INTEC JAPAN/BLOG

このブログは、異文化研修の教育機関(株)インテック・ジャパンの情報発信用です。(株)イー・メディアとの提携により、同社のドキュメント・レポート「Electronic Journal」をウィークデイの毎日お届けします。
「Electronic Journal」は様々な情報を400字詰原稿用紙7枚にまとめて配信する日刊メールマガジンです。

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● 2008年06月 記事 ●

2008年06月02日

●なぜ同一神、別神が多いのか(EJ第589号)

 先週、「伊勢神宮は日本全国の神社の頂点」と説明したところある読者より事実と異
なるとの指摘がありました。「本当の神社の頂点は、大和にある三輪神社――正しくは
大和三輪山にある−大神神社(みわじんじゃと読む)が神々の中の神様で、伊勢神社も
大神神社の摂社、末社の一つである」ということです。
 確かに伊勢神宮は、昔から伊勢にあったわけではなく、とくに内宮に関していえば、
大和の笠縫邑(かさぬいむら)というところにあったのです。それがいろいろの事情に
よって移動し、各地を転々としながら、最終的に伊勢に落ち着いたのです。そのため、
かって伊勢神宮があった神社を「元伊勢」と呼ぶのです。
 「大神神社」は、日本最古と目される神社です。「大神」と書いて「オオミワ」と呼
ぶのは、そのある場所が奈良県の三輪山の麓だからです。大神神社の話が出ましたので
ついでに述べるとこの神社に祀っている主祭神は「倭大物主櫛み魂命」なのです。
「み」の字は特殊文字であり、ネットを通じて送ると昨日のようになりますので、あえ
てかなとさせていただきます。瓦ヘンに長という字を書くのです。「やまとおおものぬ
しくしみたまのみこと」というように読むのです。
 昨日、天照大神を正式にいうと「天照国照彦天火明櫛甕玉饒速日命」であるとお話し
しましたが、この中の「櫛甕玉」の部分に注目していただきたいのです。これも「くし
みたま」と呼称するのです。「櫛み魂」と同じですね。それに昨日は、これを「大物主
命」と説明しています。結論からいうと大神神社の主祭神はやはり天照大神なのです。
 実はこの三輪山には古代に強力な王権があって、ときの天皇家との争いがあったので
す。これについては改めて述べる予定ですが、三輪山の神が大和を代表する神であった
ことは「万葉集」の額田王(ぬかたのおおきみ)の次の歌でも明らかです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       『三輪山をしかも隠すか雲だにも、
     情(こころ)あらなも隠さふべしや』(巻一、一八番)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 実は、この大神神社と並んで注目すべき神社があります。それは京都府宮津市にある
「籠(この)神社」です。実は伊勢神宮の内宮が大和から移動して最初に落ち着いた元
伊勢の神社です。この神社は、伊勢神宮の内宮のみならず、外宮の祭神である豊受大神
も籠神社から直接伊勢に移っているのです。
 籠神社の宮司は代々海部(あまべ)氏が継いできており、現在の宮司で82代を数え
るといいます。ちなみに元内閣総理大臣の海部俊樹氏は、この海部一族の末裔に当りま
す。海部氏の系図の正式名称は「籠名神社祝部海部直等之氏系図」といい、これは学術
調査の結果、本物と認定され、1976年に国宝に指定されているのです。
 この系譜のトップ、すなわち始祖は「彦火明命(天火明命/火明命)」という神なの
です。ここでもう一度思い出していただきたいのは、天照大神の正式名である「天照国
照彦天火明櫛甕玉饒速日命」です。籠神社の主祭神「彦火明命」は、この名称の中央に
あるのです。この4神はすべて天照大神と同一神ですから、彦火明命は、天照大神とい
うことになるのです。
 なぜ、このように同一神が多いのでしょうか。誠に複雑極まりない話ではありません
か。このあたりのことを籠神社の第82代宮司、海部光彦氏は次のように説明していま
す。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      『神様の世界は現実の世界とは違います。神は空間も時間も超
      越することができます。ときには、御霊を分け、いわゆる分身
      をつくることもあります。まあ、SF的かもしれませんが、私
      はこれを「多次元同時存在の法則」と呼んでいます』。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 海部氏のいう「多次元同時存在の法則」をもっと具体的にいうと、次のようになりま
す。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          1.法則は神様にのみ適用される
          2.神ゆえ時間と空間を超越する
          3.神は分身をつくることがある
          4.神の分身は別名となって表現
          5.同じ名前の神は同一神である
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 何でこのようなことをしたのでしょうか。
 神話というのはそのベースに事実があったとしても基本的にはフィクションです。現
実の事件から神話を創作するとき、ひとりの偉大なる神を複数の神にすればそれだけ多
くのキャラクターを使うことができます。それに古代の豪族たちは自らの出自に非常に
こだわっており、そういう場合、神の分身をつくれば自分たちの出自を偉大なる神に結
び付けることが可能になります。このようにして編纂されたのが、古事記であり日本書
紀なのです。複雑なのは当然でしょう。
 神社の場合は、これらの神の分身、すなわち別名を個々に取り出して祀るのです。古
い神社になれば、その別名を知ったうえで祀ることによって、記紀を編纂した体制側の
政治的圧力から神社を守ろうとしたと考えられます。
 このことから記紀神話の裏に潜む真実を探ろうとする方法が見えてきます。まず、分
身を突き止め、それを元の神にまとめあげればよいのです。そうすれば、複雑なフィク
ションの中から真実が見えてくるはずです。
 そういう意味において天照大神の場合は、「天照国照彦天火明櫛甕玉饒速日命」とそ
の正式名がわかっていますから、謎を解く重要なキーになります。これにより、天照国
照彦、天火明、櫛甕玉饒速日命の4神はすべて同一神であることは分かっています。こ
れを手がかりにして天照大神から天皇の系譜を解いて行くと、驚くべき事実が明らかに
なるのです。                  ・・・[日本人のルーツ/03]

6.2籠神社/海部光彦氏.jpg

2008年06月03日

●ニギハヤヒ命は意図的に隠されている(EJ第590号)

 古代の神様の名前でだれでもよく知っているのは、天照大神、大国主命、ヤマトタケ
ル命、スサノオ命ぐらいのものではないでしょうか。この中で一番有名なのは、おそら
くヤマトタケル命ではないかと思います。
 ヤマトタケル命は、「草薙剣」(くさなぎのつるぎ)を使ってヤマタノオロチを退治
したのですが、この話は『ヤマトタケル』という映画にもなっています。
 しかし、このヤマトタケル命――日本武尊というネーミングから見ても非常にウソっ
ぽい感じがします。実はこれとそっくりの神話が別にあるからです。その神話の主人公
は、スサノオ命であり、話はヤマトタケル命の話とまったく同じです。
 スサノオ命は、ヤマタノオロチを退治し、その体内から一振りの剣を取り出すのです
が、これが「天叢雲剣」(あめのむらくもの剣)です。ヤマトタケル命がオロチの退治
に使った「草薙剣」はこの「天叢雲剣」なのです。したがって、これから次の図式が成
立します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        ヤマトタケル命=草薙剣=天叢雲剣=スサノオ命
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これにより、ヤマトタケル命はスサノオ命と同一人というこになり、一応矛盾は解消
します。
 続いて、大国主命(おおくにぬしのみこと)について考えましょう。大国主命といえ
ば、因幡の白ウサギを助けた神様で、ヱビス様と並んで庶民にもっとも親しまれている
神様です。「大国」をそのまま「ダイコク」と呼んで「ダイコク様」という呼称さえあ
るのです。
 大国主命と似た名前に「大物主命」があります。記紀神話によれば、大物主命は三輪
山に鎮座する大神であり、その正体は蛇とされています。日本書紀によれば、大物主命
=大国主命とされていますが、神社伝承学の立場からいうと、大物主命=大国主命とい
うかたちで伝えている神社は、昨日のEJでご紹介した奈良の大神神社だけであり、他
の神社は両者を別神として祀っているのです。どうして別神なのでしょうか。
 大国主命はいわゆる小物であり、たまたま大物主命とことばが似ているために同一視
されたか、あるいは体制側の何らかの思惑によって、あえてそうさせたとも考えられま
す。このことはあとで次第に明らかになります。
 大国主命にはいくつかの別名があるのですが、そのなかに「八千矛神」(やちほこの
かみ)というのがあります。「矛」とは武器のことで、いくつもの剣を持った神という
意味になります。
 全国に「八」という字のつく神社が多くあります。八剣神社、八雲神社、八坂神社、
八重垣神社・・・。問題は、それらの祭神がスサノオ命であることなのです。千葉県に
ある八剣八幡神社の伝承には、八剣大神はスサノオ命であると記されているのです。
 神社伝承学によると、八千矛神の正体はスサノオ命であり、それがあるとき、体制側
の策略によって大国主命の別名とされ、大国主命と大物主命が同一視されるようになっ
て、スサノオ命とニギハヤヒ命が同じ八千矛神という名称を持つようになったというの
です。それにしてもその存在の重要性にもかかわらず、ニギハヤヒ命は不当にその存在
が隠されているように思います。
 以上のことから、次の図式が得られます。つまり、スサノオ命はニギハヤヒ命のこと
であり、それは天照大神を意味することになるということです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       ニギハヤヒ命=大物主命=大国主命=八千矛神=八剣神
       =スサノオ命
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 だれでも知っている神様、天照大神、大国主命、ヤマトタケル命、スサノオ命の関係
については概略明らかになったはずです。そのうえで天皇の系譜に戻ることにします。
 ここでEJ587号で述べた神武天皇東征の記述を思い出していただきたいのです。
神武天皇は生まれも育ちも九州ですが、ニギハヤヒ命も九州に土台を置いていたことは
確かです。
 ニギハヤヒ命はあるとき畿内に進攻し、先住民の王族と同化して、畿内王朝を成立さ
せたと考えられます。そのあと、神武天皇が同じく東征し、その畿内王朝と戦います。
ナガスネヒコ軍が抵抗して苦戦はしますが、神武天皇は勝利を収めます。
 その後ニギハヤヒ命はどうなってしまったのでしょうか。はっきりしないのです。一
般的にいって、敗れた者の歴史は残らないはずです。そういう意味でニギハヤヒ命の業
績が歴史書から抹殺され、歴史に残らなかったのでしょうか。
 それにしても全国の神社において、さまざまな神の名をもってニギハヤヒ命は祀られ
ています。記紀などの歴史書からは抹殺したが、神社の伝承からは抹殺できなかったの
でしょうか。
 もうひとつの考え方があります。初代天皇はニギハヤヒ命ではないかという考え方で
す。ニギハヤヒ命は、畿内を制圧し、畿内王朝を立ち上げ初代の天皇になりましたが、
神武天皇はその畿内王朝を制圧して天皇位を継承したという考え方です。そうすると神
武天皇は2代目の天皇ということになるのです。
 しかし、ニギハヤヒ命の別名には「天照大神」が入っているのです。神武天皇は天照
大神を最高神としていただいており、抹殺した名前を最高神にすることは絶対にあり得
ないことです。このあたりのことはアカデミズムにおいても明確ではないのです。
 ところで籠神社の主祭神は「火明命」ですが、神社の極秘の伝承によると、籠神社は
養老元年(717年)までは「彦火火出見命」(ひこほほでみ命)を祀っていたという
のです。ある事情により、「火明命」を祀るようになったというのです。
 これは何を意味するのでしょうか。「彦火火出見命」とはどういう神様なのでしょう
か。明日から、これをキーワードとして天皇の系譜の謎を解いていきます。
・・・[日本人のルーツ/04]

