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このブログは、異文化研修の教育機関(株)インテック・ジャパンの情報発信用です。(株)イー・メディアとの提携により、同社のドキュメント・レポート「Electronic Journal」をウィークデイの毎日お届けします。
「Electronic Journal」は様々な情報を400字詰原稿用紙7枚にまとめて配信する日刊メールマガジンです。

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2008年03月10日

指揮台に立つのが事件といわれる指揮者(EJ第1466号)

●指揮台に立つのが事件といわれる指揮者(EJ第1466号)

 2004年7月13日――カルロス・クライバーという高名な指揮者がその74年の
生涯を閉じています。この指揮者、近年ほとんど演奏をやっておらず、クラシック音楽
ファンでなければ、名前を知らない人も多いかも知れません。
 しかし、実演にせよ、ビデオにせよ、CDにせよ、一度でも彼の指揮する音楽を聴い
た人であれば、忘れることのできない鮮烈な印象を与える指揮者であるといえます。
 指揮者というのはオーケストラで唯一楽器を演奏しない音楽家です。したがって、た
とえば、ベートーヴェンの交響曲第5番ロ短調「運命」を何人かの指揮者の演奏で聴き
比べても、少なくとも音楽の素人には、そこにはっきりとした違いを見つけられないこ
とはよくあることです。
 しかし、カルロス・クライバーの場合は違うのです。たとえば彼の指揮した「運命」
は、音楽にあまり詳しくない素人が聴いても、明らかに他の指揮者との違いを感ずるは
ずです。クライバーはそれほど凄い指揮者であるといえます。したがって、カルロス・
クライバーの死は、一般の音楽ファンにとっても大きなニュースであり、EJのテーマ
として彼の音楽論を取り上げる価値はあると思います。
 それはさておき、指揮者といえば、新聞などで報じられていないあるニュースがあり
ます。2004年10月23日(土)にN響のAチクルスの演奏会があったのです。N
響は、この秋のシーズンから、新音楽監督にウラディーミル・アシュケナージが就任し
ているのですが、23日はそのアシュケナージが、Aチクルスにはじめて登場したので
す。演奏曲目は次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      ≪ウラディーミル・アシュケナージ音楽監督就任記念≫
       チャイコフスキー/交響曲 第3番 二長調 作品29
       チャイコフスキー/交響曲 第4番 ヘ短調 作品36
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ところが、開演直前の午後5時56分に第1回目の地震があったのです。この地震は
東京でも相当揺れたので、N響側としては開演を10分程度遅らせたのです。そして、
第1曲目がはじまったのですが、午後6時30分過ぎにも地震が起こっています。
 演奏は何事もなく進められましたが、あとから考えると指揮者のアシュケナージの様
子は、左手をかばうように動かさないなどどことなくおかしかったのです。その後も何
度か余震はありましたが、とにかく第1曲目は無事に終了したのです。
 しかし、アシュケナージは地震のショックによって、指揮棒で左手の手のひらを突き
刺し、裂傷を負っていたのです。そのためアシュケナージは1曲目が終了すると直ちに
病院に運ばれ、第2曲目はコンサート・マスターの指揮で行われたのです。
 このようなことは、普通の音楽会では起こりえないことです。しかし、それがN響の
定期公演で起こったのです。新音楽監督のアシュケナージにとって何とも不幸なスター
トとなってしまったようです。どうも今年のNHKはついていないと思います。
 カルロス・クライバーの話に戻ります。こういう高名な音楽家が亡くなると、CDシ
ョップでは、追悼イベントが行われるのがつねですが、クライバーの場合、非常に遺し
た作品が少ないのです。とにかくクライバーは、指揮台に立つこと自体が「事件」とし
て騒がれるほど公演回数が少なかったので、ビデオやCDで聴ける作品は数えるほどし
かないのです。
 このカルロス・クライバーのことを評して、かのヘルベルト・フォン・カラヤンは次
のようにいっています。
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       この芸術家が音楽することを楽しむ機会があまりにも少ない
      のは残念。彼が指揮するのは冷蔵庫の中身を補充する必要に迫
      られたときだけだ。    ――ヘルベルト・フォン・カラヤン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 カラヤンとクライバーはあまり親しくはないのです。カラヤンは、生前クライバーを
ただの一度もベルリン・フィルに招くことはなかったといわれています。おそらくカラ
ヤンは誰よりもクライバーの天才ぶりを熟知しており、自分の影が薄くなるのを恐れた
のではないかといわれているのです。
 しかし、クライバーの方はカラヤンを尊敬していたのです。こんな話があります。カ
ラヤンがザルツブルグ・イースター音楽祭において指揮する、「ニーベルングの指輪」
の「ジークフリート」をリハーサルしたとき、クライバーは14日間も勉強のために客
席に座り続けていたというのです。そのとき、既にクライバーは指揮者として大成して
いたのですが、彼は文字通りカラヤンのリハーサルから何かを学ぼうとしていたのです。
 カルロス・クライバーは、日本が非常に気に入ったらしく、全部で5回の来日公演を
行っています。これを見ると、日本における公演回数は非常に多く、日本の音楽ファン
は恵まれていたといえます。彼はこれ以外にもお忍びで2回も来日しているのです。
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      1.1974年 バイエルン国立歌劇場 ・・・・  4公演
      2.1981年 ミラノ・スカラ座 ・・・・・・ 10公演
      3.1986年 バイエルン国立管弦楽団 ・・・  8公演
      4.1988年 ミラノ・スカラ座 ・・・・・・  6公演
      5.1994年 ウィーン国立歌劇場 ・・・・・  6公演
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                          ・・・ [クライバー/01]


3.10カルロス・クライバー.jpg

2008年03月11日

ヒンデミット事件とクライバー一家(EJ第1467号)

