INTEC JAPAN/BLOG

このブログは、異文化研修の教育機関(株)インテック・ジャパンの情報発信用です。(株)イー・メディアとの提携により、同社のドキュメント・レポート「Electronic Journal」をウィークデイの毎日お届けします。
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2007年10月29日

篠田監督最後の作品『スパイ・ゾルゲ』(第1162号)

 今週は映画の話題を取り上げます。この記事は2003年8月4日〜8日まで連載し
たものであることをお断りしておきます。
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 篠田正浩監督の『スパイ・ゾルゲ』を観ました。とても印象深い映画でした。次の大
きなテーマを取り上げる前の話題のひとつとしてこの映画について書くことにします。
8月15日も近いので、ちょうどよいと思っています。
 新しい21世紀がはじまってから3年が経過しましたが、ここにきて、われわれが生きてきた20世紀を見直そうとする映画監督が増えているようです。そういう作品を上げると、次の3つになります。
     
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           1.ロマン・ポランスキー監督
             『戦場のピアニスト』
           2.ベルトラン・タヴェルニエ監督
             『レセ・パセ/自由への通行許可証』
           3.篠田正浩監督
             『スパイ・ゾルゲ』
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 ポランスキー監督は、ナチス占領下のポーランドに実在するひとりのピアニストを通
じて、あの時代のユダヤ人たちの過酷な生活を描いていますし、タヴェルニエ監督はや
はりナチス占領下のフランスの映画人たちの抵抗を描いています。占領はされても、ド
イツには協力しないというフランス人の心意気を描いた物語になっているのです。
 そして、篠田正浩監督は、第2次世界大戦直前の日本でスパイ活動をして逮捕され、
処刑されたリヒャルト・ゾルゲと尾崎秀美(ほつみ)いう2人の人物を通して、当時の
日本の真の姿を描き出そうとしています。
 これら3人の監督の生年月日は次の通りであり、ほとんど同世代の人なのです。
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       ポランスキー ・・・ 1933年 8月 8日生まれ
       タヴェルニエ ・・・ 1941年 4月25日生まれ
       篠田正浩 ・・・・・ 1931年 3月 9日生まれ
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 篠田監督は、この作品について次のようにいっています。
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       日本人が忘れ去ろうとしている「昭和」
       日本人が失いつつある「時代感覚」
       日本と日本人が取り戻すべき「アイデンティティ」
       その、まるごとを描いてみたかった。
