INTEC JAPAN/BLOG

このブログは、異文化研修の教育機関(株)インテック・ジャパンの情報発信用です。(株)イー・メディアとの提携により、同社のドキュメント・レポート「Electronic Journal」をウィークデイの毎日お届けします。
「Electronic Journal」は様々な情報を400字詰原稿用紙7枚にまとめて配信する日刊メールマガジンです。

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2007年08月20日

再現/御巣鷹山飛行機事故の真相(EJ第1051号)

 犠牲者520人を出した1985年の日航ジャンボ機墜落事故から22年日が経過し
ました。しかし、いまだにその謎は解明されておらず、大きな謎が残っています。
 「御巣鷹山飛行機事故」についは、1999年5月7日のEJ132号からはじまっ
て、1999年5月25日のEJ144号までの13回にわたって取り上げています。
 以来、このテーマについて再研究をしてきたのですが、新事実も数多くあり、本日か
らこのテーマを再構築して取り上げることにしたいと思います。単なる再現ではなく、
新規にレポートするつもりです。今日は「予告編」だと思ってください。
 第1回のEJ132号では、次のメッセージによってこのテーマはスタートを切って
います。
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       今日から取り上げるテーマは、私自身がまだ半信半疑に思っ
      ているものです。何度かEJで取り上げようと思ったのですが
      見送ってきたテーマです。テーマの内容は「御巣鷹山/JAL
      123便遭難」です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 半信半疑は今もあります。しかし、その後の情報収集によってそういうことがあって
も不思議はないと思うようになってきています。何よりもわれわれは、この不幸な事故
を風化させてはならないと思います。そのためにもEJで再び取り上げるのは意義があ
ると思います。
 1998年の暮れのことです。私はいつも土曜日にブックハンティングに行くジュン
ク堂書店で、次の本を見つけたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        池田昌昭著
        『JAL123便は自衛隊が撃墜した』/文芸社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 思わずギョッとするようなタイトルです。タイトルを見る限りキワもののように見え
ます。しかし、実はこの本は2冊目であり私がEJに取り上げる直前にさらに3冊目が
出版されているのです。そして、2001年7月に4冊目が出ています。内容はキワも
のではなく、事実に基づいて記述されています。
 関連書籍については、あとでまとめてお知らせしますので、まずはEJのレポートを
読んでいただきたいと思います。読み進めるにしたがって、池田氏の2冊目の本のタイ
トル『JAL123便は自衛隊が撃墜した』という結論に近づくのかどうかです。
 1985年8月12日、羽田発大坂行きJAL123便は、乗客509人、乗員15
人、合計524人を乗せて、午後6時12分に羽田を離陸したのですが、午後6時56
分30秒、群馬県側の山岳地帯である御巣鷹山に墜落――乗客のうち重傷4名は8月1
3日に救出されたものの、505人の乗客と15人の乗員は還らぬ人となったのです。
 問題は事故の原因です。当時の運輸省航空事故調査委員会は結論として、次のように
述べています。報告書はもっと詳細なものですが、重要な部分のみ書きます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      機体後部の圧力隔壁の破壊による機内与圧空気の急激な噴流に
      より、垂直尾翼を噴き飛ばし、JAL123便は操縦不能とな
      り、御巣鷹山に墜落したものである
             ―――運輸省航空事故調査委員会の報告書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 大きな疑問点は、次の3つがあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          1.圧力隔壁は何によって破壊されたか
          2.機内急減圧が本当に起きているのか
          3.墜落場所がなぜ御巣鷹山になったか
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 事故調査委員会は、機体後部の圧力隔壁が破壊された原因について、「疲労亀裂の進
展で残留強度が著しく低下したため」としています。JAL123便は、垂直尾翼が3
分の2も損傷しているのです。航空機の垂直尾翼は非常に頑丈なものであり、簡単に破
損するものではないのです。機内与圧空気の急激な噴流などで壊れるものかどうかは疑
問です。
 事故調査委員会は、機内与圧空気の急激な噴流が尾翼破壊の原因という説を正当化す
るために、圧力隔壁の破壊を後からつけたのではないでしょうか。
 もし、与圧空気の噴流が頑丈な垂直尾翼を吹き飛ばすほど強いものであったなら、機
内にはその空気抜けによる急減圧が起きているはずなのです。何しろ高度24000フ
ィート(7200メートル)で起こったことなのですから、機内の人たちは大変なこと
になっていたはずです。
 しかし、生存者の証言を調べても、そのような急減圧は起きているフシはないのです
。事故調査委員会も急減圧の起きていないことは一応認めており、これを解明できない
未解決事項としているのです。
 垂直尾翼が破壊された原因を常識的に考えると、何らかの飛行物体が尾翼にぶつかっ
たのではないかということになります。疲労亀裂で圧力隔壁に穴が開き、内部の空気の
墳流によって尾翼を飛ばしたという説明はかなり苦しいのではないでしょうか。
 そして、3つ目の疑問は、なぜ航路から大きく外れた御巣鷹山に墜落したのでしょう
か。途中で操縦不能になり、ダッチロールによって御巣鷹山まで行ってしまったという
説を信じている人は多いのですが、御巣鷹山に行く必然性がないのです。
 このように、事故から17年を経過しても、なお不明なことがあまりにも多いのです
。これら多くの疑問点にひとつずつメスを入れていくことにします。  
                        −−[御巣鷹山事故の謎/01]

