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このブログは、異文化研修の教育機関(株)インテック・ジャパンの情報発信用です。(株)イー・メディアとの提携により、同社のドキュメント・レポート「Electronic Journal」をウィークデイの毎日お届けします。
「Electronic Journal」は様々な情報を400字詰原稿用紙7枚にまとめて配信する日刊メールマガジンです。

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2008年01月07日

紅白歌合戦はいつどうしてはじまったか(EJ第1505号)

 明けましておめでとうございます。昨年の紅白歌合戦はご覧になりましたか。昨今で
は他にも多くの裏番組もあり、紅白の人気が一段と下がっているように思います。
 本日よりお届けするのは、2005年1月5日のEJ第1505号から、1月11日
のEJ第1508号までの4回にわたって取り上げたものですが、再現します。
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 新年早々から固いテーマは避けて、お正月らしいテーマを少し続けることにします。
大晦日の関東地方は予期せぬ大雪となりましたが、年末の紅白歌合戦はご覧になりまし
たか。視聴率は過去最低の39.3%(後半/昨年45.9%)であり、はじめて40
%を切る紅白としては最低の視聴率になっています。
 ところで、紅白歌合戦はどのような経緯でいつはじまったのかご存知でしょうか。今
朝はこの話題からはじめます。
 1945年――昭和20年の終戦直後のことです。国営放送であるNHKの上層部か
ら密かに次の命令を受けた2人の新進ディレクターがいたのです。近藤 積氏と三枝健
剛氏の2人です。
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      いま日本国民は心身ともに疲弊している。歌で人々に勇気を与
      え、日本の新しい時代の幕開けにふさわしい音楽の番組を制作
      して欲しい。           ――NHK上層部の命令
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 この命令を受けて、近藤、三枝両ディレクターの考案した番組が後の紅白歌合戦とな
るのです。ちなみに三枝健剛氏は、作曲家三枝成彰氏の父上であり、現在も続いている
「NHKのど自慢」を企画した人物なのです。「NHKのど自慢」は、「のど自慢素人
演芸会テスト風景」の名前で、昭和21年1月19日からはじまったのです。
 さて、近藤と三枝は「特別番組/紅白歌合戦」の企画書を作り上げ、番組企画書と台
本をGHQの民間情報教育局に提出したのです。この頃の日本はGHQの指導・監督下
に置かれていて、番組の企画書から台本はすべてチェックの対象になったのです。
 しかし、「特別番組/紅白歌合戦」はGHQの審査は通らず、却下されたのです。原
因は、企画書の「合戦」の部分を翻訳者が「バトル」と訳して提出したからです。敗戦
国日本がバトル(戦争)とは何事かというわけです。
 そこで、「バトルではなくマッチ(試合)なのです」といった何回かのやりとりを経
て、「合戦」を「試合」と改めて、その年の大晦日にラジオを通じて流すことが許可さ
れたのです。かくしてタイトルは「紅白音楽試合」と決まったのです。
 ここで大変興味深いのは、「歌」を「音楽」に変更したために歌だけではなく、演奏
もプログラムに入れることをNHKが決定したことです。このあたりに紅白歌合戦の再
生のかぎがあると私は思います。2003年の紅白歌合戦は、あの女子十二楽坊の演奏
だけでの出演を認めているのですから・・・。「音楽試合」にすれば、さまざまな楽器