 カルロス・クライバーはどのような指揮者なのか、その音楽はなぜ注目されるのか、
なぜ、公演回数が少ないのか――カルロス・クライバーには数多くの疑問があります。
今朝からひとつずつそれらの謎を解いていきたいと思います。
 まずカルロス・クライバーはどこの国の人なのでしょうか。最初に答えをいうと、オ
ーストリア人なのです。しかしカルロスは、1930年にベルリンで誕生しています。
カルロスの父親で大指揮者のエーリッヒ・クライバーは、カルロスを自分と同じオース
トリア人として出生届を出しています。そのときの名前は「カール」だったのです。
 そのときドイツはナチス政権時代――エーリッヒはベルリン歌劇場に職を得ていたの
ですが、多くの音楽家がそうであったように、父親のエーリッヒはナチス政権に反旗を
翻し、南米のブエノスアイレスに移住します。そしてそこでアルゼンチン国籍を取得す
るのです。これに伴い息子の名前の「カール」はスペイン語の「カルロス」に改められ
たのです。
 指揮者として有名になってからのカルロスは、ミュンヘン郊外に居を構えており、仕
事のほとんどはドイツからのものであったにもかかわらず、ドイツ国籍を取ろうとせず
50歳になったときにオーストリア国籍に復帰しているのです。そのためか、カルロス
はウィーンで好意的に見られているのです。
 さてなぜ、父親のエーリッヒがナチス政権と決別してアルゼンチンに移住したのかと
いうと、それには有名な「ヒンデミット事件」といわれる事件がからんでいるのです。
 ヒットラーを中心とするナチス政権は、1933年以降徹底したユダヤ人迫害政策の
ひとつとして、政治的側面のみならず芸術的側面にもさまざまな破壊活動を行ったので
す。そのナチス政権によって、その芸術を「頽廃」と決めつけられたドイツ人作曲家が
パウル・ヒンデミット(1895〜1963)だったのです。
 ヒンデミットは、優れたヴァイオリンやヴィオラの演奏家であり、作曲家であると同
時に教育家でもあったのです。1927年からはベルリン音楽大学で教鞭を取っていま
すし、のちに米国にわたって、イェール大学の教授にもなっているのです。1953年
以降はスイスに移り住み、晩年はもっぱら指揮者として活躍し来日公演も行っている人
です。
 さて、ナチス政権が「頽廃」と極めつけたのは、ヒンデミットの作曲した歌劇「画家
マチス」だったのです。近年の研究によると、マチスは「マチス・ナイトハルトまたは
ゴールドハルト」と呼ばれており、「キリストの磔刑」などが代表作です。
 マチスは大司教に仕える画家でしたが、中世農民戦争に関わり改革派に加担している
のです。歌劇では、自分の芸術とは誰のためのものかを自問する主人公の苦悩を中心に
権力と芸術との関係に言及していたため、ナチス政権は気に入らなかったのです。
 ヒンデミットのこの歌劇「画家マチス」を上演しようとしたのが、ベルリン・フィル
の音楽監督であったフルトヴェングラーなのです。しかし、歌劇場長官のゲーリングか
ら上演禁止を命令されます。
 これを知ったヒンデミットは、歌劇「画家マチス」を交響曲に書き換えるのです。そ
して、1934年10月に交響曲「画家マチス」は、フルトヴェングラーの指揮による
ベルリン・フィルによって初演され、大変な成功を収めたのです。
 それと同時にフルトヴェングラーは、1934年11月25日付の「ドイチェ・アル
ゲマイネ・ツァイトゥング」紙上に『ヒンデミットの場合』という論説を書き、ヒンデ
ミットを全面的に擁護したのです。
 この反響は驚くべきものだったのです。新聞はたちまち売り切れ、増刷をするほどだ
ったというのです。この論説が発表された日の午前中にベルリン・フィルの公開練習が
あったのですが、フルトヴェングラーの勇気ある発言に感動した人たちが会場を埋め尽
くし、彼が姿を現すと、全員立ち上がって足を踏み鳴らしての大拍手が20分間も止ま
らなかったといわれています。
 そして、その日の夕方、国立歌劇場でワーグナーの歌劇「トリスタンとイゾルデ」が
フルトヴェングラー指揮によるベルリン・フィルの演奏によって上演されたのです。そ
のときもフルトヴェングラーが姿を現すと、午前中と同じことが起こったのです。
 そのときの模様をフルトヴェングラーの秘書であるガイスマーは、次のように書いて
います。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       切符は完全に売り切れてしまっており、ゲーリングもゲッペ
      ルスも共に各自の専用桟敷席に収まっていたが、フルトヴェン
      グラーがオーケストラ・ピットに姿を見せたとたん、朝のフィ
      ルハーモニーで起こったのと同じことが起こった。何者でも止
      めることのできぬ、あたかも永遠に続くかと思われるほどの拍
      手が劇場いっぱいに広がった。あの素晴らしい前奏曲が始まり
      憂愁につつまれた美しい雰囲気が作品をいっそう盛りあげて、
      それはすべての聴衆の心に深く浸透していった。終演後にもま
      た開演の時のような拍手の嵐が再現した ――ガイスマー著、
              筒井圭訳、『フルトヴェングラーと共に』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ゲーリングとゲッペルスは、この事態に危機感を抱きます。そして、それをヒットラ
ーに伝えます。その結果、フルトヴェングラーはベルリン・フィルを辞職します。彼の
ことですから、世界各国のオケから誘いがかかったのですが、それらをすべて断り、あ
えて、ドイツ国内にとどまったのです。「俺はこの国がどこに行くのか、見極める必要
がある」として・・・。
 エーリッヒ・クライバーは、フルトヴェングラーの考え方に公式に賛同を示し、ベル
リン歌劇場を辞職するのです。そして、家族全員で、アルゼンチンに移住します。ヒン
デミット事件は、クライバー一家に大きな影響を与えたのです。明日は、カルロス・ク
ライバーがどのような指揮者なのかについて考えます。 ・・・ [クライバー/02]

3.11フルト・ヴェングラー.jpg
                 

2008年03月12日

大指揮者エーリッヒとの関係(EJ第1468号)