       2つの祖国を持つジャーナリストにしてスパイ、
       ゾルゲという一人の≪怪物≫の目を通して  ――篠田正浩
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 この映画の主役リヒャルト・ゾルゲは、ドイツ人の父とロシア人の母のもとでロシア
のアゼルバイジャンで生まれ、ドイツに移り住むのです。ゾルゲが18歳のとき第1次
世界大戦がはじまりゾルゲもドイツ軍の志願兵として戦線に送られます。
 そして、負傷――3度の負傷のあと除隊するのですが、戦争の無意味さを実感し、し
だいに共産主義運動に引かれていくことになります。国際共産主義世界の実現を夢見て
コミュニストになり、ドイツを離れてモスクワのコミンテルンの活動に参加するように
なるのです。コミンテルンとは、レーニンが作った共産主義インターナショナルのこと
です。
 そして、活動の場を赤軍に移して1930年から上海でソ連のスパイとして諜報活動
をはじめるようになります。その上海でゾルゲは、朝日新聞社上海通信局の記者である
尾崎秀美と知り合うのです。それが尾崎との最初の出会いです。
 1932年に尾崎は日本に転勤になるのですが、ゾルゲも1933年に「フランクフ
ルター・ツァイトゥング」紙の東京特派員として、諜報活動のために來日し、再び尾崎
と接触します。そして、尾崎は協力者としてゾルゲの諜報活動を助けるのです。
 尾崎は、中国の専門家としての知識・識見を買われ、朝日新聞社から近衛文麿内閣の
嘱託となり、さらに南満州鉄道嘱託になって権力の中枢に入っていくのです。ゾルゲが
日本政府の極秘事項について正確な情報が得られたのは、尾崎の協力があったればこそ
なのです。
 それにしても、ゾルゲの場合はわかるのですが、一高から東京帝大(現在の東大)を
出て朝日新聞社に入社――まるで絵に描いたようなエリートコースを進んだ尾崎秀美が
なぜソ連のスパイであるゾルゲに協力したのか、それがこの映画では十分描き切れては
いないと思うのです。
 ただ、いえることは、当時の日本は経済がどん底の状態でありそれに軍国主義がはび
こっていて、国が良い状態でなかったこと――その反動として、当時のソ連は理想の国
という幻想があったのです。こういう日本の国情が尾崎秀美に何らかの影響を与えてい
たことは確かなのです。
 ところで、ゾルゲ諜報団とはどういうメンバーだったのでしょうか。
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      リヒャルト・ゾルゲ ・・・・・・ リーダー
      尾崎秀美 ・・・・・・・・・・・ 近衛内閣嘱託
      ブラント・ド・ヴェケリッチ ・・ クロアチア人記者
      マックス・クラウゼン ・・・・・ ドイツ人無線技師
      宮城与徳 ・・・・・・・・・・・ 画家
      アグネス・スメドレー ・・・・・ 米国人ジャーナリスト
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 ゾルゲは、駐日ドイツ大使に信頼され、大使館の中に一室をもらいます。そして、ナ
チス党員の地位を巧みに利用し、大使館経由で日本とドイツの情報を収集し、その極秘
情報をモスクワに送っていたのです。ゾルゲは、1933年から足かけ9年間、日本に
滞在し、諜報活動を続けていたのです。     ・・・[スパイ・ゾルゲ/01]

