INTEC JAPAN/BLOG

このブログは、異文化研修の教育機関(株)インテック・ジャパンの情報発信用です。(株)イー・メディアとの提携により、同社のドキュメント・レポート「Electronic Journal」をウィークデイの毎日お届けします。
「Electronic Journal」は様々な情報を400字詰原稿用紙7枚にまとめて配信する日刊メールマガジンです。

トップ >> カテゴリー:本能寺の変

2008年01月11日

明智光秀にはアリバイがある(EJ第913号)

 加藤廣さんの『信長の柩』(日本経済新聞社)は超大ヒットしています。『本能寺の
変』を新しい角度から取り上げています。テレビドラマにもなっています。
 かつてEJでも「本能寺の変」を取り上げており、新しい説に立っているので、再現
することにします。 
本能寺の変があった天正10年6月2日前後の光秀の行動を分析してみると、光秀は
6月2日の午前4時前後の本能寺襲撃には参加していないことが明らかになるのです。
現代風にいえば「光秀にはアリバイがある」のです。これは、作家八切止夫氏の主張で
すが、それなりの説得力があります。
 世の中の人々――一般の人も歴史学者も「本能寺の変の犯人は明智光秀」ときめつけ
ています。確かに「本能寺の変」には謎が多いのですが、「首謀者は明智光秀である」
ことは誰もが認めてしまっています。しかし、本当にそうなのでしょうか。
 一般的に流布されている本能寺の変を光秀の側から記述するとこうなります。
 明智光秀は、天正10年(1582)6月1日の酉の刻(午後6時)に、1万300
0人の軍団を率いて亀山城を出発しています。軍団は4つに分かれています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
            先 陣:明智弥平次、明智次右衛門
            第2陣:藤田伝五、溝尾勝兵衛
            第3陣:明智光秀
            後 陣:斉藤利三
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 各陣をまとめる諸将は光秀の胸中を知らされていたのですが、それ以外の物頭たちに
は、軍団は中国筋に向かうのであるが、その前に、上様(信長)が陣容、馬揃えを検分
するということなので、夜道をかけて京まで行くといってあったのです。
 そして、桂川西岸に達したところで、全軍に命令が出されたのです。兵士は戦闘用の
草鞋に履きかえよ。鉄砲隊は火縄に火をつけよと。そして「敵は本能寺にあり」という
命令が出たのです。
全軍は桂川を渡り切り、まっすぐ七条通りを東進して千本七条に達し、そこを北に向
かって本能寺に攻め込んだのです。本能寺に到着した時間は、2日の午前4時前後とい
われています。
 それから約2時間で本能寺は炎上し、続いて明智軍は本能寺から約600メートルほ
ど離れている二条御所にいた三位中将信忠を攻め立て、かなり手こずったものの、辰の
刻(午前8時)までにはこれを攻め落としているのです。このように、すべては午前8
時までに終わっていたのです。
 以上は現代人が誰でも知っている「本能寺の変」の顛末なのですが、これは主として
『川角太閤記』からとられています。歴史というものは、基本的に権力者による権力者
のための歴史なのです。自分に都合の悪いことはもちろん隠すし、他人の日記でも平気
で書き替えてしまうものです。とくに、光秀の死後に記述された『信長公記』や『太閤
記』の記述には多くのウソが入っているはずです。死人に口なしだからです。
 さて、6月2日当日のことですが当の光秀は実に不可解な行動をとっているのです。
日本歴史学会の会長であり、とくに戦国期の解明には、最高権威といわれる高柳光寿博
士の『戦国戦記』(春秋社刊)には「6月2日、つまり、信長しい逆の当日、午前9時
から午後2時までしか、光秀は京都にあらわれていない」と書いてあるのです。これが
正しいとすると、光秀はすべてが終わったあとに京都に現れ、5時間ほど京都にいて午
後2時には京都を離れていることになります。
 いやしくも謀反を企てて信長を殺すというのに、その首謀者である光秀がその現場に
いないというのは不自然です。やはり、自分が直接指揮をとるのは当然のことです。万
一、失敗したら重大な結果を招くからです。
 6月1日前の光秀は次の行動をしたことになっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      5月27日:愛宕山/愛宕権現礼拝 一泊
      5月28日:愛宕百韻/連歌師里村紹巴による連歌会 下山
      5月29日:玉薬・長持など荷物百荷を西国に向けて出荷
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 愛宕権現では、おみくじを3回引いたのですが、すべて凶か大凶だったことは有名で
す。愛宕百韻で光秀は有名な発句「ときは今あめが下知る五月哉」と読み、天下をとる
決意表明だと思われています。5月29日の荷出しは偽装工作であるといわれています
が、しかし、これは高松に向けて出発するためには当然やらなければならない措置と素
直にとることもできます。
 さて、ここで考慮しなければならないのは6月1日前後の天候です。記録によると、
27日は雨、28日は晴だったのですが、29日は下末――すなわち、土砂降りの雨だ
ったのです。その次の日――このときの5月は29日までしかない――したがって、次
の日は6月1日ということになります。6月1日も朝から激しい雨が降り、夕方まで続
いていたのです。
 そうすると、光秀は本城である丹波亀山を午後6時頃出発したといっても、『川角太
閤記』に記述されているように、スムーズに進んでいないはずです。とくに当日の桂川
は水かさが増えて、とても軍馬が渡れる状況ではなかったのです。計算して見ると、明
智軍は6月2日の午前4時にはとうてい本能寺にはたどりつけないのです。
・・・[本能寺の変/01]

反町信長/萩原光秀.jpg

2008年01月15日

信長殺しは3者の共同謀議?(EJ第914号)