6.3大神神社.jpg

2008年06月04日

●神武天皇は穂穂出見命の子供である(EJ第591号)

 昨日のEJでご紹介したスサノオ命には「牛頭天王」という面白い別名があります。
「牛頭」については、いろいろ面白い話があるのですが、ここでは「天王」に注目して
いただきたいのです。というのは、スサノオ命を祀る神社、例えば愛知県の津島神社な
どでは、神社の別名を「天王社」といっているのです。
 「天王」は一応「テンオウ」と読みます。太陽系第7番惑星である天王星などは「テ
ンオウセイ」と読みますね。しかし、連音で「テンノウ」と変化することは十分考えら
れます。つまり、天王は「天皇」に通じるのです。天王がスサノオ命をあらわすのであ
れば、天皇もスサノオ命をあわわすはずです。スサノオ命が古代の天皇であったとは考
えられないでしょうか。
 810年、平安時代のことです。時の最高権力者である嵯峨天皇は、津島神社につい
て次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      『素尊(スサノオ命)は則ち(すなわち)皇国の本主なり。ゆ
      えに日本の総社と崇め給いしなり』。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 皇国とは天皇の治める国であり、その本主というのですから、スサノオ命は日本の神
道における最高神であり、それを祀る津島神社は、あらゆる神社の中でも最高の神社で
あるといっているのです。これは、スサノオ命は皇祖、すなわち天皇家の直接的な先祖
であるということを意味しているのです。
 さて、古事記によると、天照大神の孫であるニニギ命には3人の子供があったと記述
されております。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      1.火照命(ほでりのみこと)
      2.火須勢理命(ほすせりのみこと)
      3.火遠理命(ほおりのみこと)→ 天津日高日子穂穂手見命
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このうち最後に生まれた「火遠理命」の別名が「天津日高日子穂穂手見命」(あまつ
ひこひこほほでみのみこと)なのです。
 神道の最高神である天照大神から初代の天皇である神武天皇までの系譜を、記紀を基
にして描くと次のようになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        天照大神→オシホミミ命→ニニギ命→火遠理命→
        ウガヤフキアエズ→神武天皇
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このうち「火遠理命」は「穂穂手見命」とイコールですから、系譜は次のようになり
ます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        天照大神→オシホミミ命→ニニギ命→穂穂手見命→
        ウガヤフキアエズ→神武天皇
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 続いて、天照大神の正式名称は「天照国照彦天火明櫛甕玉饒速日命」であり、この中
の「天火明」は「火明命」を意味しておりこれは天照大神の別名です。また「火明命」
は「火遠理命」と同義語でありしたがって「穂穂手見命」とも同義語になります。系譜
は次のようになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       穂穂手見命→オシホミミ命→ニニギ命→穂穂手見命→
       ウガヤフキアエズ→神武天皇
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 続いて着目すべきは「ニニギ命」です。天照大神の孫ということであり、正式名は、
「天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命」(あめにぎしくににぎしあまつひこひ
こほのににぎのみこと)と非常に長いのです。
 これは、天邇岐志国邇岐志=天津日高日子=番能=邇邇芸命という4つの神に分解で
きます。このうち「天津日高日子」は「穂穂手見命」の正式名ですから系譜は次のよう
になります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       穂穂手見命→オシホミミ命→穂穂手見命→穂穂手見命→
       ウガヤフキアエズ→神武天皇
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 さらに、記紀によると「ウガヤフキアエズ」の正式名は「天津日高日子波限建鵜葺草
葺不合命」(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえず)となります。
 これは、天津日高日子=波限建=鵜葺草葺不合命という3つの神に分解できますが、
天津日高日子=穂穂手見命ですから、系譜はさらに次のように変化します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       穂穂手見命→オシホミミ命→穂穂手見命→穂穂手見命→
       穂穂手見命→神武天皇
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 最後は「オシホミミ命」ですが、この正式名は「正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命」(ま
さかつあかつかつはやびあまのおしほみみのみこと)となります。
 これは、正勝吾勝=勝速日=天之忍穂耳命の3つの神に分解できるのですが、注目す
べきは「勝速日」です。これを独立した神とみなすと「勝速日命」となります。これは
「饒速日命」と非常に似ています。
 これを「勝・速日命」「饒・速日命」と分解すると、「勝」と「饒」は美辞句と考え
られ、「速日命」は共通しているので、同じと考えてよいと思います。そうすると、オ
シホミミ命=速日命=ニギハヤヒ命=火明命=穂穂手見命となって、系譜は次のよう変
化することになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       穂穂手見命→穂穂手見命→穂穂手見命→穂穂手見命→
       穂穂手見命→神武天皇
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 同一名は同じ神ということで、「穂穂手見命→神武天皇」ということになります。こ
れは何を意味するのでしょうか。         ・・・[日本人のルーツ/05]

2008年06月05日

●ニギハヤヒ命は神武天皇である(EJ第592号)

 前回の分析の結果、「天照大神→オシホミミ命→ニニギ命→火遠理命→ウガヤフキア
エズ→神武天皇」という系譜が、「穂穂手見命−神武天皇」になってしまうことを実証
しましたが、これは何を意味するのでしょうか。
 穂穂手見命はニギハヤヒ命のことですから、「ニギハヤヒ命−神武天皇」という系譜
が成立することになります。これは、すなわち、ニギハヤヒ命の子供が神武天皇である
というわけです。EJ590号で述べた初代天皇=ニギハヤヒ命であり、神武天皇は2
代目であるという説を裏付けることになるのです。
 しかし、本当は2代でしかないのに、なぜ架空の名前を使って5代までに水増しした
のでしょうか。それは、ズバリ天皇家が昔から連綿と続いていることを強調したかった
のです。長く続いているということは、自国民の誇りであり、他国への威圧にもなった
からです。
 ここで記紀に掲載されているある神話をご紹介しましょう。
 高千穂の峰に降り立ったニニギ命は、土地の神であるオオヤマツミ命の歓待を受けま
す。そして、2人の娘が差し出されるのです。姉は、イワナガ姫といい、妹は、コノハ
ナサクヤ姫といったのですが、姉は醜く妹は容姿が美しかったといいます。
 ニニギ命は、イワナガ姫を退け、コノハヤサクヤ姫を召して子供を産ませるのです。
イワナガ姫は大いに恥じて「今後ニニギ命の子孫は木の花のように命が短くなる」とい
う呪いをかけるのです。ニニギ命の子孫とは人間のことであり、この呪いによって人間
は、有限な命しかもてなくなったといいます。
 一方コノハナサクヤ姫はニニギ命と一夜を共にしただけで妊娠します。ニニギ命は子
供の父について疑いを持ったので、コノハナサクヤ姫は自分の潔白を証明するとして、
戸のない八尋殿に閉じこもり、その室に火をかけて3人の皇子を出産したのです。
 そのさい、最初に火焔が燃え立つときに生まれた皇子をホスセリ命(火須勢理命)、
次に火が盛んに燃えているときに生まれた皇子をホデリ命(火照命)、最後に炎が収ま
るときに生まれたのがホオリ命(火遠理命)なのです。これらの3皇子の名前は記紀に
よってそれぞれ違うのですが、3人とも「火」がついており、これら3兄弟は「炎の中
から生まれた3火神」と呼ばれているという点では一致しています。
 ここで話を整理しておきたいと思います。
 EJで古代史を取り上げているのは、日本人の先祖がユダヤ人ではないかという「日
ユ同祖論」の解明にあります。そのためには、日本人のルーツ、具体的には大和朝廷が
どのようにできたかを明らかにする必要があります。その手がかりを得るため、天皇の
ルーツを探索しているわけです。
 大和朝廷や天皇家のルーツをたどるためには、記紀の膨大な神話の森の中に分け入ら
なければなりません。神話は虚々実々ですから、不用意に多くの学説を読んだりすれば
わけがわからなくなります。そこで、独特のアプローチと手法で真相に迫ろうとしてい
るのです。
 天照大神の正式名は、「天照国照彦天火明櫛甕玉饒速日命」です。このことから、天
照国照彦、天火明、櫛甕玉、饒速日命の4神は同一神ということになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          天照国照彦 ・・・ 天照大神
          天火明 ・・・・・ 火明命=穂穂手見命
          櫛甕玉 ・・・・・ 大物主命=スサノオ命
          饒速日命 ・・・・ ニギハヤヒ命
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここまで登場した神の中に、「天皇」という称号と深い関係を持っている神は「スサ
ノオ命」だけです。津島神社には、「素尊(スサノオ命)」を祀り、「皇国の本主」と
伝えています。
 ここで思い出していただきたいのは、例の籠神社の主祭神が、かつては「彦火火出見
命(穂穂手見命のこと)」であったのに、養老元年から、なぜか「火明命」に変更にな
っており、それが極秘の扱いになっていることをです。ホホデミ命をなぜか隠そうとし
ていることです。
 EJ590号では、すでに次の図式を得ています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       ニギハヤヒ命=大物主命=大国主命=八千矛神=八剣神
       =スサノオ命
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 つまり、ニギハヤヒ命=スサノオ命なのです。そうすると、これから次の式が得られ
ます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       ニギハヤヒ命=スサノオ命=天皇=火明命=ホホデミ命
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日本書紀に「神日本磐余彦火火出見尊」(かむやまといわれびこほほでみのみこと)
とあり、天皇名で呼ぶときは、「神日本磐余彦火火出見天皇」または「神日本磐余彦天
皇」と称するのです。
 これは、何を意味することになるのでしょうか。
 これは「ホホデミ命=天皇」を意味するのです。要するにホホデミ命は初代天皇であ
る神武天皇ということになるのです。そうすると、次の驚くべき図式が明らかになりま
す。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          天照大神=ニギハヤヒ命=神武天皇
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 籠神社の主祭神を変更したのは、「ホホデミ命」というキーワードが分かってしまう
と、すべてが分かってしまうので、これを隠そうとしたものと思います。
 天照大神から神武天皇にいたる系譜は、すべて神武天皇の分身の列挙に過ぎなかった
のです。連綿と続く神の名前や天皇の名前はすべてが実名とは考えないものの、まさか
こんな結論になるとは誰も考えないでしょう。これだけではないのです。神武天皇以下
の天皇も実在しない天皇が非常に多いのです。   ・・・[日本人のルーツ/06]

2008年06月06日

●15代応神天皇が初代天皇である(EJ第593号)