 カルロス・クライバーが死去した地は、スタニスラヴァ夫人の出身地であるスロヴェ
ニアのコンシチャという町です。一部報道では、母親の出身地のスロヴェニアと伝えら
れていますが、間違いです。そのスタニスラヴァ夫人も、2003年の12月に亡くな
っており、寂しい晩年だったようです。
 スロヴェニアの住民たちは「大変偉い人」という認識をクライバーに対してもってい
たものの、実際にはどのような人物であるかは知らなかったと思われるのです。
 そのため、世界がクライバーの死去のニュースを知るのに5日ほどかかったのです。
そして、各国のメディアは、7月19日になってはじめて「クライバー逝去」のニュー
スを流したのです。そういう各国の新聞・雑誌の扱いを見ると、クライバーに対する評
価は、掛け値なしに、フルトヴェングラー、トスカニーニ、カラヤン、バーンスタイン
に匹敵する高い評価だったのです。クライバーは大指揮者として扱われているのです。
 カルロス・クライバーは、大指揮者といわれたエーリッヒ・クライバーの息子であり
二世指揮者ということになります。しかし、そういわれることを親子ともに嫌ったそう
です。エーリッヒは、カルロスが音楽をやりたいと希望したにもかかわらず、最初はそ
れを認めず、カルロスはチューリッヒ工科大学で化学を専攻することになるのです。
 しかし、カルロスの音楽への夢は絶ちがたく、父親と交渉し、その結果、才能がない
と気づいたら化学の道に戻るという条件付きで、ブエノスアイレスで音楽の勉強を始め
るのです。1950年のことです。その当時カルロスはスコア(楽譜)がぜんぜん読め
なかったそうです。それにこの親子は、カルロスがエーヒッヒの息子であるということ
を隠すため、カール・ケラーという名前で音楽を勉強することになったのです。
 しかし、カルロスには天賦の才能があり、また、父のリハーサルを子供の頃からいつ
も見ていたということもあって、たちまち音楽の世界で頭角をあらわしていくのです。
 1952年にヨーロッパに戻ったカルロスは、ミュンヘンのゲルトナープラッツ劇場
で練習指揮者として採用されます。さらに、2年後の1954年、カール・ミレッカー
のオペレッタ『ガスバローネ』をボツダムで振って指揮者デビューを果たしています。
20歳ではじめて音楽を勉強したにしては、わずか4年で指揮者デビューですから、驚
くべきことです。
 1956年には、デュッセルドルフのライン・ドイツ・オペラの練習指揮者になり、
1958年には正式指揮者に昇格しています。そして、1964年から1966年まで
チューリッヒ歌劇場で、1966年から1972年までシュットゥットガルトのヴェル
テンブルグ州立歌劇場で指揮者を務めているのです。
 それにしても、父親であるエーリッヒ・クライバーは、これほど音楽的才能に恵まれ
た息子に、本人が強く希望しているにもかかわらず、なぜ専門的な音楽教育をさせなか
ったのでしょうか。大指揮者であったエーリッヒであれば、息子の音楽的才能が尋常で
はないことに気がつかないはずはないと思うのです。
 推測ですが、エーリッヒは尋常ならざる息子の才能に、同じ指揮者として、恐れを抱
いていたのではないかと思うのです。息子が指揮者になって活躍すると、音楽家として
の自分の影が薄くなる――そう考えたのではないかと思うのです。
 しかし、カルロスの方は父親を尊敬し、何かというと「親父はこういった。ああいっ
た」といい、相当のファ−ザ−・コンプレックスにかかっていたといえるのです。しか
し、エーリッヒは音楽に関しては息子にあまり教えていないのです。
 クライバーは実に勉強熱心であったといわれています。とくにはじめての作品を振る
ときは、作曲家について書かれた入手可能な本をすべて読み、手に入る限りの録音を聴
いて他の指揮者が同じスコアをどのように解釈したかを知り、それから使用するスコア
の版を決定し、すべてのパートをひとつずつ検討するという極めて緻密な方法をとって
いたのです。
 この当時のクライバーは、後年では考えられないほど広範なレパートリーのオペラや
バレエを振っていたのです。しかし、シュットゥットガルト歌劇場時代のあるトラブル
を契機にクライバーは、専属を避けてフリーの道を選ぶようになっていくのです。
 そのトラブルとは、クライバーがエディンバラ音楽祭の目玉公演としていた歌劇『ヴ
ォツエック』の公演を直前になってキャンセルしたことです。この公演はBBCが収録
を予定していたこともあって、一大スキャンダルに発展してしまったのです。
 しかし、かかる不祥事にもかかわらず、クライバーは同歌劇場の首席指揮者に昇格す
るのです。それは、クライバーの才能を誰よりも高く評価していたヴァルター・エーリ
ヒ・シェーファー総監督の配慮によるものなのです。
 それに応えるようにクライバーは、『魔弾の射手』、『蝶々夫人』、『カルメン』、
『オテロ』、『トリスタンとイゾルデ』など、超大ヒットを飛ばし続けたのです。しか
し、この頃から、クライバーは気難しい、扱いにくい指揮者というレッテルが貼られて
いくことになるのです。
 一般に指揮者は、年を重ねるにつれて円熟味を増していく成長型の範疇でとらえられ
ます。ドイツ・オーストリア系の音楽家はほとんどそういう型――老成・円熟型に属し
ます。しかし、カルロス・クライバーの場合はそれが当てはまらないのです。
 クライバーの音楽は、1970年代時点――40歳代で完成の領域に達しており、独
自の世界を形成しているのです。彼の指揮ぶりはしなやかに舞い踊るさまに似ており、
会場を興奮の坩堝に変える恐るべきパワーを持っているのです。
 聴く者は、まるで電光に打たれたように翻弄され、自分を通り過ぎて行く音楽にただ
呆然となってことばがない――こういう世界をクライバーは作り出すのです。それには
彼独特の緻密な研究の集積がそれを可能にさせるのです。・・・[クライバー/03]

3.12エーリッヒ・クライバー.jpg
                 

2008年03月13日

準備に膨大な時間をかける指揮者(EJ第1469号)

