも士気を鼓舞する押しつけ的な曲想が多い
ものですが、古関の曲の場合、行進曲風でありながら、そこに豊かな情感というものが
感じられるのです。それが何度歌っても飽きがこない音楽となっているのです。「露営
の歌」もそういう歌のひとつです。
 また、同じ行進曲でも単に勇ましいものから、希望が湧いてくるものまでいろいろあ
りますが、古関の行進曲風の曲には弾むようなリズムがあって、しかも情感にあふれ、
それが素直にやる気を起こさせる原動力になっているものが多いのです。
 その典型的な歌に、戦後菊田一夫と組んで作ったドラマ「鐘の鳴る丘」の主題歌「と
んがり帽子」があります。これは、もともと戦災孤児を励まそうと、米国の占領軍が企
画して菊田一夫にドラマの制作を依頼してできたものなのです。「緑の丘の 赤い屋根 とんがり帽子の時計台・・・」ではじまる歌です。
 このドラマの主題歌がどんなに当時の子どもたちの力になったか、印象に残ったか、
現在50歳以上の人ならきっとわかると思います。  ・・・ [軍歌と日本人/06]

4古関裕而.jpg

2008年02月05日

●日本の歌の両端に古関と古賀がいる(EJ第831号)

 藍川由美氏は、「日本の歌」の両極端に位置する作曲家として、古関裕而と古賀政男
をあげており、両者の決定的な違いは音階にあることを指摘しています。
 古関裕而の作風は、10代の頃からリムスキーコルサコフやストラビンスキー、シェ
ーンベルクといった作曲家の作品の影響を強く受けています。古関の音楽は、1オクタ
ーブを12分割した12平均律によって構築され、自在な転調をその特色としておりそ
ういう意味でスタンダードであるといえます。
 これに対して古賀政男の音楽は、日本独特の、あるいはアジアの伝統的な歌唱法をベ
ースとしています。これは、厳密にいうと古賀政男の音楽は12平均律で調律された楽
器では出せない音で構成されているといってよいと思います。
 藍川氏の本には、12平均律の音階の振動数と、英国人エリスが明治初期に測定した
日本の音階の振動数を比較する表が載っていますが、そこには微妙な差があるのです。
これは何を意味するのかというと、12平均律で調律されたピアノで日本の音階を弾く
と、日本人の耳には微妙に狂って聞こえたり、心地よくない響きになったりすることが
あるということです。
 そこで、古賀は、自分で自由に調弦できるギターやマンドリンなどの弦楽器を使って
作曲し、ピアノでは出せない音を求めたのではないかといわれています。古賀の求めた
日本独特の音は三味線などの日本特有の楽器の音にも通じるのです。
 日本の流行歌の世界では、作曲家自身が歌手に直接節回しを歌いながら伝授するのが
通例となっています。そのため、同じ曲でも歌手によって歌い方はかなり違ってくるこ
とになります。
 とくに古賀の作品の場合、その自筆譜には細かい節回しが16分音符や3連符などを
用いて書き込まれており、古賀はそれを使って歌手に合わせて歌い方を指導したといわ
れています。したがって、流行歌の場合、どこまでが楽譜に書かれていることで、どこ
までが歌手の個性なのかわからないまでに歌と歌手が一体化していくのです。
 これに対して、「雨のオランダ坂」や「三日月娘」、「君の名は」や「黒百合の歌」
などの流行歌も多く手がけている古関裕而の方は、あくまで12平均律にのっとって音
楽を作り、それをきちんと音符に書き、歌手がスコアの通りに歌わないと非常に厳しか
ったそうです。それに加えて古関は、オーケストラ・スコアやパート譜までていねいに
書き、その通り演奏するよう求めたといわれています。
 実は、古関がスコアを重視したのは、それなりの理由があるのです。流行歌の世界で
は、作曲家が作るのは詞に合わせたメロディだけであり、それを基にアレンジャーが曲
として仕上げるというスタイルが定着しているそうです。したがって、楽譜が書けない
作曲家も実際には存在するのです。
 前にも述べたように、古関は流行歌作曲家として一段低く見られていたフシがあり、
せっかく古関のオーケストラのスコアがついていても、曲の一部がカットされたり、オ
ーケストラのスコア全部を他の編曲者がやるという、普通では考えられないような失礼
なことも行われていたようなのです。
 これに関して、藍川由美氏は自著において次のように書いているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      『しかし、そういった当時の演奏家の限界を知りながらも、古
      関は理想を曲げることなく自らの書法を貫いた。十代の頃から
      常に「世界」を意識していた古関は、きちんとした楽譜さえ残
      しておけば、いつの日か必ず正しく演奏される日が来ることを
      信じられたのであろう。時代や慣習に流されない立派な態度で
      ある。古関の自筆譜に向き合うことで、こうした生きざまに触
      れ、私は流行歌は下品で、芸術歌曲は高級というような思い上
      がった考え方がいかに空虚なものであるか知った』。(藍川由美
      著、『これでいいのか、にっぽんのうた』/文春新書)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 軍歌についてはもう少し続けますが、古関裕而については今回で終了するので、最後
に興味ある情報を提供します。
 よくデパートやレストランなどで、最後に「蛍の光」が演奏されますね。これはただ
の「蛍の光」の演奏ではなくある特定の楽団のものを使っているケースが多いのです。
 それはユージン・コスマン楽団の演奏による「別れのワルツ」なのです。この楽団の
演奏は、哀愁切々としており、2番はヴァイオリン、3番はかなり凝ったアレンジをし
ています。これを聞くと例のセリフ「本日はご来店いただきまして、誠にありがとうご
ざいました。まもなく閉店時間でございます。またのご来店を…」が自然に口をついて
出るほどです。
 実はこのユージン・コスマン楽団――これは古関裕而をもじった仮の名前なのです。
スコットランド民謡「蛍の光」は昭和24年に公開された米MGM映画『哀愁』に使わ
れたのですが、古関はこれをベースに独特のアレンジを加え、コロンビアの洋楽盤とし
て「別れのワルツ」というタイトルで発売したところ、これがロング・セラーとなって
今も使われているのです。
 2番に流れる哀愁切々たるヴァイオリンは、一説によると厳本真理の演奏といわれて
います。この盤は1956年に廃盤になっているのですが、その後何度も再生盤が作ら
れて現在にいたっているのです。
 私は、ユージン・コスマン楽団の原盤とその再録盤、それから13年前の最新再現盤
(コロンビア・シンフォネット演奏)の3つを持っています。原盤は1953年の録音
ですから、さすがに音は最悪ですが、コロンビア・シンフォネットの再現盤の音は良好
で、古関裕而の編曲の妙を興味深く聴くことができます。
 古関裕而の曲は本人執筆の完璧なスコアが残っているので、再生するのはきわめてラ
クなのです。                   ・・・ [軍歌と日本人/07]
                

2008年02月06日

●昭和までの日本はパトス・オンリーの国(EJ第832号)