 桂川西岸から現在の亀岡(当時の亀山)まではハイキングコースになっているそうで
すが、この山道は当時人2人が並んでやっと通れる道幅であったようです。天正10年
6月1日、朝から夕方まで降り続いた雨でぬかるんだその山道を1万3000人の軍勢
が夜を徹して行進したのです。
 1万3000人が2列になって6500段。行列に物頭以下の騎馬武者が200騎な
いし300騎。さらに輸送担当の小荷駄隊も100人前後で追随していたのですから、
行列距離は最短でもゆうに8キロ(2里)は超えていたことと思われます。
 しかも、雨のあとの夜で足場は最悪。ほとんどノロノロ歩行ということになります。
こういう状態で野条から1里3町――4200メートルで老ノ坂を上り切り、半里17
町――3700メートルで下り、途中沓掛に着き、行列順に30分ずつ休憩をとったと
して、午前1時過ぎに先陣隊がやっと桂川に到着するのです。その時点で第2陣以降は
まだ沓掛にすら達していないのです。
 しかし、問題は桂川です。桂川は2日連続の豪雨で300メートル以上の川幅になっ
ていたのです。激流が白い牙を剥き、川瀬は轟然と音をなしていたはずです。とはいえ
そこは軍隊――−舟橋、浮橋などを使って続々と到着する第2陣、第3陣、後陣の兵隊
を東岸に渡したのです。しかし、全部が終了したときはおそらく午前4時を大きく過ぎ
ていたはずです。
 それから陣替えをして本能寺目指して進軍するのに、さらに1時間程度は要したと考
えられます。しかし、その頃は既に本能寺では火の手が上がっていたのですから、明智
軍は本能寺襲撃に間に合っていないのです。
 それでは、本能寺を襲撃した軍勢――それは明智軍をあらわす桔梗の旗をかざして、
本能寺に突入している――とは一体何者でしょうか。
 本物の明智軍ではないのにこういう芸当がやれるとしたら、それは、徳川家康の配下
である服部半蔵が率いる忍びの集団か、秀吉の場合は蜂須賀小六率いる野武士集団が考
えられます。どちらかがある意図を持って明智軍を偽って本能寺の信長を襲撃したとし
ます。そして口々に「明智殿ご謀反!」と叫んで周囲を走り回る――そのようなことは
彼らにとっては朝飯前の仕事です。
 そこで、こういう推理が成り立ちます。秀吉か家康のどちらかが、信長を討つことを
企て、光秀を犯人に仕立てるということを考えたとします。そういうことを考えても不
思議ではないたくさんの事情が秀吉にも家康にもあるのですが、それについてはあとで
述べることにします。
 仕掛けとして、中国路に出立しようとする明智軍に、信長の命令として、「急遽軍団
の馬揃えを検分するので、早朝までに京に入れ」という偽命令を出しておきます。
 そして、明智軍が入京する前に明知軍の旗を立てた偽軍団が本能寺を急襲します。そ
して、信長を討ち取ります。しかし、その遺体はひそかに運び去ります。あとで光秀を
不安にさせるために有効だからです。忍者集団ならそのくらいのことは造作なくやるで
しょう。そこに、何も知らない本物の明智軍が本能寺にやってくる――これで明智光秀
は、確実に信長殺しの犯人にされてしまうことでしょう。
 この場合、光秀はどうするでしょうか。彼ほどの人物であればこれはどういい逃れを
しても、犯人の汚名を着せられると悟るはずです。信長も殺されていることであるし、
それなら、二条御所にいる信忠も殺しておくに限るとして、二条御所は本物の明智軍が
攻め落とす――こういう展開になると思います。
 この推理は明智光秀は最初から信長を討つ気がなかったという前提に立っています。
真犯人は秀吉か家康ですが、彼らには絶対的なアリバイがあります。しかし、この2人
は異常に早く「信長死す」という情報を掴んでおり、その後の動きは実に俊敏そのもの
です。明らかに信長が死ぬことを予測していたフシがあり、非常に怪しいのです。
 しかし、光秀の行動を分析してみると、信長を討つ気が全くなかったとはいい切れな
いのです。秀吉、家康、光秀はいずれも信長を恐れていたからです。
 本能寺の変の2年前に、信長は織田家功業の重臣といっていい佐久間信盛を石山城攻
略の怠慢を責め、嫡男の信栄ともども遠国追放の処置をとっています。信長の考え方と
しては「身代をなして無用になったものは殺す」という方針であり、秀吉、家康、光秀
はいずれも、自分もいずれは佐久間信盛のようになることを非常に恐れていたのです。
 そこで出てくるのは、秀吉、家康、光秀の三者共謀による信長抹殺説です。信長を討
つところまでは三者共謀だったのですが、あとは秀吉が一方的に家康と光秀を裏切り、
いち早く光秀を討つことによって、天下取りに優位を確保したとは、考えられないでし
ょうか。
 動機を整理しておきましょう。
 まず、秀吉ですが、光秀に対するいじめやいびりは、本当は秀吉に対してのものだっ
たのではないかと思われます。信長としては、家臣の中で一番不満をぶつけやすい男は
秀吉だったと思われるからです。表面上は笑ってごまかしているが、その屈辱感は相当
のものだったのでしょう。それに秀吉としては、天下がなったとき一番使い捨てにされ
るのは自分だと悟っていたようです。
 その点家康ははっきりした動機があります。それは信長の命令により妻を斬り、息子
の信康を自刃させざるを得なかったからです。そのため、家康犯人説は根強いのです。
 いちばん動機がないのは光秀です。のちの「太閤記」に書かれていた事実と異なり、
信長は光秀の力を買っており、光秀に対してはかなり厚遇していたからです。しかし、
光秀はインテリであり、天皇を無視し、自らを神として拝ませる傲慢さにはとたも我慢
がならなかったと思われます。
 このように、3人とも信長を殺す動機はあるのです。 ・・・[本能寺の変/02]

15明智軍進路.jpg
                 

2008年01月16日

三者謀議のフィクサーは一体誰か(EJ第915号)

 長年『週刊ポスト』誌に井沢元彦氏が「逆説の日本史」を連載しています。『週刊ポスト』2002年8月9日号は「本能寺の変」を取り上げています。井沢氏の推理はあとで述べるとして、「本能寺の変」の秀吉・光秀・家康の三者謀議説についてもう少し述べることにします。
 この三者謀議が仮にあるとした場合、誰がどのようなかたちでそれをまとめたかにつ
いて考えてみます。もちろん、本人たちが会うわけにはいかないので、フィクサー的存
在の人物がまとめたものと思われますが、それは一体誰だったのでしようか。
 その仕掛人として考えられるのは安国寺恵瓊です。安国寺恵瓊の願いはあくまで毛利
家の安泰なのですが、後継者の輝元の器量が今ひとつであり、それを考えると毛利家に
とって織田信長は、もっとも危険な存在なのです。その点、秀吉、光秀、家康はいずれ
も苦労人であり、誰が天下をとっても外交政策で毛利家の安泰は確保されると読んでい
たのです。
 安国寺恵瓊はいわば毛利家の外交官ですが、一方で京都東福寺の高僧でもあり、京都
に滞在することが多かったのです。毛利家代表として秀吉との接触も多く、信頼関係も
生じていたし、光秀との交流もあったのです。
 それでは、フィクサー役は安国寺恵瓊であるとして、秀吉、光秀、家康の3人の外交
官は誰だったのでしょうか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
           豊臣秀吉 ・・・・・ 黒田官兵衛
           明智光秀 ・・・・・ 斉藤 利三
           徳川家康 ・・・・・ 本多 正信
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 安国寺恵瓊の三者への説得のポイントは、信長の危険さを訴えて恐怖感を煽り、織田
家譜代の大名である柴田、丹羽、滝川は別として、信忠の代になると、秀吉、光秀、家
康は織田家にとって危険な存在になると説いたのです。
 しかし、その程度のことで3人が話に乗ってくることは考えられないと思います。歴
史研究家の大浦章郎氏によると、安国寺恵瓊は、信長亡きあとの処置を含めた具体的な
提案をして3者を納得させたといっているのです。
 その提案とは、朝廷に関しては現在の象徴天皇制をとり、その下に天下人は、ちょう
ど大統領のようなかたちで実質的な権限を握るという案です。天下人には一定の任期を
決めて、年齢順に光秀、秀吉、家康の順でどうかというものです。勢力圏としては中央
の京都は光秀、姫路以西は秀吉、駿河以東は家康ということではなかったでしょうか。
 この場合、実行犯となる光秀の背後には、闇の商人といわれる堺−納屋衆がおり、光
秀に情報を提供し、支援したと考えられます。堺−納屋衆にとっても、信長はきわめて
危険な存在であり、消えてもらうことは大きなメリットがあったといえます。そこで堺
−納屋衆は、光秀の企てには情報提供など、いろいろ支援をしたのです。その中心人物
は、千利休その人なのです。
 千利休は、信長の信頼が厚く、茶の湯の師匠的存在としてつねに信長の身近にいたの
です。そのため、信長の行動予定や軍勢の準備態勢などについても情報を掴んでいたと
考えられます。
 「本能寺の変」は、6月1日に信長が100人ほどの手勢で、ほとんど無防備に近い
本能寺に宿泊するという行動がなければ起こり得なかったといえます。信長は、6月3
日には大軍を率いて四国征伐に向かう予定になっていたからです。したがって、6月2
日に信長が京入りしていたら、明智軍はどうすることもできなかったと考えられるから
です。
 なぜ、信長は6月29日に安土を出てわずかな手勢で本能寺に泊まったかというと、
6月1日に茶会を予定していたからです。そして、その茶会の日を決めるのに影響力を
持っていたのは、千利休だったのです。利休は本能寺の茶会の席で博多の豪商の鳥井宗
室を信長に引き合わせているのです。
 その宗室は5月頃から京都に滞在していたのに、1日に信長に会うと、次の日には京
都を出立し、博多に帰っているのです。一説によると、宗室は「楢柴」という茶入れの
名品を持っており、信長はそれを見ることを楽しみにしていたというのです。
 いずれにせよ、信長が5月29日には本能寺に入り、1日に茶会を開き、その日は本
能寺に泊まっているのですが、そんな重要な情報がどのようにして光秀に伝わったのか
というと、堺−納屋衆が光秀に情報を流していたものと考えられます。とくに29日は
愛宕百韻が開かれており、その主催者の連歌師里村紹巴は利休や堺衆とごく近い間柄だ
ったのです。光秀に情報が流れるルートは間違いなくあったのです。
 さて、冒頭の井沢元彦氏の推理ですが、信長が亡くなって一番トクしたのは、四国王
となりつつあった長曾我部元親であると指摘しているのです。元親と信長の関係は、か
つてはよかったのですが、元親が四国統一を進めるにつれて信長が一方的に考え方を変
えたのです。
 天下統一を目指す信長にとって、あまりに巨大な勢力は潰しておくに限るのです。そ
こで、一転して6月3日に四国征伐に出発する予定だったのです。予定通りに出発して
いたら、長曾我部家は間違いなく滅亡していたはずです。
 実は信長政権において対長曾我部外交を担当していたのは光秀であり、光秀はそのた
めに重臣斉藤利三の妹を元親に嫁がせていたのです。その間に生まれたのが信親です。
 したがって、信長の心変わりは、自分の顔を潰されたばかりではなく、斉藤利三の妹
とその子である信親も殺されることになる――そんなことはさせられないと、光秀は斉
藤利三と相談をして決起したのではないかと、井沢氏は推理しているのです。
 ケネディ大統領が暗殺されたとき犯人としてオズワルドが直ちに逮捕されましたが、
そのオズワルドは連行中に今度はルビーという男に射殺されています。本能寺の変も国
のトップの暗殺事件ですが、何か雰囲気が似ていると思います。
                          ・・・[本能寺の変/03]
                 