 カルロス・クライバーの指揮ぶりを見ると、己の閃きを信じて一瞬に燃え尽きる音楽
を創り出しているように見えます。その指揮ぶりは舞うように軽やかであり、己の天才
的な感覚のおもむくままにやっている――そのような感じに見えます。
 しかし、クライバーは準備に信じられないほど時間をかける指揮者なのです。そのひ
とつの逸話をご紹介します。それは、1979年にウィーン・フィルを振ってブラーム
スの交響曲第4番を演奏したときの話です。
 クライバーのレコード・デビューは、1973年のドレスデンにおける歌劇『魔弾の
射手』≪全曲版≫なのですが、その翌年の1974年にはじめてウィーン・フィルと組
んでベートーヴェンの交響曲第5番『運命』を振っています。
 ウィーン・フィルというのは、気位の高い難しいオーケストラであり、それをはじめ
て振るにはそれなりの手続きが必要といわれます。それだけに、クライバーのようなか
たちで簡単に公演が決まるということは異例なのです。これは、クライバーの希望とい
うよりは、ウィーン・フィルの方がクライバーに惚れ込んだという方が当たっていると
思います。ウィーン・フィルにとってこんなことは稀有なことなのです。
 さて、コンサートでブラームスを振るのは、12月であるのにクライバーは7月にウ
ィーン入りしているのです。そして、楽友協会でブラームスの自作譜の研究に没頭した
といわれています。このように書くと、彼がこの曲の研究をそのときにはじめたと考え
るかもしれませんが、彼はそれよりも6ヶ月も前からこの曲の研究をはじめていたとい
うのです。それほどの時間をかけて準備し、12月のコンサートに臨んでいるのです。
 結果はすばらしいものだったのです。ディ・プレス紙はユリウス・カエサルの言葉を
もじってこのコンサートのことを「クライバーは来た、見た、勝った」と報じ、他のマ
スコミもそれに準じた報道をしています。
 このときの演奏ではありませんが、クライバーの指揮によるブラームスの交響曲第4
番ホ短調は、次のCDで聴くことができます。1980年3月にムジークフェラインで
収録された演奏であり、クライバー49歳のときの演奏です。
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       ブラームス/交響曲第4番ホ短調作品98
       カルロス・クライバー指揮/ウィーン・フィルハーモニー
       管弦楽団 グラモフォン[D]UCCG7011
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 このCDの演奏に関して音楽評論家の諸石幸生氏は次のように述べています。一部を
ご紹介します。
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       演奏を耳にしてまず実感するのは、感じる人、それも痛いほ
      どの切実さで作品の心を感じる人、それがクライバーであると
      いう事実である。(一部略)
       美しい演奏であることは論を待たない。しかし、クライバー
      の指揮で再現される交響曲第4番は、生きるか死ぬかといった
      切実な気配が充満しており、ソファーに深々と身体を横たえて
      聴けるような代物ではない。        ――諸石幸生氏
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 この作品は1980年代になってからですが、クライバーが指揮界に華々しく登場し
たのは1970年代前半――正確には1973年のことです。この1973年に『レコ
ード芸術』(音楽の友社刊)が批評家30人による「現代名指揮者ベスト・テン」を次
のように選んでいます。
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       1.ベーム          6.ムラヴィンスキー
       2.カラヤン         7.小沢征爾
       3.バーンスタイン      8.メータ
       4.ショルティ        9.アバド
       5.ブーレーズ       10.サバリッシュ
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 まさにベテランから若手まで多士済々の指揮者が名を連ねており、この中に割って入
るのは容易なことではないのです。しかしカルロス・クライバーは、次の4曲の演奏を
やっただけで、ベーム、カラヤン、バーンスタインの中に分けて入ったのです。それぞ
れに付けられた広告コピーが実に印象的です。
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      1.ウェーバー作曲
        歌劇『魔弾の射手』≪全曲≫ ・・・・・・ 1973
        バイエルン国立歌劇場管弦楽団・合唱団
         ――噂のカルロス、ここに登場。――
      2.ベートーヴェン作曲
        交響曲第5番ハ短調『運命』 ・・・・・・ 1975
        バイエルン国立歌劇場管弦楽団・合唱団
         ――この奔流、巌をもおし流さんか!――
      3.ヨハン・シュトラウス作曲
        喜歌劇『こうもり』≪全曲≫ ・・・・・・ 1976
        ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
         ――いいぞ、カルロス、言うことなし。――
      4.ベートーヴェン作曲
        交響曲第7番イ長調 ・・・・・・・・・・ 1976
           ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
         ――誰だって信じざるを得ないこの天才。――
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 現在、CDショップでは、「追悼!カルロス・クライバー」のコーナーが設けられて
いるところがありますが、上記の2と4がセットになったCDがあり、これはお買いト
クです。第5番と第7番の従来のイメージを一新させる快演です。ジャケットは、添付
ファイルを参照してください。            ・・・ [クライバー/04]

3.13カルロス・クライバーのCD.jpg
                 

2008年03月14日

身体全体で音楽を表現するクライバー(EJ第1470号)