 「軍歌」の話をそろそろしめくくる必要があります。そこで、少し難しいテーマなの
ですが、林秀彦氏の「質の文明」と「量の文明」について掘り下げてみましょう。
 林氏は、2001年9月11日の飛行機テロによるニューヨーク世界貿易センタービ
ルの崩壊の映像に現在の日本の姿を見たといっています。自著『海ゆかば山ゆかば』の
中で林氏は、そのことを次のように表現しています。
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      『露出し、そそり立つ鉄骨の残骸は現実離れした悪夢の世界で
      あり――即ち日本の姿であり、舞い上がる砂塵は死臭そのもの
      を連想させ――即ち日本の姿だった』。(林秀彦著、『海ゆか
      ば山ゆかば』より。PHP研究所刊)
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 なぜ、林氏は日本ではないよその都市のビルの崩壊の姿に現在の日本の姿を見たので
しょうか。
 それは、林氏の本を熟読することによって、よく理解することができます。それは、
日本という国家国民の精神的な面の崩壊と、貿易センタービルの崩壊が二重写しになっ
た結果であると思われるのです。日本はまさにそんな状態にあるのです。
 とにかく現在の日本は国家という態をなしていないといわざるを得ないと思います。
例えば、米国では、国旗である星条旗をデザインしたTシャツを着たり、星条旗をデザ
インしたバッグを持って歩いていても誰もおかしいとは思いませんが、日本で日の丸入
りのTシャツを着たり、日の丸をペインティングした車に乗ったりしたら、完全に右翼
であると思われてしまうでしょう。
 これは大変異常なことであり、林氏のいうように、日本という国家が精神的に崩壊し
てしまっている証(あかし)といっても過言ではないと思います。何かが壊れてしまっ
ているのです。
 ところで、「愛国心」というものは、どのようなときに心に芽生え、自覚されるもの
だと思いますか。
 国家国民という意識は、自分の国が他国によって侵略されたりされようとしたときに
自然に自覚されるものといわれます。国家国民という意識が芽生えれば、そこに自然に
愛国心というものが付随して生まれてくるのです。
 しかし、欧米のように、隣接する他国との間で侵略が頻繁に繰り返されている国では
愛国心は自発的に生まれますが、日本のようにほとんど他国との戦争を経験していない
国では、容易なことで愛国心など生まれてはこないのです。まして、現在の日本は長い
間にわたって平和な時代が続いているので、完全に平和ボケしており、愛国心は死語に
なりつつあります。
 そういう意味において、明治政府がはじめて国家というものをクリエートしたとき、
一番困ったのはそもそも国家とは何であるかがはっきりしなかったことです。
 なぜなら、当時国家を支える精神的バックボーンであるとか、国家を組み立てるシス
テムというものが何も分からず、完全に手探りの状態であったからです。
 人間の認識や行動のしかたは、程度の差はあっても、ロゴス的かパトス的かのいずれ
かに分類されます。ロゴスとパトスの違いは次の通りです。
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         ロゴス ・・・・ 理性的・科学的・論理的
         パトス ・・・・ 情念的・感覚的・身体的
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 欧米の文明とは「ロゴスの文明」です。明治時代には、デモクラシーとか人権という
ロゴスの根本は何も理解されていなかったのです。こういうロゴス文明をいちいち翻訳
して啓蒙していたのではとても間に合わない――明治政府はそう考えたのです。
 それに今でもそうですが、当時の日本はロゴスにはきわめて弱い体質だったのです。
そこで日本は徹底的にパトス――つまり、情操面を強調していくしかなかったのです。
それが他の国では見られない「質の文明」を強調する結果となったのです。
 実は、かつて「万葉集」ではそれが行われているのです。もともと日本人は歌心を持
っている国民であり、愛国心が自然に歌に結びついたと思うのです。
 林氏によると、「万葉集」は日本のフォークソングのアンソロジーであるというので
す。なぜなら、「万葉集」のいたるところで大和の国が愛でられており、愛国心が徹底
的に歌われているからです。それに「万葉集」のどの歌も高度の芸術性を持っており、
それが庶民によって歌い継がれている点もフォークソング的であるということができ
ます。
 明治政府のやったことは、「万葉集」の歌の精神を洋楽で歌ったことです。林氏はそ
れが軍歌であり、それは必ずしも戦争を意識した歌ばかりではなく、一種の国民歌――
フォークソングといってもいい――として全国民に歌われたのです。
 いくつか例をあげてみましょう。
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       ≪朝日に匂う桜花≫
       朝日に匂う桜花 春や霞める大八州 紅葉色映え菊薫る
       秋空高く富士の山 昔ながらの御柱と 立ててぞ仰ぐ神の国

       ≪愛国行進曲≫
       見よ東海の空あけて 旭日高く輝けば 天地の正気溌剌と
       希望は踊る大八州(おおやしま)
       おお晴朗の朝雲に 聳ゆる富士の姿こそ
       金おう無欠揺ぎなき わが日本の誇りなれ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 とくに愛国行進曲――現在60歳を越える年齢の人であれば、歌詞を見るだけで、自
然にメロディが口をついて出てくるはずです。こういうパトスが当時徹底的に国策とし
て使われたのです。これは、欧米の「量の文明」に「質の文明」で対抗したことを意味
しているのです。                 ・・・[軍歌と日本人/08]

2008年02月07日

●ホームソングとして歌われた軍歌(EJ第833号)

 かつての日本の歌には、学校で歌う「唱歌」と子供向けの「童謡」、加えて戦前前後
を通してNHKがその普及に努めた「国民歌謡」と「ラジオ歌謡」、そして戦時歌謡と
しての「軍歌」と学校の「校歌」や「応援歌」、そして大衆歌としての「流行歌」があ
ります。
 そういう歌の分類はあるにせよ、当時の歌は家族の共有財産のようなものであったこ
とは確かなのです。どの歌も家族全員で歌えたからです。そういう意味で当時は軍歌も
含めて一種のホームソングになっていたということができます。
 現在のように、息子や娘だけが知っていて、親にはさっぱりわからないロックやニュ
ーミュージックの類いはなかったのです。逆に、それだけ歌う歌が少なかったといえま
す。そのため、唱歌も国民歌謡も軍歌も、あらゆる年齢層の人が、ホームソングとして
歌ったのです。
 ちなみに「戦時歌謡」と「軍歌」は分けて考えるべきかも知れません。というのは、
日本が戦争に突入する前後のいわゆる「軍歌」は、軍部から作ることと歌うことへのか
なりの強制があった国策としての歌とそうでない歌があり、後者の強制のなかった歌は
「軍歌」ではなく「戦時歌謡」と呼ぶべきであるからです。
 とくに古関裕而の「露営の歌」(勝って来るぞと勇ましく)は大衆の心から生まれた
歌であり、軍の命令や強制は一切なかったからです。したがって、これは「戦時歌謡」
というべきです。
 古関は、音楽の形式としては、軍楽隊が演奏するのに相応しいマーチ形式をとりなが
ら、その内容は死出の旅に向かう人々の鎮魂歌として作曲しているのです。軍部は当時
歌詞にはうるさかったものの、音楽に関してはあまり注文をつけなかったそうです。
 もうひとつ「軍歌」のジャンルに入っているものの、音楽も歌詞も死出の旅の鎮魂歌
といえる歌に「戦友」があります。これは真下飛泉の長い歌詞に三善和気が作曲した名
曲中の名曲であり、「露営の歌」と並んで戦時歌謡の名曲といえます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        ここはお国を何百里 離れて遠き満州の
        赤い夕日に照らされて 友は野末の石の下
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この歌はよく歌われる部分だけでも14番まであり、これは歌というより、一編の物
語といえると思います。当時は娯楽といえば、映画かラジオで歌われる歌しかなく、歌
にドラマ性を持たせる試みが行われていたといえます。
 この歌を使っての物語性というか、映像化を意識したと思われる歌に「空の勇士」と
いうのがあります。これは、林秀彦氏が、あのフランク・シナトラに歌わせたかっとい
っているほど、好きな歌であると告白しています。「空の勇士」の作詞は大槻一郎、蔵
野今春の作曲です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        恩賜の煙草戴いて 明日は死ぬると決めた夜は
        曠野(こうや)の風もなまぐさく ぐっと睨んだ敵空に
        星が瞬く 二つ三つ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この歌はこういうように始まるのです。まるでドラマのプロローグそのものといえま
す。歌詞の「明日は死ぬると決めた夜は」の部分は軍部からクレームがついて実際に歌
われたのは「明日は死ぬぞと決めた夜は」になったそうですが、これは詩としては、改
悪というべきです。
 ところで、余談ですが、「恩賜の煙草」というのがついこの間まであったのをご存知
でしょうか。この煙草は、天皇陛下から頂する煙草で、吸い口の近くに金色で菊のご紋
章が入っているのです。これが勲章などと一緒に下賜されていたというのです。美智子
皇后は、たばこは身体によくないとして、長い間かけて恩賜の煙草をやっと廃止して、
お菓子を今までの1個から2個に増やしたということが新聞に出ていました。
 さて、「空の勇士」の2番はこうなります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        すわこそ征けとの命一下 さっと羽ばたく荒鷲に
        何をこしゃくな群雀(むらすずめ)、腕前見よと体当たり
        敵が火を噴く堕ちてゆく
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 林氏は「一下」という文字がワープロで変換できず、すでに日本語として死語になっ
ていると嘆いています。林氏はさらに「悲壮」(これは変換できる)という言葉も死語に
なっていると指摘しています。
 「悲壮」を『広辞苑』で引くと「悲しい結果が予想されるにもかかわらず、雄々しい
意気込みのあること」と出ていますが、林氏はもはや日本人はそんな意気込みを二度と
持つことはあるまいといっています。これは私も同感です。
 3番をご紹介しましょう。まるで、そういう光景が目に浮かんでくるようです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        機首を回(かえ)した雲の上 いまの獲物を見てくれと
        地上部隊に手を振れば どっと揚がった勝どきの
        なかの担架が目に痛い
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 紙面の関係上4番を省略して5番をご紹介します。これは定番のしめくくりです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        世界戦史に燦然と 輝く陸の荒鷲へ
        今日も打ち振る日章旗 無敵の翼 とこしえに
        守る亜細亜に栄えあれ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 われわれは何かおぞましいものを見るように当時の歌を見てはいけないと思います。
若い人も軍歌に何かを感じていただければ幸いです。 ・・・ [軍歌と日本人/09]

2008年02月08日

●感動の根源には何があるか(EJ第1294号)