ボーイング747

2007年08月21日

後部圧力隔壁破損は起こっていない(EJ第1052号)

 JAL123便の機内に、「急減圧」があったか、なかったかは、事故のあと、大き
なテーマとなって、いろいろなところで実験が行われています。その結論として急減圧
はなく、したがって後部圧力隔壁の破損もなかったということがいえるのです。
 しかし、事故調査委員会は「後部圧力隔壁破損説」をいささかも譲ろうとはせず、再
調査もしないまま、事故後17年が経過しているのです。
 急減圧がなかったいう根拠についてまとめておきます。根拠は4つあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        1.JAL123便は、規定の急降下をしていない
        2.酸素マスクは降りたが、クルーは使っていない
        3.墳流で乗客も荷物も噴き飛んでいる様子はない
        4.生存者の機内の状況目撃証言でも急減圧はない
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 第1の根拠は、JAL123便のクルーは、機を急降下させていないことです。機内
に急減圧が発生すれば、直ちに急降下を行うことが義務づけられているのですが、JA
L123便は高度を2万2000フィートに下げる許可を求めただけで、急降下させて
いないのです。それは、急減圧がなかったことを意味していることになります。
 第2の根拠は、酸素マスクが降りてきたにもかかわらず、パイロット・クルーはそれ
を着用していないことです。これは、マスクをつけなくても操縦ができたことを意味し
ており、これも急減圧がなかったことを意味しています。
 それに酸素マスクが降りたのは、急減圧のせいではなく「ドーン」という何かがぶつ
かった衝撃によって降りてきたのではないかともいわれているのです。
 第3の根拠は、墜落前の機内写真によると、酸素マスクは降りているものの、比較的
機内は整然としていることです。もし、本当に急減圧が起きていれば、乗客や荷物が後
ろに噴き飛んで大混乱になっていたはずなのに、そういう状況は見られないのです。ボ
イスレコーダにも、それをうかがわせるものはいっさい入っていないのです。
 第4の根拠は、生存者の落合由美氏の証言でも急減圧は起きていないのです。乗客は
降りてきた酸素マスクは当てているが、混乱はなかったと落合氏は証言しています。事
故機の機内にいた人自身がそう証言しているのですから、これ以上確かなことはないは
ずです。
 しかるに、事故調査委員会は、それでも後部圧力隔壁の破損の一点張りなのです。そ
れにJAL123便の過去の事故を持ち出して正当化しようとしているのです。
 JAL123便は、JA8119機というのですが、墜落事故を起す前に、2つの事
故を起しているのです。事故調査委員会はこの事故と後部圧力隔壁破損を結びつけてい
るのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      1978年6月 2日 ・・・ 大阪空港でのしりもち事故
      1982年8月19日 ・・・ 千歳空港の滑走路での事故
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 JA8119機は、1985年8月12日の墜落事故の7年前の6月2日に、大阪空
港において「しりもち事故」を起しています。着陸のさいに進入角度を大きく取りすぎ
、尾翼付近の機体底部を滑走路に接触させ、その部分が幅約1メートル、長さ約17メ
ートルにわたって破損しています。
 このときは、ボーイング社から修理チームが来日し、圧力隔壁の下半分を取り替えて
いるのです。墜落事故後のボーイング社の話によると、圧力隔壁には亀裂が入っていた
ので後部全体を取り替えており、新品同様であるといっているのです。しかし、事故調
査委員会は、このとき隔壁の上部を取り替えていないことが、今回の事故の原因と見て
いるようなのです。
 もうひとつの千歳空港の事故は、墜落事故の3年前に起きています。千歳空港に着陸
するさいに、右第4エンジンを滑走路に擦っているのです。それにしても、よく着陸ミ
スを起す飛行機であるとはいえると思います。しかし、この事故は墜落事故には直接関
係ないとされています。
 墜落事故の7年前の大阪空港のしりもち事故で後部圧力隔壁を修理したという事実は
、操縦不能になった原因をその圧力隔壁破損にあるとするのには格好の根拠として使え
ることは確かです。ボーイング社の修理ミスのせいにするためにも、その方がプラスと
判断したのでしょうか。
 ちなみに「隔壁」とは、強度の強いアルミ合金製であり、円錐構造の機体におわんの
ように嵌め込まれているのです。したがって、しりもち事故のさい、その衝撃は下方部
分だけでなく、上方部分にも及んでいるはずとする主張には一理あるのです。しかしだ
からといって、それが操縦不能の原因として断定することは、困難であるといえます。
状況的には、機内に急減圧は起きておらず、圧力隔壁は破損していないという証拠が、
大勢を占めているからです。
 このように、JAL123便が操縦不能になった原因については数多くの疑問がある
のです。そのため被害者の遺族たちは、1999年1月に事故原因再調査要求を提出し
たのですが、事故調査委員会はこれを完全に無視し、それどころか、JAL123便墜
落事故関係の全書類を1999年11月にすべて廃棄処分にしてしまっているのです。
 事故の真の原因を徹底的に究明することなく、大きな矛盾のある事故原因であくまで
押し通し、あまつさえその証拠となる書類をすべて廃棄処分にする――考えられないこ
とであり、許されないことであると思います。
 さて、圧力隔壁の破損がないとすると、JAL123便は何によって操縦不能となっ
たのでしょうか。明日からは、外部原因説について分析を進めていきたいと考えていま
す。
                        −−[御巣鷹山事故の謎/02]