でのエントリーが可能になります。
 それでは、昭和20年の大晦日にラジオで放送された「紅白音楽試合」では、どのよ
うな音楽が登場したのでしょうか。放送時間は、午後10時20分〜午前〇時です。総
合司会と紅組・白組の司会は次の通りです。
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            放 送 日:1945年12月31日
            総合司会:田辺正晴
            紅組司会:水の江滝子
            白組司会:古川ロッパ
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 登場した音楽家と曲目を全部記載すると、スペースを取りますが、貴重なデータとな
ると思うのでご紹介します。
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      ≪紅組≫小夜福子 ・・・・・・ 「小雨の丘」
      ≪白組≫波岡惣一郎 ・・・・・ 「春雨小唄」
      ≪紅組≫葦原邦子 ・・・・・・ 「すみれの花咲く頃」
      ≪白組≫伊藤武雄 ・・・・・・ 「からたちの花」
      ≪紅組≫長門美保 ・・・・・・ 「松島音頭」
      ≪白組≫藤原義江 ・・・・・・ 「出船の港」
      ≪紅組≫近藤 泉 ・・・・・・ 「ユーモレスク」(Vn)
      ≪白組≫平岡養一 ・・・・・・ 「峠の我が家」(木琴)
      ≪紅組≫川崎弘子 ・・・・・・ 「六段」(琴)
      ≪白組≫福田蘭堂 ・・・・・・ 「六段」(尺八)
      ≪紅組≫高峰秀子 ・・・・・・ 「煙草屋の娘」
      ≪白組≫松平 晃 ・・・・・・ 「花言葉の唄」
      ≪紅組≫並木路子 ・・・・・・ 「リンゴの歌」
      ≪白組≫永田絃次郎 ・・・・・ 「オー・ソレミオ」
      ≪紅組≫松原 操 ・・・・・・ 「悲しき子守唄」
      ≪白組≫霧島 昇 ・・・・・・ 「誰か故郷を思わざる」
      ≪紅組≫二葉あき子 ・・・・・ 「古き花園」
      ≪白組≫楠木繁夫 ・・・・・・ 「緑の地平線」
      ≪紅組≫川田正子 ・・・・・・ 「汽車ポッポ」
      ≪白組≫加賀美一郎 ・・・・・ 「ペチカ」
      ≪紅組≫市丸 ・・・・・・・・ 「天竜下れば」
      ≪白組≫柳家三亀松 ・・・・・ 「新内流し」
      ≪紅組≫比留間絹子四重奏団 ・ 「サンタルチア」
      ≪白組≫桜井 潔楽団 ・・・・ 「長崎物語」
      ≪紅組≫松島詩子 ・・・・・・ 「マロニエの木蔭」
      ≪白組≫下八川圭祐 ・・・・・ 「ヴォルガの舟唄」
      ≪紅組≫水の江滝子 ・・・・・ 「ポエマタンゴ」
      ≪白組≫古川ロッパ ・・・・・ 「お風呂の歌」
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 この紅白音楽試合に川田正子が出場していることは注目すべきことです。当時川田正
子は11歳でしたが、同年輩の子供が疎開して東京を離れるなか、東京にいて、数々の
童謡を歌わされていたのです。その歌のひとつに「兵隊さんの汽車」があるのです。
 この歌は「汽車汽車、ポッポポッポ、シュッポシュッポ、シュッポポ 兵隊さんを乗
せて・・」歌詞は別だが、誰でも知っているあの童謡です。紅白音楽試合で川田正子が
歌ったのは、その歌詞を変更した「汽車ポッポ」だったのです。
※本文中の比留間絹子四重奏団はマンドリン、桜井 潔楽団はバンド演奏である。
                         ・・・[紅白の歴史/01]