 2003年の暮れのことですが、映画『ラストサムライ』を観に行ったのです。劇場
は非常に混んでおり、座るために40分ほど並んでやっと観ることができました。映画
を観るのに並んだのは久しぶりのことです。劇場には若い人が多かったです。
 ところで、この映画は、トム・クルーズが主演する、ワーナーブラザーズ配給のハリ
ウッド映画なのです。扱っている中心テーマは「武士道」――映画の宣伝コピーには、
次のように書いてあるので、ご紹介しておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      静謐さのなかに熱き滾りを堪えた愚直なまでの一途さ。寡黙に
      して、二言を持たず、命懸けの信念をもって誇り高く生きた男
      たちのほんものの美学――そんな日本の「サムライ・スプリッ
      ト」が、ついにハリウッドを動かした!
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 興味深いのはこの映画を観た若い人の感想です。いくつかご紹介します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      ・サムライの熱い生き方に共感し、ともに生きることを誓った
       アメリカ人。おかしなところも多々あるが、僕はこの映画に
       日本人の心を垣間見た。
      ・いや、よかった。ここ1〜2年で観た映画で一番よかった。
       久々に見ごたえある映画だった。渡辺謙の戦いに敗れて逝く
       瞬間の顔をぜひみてやってほしい。アカデミー助演男優賞の
       声にもうなずける感じだ。
      ・とてもよかったと思ったし、泣いたのだけれど、どこで一番
       感動したかって考えると、あれ?って感じなんですよね。い
       っぱい感動しすぎて忘れてしまったのかしら。私ももう一度
       絶対見に行くつもりです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 とにかく「感動した」という意見が多いのです。映画のラストシーンが消えると画面
が真っ暗になります。一呼吸おいて、ゆっくりと配役や製作キャストの名前が出てきま
す。普通この場面になると、きまって席を立つ人がいるものですが、誰も立たない――
周りを見回すと、ハンカチで涙をぬぐっている人もいる。本当に感動している人が多い
ようです。暗くなったのを利用して涙の乾くのを待っている人もいたかもしれません。
 それでは、どこが感動的だったのかというと、そういうシーンはいつくかはありまし
たが、はっきりどこと指摘するのは難しいのです。映画全体として強く訴えかけてくる
ものがあり、それが感動を呼ぶのではないかと思われます。
 そこで、EJでは映画『ラストサムライ』が訴えかけてくるものは何か――何が、と
くに若い人たちに感動をもたらすのかについて、いくつかの観点から考えてみたいと思
います。
 映画の評価というものは難しいものです。映画を評価する観点はいくつかあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          1.何を訴えようとしているのか
          2.映画自体は面白く観られたか
          3.脚本は歴史的に見て正しいか
          4.映画技術として優れているか・・・etc
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 過去に実際に起こったことを表現するとき、上記3の観点――「脚本は歴史的に見て
正しいか」が厳しく問われます。最近ではNHKの大河ドラマ『新選組!』の三谷幸喜
氏の脚本は、時代考証がメチャクチャであるということが盛んにいわれており、視聴率
がついに20%を割ってしまっています。
 確かに実在の人物を実名で取り上げる以上、時代考証はしっかりしておくべきです。
映画『ラストサムライ』についても時代考証の問題点を指摘する意見が多いのです。映
画をご覧になっていない人にはピンとこないでしょうが、いくつか上げてみます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      1.幕末の日本に勝元(渡辺謙)のような武将はいない
      2.明治新政府は忍者を使って勝元たちを攻撃している
      3.東京の近く(横浜付近)に雪で閉鎖される村はない
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、映画『ラストサムライ』に登場する人物で、はっきりと実在している人物は
明治天皇だけなのです。このようにいうと「大村がいる」という反論があるかも知れま
せんが、原田真人演ずる「大村」はあの大村益次郎ではないのです。明治天皇以外の登
場人物は、いくつかの実在人物を掛け合わせた架空の人物なのです。もちろん、トム・
クルーズ演ずるネイサン・オールグレンも架空の人物です。
 しかし、この映画は米国人のエドワード・ズウィック監督が日本の武士道を扱った米
国映画であり、日本人が観ると、多少の違和感を覚えるのは仕方がないと思います。一
番大切なのは、映画で訴えたいことがどれほど出せたかですが、それは多少の違和感を
打ち消してしまうほど強く出ていたと思います。
 映画でなくて小説の話ですが、金原ひとみさんを芥川賞に選んだ選者の一人である作
家の宮本輝氏は、金原さんの作品『蛇とピアス』を読んで「妙に心に残る何か」が残っ
たといっています。そして、日を置いて読み直してみたそうです。その結果、「妙に心
に残る何か」については「哀しみ」であることがわかったといい、次のように述べてい
ます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       それは「哀しみ」であった。作中の若者の世界が哀しいので
      はない。作品全体がある哀しみを抽象化している。そのような
      小説を書けるのは才能というしかない。    ――宮本 輝氏
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 映画『ラストサムライ』も製作者が意図する主張が明確に出ており、それが日本人の
観客の心を揺さぶったのだと思います。      ・・・[ラストサムライ/01]
               

8映画『ラストサムライ』.jpg

2008年02月12日

●勝元盛次は西郷隆盛ではないか(EJ第1295号)

 映画をテーマとして取り上げるときに注意しなければならないことがあります。それ
は、その映画を観ていない人に映画の筋を先に話してしまうことによって、興味を削い
でしまうことです。しかし、こと映画『ラストサムライ』に関する限り、その心配はい
らないと思うのです。むしろ事前に知識があった方が楽しく観られると思うからです。
 そういうわけで、最初に映画『ラストサムライ』の時代背景やストーリーについてお
話ししておきます。この映画の舞台は1870年代――1868年8月27日に明治天
皇が即位し、近代日本が誕生しつつあった年代です。
 しかし、明治天皇はそのとき弱冠16歳、父親の孝明天皇の急死による突然の即位だ
ったのです。当時の16歳は今と違って、随分としっかりしていたのですが、父親の急
死による即位であったため天皇になる心の準備ができていなかったといいます。
 徳川家安泰の時代であれば、天皇がたとえ幼君であったとしてもさほど問題にはなら
ないのです。なぜなら、国を治めることが天皇の務めではなかったからです。しかし、
孝明天皇を境として事情は一変し、とくに明治天皇が即位した頃は、天皇の役割は国政
を左右するほど極めて重要になっていたのです。ちなみに1868年9月8日に、年号
は慶応から明治に改められました。
 映画において明治天皇の役は、中村七之助が演じていますが、何となく弱々しく、優
柔不断にみえるのはそうした事情によります。当時の日本は欧米にとって欲しくてたま
らない市場であり、兵器などの売り込みは熾烈を極めていたのです。天皇はそれに対し
て直接に向き合う必要があったのです。
 こういう状況において、かつての南北戦争の英雄/ネイサン・オールグレン大尉――
トム・クルーズが、日本政府軍に近代式戦術を教えるために來日するのです。オールグ
レンはそのとき酒に溺れ、魂を失ったさまよえる男になっていたのです。
 ここでオールグレンが南北戦争の英雄という設定になっているのは、この映画の重要
なキーポイントになります。米国では、南北戦争以降の数年間で、かつての「勇気」は
実用主義に代わり、「犠牲」は利己主義に取って代わり、「名誉」などはどこを探して
もなくなっていたのです。
 このオールグレンに対応する人物として存在するのが、渡辺謙が演ずる勝元盛次なの
です。勝元は、近代化の進む日本において自らの生き方そのものである「武士道」が崩
壊しかけていると痛切に感じていたのです。この映画の製作者であるエドワード・ズウ
ィックは、ここに西洋のサムライ・オールグレンと東洋のサムライ・勝元盛次を2つの
極として、登場させることによって、物語を進めようとしているのです。
 米国にとって南北戦争は国を分裂させないためのやむを得ざる戦いであったのです。
しかし、戦いは5年間の長きに及び軍人たちはこの戦いで心身に大きな傷を負い、復員
兵の多くは民間人として生活することはほとんど不可能だったのです。
 そのため彼らは軍に再入隊し、西部に向かうのです。そして次なる戦いの相手とは、
長く米国の地に住む先住民――インディアンであり、この戦いもやりきれないほどの多
くの犠牲を払って勝利を手にすることになるのです。
 オールグレン大尉は、こういう経験を経て心身ともにボロボロになって、それを忘れ
るために遠く離れた日本の地に人に勧められるままにやってきたのです。その日本で彼
は、歴史と進化に抵抗するもう一人の戦士と出会うのです。
 新時代の到来ということで、サムライのほとんどは新政府に加わり、一部の者は金と
引き替えに領地を手放しているのです。しかし、他の一部のサムライたちはそういうこ
とはする気はなかったし、することはできなかったのです。
 新政府から与えられる報奨よりは、すでに失われつつある伝統やこれまで守り抜いて
きた大切なものに勝る価値はないと考えていたからです。勝元盛次はそのように考える
サムライの一人だったのです。
 このオールグレンと勝元盛次――新たな内戦の最中、最初は敵として出会った2人の
男は一戦を交えることになるのですが、彼らの戦う理由には共通しているものがひとつ
あったのです。それは、「名誉のためにだけ」戦っているという一点です。
 この勝元盛次――ただの武将ではないのです。明治天皇の指南役で、廟堂に席を持つ
参議――現在の閣僚なのです。これに対して、オールグレンの雇い主に当たる男が「大
村」です。大村というと大村益次郎を連想しますが、既に述べたように、大村益次郎そ
のものではないのです。しかし、大村益次郎といえば、新政府の中心となり、新生日本
のためにさまざまな制度の改革に着手したのですが、それが古い考えを持つ武士たちの
反感を買ったことは確かであり、同一人ではないにしても、暗に大村を指していること
は否定できないと思います。
 大村は日本の財閥を率いており、米政府はその大村と組んで、日本と兵器その他の通
商を独占しようと画策するのです。大村はそういう役割を利用して外国との取引を通じ
て私腹をこやし、若い天皇をあやつって通商のすべてを握ろうすとするのです。そのた
めに大村は、オールグレン大尉を新生日本軍の訓練指南役として派遣し、サムライの根
絶を図ろうとします。
 そのサムライを率いる参議の勝元盛次――この地位の高さから考えて、西郷隆盛か江
藤新平が想起させられます。しかし、これに関してズウィック監督は、勝元盛次のモデ
ルは西郷隆盛であると次のように明言しているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      (その当時)サムライたちの指導者で影響力を持っていた人物
      が反政府にいたのか?それが西郷隆盛。西郷が日本の歴史にい
      かに影響を与えたかを証明するかのように東京の上野には彼の
      大きな銅像が建っている。 ――エドワード・ズウィック監督
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
                       ・・・ [ラストサムライ/02]