2008年01月17日

朝廷の手足として動いた兼見と前久(EJ第916号)

 光秀・秀吉・家康の三者共謀説で説得力がないのは、天正10年6月2日の時点で、
家康が、信長とともにもっとも危険な立場に置かれていたという点です。いや、信長よ
りも家康の方が危険な立場にいたといえます。というのは、6月1日〜2日にかけて家
康は、裸同然のわずかな護衛を連れて堺にいたからです。
 もし、家康が、信長が討たれることを事前に知っていたならばそんな危ないことはや
らないであろうというところから、家康シロ説が出ているのです。もっともこの説には
異論があるのですがこれについてはあとで述べます。
 光秀はむしろ三者共謀というよりも、朝廷側と組んでいたという説があるのです。と
いうのは、光秀は正真正銘の勤皇主義者であり、信長の、朝廷から皇位を取り上げよう
とする野望が明らかになったことに反発して、それを阻止するために相当周到な計画の
下に決起した――そう考えられるからです。
 光秀は天正7年7月に丹波を平定したのですが、そのとき朝廷の御料所であった山国
荘を朝廷に返しています。朝廷はこれを大いに喜んで、勅使を下向させ、賞詞と下賜品
を光秀に与えているのです。これは、官位のない陪臣に対する措置としては異例のこと
だったのです。
 光秀のこの考え方のバックボーンは「天下はすべて天皇の土地である」ということに
あります。しかし、信長は天下(自分のこと)を朝廷の上に置いていたのです。実は、
本能寺の変が起きる1年ほど前から、信長と光秀はこの考え方をめぐって深刻な対立を
繰り返していたのです。
 信長は自らの意のままになる第二朝廷を作ろうとし、ときの正親町(おおぎまち)天
皇に譲位を迫ったのです。譲位は二度行われましたが天皇はいずれも拒否しています。
しかし、朝廷の危機感は相当大きいものだったと考えられます。
 天正10年が明けると、信長は自ら生きた神体となる自己神格化を宣言しますが、こ
れは明らかに皇位簒奪計画と連動する政治的行為といえます。5月になると、朝廷はそ
の時点ですべての官位から離脱していた信長に対して「朝廷の三職(さんしき)推任」
を要請します。関白・太政大臣・征夷大将軍のいずれかへの就任要請です。就任させる
ことによって、朝廷の秩序につなぎとめようとしたわけです。しかし、信長はあざ笑う
ようにそれを拒否します。
 それに加えて、信長は毛利征伐の号令を発するのです。毛利家は元就以来の勤皇の大
名であり、ときの正親町天皇が即位できたのも毛利家の献金があったからですし、天皇
が信長の譲位要求をつっぱねられたのも毛利家が後ろ楯だったからなのです。信長はそ
の天皇家の後ろ楯である毛利家を討とうと宣言しているのですから、まさにのど元に匕
首をつきつけたに等しいのです。
 「信長を何とかしなければ朝廷が危ない」と考えた正親町天皇は、皇太子の誠仁(き
ねひと)親王を中心に信長暗殺の裏工作をはじめるのです。そのとき朝廷に一番近いと
ころにいた信長側の武将は光秀だったというわけです。この工作で誠仁親王と光秀との
間に立って動いたのが次の2人です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        吉田兼和(のちに兼見) ・・・ 従三位・神祇大副
        近衛前久 ・・・・・・・・・・ 前関白・太政大臣
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 兼和(以下、兼見)は、吉田神道の総帥であり、神官の頂点に立っていた人です。こ
の兼和の役割は、朝廷内の「反信長神聖同盟」と光秀を結びつけるオルガナイザーとし
て機能することではなかったかと思われます。この人は本能寺の変の前後に非常に怪し
い動きをしているのです。
 近衛前久は、「反信長神聖同盟」の盟主的存在であり、本能寺の変では重要な役割を
果たしているのです。近衛家というのは、藤原北家の流れを汲んだ五摂家――近衛、鷹
司、九条、二条、一条家――の筆頭という家柄であり、前久は19歳のときに既に関白
の職についているのです。
 近衛前久という人は、公家でありながら自ら軍勢を率いたりする異色の人として有名
です。どちらかというと、信長のためにいろいろ尽くした人なのです。石山本願寺との
和睦のときも、前久自身が軍勢を率いて、現代風にいうとPKO部隊のような形で一向
一揆が退却するのに立ち合うなどしていますし、薩摩に下って島津家との外交交渉をや
るなど、表面的には、信長の手足として働いているのです。ところが、本能寺の変の前
後では、兼見と同様に非常に怪しい動きをしているのです。
 吉田兼見の怪しい行動とは、明智軍が本能寺の信長と二条御所の信忠を討ち果たした
あと、光秀は大津に向かうのですが、その途中で吉田兼見と何やら密談していること。
そして、6月6日に安土城にいた光秀に兼見は勅使として下向しており、誠仁親王が朝
廷をくれぐれもよろしくと伝えた事実。光秀はこのとき親王に銀500枚を献上してい
ることなど、たくさんあります。
 本能寺の変の前には、兼見は信長にべったりで、年中京都奉行であった村井貞勝のと
ころに出入りしており、信長貞勝を通じて出した要求にいろいろと便宜を取り計らった
りしていたのです。その一方で光秀とも懇意でよく会っています。
 天正10年5月3日に兼見は、親王の信長への推挙によって位が上がっているのです
が、6月1日に信長が本能寺にきたのにもかかわらず、表敬の挨拶に行っていないので
す。
 近衛前久にも怪しい行動はたくさんあります。そのさいたるものは、変が終わった6
月7日に誠仁親王の居所で「信長打倒計画成功」の祝宴に嫡子の信基と一緒に参加して
いることです。
 それに、前久は、二条御所に隣接して居宅を信長から与えられていたのですが、6月
2日に宿舎の妙覚寺から二条御所に立てこもった信忠が明智軍に包囲されたとき、明智
軍は前久の屋形の屋根を利用して鉄砲や弓矢を射掛けて火を放っているのです。
 そして、変のあと兼見は秀吉に、前久は家康のところに身を預けているのです。やは
り、この二人とつながっているのです。        ・・・ [本能寺の変/04]
                 