7川田三姉妹.jpg

2008年01月08日

正月番組としての紅白歌合戦(EJ第1506号)

 終戦直前に12歳の川田正子がなぜ東京のスタジオで童謡を歌わされていたのか――
これは当時の軍部の指示だったのです。それは、12歳の子供がまだ東京にいるのだか
ら、まだ日本は大丈夫なのだと国民に思わせるためです。
 そのとき川田正子が歌っていたのが「兵隊さんの列車」でありNHKの近藤と三枝両
ディレクターはどうしてもこの歌を紅白音楽試合で歌わせたかったのです。しかし、歌
詞の変更をしなければならないし、時間がない。そこでやむなく「お山の杉の子」に差
し替えようと考えたのです。しかし作詞家の富原薫が短い期間で歌詞を作り直し、『汽
車ポッポ』が生まれたのです。
 昨日のEJで、国民を元気づける音楽番組を作れと指示したのはNHK上層部と書き
ましたが、異説があります。指示を出したのはNHK上層部ではなく、GHQであると
いう説です。ところで、1月2日のテレビ朝日の次の番組をご覧になりましたか。
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       戦後60年新春特別企画ビートたけしの陰謀のシナリオ
       日本を震撼させた前後7大事件はアメリカの陰謀
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 この番組の中で終戦直後GHQは、日本国民を懐柔し、闘争心を奪うため3S政策を
実行したという解説があったはずです。3Sには次の意味があります。なお、第3のS
については「スピード」とする説もありますが、私は「スクリーン」を採ります。
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           第1のS ・・・・・ セックス
           第2のS ・・・・・ スポーツ
           第3のS ・・・・・ スクリーン
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 紅白音楽試合は、紅組と白組に分かれて男女で競うというところは第1のSと第2の
Sをクリアします。戦時中はそういうことが一切できなかっただけに効果は大きかった
のです。
 そして、戦後の米国映画ブーム――そこで意識的に米国人の生活の豊かさを日本国民
に訴えて、米国を理想の国と思わせること成功しているのです。
 とにかく紅白音楽試合は大成功だったのです。放送と同時にNHKの電話交換台はパ
ニック状態に陥ったほどです。しかし、そうだからといって、次の年の暮れからこの番
組が定着したわけではなかったのです。当時は、年末特別番組を同じ形式で何年も続け
る例がなかったのです。
 昭和21年――1946年の大晦日には「明星まつり」1947年には「忘年音楽う
らおもて」を放送したものの、紅白音楽試合のような反響はなかったのです。
 近藤と三枝両ディレクターは、年末の番組から正月番組として紅白を復活させられな
いかと考えていたのです。当時「リンゴの歌」や「東京ブギウギ」など国民の心を奮い
立たせるような歌が流行しており、歌を中心とする番組は人気があったのです。
 そして、昭和26年――1951年1月3日に「紅白歌合戦」が始まるのです。正式
に第1回と銘打ったわけではないのですが、結果としてこれが第1回紅白歌合戦になる
のです。放送時間は、午後8時から9時までの1時間だけの放送でした。
 第1回の紅白歌合戦については貴重なデータとなりますので、資料として巻末にデー
タを記載しておきます。実はNHKにも最初の頃のデータは残っていないのです。当時