12勝元とオールグレン.jpg

2008年02月13日

●明治天皇と西郷隆盛(EJ第1296号)

 オールグレン大尉率いる政府軍は、勝元率いる武士一族と戦い惨敗を喫してしまいま
す。そして、オールグレンは捕らえられ、勝元たちの住む吉野という山村に連れて行か
れるのです。
 オールグレンは吉野で軟禁生活を送るうちに、忠義を尽くして名誉を重んずる武士道
精神に強く惹かれていきます。そして、オールグレンは見失ってきた自分の生き方を取
り戻し、自らも刀を手にしてサムライとなって政府軍との戦いに挑む――映画『ラスト
サムライ』の筋はこのようになっています。
 吉野に連行されたオールグレンは、勝元の前に座らされます。そのシーンの台本は次
のようになっています。「氏尾」というのは真田広之が演ずる武士です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      勝元:名は何と申す?<英語>
      ――オールグレンは勝元を見るが、答えようとしない。この様
      子を見て、氏尾がオールグレンを怒鳴る――
      氏尾:無礼者、答えろ!口がきけんのか、貴様!
      ――オールグレンは身じろぎもせず、見返している。こんな事
      は意志の強さがないとできない。突然、氏尾は刀を抜くと空を
      切る。うなる刀。刀はオールグレンの顔の寸前で止まる!それ
      でもオールグレンは微動だにしない。オールグレンの頬に刃を
      つける氏尾。オールグレンの頬から血が流れる。凍りついたよ
      うに動かないオールグレン。
      勝元:よせ。<日本語>
      ――氏尾は刀をおさめると歩き去る。勝元はオールグレンを凝
      視し、見定めている。
      勝元:ここは息子の村だ。この通りの山奥で冬が近い。とても
         逃げられん。
      ――勝元は歩き去る。信忠(勝元の子)はオールグレンを見て
      微笑む――
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 勝元盛次は、西郷隆盛をモデルにしたとズウィック監督はいっていますが、そうであ
るとすると映画の後半に展開される壮絶な戦いは、「西南の役」ということになるわけ
です。
 この西郷隆盛という人物――おそらく日本史に登場するサムライの中で最も尊敬を集
めた英雄です。しかし、彼は尊王倒幕派でありながら、のちに新政府に反旗を翻らせた
人物です。それでいて、上野公園に銅像が建っている――外国人にとってもっともわか
りにくい人物とされているのです。
 『明治天皇』(上下巻/新潮社刊)の著者として知られるドナルド・キーンは、西郷
隆盛について次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       西郷隆盛も(明治)天皇の好きな人物の一人でしょう。ただ
      私をはじめ外国人にとって、西郷隆盛という人物はどうも理解
      しにくい人物です。なぜ日本人にこれほど人気があるのか。日
      本人で彼の名前を知らない人はまずいない。
       たしかに江戸城開城の際は手柄を立てます。しかし、彼のお
      陰で薩摩が立派なところになったとはいえない。にもかかわら
      ず、彼の銅像が上野公園に建っているのは不思議なことです。
      西郷は反乱を起こし官軍と戦ったわけですから、外国人の理解
      からすれば、まずもって国賊です。九州の戦場跡をまわったあ
      る英国人などは、どうして彼が偉いと思われているのか分から
      ないと書いている。若いときは別として、私も後年の彼の行動
      についてはあまり感心できません。彼の書いた漢詩もそれほど
      魅力的ではない。           ――ドナルド・キーン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ドナルド・キーンが述べているように、明治天皇は西郷隆盛をかなり信頼していたの
です。もしそうでなければ、もっと早く西郷率いる賊軍を絶滅せよと命じたはずです。
しかし、実際には明治天皇がなかなか決断しなかったのは、長く側近として仕えた臣下
の心中を思いやり、決断が下せなかったのでしょう。
 もうひとつ、明治天皇がいかに西郷が好きであったかを示すエピソードがあります。
それは、西郷の死の翌日、天皇は美子皇后に西郷について歌を詠むよう命じています。
天皇の求めに応じて皇后が詠んだ歌です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      薩摩潟しづみし波の浅からぬ
           はじめの違ひ末のあはれさ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 さらにもうひとつ。明治35年に天皇は特別大演習総監のため熊本を訪れているので
すが、列車が田原坂を通過するとき、天皇自ら次の歌を詠んでいます。田原坂というのは、官軍と西郷軍の激戦地なのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
           もののふのせめ戦いし田原坂
                松もおい木になりにけるかな
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 西郷隆盛は「参議」を務めています。天皇に対して意見を述べることができる高い地
位です。しかし、新政府側と西郷隆盛の意見の対立はなかなか溝が埋まらなかったので
す。すなわち、急速な近代化が必要であるとする政府側に対して、保守的な西郷は、も
っと伝統を重んじて欲しいと反対したのです。
 しかし、新政府との対立の溝が埋まらないのに業を煮やした西郷は、「二度と官職に
はつかない」と明治天皇に告げて、鹿児島に帰って隠遁生活を送ろうとします。この時
点では、西郷としては、反乱を起こす気はなかったと思うのです。
 しかし、政府軍は西郷の行動に疑心暗鬼に陥ったのです。当時鹿児島には政府所管の
武器庫があり、西郷にこれを使われてはと政府はその武器庫を他県に移送しようとした
のです。それを西郷が設立した私学校の生徒が強奪したことが引き金となって、戦争が
起こるのです。これが西南の役です。       ・・・[ラストサムライ/03]

13吉野での1シーン.jpg
               

2008年02月14日

●オールグレンを悩ませているものは何か(EJ第1297号)

 映画『ラストサムライ』においてトム・クルーズが演ずるオールグレン大尉――彼は
なぜ勝元盛次率いる反乱軍に身を投じたのでしょうか。
 オールグレンは、南北戦争のあと従軍した先住民/インディアンとの戦いにおいて、
「心身ともにボロボロになって」日本の地に赴いたと書きました。しかし、なぜ、彼は
インディアンとの戦いにおいて、そうなったかについては、映画だけでは少し分かりに
くいところがあります。
 映画の台本では、次のように記述されている部分があります。映画をご覧になった方
はすぐ分かると思います。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       台本/たかの家
        悪寒で身もだえるオールグレン
        酒の禁断症状に苦しむ彼は
        孤独感と心に浮かぶ罪悪感にさいなまされている