2007年08月22日

事故調が隔壁破損に執着する理由(EJ第1053号)

 JAL123便の機内に、「急減圧」があったか、なかったかは、事故のあと、大き
なテーマとなって、いろいろなところで実験が行われています。その結論として急減圧
はなく、したがって後部圧力隔壁の破損もなかったということがいえるのです。
 しかし、事故調査委員会は「後部圧力隔壁破損説」をいささかも譲ろうとはせず、再
調査もしないまま、事故後17年が経過しているのです。
 急減圧がなかったいう根拠についてまとめておきます。根拠は4つあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        1.JAL123便は、規定の急降下をしていない
        2.酸素マスクは降りたが、クルーは使っていない
        3.墳流で乗客も荷物も噴き飛んでいる様子はない
        4.生存者の機内の状況目撃証言でも急減圧はない
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 第1の根拠は、JAL123便のクルーは、機を急降下させていないことです。機内
に急減圧が発生すれば、直ちに急降下を行うことが義務づけられているのですが、JA
L123便は高度を2万2000フィートに下げる許可を求めただけで、急降下させて
いないのです。それは、急減圧がなかったことを意味していることになります。
 第2の根拠は、酸素マスクが降りてきたにもかかわらず、パイロット・クルーはそれ
を着用していないことです。これは、マスクをつけなくても操縦ができたことを意味し
ており、これも急減圧がなかったことを意味しています。
 それに酸素マスクが降りたのは、急減圧のせいではなく「ドーン」という何かがぶつ
かった衝撃によって降りてきたのではないかともいわれているのです。
 第3の根拠は、墜落前の機内写真によると、酸素マスクは降りているものの、比較的
機内は整然としていることです。もし、本当に急減圧が起きていれば、乗客や荷物が後
ろに噴き飛んで大混乱になっていたはずなのに、そういう状況は見られないのです。ボ
イスレコーダにも、それをうかがわせるものはいっさい入っていないのです。
 第4の根拠は、生存者の落合由美氏の証言でも急減圧は起きていないのです。乗客は
降りてきた酸素マスクは当てているが、混乱はなかったと落合氏は証言しています。事
故機の機内にいた人自身がそう証言しているのですから、これ以上確かなことはないは
ずです。
 しかるに、事故調査委員会は、それでも後部圧力隔壁の破損の一点張りなのです。そ
れにJAL123便の過去の事故を持ち出して正当化しようとしているのです。
 JAL123便は、JA8119機というのですが、墜落事故を起す前に、2つの事
故を起しているのです。事故調査委員会はこの事故と後部圧力隔壁破損を結びつけてい
るのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      1978年6月 2日 ・・・ 大阪空港でのしりもち事故
      1982年8月19日 ・・・ 千歳空港の滑走路での事故
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 JA8119機は、1985年8月12日の墜落事故の7年前の6月2日に、大阪空
港において「しりもち事故」を起しています。着陸のさいに進入角度を大きく取りすぎ
、尾翼付近の機体底部を滑走路に接触させ、その部分が幅約1メートル、長さ約17メ
ートルにわたって破損しています。
 このときは、ボーイング社から修理チームが来日し、圧力隔壁の下半分を取り替えて
いるのです。墜落事故後のボーイング社の話によると、圧力隔壁には亀裂が入っていた
ので後部全体を取り替えており、新品同様であるといっているのです。しかし、事故調
査委員会は、このとき隔壁の上部を取り替えていないことが、今回の事故の原因と見て
いるようなのです。
 もうひとつの千歳空港の事故は、墜落事故の3年前に起きています。千歳空港に着陸
するさいに、右第4エンジンを滑走路に擦っているのです。それにしても、よく着陸ミ
スを起す飛行機であるとはいえると思います。しかし、この事故は墜落事故には直接関
係ないとされています。
 墜落事故の7年前の大阪空港のしりもち事故で後部圧力隔壁を修理したという事実は
、操縦不能になった原因をその圧力隔壁破損にあるとするのには格好の根拠として使え
ることは確かです。ボーイング社の修理ミスのせいにするためにも、その方がプラスと
判断したのでしょうか。
 ちなみに「隔壁」とは、強度の強いアルミ合金製であり、円錐構造の機体におわんの
ように嵌め込まれているのです。したがって、しりもち事故のさい、その衝撃は下方部
分だけでなく、上方部分にも及んでいるはずとする主張には一理あるのです。しかしだ
からといって、それが操縦不能の原因として断定することは、困難であるといえます。
状況的には、機内に急減圧は起きておらず、圧力隔壁は破損していないという証拠が、
大勢を占めているからです。
 このように、JAL123便が操縦不能になった原因については数多くの疑問がある
のです。そのため被害者の遺族たちは、1999年1月に事故原因再調査要求を提出し
たのですが、事故調査委員会はこれを完全に無視し、それどころか、JAL123便墜
落事故関係の全書類を1999年11月にすべて廃棄処分にしてしまっているのです。
 事故の真の原因を徹底的に究明することなく、大きな矛盾のある事故原因であくまで
押し通し、あまつさえその証拠となる書類をすべて廃棄処分にする――考えられないこ
とであり、許されないことであると思います。
 さて、圧力隔壁の破損がないとすると、JAL123便は何によって操縦不能となっ
たのでしょうか。来週からは、外部原因説について分析を進めていきたいと考えていま
す。
                        −−[御巣鷹山事故の謎/03]