は単なる特別番組の企画書に過ぎず、こんなに長期間にわたって続くとは考えていなか
ったので処分してしまったからです。
 正月番組としての紅白歌合戦は、1953年の第3回まで次のように続いています。
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        ≪第2回紅白歌合戦≫
         ・1952年1月3日 午後7時30分〜9時
         ・総合司会/田辺正晴 紅白12組
          紅組司会/丹下キヨ子 白組司会/藤倉修一
        ≪第3回紅白歌合戦≫
         ・1953年1月2日 午後7時30分〜9時
         ・総合司会/志村正順 紅白12組
          紅組司会/本田寿賀 白組司会/宮田 輝
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 紅白歌合戦は大変好評だったのですが、ひとつ大きな問題点があったのです。何しろ
正月といえば、芸能人のトップスターは正月公演で忙しく、とても紅白歌合戦のための
時間を割くことはできなかったのです。録音技術も当時は発達しておらず、一定の時間
にトップスターを揃えることは困難を極めたのです。つまり、必ずしも主役が登場しな
い紅白になっていたわけです。
 当時は、マドロス歌謡で売っていた岡晴夫、田端義夫、小畑実の3大スター、それに
美空ひばりが正月公演で出場できなかったのです。とくに美空ひばりは江利チエミ、雪
村いづみと共に3人娘として活躍中であり、ぴっぱりだこだっのです。これらの大スタ
ーを欠いての紅白歌合戦ではNHKの歌番組としてのハクがつかなかったのです。
 このために、NHKとしてはどうしても次の2つのことをやる必要があったのです。
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      1.正月番組を避け、大晦日番組としてトップスター歌手を揃
        えること。
      2.NHKスタジオからの放送ではなく、劇場で紅白歌合戦を
        開催する。
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 問題は年末の劇場の確保でした。確かに正月期間よりは確保しやかったものの、NH
Kは会場の確保と歌手のスケジュールを取るのに苦心惨憺することになるのです。この
話は明日のEJで述べることにします。

≪画像情報≫
[第1回紅白歌合戦]
 放 送 日:1951年1月3日
 放送時間:8:00〜9:00PM
 総合司会:田辺正晴
 紅組司会:加藤道子
 白組司会:藤倉修一

 ≪紅組≫菅原都々子 ・・・・・ 「憧れの住む町」
 ≪白組≫鶴田六郎 ・・・・・・ 「港の恋歌」
 ≪紅組≫暁テル子 ・・・・・・ 「リオのポポ売り」
 ≪白組≫林伊佐緒 ・・・・・・ 「銀座夜曲」
 ≪紅組≫菊池章子 ・・・・・・ 「母紅梅の唄」
 ≪白組≫近江俊郎 ・・・・・・ 「湯の町エレジー」
 ≪紅組≫赤坂小梅 ・・・・・・ 「三池炭鉱節」
 ≪白組≫鈴木正夫 ・・・・・・ 「常盤炭坑節」
 ≪紅組≫松島詩子 ・・・・・・ 「上海の花売娘」
 ≪白組≫東海林太郎 ・・・・・ 「赤城かりがね」
 ≪紅組≫二葉あき子 ・・・・・ 「星のためいき」
 ≪白組≫楠木繁夫 ・・・・・・ 「紅い燃ゆる地平線」
 ≪紅組≫渡辺はま子 ・・・・・ 「桑港のチャイナ街」
 ≪白組≫藤山一郎 ・・・・・・ 「長崎の鐘」
                         ・・・[紅白の歴史/02]