 前回「天照大神=ニギハヤヒ命=神武天皇」という衝撃的な事実をご紹介しました。
これによると、「天照大神は神武天皇である」ということになります。ところで「天照
大神=神武天皇」とは、何を意味するのでしょうか。
 古代の神話の中には、さまざまな神や人間が登場します。天照大神は神ですが、神武
天皇は人間なのです。神武天皇という人間の中に皇祖神としての天照大神が存在するの
です。つまり、天照大神には、2つの意味があるのです。1つは神としての天照大神で
あり、もう1つは、人間としての天照大神です。この人間としての天照大神が神武天皇
なのです。天皇が現人神といわれた時代がありましたが、このような考え方からきてい
るのです。
 さて、天皇の系譜では、神武天皇からはじまって崇人天皇までが10代ですが、第2
代の綏靖天皇から第9代の開花天皇までの8代は「欠史8代」といって実在しないこと
が明らかになっていることは既に述べました。
 このことから、次の式が成立し、初代天皇は崇人天皇ということになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
            天照大神=神武天皇=崇人天皇
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 それでは、この崇人天皇はどういう天皇だったのでしょうか。
 崇人天皇については、朝鮮半島から日本列島に侵入してきた騎馬民族の大王であると
いう説があるのです。しかし、この詮索はここではふれないことにします。
 昨年末に中公新書から刊行された遠山美都男氏の著作、『天皇誕生/日本書紀が描い
た王朝交替』の冒頭に興味深い逸話が紹介されているので、ご紹介しましょう。
 日本人のある僧侶が中国第2代皇帝、太宗に謁見したという話があります。時は中国
、北宋の時代、日本では平安時代の前期に当ります。そのときその僧侶は「王年代記」
なるものを太宗に提出したというのです。「王年代記」には、天御中主に始まる神々の
系譜に続き、神武天皇から円融天皇(第64代)までの名前が連綿と書き連ねられてい
たといいます。
 引見のあと、太宗はある宰相を前に深い嘆息をもらし、次のように語ったというので
す。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      『日本など、所詮は島国の夷人にすぎぬ。それなのに、王位を
      代々世襲してはるかに長く、その臣下もみな世襲して絶えるこ
      とがないという。・・島国の夷人とはいえ馬鹿にはできぬぞ。
      これぞ古の道にかなうものだからだ』。(前掲書より)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これを読むと、架空の神や天皇を多くはさんだ意味がよくわかると思います。万世一
系の系譜には大変な価値があったのです。さて、天皇位に就くまでの記録は残っている
が、そのあとの記録のない神武天皇と、就任までの記録はないが、就任してからの記録
がある崇人天皇とは、2人の天皇を合わせると、ぴったりと1人分になります。そのた
め「神武天皇=崇神天皇」という式が成立することになります。
 ところで、名前に「神」がつく天皇がもう1人います。第15代応神天皇です。現在
の天皇、今上天皇は125代になりますがその125天皇中「神」のつく天皇は神武、
崇神、応神の3人しかいないのです。
 応神天皇は九州の筑紫で生まれたとされています。成人になると応神天皇は九州を出
て畿内へと進出し、そこで王権を確立します。九州から畿内へ騎馬民族の大集団が侵攻
し、先住民を征服して大和朝廷を開いたとされているのです。また、応神天皇の拠点が
河内地方にあったので、この王朝を「河内王朝」と呼ぶこともあります。
 しかし、この話は何かに似ていると思いませんか。そうです。神武天皇の東征とそっ
くりです。神武天皇は日向で生まれ、一時筑紫にも住んでいます。その宇佐を経て、や
がて畿内へと侵攻しているのです。まさにそっくりです。アカデミズムも神武天皇と応
神天皇の伝説が非常に似ていることを認めています。この関係から次の式が成り立ちま
す。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
           神武天皇=東征ルート=応神天皇
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 神社伝承学の立場からも検証してみます。応神天皇という人は非常に多くの神社で祀
られているのです。その神様の名前は「八幡神」です。どこにでもある八幡神社です。
 八幡神信仰の発祥の地は北九州です。現在、八幡信仰の中心地には、宇佐八幡宮があ
ります。宇佐八幡宮の「宇佐」は神武天皇が住んでいたとされる土地です。
 また、鹿児島に鹿児島神宮という神社があります。この神社は別名「本八幡宮」とい
うのです。この本八幡宮の主祭神はあの「天火火出見尊(あまのほほでみのみこと)」
なのです。
 また八幡神の「八」に注目すべきです。八坂神社、八雲神社八重垣神社、八剣神社、
八千矛神社とくれば、スサノオ命です。八幡神の正体はスサノオ命と考えられます。
 このことから、次の式が得られます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      応神天皇=八幡神=スサノオ命=ニギハヤヒ命=ホホデミ命
      =神武天皇=崇神天皇
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これにより、神武天皇、崇神天皇、応神天皇の3天皇は同一人物であることがわかり
ます。天皇の系譜は、第2代から第9代の「欠史8代」だけではなく、第11代〜第1
4代についても存在しない天皇だったのです。   ・・・[日本人のルーツ/07]

2008年06月09日

●騎馬民族征服王朝説は正しいか(EJ第594号)

 神武天皇、崇神天皇、応神天皇は同一人であるということを前提にして古事記から天
皇が何をやったかをクールに調べてみるとそれが「相次ぐ戦い」であったことがわかり
ます。それも圧倒的な戦力で、刃向う勢力を次々と制圧して行く、明確な目的をもった
戦いなのです。
 その侵攻ルートは、九州から畿内へと軍を進め、難波、河内地方にも王権を確立して
います。その目的は、日本列島の征服なのです。古事記は神武天皇をそういう侵略者、
征服者として描いているのです。神武天皇は日本列島の征服者であり、侵略者であり古
代の覇王だというのです。
 神武=崇神=応神のいずれの天皇もその出発点は九州ですが、イメージとしては、日
本の外から九州に上陸し、九州を平定してから畿内に攻め上ったと考える方が自然であ
ると思います。それなら神武天皇はどこから渡来してきたのでしょうか。
 応神天皇の時代に朝鮮半島から多くの渡来人がきているという事実があります。秦氏
、漢氏、呉氏、王仁氏・・・など、ほとんどの渡来人はこの時代にきているのです。し
かも、数が非常に多いのです。あの秦氏にいたっては、最終的には1万人もきているの
です。
 こういうことから、応神天皇自体も渡来人ではないかという説もあるのです。歴史学
者の井上光貞氏は、応神天皇は、朝鮮半島から直接渡来してきた大王であるとし、初代
天皇こそ応神天皇であるとする「応神天皇始祖論」を展開しています。
 そのことはさておき、「神武天皇=崇神天皇=応神天皇」の3人の天皇が活躍した時
代を中をとって崇神天皇の時代とすると、大体4〜5世紀に相当するのです。
 この時期が日本征服の時期であるとすると、非常に興味深いことがあるのです。ちょ
うど、その直前に歴史上から姿を消した国があるからです。それが邪馬台国なのです。
応神(神武)天皇が征服した国とは、邪馬台国のことではないでしょうか。
 中国の史書「魏志倭人伝」の記述が正しいとすれば、卑弥呼が魏に使者を送ったのは
239年のことです。その後、卑弥呼が死んで男王が立ったのですが、邪馬台国は大混
乱に陥ります。
 そこで、台与(とよ)という女王が王位をつくと、何とか混乱は収まったのです。こ
れが250〜260年ごろのことです。ところが、一方の中国が大混乱して魏が滅亡し
てしまうのです。そして、それに代わって覇権を握ったのは、西晋(せいしん)という
国なのです。
 邪馬台国の女王台与は、266年に西晋に使いを送り、正式に国交を樹立します。
「魏志倭人伝」は、この時期に完成しているのです。ところが、266年に台与が西晋
に使いを送ったという記録を最後に邪馬台国は歴史上から姿を消してしまうのです。そ
して邪馬台国はいまもってその行方は知れないのです。
 ここで注目すべきは、東京大学名誉教授江上波夫が唱える「騎馬民族征服王朝説」で
す。この説によると、4世紀頃、大陸の騎馬民族が朝鮮半島を経由して日本列島に侵入
し、邪馬台国をはじめとする倭国を次々と征服して中央集権的な国家を作りあげたのです。これが大和朝廷だというのです。
 これについて少し研究してみましょう。
 紀元1世紀ごろに朝鮮半島に存在した国家というと、次の3つが上げられます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       1.馬韓(ば かん) ・・
       2.辰韓(しんかん)  ・・・・ 古代朝鮮3韓
       3.弁韓(べんかん) ・・
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 最初は、「馬韓」があったのです。そこに秦(しん)の国の人が多くやってきたので
す。秦の役を避けてきたと文書に記されています。彼らは馬韓の人たちとは生活習慣が
違うので、別々に住むようになったというのです。
 彼らは万里の長城よりも外側に住む非漢民族の遊牧民であり、多くの民族からなって
いたのです。その中には騎馬民族も含まれています。彼らは朝鮮半島にやってきてから
「辰韓」と「弁韓」という2つの国家分かれるのです。その内実は、それぞれ12の国
(全部で24国)からなっており、その中にはあの謎の渡来人秦氏も含まれていたので
す。
 さて、辰韓と弁韓は、両国をあわせて「弁辰」と称するようになり、ひとりの大王を
いただくのです。これが幻の大王といわれる「辰王」なのです。彼は、騎馬民族出身の
大王であり、弁辰で朝鮮半島の3分の2を領土としたのです。
 当初は、馬韓の支配下にあった辰王ですが、徐々に勢力を拡大し、馬韓領内の「月支
国」(げっしこく)をその支配下に置くようになり、馬韓にも影響を与えるようになり
ます。
 紀元3世紀になると、朝鮮半島に異変が起こります。それまで国家の中の一民族の力
が拡大し、国全体を変化させてしまったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        馬韓 → 百済(くだら)
        辰韓 → 新羅(しらぎ)
        弁韓 → 伽耶(か や)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この異変に対して月支国にいた辰王はリーダーシップを発揮しそのまま百済の王に
なるのです。この時点で馬韓は騎馬民族国家に姿を変えるのです。そして、辰王の宗家
は、もともとの拠点であった弁辰の地へと移動します。そこは、かっての弁韓の地であ
り、当時伽耶の領地となっていたのです。記紀では、この地を、「任耶」(みまな)と読
んでいますが、この名前を覚えておく必要があります。そこは、朝鮮半島の南端です。
 このとき、中国にも異変が起こっていたのです。西晋の中国統一が崩れはじめたので
す。                     ・・・ [日本人のルーツ/08]


6.9朝鮮半島.jpg

2008年06月10日

●紀元4世紀の日本に何があったか(EJ第595号)