       台本/回想シーン/ウォシタ川
        騎兵隊が一列になって静まり返っている村に近づく
        遠くから戦いの火蓋を切る銃声が聞こえる
        村がゆっくりと虐殺の渦に飲み込まれていく様子が
        遠くから見える
        いかめしい顔をしたオールグレンは一息つくと
        まるで体重が何百キロもあるかのような気怠さで
        攻撃に加わる
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 映画では、オールグレンが酒の禁断症状で苦しむ場面が出てきます。彼が夢うつつに
見るのは、インディアン部落を襲う騎兵隊と逃げまどう先住民の子供たち、そして殺戮
の光景――その映像がフラッシュバックしてオールグレンを苦しめるのです。
 このオールグレンの心に巣食う幻滅は、この物語がはじまる数年前に実際に起こった
2つの先住民の虐殺が原因なのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      1.コロラドのサンド・クリークでの虐殺事件 1864年
      2.オクラホマのウォシタ川における虐殺事件 1868年
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 最初に、コロラドのサンド・クリークでの虐殺事件から説明しましょう。
 1864年11月29日のことです。ジョン・M・シビングトン大佐が指揮をとる騎
兵隊は、シャイアン族とアラバホー族の部落を攻めて、男性だけでなく、女性や子供を
含めて200人以上を虐殺します。
 このように書くと、西部劇のひとつかと思う人が多いと思います。映画になる西部劇
に共通しているのは、先住民のインディアンは、残虐で非道な蛮族で悪の元凶――これ
に対する騎兵隊は正義の味方の騎士(ナイト)という構図です。
 しかし、ほとんどのインディアンは必ずしも好戦的ではなく、何とか話し合いで解決
したいと考えていたのです。シャイアン族とアラバホー族を束ねていた酋長のブラック
・ケトルも話し合いを望んでいたのです。
 この虐殺が起きる2ヶ月前に、酋長のブラック・ケトルは、コロラド準州知事ジョン
・エヴァンスとシビングトンと和平についての話し合いをしているのです。その結果、
ブラック・ケトルは星条旗を受け取っているのです。もし、騎兵隊が攻めてきたら、そ
の星条旗と白旗を掲げよという意味です。
 しかし、そのような約束があったにもかかわらず、約束はあっさりと破られ、2つの
部族は虐殺されてしまうのです。しかし、ブラック・ケトルは間一髪のところで虐殺か
ら逃れます。そのあまりの残虐さに、1865年にコロラド準州の議会は、次の声明を
出してシビングトンの非難したほどです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
            冷酷にして胸が悪くなる暴虐である
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 続いて、オクラホマのウォシタ川における虐殺事件について説明しましょう。
 ブラック・ケトルと生き延びた部族は、オクラホマ州の先住民保護区のウォシタ川付
近で暮らしていたのです。1868年11月21日のことです。酋長のブラック・ケト
ルは、平安と保護を求めて、コッブ砦に出向いて担当者であるフィリップ・H・シェリ
デン少将に会います。しかし、シェリデン少将はブラック・ケトルの要望を聞いたもの
の協議には応ぜず、突き返します。そして、直ちに第7騎兵隊のジョージ・アームスト
ロング・カスター中佐に部族の殲滅を命令するのです。
 そして、11月27日の朝、カスター中佐率いる騎兵隊はインディアンの野営テント
を取り囲み、一斉に襲ったのです。そしてブラック・ケトルをはじめとして、子供を含
む150人を虐殺してしまうのです。このようにして、ジョージ・アームストロング・
カスター中佐は、この一方的な戦いの英雄になるのです。
 以上は実際に起こった話であり、全部実在した人物です。そして、映画に出てくるオ
ールグレン大尉――彼は架空の人物ですがそのカスター中佐の部下という設定になって
いるのです。
 これは、吉野の村の寺の本堂における勝元とのカンバセーションにおいて、オールグ
レン自身が次のように告白していることによって明らかです。オールグレンは、こうい
う悩みを抱えて日本にやってきたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      勝元盛次  :大将はだれだ?
      オールグレン:反逆の指揮でもしてろ
      勝元盛次  :お前たちは会話が嫌いなのか?
      オールグレン:指揮官は中佐でカスターってやつだった
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
                        ・・・ [ラストサムライ/04]

14先住民を襲う騎兵隊.jpg

2008年02月15日

●勝元の村/吉野と武士道(EJ第1298号)

 オールグレン大尉がどのような心境で日本にやってきたのかということについては、
昨日のEJで理解していただけたと思います。彼は南北戦争における自国民同士の殺し
合いに疲労し、それに加えて先住民の騙まし討ちと虐殺に心を痛め、大きな心の傷を負
っていたのです。
 しかし、これだけではオールグレンが勝元たち反乱軍に加わり政府軍と戦うことを決
意したという謎は解けません。それはオールグレンが勝元たちの村――吉野での軟禁生
活を送る中で、少しずつ何かが心の中で育ってきたということができます。
 軟禁生活といっても、オールグレンは自由に村の中を歩き回ることはできたのです。
しかし、彼の背後には福本清三扮する寡黙なサムライが遠慮勝ちではありますが、刀を
手につねに付き添っていたのです。おそらく勝元から、「何か不審なことをしたら斬れ
!」と命令されていたのだと思います。
 吉野で毎日行われていることを見聞きして、オールグレンの心は大きな変化を遂げて
いくのです。映画では、オールグレンの心中を次のナレーションで観客に伝えているの
です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          オールグレン――ナレーション
          1876年・・・
          月も日も、もう分からない
          不思議な人々とのこの暮らし・・・
          わたしは彼らの捕われの人で、
          例えるなら野良犬か、
          迷惑な客人のように
          適当に見過ごされている
          皆、礼儀正しく、笑顔を見せる
          だがその下には
          複雑な感情が隠されている
          驚嘆すべき人々だ
          朝、目覚めると何事にも
          完ぺきを目指して取り組む
          そしてつねに自分に厳しい
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 西郷隆盛をモデルとしてつくり上げられた勝元盛次は、西郷の人生訓である、「天地
自然の道」を体現しています。それは、次の2つの西郷南州遺訓によくあらわれていま
す。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      道は天地自然の物にして、人はこれを行なふものなれば、天を
      敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛
      する心を以て人を愛する也
                      ―――「西郷南州遺訓」24
      人を相手とせず、天を相手とせよ。天を相手にして己を尽して
      人を咎めず、わが誠の足らざるを尋ぬべし
                      ―――「西郷南州遺訓」25
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これは、新渡戸稲造著『武士道』の第8章「名誉」に出てくるのです。武士道の基本
は「名誉心」と「廉恥心」です。吉野に住む人たちの生活はこの精神に貫かれており、
それが母国でのインディアンの虐殺を強制されて騎士道の名誉を汚されたオールグレンの心を強く打ったのです。
 ところで「名誉心」と「廉恥心」とは、どういうことを意味しているのでしょうか。
現在の日本では「名誉心」は「名誉欲」に、「廉恥心」は「羞恥心」になってしまって
います。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       名誉心 ・・・ 自分自身を律して行動し、その評価は
               他人に任せる心
       廉恥心 ・・・ 恥をかいたなら、それを二度と繰り返
               さないと誓う心
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これは道徳教育そのものです。昔は良い大学を卒業して官僚になったというと憧憬と
尊敬の目で見られたものです。しかし、現在ではそうは思われていません。一般的にい
って、官僚には尊敬が集まらないようになっています。
 せっかく一生懸命に勉強して良い大学に入り、官僚になったのに、戦後は道徳教育が
欠如していたために、名誉心と廉恥心に欠けてしまっているからです。それでいて、名
誉欲と羞恥心は人一倍持っているのですから、尊敬されるはずがないのです。
 新渡戸稲造先生は、「廉恥心」という感性を育てることの重要性をついて次のように
説いています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       「人に笑われるぞ」「体面を汚すなよ」「恥ずかしくないの
      か」などということばは過ちをおかした少年の振舞を正す最後
      の切り札であった。子が母の胎内にいる間に、その心があたか
      も名誉によってはぐくまれたかのように、この名誉に訴えるや
      り方は子供の心の琴線に触れたのである。
                   ―――新渡戸稲造著『武士道』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 現代人の中には恥をかくことを嫌う人が多いです。つまり、羞恥心を持つ人が多いの
です。だから何かというと「侮辱された」という人が多いのです。しかし、武士道では
恥をかくことは恥ではないのです。恥をかいて、そこから学ぶことが大切なのです。そ
れが「廉恥心」なのです。
 先ほど官僚の悪口をいいましたが、ほとんどの人は立派な人なのでしょう。少数の人
に問題があると、一般の人はそこだけを見て全体を批判するものです。武士もそうだっ
たのです。自分たちの中に堕落した者が出ると、「武士の風上に置けない」と厳しく非
難し、排斥したものです。
 勝元の村、吉野では、まさにここでいう武士道の精神が溢れていたといえます。オー
ルグレンはそれに救われたのです。        ・・・[ラストサムライ/05]

15吉野におけるオールグレン.jpg
               

2008年02月18日

Objectivity, “Maps,” and Communication

“Diversity” is something of a hot topic in many Japanese companies. This is almost certainly for practical reasons, rather than ideological or philosophical ones. In other words, their business environment is putting an increasing amount of pressure on Japanese organisations to embrace diversity within their workforces, both in Japan and abroad. Depending on our definition, diversity is actually all around us. Gender, age, dialect, and job function are all common examples. However, people often use the word to refer to national and racial diversity. Indeed, some of INTEC’s clients have recently taken the step of hiring non-Japanese to work in Japan, usually for two or three years. They hope that this will lead to greater levels of mutual understanding and cross-pollination within their global business groups (although the emphasis is still often on non-Japanese learning about Japan and the HQ’s ways of doing business). As we know, a lot of Japanese companies now have many non-Japanese employees. According to their homepage, for instance, Panasonic has 67,336 employees at 74 Chinese Matsushita Group companies. If we add the number of employees in other countries and regions, then, Panasonic has more non-Japanese than Japanese employees. The number of overseas sales offices, factories, and even research and development sites for many Japanese corporations is growing. There are now no longer enough Japanese managers, engineers, technicians, and researchers to send to overseas locations, and some of INTEC’s clients report that they are only able to dispatch 40% of the Japanese personnel requested by the Japanese management of overseas affiliates. As a result, the localisation of management based on a clear understanding of corporate vision, mission, and values is a pressing issue. This requires successful communication and diversity management. At this point, we should be clear about one thing: while diversity is challenging and exciting, bringing with it the promise of new value creation, it can also result in tension and resentment. Dealing with people who have the same values and methods is comfortable. The corollary is that dealing with people who have different values, different perspectives, and different ways of doing things can be tedious and painful. In our experience at INTEC, those who do best in a diverse environment are those who have an objective understanding of their own values and ways of doing things. For some people, they seem to do this naturally, while others work hard at it. In other words, they are able to step back from situations in order to try to understand their own reactions. This gives them the potential to see the world through the eyes of other people. They then try to present their view of the world to others, and to listen carefully to what those people think and feel. Finally, they look at ways of resolving differences, ideally by creating something new as a result of the group’s diversity. This reads well in theory, but in practice, it is very hard to achieve all of this. Nonetheless, it is vital to try, and to continue to try to be successful in this. The key, then, is objective use of proven tools of analysis, such as INTEC’s “maps.” Maps are tools that show us where we are now, where our destination is, and how we can get to that destination. This is true of cartographical maps, as well as of analytical frameworks that explain cultural differences. We need to be curious about our own environment, as well as that of other people, and to use our maps (or “mental models”) to understand what we see, hear, and experience. We need to ask questions, but without threatening people. In an increasingly diverse world, we need the courage, energy, and patience to communicate. The more we practise this, the better we will become at it. It will help us to explain our corporate values to others and to agree on effective business processes. Last year, we were interested at INTEC to discover that Martha Maznevski and Joseph DiStefano at the prestigious Swiss B-School IMD have developed a very similar framework that they call “MBI”: Map the differences between people using clear tools, Bridge those differences in an objective manner, and Integrate the differences in a way that satisfies and maximises value (rather than merely satisficing). This acronym (“MBI”) neatly summarises what we have been teaching in our seminars. For more on “MBI,” visit http://media.ft.com/cms/d555d3ee-d933-11db-9b4a-000b5df10621.pdf and download a March 2004 IMD “Perspectives for Managers” article from the Financial Times website. The authors conclude their article in a striking manner, saying that “focusing only on commonalities just gets to the lowest common denominator. It provides mediocre results, not high performance.” In other words, vive (and manage) la différence, because increasingly, you will not be able to escape it!