ゾルゲと尾崎秀美.jpg
               

2007年10月30日

ゾルゲ諜報団の目的は何だったのか(第1163号)

 ソ連のスパイであるゾルゲが、日本で危険を冒して何を探ろうとしていたのでしょう
か。
 ゾルゲという人物は、父はドイツ人で母はロシア人、そして出生はロシアのアゼルバ
イジャンで、その後ドイツに移住しているのです。要するに、ドイツ人なのか、ロシア
人なのか、非常に分かりにくい人物なのです。
 結果として、国際共産主義を広げるためにゾルゲはドイツ人を演出して実はソ連のス
パイとして働いたわけで、ドイツ側は完全に騙されたことになります。
 なぜなら、ドイツ大使館に一室を与えられてそこを活動の拠点とし、ドイツ大使館主
催のパーティーにも常時出席していたからです。とくに当時のドイツ大使館付きの上級
武官、オイゲン・オットー大佐(のちに駐日ドイツ大使)との親交は非常に厚いものが
あったのです。
 ゾルゲ諜報団が日本で探っていたのは、独ソ戦に関する日本軍の動向――これに尽き
ます。1939年にドイツ軍がポーランドに侵攻したのを契機として第2次世界大戦が
勃発するのですが、その同じ年に独ソ不可侵条約が締結されています。これは、当時対
独提携を考えていた日本に衝撃を与えます。
 その後ドイツは、1940(昭和15)年5月にはオランダを6月にはフランスを降
伏させます。それは、英国まで占領しかねない勢いだったのです。この時点から、一時
冷却化していた対独提携論が、陸軍や外務省枢軸派に再燃し、強く反対していた海軍も
松岡洋右外相に説得されて、1940年9月27日、遂に日独伊三国同盟がベルリンで
調印されたのです。
 松岡洋右外相は、この三国同盟をそれにソ連を加えた四国同盟に発展させようと考え
ていたといわれますが、その時点でドイツは既にソ連侵攻のハラを固めており、それを
1941年に実行に移します。独ソ戦争のはじまりです。
 ドイツ軍は破竹の勢いでソ連の首都モスクワに向けて進撃を開始しますが、そうなる
と、ソ連としては、日本が参戦してくるかどうかが最大の関心事になります。三国同盟
には、その第3条において、同盟国中1国が戦争に入った場合はそれを支援することが
定められていたからです。
 ゾルゲ諜報団の目的は、独ソ戦に日本軍の動向――北進して対ソ戦に参戦するか、そ
れとも南進して資源確保を計るのかを探り出すことにあったのです。なぜなら、これに
よってソ連は、ドイツとの戦争のやり方が違ってくるからです。
 1941年9月――御前会議によって日本軍の南進策が決定しますが、その情報をい
ち早く掴んだゾルゲは、それをモスクワに打電します。これによって、ソ連は極東警備
の備えとして配備していた兵力をすべてドイツ軍にぶつけて、スターリングラードの戦
いでドイツ軍に圧勝するのです。
 しかし、スパイの任を解かれる寸前の1941年10月、ゾルゲ諜報団は一斉に検挙
されます。その罪名は、次の4つの法律の違反容疑でした。
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            1.国防保安法違反
            2.軍機保護法違反
            3.軍用資源秘密保護法違反
            4.治安維持法違反
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 そして、約3年間の獄中生活を経て1944年11月7日、奇しくもロシア革命記念
日にゾルゲと尾崎秀美は東京拘置所において処刑されたのです。
 現在モスクワでは、数多くの歴史上名高い人物の像と並んで、ゾルゲの像を見ること
ができます。1964年にゾルゲは「最高ソ連英雄勲章」を授与され、正式にソ連の英
雄として認められたからです。
 しかし、ゾルゲが処刑されたのは1944年であり、20年もあとのことです。それ
は、スターリンの狭量さによるものです。ゾルゲが日本で逮捕されたことを聞いたスタ
ーリンは「そのような人物は知らん」といって、その関わりを否定しています。
 スターリンは、大国のリーダーにあるまじき狭量な人物であり猜疑心が強く、人を信
用しない人物だったのです。そのため、スターリンはゾルゲを二重スパイではないかと
疑っていたといわれます。駐日ドイツ大使館に入り込み、ドイツ人記者として活動して
いたのですから、猜疑心の強い人間にはソ連のスパイのふりをしたドイツのスパイでは
ないかと考えても不思議はないのです。
 しかし、ゾルゲのモスクワに対する報告は、1939年以降にに絞っても次の10項
目に上がっており、その内容は、驚くほど正確だったのです。
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       1939年 平沼内閣の成立事情を調査
             ノモンハン事件の報告
             日英会議を調査報告
             日独伊軍事同盟問題の調査
       1940年 米内内閣成立を調査
             第2次近衛内閣成立についての報告
             日独伊経済協定問題についての報告
       1941年 独軍によるソ連侵攻の報告
             日本の戦争遂行能力についての報告
             日本の南進政策の報告
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 スターリンは、当初はゾルゲの報告書を信用していなかったのですが、そのあまりの
正確さに後年国策に役立てていたといわれます。ソ連がドイツに勝てたのは、ゾルゲに
よる日本の南進策決定の情報があったからです。それでいながら、スターリンはゾルゲ
を信用せず、諜報団の日本滞在経費の送金をストップしていたといわれているの
です。                     ・・・[スパイ・ゾルゲ/02]

尾崎秀美とゾルゲ.jpg

2007年10月31日

ゾルゲ諜報団を摘発した秘密機関(第1164号)