2007年08月23日

無人標的機『ファイア・ビー』の衝突説(EJ第1054号)

 JAL123便が操縦不能になった原因は、飛行機の垂直尾翼が3分の2程度破壊さ
れたことにあります。事故調査委員会は内部原因説を結論としていますが、ごく素直に
考えれば、何らかの飛行物体がJAL123便の尾翼に衝突したのではないかというこ
とを疑うのが自然であると思います。
 しかし、高度高度24000フィート(7200メートル)の上空で飛行機の垂直尾
翼にぶつかるものといったら、何があるでしょうか。それは、飛行機かミサイルのよう
なもの以外は考えられないのです。
 飛行機は考えられないので、ミサイルのような謎の飛行物体ということになるのです
が、場所は相模湾上空であり、もっとも飛行機の往来の多いところなのです。なぜ、そ
のような物騒なものが飛んでくるのでしょうか。普通では考えられないことです。
 しかし、ひとつだけ気になることがあります。それは、JAL123便の墜落事故が
起こった1985年8月12日に、相模湾で当時の新型護衛艦「まつゆき」が試運航中
であったことです。
護衛艦は、昔のことばでいえば戦艦です。戦艦の試運航というのは、単に海上を航行す
るだけではなく、兵装運用実験を行うことが大切な目的なのです。
 当時「まつゆき」といえば、最新の高度ミサイル防空システムを備えたシステム艦で
あり、実験項目もかなりあったと考えられます。「まつゆき」の任務は、来襲するミサ
イルや戦闘機という標的を正確に攻撃して防空することにあり、当時のこの軍事技術が
後のイージス艦の開発につながっていくことになります。
 この「まつゆき」の実験の一環で、たまたま相模湾上空にさしかかったJAL123
便のところに何かが飛んできたのではないか――こういう推定も成り立つのです。
 ここで、1985年当時の日本の防衛に関する状況を振り返っておく必要があります
。1985年といえば、時の総理大臣中曽根康弘氏が米国で「日本列島は不沈空母」と
発言して、大騒ぎになっていたときです。米国がレーガン政権のときの話です。
 当時の中曽根内閣は、国防政策の中身として、武器輸出三原則や軍事費のGNP1%
枠を撤廃し、世界最先端軍事技術を米国の監視のもとで自主開発する国防政策を推進し
たのです。その具体的な目玉は、国産巡航ミサイルの開発だったのです。そして日本は
、独自に光学ミサイル管制技術を開発したのです。
 米国はこの日本の技術を自国の巡航ミサイルの中心部分に組み込み、あの「トマホー
クミサイル」を完成させたのです。レーガン政権は、日本に対し、石油資源のルート確
保を担わせるため、シーレーン防衛の名のもとで、日本の自衛隊を強化しようとしてい
たのです。そして、とくに日本に求めた技術開発は、ミサイル誘導装置の開発なのです

 このミサイル誘導システムの精度をチェックするために使われるものに「無人標的機
」というものがあります。航空評論家の関川栄一郎氏は、JAL123便の垂直尾翼に
ぶつかったのは、この無人標的機ではないかといっているのです。
 「無人標的機」には、次の3種類があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
         1.高速無人標的機「ファイア・ビー」
         2.高速無人標的機「チャカ(CHUKAR II )」
         3.対空無人標的機「ターゲット・ドロン」
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 第1の「ファイア・ビー」は、長さ7m、幅3.93m、高さ2.25m、重さ68
6.3キロで、最大速度0.96マッハで実用上昇限度1万7000m、航続時間は約
60分です。事故発生時の高度7200mにゆうゆう届くのです。操縦方式は、無線コ
マンド・コントロールです。
 第2の「チャカ II 」は「ファイア・ビー」を小型化した対ミサイル用標的機です。
長さ3.87m、幅1.76m、高さ0.71m、時速350〜900キロ、高度15
0〜9000m、重さ182キロ、航続時間約80分です。これもJAL123便に届
くのです。訓練支援艦「あずま」の管制システム「艦上追尾管制装置」によって飛行を
コントロールするのです。
 第3の「ターゲット・ドロン」は、長さ3.8m、幅4.03m、高さ0.79m、
重量162キロ、航続時間約90分、母艦艇からジャトーにより発射され、UHF、F
M方式の電波でリモコンされて飛行するプロペラ機なのです。
 垂直尾翼を壊したのがこれらの標的機であるとした場合、3つの標的機のうち、どれ
がJAL123便の垂直尾翼に衝突したのでしょうか。
 まず、はっきりしていることは、プロペラ機である「ターゲット・ドロン」ではない
ということです。そうすると、「ファイア・ビー」か「チャカ II 」ということになり
ますが、「チャカ II 」は、JAL123便の垂直尾翼を壊すには、重量的に軽過ぎる
と考えられます。
 この点、「ファイア・ビー」は重量が686.3キロありますので、JAL123便
の垂直尾翼を破壊する力は十分あります。したがって、もし、標的機が犯人であるとし
た場合、「ファイア・ビー」である可能性が高いことになります。
 しかし、無人標的機「ファイア・ビー」をリモート・コントロールするには、海上自
衛隊の訓練支援艦が必要なのです。事故当時は、訓練支援艦は「あずま」のみが実在し
ていたのですが、当日「あずま」は、呉港に繋留されていたのです。したがって、当日
は「ファイア・ビー」を飛ばせることはできなかったのです。
 それに「ファイア・ビー」については、航続距離や民間航空路線の関係から相模湾で
はできないことになっているのです。つまり、アリバイがあるわけです。
 そこで、事故の起こった時刻に、その空域――関東南A空域にどのような航空機がい
たのか詳細に調べたところ、気になる航空機が多く存在していたことがわかってきたの
です。
                        −−[御巣鷹山事故の謎/04]