8マドロス歌謡3人男.jpg

2008年01月09日

なぜ紅白は大晦日開催となったのか(EJ第1507号)

 第4回の紅白歌合戦から大晦日に紅白を実施するようになったのは、直接的にはNH
Kが正月の劇場探しに窮したからです。NHKは第4回の紅白歌合戦はそれまでのスタ
ジオ放送ではなく、劇場での実況放送を考えていたのですが、それには事情があったの
です。その事情については後で述べます。
 NHKは正月3が日のいつでも良いという方針で劇場探しをはじめたのですが、どこ
も満員で取れなかったのです。そんなとき日本劇場から提案があったのです。それは、
正月は駄目だが、大晦日であれば貸してもいいというものだったのです。
 NHKとしては、正月よりも大晦日の方がトップ歌手を確保しやすいと考えたので、
この話に乗ったのです。しかし、当時は大晦日の興行はリスクが大きかったのです。大
晦日に果たしてお客はくるだろうか――これには大きな不安があったのです。
 そこでNHKは、出場歌手を5組程度増やすという前提で歌手交渉を始めたのです。
大晦日であるので、年忘れの意味を込めて今年を代表する歌を歌った歌手を中心に選定
する――つまり、その年のブームを大晦日に振り返ろうではないかというコンセプトで
す。確かに当時は、パチンコブーム、八頭身ブーム、「君の名は」ブームなどなど「ブ
ーム」がブームだったのです。
 このコンセプトとNHKの意気込みが通じて、紅組、白組17組の一流歌手を確保で
きたのです。その中には、3人娘の1人である江利チエミ、マドロス歌謡3人男の1人
小畑実も入っていたのです。そして、3人娘の残りの2人である美空ひばりと雪村いづ
みも次の年の第5回(1954年)には出場しています。
 しかし当時人気絶頂でありながら、最後まで紅白には出場しなかった歌手がいます。
岡晴夫です。彼は、NHKからの度重なる出場要請を受けながらも、紅白では全部の歌
詞を歌わせないことを嫌って最後まで出場しなかったのです。なお、田端義夫について
は、なぜか、1963年の第14回の紅白まで出場の機会がなかったのです。
 さて、NHKが第4回の紅白歌合戦をスタジオではなく、なぜ劇場でやることにこだ
わったのかについて述べることにします。結論を先にいうと、第4回の紅白歌合戦から
テレビ中継を開始したからです。テレビの本放送は1953年2月1日から始まってお
り、当然その年の大晦日の紅白歌合戦ではテレビ中継をすることになっていたのです。
 1953年の第3回の紅白歌合戦――1月2日に東京放送会館第1スタジオで行なわ
れたのです。この年は大晦日にも紅白が行なわれていますので、1年に2回の紅白が行
なわれた珍しい年なのです。スタジオには客席も設けられており、そこにはテレビカメ
ラが3台設置されていたのです。しかし、それまでテレビカメラを見たことのないお客
も出演歌手も「何かをやっているんだろう」程度にしか気にとめなかったそうです。
 そのとき1ヵ月後のテレビの本放送に備えてのテレビでの仮放送と、年末の紅白歌合
戦の初のテレビ中継のための練習が行なわれたのです。しかし、テレビ受像機が非常に
高価であったため、テレビが本格的に家庭に普及するには、それから6年ほどの年月が
かかったのです。ちなみに、紅白歌合戦で視聴率を取り始めたのは1962年の第13
回の紅白からであり、そのときの視聴率は80.4%だったのです。
 このように紅白歌合戦のテレビ中継はかなり早くはじまっているのですが、それを見
ている人はごく一部であったため、当時のNHKのアナウンサーは、ラジオ時代のよう
に、登場する歌手の衣装などについて詳細に伝えていたのです。
 第3回の紅白歌合戦の総合司会者である志村正順アナウンサーは、紅組の月岡夢路に
ついて次のように実況しています。
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       紅軍の月岡夢路さん、お客様から向かって右手側の紅軍の応
      援席から舞台中央のマイクに向かいます。アメリカから買って
      きたという肩を出して胸からの真っ白いイブニング・ドレス姿
      です。胸には赤い薔薇の花。客席から盛んに拍手が送られてお
      ります。              ――志村アナウンサ−
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 1953年12月31日――その日の東京は昼頃から雪になったのです。ただでさえ
当たらないといわれる大晦日の夜の興行です。NHKのスタッフは客足の鈍ることは覚
悟したそうです。
 しかし、夜になると雪をついてお客が集まりはじめ、日劇の周囲を取り巻く長蛇の列
ができたのです。さらに、第3回までは連続して白組が勝利していたのですが、第4回
は初のテレビ中継を意識して衣装に気を配った紅組が勝利をおさめています。
 かくして、事実上の第1回紅白歌合戦になる第4回紅白は一応成功を収めたのです。
これによって、大晦日の紅白歌合戦は定着していくことになるのです。しかし、当時N
HKは紅白などの大きなイベントを開催できるホールを所有しておらず、NHKホール
が完成する1973年まで、毎年会場の確保に苦しむことになるのです。
 1961年の第12回紅白から1972年の第23回紅白までは、東京宝塚劇場を連
続して確保できたのですが、第5回紅白から第11回の紅白までの会場確保は大変だっ
たのです。それまでの7回の紅白の会場を調べてみました。産経ホールまで使ったので
す。なお、紅白歌合戦のテーマは11日まで続きます。
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       1954年(昭和29)第 5回 ・・ 日比谷公会堂
       1955年(昭和30)第 6回 ・・ 産経ホール
       1956年(昭和31)第 7回 ・・ 東京宝塚劇場
       1957年(昭和32)第 8回 ・・ 東京宝塚劇場
       1958年(昭和33)第 9回 ・・ 新宿コマ劇場
       1959年(昭和34)第10回 ・・ 東京宝塚劇場
       1960年(昭和35)第11回 ・・ 日本劇場
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≪画像および関連情報≫
・紅白歌合戦の結果を含む紅白歌合戦の最新情報がわかるサイトである。
            http://www1.plala.or.jp/nakaatsu/
                          ・・・[紅白の歴史/03]