 1941年10月15日――尾崎秀美の家に突然数人の特高の男たちがやってきて尾
崎を連行して行きます。それから、3日後の18日、今度はゾルゲが特高に連行される
のですが、そこから映画『スパイ・ゾルゲ』は始まるのです。そして映画は、尾崎とゾ
ルゲが、今までどのようにスパイを行ったかを自供する内容を回想シーンでたどるとい
うかたちをとっています。
 映画にはありませんがゾルゲが逮捕された同じ18日に、ドイツ人の無線技師マック
ス・クラウゼン、クロアチア人のブラント・ヴェケリッチが同時に逮捕されています。
それに10日には、ゾルゲ諜報団の先陣を切って、既に宮城与徳が逮捕されていたので
す。10日、15日、18日という3回にわたる逮捕であり、日があったのに、彼らは
なぜ逃げなかったのでしょうか。特高のことですから、逃げたとしても、即逮捕できる
ようにマークしていたはずではありますが・・・。
 さて、特高とは何でしょうか。
 昭和初期の映画や本を読むと、この「特高」という言葉によく出会います。何か怖い
というかおぞましい感じのする言葉です。同じようなイメージの言葉に「憲兵」があり
ます。確かに同じイメージですが、特高と憲兵とは別のものです。
 もともと特高(特別高等警察)は、戦前の日本において、天皇制政府に反対する思想
や言論、行動――具体的には社会主義者を取り締まることを専門にした秘密警察のこと
です。この特高警察の創設は、1911年(明治44年)に警視庁に特別高等警察課が
設置されたことにさかのぼることができます。
 1925年に悪名高き治安維持法が制定されるのですが、その前年の1924年、特
高警察は大坂と京都に増設され、1928年までに全国に配置されます。組織的には、
内務省警保局保安課の統括下に置かれたのです。
 1932年6月には、特別高等警察課は、特別高等警察部に昇格し、次の6課編成に
なります。
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                  特高課(後に一課と二課に分割)
                  労働課
       警視庁特別高等警察部 検閲課
                  外事課
                  内鮮課
                  調停課
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 ゾルゲ諜報団を逮捕したのはこの特高課なのです。しかし、諜報団の捜索に当ったの
は別の組織ですが、これについてはあとで述べます。
 これに対して憲兵というのは陸軍省に属し、陸軍大臣の命令を受けて軍人の犯罪を取
り締まるのが任務です。といっても民間人も取締りの対象に入るのです。というのは、
一般警察力が行き届かない辺境の地や外地では、武装警察として治安を維持する任務が
あるからです。
 なお、外地に派遣される憲兵は野戦憲兵隊と呼ばれますが、野戦憲兵隊は陸軍大臣の
指揮下から離れて軍司令官の指揮下に入るのです。そのため陸軍大臣の命令に服する内
地の憲兵は「勅令憲兵」、軍司令官の命令に服する憲兵を「軍令憲兵」と呼んでいるの
です。当時憲兵隊は日本内地、朝鮮、台湾の師団所在地には必ず置かれていたのです。
 憲兵隊の組織は、次のようになっていますが、ややこしいことに、ここにも特高がい
るのです。こちらの方は「特高係憲兵」というのです。つまり、特高には、警察官の特
高と軍人の特高の2つがあるのです。
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                特高第一課――政治班(中佐・少佐)
       憲兵隊長(大佐) 特高第二課――警務班(中佐・少佐)
                外事課――――防諜班(中佐・少佐)
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 それでは、ゾルゲ諜報団を捜索・特定し、逮捕したのはどの組織がやったのでしょう
か。
 ゾルゲ諜報団の逮捕の命令を出したのは、陸軍省のある秘密機関なのです。どこの国
でもそうですが、防諜機関は秘密のヴェールに包まれており、その実体を正確に把握す
ることは困難ですが、警察と憲兵が特高を組織して防諜工作に当たっていたことは確か
なのです。
 当時陸軍省には「兵務局」と「軍事資料部」があり、兵務局の指揮下には「防衛課」
があったのです。この防衛課は憲兵業務の主務課であったので、憲兵情報はまずこの課
に集まるのです。ここは、内務省の警保局や憲兵司令部と緊密な連携を行っていて防諜
に関して重要な役割をしていたのです。
 軍事資料部は、それまで憲兵の防諜組織として陸軍省の外に特設された「防諜班」を
まとめたもので、1938年に密かに設置された防諜組織です。この組織はもちろん防
衛課と一体となって活動しており、やがて密命を帯びて「兵務局分室」として活動をは
じめるのです。
 斉藤充功著、『昭和史発掘/幻の特務機関「ヤマ」』(新潮社刊)によると、この兵
務局分室が「ヤマ」と呼ばれる秘密機関であり、ゾルゲ諜報団の逮捕に重要な役割を果
たしているのです。
 ヤマ機関には甲から戊までの班があり、次のような役割を担っていたのです。
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      甲班 ・・ 内外要人の監視・外国公館・ホテルなどの監視
      乙班 ・・ 内外電信・電話の盗聴・通信傍受(移動監視隊)
      丙班 ・・ 内外郵便物の開緘・税関荷物の検査
      丁班 ・・ 要監視者の荷物奪取、窃取
      戊班 ・・ スパイの謀殺・偵諜
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                       ・・・ [スパイ・ゾルゲ/03]