 ここまでの分析ではっきりしてきたことがあります。一見場当たり的に見えるクライ
バーの指揮ぶりのウラに、膨大な資料による曲に対する徹底的な究明と先人による曲の
解釈について真摯な研究があったということです。
 それでいて、本人はあたかも何の苦労もなく瞬時にして音楽が湧き出るような姿勢を
外部に対して取りたがったのです。これはひとつの曲を指揮するのにいろいろ苦労して
いる自分を第三者に知られることを恥と考える彼独特のシャイな態度といってよいと思います。
 それにクライバーの指揮ぶりは「しなやかに舞い踊る」――この表現に近いのです。
それでいて、必要がないときは指揮をしない――指揮をしない方がよい結果を得ると確
信している場合に限られますが――全般的にいってクライバーの指揮は抜群の運動能力
を必要とするのです。全身を激しく動かして、自分のその音楽に対する考え方をオーケ
ストラに伝達する――そういう指揮ぶりなのです。
 このようなタイプの指揮者が老境に差しかかったときはどうすると思いますか。体力
と気力が落ちるということは、音楽を具現する手段を奪われることを意味しています。
いかにして自分のスタイルを維持できるか――これがカルロスを苦しめることになるの
です。晩年の演奏で批評家から「不完全燃焼」を指摘されると本人はそれに非常に悩ん
だのです。それが少しずつ指揮台から遠のく結果となっていったのではないか――そう
考えられます。
 カラヤンは、初期の頃はかなり身体を使って指揮をしていたのですが、円熟するにし
たがってほとんど指揮棒を大きく動かさないようになってきています。体力の衰えを意
識してやったかどうかはわかりませんが、クライバーとは対照的です。
 それにクライバーは明らかに録音嫌いで通っています。これには一理あると思うので
す。音楽の録音というのは、コンサートのように、全曲通した演奏を収録するのではな
く、部分的に演奏を入れ替えたり、つなぎ合わせたりして、作り上げるのです。部分部
分でたくさんのテイクを取り、そのベストであると思うものをつなぎ合わせて曲にする
のです。このようにして、作り上げた音楽を生で演奏した音楽と区別して「レコード芸
術」と呼ぶのですが、クライバーはそういうレコード芸術を嫌い、あくまで生演奏にこ
だわったといわれます。
 しかし、録音や録画が残されているからこそ、後世の人がクライバーの演奏を再現で
きるのです。とくに録画については、実際に通して演奏されたものをそのまま収録して
おり、現在でもクライバーの音楽がどのようなものであるかを知ることができます。オ
ペラが中心ですが、クライバーの場合はそういう貴重なビデオが多く残されており、そ
の演奏を再現することができます。
 クライバーの音楽が一見天才の閃きのようなものに見えるものの、そこに緻密な計算
というか、論理性があることを指摘する人はたくさんいます。その中の一人であるマン
フレッド・ホーネック氏――元ウィーン・フィルのヴィオラ奏者で、現スウェーデン放
送響首席指揮者――の意見をご紹介しましょう。
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       クライバーはやはり天才だと思います。彼の音楽に対する集
      中力、リハーサルへの取り組み方、演奏の快活さ、そのいずれ
      もが超一流で、誰と比べて云々ということではなく、ほんとう
      に素晴らしいものでした。
       クライバーには音楽に対する直感というものがあって「この
      部分のフレージングはこうやって進めていくのだ」という独自
      の指揮ぶり、音楽の進め方がありました。とくに凄かったのが
      音が変化していく部分、主部と主部との結合部分での音のもっ
      ていき方、そこでの彼の指揮は、鮮やかで息を飲むほどだった
      のです。しかし、それは勢いでやっているのではなく、極めて
      論理的なものなのです。    ――マンフレッド・ホーネット
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ホーネット氏は、何回もクライバーと演奏する機会を持った演奏者ですから、クライ
バーの指揮の特徴は知り尽くしています。彼にいわせると、クライバーの指揮は技術の
問題ではなく、指揮する音楽作品の本質というものを知り尽くしていて、タクトを通し
てそれを伝えてくれるので、演奏者として非常に幸福だったといっているのです。
 クライバーは何か超然とした力でオケを引っ張るとよくいわれます。しかし、ホーネ
ット氏にいわせると、クラスバーの指揮がきわめて論理的でオケの楽員として理解でき
ることなので、彼の指揮にオケ全体がついていける結果であるといっています。それは
指揮者が指揮する曲や音楽そのものに対する深い理解に裏付けられており、これによっ
て楽員はクライバーがどのように考えているか、何を考えているかが理解できる――そ
のようにホーネット氏はいっています。
 このホーネット氏の言葉を聞くと、指揮者にとって音楽に対する研究がいかに重要か
わかります。クライバーはそういう研究に多大の時間をかける指揮者であり、それによ
って彼自身の音楽観というものを作り上げているのです。
 クライバーは、彼自身の中にそういう研究から得られた豊かな音楽感性があるので、
音楽の流れを言葉ではなく、身体全体で表現する能力を持っているのです。身体の動き
の一つひとつが音楽なのです。頭と指揮する音楽が離れていない――まさに一心同体ク
ライバーの身体全体が音楽といえるのです。
 確かにこういうタイプの指揮者が老境に差しかかると、体力的でも、気力的にも若い
頃のようにできなくなるのは当然です。身体全体で音楽を表現できなくなるのです。そ
の結果、悩み、苦しみ、強いプレッシャーに押しつぶされる――とくにオペラの公演初
日が鬼門だったようです。このようにして、クライバーは少しずつ指揮台から離れてい
ったのです。そして、音楽観をめぐり、周囲とトラブルを重ねることが多くなったとい
います。                      ・・・ [クライバー/05]

3.14ホーネット&カラヤン.jpg
                 

2008年03月17日

クライバーグラムというものがある(EJ第1471号)