2008年01月18日

仕組まれていた家康の伊賀越え(EJ第917号)

 光秀、秀吉、家康が直接的に共謀して信長を討ったのではないにせよ、光秀の信長暗
殺の情報を秀吉と家康は事前に知っていたことは間違いないと思います。
 光秀がある日突然に思いついて本能寺を襲ったのではなく、昨日のEJで述べたよう
に、朝廷の内部の暗殺プロジェクトによりコトが動いたとすれば、つね日頃から情報収
集の重要性を熟知している秀吉と家康の耳に入らないはずがないからです。
 本能寺の変が起こった天正10年6月2日――秀吉は備中高松城(岡山)を攻めてい
たし、家康は30人ほどの家臣と一緒に京見物の途中で泉州・堺(大阪府南部)にいた
――これは、信長暗殺に関しては絶対的なアリバイであるといえます。
 しかし、彼らは信じられないほど素早く情報を入手すると、秀吉は電光石火、毛利と
和睦を結んで姫路に「大返し」をし、家康は選り抜きの家臣にガードされて、伊賀超え
をして岡崎に戻っているのです。これらはいずれも、かなり用意された行動であり、と
っさの判断でやれることではないのです。そこには、大きな疑惑があります。
 家康のケースから考えてみることにします。
 天正10年3月のこと、武田氏が滅亡したことにより、家康は駿河(静岡県)一国を
恩賞として与えられます。この恩賞のお礼を申し述べるために、家康は武田遺臣の穴山
梅雪と一緒に安土城を訪れたのです。天正10年5月15日のことです。こういう目的
の旅行ですから、あまり大軍を引き連れてくるわけにはいかずごく少人数の護衛しか連
れてこれなかったわけです。
 安土には6日間滞在し、21日に信長に京都遊覧をすすめられ京都に入るのです。2
9日には堺まで足を伸ばし、6月1日まで松井友閑や今井宗久などによって茶の湯の接
待を受けます。
 ところが、それまで悠然と旅を楽しんでいた家康は、6月2日朝、ひそかに重臣本多
忠勝を京に向けて先に出発させたあと、帰国に先立ち、もう一度信長に会うため京に行
くといって急いで堺を出発してしまいます。
 本多忠勝は、途中で徳川家御用達を務める京都の豪商茶屋四郎次郎が馬を走らせてく
るのに出会い、信長敗死を知って堺に引き返します。途中で家康一行と出会った本多忠
勝と茶屋四郎次郎は同行の服部半蔵と相談のうえ、伊賀越えをして岡崎に戻るコースを
選択してこれを見事に成し遂げるのです。
 後年家康は、この伊賀越えは「九死に一生の危険な逃避行」といっているのですが、
これにはウソがあります。ひとつには、本多忠勝が家康と一緒にいることです。本多は
徳川家の軍事を担当する指揮官であり、本来であれば、動乱の余韻覚めやらぬ甲斐にに
らみを効かせるためには不可欠な人物です。
 他に人がいないわけではなく、本多忠勝をあえて物見遊山の旅に連れてきたのは、こ
の旅が非常に危険であることがあらかじめ家康には分かっていたからです。
 それに、服部半蔵も物見遊山の旅にはふさわしくない人物であるといえます。服部半
蔵といえば、伊賀で圧倒的な勢力を持つ忍びの衆であり、伊賀越えをする場合、彼ほど
の適任者はいないはずです。なぜ、服部半蔵が同行していたのでしょうか。最初からそ
ういう事態が起こることを予測していたのでしょうか。
 徳川家は家康の祖父松平清康の代から伊賀忍者と縁が深かったのです。まして、天正
9年には信長による伊賀攻めで多くの忍者が殺戮されており、徳川家に投じる伊賀忍者
は増えていたといいます。つまり、服部半蔵についても信長は家康とともに家族殺しの
仇敵であり、「信長憎し」の感情に固まっていたのです。
 甲賀忍者についても、元亀元年には信長の甲賀攻めを家康が中止させたといういきさ
つから、甲賀忍者は徳川家に親和的であるといわれているのです。
 こういう事情から伊賀越えの途中、半蔵の呼びかけに応じて、たちまち三百余人の
伊賀・甲賀忍者が馳せ参じて家康の護衛に当たったといわれます。何のことはない――
伊賀越えは家康にとって、最も安全性の高い避難路だったのです。つまり、少人数で
も大丈夫な備えをしていたのです。ついでに述べておくと、この服部半蔵の遠祖は実は
渡来系氏族であり、具体的にはあの秦氏なのですが、ここではあえて詳しくは述べない
ことにします。
 なお、家康と同道していた武田の遺臣穴山梅雪は、家康より少し遅れて同じルートを
たどり、宇治田原に向かったのですが、途中一揆に襲われて殺害されています。もっと
もこれは表の話であり、梅雪の挙動に不審なものを感じた家康が、半蔵に命じて殺させ
たというのが正しいようです。
 さて、家康は、岡崎に戻ると、直ちに陣触れを領内に回し、光秀討伐軍を組織するの
ですが、それに10日を要し、6月19日にやっと出発して尾張(愛知県)の鳴海まで
進出します。そこで秀吉が6月13日に光秀を討ち滅ぼしてしまったということを聞く
のです。情報に強い家康といえども、秀吉の「大返し」は予測できなかったことになり
ます。
 家康は直ちに撤兵し、本城の浜松城に戻るや甲斐(山梨県)と信濃(長野県)両国を
自己の支配下に組み込むことに着手するのです。この両国平定は天正11年中に完了
し、甲斐一国と信濃の南半分を領国化し、5ヶ国の太守になることに成功します。
 しかし、家康がそうしている間に、秀吉は手際よく主家を盗み取って、30ヶ国の大
大名になり、朝廷権威を巧みに利用して、豊臣体制という中央集権機構を作り上げてし
まったのです。これは、明らかに家康の敗北といえます。
 天正12年になって、信長の次男である信雄(のぶかつ)が秀吉と事を構え、家康を
頼ってきたのを受けて、家康は挙兵して秀吉に立ち向かいます。この小牧・長久手の戦
いにおいて、家康は総力戦では秀吉に及ばないことを悟ることになるのです。
 光秀によって信長が暗殺されることを家康とともに知っていた秀吉が、その直後に見
せた「大返し」にはどのようなカラクリがあったのでしょうか。来週はその秘密に迫り
ます。                       ・・・ [本能寺の変/05]