9第4回紅白歌合戦/1953.jpg

2008年01月10日

歌手選定プロセスを明確化せよ(EJ第1508号)

 多忙な歌手に懸命に出演交渉して出演してもらう大晦日の歌番組に過ぎなかった紅白
歌合戦は、回数を重ねるにつれてしだいに歌手にとって無視できない重要な番組になっ
ていったのです。とくにテレビが一般家庭に普及してからは全国放送の紅白歌合戦は、
歌手にとって出場を目指す大きな目標となったのです。
 そうなってくると、毎年紅白歌合戦にどの歌手が選ばれるかは大きな関心事となり、
それを決める側のNHKは大きな権限を持つようになります。このあたりにNHKのこ
のたびの不祥事を生む温床が出来上っていったといえます。
 しかし、どの歌手を紅白に出場させるかについては、その決定プロセスが必ずしも明
確ではなく、それがレコード会社や芸能プロダクションとのトラブルの原因になること
が多かったのです。
 そのひとつに「三浦洸一事件」というのがあります。三浦洸一は、当時のビクターの
看板スターであり、初期の紅白の常連歌手だっのです。
 三浦は第6回紅白に「落葉しぐれ」で初出場し、第7回は選ばれなかったものの、第
8回から第14回まで連続出場を果たしているのです。しかし、1984年の第15回
紅白歌合戦の出場リストには三浦洸一の名前はなかったのです。表向きの理由は、三浦
はその年に目立つヒット曲がなかったというものです。
 これに対してビクター側は反発します。確かにヒット曲はないが、三浦のこれまでの
実績はどうなるのかというわけです。そしてビクター側は「三浦を出場させないなら、
ビクター所属歌手全員を引き上げる」とNHKに迫ったのです。
 ビクターには、雪村いづみを筆頭にフランク永井、橋幸夫、吉永小百合、田辺靖雄、
三田明、和田弘とマヒナ・スターズなどのスター歌手を抱えており、これらの全員がす
べて抜ければ、紅白なんか成り立たないぞという圧力です。
 そもそもなぜ第15回で三浦が外されたかというと、本当はヒット曲がないというこ
とではなかったのです。それは、NHKが記念すべき第15回の紅白であるため、ベテ
ラン歌手4人を出すことを決めたことにあるのです。そのため、それまで暗に認めてい
たレコード会社の枠を縮小せざるを得なくなったのです。ベテラン歌手というのは、藤
山一郎、渡辺はま子、伊藤久男、淡谷のり子の4人です。
 ビクターの強硬な抗議に対し、NHKの態度は毅然たるものであったのです。「分か
りました。そういうことなら(ビクター所属歌手全員が引き上げても)仕方がありませ
ん」だったのです。結局、このときはビクター側が折れるかたちで、ビクター所属歌手
の三浦抜きの紅白出場が決まり、この騒ぎはビクターの完敗に終わったのです。
 しかし、その後紅白の視聴率が80%を超えるにいたって、もはやレコード会社がN
HKにビクターのような抗議をすることはなくなったのです。これは、NHKの権限が
それだけ強力になってきたことを意味しています。
 これに伴い、逆に歌手からの辞退という現象が生じてきたのです。つまり、NHKか
ら推薦されても歌手がそれを辞退するという現象です。辞退の理由はいろいろあるので
すが、NHKが紅白出場の条件として、その歌手がNHKの他の番組に対する貢献度を
カウントしているという噂が広がり、それが大方の歌手の反感を買っていたことは事実
なのです。
 皮肉な見方をすれば、番組への辞退があるということ自体が、紅白歌合戦という番組
の価値を物語っているといえます。辞退する歌手自身が紅白を特別の番組として認めて
いるからです。歌手になった以上、一度は出てみたいという番組であるからこそ、推薦
されてもあえて辞退するという行為が生きてくるのです。
 しかし、NHKの不正が発覚し、世間の批判が高まっている現在、紅白歌合戦はまさ
に正念場を迎えているといえます。視聴率も40%を割っているのです。
 とくに長年批判の対象になってきた歌手選定のプロセスの明確化は、NHKとして早
急に行う必要があります。一番良いのは、広く視聴者からの世論調査を行い、その順位
通りに出場させる方法です。もし、辞退者が出れば順番を繰り上げれば良いのです。
 実はNHKは紅白に関する世論調査を今までもやっているのですが、結果を公表して
こなかったのです。しかし、2004年は不祥事の発覚がきっかけで調査結果を公表し
ています。2004年10月29日の公表結果を示しておきます。
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        ≪白組≫           ≪紅組≫
        1.氷川きよし        1.天童よしみ
        2.SMAP         2.宇多田ヒカル
        3.北島三郎         3.柴咲コウ
        4.五木ひろし        4.坂本冬美
        5.平井 堅         5.浜崎あゆみ
        6.サザンオールスターズ   6.石川さゆり
        7.森 進一         7.小林幸子
        8.細川たかし        8.森山良子
        9.ポルノグラフィティ    9.夏川りみ
       1O.ゆず          10.大塚愛
       11.ORANGE RANGE    11.和田あき子
       12.Mr.Children       12.松田聖子
       13.鳥羽一郎        13.aiko
       14.美川憲一        14.島倉千代子
       15.さだまさし       15.BoA
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 これを見ると、出場歌手がいろいろな世代にわたっており、それなりにバランスがと
れていると思います。2004年の出場者もこれに準拠しているといえます。しかし、
55回という回数は異常であり、紅白歌合戦は60回までに抜本的な改革をする必要が
あることは確かであるといえます。

≪画像および関連情報≫
 ・今回のテーマは、次の文献を主として参照している。
  合田道人著『紅白/歌合戦の真実』幻冬社刊
 ・2部制(1989)になるまでの紅白歌合戦の視聴率
   第13回 80.4%  第22回 78.1%  第31回 71.1%
   第14回 81.4%  第23回 80.6%  第32回 74.9%
   第15回 72.0%  第24回 75.8%  第33回 69.9%
   第16回 78.1%  第25回 74.8%  第34回 74.2%
   第17回 74.0%  第26回 72.0%  第35回 78.1%
   第18回 76.7%  第27回 74.6%  第36回 66.0%
   第19回 76.9%  第28回 77.0%  第37回 59.4%
   第20回 69.7%  第29回 72.2%  第38回 55.2%
   第21回 77.0%  第30回 77.0%  第39回 53.9%
                          ・・・[紅白の歴史/04]

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