幻の特務機関「ヤマ」.jpg

2007年11月01日

どのようにして電波を突き止めたか(EJ第1165号)

 1941年10月18日、ゾルゲ諜報団の無線技師マックス・クラウゼンは逮捕され
三田警察署に留置されます。取調べに当たったのは、東京刑事地方裁判所検事局の吉河
光貞検事です。その日のうちに取り調べは開始されたのですが、クラウゼンは、比較的
素直に自分がゾルゲ諜報団の一員であったことを自供しているのです。
 クラウゼンが日本に潜入したのは、1935年11月28日のことですが、当時日本
は、翌年2月に起きる2.26事件の前兆とみられる事件が相次いでおり、準戦時体制
下ともいうべき状況にあったといえます。政府としては国内治安の引き締めを行い、軍
部の政治進出も顕著になりつつあったのです。
 当然のことですが、外国人に対する監視体制も厳しく、外国人同士が話をする場所は
帝国ホテルのロビーぐらいしかなかったといえます。そのような状況の中で、クラウゼ
ンは赤坂の山王ホテルに1ヶ月ほど宿を取り、それからお茶の水の文化アパートを借り
て移り住みます。
 そこでクラウゼンは、ウラジオストックのブィズバーデン局と交信するため、無線送
信機と受信機を組み立てたのです。送信用真空管2個については、米国で購入して日本
に持ち込み、あとは東京市内で部品を調達したというのです。
 組み立てたのは、送信用真空管2個を並列に接続し、100ボルトの交流電源を使用
し、これを変圧器によって800ボルトにして働かせる米国無電アマチュア協会創案の
アームストロング式短波送信機で、アンテナ長は5〜6メートルでした。
 この送信機の性能は、周波数6〜7000キロサイクル、空中線出力は15キロワッ
トで、最大通信距離は4000キロメートルは可能ということですが、確実な通信距離
は1000キロメートルといわれます。東京――ウラジオストック間の直線距離は、ち
ょうど1000キロメートルなのです。この程度であれば、手製の送信機でも十分届く
というクラウゼンの計算です。
 受信機は、ラジオ受信機を買ってきてそれを短波受信用に改造しています。これで受
信周波数は40メガサイクルから60メガサイクルの波長までカバーしたといいます。
これらの無線装置は使用のつど組み立て、使用後は分解しており、非常に慎重にコトに
当たっていたことが分かります。
 クラウゼンは、これらの証言を東京刑事地方裁判所で開かれた予審尋問で検事の質問
に対して行っているのです。通信の傍受に対してどのように対応したかとの検事の質問
に対して、クラウゼンは次の趣旨のことを証言しています。
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      1.日本の探知機関による傍受は防ぐことはできない。通信は
        必ず傍受されるという前提でコトに当たる必要がある。
      2.しかし、都市市街地における方向探知は困難であり、最も
        良い条件でも数キロ圏内程度の確認しかできないこと。
      3.電波発射点の正確な確認は、ドイツでもそうであるように