18三河岡崎城.jpg
                 

2008年01月21日

秀吉の大返し/1日80キロの謎(EJ第918号)

 本能寺で信長父子が光秀に暗殺されたという情報が、岡山にいた秀吉に届けられたの
は、諸説はあるものの、天正10年6月3日の「それほど遅い時間ではない夜」と考え
てよいと思います。
 その夜秀吉はかねてから親交のあった安国寺恵瓊をに呼び出し飲める条件を示して
毛利側との和睦の交渉を依頼します。この時点で「信長死す」という情報は、毛利側に
はまだ届いていなかったはずです。事前に和睦の下交渉は行われていたのです。
 とはいうものの、清水宗治が治める高松城は、5月8日から水攻めにあって落城寸前
であり、まして信長が大軍を率いてやってくる直前でもあるのに和睦を結ぶ状況ではな
かったのです。安国寺恵瓊は、すべてを知ったうえで秀吉の意中を汲み取り、和睦交渉
をやったのです。秀吉と安国寺恵瓊はつながっていたと考えるべきです。
 毛利との和睦が成立し、秀吉が岡山を離れたのは、6日の未の刻(午後3時)です。
秀吉としては和睦は成立したものの、信長の死を知った毛利がどう出るか慎重に様子を
みていたのです。そして毛利軍に動きがないことを知ると、秀吉は驚異的なスピードで
上方に引き返します。
 これは後世「秀吉の大返し」として話題になるのですが、どのくらいのスピードで引
き返したのでしょうか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      ●6日午後3時「高松城」を出発
       同日6日夜「沼城」に到着 ・・・・・・ 約26キロ
      ●7日早朝「沼城」を出発
       7日夜「姫路城」に到着 ・・・・・・・ 約80キロ
      ●9日早朝「姫路城」を出発
       11日午前8時「尼崎」に到着 ・・・・ 約80キロ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 問題は距離です。本によってそれぞれ違うのですが、高松城から姫路までは27里
――約106キロあるといわれています。秀吉は、高松城を6日の午後3時頃出発し、
その日のうちに沼城に入り、そこで一泊します。そこまでは、普通のスピードです。し
かし、7日の早朝に沼城を出発した秀吉軍は、その日のうちに姫路城に入っているので
す。
 しかも、7日は朝から暴風雨であり、数ヶ所の大河、洪水を乗り切って姫路城に到着
したのです。その日の行程は約80キロといいますから、信じられないスピードといえ
ます。
 このときの秀吉の軍勢は約2万5千人――これほどの大部隊になると、あまり早くは
移動できないのです。強行軍を得意としていた旧日本陸軍については次のデータがあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       大部隊  ・・・・・・・・ 一昼夜20〜24キロ
       騎馬大隊 ・・・・・・・・ 一昼夜40〜60キロ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 つまり、旧陸軍でさえ3日かかる距離を秀吉軍はたった1日で踏破してしまっている
のです。こんなことはとても信じられないことです。おそらく秀吉を中心に、数人の供
回りの者が先行してひたすら姫路に向かったのでしょう。それにしても凄いスピードで
すが、秀吉としてはここ一番とばかり踏ん張ったのです。
 しかし、重い具足を身につけた兵隊たちは当然遅れてしまいます。それらの兵隊は後
から三々五々姫路にやってきています。中には、13日の山崎の戦いに間に合わなかっ
た兵隊も少なくないといわれています。
 兵隊が到着するのを待つということもあり、秀吉は次の8日一日は姫路城で過ごしま
す。そして、姫路城に蓄えてある金銀や兵糧米をすべての家臣たちに分配してしまうの
です。もちろん籠城の意思はなく、姫路にはもう戻らないという意思表示です。
 秀吉軍が姫路城を出発したのは9日の早朝です。秀吉としてはもう少し姫路城で人馬
を休ませるつもりでいたのですが、8日の酉の刻(午後4時)にある緊急情報がもたら
されたので、予定を前倒しして姫路城を出発したのです。その情報とは、大坂にいる信
長の遺児/信孝を光秀が襲って、切腹を迫っているというニセ情報です。
 しかし、姫路から尼崎までの秀吉軍の行程は、もちろん通常よりは早いものの、1日
40キロのペースで軍勢を整えながらの進軍となるのです。9日夜には明石到着。10
日の午後には兵庫。そして、11日の午前8時に尼崎に到着しています。ここまでの間
に多くの兵は追いつき、軍勢はほぼ整ってきていたのです。
 世にいう「秀吉の大返し」は、事前に周到な計画が立てられています。1日で80キ
ロという凄いスピードとはいうものの、それは秀吉と数人の供回りの者たちが踏破した
スピードであり、秀吉軍全体がそのスピードで動いたわけではないのです。しかし、秀
吉は姫路城に少し長く滞在することによって、ちゃんと時間を調整して軍隊が追いつく
のを待っているのです。
 しかし、いかにも全軍が姫路に結集したようにウワサをばらまいています。これで、
光秀をはじめとする各武将は秀吉軍が怒涛のように尼崎めがけて進軍してくると錯覚
するわけです。
 それだけではないのです。秀吉は畿内と近畿にいる味方と考えている諸将――これに
ついてはあとで述べる――に対して書状を送り、秀吉軍とともに光秀征伐戦に参戦する
よう呼びかけ、かれらの参着を待っていたのです。光秀討伐軍は少しでも多い方がよい
からです。
 秀吉が、事前に信長が暗殺されることを知っていたのではないかと疑われている理由
としては、高松城からのいわゆる大返しにあるのではなく、畿内や近畿にいる諸大名に
対して事前に何らかの工作をしていたのではないかという点にあります。
 そういう工作があればこそ、本来なら光秀につくはずの諸将がことごとく秀吉軍につ
いてしまったのです。秀吉はこれを計算に入れて、ひたすら高松城から尼崎へと派手な
演出を試みながら進軍してきたのです。        ・・・[本能寺の変/06]

21秀吉の大返し.jpg

2008年01月22日

信長暗殺/細川藤孝フィクサー説もある(EJ第919号)