 カルロス・クライバーは、豊かな音楽的感性を持っていた人であったので、自分の芸
術上の考え方が合わないと、公演をドタキャンしたり、人間関係でトラブルを起こした
りしたのです。
 EJ第1466号で、カラヤンはクライバーを一度もベルリン・フィルに招いていな
いと書きましたが、これは事実です。しかし、ベルリン・フィルとしては、3回にわた
りクライバーに出演を要請し、クライバーは2回にわたりベルリン・フィルを振ってい
ます。
 最初のオファーは今から20年ほど前の話なのですが、公演直前になって突然ドタキ
ャンされたのです。ドタキャンの理由はクライバーが郵送した「書き込み入りの楽譜」
をベルリン・フィル側が楽員に配布していなかったということだったのです。
 演奏曲目は、ベートーヴェンの交響曲第7番なのですが、クライバーは総譜に演奏上
の指示を書き込んでおり、その譜を最初のリハーサルの一週間前にベルリン・フィル側
に郵送しておいたのです。しかし、最初のリハーサルの2日前にクライバーはベルリン
・フィルに電話を入れて、楽譜は楽員に配ってあるかどうか問い合わせをしたのです。
 しかし、ベルリン・フィル側は、その楽譜を配っていなかったのです。そのようなこ
とをする指揮者はクライバー以外にはいないので忘れていたか、一週間前では作業が間
に合わなかったのかも知れません。「まだ整理できていない」――この返事を聞いたと
たんクライバーは「それなら、私は行きません」といったというのです。
 些細なことといえばそれまでですが、クライバーにとってこれはとんでもないことな
のです。彼は、自分の芸術的条件を満たす状況が整わないと、絶対に指揮をしないので
す。それ以来、クライバーとベルリン・フィルとの関係は冷却してしまったのです。ベ
ルリン・フィル側は謝罪するとともに、その後何回も出演を要請したのですが、いずれ
拒否されています。しかし、それから、10年ほど経過して、ドイツ連邦共和国ヴァイ
ツゼッカー大統領催のコンサートではその招待に応えて2回指揮をしています。
 クライバーがベルリン・フィルを振ったのは、あとにも先にもこの2回だけです。そ
れは、ドタキャン事件の後遺症というよりも、心から尊敬し、畏怖していたカラヤンの
レベルに自分はまだ達していないのではないかということを非常に気にしていたことも
あって、演奏を逡巡したということもあったといえるのです。
 1989年にカラヤンが亡くなったとき、その後任について協議があったのですが、
実はベルリン・フィルは全員一致でクライバーに声をかけたのです。多分引き受けては
くれないだろうとは思ったそうですが、とにかく第一候補はクライバーだったというの
です。しかし、彼は引き受けなかったのです。
 ところで、ドタキャンの原因となったクライバーの書き込み譜のことですが、これは
「クライバーグラム」といって大変有名なのです。クライバーは70年代においてこの
クライバーグラムを必ず使っていたのです。
 添付ファイルにクライバー直筆のクライバーグラムを付けています。これは、197
6年10月24日に上演された楽劇『ばらの騎士』の練習において楽員に配布されたも
のですが、次のように書いてあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      第1幕、練習番号217から218にかけて。オーケスラの高
      い声部の旋律に合わせてフレージングすること。(221から
      222にかけても同じ)
      第2幕、練習番号19の1小節前。全員「ff」でお願いする。
      (楽譜の指定はf)
                心からの感謝を込めて/C.クライバー
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 マゼールという大指揮者がいます。彼は頭の中に楽譜がコンピュータのように詰まっ
ていて、1音間違えてもすぐわかるという指揮者です。しかし、クライバーは少しぐら
い間違えても、自分の音楽のイメージに合致していれば何もいわないのです。
 クライバーは、その音楽のイメージをいろいろな表現で楽員に伝えています。たとえ
ば、ベートーヴェンの交響曲第7番の演奏について、クライバーは次のように楽員に説
明しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       この曲を演奏するやり方は100以上あるでしょう。しかし
      実際には2つの選択肢しかありません。1つは、びっくり箱を
      開けた途端にあなたに向って音が次々と襲ってくる状況です。
      もうひとつは、波がぶつかるような音の連続です。
                       ――カルロス・クライバー
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 クライバーグラム――実はこれは父エーリッヒ・クライバーの影響なのです。エーリ
ッヒはカルロスに正規の音楽教育を受けさせていませんが、オーケストラのステージ・
マナーについてはよくカルロスに話していたそうです。
 コンサートが終了し、指揮者が拍手で舞台に迎えられると、指揮者は演奏が素晴らし
かった楽員を一人ひとり立たせて褒めることがあります。エーリッヒはそれに反対なの
です。彼は立たせるのであれば、全員を立たせるべきであり、特定の奏者を立たせては
ならない――あんなのは、ドック・ショーだとよくいっていたそうです。
 そのことの是非はともかくクライバーはこれを絶対にしていないそうです。それから
傑作なのは「指揮者はメガネをかけるな」という教えです。
 クライバーは目は悪いのですが、コンタクトレンズをつけていたのです。メガネをつ
けていると何かの拍子に手が当って飛んでしまう可能性があるからです。クライバーは
冗談にメガネをつけない理由を「メガネをつけるとサバリッシュに似てしまうから」と
いっていたそうです。                ・・・ [クライバー/06]

3.17クライバーグラム.jpg

2008年03月18日

『天国のトスカニーニ』事件(EJ第1472号)

 カルロス・クライバーについて書き出してから今日で7回目になります。クラシック
音楽に関心のない人にとってはつまらないと感じるかも知れませんが、話題の指揮者の
話ですから時事問題として知っておいても損はないと思います。
 12日までの9回続ける予定ですが、きちんと読んでいただくとクライバーについて
生半可のクラシックファンよりも、ずっと詳しい知識を持つことができるようになりま
す。
 最近のEJは「作品型情報」を目指しておりまして、ひとつのテーマが終わると、そ
のすべてをプリントしておくと、価値ある情報になると思います。また、音楽好きの人
に対して転送してあげたら、きっと喜ばれると思います。
 セルジュ・チェリビダッケという指揮者をご存知でしょうか。
 この人は、20世紀最後の巨匠といわれた指揮者で、終戦後のベルリンフィルを再
建し、首席指揮者として400回以上の演奏会を開催して、戦犯容疑で演奏活動を禁止
されていたフルトヴェングラーの名誉回復に尽力した人です。
 ベルリン・フィルというと、すぐカラヤンが頭に浮かびますが基礎を築いたのはフル
トヴェングラーであり、戦後のドイツの混乱期に楽団を再建させたのは、このチェリビ
ダッケなのです。
 カラヤンは、あのヒンデミット事件で演奏活動を停止されたフルトヴェングラーに代
わって登場したナチス寄りの指揮者――そういってよいと思います。このカラヤン――
終戦後はチェリビダッケが400回指揮をする間にたったの4回しかベルリン・フィル
指揮をしていないのです。当然、チェリビダッケはカラヤンのことをボロクソにいうこ
とになります。
 ところがカルロス・クライバーは何度もいうようにカラヤンを尊敬しており、チェリ
ビダッケがあまりにもカラヤンの悪口をいうのでアタマにきて、新聞に「天国のトスカ
ニーニ」というペンネームで投稿したのです。しかも、それが明らかにクライバーであ
ることがわかるように書いたのです。ドイツではこれが結構話題になったのです。
 こんな話があります。
 クライバーはとても日本が好きだったのです。その理由はいろいろありますが、広渡
勲氏という友人がいたことが大きいと思うのです。1992年に1994年に予定され
ていた楽劇『ばらの騎士』日本公演の打ち合わせを兼ねて、クライバーはお忍びで来日
しています。
 このとき広渡氏は、クライバーを九州に連れて行っています。鹿児島、熊本、阿蘇―
―とくにクライバーは鹿児島や桜島が気に入ったそうです。イタリアのポジタノやナポ
リによく似ているといっていたそうです。そして、真顔でこのあたりの土地はいくらか
と聞いていたといいます。日本に住みたいと本気で考えていたようです。
 そういうわけで、ウィーン国立歌劇場の来日公演の話もとんとん拍子に進んで、何も
かもがうまくいくと広渡氏は確信したそうです。ところが、です。広渡氏がご機嫌のク
ライバーを成田まで送って行ったとき予想もできないトラブルが発生したのです。
 空港で彼に代わって広渡氏がチェックインを行っている間、クライバーをルフトハン
ザ航空のVIPアテンド係りの人に特別室に案内してもらったのです。ところがその係
りの人が広渡氏のところに慌ててやってきて、クライバーが部屋に入るやいきなり飛び
出してきてロビーの方に行ったというのです。
 広渡氏がロビーに行くと、クライバーがこわい顔をしてロビーの中央に立っているの
です。どうしたのかと聞くと、「部屋にはチェビリダッケがいるんだ。彼と一緒にミュ
ンヘンまで帰りたくない」というのです。あの「天国のトスカニーニ」の件があり、チ
ェリビダッケがきっと怒っていると考えたのでしょう。
 ちょうどそのとき、ミュンヘン・フィルが来日中で、チェリビダッケは指揮者として
きていたのです。広渡氏はクライバーの座席を調べてみたのです。そうすると、クライ
バーの席はファーストクラスの最前列であり、隣の席が空いている。チェリビダッケの
席は反対側通路の前から6番目ということがわかったのです。
 そこで、広渡氏はこういって彼の決断を迫ったそうです。「マエストロ、あなたがト
イレさえ我慢されれば、チェリビダッケと目を合わせることはありません。それとも3
0分後のフランクフルト乗り換え便に変更するか。どっちにしますか」と。
 そうしたらクライバーは、「またヒロは無理なことをいう・・・」とはいったのです
が、苦笑いをしながら「トイレを我慢するよ」といって飛行機に乗り込んだそうです。
このように、クライバーは子供のような人なのです。
 これには後日譚があります。翌日の夕方、広渡氏がクライバーに電話をすると、彼は
大変上機嫌で次のようにいったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       ヒロ、心配しなくていいよ。実は飛行機に乗るとチェリビダ
      ッケが隣の空いた席に移動してきたんだ。最初はショックだっ
      たけど、チェリビダッケがあんなにいい人だと思わなかった。
      彼は私に親切で、私は彼をまったく誤解していたようだ。帰り
      の旅はとても楽しかったよ。    ――カルロス・クライバー
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 結局、チェリビダッケは飛行機がミュンヘンに到着するまで、ずっとクライバーの隣
の席にいていろいろな音楽談義に花が咲いたそうです。それに同機にはミュンヘン・フ
ィルのメンバーが乗っていて、彼らが入れ替わり、立ち代りクライバーの席にやってき
て、機内はさながら写真撮影大会になったというのです。
 そのとき、最後にチェリビダッケはクライバーに「今度ミュンヘン・フィルを振りに
きてください」といったそうです。そのとき、クライバーは「OK」とはいったのです
が、結局その機会はなかったのです。
 こういう逸話はたわいもないものですが、クライバーがどういう人かを知る貴重な情
報になると思います。                ・・・ [クライバー/07]