●『武士道』に関わった3人の大統領(EJ第1299号)

 映画『ラストサムライ』の脚本は、新渡戸稲造著の『武士道』(以下単に『武士道』
と呼称)にヒントを得ているといわれています。そのためか、今でも書店に行くとこの
『武士道』を中心に関連書籍の特設コーナーが設けられており、本が山積みされていま
す。映画『ラストサムライ』が上映されて以来、ずっとこの状態が続いているのです。
おそらく本は、相当売れているものと思われます。
 『武士道』は、1899年に新渡戸稲造が病気で療養していた米国で書かれ、190
0年に出版されています。この本は最初から外国人に武士道を紹介する目的から英語で
執筆され、現在日本の書店ではその日本語訳書が販売されているのです。新渡戸稲造と
いう人は、日本語よりも英語が得意といわれるほど英語に堪能な人だったのです。彼が
38歳のときの話です。
 なぜ、日本人向けでないのかというと、当時の日本では武士社会の名残りが色濃く漂
っていたので、そのようなことはごく当たり前のこととして、完全に定着していたから
です。つまり、わざわざそれを本にして、日本人に読んでもらう必要はなかったという
ことです。
 新渡戸稲造は、この本の序文で、なぜこの本を執筆したか――その動機のようなもの
を明らかにしています。
 彼が、ベルギーの法学者、ラブレー氏の家で歓待を受けて数日を過ごしたとき、新渡
戸はラブリー氏に次のように質問され、返答に窮したといっているです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      日本では宗教教育はないということですが、それならどのよう
      に道徳教育を行っているのですか。      ――ラブレー氏
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 そのとき彼は、自分が幼少の頃から武士道に起源を持つ「善悪の観念」を植え付けら
れて育ったことに思いいたったのです。そしてこのとき、この本を出版しようと考えた
というのです。
 『武士道』は爆発的なヒットとなり、海外の人々に広く読まれて、日本の文化を知ら
しめることに大きく貢献したのです。実はこの『武士道』――3人の米国大統領に関わ
る話があるのです。
 3人の米大統領のうちの1人目は、セオドア・ルーズベルト大統領(1858―19
19)です。1904年のことです。
 日露戦争中のことですが、ルーズベルト大統領とハーバード大学で同窓だった金子堅
太郎伯爵が、特使として米国に派遣されたことがあるのです。そのさい、金子が新渡戸
の『武士道』を一冊大統領に進呈したのです。
 大統領は大変な読書家で、しかも速読術を身につけていたので『武士道』は徹夜で一
気に読み切ったというのです。大統領はこの本を読んで、日本の「徳性」をよく知るこ
とができたと絶賛し新たに30冊を購入し、5人の子供に1冊ずつ配り、友人知人に配
って読むように勧めたというのです。そして、この著作は、同大統領を一層の日本びい
きにしたといいます。
 さて、3人の米大統領のうちの2人目は、クリントン前大統領なのです。
 2000年夏、盛岡市で「『武士道』発刊100年記念・日米友好の集い」が開催さ
れたのです。この「集い」には、セオドア・ルーズベルト大統領の曾孫で経営コンサル
タントのツウィード・ルーズベルト氏が招かれ、「いかにして新渡戸先生が世界の歴史
を変えたか」という演題で講演をしたのです。
 そのさい、クリントン大統領(当時)は次のようなメッセージを寄せたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      わが国のセオドア・ルーズベルト大統領は「新渡戸氏の著作に
      より日本文化を理解することができ、ノーベル平和賞の受賞に
      も役立った」と述べています。私は皆様とともに彼の偉業をた
      たえます。              ――クリントン大統領
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 3人の米大統領のうちの3人目は、現在のジョージ・ブッシュ大統領です。
 ブッシュ大統領は、9・11同時多発テロのあと、2002年2月に来日し、国会で
演説したのですが、その冒頭部分で、こう語りかけているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      いまから一世紀前、日米両国は、それまでの長きにわたる猜疑
      や不信を抱いていた時期を経て、お互いについて学び始めまし
      た。日本が生んだ偉大な学者にして政治家、新渡戸稲造は日米
      両国民のことを理解しており、『太平洋の架け橋とならんと欲
      す』と記しております。その『架け橋』はすでにできておりま
      す。             ――ジョージ・ブッシュ大統領
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 何はともあれ、ルーズベルト、クリントン、ブッシュという3人の米国大統領にその
業績を賞賛された新渡戸稲造――これは大変なことです。しかし、今まで肝心の日本で
は、あまりなじみのない人だったのではないでしょうか。5000円札の肖像画に採用
されたときですら、「新渡戸稲造ってだれ?」という声があったのですから、恥ずかし
い話です。
 しかし、映画『ラストサムライ』のヒットがキッカケになって武士道精神の重要性が
認識され、日本人の中に『武士道』を読む人が増えているのは良い傾向であると思いま
す。なぜなら、今の日本人にこそ、武士道精神が一番求められているからです。昔から
脈々と受け継がれてきた最も大事なものを現代の日本人は失いつつあると思われるからです。
 かつてのケネディ大統領が「日本人で一番尊敬する人は?」と日本の新聞記者に問わ
れ、「上杉鷹山」と答えたところ、その当の新聞記者が「ウエスギヨウザン」を知らな
かったという笑えない有名な話があります。日本人は、もっと自分の国の歴史や文化を
研究すべきです。                ・・・[ラストサムライ/06]

18『武士道』初版本.jpg

2008年02月19日

●日本人は武士道精神が欠けている(EJ第1300号)