ファイア・ビー

2007年08月24日

謎の飛行物体はSSM−1である(EJ第1056号)

 JAL123便が事故時刻に飛んでいた空域は、「関東南A空域」と「関東西空域」
の2つです。それぞれの空域にその時刻にどのような航空機がいたかを調べた記録があ
ります。
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      ≪関東南A空域≫      ≪関東西 空域≫
       1.全日空トライスター   8.全日空ボーイング747
       2.全日空YS11     9.全日空トライスター
       3.日航ボーイング747 10.日航ボーイング747
       4.東亜国内航空DC9  11.ノースウエスト航空
       5.ビーチクラフト機   12.大韓航空
       6.米軍機C―130   (11と12の機種はいずれも
       7.自衛隊機C−1    ボーイング747)
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 このほか、関東西空域に米軍機がもう1機存在していたのですが、位置や高度などは
不明です。この中で注目すべきは、自衛隊機C−1です。C−1は、人員や兵器を輸送
するずんぐりとした航空機なのですが、外形はこれとそっくりのEC−1という航空機
があるのです。
 EC−1は、C−1を電子戦用に改良したもので、所属は岐阜の航空実験団です。こ
の航空実験団というのは、航空機および搭載装備品、支援機器、電子機器、兵装などの
試験・評価と、これらの基礎的な運用、研究、開発をやっているのです。諸般の情勢か
ら考えて、この空域にいたのは、C−1ではなく、EC−1であると考えられます。
 重要なことは、JAL123便事故の1985年8月12日には、このEC−1は納
入前のテストをしており、試験飛行をしていていたこと、それに護衛艦「まつゆき」も
納入前の試運航をしており、EC−1、「まつゆき」の両方とも厳密には国有財産とし
て未登録であったことです。
 国有財産でない場合は、所有権は製造会社側にあるので、これらの航空機や艦艇が実
際にやったことの報告義務から法的には免れることになります。実際に何が行われたか
を究明するのは非常に困難になるのです。
 訓練支援艦「あづま」が8月12日に呉港にいたことによってJAL123便の垂直
尾翼に衝突した謎の飛行物体は「ファイア・ビー」でないことは確かです。なぜなら、
「ファイア・ビー」は、訓練支援艦がいないと飛行させることができないからです。
 そこで、謎の飛行物体として現在考えられているのは、1985年当時鋭意開発が進
められていた沿岸防衛用国産巡航ミサイル「SSM−1」のプロトタイプ、すなわち、
爆薬を搭載していない演習用ミサイルではないか――と考えられるのです。
 2月25日に北朝鮮が発射した「シルクワーム」も、沿岸の艦艇を攻撃する地対艦ミ
サイルですが、SSM−1はより性能が高く、かなり長い射程でミサイルを発射し、管
制できる巡航ミサイルなのです。
 JAL123便墜落事故の3年前の1982年、アルゼンチンとイギリスのフォーク
ランド紛争が勃発したのですが、アルゼンチン空軍の「シュペル・エタンダール」機が
放ったフランス製ミサイル「AM39エグゾセ」が、イギリス軍のミサイル駆逐艦、「
シェフィールド」(3500トン)を轟沈し、世界の軍事関係者に衝撃を与えたのです
。これは、空対艦ミサイルですが、これが刺激となってSSM−1の開発に拍車がかか
ったのです。
 SSM−1は、地上基地、陸上移動発射台、あるいは航空機からでも発射できる巡航
ミサイルで、その飛行モニターを空中では電子戦機EC−1、海上では護衛艦「まつゆ
き」が実施する――これなら、ミサイルの発射実験は可能なのです。
 そして、同時にその空域にいた米軍のC−130やもう1機の米軍の正体不明機も、
日本の巡航ミサイルの発射実験をモニターしていたと考えられます。米軍は、民間機、
軍用機を問わずコックピットと管制塔との交信すべてを傍受するシステムを敷いている
からです。その証拠に、所沢市の東京航空交通管制部(東京ACC)のすぐ隣りに米軍
の通信傍受施設があるのです。
 その国産巡航ミサイルの飛行実験が何らかのアクシデントで、演習用ミサイルをコン
トロールすることができなくなり、民間航空機の空域に入り込んでしまい、JAL12
3便の尾翼に衝突したのではないか――と一応考えられるのです。
 JAL123便の尾翼が吹き飛んだとみられる地点の南40キロメートルの高度15
00フィート付近は、R−116という自衛隊の演習区域になっているのです。雫石で
全日空機が自衛艇のF86F戦闘機と衝突して墜落したのも、自衛隊機が民間航路へ侵
入した結果なのです。けしからん話ですが、自衛隊戦闘機パイロットの中には、民間航
空機を敵機とみなして訓練する者もいるということです。
 さて、護衛艦「まつゆき」には、艦対空ミサイル「短SAMシースパロー装置」が搭
載されています。1985年8月12日に「まつゆき」は相模湾・伊豆沖で試運航中で
あったのですが、当然、ミサイルの発射実験とその誘導レーダーの操作、命中について
のテスト訓練をやっているはずです。したがって、そういう飛行物体が民間航空路に迷
い込む可能性はゼロではないのです。
 しかし、爆薬の入っていない巡航ミサイルが「まつゆき」から打ち上げられたのか、
内陸部の車両発射台から打ち上げられたのか、もしくは航空機から発射されたのかは、
わかっていないのです。巡航ミサイルであれば、自衛隊の東富士演習場から打ち上げら
れ、富士山を迂回して、相模湾上空でJAL123便に遭遇するということも、十分考
えられるのです。
 ボイスレコーダなどの分析記録によると、操縦クルーや乗客の一部がその謎の飛行物
体を目撃しているフシがあるのです。事故調査委員会はそういう事実も知ったうえで、
あくまで圧力隔壁破損が垂直尾翼破壊の原因であることで通してしまったのですからよ
ほど外部からの飛行物体の存在を隠したかったのでしょう。
                        −−[御巣鷹山事故の謎/05]