3.18若き日のチェリビダッケ.jpg
                 

2008年03月19日

クライバーの最新録音を探る(EJ第1473号)

 何人かのEJの読者からカルロス・クライバーの演奏を聴いてみたいが何がお勧めか
という質問をいただいております。今回を含めてあと2回でこれにお答えしていきたい
と思います。
 クライバーの最新録音を探っていくと、1994年3月に遡る必要があります。19
94年といえば、その年の10月にクライバーの日本公演が行われています。昨日のE
Jでお話しした逸話は、その公演の打ち合わせのために1992年にクライバーがお忍
びで来日したときの話だったのです。
 1964年10月のカルロス・クライバー/ウィーン国立歌劇場/東京公演は大変な
盛り上がりとなったのです。切符はS席で6万5000円――しかし、あっという間に
全席売り切れ、空前のチケット入手難となったのです。
 そのとき、公演1ヶ月前に発売になったのが、1994年3月に録画されたのは楽劇
『ばらの騎士』の映像です。これは、LD(レーザー・ディスク)です。データを示し
ておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      R.シュトラウス
      楽劇『ばらの騎士』(全曲)
      グラモフォン(ウニテル)[D]POLG1160−61
      オットー・シェンク演出
      カルロス・クライバー指揮/ウィーン国立歌劇場O
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これは、東京公演とほぼ同一のキャストによるLDであり、大変貴重なディスクであ
るといえます。しかも、これがクライバーの最新録音になるのです。
 この作品について音楽評論家の小林利之氏は、ロット(元帥夫人)、オッター(オク
タヴィアン)、ボニー(ゾフィー)の女性3人の歌と演技とアンサンブルを絶賛したあ
と、クライバーの指揮について次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       だが、それらソリストや合唱をまじえた歌手以上に素晴らし
      いオーケストラの演奏ぶりは、クライバーの、昔とは一変した
      抑制度の高い精緻な表現をウィーン・フィルならではのまろや
      かで優美な響きで成就させている。(一部略)
       要所要所で表情を引き締め、歌わせる多彩な棒の魅惑で全曲
      を覆いつくすクライバー節こそ、この画期的な上演の最大の聴
      きどころといえよう。現代最高の≪ばらの騎士≫の映像作品で
      ある。                    ――小林利之
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 さて最新録音は1994年3月ですが、その前の録音として次の2作品があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       ニューイヤー・コンサート/1989&1992
       カルロス・クライバー指揮
       ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
       SRCR 1483−4/ソニー・クラシカル
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 おそらくこのCDは、EJを読んではじめてクライバーを聴いてみたいという人に一
番ぴったりだと思います。最近では2枚組になっており、どこのCDショップでも入手
可能です。
 聴いていただくと分かることですが、カルロス・クライバーは「本物のウィンナ・ワ
ルツが振れる指揮者」なのです。こればかりは、アバドでもアーノンクールでも小沢征
爾でも決してかなわない――いや、あのカラヤンでさえ上回ると私は思っています。こ
れだけはぜひ聴いていただきたいと思います。
 このCDについての音楽評論家、堀内修氏の評論の一部をご紹介します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      ≪1989年≫
       会場が熱狂する中で、その熱狂を巻き起こした張本人である
      シュトラウスは、自己を保っていたのかもしれない。私たちは
      ヨハン・シュトラウス?U世の演奏を聴けない。だがカルロス・
      クライバーの演奏が聴ける。
      ≪1992年≫
       まばゆい「雷鳴と電光」は、クライバーのトレード・マーク
      だった。その最もすばらしい響きがここで聴ける。そして「美
      しき青きドナウ」だ。この曲がこんなに優美に、生き生きと演
      奏されることは、もう決してないだろう。    ――堀内 修
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 クライバーのスタジオ録音で一番新しいものはどれかについて調べてみると、198
2まで遡ることになってしまうのです。実に20年以上も彼はスタジオ録音から遠ざか
っていたことになるのです。
 その20年以上前のスタジオ録音の作品とは次の曲です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      ワーグナー
      楽劇『トリスタンとイゾルデ』≪全曲≫
      グラモフォン[D]OOMG0440〜44(LP)
      グラモフォン[D]POCG3015〜3 (CD)
      カルロス・クライバー指揮/ドレスデン国立O
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この演奏に関する音楽評論家の国土潤一氏の評論の一部をご紹介しておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      正規の録音として登場した≪トリスタン≫は、バイロイト音楽
      祭のそれとは一味違っていた。何よりもバランス感覚の点で、
      ライブの熱狂とは一線を画していた。しかし、しなやかにして
      豊かなカンタービレと豊かな色彩感は、スタジオ録音というモ
      ニターできる現場ということもあってさらに際立っていた。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
                          ・・・ [クライバー/08]