 天正10年6月2日に信長父子の暗殺に成功した明智光秀――不思議なことにその直
後の光秀は非常に時間を無駄に使っているように思います。
 近江坂本や安土、山崎北方の勝龍寺城、天王山、淀城などを右往左往しただけで、天
下取りのために何ら有効な手を打っていないのです。つまり、クーデター成功後に何を
どうするかというビジョンが何もないのです。
 これに対して秀吉は、まるでそれを予測していたかのように、きびきびと的確に行動
しています。そういうところから、実行犯は光秀であることは動かないとしても、秀吉
仕掛け人説が根強くあるのです。
 光秀の誤算といえば、もともと光秀の組下大名であった次の大名がすべて光秀に味方
しなかったことです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          丹後衆 ・・・ 細川藤孝 倅 忠興
          大和衆 ・・・ 筒井順慶
          摂津衆 ・・・ 高山重友 中川清秀
          兵庫衆 ・・・ 池田恒興 倅 元助
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これらの大名のうち、細川藤孝は山崎の戦いに参加していないものの、他の大名はす
べて秀吉に味方しているのです。これについて、やれ光秀の人間性に問題があるとか、
面倒見が悪いとか、ケチであるとかいろいろいわれていますが、光秀はけっしてそのよ
うな人物ではないのです。これは明らかに裏切りです。
 とくに不可解なのは細川藤孝/忠興父子です。なぜなら細川家と明智家は強いつなが
りがあるからです。織田信長に将軍足利義昭を引き合わせたのは光秀なのですが、その
とき足利将軍家の重臣だった細川藤孝も信長に紹介し、仕えるようになったからです。
そして、その後藤孝の息子忠興は、信長の命により、光秀の娘玉を正室に迎えているの
です。この玉が、有名な「細川ガラシャ」なのです。
 しかも、藤孝は里村紹巴の主宰する連歌会のメンバーでもあり光秀の企てを知ってい
たはずです。それに運命の5月28日の愛宕百韻にも藤孝は出席する予定だったのに急
遽欠席しています。これだけの関係ですから、光秀としては当然味方してくれると信じ
ていたと思います。
 しかし、細川父子は本能寺の変を知ると、髻を切って信長に弔意を示し、藤孝は家督
を忠興に譲って細川幽斉と名乗ります。忠興は、正室玉を離別し、光秀に使者を送って
義絶を通告しているのです。光秀としては、手の平を返したような細川父子の態度にが
くぜんとしたことでしょう。
 それどころか、光秀はこの細川藤孝に信長暗殺をそそのかされたという説があるので
す。これについて『信長権力と朝廷』(岩田書院刊)の著者であり、歴史学者の立花京
子氏は、作家/安部龍太郎氏との対談で次のようにいっているのでご紹介します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      安部:そうすると、やはり藤孝がフィクサーとして動いたん
         じゃないか、と。
      立花:そうなんです。それに、秀吉の大返しにしても、あれ
         は素早すぎると皆さんおっしゃいますね。だから、秀
         吉もある程度知っていたのではないか。本願寺から知
         らされたとか、藤孝が知らせたんじゃないか、ともい
         われていますが、ひょっとすると、これはまだまった
         く私の推測ですけど、光秀は、秀吉も一緒にやるから
         というようなことを言われていたのではないでしょう
         か。(『真説/本能寺の変』より。集英社刊)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この立花氏の説は改めて取り上げますが、その説では信長暗殺の意外な黒幕の存在を
示唆しています。
 さて、池田恒興は伊丹城、高山重友は高槻城、中川清秀は茨木城のそれぞれの城主で
すが、この中では一番大身である池田恒興が軍事的統率者になります。その池田恒興は
秀吉寄りであるということもあり、そのため、秀吉は大返しの途中、恒興や清秀に手紙
を書き参戦を呼びかけています。NHK大河ドラマ「利家とまつ――加賀百万石物語」
でも、池田恒興の秀吉へのベッタリぶりがよく描かれています。
 筒井順慶については「洞ヶ峠」(ほらがとうげ)という有名な言葉が残っています。
筒井順慶は光秀に大恩があるにもかかわらず、光秀からの要請に答えなかったのです。
実際はどうしたらいいかわからなかったのです。業を煮やした光秀は洞ヶ峠(京都府八
幡市)まで出陣し圧力をかけたのですが、筒井順慶は動かずこのとこから「洞ヶ峠」は「日和見」の代名詞となったのです。
 これらの池田、細川、高山、中川、筒井の諸将は、もともと信長の命により、光秀と
ともに中国の秀吉支援に赴く準備をしていたので、光秀にも秀吉にも参戦できる状況に
あったのです。秀吉としては、ぬかりなくすべてに手紙を送りけん制したのです。
 秀吉は大返しの途中、中川清秀に、次のような手紙を送っています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      いま京都から届いた確かな情報によれば、上様ならびに殿様
      (信忠)は、光秀の襲撃を切り抜けて近江膳所ヶ崎に逃れ、
      ご無事だとのこと。まずもって、めでたいことである。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 もちろん、ウソの情報です。しかし、情報が混乱しているあのときの状況で、この情
報を聞いて秀吉に乗った方がトクと考えた武将は多いと思います。
 しかし、この情報は単なるデタラメではなく、信長の遺体が発見されないからいえる
ことです。そうすると、秀吉は蜂須賀などの乱破を使い、家康の遺体をひそかに本能寺
から運び出した疑いは濃厚になります。        ・・・ [本能寺の変/07]

22立花京子&安部龍太郎.jpg

2008年01月23日

八切止夫意外史は注目に値する(EJ第920号)