 日本の古代史に「4世紀の謎」というものがあります。今朝はこの話からはじめま
す。
 紀元2〜3世紀の中国といえば、戦国時代、「三国志」の時代です。魏、蜀、呉の3
国が覇権を争い、お互いに一進一退を続けていたのです。そして、結局は漢王朝を継承
する魏が勝利して、三国志の時代は終るのです。
 邪馬台国の女王、卑弥呼は魏とかねてから親交を深めていたのです。そのため史書
三国志」の中の「魏志」には「倭人の条」が設けられているのです。これが「魏志倭人
伝」です。
 卑弥呼が死んで、男王が何人か立ったのですが、国内が反乱し情勢が不安定になりま
す。しかし、女王台与が即位すると混乱は収まるのです。ちょうどその頃中国には異変
が起こります。西晋が魏を滅ぼして天下をとります。台与は直ちに西晋の皇帝に遣いを
派遣して親書を送るのです。これが266年のことです。
 邪馬台国にとってこれが歴史に残る最後の記録となります。以後中国の歴史書に「倭
国」の文字はないのです。つまり邪馬台国は歴史から消えてしまったのです。そして、
再び倭国の名前が登場するのは5世紀になってからです。その間ちょうど100年間、
倭国の歴史はスッポリ消えてしまったのです。
 3世紀までの記録はあるのですが、次に記録があらわれるのが5世紀ということです
から、世紀の記録が消滅してしまっているということです。しかし、これだけなら「謎
の4世紀」とはいわないのです。もっと大きな謎があるからです。
 それは、3世紀までの日本と5世紀以降の日本とでは、文化が劇的に変わってしまっ
ているからです。3世紀までの日本は小さな国単位の農耕文化だったのですが、5世紀
以降の日本は中央集権的な古墳文化へと姿を変えてしまったからです。そのため4世紀
を「謎の4世紀」と呼ぶのです。
 一体4世紀に何があったのでしょうか。
 紀元4世紀に最も変化したのは墳墓なのです。それまでは、全長が数メートルから大
きくても十数メートルほどの墳丘墓が中心だったのが、5世紀には一気に100メート
ルを超える古墳が出現しているのです。形も円墳、方墳などといった単純なかたちから、鍵穴の形をした前方後円墳が主流となっています。
 第16代の仁徳天皇の陵墓は、全長が475メートルもあり、世界的に見ても、面積
ではエジプトのピラミッドや中国の秦の始皇帝陵墓をも上回る超巨大墳墓なのです。
 これらの巨大な古墳をすべて発掘すれば古代史の重要な手がかりがつかめますが、巨
大古墳はそのほとんどが古代天皇の陵墓に指定されていて手が出せないのです。そのた
め、4世紀は一層謎につつまれたままです。
 しかし、天皇陵墓に指定されていない古墳からはいろいろな事実がわかってきていま
す。その特徴は次の2つです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       1.農耕儀礼で使われるものから黄金の装飾品
       2.馬具、鉄製の鎧、矢尻が多数出土している
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 3世紀までの出土は、農耕儀礼で使われる鏡、勾玉、剣が中心だったのですが、巨大
墳墓からは黄金の装飾品、王冠、首飾り、腕輪、指輪などのきらびやかな品が多く出土
しています。
 もうひとつ特徴的で注目すべきことは、馬具が多く出土していることです。馬面の冑
(かぶと)、鞍、馬の埴輪など馬に関連した品々が数多く出土していることです。
 「魏志倭人伝」によると、倭国には、牛や馬などの家畜は存在しないと明確に記され
ているのです。それなのに、なぜ、馬に関する品が出てくるのでしょうか。
 馬だけが海を渡って日本に来るはずはありませんから人間も一緒に来ているのです。
それに巨大墳墓の数々の副葬品は朝鮮半島のものにとても似ているのです。
 ここで、ひとつの仮説が立てられます。朝鮮半島の何らかの勢力が馬と共に九州に侵
攻したちまち九州を平定、しかるのち畿内に攻め上ったのではないかという仮説です。
つまり、日本は朝鮮半島からのある勢力に征服されたという説です。
 この仮説を多くの資料から裏付けたのが、東京大学名誉教授である江上波夫氏が主張
する「騎馬民族征服王朝説」なのです。しかし、記紀の編纂者は、万世一系の天皇のか
たちを整えるため神武天皇にはじまって、応神天皇まで15代の天皇が続いたというウ
ソの記述をして真の歴史を隠したのです。
 江上氏の「騎馬民族征服王朝説」を検証するには、昨日に続いて当時の朝鮮半島の状
況についてもっと知る必要があります。朝鮮半島から海をわたってどういう民族が日本
を襲ったのか特定しなければならないからです。
 紀元3〜4世紀は、中国大陸の混乱を受けて朝鮮半島情勢も不安定になっていたので
す。北方の騎馬民族「高句麗」が南下して百済、新羅、伽耶に脅威を与えるようになり
百済の王の辰王は伽耶にきていたのです。伽耶は「任那」(みまな)と呼ばれ、日本と
は深いかかわりのある国なのです。
 しかし、北方の騎馬民族の脅威が日増しに強くなるに及んで、辰王は進路をさらに南
に向けて、倭国を目指すことを決めます。辰王は、以前から朝鮮半島と交流のあった北
九州の諸国と緊密な連絡をとり、朝鮮半島の南端から対馬、壱岐へと進み、九州に上陸し、瞬く間に騎馬民族の機動力を発揮して九州全土を平定してしまいます。
 辰王は、九州の倭国と連合国家というかたちで平定し、5世紀になって東を目指して
進軍、畿内に攻め入り、強大な王権を築くのです。これが大和朝廷であるとするのが江
上氏のいう「騎馬民族征服王朝説」なのです。
 実は「騎馬民族征服王朝説」の発表によって、神武天皇からの15代に大きなウソが
あることがはっきりしてきたのです。ところで辰王とは何者なのでしょうか。
                        ・・・[日本人のルーツ/09]


6.10馬の埴輪.jpg

2008年06月11日

●騎馬民族軍団の辰王は応神天皇である(EJ第596号)

 4世紀において、朝鮮半島から日本列島に進入してきた騎馬民族の大王、辰王は果た
して何者でしょうか。
 騎馬民族征服王朝説の江上教授は、第11代崇神天皇こそ辰王であるというのです。
どうしてそう断定できるのでしょうか。
 そのカギは「任那(みまな)」にあります。任那とは朝鮮半島の南端の伽耶(かや)
のことです。古事記によれば、崇神天皇には「所知初国之御真木天皇」という名前があ
ります。この中の「御真木/ミマキ」という部分に注目していただきたいのです。日本
書紀では字が違うものの、やはり「御間城」とあり、これも「ミマキ」と読むことがで
きます。
 江上教授は「任那」を「ミマ・ナ」と分解。朝鮮語で「ミマ」は大王、「ナ」は国と
解釈し、「大王の国」の意味であるとしてこれが騎馬民族の大王、辰王の国であると考
えたのです。さらに江上教授は、「御真木/ミマキ」は「ミマ・キ」と分解し「キ」は
城であるとして、大王の城と解釈したわけです。
 どうして大陸の「任那」と自分の名前を関連づけたのでしょうか。そんなことをする
必要がどうしてあるのでしょうか。
 これについて作家の井沢元彦氏が、その著書『逆説の日本史』の中で興味深いことを
述べておられます。
 1066年にフランスの地方豪族であったノルマンディー公ウイリアムは、ドーバー
海峡を渡ってイングランドに侵入します。そして、先住民を征服して諸国を統一、自ら
「ウイリアム1世」と名乗ってノルマン朝を開いたのです。
 ウイリアム1世の子孫はイギリスの土地になじんでイギリス人になりましたが、ウイ
リアム1世はあくまでフランス人です。自分の故郷であるノルマンディーは重要な拠点
であり、そこに強い愛着を感ずるのは当然のことです。事実、ウイリアム1世は死後ノ
ルマンディーに埋葬されているのです。
 この井沢氏の説を江上教授の騎馬民族征服王朝説に当てはめると、崇神天皇にとって
朝鮮半島はフランス、伽耶=任那はノルマンディー、日本列島はイギリス、大和朝廷は
ノルマン朝に該当するといえます。
 さて、すでにEJでは、神武天皇=崇神天皇=応神天皇という結論を出しています。
これら3人の天皇は同一人であり、初代天皇は応神天皇であるという主張です。その結
果、2代から9代、11代から14代の12人の天皇はすべて架空の天皇ということに
なるのです。アカデミズムでは、2代から9代までについては「欠史8代」としてそれ
を事実と認めています。
 記紀では、この3人の天皇を巧妙に使い分けています。象徴としての神武天皇、九州
を平定した崇神天皇、畿内に攻め上り、大和朝廷を開いた応神天皇というように、本来
1人であるはずの天皇をこのように使いわけているのです。
 しかし、日本の初代天皇は応神天皇です。神武天皇、崇神天皇は応神天皇の投影に過
ぎないのです。このように考えると、朝鮮半島から日本列島に侵攻してきた辰王は、応
神天皇ということになります。
 応神天皇の率いる騎馬民族軍団は圧倒的な軍事力を持っていたのです。彼らにとって
当時の倭国などは、取るに足らない存在であったと思います。したがって先住民すべて
を虐殺して征服することも可能だったはずです。
 しかし、応神天皇はそういう方法は採らなかったのです。先住民を懐柔し、自らが倭
国の王家に婿入りすることによって倭国との連合をスムーズに果たし、そのうえで君臨
したのです。このようにして、九州王朝が確立するのを待って、その拠点を一気に畿内
に移したのです。
 それでは応神天皇の婿入りした王家とは、具体的にはどの王家を指すのでしょうか。
 結論からいうと、応神天皇が渡来してきた日本列島は物部王国だったのです。いずれ
EJでも取り上げますが、物部氏は、海部氏、尾張氏とイコールであることがわかって
います。また、この物部王国こそ邪馬台国であるという説があるのです。アカデミズム
もこれに肯定的です。
 3世紀までの倭国は、弥生文化といって小さな部族が連合した農耕中心の国家だった
のです。その当時日本列島を支配していたのが邪馬台国であり、女王卑弥呼が君臨して
いたのです。その卑弥呼が死んだあと、何人かの男王が王位を継ぐのですが混乱が続き
台与(とよ)という女王が、就任して混乱が収まったということを昨日のEJで述べま
した。
 台与は西晋が魏を滅ぼし、中国を平定したと聞くとその国交樹立のため動いています
が、4世紀になると邪馬台国は歴史上から姿を消してしまうのです。そして、5世紀に
なると、農耕国家であったはずの倭国の文化はガラリと変わっていたのです。それもま
るで別の国になってしまったような変わり方なのです。
 この4世紀に朝鮮半島から応神天皇の一族が海を渡り日本に侵入し、征服してしまっ
たというのが騎馬民族征服王朝説の考え方なのです。それなら、文化が変わっても不思
議はないですね。そうすると、応神天皇の一族が電撃的に邪馬台国を征服したことにな
るのです。
 実は、記紀の編纂者はあらゆる手段を駆使して抹殺しようとしていますが、邪馬台国
2代目の女王の台与には卑弥呼を殺害したという疑いがあります。記紀では台与の存在
とその行為を隠そうとして、台与の業績を「神功皇后」という天皇家の一員にかぶせる
ことによって事実を隠蔽したとされています。
 「神功皇后」については、ここまで言及していませんが、夫は仲衷天皇(第14代/
架空)、その子供が応神天皇なのです。したがって実在した人物であることは確かなの
ですが、その行動は謎につつまれています。彼女は天皇ではありませんが、その名前に
「神」が使われており、大和朝廷にとって重要な人物であることは確かです。・・・[日本人のルーツ/10]                       

