明智光秀にはアリバイがある(EJ第913号)
加藤廣さんの『信長の柩』(日本経済新聞社)は超大ヒットしています。『本能寺の
変』を新しい角度から取り上げています。テレビドラマにもなっています。
かつてEJでも「本能寺の変」を取り上げており、新しい説に立っているので、再現
することにします。
本能寺の変があった天正10年6月2日前後の光秀の行動を分析してみると、光秀は
6月2日の午前4時前後の本能寺襲撃には参加していないことが明らかになるのです。
現代風にいえば「光秀にはアリバイがある」のです。これは、作家八切止夫氏の主張で
すが、それなりの説得力があります。
世の中の人々――一般の人も歴史学者も「本能寺の変の犯人は明智光秀」ときめつけ
ています。確かに「本能寺の変」には謎が多いのですが、「首謀者は明智光秀である」
ことは誰もが認めてしまっています。しかし、本当にそうなのでしょうか。
一般的に流布されている本能寺の変を光秀の側から記述するとこうなります。
明智光秀は、天正10年(1582)6月1日の酉の刻(午後6時)に、1万300
0人の軍団を率いて亀山城を出発しています。軍団は4つに分かれています。
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先 陣:明智弥平次、明智次右衛門
第2陣:藤田伝五、溝尾勝兵衛
第3陣:明智光秀
後 陣:斉藤利三
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各陣をまとめる諸将は光秀の胸中を知らされていたのですが、それ以外の物頭たちに
は、軍団は中国筋に向かうのであるが、その前に、上様(信長)が陣容、馬揃えを検分
するということなので、夜道をかけて京まで行くといってあったのです。
そして、桂川西岸に達したところで、全軍に命令が出されたのです。兵士は戦闘用の
草鞋に履きかえよ。鉄砲隊は火縄に火をつけよと。そして「敵は本能寺にあり」という
命令が出たのです。
全軍は桂川を渡り切り、まっすぐ七条通りを東進して千本七条に達し、そこを北に向
かって本能寺に攻め込んだのです。本能寺に到着した時間は、2日の午前4時前後とい
われています。
それから約2時間で本能寺は炎上し、続いて明智軍は本能寺から約600メートルほ
ど離れている二条御所にいた三位中将信忠を攻め立て、かなり手こずったものの、辰の
刻(午前8時)までにはこれを攻め落としているのです。このように、すべては午前8
時までに終わっていたのです。
以上は現代人が誰でも知っている「本能寺の変」の顛末なのですが、これは主として
『川角太閤記』からとられています。歴史というものは、基本的に権力者による権力者
のための歴史なのです。自分に都合の悪いことはもちろん隠すし、他人の日記でも平気
で書き替えてしまうものです。とくに、光秀の死後に記述された『信長公記』や『太閤
記』の記述には多くのウソが入っているはずです。死人に口なしだからです。
さて、6月2日当日のことですが当の光秀は実に不可解な行動をとっているのです。
日本歴史学会の会長であり、とくに戦国期の解明には、最高権威といわれる高柳光寿博
士の『戦国戦記』(春秋社刊)には「6月2日、つまり、信長しい逆の当日、午前9時
から午後2時までしか、光秀は京都にあらわれていない」と書いてあるのです。これが
正しいとすると、光秀はすべてが終わったあとに京都に現れ、5時間ほど京都にいて午
後2時には京都を離れていることになります。
いやしくも謀反を企てて信長を殺すというのに、その首謀者である光秀がその現場に
いないというのは不自然です。やはり、自分が直接指揮をとるのは当然のことです。万
一、失敗したら重大な結果を招くからです。
6月1日前の光秀は次の行動をしたことになっています。
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5月27日:愛宕山/愛宕権現礼拝 一泊
5月28日:愛宕百韻/連歌師里村紹巴による連歌会 下山
5月29日:玉薬・長持など荷物百荷を西国に向けて出荷
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愛宕権現では、おみくじを3回引いたのですが、すべて凶か大凶だったことは有名で
す。愛宕百韻で光秀は有名な発句「ときは今あめが下知る五月哉」と読み、天下をとる
決意表明だと思われています。5月29日の荷出しは偽装工作であるといわれています
が、しかし、これは高松に向けて出発するためには当然やらなければならない措置と素
直にとることもできます。
さて、ここで考慮しなければならないのは6月1日前後の天候です。記録によると、
27日は雨、28日は晴だったのですが、29日は下末――すなわち、土砂降りの雨だ
ったのです。その次の日――このときの5月は29日までしかない――したがって、次
の日は6月1日ということになります。6月1日も朝から激しい雨が降り、夕方まで続
いていたのです。
そうすると、光秀は本城である丹波亀山を午後6時頃出発したといっても、『川角太
閤記』に記述されているように、スムーズに進んでいないはずです。とくに当日の桂川
は水かさが増えて、とても軍馬が渡れる状況ではなかったのです。計算して見ると、明
智軍は6月2日の午前4時にはとうてい本能寺にはたどりつけないのです。
・・・[本能寺の変/01]