 NHKの大河ドラマ「利家とまつ――加賀百万石物語」を見て「本能寺の変」に興味
が湧き、EJに書くことを前提に多くの本や資料を真剣に読んでみました。
 そして理解できたことは、現在われわれが知っている本能寺の変は、『川角太閤記』
や『信長公記』など、後年の権力者秀吉の立場から書かれた文書をベースとしていると
いう事実です。要するに、秀吉にとって都合が悪いことはすべてカットされ、内容がね
じまげられており、真実は闇の中になっています。歴史とはそういうものです。
 実は5月のはじめのことですが、次のような本を購入したのです。そのときは、本能
寺の変をEJで取り上げることはぜんぜん考えていませんでした。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        八切止夫著『信長殺し、光秀ではない』作品社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 著者の八切止夫氏は故人であり、あとでわかったことですが、歴史の世界で奇書とい
われているものの復刻版だったのです。八切氏には「八切意外史」全12巻というのが
あるようで、上掲書はその第1巻目の本だったのです。今から30年前の本ですが、当
時ベストセラーになったそうです。
 しかし、この本は話がいろいろなところに飛び、悪くいえば支離滅裂で、良くいえば
奇想天外――何をいいたいのかよく分からない本なので、途中で読むのを止めてしまっ
たのです。しかし、本能寺の変についてEJで取り上げるようになって、本気で読み直
して見ると、非常に重要なことが書かれていることがわかってきたのです。
 今週発売の『週刊ポスト』8月16日号で、井沢元彦氏も取り上げているのですが、
八切氏はその本の中で、当時の鉄砲に使う火薬の原料「硝石」についてふれているので
す。多くの史書では鉄砲という銃器の製造については言及しているものの、それに使う
火薬がマカオからの輸入に依存していた事実がまったく書かれていないのです。
 「パソコンはソフトがなければタダの箱」といわれますが、鉄砲も「火薬がなければ
タダの鉄棒」なのです。種子島が鉄砲の産地であるとか、紀州の雑賀衆が鉄砲を量産し
ていたという銃器の生産の話はよく出ますが、火薬の話、ましてその原料の話などは、
八切氏以外、誰もいっていなかったはずです。
 八切氏によると当時の火薬の配合は、75%が輸入硝石(当時の言葉では「煙硝」)
に頼っていたのです。しかし、この硝石は、あたかもマカオが原産地であるように見せ
かけていますが、正しくはマカオは中継地に過ぎないのです。
 当時のポルトガルの商人は、火薬を輸出するに当たって、ヨーロッパやインドの払下
げ品を集めてきて、マカオで新しい樽につめかえさせて、日本に輸出していたのです。
そして、日本にはマカオが硝石の産地のように見せかけていたのです。信長はこれに完
全に騙されていて、彼は火薬確保のためにマカオを本気で攻め落とすことも視野に入っ
ていたと考えられます。
 当時マカオはポルトガル領であり、火薬商売だけでなく、ポルトガルのカトリックの
イエズス会の宗教セールスマンが宣教師としてどんどん日本に入ってきていたのです。
当然彼らは火薬を布教の道具として使ったのです。当時は良質の火薬がなかなか入手で
きなかったので、火薬欲しさに切支丹に帰依した大名も少なくなかったのです。
 さて、井沢元彦氏によると、30年前は八切氏以外に火薬の原料――硝石についてふ
れた歴史家はいなかったのに、現在はそのことに触れていない人はいないと述べていま
す。しかし、現在の歴史家はことごとく八切氏を無視し、参考文献や引用資料に八切止
夫の名前はないのです。はじめは八切氏の説をこきおろしておきながら、それがどうや
ら正しいとわかると、だまってそれを引用する――日本の歴史学者の悪いクセです。
 さて、八切氏は本能寺の変について意外なことをいっているのです。2日の早暁に丹
波の軍勢とみられる約1万3千の兵が本能寺を取り囲んだのは事実なのですが、これを
日本側の史料では、予想外のこと――すなわち「異変」としているのに対し、本能寺の
すぐ近くにあった南蛮寺のイエズス会のポルトガル人の宣教師たちは「通常の出来事」
と考えていたというのです。
 というのは、信長はいつも少人数で出動し、それから1日か2日で黒山のような軍隊
を編成し、自ら引率して行動を開始するのが通例である――と京にいるポルトガル人の
宣教師たちは認識していたといっているのです。そういうわけで、2日の早暁に約1万
3千の兵が本能寺を取り囲んでも彼らは「いつもの命令受領」と考えていたようです。
 ところが軍勢が本能寺を包囲後数時間経過して、突然本能寺から火の手があがったと
いうのです。それはもの凄い火力で燃え上がり、四方の民家に類焼しているのです。八
切氏は、これは明らかに爆発であり、本能寺の中にいた者は一人残らず「髪の毛一筋残
さず」吹き飛ばされたといっているのです。もちろん、信長もです。一体本能寺に何が
起こったのでしょうか。
 実は、本能寺の地下に煙硝蔵(火薬庫)があって、それが爆発したと考えられるので
す。何によって爆発したのかについては明日述べることにして、マカオから運び込まれ
た火薬の原料である硝石は、本能寺の地下に納められ、そこから目的地に運ばれていた
というのはどうやら事実なのです。この本能寺の煙硝蔵の存在については、最近発刊さ
れた津本陽氏の『本能寺の変』(講談社刊)でもふれられています。
 そうすると、本能寺の変とは一体何だったのでしょうか。本能寺はなぜ爆発をしたの
でしょうか。本能寺を取り囲んでいた軍隊はどこの軍隊だったのでしょうか。
 昨日ご紹介した立花京子氏によると、信長暗殺にイエズス会が深く関与していたので
はないかと述べています。              ・・・[本能寺の変/08]

23八切止夫/意外史.jpg
                

2008年01月24日

朝廷は深く関与していた−−立花説(EJ第921号)

「信長を殺したのは誰か」――八切止夫氏のように「光秀は犯人にあらず」とする説
もありますが、本能寺の変のあとの光秀の行動を考えると、光秀が実行犯であることは
動かしようがない事実であると思います。
 しかし、その動機となると諸説が乱立しています。定説としては、「怨恨説」「野望
説」ですが、私が調べた限りでは、それらは一番あり得ない説であると思います。動機に関しては今までEJで述べてきたところでは、次の2つがあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       1.光秀/秀吉/家康3者共謀説
         実行犯/光秀 ・・・ 黒幕/秀吉/家康
       2.朝廷黒幕説
         実行犯/光秀 ・・・ 黒幕/正親町天皇、誠仁親王
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 殺人事件の犯人というものは、その動機が怨恨でない場合、その人が死んで一番トク
をする人物を疑えというのが常識です。結果論として見ると、信長が死んでトクをした
人物というと、やはり天下を取った秀吉ということになります。しかし、秀吉が天下を
取れたのは、信長死去のあとの秀吉の判断と努力、それに加えて彼の運の強さによると
ころが大きく、単に信長を殺せば天下が取れたわけではないのです。
 それなら、家康はどうかというと、彼の場合は怨恨なら分かりますが、あの時点で天
下取りを企てることは考えられなかったといえます。家康は、信長が死去したあとの戦
略において秀吉に大きく遅れをとっているからです。しかし、家康は秀吉に強い対抗識
を持ち、その後も執念を燃やして、時期は遅れたものの結果として天下を取るのです。
そういう意味で、本能寺の変と関ヶ原の戦いはつながっているといえます。
 このように考えていくと、光秀/秀吉/家康の3者共謀説は考えられないことになり
ます。それならば、2の朝廷黒幕説はどうでしょうか。既に述べたように、朝廷も当時
信長には相当の危機感を抱いており、信長がいなくなって一番ほっとしたのは朝廷では
ないかと思います。しかし、現在、ほとんどの歴史学者は、この朝廷黒幕説を否定して
います。
 『逆説の日本史』の著者の井沢元彦氏は、朝礼黒幕説は十分考えられるとしながらも
ある疑問が解決しない限り、その説には乗れないと述べています。
 そのある疑問とは、本能寺の変のあと、天正10年6月9日付で光秀が細川藤孝に出
したという書簡――細川家文書として有名――の内容に関するものです。光秀は藤孝に
一緒にやってくれと申し入れたのに、藤孝は髻を切って剃髪したということを聞き、秀
は非常に腹を立てたけれども、よく考えてみればもっともなことだと考え直し、重ねて
協力を要請したという内容です。
 井沢氏がいう疑問とは、その書簡で重ねて野心がないことを強調しているけれども、
もし、朝廷からの指示でやったものであれば、そのことを書くはずなのに書いていない
――それはおかしいというものです。確かに、朝廷からの何らかの勅があれば自らに野
心のないことの何よりもの証明になるし、逆賊の汚名も着せられることはないのです。
 これに対して、歴史学者の立花京子氏は、その細川家文書はニセではないかという大
胆な疑問を呈しています。立花氏はその細川文書について次の3つのことを指摘してい
ます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          1.花押が光秀本人のものではないこと
          2.光秀の字ではなく祐筆が書いている
          3.内容が弱々しく、光秀にそぐわない
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 立花氏は、細川藤孝が怪しいと考えているのです。光秀としては、藤孝の息子である
忠興のところに三女玉子が嫁に行っており藤孝が同意しないのであれば、信長を討つこ
となどできなかったのです。もし、藤孝が信長側に立っているならば、光秀は玉子を犠
牲にすることになるからです。したがって、藤孝は事前に光秀に何らか合意を与えてい
たかむしろ藤孝が光秀にクーデターを仕掛けたとも考えられる――としているのです。
 立花氏は自ら『光秀文書目録』を作っているほどの光秀研究家ですが、その目録を作
るさい、光秀の花押を120個ほど集め、そのかたちの変化でその年次比定ができる表
を作成しています。それによると、問題の細川家文書は?Z型になるのですが、花押の形
はそうであっても、他には絶対に見られない筆の太さがそこに現れていると指摘してい
ます。それに筆跡も光秀のものとは違うのです。光秀の自筆は、もっと流れるような筆
跡で、大変な達筆であるといっています。
 したがって、問題の細川家文書は、誰かが形を真似て作った偽物ということになりま
すが、立花氏によると、犯人は藤孝自身ではないかといっているのです。要するに、光
秀は藤孝に乗せられて事件を起こし、そのあとハシゴを外されたのではないか、と立花
氏は推理しているのです。
 もちろん藤孝のバックには朝廷がいて、天皇、親王、前久、兼見、晴豊たちは、信長
暗殺に深くかかわっていたと立花氏は分析しています。しかしそれを秀吉が知るところ
となり、以後秀吉に秘密を握られた朝廷は秀吉に何もいえなくなって、秀吉政権の成立
・全国制覇の事業達成を可能にさせることになる――これが立花京子氏の推論です。多
くの証拠を用意し、緻密に推論が積み上げられ、非常に説得力がある所説であると思い
ます。
 さて、本能寺の変の黒幕として、もうひとつ取り上げなければならない黒幕がいるの
です。それは、イエズス会です。立花氏はそもそも信長の全国制覇にイエズス会が深く
かかわっていたと述べています。イエズス会とは何でしょうか。彼らは何を目的として
日本にきたのでしょうか。             ・・・ [本能寺の変/09]
                        