        受信機を持って巡回するしか方法はなく時間がかかる。
      4.したがって、送信については毎回場所を移動し、長時間の
        通信を避け、または波長を変更するなどの処置をとる。
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 クラウゼンの証言の中で注目すべきは3の「電波発射点の正確な確認は、受信機を持
って巡回するしか方法はない」という部分です。クラウゼンとしては、発信電波は傍受
されても、発射点を特定するのは簡単ではないと考えていたのです。そして、そのため
に、日本の防諜機関が受信機を持って巡回することまでは、まさかやるまいと考えてい
たのです。
 この判断はある意味では当っていたといえると思います。なぜなら、クラウゼンがは
じめて電波を出した1935年の年末から1941年の7年間の間に実に130回、6
万6000字の暗号通信を送ることに成功しているからです。
 しかし1939年に陸軍科学研究所登戸出張所が生田村(現在の川崎市多摩区生田)
に開設されると、クラウゼンはたちまち追い詰められることになるのです。ここに「無
線の高野」という異名をとる高野泰秋少佐がいたのです。
 高野少佐は、「諜者用無線機」を開発しているのですが、これは当時陸軍が使ってい
た軍用無線機とは比較にならないほど優れた性能を持っており、しかも、重量8キロで
ランドセルを一回り大きくした背負式で、どこにでも持って巡回できるという優れもの
なのです。この短波用通信機は、世界的にみても当時の最先端の技術を応用して作られ
ており、戦後GHQが注目し、朝鮮戦争で北朝鮮の通信傍受用に採用されたほどなので
す。
 これに加えて高野少佐は「不法無線探知用方向探知機」なる機材も開発しています。
この機材は、ブラウン管に電波の波形を映す鑑別機を組み込んだ全波受信機です。自動
車に機材をセットして移動しながら、電波の発信地点を探知するのです。
 これを使っていたのが昨日のEJでご紹介した「ヤマ」という秘密機関の乙班なので
す。乙班は、高野少佐が開発した「不法無線探知用方向探知機」を改造して3台の車に
搭載し3点測定法で不法電波の発信地点を突き止めるというもので、このチームは「移
動監視隊」と呼ばれていたのです。
 実はクラウゼンの発信する電波は、東京都市逓信局によって何回も傍受されていたの
です。したがって、当局としては、スパイ団の存在は分かっていたのですが、どうして
もその発信地点を特定できなかったのです。
 「ヤマ」機関の採用した3点測定法とは、3台の自動車を任意の3地点に配置し、無
線で連絡を取り合いながら探知機の操作を同時に行い、電波の発信位置を絞り込んでい
くという方法です。
 この方法を使うと、相手の発信する電波の発信時間が30秒までなら、半径1キロの
範囲まで絞り込むことができるのです。これによって、クラウゼン宅は特定されたので
す。クラウゼンがまさかと思うことが「ヤマ」乙班によって実際に行われたのです。
                       ・・・[スパイ・ゾルゲ/04]