 前回のEJで今の日本人にこそ武士道精神は必要である――このように書きました。
社会のモラルは低下の一途をたどり、教育水準は下がる一方です。警察の検挙率は先進
七ヶ国中最低、子供たちはゆとり教育とやらで1日25分しか勉強しないので、学力は
下がる一方になっています。日本はどうしてこんな国になってしまったのでしょうか。
 フランスの小咄にこういうのがあります。
 タイタニック号が沈むときの話です。女性と子供を先に逃がすために、一等航海士が
特等室のお客を説得に回ったのです。そのとき、国別に説得の方法を変えて全員の説得
に成功しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      英 国人のお客には、あなたがもし、ジェントルマンだったら
                同意してください。
      米 国人のお客には、あなたが、ヒーローになりたかったら、
                同意してください。
      ドイツ人のお客には、これは、船長からの命令です。同意して
                いただけますね。
      日本人のお客にには、皆さん同意されています。いいですね。
                同意してください。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これは、国の特徴をよくとらえています。日本は、周りを見渡して、「みんながやっ
ているとやる」、「誰もしていないとやらない」と見られているのです。あのカルロ
ス・ゴーン社長は、この話を覚えていて日産自動車の立て直しのとき、渋る社員たちを
「みんなやってるぞ、やれ」といってやらせたといいます。
 これは、日本人に行動の基準――正しいと信ずる基準がないことを意味しています。
周りを見てそれによって行動を決めているようなところがあるのです。そのため、武士
道精神が必要なのです。日本人が勇気や自信を取り戻すために必要なのです。
 映画『ラストサムライ』では、当然ですが、武士道について話し合う場面が多く出て
きます。その中でとても印象に残っている場面があります。
 オールグレンは、吉野では勝元の子息である信忠の家で寝起きをさせられます。その
家には「たか」という女性と「たか」の子供の「飛源」がいたのです。実は、「たか」
の夫は「広太郎」というのですが、戦場でオールグレンに殺されているのです。
 「たか」はもちろんのこと、信忠、たか、飛源――いずれもそのことを知っています
が、オールグレンだけは知らされていなかったのです。それに、信忠、たか、飛源の3
人のオールグレンに尽くす態度があまりにも誠意に満ちていたので、そのようなことは
考えてもいなかったのです。
 彼らはなぜそのような態度がとれたのでしょうか。
 それは、武士はやむを得ざる戦いで死ぬのは「天命」と考えていたのです。映画では
次のシーンでそれが示されます。自分の夫を殺した男――オールグレンの面倒を見るこ
とに耐えかねた「たか」は、兄の勝元に「彼に出て行って欲しい」と頼むシーンです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      たかの家/昼
       たか:これ以上、辱めを受けるなら死なせてください。
       勝元:言うとおりにできんのか。仇をとれば気が済むのか?
       たか:・・・はい。
       勝元:広太郎は戦で死んだ。天命だ。
       たか:分かっています。すみません。
       勝元:(優しい口調になり)わしもな、たか、なぜ、奴がこ
          こにいるのかよく分からん。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 最後の勝元のセリフによって、勝元はオールグレンを軟禁していたわけではないこと
がわかります。きっと、いつか出て行くと思っていたのでしょう。しかし、オールグレ
ンは氏尾に剣術を習い、村のこどもと遊び、吉野の村の人気者になっていきます。
 そういうなかで、オールグレンは途中から自分がどういう家に住んでいるか知るので
す。神社の小部屋にまるで生きているように置かれている赤い鎧の男について勝元に質
問し、すべてを知ったのです。
 そういう伏線があって、印象に残るシーンがやってきます。それは政府軍との戦いが
決まったある夕暮れ、「たか」の家でオールグレンは正座して「たか」と向き合ってい
ます。飛源もそこにいます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      たかの家/夕暮れ
       飛源:お前も白人と戦うのか?
       オールグレン:そうです。もし、来れば戦う。
       飛源:どうしてだ?
       オールグレン:愛する人を殺すから。
      オールグレンを見る「たか」。心が動いている。突然、飛源は
      立ち上がると部屋から飛び出して行く。「たか」を見るオール
      グレン。
       たか:武士道は子供には、分かりにくいものなのです。まし
          てや、あの子は父を失ったのですから。
       オールグレン:飛源の父は自分が殺した。だから怒っている
              のでは・・・。
      いつまでも、それにこだわるオールグレンを見て、「たか」の
      顔に笑みが浮かぶ。
       たか:いいえ。あの子は。あなたが死んでしまうのが怖いん
          です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 とても印象に残る素敵なシーンだったと思います。戦いで死んだ者を天命と考えて、
それがたとえ肉親でも、こだわりを捨てて個人的恨みをいっさい抱かない――なかなか
できることではないですが、勝元や「たか」の態度がそれを示しています。
 それにしても「たか」を演じた小雪という女優――心理的に複雑な役柄を印象深く演
じていると思います。             ・・・ [ラストサムライ/07]

19映画『ラストサムライ』より.jpg
               

2008年02月20日

●武士道精神はなくなりつつある(EJ第1301号)

 映画『ラストサムライ』で、勝元たちが政府軍と戦う前に桜の木のところで、勝元と
オールグレンが話すシーンがあります。そこでも武士道が語られます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      勝元の邸宅/昼
       勝元:死を恐れず。むしろ時には、それを望む。
          違うかね。
      オールグレンは、すぐには答えない。勝元はオールグレンの心
      の闇にある真実を直感する。
       オールグレン:ああ。
       勝元:わたしもだ。戦場を見た者は皆、そう思う。
      戦いの後、わたしは先祖の住んだ、この地に戻った。
      そして、思った。人はこの花のように、いつか散る。
      (オールグレンの方を向いて)
       勝元:吐く息ひとつにも生命が宿り、毎日飲む一杯の茶・・
          倒す敵すべてに生命がある。それが侍の生きざま。
       オールグレン:吐く息にも生命が・・・
       勝元:それが・・・。“武士道”だ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 明治以前に世界中にあったのに日本にだけなかったものがあります。それは「哲学」
です。なぜなかったのかというと、日本には儒教や仏教、神道などの思想が、武士道に
吸収されていたからであり、すでに武士道という立派な生きざまがあったら、必要なか
ったのです。
 それも「武士道」という「道」があったわけではないのです。誰もそれがあるとは気
がついていないのに、それは確かに存在したのです。それは、空気や水のように当時の
人たちの生きざまとして存在したのです。おそらく「武士道」ということばも、新渡戸
先生が『武士道』を書くまでは、きっと存在しなかったと思われます。
 絶対的な善悪の判断、やっていいこととやってはいけないこと――日本以外の国で
は、宗教を通してそれを教育していますが、日本では宗教教育はやっていません。しか
し、長い間にわたって脈々として受け継がれてきた生活の規範――武士道というものが
あったからこそ、それで足りていたわけです。
 しかし現在では武士道がほとんどなくなっています。車中で人に迷惑をかけることに
気遣わない人、自分の行動に責任をとらない人――そういう人があまりにも多すぎます。
 電車に乗るたびに、毎回「車中で携帯電話でのご利用はご遠慮ください」と呼びかけ
ないといけない国、それでも携帯電話を使う人、逮捕されても辞職しない国会議員、ウ
ソのラベルを貼って食品を出荷する大企業、鳥インフルエンザが十分疑われるのに隠し
て出荷する業者、それに車中で平気で騒ぐ子供たちとそれを注意しない親たち、年寄り
が立っているのにシルバーシートに平気で座って席を立たない若者、人前でお化粧する
女性など――とても武士道精神がある国とは思えないのです。
 武士道とは、いつまで経っても普遍的なものをいいます。そういうものはたくさんあ
るはずです。自分がやりたくないけれどされたいと思うことがあります。旅館に行った
とき、相手がきちんと正座して「いらっしゃませ」と挨拶されることに怒る人はいない
と思います。お年寄りが若い人から席を譲られたり、横断歩道を渡るとき手を引いてく
れたらうれしいでしょう。そういうものは、年月が経過しても普遍なのです。
 2500年経っても、『孫子』は今でも有効な方法として、世界中の多くの人に読ま
れ続けているのは、その内容が普遍的なものであるからです。武士道もそういう普遍的
なものなのです。武士道は、日本人という民族を接着してひとつにまとめる接着剤とい
えます。武士道は「日本の国教と考えよ」という人すらいるのです。武士道は武士だけ
が守るものではないのです。
 「武士に二言なし」という言葉があります。ドイツにも「リッターボルト」という同
じ事を意味する言葉があります。リッターとは「貴族」、ボルトは「言葉」――つまり
「貴族の言葉」という意味になります。武士も貴族(騎士)も約束に証文はいらないと
いう意味です。約束を守って、ウソはつかないという意味です。これには、孔子の次の
言葉が深く関連します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      至誠は広々として深厚、誠なるものは物の終始なり、誠なけれ
      ば物なし                    ――孔子
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「誠」があってはじめて物事が成り立つという意味です。誠があると、意識的に働き
かけることなく、自然に目標を達成する力を持つのです。したがって、人に誠を示すこ
とができれば、あらゆることは自然に成り立つといえます。
 誠の反対は「嘘」です。武士道では、嘘をつくのは必ずしも悪いとはいってはいませ
んが、「臆病」であるとしています。ところで、臆病の反対は「勇気」ですから、臆病
とは「勇気がない」ということになります。
 「勇気がない」とは不名誉なことです。武士道では、不名誉ということが最悪なので
す。つまり、約束を破るというのは不名誉なことなのです。不名誉は死を意味するほど
武士道にとっては最悪であり、だから、武士はいったん約束したことは絶対に実行した
のです。
 ある人と「一杯やる」約束をしたとします。しかし、当日少し体調が良くなかったと
します。その場合、体調の悪さを相手に伝えて断るかどうかです。断らないという行為
は、体調の悪さを隠す「嘘」に当たりますが、こういう嘘は許されるのです。それは礼
儀を優先させ、相手に迷惑をかけない行為だからです。私ならよほどのことがない限り
約束は守ります。
 しかし、約束をたがえて断るという行為は、不名誉なことであり、その修復には大き
な時間がかかることになります。         ・・・[ラストサムライ/08]
               

20新渡戸稲造著、『武士道』.jpg

2008年02月21日

●武士道/死にざまと生きざま(EJ第1302号)