2008年06月12日

●神社神道も騎馬民族の信仰である(EJ第597号)

 既にいろいろ述べてきたように、日本人の文化の深層には、南方系農耕文化と北方系
騎馬文化が混在しています。日本人は、この両方の文化の影響をもろに受けているので
す。
 それでは、日本古来の神道はどこからきたのでしょうか。神道の儀礼の中心は稲作で
あり、南方系農耕文化からきているという説はそれなりに説得力があります。
 しかし、神道で欠くことができないのは神社です。EJで取り上げてきた日本の古代
史の究明においても、神社というものを抜きには考えられないのです。
 ちなみに名前を知っている神社を上げてみてください。伊勢神宮、八幡神社、松尾大
社、日枝神社、氷川神社、出雲大社、諏訪神社、靖国神社、白山神社。少し年配の人で
あれば、最低でも10くらいの神社名をあげることはできるはずです。それほど、神社
は日本人の生活と切っても切れない関係にあります。
 その神社の主祭神はどうでしょうか。
 天照大神、八幡神、スサノオ命、大国主命、松尾大神・・、そのほとんどは、神武天
皇の別名です。神武天皇は騎馬民族であることは既に解明してきましたが、そういうこ
とから、神社は騎馬民族の文化であると考えざるを得ないと思います。
 それに、神社の創建者を調べると、秦氏、加茂氏、漢氏、辛嶋氏、三輪氏・・・とい
うように、渡来系が非常に多いのです。この中で特徴があるのは、古い神社でそれなり
の格式を持っている神社、例えば大神神社、籠神社、龍田神社、広瀬神社、熊野三山、
玉置神社、大和神社などのほとんどは崇神天皇の創建になっていることです。
 ここで思い出していただきたいのは、日本列島に侵入してきたと考えられる騎馬民族
は、先住民を虐殺したりせず、王家に婿入りするなどして、時間をかけて先住民との同
化政策をとったとみられることです。そうであるとすると、南方系の農耕文化と北方系
の騎馬文化が混合しても不思議はないのです。
神道は大別すると、次の3つがあるといわれています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       1.縄文神道 ・・・・・ アミニズム
       2.弥生神道 ・・・・・ 稲作・農耕信仰
       3.神社神道 ・・・・・ 祈りの場所
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 縄文神道とは、日本列島における最古の信仰といわれます。自然界におけるあらゆる
存在に神が宿っていると考えるのです。山の神、海の神、岩に宿る神など、日本人がも
っとも素朴に抱いている信仰といえます。
 これに対して弥生神道とは、稲作をはじめとする農耕に関連した神々の信仰のことで
す。畑作の豊作を祈念したり食物の神が対象となるのです。大嘗祭(だいじょうさい)
における稲作に関わる神々への信仰は弥生神道をルーツとするものです。
 縄文神道と弥生神道における神の祭場は基本的には自然そのもの、大きな樹木とか、
大きな岩に神が宿るという考え方です。以上は紀元3世紀までの神道なのです。
 神社神道は、祈りの場として建物を建立するということに特色があります。これが神
社です。いつ頃から神社が建立されるようになったかについては諸説がありますが、弥
生時代の後期から古墳時代にかけてということなので、やはり4世紀から5世紀という
ことになります。
 古い神社伝承によると、創建者は古代天皇が多いのです。中でも崇神天皇と応神天皇
が多いのです。既に述べたように、神武天皇=崇神天皇=応神天皇はですから、すべて
同一人なのですが、記紀では、3人の天皇を次のような役割づけをしています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       神武天皇 ・・・・・ 武力 ・・・ 軍事的な征服者
       崇神天皇 ・・・・・ 崇拝 ・・・ 宗教的な司祭者
       応神天皇 ・・・・・ 応答 ・・・ 政治組織統治者
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 神社の創建者に古代天皇が多いというところから、神社神道は明らかに騎馬民族の信
仰といえます。この神社が遠くイスラエルにつながってくるのです。
 鎌田東二著『神道とは何か/自然の霊性を感じて生きる』(PHP新書)の冒頭に折
口信夫について次の記述があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      『民族学者折口信夫の著書に「古代研究」がある。その第二巻
      「民俗学篇」の冒頭は「妣が国へ常世へ」と題されたエッセイ
      である。(中略)折口信夫は大王崎という、伊勢の志摩半島の
      岬の突端に立ったとき、自分の中にわき起こってきたノスタル
      ジーについての言及からこのエッセイをはじめている。私たち
      の祖先が悠久の過去に太平洋の荒波ほ渡ってこの島にやってき
      た。黒潮を前にしてはるかかなたの海上を望んだとき、なんと
      も名状し難い望郷の念、ノスタルジックな感情がわき起こって
      きたことを折口信夫は一つの驚異の体験として描いている』。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
                        ・・・ [日本人のルーツ/11] 

2008年06月13日

●10曲聴いてショパンの全体像を掴む(EJ第695号)

 この記事は、2001年9月5日から9月7日までの3回にわ
たってEJのテーマとして取り上げたものです。コンパクトにま
とめられたショパン論です。
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 ショパンとモーツァルトというと、その名前を聞いただけで、
ある特定のイメージが浮かんでくる音楽家です。とくにショパン
といえばピアノであり、ピアノ好きな人であれば、ショパンは避
けて通れないでしょう。ショパンの名曲はたくさんあり、1曲も
知らないという人はいないのではないかと思います。
 しかし、ショパンの演奏に関わる人は、ショパンを弾くとき、
単に音符をひろっただけではショパンにならないというのです。
つまり、ショパンの音楽は、テクニックだけの問題ではなく“深
い音楽性”がそこに要求されるのです。
 ショパンの音楽が発するメッセージは、なぜか現代に通じるも
のがあります。けっして古めかしい過去の音楽ではないのです。
音楽家ラフマニノフは「ショパンはつねに新しい」という名言を
残していますが、それはショパンの音楽が現代に通じる精神とい
うか、エネルギーを持っていることを意味しています。
 小説家のアンドレ・ジイドは、「ショパンの作品を弾くときは
それがすでに出来上がっているように弾いてはならない。ひとつ
ひとつの音を新しく発見していくように弾くべきである」といっ
ており、それが新しさを感じさせる秘密だと思います。ジイドは
小説家なのですが、ピアノについては相当のうでを持っており、
終生ショパンの音楽を愛好したといわれています。
 今朝はショパンをあまり聴かない人にショパンの素晴らしさを
知っていただくためのガイダンスをやりたいと思っています。い
ささか乱暴ですが、ショパンの作品を4つに分けて、その魅力を
整理すると次のようになります。
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   ノクターン ・・・・ 彼のロマンティックな感性
   マズルカ ・・・・・ 彼の嘆きやメランコリー
   ポロネーズ ・・・・ 彼の愛国心の表現
   ワルツ ・・・・・・ サロン風な彼の貴族趣味
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 誰でも知っているショパンの人気ベスト10を選んでみたいと
思います。
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      1.『子犬のワルツ』作品64−1
      2.『ノクターン』作品9−2
      3.『雨だれ』作品28−24
      4.『マズルカ』作品7−1
      5.『別れの曲』作品10−3
      6.『幻想即興曲』作品66
      7.『英雄ポロネーズ』作品53
      8.『バラード』第1番作品23
      9.『ピアノソナタ第2番』作品35
     10.『ピアノ協奏曲第1番』作品11
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ショパンの「ワルツ」といえば有名な曲がたくさんあるのです
が、どういうわけか、ショパンの作品の中ではマイナーな扱いに
なっています。ワルツは生前には8曲出版されているのですが、
その作曲年代を見るとポツンポツンと作曲され、晩年の作品が多
いのです。『子犬のワルツ』などは最晩年の曲です。なお、ショ
パンの死後遺作として発表されたものが11曲あります。
 ノクターンは全部で21曲。その言葉には「夜の感覚」「静か
な夢想」「詩的な香り」が含まれます。とくに、「ノクターン」
作品9−2は、映画「愛情物語」のテーマ音楽となっており、最
もポピュラーな作品です。
 プレリュードは全部で24曲。一曲、一曲が巧みに磨き上げら
れたショパン音楽の真髄というべき傑作です。「雨だれ」は15
番目に置かれた名曲です。
 マズルカは全部で60曲。生涯を通じて書かれており、その点
ワルツとは対照的です。このマズルカの人気作品は作品7−1で
す。ショパン20歳のときの作品です。とても有名な曲です。
 続いてエチュード24曲。エチュードとは「練習曲」のことで
19歳のときから着手して6年かけて完成されています。この作
品10−3はあの有名な『別れの曲』なのです。
 この24の練習曲に、ショパンは、彼がピアノ奏法の秘密と信
ずるものに何かのかたちを与えようとしています。短い一曲一曲
にバラードの大曲を書く以上の時間をかけてそれこそ真剣に取り
組んだのです。
 即興曲は4曲の作品があります。中でも有名なのは『幻想即興
曲』です。この曲の人気の秘密は中間部のノクターン風の旋律に
あると思います。この中間部をはさむ前後は、嬰ハ短調のエチュ
ード的な音の奔流のように書かれております。
 ポロネーズは全17曲。『英雄ポロネーズ』作品53は、ショ
パンのポロネーズの手法がしだいに成熟度を増してきた頃の作品
です。輝かしい雄壮な、しかも直裁な音楽は「英雄」というタイ
トルにピッタリです。
 ソナタは全4曲ですが、1曲はチェロ・ソナタです。有名なの
は『ピアノソナタ第2番』作品35――とくに第3楽章の「葬送
行進曲」があまりにも有名です。付点の動きに詫された悲痛な響
きが全編を印象づけています。
 最後はピアノ協奏曲全2曲。とくに『ピアノ協奏曲第1番』作
品11に人気が集中しています。この作品は1830年8月に完
成された若きショパンの意欲作です。
 ベスト10の10曲が、各ジャンルの代表になるように選曲し
てあります。ですから、この10曲を聴くと、ショパンの作品の
おおまかな全貌は分かります。好きな曲のみ偏って聴かないで、
ぜひ全般的に聴いていただきたいと思います。
          ・・・[ショパンはお好きですか/01]

6.13ショパン.jpg

2008年06月16日

●ショパンをどのように聴くべきか(EJ第696号)