護衛艦/まつゆき

2007年08月27日

衝突6分前から気付いていた操縦クルー(EJ第1056号)

 JAL123便の操縦クルーは、謎の飛行物体にぶつかる少し前に気がついていたの
ではないかと思われるフシがあります。今朝はここからはじめます。
 JAL123便が羽田空港を離陸したのは、午後6時12分のことです。そのまま順
調に飛行を続け、水平飛行に移行した午後6時18分過ぎ、右側に富士山と江ノ島が見
えます。高度は、約3500メートル。富士山と眼下の相模湾が一望できる風光明媚な
場所で、この場所を飛行するパイロットたちがホッと息をつく瞬間だそうです。
 そのとき、右前方から奇怪な飛行物体が飛行機に近づいてきたのです。あり得ないこ
とであるだけに、操縦クルーに緊張がはしります。「危ない!衝突する!」
 それとほぼ同時に、座席中央部分の最後部から5番目に座っていた小川哲氏(当時4
1歳)も、その飛行物体に気がつき、それをカメラに収めているのです。この写真は、
JAL123便事件の謎を解く、唯一の貴重な物的証拠として後世に遺ることになるの
です。
 その前後のコックピットと客室とのやりとりなどの状況を整理しておきます。
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      18:12:20 ・・・ 羽田空港を離陸
      18:18:00 ・・・ 謎の飛行物体操縦クルー視認
                   小川氏が謎の飛行物体を撮影
      18:23:00 ・・・ ベルト着用指示
      18:24:15 ・・・ 客室乗務員とのやりとり
      18:24:35 ・・・ ドーンという爆発音
      18:24:42 ・・・ スコーク77を発信
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 JAL123便の操縦クルーが謎の飛行物体を認めた午後6時18分の時点で飛行機
は水平飛行に移っており、ベルト着用のランプは消えていたはずです。しかし、23分
になって再びベルト着用のランプがついたので、24分にスチュワーデスが、「(トイ
レにいき)たいという方がいらっしゃるのですが、よろしいでしょうか」とコックピッ
トに許可を求めています。
 そのとき、副操縦士は次のように応答しているのですが、声は上ずっており、内容も
かなりおかしかったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      「気をつけて、じゃ気をつけてお願いします、手早く、気を
      つけてください」――副操縦士
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 副操縦士の物言いは明らかにていねい過ぎますし、ボイス・レコーダに残されたその
声を周波数分析した結果、緊張度が非常に高いことが分かったのです。スチュワーデス
の声が正常値の3であるのに対し、副操縦士の声の緊張度は7と明らかに異状に高い緊
張度を示しているのです。
 この分析方法は、航空自衛隊航空医学実験隊が開発したものでパイロットの「音声基
本周波数」(1秒間の声帯振動数)をボイス・レコーダから抽出し、緊張状態との相関
関係を推定する方法なのです。
 ここで注目すべき事実があります。謎の飛行物体を操縦クルーが視認した18時18
分時点の飛行機の高度は、1万1300フィート(3440メートル)なのですが、謎
の飛行物体が尾翼に衝突した18時24分35秒時点の高度は、2万3900フィート
(7170メートル)であることです。つまり、6分間に1万2600フィート(37
80メートル)も上昇しているのです。
 この2万3900フィートという高度は、ジャンボ旅客機が水平飛行に移ろうとする
ときの高度なのです。JAL123便は、6分間も謎の飛行物体に追い掛け回されてい
たことを意味するのです。何かが飛んできて偶然にぶつかったという状況ではなく、そ
の飛行物体は執拗に飛行機を追尾しているのです。
 このことから考えて、謎の飛行物体は明らかに巡航ミサイルであるといえます。標的
が、どのように高度を変えても、時々刻々自ら軌道修正を行い、標的を追い詰めて標的
の後ろに回ろうとします。その結果がJAL123便の垂直尾翼破壊だったのです。
 最初謎の飛行物体は、コックピットの右サイドで視認されています。つまり、JAL
123便よりも前の方を飛んでいたことになります。そのあと、飛行機の右後ろに回り
、そこから垂直尾翼に衝突しているのです。
 謎の飛行物体が国産の巡航ミサイルSSM−1であるとするとなぜ、そのようなもの
を民間航空機が数多く通る空の銀座通りといわれる相模湾上空で飛ばしたのでしょうか
。場所といい、時間といい、自衛隊は軽率のそしりを免れないでしょう。
 巡航ミサイルSSM−1は、攻撃してくるミサイル迎撃のための半導体レーザー結合
光ファイバー画像解析装置を搭載しています。光学センサーでミサイルや戦闘機を瞬時
に識別し、最適攻撃手段を選択できる当時の最先端技術です。
 それならば、なぜ、民間航空機であるJAL123便を識別できなかったのでしょう
か。当然識別できるはずですし、まして、地上、海上、航空での管制システムによって
動くのですから、JAL123便が識別できないはずがないのです。
 地上の管制システムは、巡航ミサイルSSM−1が先端部に搭載したシーカーによっ
て民間機JAL123便の画像情報をSSM−1を経由して捕捉していたはずです。そ
れなのに、なぜ衝突を回避できなかったのでしょうか。なぜ、自爆させるなどの処置が
とれなかったのでしょうか。管制システムに突如故障が生じたのでしょうか。
 考えられることは、SSM−1搭載コンピュータに民間機識別情報が入力されていな
かったことです。演習用なので、すべての航空機を敵機とみなすようになっていたので
はないしょうか。
 衝突後、JAL123便の機長は7秒後に「スコーク77」を発信していますが、こ
れについては明日のEJで取り上げます。     −−[御巣鷹山事故の謎/06]