 「わしもな、たか、なぜ、奴がここにいるのかよく分からん」――このセリフによっ
てわかるように、勝元はオールグレンに用心棒は付けていたものの、オールグレンを軟
禁していたわけではないのです。したがって、オールグレンが逃げる気があれば、いつ
でも吉野から逃げられたのです。
 なぜ、オールグレンは吉野にとどまっていたのでしょうか。
 それは、彼が母国で、命令とはいえ、インディアンの虐殺にかかわって騎士道精神が
教えた軍人としての名誉を汚したこと――それを勝元が体現する日本側の名誉と合体す
ることで、回復できるのではないかと考えたからです。
 したがって、この映画は、オールグレンという米国の軍人の名誉回復の物語というこ
とができます。しかし、当時の近代的武装をした政府軍に対して、勝元たちは近代兵器
を使わず、刀と弓矢だけで政府軍に玉砕覚悟で突撃するのです。結果として、オールグ
レンは生き残ったものの、勝元をはじめ侍は全滅――武士や騎士にとって名誉とは、自
分の命以上に大事なものなのです。
 勝元とオールグレンとの対話に次のようなものがあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      野営地/夜
       勝元:お上は、わたしを退けた。
          官軍がやってくる。それで終わりだ。
      オールグレンはじっと座ったまま聞いている。
       オールグレン:それでいいのか?
       勝元:・・・・
       オールグレン:生涯、天皇に仕え、自らを鍛え
              民に情けをかけて?
       勝元:武士道はもう必要ではないのだ。
       オールグレン:(哀しげな笑みをたたえて)
              必要ではない?何よりも必要なものだ。
       勝元:わたしの命は刀が奪う。自分の刀か、敵の刀か。
       オールグレン:ならば敵の刀に倒れ
              あなたの声を天皇の耳に届かせるのだ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 実際に2度にわたる死の突撃で勝元は傷つき、オールグレンに介助してもらい、自分
の刀で切腹して果てるのです。その光景を政府軍の兵士たちは周りを取り囲んで見てい
たのですが、ある日本人将校が驚きベき行動をとったのです。
 彼はゆっくりとひざまつくと手をついて土下座したのです。それを見た兵士たちは、
次から次にと同じことをやりはじめたのです。その数は約1000人。それは、異様な
光景でしたが、全員がラストサムライを崇めている――この映画の感動的なシーンのひ
とつであると思います。
 生き残ったオールグレンは、勝元との約束を果たすために、彼が切腹して果てた刀を
持って明治天皇に会いに行くのです。そのシーンを台本で再現します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      皇居――謁見の間/昼
      オールグレンが謁見の間に入ってくる。彼は足を引きずってい
     て、シャツの下からは血がにじんでいる。その手には布につつま
     れた勝元の刀が握られている。
      天皇の前で平伏するオールグレン。
      彼は包を解くと、そのままの姿勢で頭を下げ、刀を天皇にうや
     うやしく献上した。
      オールグレン:これは勝元の刀です。陛下にお納めいただき
             武士の力を守りとされたいと。
       大村:勝元の死を悼む心は、皆、同じです。しかし、・・・
       オールグレン:勝元は最後の息の下で「祖先が何のために戦
              い、死んだかをお忘れなきように」と。
       天皇:(オールグレンに)最後の時も、彼のそばに?
       オールグレン:はい。
       大村:陛下、この男は反徒です。
       オールグレン:陛下、わたしを反徒と思われるなら、
              死のご下命を。喜んで命を断ちます。
       およそ西洋人らしくない言葉を聞いて驚く天皇。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このシーンでもなかなかの名セリフが出てきます。明治天皇が「勝元の死にざまを語
れ」と命ずるのに対して、オールグレンは次のように返すのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       勝元:彼の生きざまを語りましょう。死にざまは「名誉の護
          持には肝要ですが、失われた名誉を回復するには生き
          ざまこそ大事となるからです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 とてもハリウッド映画とは思えないやりとりです。オールグレンのことばに感動した
天皇は、急に顔を引きしめて、自分にいい聞かすように、次のようにいいます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       天皇:朕の望みは「統合化された日本」である。強力にして
          独立を誇る近代国家を確立したい。われわれはすでに
          鉄道と大砲と西欧の衣服を手にした。
      ここで天皇は、はじめて勝元の刀を受け取って続ける。
       天皇:しかし、日本人たることを忘れてはならぬ。そして、
          この国の歴史と伝統を。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 明治天皇は、米国一国との通商条約を破棄して、世界の列強との通商に転換します。
そして、吉野への鉄道敷設を禁じ、大村を断罪し、資産の没収を命じたのです。
 映画『ラストサムライ』のテーマは明日で終了しますが、関連するテーマ「武士道」
については、資料を収集して改めて取り上げる予定です。 [ラストサムライ/09]

21謁見の間のシーン.jpg

2008年02月22日

●映画『ラストサムライ』は西部劇である(EJ第1303号)

 映画『ラストサムライ』は大変感動的な映画であり、とくに日本人は観る価値がある
作品であると思います。しかし、映画としては、唯一ノミネートされたアカデミー/助
演男優賞(渡辺謙)も受賞できないで終りましたが、助演男優賞にノミネートされただ
けでも意義があると考えます。
 映画のできとしてはどうだったかというと、十分楽しめる映画ではあるのですが、作
品としては、いくつかの問題点があると思うのです。しかし、EJとしては、それを指
摘するのはやめるとして、映画全体のプロットのユニーク性について述べてこのテーマ
は終りにしたい――そう考えます。
 結論からいうと、映画全体のプロットとしては、あまり斬新さはないのです。という
のは、これは西部劇そのものであるからです。ドイツ文学が専門の中澤英雄東京大学教
授は、この映画について、次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      私には、映画『ラストサムライ』は日本を舞台にしたインディ
      アン映画に見えた。この映画のいつくかの「奇妙さ」は、これ
      を擬装されたインディアン映画とみなすことによって腑に落ち
      るものとなる。               ――中澤英雄氏
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 西部劇とは何でしょうか。西部劇に出てくるインディアンといえば、野蛮人の代名詞
です。しばしば白人の入植地を襲い、略奪し殺戮する――つまり「悪」の代名詞です。
 しかし、彼らは颯爽として登場する騎兵隊によってことごとく退治され、めでたしめ
でたしとなる――つまり騎兵隊は「善」の代名詞―なのです。状況を客観的に見ると、
騎兵隊による先住民であるインディアンの一方的な殺戮劇なのですが、文明(善)が野
蛮(悪)を退治する――文明の進歩のさいのやむをえざる摩擦として肯定されています。
 本当は、先住民であるインディアンは、とても騎兵隊を向こうにまわして戦える戦力
ではなかったのです。彼らのほとんどは、騎兵隊と話し合いによって自分たちの生活す
る場を何とか確保しようとしたのです。それを騎兵隊は、騙し討ちまでして、一方的に
殺戮し、彼らの屍の上にアメリカ合衆国を築いたのです。
 映画『ラストサムライ』のオールグレンが騎兵隊の一員として先住民の虐殺にかかわ
ったことに苦しみ抜きますが、それほど、先住民との戦いは血にまみれたものだったの
です。
 そこで、白人たちは、自らが加害者となったその血まみれの虐殺劇を、西部劇という
映画を作ることによって英雄譚に変えようとしたのです。つまり、いわゆる西部劇は、
偽りの物語であるということになります。
 しかし、このようなことが許されるはずはないのです。昨今の環境問題は、地球レベ
ルの問題となってくるに及んで、自然と一体になって生きてきた先住民の智恵を重視す
る運動が高まってきたのです。そして、1992年のコロンブスの米国発見500周年
を期に、先住民の復権が叫ばれるようになってきたのです。
 この頃から先住民を取り上げながら、今までとは異なる新しい視点からの「西部劇」
――騎兵隊の側からではなく、インディアンの側に立った西部劇が作られるようになっ
てきたのです。中澤英雄氏は、その代表作として次の映画を上げています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        映画『ダンス・ウイズ・ウルブス』(狼と踊る男)
        ケビン・コスナー監督/主演作品/1990年作品
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 そこで、この映画のDVD版を手に入れ、先日観たのです。総時間、実に3時間01
分――これほどの長編にもかかわらず、最後まで一気に観ることができました。ほのぼ
のとした実に良い映画であると思います。
 この映画の中でインディアンは、絶滅させられるべき野蛮人ではなく、白人とは違う
独自の文化を持つ対等な人間として描かれています。もはやそこには、「文明(善)対
野蛮(悪)」という図式はなく、「異文化の交流」の図式として表現されているのです
が、そういったところが、映画『ラストサムライ』のプロットととてもよく似ているの
です。
 この映画に主役として登場するジョン・ダンバー(ケビン・コスナー)は、南北戦争
に参加した軍人であり、自国民同士の殺し合いに心身を消耗して廃人のようになるので
す。このあたりは、オールグレンと酷似しています。時代背景も同じです。
 ジョン・ダンバーは、心身を消耗して命令により、前線基地に赴くのですが、そこに
は誰もおらず、一人でテント生活をはじめるのです。最初に交流ができのは一匹の狼で
あり、やがて狼は彼のそばを離れなくなります。そして、次は近くに住む先住民と少し
ずつ親しくなります。彼らから部落に接待を受けるようになり次第にその部落の人気者
になっていくのです。このあたりもオールグレンが勝元の村に少しずつ馴染んでいく過
程と似ています。
 このように考えると、勝元の村、吉野はインディアン部落、最後の勝元軍と政府軍の
戦いはまさにインディアンと騎兵隊との戦闘そのものということになります。映画『ラ
ストサムライ』では、西部劇の「野蛮(悪)対文明(善)」は「伝統対近代」に当りま
す。ある意味で、「伝統対近代」は「精神対物質」に置き換えることもできます。
 つまり、映画『ラストサムライ』のズウィック監督は、最近の米国人は「精神性」を
失っていて、むしろインディアン(勝元ら武士)の方がはるかに高い精神性(武士道)
を持っている――そういう反省をこの映画の狙いにしているのではないでしょうか。
 だからこそ、この映画は、その精神性を跡かた