 前回のEJでショパンの作品のベスト10をご紹介しましたが
少しきちんとショパンに取り組んでみたいと思う方は、エチュー
ド全24曲から聴くことをお勧めしたいのです。間違っても「シ
ョパン小品名曲集」のたぐいは買わないようにすべきです。耳慣
れた好きな曲ばかりを聴いてもショパンはわからないからです。
 エチュードには、作品10と作品25の2つがあり、どちらも
12曲ずつで計24曲です。作品10が着手されたのは1829
年のことで、ショパンが19歳のときのことです。そして、作品
25が完成したのが1835年ですから、およそ6年をかけて、
24曲全曲が完成しているのです。
 ところで、エチュードとは「練習曲」のことです。それをショ
パンは19歳から20代の前半に書いているのです。ほとんどの
作品はこれから書くというのに・・・。そして、仕上げられた作
品は途方もなく優れた作品だったのです。
 ピアノの作曲家が練習曲を書くのは、自分の作品をピアノで弾
くためのテクニックの披露ととらえることができます。そういう
観点に立ってこのエチュード全曲を聴いてみると、ショパンの高
度なテクニックを堪能することができます。もちろん、肝心のエ
チュードを弾くピアニストは、厳選する必要があるのはいうまで
もないことです。
 それにしても練習曲にしては何とメロディアスなのでしょう。
練習曲はもともと無機質性でメカニカルな性格を持つ音楽であり
曲としては面白くないものが多いのですが、ショパンのエチュー
ドは違うのです。硬質性で無機質性な中に歌謡的な要素を取り入
れて、曲として非常に魅力ある芸術性の高い作品にしている点は
素晴らしいと思います。
 例えば、作品10−3には「別れの曲」がありますが、その音
楽としての構造はどうなっているか分析を加えてみましょう。
歌の部分は前半と後半だけで、中間部は3度、4度、6度の連
続和音が並んでいて、転調も多く、演奏する者にとっては技巧的
に非常に難しい曲になっているのです。このように、ショパンの
音楽は、一見“歌うがごとき”印象を与えても、実際には“歌え
ない”ものが多いといえます。
 このエチュードはリストに献呈されているのですが、おそらく
リストは自分への挑戦状と受け取ったに違いありません。それは
リストも認めるほど高度なピアノテクニックだったからです。
 エチュードが発表されたときある評論家は次のように述べたと
いわれます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   『前代未聞の練習曲集、この曲を演奏するには側に
外科医が必要であろう』。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 さて、それでは、このショパンのエチュード全曲のCDは、ど
のピアニストが弾いているものを買うべきでしょうか。
 この曲を弾くピアニストとして推奨したいのは、マウリツィオ
・ポリーニです。これは音楽評論家のプロも推奨しており、購入
して間違いないと思います。ポリーニはこの難曲中の難曲を完璧
なテクニックで弾きあげ、テクニックというものを妥協なく極め
ると、こんなふうに聞こえるのだということを教えてくれます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     ショパン/『練習曲』全曲
     マウリッツィオ・ポリーニ/ピアノ
     POCG50071[G]
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 このポリーニに次ぐショパン弾きピアニストとしては、アシュ
ケナージとフランソワがあげられますが、ことエチュードに関す
る限り、ポリーニが他を圧倒しています。
 エチュードを聴いたら、次は何を聴くべきでしょうか。
 独断と偏見でいえば、前奏曲全24曲をお勧めしたいと思いま
す。エチュードも24曲ですし、前奏曲も24曲ですから、ちょ
うどきりがよいと思うのです。
 作品28の24曲をひとつの連作のように演奏するスタイルを
編み出しのは、ショパン弾きの巨匠として知られるアルフレッド
コルトーなのです。コルトーはこの24曲を何回も録音していま
すが、他のピアニストは繰り返し録音しようとしないのです。
 前奏曲、すなわち、プレリュードは、音の万華鏡といわれ、さ
まざまな性格の曲が集められています。
 それでは、前奏曲を聴くときのピアニストとしては誰がベスト
でしょうか。
 定評のあるピアニストとしては、アルゲリッチとポリーニを推
薦することができます。アルゲリッチの良さは、スケールが大き
く、演奏がスリリングであること、そして何よりも既成観念にと
らわれない自発的な感情表現を見せる点が魅力です。ラフマニノ
フがいったように「ショパンはつねに新しい」を地で行くのが、
アルゲリッチなのです。
 しかし、アルゲリッチの盤は1977年、ポリーニの盤も19
74年といささか古いので、現代的なサウンドを期待する向きは
1999年に出したキーシンか、1990年のウラジミール・ソ
コロフ盤がお勧めです。ともに演奏は素晴らしいのですが、内容
ではアルゲリッチということになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ショパン『前奏曲』全曲
 1.アルゲリッチ・・・ UCCG3046[G]
 2.ポリーニ ・・・・ POCG4082[G]
 3.キーシン ・・・・ BVCC31025[R]
 4.ソコロフ ・・・・ OPS2009[仏オーパス]
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 前奏曲は、24曲全部を合わせて1つのプレリュードの世界を
形成しています。こういう傾向の曲はプレリュードだけです。聴
くときはそれを意識して聴くと良いでしょう。
           −− [ショパンはお好きですか/02]

6.16アルゲリッチ.jpg

2008年06月17日

●ショパンはピアノと指の研究家である(EJ第697号)

 昨夜は秋のN響定期の開催日で久しぶりにN響を聴きました。
指揮者は話題の準・メルクル――Aチクルスはブラームス・チク
ルスで、最初の曲は何と『ハンガリア舞曲集』でした。私は40
年来のN響の定期会員ですが、こんなポピュラーな曲から始まっ
たのは珍しいことです。なかなか洒落た面白い演奏だったのです
が、評価は今ひとつというところです。
 昨日の白眉は、2曲目のブラームス作曲『ヴァイオリンとチェ
ロのための協奏曲イ短調作品102』でした。この曲はヴァイオ
リンとチェロが丁々発止と渡り合い、それにオケが絡むという、
かなかの良い曲です。ヴァイオリンは戸田弥生、チェロは原田禎
夫のコンビ――なかなかの名演奏でした。
 今朝もショパンの話です。ショパン研究家の意見によると「真
にショパンを知りたいと思うならば、エチュード、マズルカ、ノ
クターンを聴くべし」ということがよくいわれます。これら3つ
のジャンルは、ショパンの作品の中でも初期に属するものなので
すが、これらのジャンルがショパンの後の主要作品のベースにな
っていることは確かなことです。それに、もしこれら3つのジャ
ンルがなかったら、ショパンの音楽は、かなり味気のないものに
なっていたはずです。
 ショパンのこれら3つの分野と不可分に結びついているものと
いえば、それは「ピアノ」という楽器です。ショパンという音楽
家は、まず、ピアノの演奏家としてデビューし、いわゆる“ピア
ノ弾き”としては、あっという間にリストと肩を並べる域に達し
ています。
 リストという人は、聴衆をひきつける圧倒的なピアニストとし
ての能力と、ショー的なアクロバット的奏法で有名になった音楽
家です。そのリストに唯一対抗できるピアニストは、ショパンし
かいないといわれたのです。
 このリストとショパンを比較した評価には次のようなものがあ
ります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「リストに匹敵する演奏家ならまずショパンで、ショパンなら
 ば少なくとも絶妙を極めた鋭敏・優雅という点では一歩も譲ら
 ない」―――シューマン
 「リストに比べるとどんなピアニストも見劣りしてしまうが、
 ショパン一人は例外で彼はピアノのラファエルである」
 ―――ハイネ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、ショパンはその後作曲家としての本領を発揮していく
のです。ちょうどそのときピアノという楽器の改良と発展の時期
に当たっていたのです。当時最も高性能で高品質であったピアノ
は、プレイエル社のグランドピアノだったのです。
 このグランドピアノは、当時の最新のテクノロジーを備えてお
り、夢の新製品。ショパンはこのピアノに没頭し、ピアノの音を
生かした音楽創造にのめり込んでいったのです。この頃からショ
パンは、超高速でピアノを弾くというようなアクロバッティング
演奏家とは訣別し、ピアノという楽器を手段とする作曲家として
才能を伸ばしていくことになります。
 ショパンは、ピアノというものを「弦楽器と違って音を創るこ
とから始めなくていい楽器」としてとらえています。音を創るの
は調律師の仕事であり、鍵盤をたたきさえすれば、誰でもその音
を得ることができるのです。しかし、その鍵盤をたたく指につい
て研究する必要があるといっています。
 ショパンは「ハ長調は譜読みは易しいけれども、(指の)支点
がないので、なめらかに弾くのは最も難しい。しかし、ロ短調な
どは長い指(ひとさし指)の部分が黒鍵にあたるので、手の構造
に適しており弾きやすい」というように、鍵盤と手との関係につ
いてきわめて合理的に述べています。
 ショパンは晩年に「ピアノ・メソード」という本を書こうとし
ていたので、ピアノとその弾き方に関するさまざまな記述が残さ
れているのです。しかし、「ピアノ・メソード」は、完成せず、
草稿だけが残されていますが、ショパン研究者にとっては貴重な
資料になっています。
 ショパンが、指とピアノとの関係について記述した一部をご紹
介しましょう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『“指”を使って音を出さなければならないのだから、最も効
 率よく音を出せるようにしなければならない。そのためには当
 然指が運動しやすい状態を作ること。指が運動しやすいように
 するためには、指がついている手、手首、ひじ、腕全体も参加
 せねばならない。さらにピアノに向かう位置と距離、鍵盤に対
 するひじの高さなどを定めれば、あとは指そのものの問題だけ
 である』。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このように、ショパンは、指とピアノとの関係についてそれこ
そ徹底的に研究しているのです。そして、ショパンは、「運動し
やすい指とは伸ばした指ではなく、丸みをつくった指――自由に
動ける柔軟性をもった指である」と結論を出しているのです。
 アンドレ・ジイドは、ショパンの音楽は即興性を重視すべきだ
と主張し、ショパンを弾くことは、一つ一つの音を発見するよう
に、手をまるめて、どちらかというとたどたどしく弾くべきだと
いって物議をかもしたことがあるのですが、ショパン自身も手を
丸めて弾くように教えているのです。
 ショパンはこういう指の研究について、「ピアノ・メソード」
で次のように結論づけています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『芸術は無限であっても手段は限られているのだから、この
 限られた手段をいかに無限なものとして表現するかを考えな
 ければならない』――ショパン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          ・・・[ショパンはお好きですか/03]

6.17準・メルクル.jpg

2008年06月18日

●『ハウルの動く城』には原作がある(EJ大1509号)