3.19クライバーはこれでわかる!.jpg

2008年03月21日

26年ぶりに甦るクライバーの『カルメン』(EJ第1474号)

 カルロス・クライバーの音楽について知ろうとするなら、彼の指揮したオペラを一曲
聴いてみるべきです。一番いいのは一昨日のEJでお知らせした、リヒャルト・シュト
ラウスの楽劇『ばらの騎士』を聴くべきです。なぜなら、この曲ほどクライバーが愛し
たオペラはないし、彼が一番得意とするオペラだからです。
 しかし、この『ばらの騎士』は、今までオペラをあまり観たことのない人にとって少
し難しいかもしれません。そこで同じシュトラウスでもヨハン・シュトラウスの次の喜
歌劇をぜひ推奨したいのです。この曲なら、はじめてオペラを聴く人でも十分楽しめる
と思います。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      ヨハン・シュトラウス?U世
      喜歌劇『こうもり』≪全曲≫
      グラモフォン(ウニテル)[D]WOOZ24011〜2
      オットー・シェンク演出
      カルロス・クライバー指揮/バイエルン国立O
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 問題なのはこれはDVDではなくLDなのです。LDを持っている人は少なくなって
おり、誰でも観ることができないという問題点があります。私はこのLDを所有してお
り、その素晴らしさがよくわかりますが、これほど満足感の高い『こうもり』はかって
観たことがないのです。
 このLDの映像編集者はデライアン・ラージという人ですが、彼は序曲だけでなく、
あちらこちらにクライバーの指揮姿を実に巧みに挿入しているのです。そのため彼の指
揮ぶりが一層良くわかるようになっています。とにかくクライバーを聴くのに、これほ
ど最適なLDはないと思います。
 しかし、LDを持っていないがどうしてもクライバーの指揮するオペラを観たいとい
う人にとって朗報があります。1978年にクライバーがウィーン国立歌劇場を振った
歌劇『カルメン』がDVDで再発売されています。正式の発売日は11月26日ですが
ネットショップは既に売っています。データを示します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      ビゼー
      歌劇『カルメン』≪全曲≫
      TDKコア[S]TDBA0060
      カルロス・クライバー指揮/ウィーン国立歌劇場O
       カルメン:エレーナ・オブラスツォワ
       ホセ  :プラシド・ドミンゴ
       ミカエラ:イゾベル・ブキャナン
      収録/1978年12月/発売2004年11月26日
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 私は『カルメン』というオペラが好きなのです。それには理由があります。それは私
が最初に観たオペラであるからです。1959年11月――ちょうど日本にはイタリア
・オペラが来ており、東京文化会館で公演が行われていたのです。マリオ・デル・モナ
コ、レナータ・テパルディなどによる公演です。
 しかし、切符は完売であり、入手不能でした。ちょうどそのとき、パリ・オペラ座が
同時に来日中で、歌劇『カルメン』を有楽町の東京宝塚劇場で公演中だったのです。こ
ちらのチケットについては何とか入手できたので、観ることができたのです。
 オペラというのは、すべてそうですが、1回観ただけではその良さを理解するのは難
しいと思います。しかし、パリ・オペラ座の公演には圧倒されたことを覚えています。
その後、機会があるごとに何度も『カルメン』を観て、私の最も好きなオペラの1つに
なったというわけです。
 そういう『カルメン』好きの私から見て、クライバーの『カルメン』は絶対に買いで
あると思います。クライバーの棒とウィーン国立歌劇場についてはいうに及ばず、いう
ことなしですが、それに加えて、歌手の選択が実に適材適所であるからです。
 主役のホセという役柄は、最初は真面目で柔和な人間がカルメンと接することによっ
て野卑で凶暴な性格に変貌していく――その変化を演ずる歌手でないと務まらないので
すが、ドミンゴはその役柄を見事に演じています。
 オブラツォワのカルメンもまさに適材――一種の繊細さを保ちながらも自由奔放に生
きる妖婦の姿を巧みに演出しています。このオペラは、妖婦としてのカルメンとホセの
ドロドロとした関係の中に、唯一清楚さを演出するホセの許婚のミカエラの存在が重要
なのですが、ブキッャナン扮するミカエラも実に印象的です。
 クライバーの指揮については、音楽評論家である宮崎滋氏が、次のように述べていま
す。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       クライバーの棒の持つくだんの精彩は、この『カルメン』全
      編にゆきわたっており、その終始たたみかけるような音楽作り
      からオーケストラの内奥からの鳴りの良さ、舞台を際立たせる
      ための演出的な棒さばき、そして彼独自のきわめて刺激的なア
      タックや強烈な現代感覚が舞台幕開けから一本の筋金のように
      読み取っていける演奏。文字通りクライバー音楽の特性が集約
      されているかのような一曲である。       ――宮崎 滋
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このオペラの演出は、フランコ・ゼッフィレッリ――彼の演出についても、批評家の
評価は高いのです。ゼッフィレッリの一流のスケール感、舞台装置の充実性、具象的で
わかりやすい演出でいながら、安直な箇所はひとつもないという格式と重量感を感じさ
せる演出と絶賛しています。
 とにかくクライバー、ゼッフィレッリ、ドミンゴ、オブラツォワによる『カルメン』
――26年ぶりに甦るのです。検討していいDVDでしょう。カルロス・クライバーの
テーマは今回で終了し、来週からは新しいテーマです。 ・・・ [クライバー/09]

3.21クライバー指揮/歌劇『カルメン』.jpg 
                

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