2007年08月28日

東京航空管制はどう受け止めたか(EJ第1057号)

 JAL123便の垂直尾翼に演習用巡航ミサイルSSM−1がぶつかったのを知って
機長はその7秒後に「スコーク77」を発信しています。
 この「スコーク77」は、国際緊急無線信号であり、めったなことでは使わない信号
なのです。仮に事故調のいうように、圧力隔壁の破損が原因で尾翼が破壊された場合、
「ドーン」という爆発音が聞こえた18時24分35秒の時点では、コックピットの中
では何が起こったのかわからなかったはずです。
 そういう状況において、まして「ドーン」という音が聞こえた7秒後に「スコーク7
7」を発信することはあり得ないのです。操縦クルーたちは、謎の飛行物体に6分間も
つけまわされていたからこそ、「ドーン」という音が聞こえたとき、その飛行物体が垂
直尾翼にぶつかったと確信して、「スコーク77」を発したのです。「スコーク77」
は、飛行機が他から攻撃されたようなときに発信する緊急信号だからです。
 「スコーク77」を発信させたJAL123便は、墜落したと見られる午後6時56
分26秒までの間に、次の4つと交信しています。数字はその通信回数です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       東京航空管制 羽田航空管制 横田基地 日航羽田無線
           28      8   13      9
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 JAL123便が最初に交信をしたのは、所沢にある東京航空交通管制部(ACC)
です。この東京航空管制の立場に立って、作家の山崎豊子氏は、『沈まぬ太陽/御巣鷹
山篇』(新潮社刊)において、次のように記述しています。この本では、JAL機のこ
とをNAL(国民航空)と表現していますが、ボイスレコーダに基づいて記述されてお
り、その内容は正確です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       午後6時24分40秒――、突然、関東南A空域のレーダー
      画面に、EMG(緊急事態)の赤い文字が点滅し、ピーピーと
      金属音を帯びた警報が鳴った。(一部略)
       何が起こったのだろうか――、ヘッドセットをつけ、口元に
      のびた小さなマイクに向って、直接、交信している管制官の耳
      に、国民航空123便の機長の声が飛び込んで来た。
      25分20秒
      NAL「アー、東京管制部、こちらNAL123便、緊急・・
         トラブル発生、羽田に戻りたい、22000フィートま
         で降下する、どうぞ」
      管制部「22000フィートまで降下ですね。了解、要求通り
         承認します」
      NAL「大島へのレーダー誘導をお願いします」
      管制部「右旋回しますか、それとも左旋回?」
      NAL「右旋回に移っています。どうぞ」
      管制部「右旋回して、磁方位90度(真東)、大島レーダー誘
         導します」
      ―――山崎豊子著、『沈まぬ太陽/御巣鷹山篇』(新潮社刊)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、この時点では、東京管制部では、JAL123便のトラブルの内容はわかっ
ていなかったのです。急病人が出て羽田に戻りたいのか、それともハイジャックされた
のか、管制部としてはいろいろ考えたそうです。
 しかし、右旋回するといったJAL123便は、一向に方角を東に変えず、そのまま
、西に移動しており、高度も下がっていないので、不審に思った管制部は、JAL機に
連絡をとります。ここも山崎氏の小説から引用します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      27分02秒
      管制部「NAL123便、確認しますが、緊急事態ですね」
      NAL「その通りです」
      管制部「123便、了解、緊急事態の内容を、知らせてくださ
         い」
      NAL「・・・(応答なし)」
      28分30秒
      管制部「NAL123便、磁方位90度で飛行せよ、大島レー
       ダー誘導です」
      NAL「しかし、現在、操縦不能」
       ――山崎豊子著、『沈まぬ太陽/御巣鷹山篇』(新潮社刊)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 操縦不能――緊急事態の第1報がこれなのです。それでいて、2万5000〜400
0フィートの高度を保っている――これは管制官にとっては初体験だったといいます。
まして、JAL123便はボーイング747、安全度が最も高い飛行機だったのですか
ら尚更のことです。
 そのときJAL123便は静岡の焼津付近に達しており、なお西に向っていたのです
。近くには、自衛隊の浜松基地があるのですが、滑走路が短くジャンボ機の着陸は無理
なのです。それなら名古屋空港へ行った方が早い――管制官はJAL123便に連絡を
とろうとしたとき、JAL123便の高度が一定しなくなっているのに気がつきます。
1万5000〜1万2000フィートの間を上下し出したのです。いわゆるダッチロー
ルです。
 管制官は、JAL123便に連絡を取り、名古屋に着陸できるかと聞いています。し
かし、JAL123便の機長は、あくまで羽田着陸を主張したというのです。
 そこで、大島通過の報告をしてきた米輸送機C−130が横田基地への着陸を求めて
きているのにスタンバイの指示を出し、JAL123便の航路を最優先に確保しようと
したのです。
 ちょうど、そのときJAL123便は、垂直尾翼を飛ばされながら、操縦を何とかコ
ントロールして、羽田に戻る体制を確立しようとしていたのです。驚くべき操縦技術で
す。                      −−[御巣鷹山事故の謎/07]