 本日から掲載する13本の記事は、2005年1月12日から
28日までEJとして公開した映画評論です。最近は、宮崎作品
をテレビでもやるようになっており、DVDなどでも観る機会は
多くなっておりますので、再録することにしました。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 2004年の暮れに話題のアニメーション映画『ハウルの動く
城』を観ました。『千と千尋の神隠し』に続く最新の宮崎駿監督
作品です。EJで映画をテーマに取り上げることは今まで何回も
ありますが、そのときいつも思うことは次のことです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   1.既にこの映画を観た人を対象にして書くのか
   2.まだ映画を未鑑賞の人を対象にして書くのか
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 宮崎駿監督作品には多くの謎が散りばめられています。ですか
ら、それらについてああでもないこうでもないといろいろ論評す
ることができます。しかし、こういう論評が面白いのは、映画を
観た人に限られます。映画を観ていなければ、何のことだか全然
わからないからです。
 それでは、映画を観ていない人に対して上映中の映画について
あまり書くと「ネタバレ」といって、映画の面白さを奪ってしま
う恐れがあります。しかし、宮崎作品については、「ネタバレ」
についてあまり心配しなくてもいいと思います。むしろ作品に関
してある程度知識を持っている方が楽しめると思うからです。
 そこで、しばらく『ハウルの動く城』をテーマに書いてみたい
と思います。この映画を観た人も観ていない人も楽しめる内容に
することを目指し、これからこの映画を観ようと考える人のガイ
ドになればよいと考えています。
 しかし、かくいう私は『ハウルの動く城』を何の予備知識なし
に観たのです。その直後の感想は次の2つです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.2時間の作品であるのに飽きずに楽しく最後まで観ること
   ができたこと。
 2.『千と千尋の神隠し』に比べ宮崎作品にしては迫力不足の
   感があること。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 上記の2に関しては理由があります。それは、『千と千尋の神
隠し』はオリジナルであるのに対して、『ハウルの動く城』には
次の原作があるということです。「迫力がない」と考える原因の
一端はそのあたりにある考えられます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   ダイアナ・ウィン・ジョーンズ作/西村醇子訳
   『魔法使いハウルと火の悪魔』
   徳間書店刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この本は現代英国を代表するファンタジー作家ダイアナ・ウィ
ン・ジョーンズが1986年に出版した作品です。英国にはファ
ンタジー文学の長い歴史がありますが、何といっても、ファンタ
ジー文学に熱い注目が集まるようになったのは、J・K・ローリ
ングの『ハリー・ポッターと賢者の石』(1997年)からであ
ると思います。そして、先輩格のダイアナ・ウィン・ジョーンズ
も注目されるようになったのです。
 原作は300ページを超える大作ですが、映画を観たあと、購
入して読んでみたのです。原作がどのような話であるかをごく簡
単にまとめると次のようになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 物語は魔法が実際に存在している国の話。そこに住む強い力を
 持つ魔法使い「荒地の魔女」によって90歳の老婆に変身させ
 られた18歳の帽子職人ソフィーは、子供なのか大人なのかわ
 からない青年魔法使いハウルの動く城に入り込み、勝手にお手
 伝いとして居候をはじめ、その中でハウルを支えながら最後に
 「荒地の魔女」をやっつけるという話である。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 注意していただきたいのは、これは原作の話であるということ
であり、映画の方は原作のように必ずしもわかりやすくはないと
いうことです。というのは、映画は、前半については原作にほぼ
忠実ですが、後半はかなり違っているからです。
 それにしても宮崎監督は、どういう理由でこの原作を選んだの
でしょうか。これについては、スタジオジブリ・プロデューサー
鈴木敏夫氏が社会思想史の稲葉振一郎氏の対談で次のように述べ
ています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  それはもう端的に「動く城」という言葉です。その原題を見
 つけた時に彼は興奮したのですね。彼は児童書を本当に丹念に
 読む人ですが、たとえば、タイトルに「庭」とついている本、
 全部に感動するんです。
  どういうことかといえば、そこに登場する庭というものが自
 分の中で膨らむわけです。どのくらいの広さで、どういう建物
 があって、木々はどんなのが生えていて、今の季節はいつごろ
 である。と、その庭が読んでいくうちに完成して、素晴らしい
 話になっていくわけです。         ――鈴木敏夫氏
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 つまり、宮崎氏は原作を読んでいくうちにいろいろなイメージ
が頭の中に自分のイメージとして膨らんできて、作品の骨格がで
きてしまうのです。したがって「動く城」の一語で、半分くらい
はできてしまうのです。
 そして、残りの半分は18歳のソフィーが90歳の老婆にされ
てしまうという部分を描くことになります。宮崎監督作品には必
ず少女が登場しますが、『ハウルの動く城』では90歳の老婆が
最初から最後まで登場する――宮崎監督にとっては、原作のこの
2つだけあれば、十分それで作品ができてしまうのです。ですか
ら結果として、原作とは内容的に大きく違ってくることはあり得
る話なのです。
 しかし、宮崎監督は、90歳の老婆が終始画面に登場すること
には相当頭を痛めたようです。そこで、映画では、宮崎流のテク
ニックでこれを見事に克服しているのです。
               −− [ハウルの動く城/01]


≪画像および関連情報≫
 ・原作者/ダイアナ・ウィン・ジョーンズ
  1934年イギリス生まれ。オックスフォード大学セントア
  ンズ校ではトールキンに師事。大学卒業と同時に結婚。3人
  の子供に読み聞かせをするうちに、自分でもファンタジーを
  を書き始める。英国では「現代の英国児童文学界で最も独創
  性と意外性に富んだ作家」として評価が高い。

『ハウルの動く城』の原作.jpg

2008年06月19日

●話の方向性がない『ハウルの動く城』(EJ第1510号)

 映画『ハウルの動く城』を観て感ずるのは、話が発展していか
ないということです。つまり、この映画はどこに向かって話が進
んでいくのかよくわからないのです。
 スタジオジブリのプロデューサー鈴木敏夫氏と映画監督石井克
人氏との対談で次のようなやりとりがあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 鈴木:この映画は1時間観ていてもまだ話が始まらない。1時
    間半観ていても、まだ始まらない(笑い)。
 石井:「話が始まる話」みたいなものですよね。
 鈴木:だからさすがに、宮崎本人も「困ったな」って。「鈴木
    さん、どうやって進めたらいいんだろう」っていうんで
    すから(笑い)。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 話が進まないように感ずるのは、荒地の魔女によって、90歳
の老婆にされてしまったソフィーの魔法を解く方向に話が進んで
いかないからです。この点『千と千尋の神隠し』では、湯婆婆に
よって豚に変えられてしまった両親を元のに人間に戻すという目
的があって、話がそれに向かって進んでいて、さすがにそれは最
後に達成されています。
 しかし、湯婆婆によって多くの豚の中でどれが両親か当てよと
いわれて千尋はそれを見事にクリアするのですが、彼女になぜそ
れができたのかは明らかにされていないのです。宮崎作品ではそ
ういうことは少なくないのですが、『ハウルの動く城』ではとく
にそうことが多いように感じます。
 『ハウルの動く城』では、90歳の老婆にされたソフィーにか
かった魔法が解けたのかどうかがはっきりしないのです。しかし
ソフィーはいつも老婆の顔ではなく、寝ているときは元の18歳
に戻りますし、そのときどきの状況において、元の顔に戻ったり
顔は老婆でも姿勢が伸びてシャンとしたりするのです。つまり、
年齢が行き来するわけです。
 これに関して宮崎監督は次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  63歳になったとき自分にもそういう経験があるけれども、
 人と話をしていて、自分が20代の若者になっている時もある
 し、少年になっている時もある。そうかと思えば、自分がまだ
 達していない80歳のおじいちゃんになっている時もあって、
 それを絵にしたに過ぎない。        ――宮崎駿監督
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 さて、映画『ハウルの動く城』の時代背景について述べておく
ことにします。
 物語の舞台となる王国は「インガリー」――首都は「キングズ
ベリー」といったのです。この王国にはごく普通に魔法が存在し
それ自体が異界だったのです。魔法使いもたくさんいたのです。
蒸気機関は既に存在していたものの、電気はまだなく、発展途上
の国で、周辺諸国と戦いが盛んでした。国には愛国主義者があふ
れている――映画の舞台はそんな王国だったのです。
 そういう魔法が存在する国で長女に生まれるのは、非常につい
ていないことだったのです。もし、兄弟で運試しに出れば長男や
長女は真っ先に失敗する――そういういい伝えが存在したからな
のです。
 そういう国にソフィー・ハッターは三人姉妹の長女に生まれた
のです。両親は比較的裕福で、女性向けの帽子専門店を営んでい
たのです。しかし、三人姉妹が幼いときに母親が死に、父親は若
くて美人のファーニーという店員と再婚――やがてその父親も死
んで、結局、帽子店は長女のソフィーにまかされることになった
のです。ソフィー18歳のときのことです。
 その頃、巷では荒地の魔女の噂がさかんに聞かれるようになり
ます。それに町の丘陵地帯に背の高い奇怪な形をした城があらわ
れ、あちらこちらに移動するようになったのです。城には4本の
足があり、どこへでも移動できたのです。
 人々はその城も荒地の魔女の一味であり、一緒になって国に攻
めてくると恐れたのですが、その城は丘陵地帯をうろつくだけで
けっして町には下りてこなかったのです。そして、その城の持主
は、魔法使いハウルだとわかります。ハウルは若い女性の心臓を
食べるといわれており、非常に恐れられていたのです。
 映画『ハウルの動く城』は、こういう舞台から始まることにな
るのです。実は、原作者のダイアナ・ジョーンズは1934年に
ロンドンで、ソフィーと同様三人姉妹の長女に生まれたのです。
そういうわけで、ジョーンズは自分を擬して小説の主人公を決め
たものと思われます。
 映画『ハウルの動く城』と原作とでは舞台背景は同じですが、
敵となる魔女の設定に大きな違いがあります。映画では、キング
ズベリー王国では、王室付きの魔女であるサリマンが一番強力な
魔女であり、戦争などはすべてこのサリマンが起こしていたので
す。そして、荒地の魔女はサリマンによって魔力を奪われ、ハウ
ルの城の居候の一人になってしまうという設定です。
 これに対して原作では、一番強力な魔女は荒地の魔女であり、
王様はサリマンに命じて荒地の魔女を退治させようとしたのです
が、返り討ちにあって逆に殺されてしまっています。したがって
原作では荒地の魔女退治が目標となるのです。
 もうひとつ城は映画では4本の足があり、歩き回るのですが、
これは宮崎流なのです。原作の城には足がなく、空中を浮遊して
移動しているのです。したがって、原作があるといっても、その
内容はかなり大幅に変えられているのです。このため映画の意味
がわからなくて原作を読んでも、かえってわからなくなることが
多いのです。
 映画における最初の謎は、なぜ、ソフィーが荒地の魔女に魔法
をかけられ、90歳の老婆にされてしまうのかということです。
最初の時点でその意味がよくわからないまま映画は進行するので
方向性がなくなってしまうのです。
               −− [ハウルの動く城/02]


≪画像および関連情報≫
 ・映画『ハウルの動く城』のコピー

   ヒロインは90歳の少女。
   恋人は弱虫の魔法使い。

   ふたりが暮らしたハウルの動く城。
   このばあさんがかなり元気!
  