映画「スパイ・ゾルゲ」より.jpg

2007年11月02日

映画『スパイ・ゾルゲ』の音楽と武満徹(EJ第1166号)

 篠田正浩監督の引退作になる映画作品『スパイ・ゾルゲ』は、魯迅の次の言葉ではじ
まり、ジョン・レノンの『イマジン』で終るという構成になっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        思うに希望とは、もともとあるものともいえぬし、
        ないともいえない。
        それは地上の道のようなものである。
        もともと地上に道はない。
        歩く人が多くなれば、それが道になる。   魯迅
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 篠田監督は、最初からそのように決めていたのです。この映画の音楽は池辺晋一郎が
担当したのですが、篠田監督は池辺にそれを依頼するとき、あらかじめ、ジョン・レノ
ンの『イマジン』と武満徹の『弦楽のためのレクイエム』を使うことについて了解を求
めているのです。
 池辺晋一郎ほどの大家になるとそういう注文は嫌うものですが、彼は1984年には
『瀬戸内少年野球団』、1990年には『少年時代』などの篠田作品の音楽を担当して
おり、気心も知れているので、これらを了解したうえで音楽を引き受けているのです。
そのため、この映画には、篠田好みの音楽がふんだんに使われており、そういう観点か
ら見るのも面白いと思います。
 篠田監督の音楽好きは相当なもので、作曲家武満徹に心酔していたのです。篠田は、
1960年の監督第2作目になる『乾いた湖』ではじめて武満に音楽を依頼して以来、
16の作品の音楽を武満に依頼しています。大変な武満ファンだったのです。
 その武満徹は1996年2月20日に急逝してしまうのですがそうでなかったら、こ
の映画の音楽は武満に書いてもらいたかったに違いないと思われます。篠田の話による
と、今から15年前に武満とこの映画について話し合ったことがあり、そのとき武満は
「スパイの映画だから、ものすごく優しい音楽を書こう」といってくれたそうです。そ
れに、ジョン・レノンの『イマジン』を使うようにアドバイスしたのも武満だったので
す。
 そういうことがあったからこそ、篠田は2.26事件のシーンに武満の『弦楽のレク
イエム』を使い、最後のところで『イマジン』を使ったのです。
 もちろん映画『スパイ・ゾルゲ』でメインに使われている曲は池辺が作曲した次の2
つの曲です。
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        池辺晋一郎作曲、『交響曲第5番/シンプレックス』
                 佐藤功太郎指揮/東京都交響楽団
        池辺晋一郎作曲、『交響曲第6番/個の座標の上で』
           岩城宏之指揮新日本フィルハーモニー交響楽団
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 ゾルゲの日本人妻だった石井華子(葉月理緒菜)が、ゾルゲが刑死したあと自室でレ
コードを聴きながら、嘆き悲しむ印象的なシーンがあります。そのとき流れていた曲は
バッハの『無伴奏チェロ組曲第6番』なのです。
 ゾルゲはこの曲が非常に好きで、いつもこのレコードをかけて仕事をしていたといわ
れます。演奏は、パブロ・カザルスです。石井華子という人は、生涯ゾルゲとの愛を貫
き通した人であり、そのゾルゲとの思い出を『人間ゾルゲ』(勁草書房)にまとめてい
るのですが、その中でこのバッハのレコードをゾルゲからプレゼントされたと書いてい
るのです。
 さて、映画では、コミュニストであったゾルゲと尾崎を『インターナショナル』、ド
イツ人を『菩提樹』、そして、『東京ブギウギ』や『リンゴの唄』が日本の戦後を象徴
するものとして挿入されています。それにCGで描かれた日劇と朝日新聞社、数寄屋橋
のシーンが非常に懐かしいです。
 この中で『インターナショナル』については少し説明が必要です。これは「立て、飢
えたるものを、今ぞ日は近し、立てよ、わが同士・・・」というあの労働歌なのです。
これをギターで弾いているのですが、この曲を編曲したのは武満徹なのです。
 武満の作品に『ギターのための12の歌』というのがあるのですが、この作品はポピ
ュラーな12の歌を武満がギターへ編曲したものです。取り上げている12の歌は「ロ
ンドンデリーの歌」にはじまり、コスマの「失われた恋」ビートルズの「ミッシェル」
「ヘイ・ジュード」「イエスタデイ」、そして「インターナショナル」で終わるのです。
最近では、ギタリストの福田進一がCDを出しています。篠田はその中のギターの「イ
ンターナショナル」をさりげなく映画で使っているのです。
 映画の最後にジョン・レノンの『イマジン』が演奏だけで流れ歌詞がスクリーンに表
示されます。篠田はレノンが歌う『イマジン』ではなく、文字で歌詞を入れたかったと
いっています。日本人は未だに『イマジン』をラブソングだと思っているからです。
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        想像してごらん、この世に国家なんか存在しないと
        決して難しいことではない
        殺戮も死もなくなり、
        宗教の争いも消えてしまう
        想像してくれよ、すべての人間が
        平和に暮らしている姿を
        君はこんな私を夢想家と思うだろうが
                      ――ジョン・レノン
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 この音源は、レノンが自分の歌を入れるために作っていたものをオノ・ヨーコさんか
らもらったものと篠田はいっています。
 そして、俳優やスタッフのクレジットが終わったあとに「この作品を武満徹に」とい
うことばが出て映画は終わるのです。篠田の武満への思いの深さがよく分かります。
                       ・・・[スパイ・ゾルゲ/05]

映画『スパイ・ゾルゲ』より.jpg

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