24本能寺想像図.jpg

2008年01月25日

≪黒衣の宰相≫天海僧正は光秀である(EJ第923号)

 有名な話ですが、比叡山に明智光秀が寄進したという石灯籠が現在も立っています。
もともと比叡山は光秀の領地だったところであり、寄進の石灯籠があっても不思議はな
いのですが、問題はそこに刻まれている日付なのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
         慶長二十年二月十七日 奉寄進願主光秀
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 慶長20年(1615年)2月というと、大坂夏の陣の開始直前であり、額面通りに
受け取れば、光秀はこの年まで生きていたことになります。この石灯籠は、大坂夏の陣
に向けて、明智一族の怨念を晴らすため、豊家滅亡を祈願して寄進されたものとされて
いるのです。
 といっても、本物の光秀が寄進した証拠はなく、別の光秀という人が寄進したのかも
知れません。しかし、光秀が山崎の戦いのあと、生き延びていたという状況証拠は山ほ
どあるのです。
 通説によれば、光秀は最後の砦となった勝龍寺城を夜陰と雨に紛れて抜け出し、大雨
の中を数人の家臣と一緒に近江坂本城に向かっていたのですが、山科の小栗栖にさしか
ったとき、中村長兵衛という土民の繰り出した竹槍にわき腹を刺されて深手を負いその
場で自害したと伝えられています。
 介錯をしたのは溝尾庄兵衛――光秀は自分の首は知恩院に葬るよう庄兵衛に命じたと
いいます。そして、進士作左衛門、比田帯刀という2人の家臣は殉死しています。とこ
ろが、溝尾庄兵衛は光秀の首を知恩院に持っていかず、鞍覆いに包んで近くの藪の溝の
中に隠して坂本に落ち延びたといわれているのです。
 しかし、これはデタラメなのです。殉死したといわれる進士作左衛門、比田帯刀は死
んでおらず、細川興秋に仕えていることが「細川家記」で明らかになっていますし、光
秀を竹槍で指したという中村長兵衛は、寛永年間に行われた調査では、実在しなかった
ことが明らかになっているからです。
 それでは光秀は、誰のところに身を寄せていたのでしょうか。相当の権力者でもない
限り、主君を討った逆臣光秀を匿うことはできなかったはずです。
 光秀を匿っていたとされる人物は徳川家康なのです。光秀は家康の宗教政策を一手に
担い、江戸の霊的防衛網を完成させた「天海僧正」に身を変えていたといわれているの
です。
 この天海なる人物は、「南光坊・智楽院」と称する天台宗の僧であり、号を「慈眼大
師」というのです。大師号は、平安時代の智証上人以来700年ぶりのことであるとい
うので、当時の仏教界では相当力のあった人物であったといってよいのです。これは比
叡山復興に尽力した功績によるものといわれます。
 実は一度EJでこの天海僧正を取り上げたことがあるのです。それは、1998年1
1月13日のEJ第21号です。当時、NHKの大河ドラマでは「徳川慶喜」をやって
おり、そのことに関連して取り上げたのです。
 天海僧正は「黒衣の宰相」といわれ、徳川の帷幕にあって権勢を振るったのです。天
海僧正は、江戸城の構築に当たって八門遁甲の秘法により、子孫繁栄の方位を使って建
築をしています。そのうえ、江戸城にとって最悪の凶方とされる艮位(東北)――つま
り鬼門の方角「上野」に東叡山寛永寺を建立して運気の破れを防ぎ、さらに念を入れて
江戸そのものの鬼門に当たる「日光」に東照宮を建立、次いで巽位(東南)の破れには
愛宕山神社を作り裏鬼門の坤位(西南)の方角には、遁甲玉埋めの法に基づき、城内の
某所に黄金の玉を埋めるなど万全を施しているのです。
 その結果はどうでしょう。あの明治維新という大革命のさいにも徳川家は命を全うし
て、維新後は公爵という人民最高の扱いを受けていますし、江戸城そのものも今もその
雄姿は何も変わっていないのです。天海僧正の霊的処置は効いていたのです。
 おそらく光秀は小栗栖を脱出して比叡山に逃れたのです。延暦寺では、憎き信長を討
ってくれた光秀を粗略には扱わなかったと思います。そして、この比叡山で横河飯室谷
長寿院に入り得度し、「是春」を名乗ったのです。そして、そこで、会津生まれの「隋
風」という名の光秀と同年輩の僧侶――本人は死亡――の存在を知り、是春はその隋風
になりすましたものと思われます。この隋風がやがて天海僧正になるのです。そのため
には、どこかで家康と会う必要があります。
 天正16年(1588年)に隋風は東下し、江戸崎不動院に入山します。その東下の
途中の駿府で家康に再会したと思われるのです。初対面であるにもかかわらず2人は、
「人払いをして旧知の仲のように二刻(4時間)もの長時間かけて話し合ったという記
録が残っているのです。
 家康がどうして天海を受け入れたかについてはいろいろな話がありますが、それを書
くのは別の機会にして、光秀が天海僧正であったという証拠をもう少し述べます。
 まず、天海が差配して作った日光東照宮には数多く明智の桔梗紋があり、日光明智平
の地名、それに光秀の位牌のある京都慈眼寺と天海の号「慈眼」の一致など枚挙にいと
まはないのです。
 それに、天海が光秀だとすると、江戸幕府初期の春日局の謎も解けるのです。なぜな
ら、春日局(お福)は、光秀の重臣斉藤利三の娘なのです。家康が逆臣の子のお福にな
ぜあれほどの権限を持たせたか――天海が光秀ならそれはありうるでしょう。
 それに三代将軍家光は、本当はお江の子ではなく、家康とお福の子という説がありま
す。それで家康は天海の勧めによって、家康の「家」と光秀の「光」をつけたといわれ
ているのです。
 そうすると、本能寺の変は明らかに関が原の戦いにつながってます。天海僧正は関が
原の戦いでは鎧をつけて従軍してきているのですが、この話は改めて取り上げることに
します。
 本能寺の変について、いろいろな角度から分析してみました。解けない謎は多いです
が、今回で終わりです。来週からは、別のテーマを取り上げます。
                         ・・・ [本能寺の変/10]

25天海僧正.jpg

カレンダー

最近のコメント