   宮崎駿が描く
   生きる楽しさ愛する歓び。

   全世界注目の感動超大作。

ハウルの動く城.jpg

2008年06月20日

●宮崎駿における制約的魔法の世界(EJ第1511号)

 宮崎監督が描く世界の多くには、われわれが住む人間世界と異
世界が登場します。『千と千尋の神隠し』では人間界と異界の境
はあのトンネルであり、そういう具体的な境が存在したことが話
を分かりやすくしていたと思います。
 しかし、『ハウルの動く城』では、その境ははっきりせず、人
間界と異界が一体化しているのです。人々が生活する普通の町が
あり、その町から見晴らせる丘陵地帯には異様な形をしたハウル
の城が闊歩している――そして、町にはときどき人間の形をした
荒地の魔女が姿を現すといった具合です。原作者による「魔法が
本当に存在する国インガリー」という表現はそれを意味している
のです。
 これが、あのハリー・ポッターの世界であれば、人々は初めか
らそこが異界であることを認識しているのでかえって分かりやす
いのですが、混然一体となっていると「ついて行けない」人も出
てくる可能性があります。
 ここで宮崎監督の魔法観といったものについて述べておきたい
と思います。宮崎作品はいずれもファンタジーあふれるものであ
り、そこでは人間界では絶対にできないことが簡単に実行されて
しまうことが少なくありません。
 しかし、それはディズニーやハリー・ポッターのそれとはまっ
たく異なるのです。宮崎アニメにおける魔法では、カボチャを馬
車に変えたりはしないし、コンクリートの壁をスルリとくぐり抜
けることはないのです。宮崎アニメの魔法には多くの制約がかけ
られており、せいぜい空を飛ぶことができるぐらいです。
 そして、宮崎監督自身は「魔法のダメさ加減」を随所で強調し
ているのです。映画『ハウルの動く城』において、ハウルが魔法
使いサリマンに対して次のようにいうセリフがあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 確かに、魔法のおかげでこの王宮には爆弾は当たらない。その
 かわり、まわりの町に落ちるのだ。魔法とはしょせんその程度
 のものだ。        −−映画『ハウルの動く城』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 映画批評家である南波克行氏は、宮崎駿の描く魔法について次
のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  『魔女の宅急便』で修行中のキキがやることといえば、ホウ
 キで空を飛んで、荷物運びをする程度。キキの能力は、空を飛
 ぶだけなので、それ以外のピンチは生身の力で解決しなければ
 ならない。
  飛行機から落下しようとする、親友トンボのピンチに魔法の
 杖で対処できるわけではなく、結局はホウキにまたがり、「愛
 と勇気」の力で救出しなければならないものだ。
                      ――南波克行氏
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 かかる制約の中で、なぜ、空だけは飛べるのでしょうか。
 それは宮崎監督自身が空を飛んでみたいと思っているからでは
ないでしょうか。とにかく宮崎アニメには空を飛ぶシーンが多い
のです。
 『千と千尋の神隠し』におけるハクと千尋の空中飛行、そして
今回の『ハウルの動く城』におけるハウルとソフィーの飛行シー
ン――いずれも印象に残るシーンです。宮崎作品の飛行シーンに
はスタジオジフリの高度な技術が使われており、いずれも美しく
描かれているからです。
 この飛行シーンについて、前出の南波克行氏は次のようにいっ
ています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ソフィーを救出したハウルは、そのまま追っ手から逃げる。
 流れるような疾駆の後、逃れる先はもちろん空だ。その時、ソ
 フィーの手をとってふうわりと宙に浮くその空気感。息をのみ
 ながらも、失われた重力を全身で受け止めて、浮遊感たっぷり
 に身体を丸めるソフィーの姿。いつもながら、宮崎動画の技が
 冴えわたる。               ――南波克行氏
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 実は、このハウルとソフィーの空中逃避→空中散歩のシーンの
直前のシーンにも何気ない魔法が展開されているのです。映画の
冒頭に、ソフィーは町で兵士に執拗にからまれて困っているシー
ンがあります。
 そこに背後からハウルが現れて、ソフィーを後ろからそっと抱
きかかえて、兵士たちを魔法を使ってあらぬ方向に散歩に行かせ
ます。そのとたん、道の周りの壁から追っ手の化け物が続々とし
み出してくるのです。それから逃れるため、ハウルはソフィーの
手を取って空中散歩にいざなうのです。
 魔法がごく自然に展開・応酬されているのですが、それが流れ
るように進行しています。「魔法が自然に存在する世界」という
設定が守られているのです。
 もうひとつソフィーがハウルに助けられた日の夜、高価な衣装
に身を包んだ貴婦人がソフィーの帽子店を訪ねてきます。その貴
婦人は実は荒地の魔女であり、ソフィーは彼女の操る魔法によっ
て、その場でごく簡単に90歳の老婆に姿を変えられてしまうの
です。それはごく自然に行われており、いつ変えられたのか、当
のソフィーも気が付かなかったほどなのです。
 これに比べると『千と千尋の神隠し』における湯婆婆の魔法の
表現は過剰に眩惑的であって、いかにもこれから魔法を使うぞと
いう演出があったのです。したがってこれは、いわば魔法の技術
革新といえると思うのです。
 魔法といえば、火の悪魔カルシファーのことに触れないわけに
はいかないでしょう。カルシファーはハウルと契約を結んでおり
城の動力源を担っているのです。カルシファーはその契約に縛ら
れており、城の住人になったソフィーに働きかけて、契約をホゴ
にしようとしているのです。  −− [ハウルの動く城/03]

≪画像および関連情報≫
 ・ハウル・ジェンキンズ
  動く城の主。ペンドラゴンという名前をいつも使っている魔
  法使い。強力な力を持ちながら、王宮からの要請に応じず、
  毎日を無為に過ごしている青年。かつてキングズベリーの王
  室にいたことがあるらしい。

ハウルとソフィー.jpg

2008年06月23日

なぜ、ソフィーは90歳の老婆にされたのか(EJ第1512号)

 映画『ハウルの動く城』における魔法の話を続けます。映画の
冒頭で、ソフィーの帽子店を訪ねてきた荒地の魔女は、ソフィー
に魔法をかけて、彼女を90歳の老婆に変えてしまいます。それ
もさりげない方法であっさりとやってしまうのです。
 しかし、なぜ、ソフィーがそうされなければならないのか――
これがいまひとつはっきりしないのです。映画ではそれについて
ちゃんとした説明がないからです。
 映画の冒頭において、町で兵士に囲まれて困っていたソフィー
をハウルが助けるシーンがあります。その直後、得体の知れない
化け物が周囲の壁からしみ出してきて、ハウルに次々と襲いかか
ります。そこで、ハウルはソフィーの肩を抱いて空中に舞い上が
り、追っ手から逃れるのです。そのとき、ハウルはソフィーにこ
うささやくのです。「巻き込んでしまったようだね」と。
 この追っ手は荒地の魔女の手下なのです。ハウルと荒地の魔女
とは魔法使い同士で張り合っていて仲が良くない。そういうわけ
で、ソフィーはハウルの一味であるということで、荒地の魔女は
ソフィーの帽子店に押しかけ、彼女を90歳の老婆にしてしまう
――これが観客の一般的な解釈です。しかし、それにしてもあま
りにも過剰反応だと思いませんか。なぜなら、ソフィーはその日
ハウルにはじめて会っただけで、ハウルの一味なんかではないか
らです。そのことを荒地の魔女が知らないはずはないのです。
 何か別な理由があるに違いない――私はそう考えて原作をてい
ねいに読んでみたのです。ソフィーが90歳の老婆に変えられる
シーンは、原作ではどう書かれているでしょうか。
 その夜、ソフィーの店に馬車で乗りつけた荒地の魔女は、帽子
を吟味します。荒地の魔女は、ソフィーが差し出す帽子にいちい
ち難癖をつけます。ソフィーは最後にこれしかないとしゃれた白
黒の帽子を彼女に差し出します。なお、「ハッター」というのは
ソフィーの苗字です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  客は軽蔑もあらわにその帽子を見やりました。「誰にもなん
 の効き目もないじゃない。時間を無駄にしてくれるわね。ハッ
 ターさん」
  「そもそも、うちの店で帽子が見たいとおっしゃるからです
 よ」ソフィーは答えました。「奥様、うちはしがない帽子屋で
 す。なぜ、あなたみたいな方がわざわざうちへおいでになった
 のでしょう」――一部略
  「荒地の魔女にはりあおうとする者がいたら、ほっておかな
 いのがわたしの方針」と客が答えました。「おまえのことは聞
 きました。お前がはりあおうとしても、つべこべへりくつ言っ
 ても、あたしは平気。やめさせてやる、ほら」客はソフィーの
 顔に向けて手をぱっと動かした。
  「あなたが荒地の魔女ですって?」ソフィーは震え声でたず
 ねました。恐怖と驚きで声がへんになった気がします。
         ――原作『魔法使いハウルと火の悪魔』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 恐怖と驚きで声がへんになったのではないのです。そのとき、
ソフィーは90歳の老婆に変えられてしまっていたのです。
 ここで留意すべきは、「荒地の魔女にはりあおうとする者がい
たら、ほっておかないのがわたしの方針」と魔女がいっている点
です。つまり、ソフィーは荒地の魔女の気に入らないことをやっ
てしまったのです。本人は気づいていないのですが・・・。
 既に述べたように、ハウルやソフィーの住む異世界では、魔法
が本当に存在する国という設定です。魔法使いたちは魔法使いに
なるための特別訓練を受けた認定済みの身分なのです。ですから
ソフィーが魔法を使ったとしても不思議はないのです。
 実はソフィーの作る帽子には不思議な魔力があって、その帽子
をかぶると生命力が活発になって元気になるのです。これが荒地
の魔女にとっては気に入らないこと――つまり、自分とはりあっ
ていると感じたのです。ただ、ソフィーはそのことに気づいてい
ないのですが・・・。
 原作では、90歳のソフィーがハウルの母親と偽ってペンステ
モン夫人と会うシーンがあります。ペンステモン夫人は引退した
魔女の先生です。彼女は、サリマンやハウルに魔法を教えた先生
なのです。そこで、こんなやりとりがあるのです。なお、ペンド
ラゴンというのはハウルの仮名であり、ソフィーはハウルの母親
に成りすましているので、そう呼ばれるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 杖にのせたペンステモン夫人の両手が少しゆらぎました。「そ
 れです。「ペンドラゴンさん、あなたが契約を破らなければ」
 「やり方さえわかれば、いたしますが」
 「あなたの母親としての愛情と、強い魔力をもってすれば、や
 り方はおわかりになるはずです。お気づきではなかったでしょ
 うが」
 「いいえ、気づいていました」
 「・・・私はあなたの魔力が好きですわ」夫人は続けます。
 「物に命を吹き込む力ですね。ほら、その杖もあなたに話しか
 けられたおかげで、世間で言う魔法の杖になっていますもの。
 あなたなら、契約を破るのだって難しくはないはずです」
         ――原作『魔法使いハウルと火の悪魔』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このシーンは映画では、魔法使いの王サリマンとハウルの母親
に成りすましたソフィーとの接見のシーンになっています。しか
し、そこでの話は、たびたび戦争に参加するよう要請されている
ハウルの代理人として戦争などやめて欲しいと訴えるシーンに変
わっています。なお、このペンステモン夫人の話に出てくる「契
約」とは、ハウルとカルシファーとの間の契約の話です。
 このハウルとカルシファーの契約については、理解しておくと
映画の見方が変わりますので、明日のEJはこれについて述べる
ことにします。このところEJは異世界にいます。
               −− [ハウルの動く城/04]


≪画像および関連情報≫
 ・原作者のダイアナ・ウィン・ジョーンズがイメージした「動
  く城」には足がない。イラストを参照。

足のない動く城.jpg