●応援歌づくりの名人/古関裕而(EJ第829号)
作曲家/古関裕而(敬称略)――といってもピンとこないかも知れません。とくに若
い人はほとんど知らないでしょう。古関裕而の作った曲はあまりにもたくさんあります
が、次の3曲なら若い人でも知っているでしょう。
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1.「巨人軍の歌/闘魂こめて」
2.「阪神タイガースの歌/六甲おろし」
3.「全国高等学校野球大会の歌/栄冠は君に輝く」
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このような応援歌を作らせたら、古関裕而の右に出る人はいないと思います。巨人と
阪神の、しかもプロ野球の応援歌としては、最も有名な応援歌を同じ作曲家が作ってい
るなんてとても珍しいことだと思います。
それだけではないのです。古関裕而は早稲田大学と慶応義塾大学の両方の応援歌を作
っているのです。昨日のEJの最後の部分で、古関裕而の葬儀に早稲田と慶応の応援団
が駆けつけ、両校の校旗が掲げられる中で出棺が行われたと書きましたが、彼が両校の
応援歌を作曲しているからなのです。
最初に作ったのは、早稲田大学の応援歌「紺碧の空」です。昭和6年のことです。こ
の歌は早慶戦のときに神宮球場のスタンドでよく聞いたものですが、慶応側の人間もこ
の曲がいい曲であることを認めていて、一緒に歌っている者もいるぐらいです。
この歌は、古関裕而の同郷の歌手伊藤久男のいとこが早稲田大学の応援団をやってい
た関係で、依頼されたものといわれています。作詞は学生から募集して住治男という人
の作品が選ばれており、それに曲をつけたのです。
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紺碧の空 仰ぐ日輪
光輝あまねき 伝統のもと
すぐりし精鋭 闘志は燃えて
理想の王座を 占むる者われ等
早稲田 早稲田
覇者 覇者 早稲田
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「紺碧の空」ができた昭和6年当時慶応義塾も新しい応援歌を作って対抗しました。
その歌は、橋本国彦(故人)の作曲で、「ブルー・レッド・アンド・ブルー」といった
のです。三色旗は慶応義塾の校旗です。しかし、この春の早慶戦は「紺碧の空」を歌っ
た早稲田が勝利して「ブルー」は消えたのです。
戦後になって、中断していた東京六大学リーグ戦が復活した昭和21年のことです。
早稲田大学の「紺碧の空」があまりにもいい曲なので、慶応義塾大学の応援団が古関家
を訪れて「ぜひ応援歌を作って欲しい」と頼み込んだのです。
古関裕而は早稲田大学の了解を取ることを条件に慶応義塾大学の応援歌を作曲してく
れたのです。曲が先にできて、あとから慶応出身の藤浦洸(故人)が歌詞をハメこみ、
完成したのが「我ぞ覇者」なのです。
この歌は4番まであり、4番は早慶戦用の応援歌になっています。現在では4番だけ
が独立して歌われるようになっています。
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よくぞ来たれり 好敵早稲田
天日(てんじつ)のもとにぞ 戦かわん
精鋭われに有り 力ぞあふれたり
おお 打てよ砕け
早稲田を倒せ
慶応 慶応 慶応義塾
叫べよ高く 覇者の名を
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ついでに「六甲おろし/阪神タイガースの歌」のことも書いておきましよう。この歌
は昭和11年に阪神球団から依頼されて作曲され、中野忠晴という人の歌でレコードが
作られていますが、これは一般発売ではなかったのです。このときのタイトルは「大阪
タイガースの歌」で、B面はやはり古関裕而作曲の「大阪タイガース行進曲」が収録さ
れていたのです。
「阪神タイガースの歌」は、阪神ファンの間にじわじわと浸透し、やがて「六甲おろ
し」と呼ばれるようになったのです。1番の歌詞の最初が「六甲おろしに 颯爽と」で
はじまるところからそう呼ばれるようになったのです。
東京にいかに巨人ファンが多くてもカラオケで「闘魂こめて」が歌われることはあり
ませんが、関西ではカラオケで「六甲おろし」が歌われることはさほど珍しいことでは
ないのです。そのくらいこの歌は関西人に浸透しているのです。
ところで、昨日のEJでご紹介した歌手の藍川由美さん―――この人は声楽の分野で
わが国初の学術博士号を取得した人なのですが、古関裕而の研究家としても有名です。
それに、藍川さんには「古関裕而歌曲集」というCDもあります。
藍川さんはその著書『これでいいのか、にっぽんのうた』(文春新書)の中で、古関
裕而がこれほどの名曲をたくさん作曲しているのに、意外に日本の音楽界の中で評価が
高くないことに疑問に感じ、調べはじめたと書いています。
古関裕而は、昭和4年に行われた英国の国際作曲コンクールで堂々第2位を獲得して
いるという事実があるのですが、このことは日本の音楽史のどこにも記載はないとそう
です。
しかし、これは事実であり、これによって古関は、日本ではじめて国際的に認められ
たクラシックの作曲家ということになるのです。日本の音楽ジャーナリズムは、東京音
楽大学出身者以外は音楽家として認めないという傾向があったのです。
・・・ [軍歌と日本人/05]