「沈まぬ太陽/御巣鷹山篇」

2007年08月29日

7分間の空白の謎を探る(EJ第1058号)

 東京航空管制部(ACC)は、18時41分55秒に関東南A空域を飛行中の全航空
機に対して、次の指令を出しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      全機に告ぐ。JAL123便を除く全機に告ぐ。東京管制部と
      は周波数134メガヘルツで交信せよ。周波数を134メガヘ
      ルツに切り替えよ         ――東京航空交通管制部
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 東京管制部はなぜこのような指令を出したのでしょうか。
 それは、羽田に戻りたいというJAL123便が尋常ならざる飛行を続けており、い
つ連絡してくるかわからないからです。その時間帯は関東南A空域を航行する飛行機が
増えて、ラッシュアワーのピークを迎えつつあったのです。
 そうすると当然東京管制部と交信する航空機が増加し、JAL123便が緊急連絡を
とってきたとき、他機と交信中では迅速な対応ができないので、他機に対しては周波数
の切り替えを要求しJAL123便との通信に備えたのです。
 もう少し正確にいうと、東京管制部は18時40分45秒にJAL123便に「予備
用周波数134に切り替えられますか」と何回か問い合わせたのですが、応答がなかっ
たのです。応答がないのは異常であり、JAL123便との交信は従来の周波数で行う
ことにし、他機との交信周波数を予備用周波数134メガヘルツに切り替えることを決
断したのです。
 それでは、JAL123便はなぜ交信に応じなかったのでしょうか。実は、18時3
7分〜44分までの7分間、JAL123便と管制部(東京、羽田、横田など)との交
信回数はほとんどないのです。謎の7分間の空白というわけです。
 JAL123便は「通信に応ずる状況にはなかったのでは・」と一般的にはいわれて
いますが、JAL123便は45分には東京管制部や横田基地と連絡をとっていますの
で、交信できたはずなのです。どうして、交信に応じなかったというと、この間、他機
と交信中であったという説があるのです。その他機とは、自衛隊の軍用機です。
 なぜ軍用機が出てくるのか――それには「スコーク77」についてもう少し詳しく知
る必要があります。「スコーク77」というのは、いわゆる「エマージェンシー・コー
ル」(緊急通信)のことですが、軍用機が発信することが多く、日本の民間機が発する
ことは非常に稀なのです。逆にいうと、それほど民間航空機は安全にできているという
ことです。
 状況によるのだと思いますが、「スコーク77」が発信されると、ICAO(国際民
間航空機関)条約「付属文書2」に規定されている「民間航空機に対する要撃」によっ
て、軍用機がスクランブル発進し、誘導指示を出すことができるのだそうです。
 『JAL123便墜落事故真相解明』など、一連のJAL123便墜落事故関連の本
の著者、池田昌昭氏によると、JAL123便の「スコーク77」によって、自衛隊浜
松基地から2機の自衛隊機がスクランブル発進し、JAL123便に接近し、横田基地
へ着陸態勢を取ろうとしていたJAL123便を御巣鷹山方向に誘導したといっていま
す。
 18時37分〜44分までの空白の7分間、JAL123便は自衛隊機と交信してい
る可能性があり、事故後この部分はボイスレコーダから削除されているフシがあると池
田氏はいっているのです。自衛隊が関連するところは、国家機密として削除することも
不可能ではないというのです。
 添付ファイルのJAL123便の航跡図を見ていただきたいのですが、東京管制部が
関東南A空域の航空機に対し、周波数の切り替えを要求した18時40分の時点で、J
AL123便は、機体を何とか真東に向けることに成功したように見えます。
 操縦系統が効かないことに気付いたJAL123便の操縦クルーは、エンジンの出力
を調節することによって、飛行方向を変えようとしていたのです。この操作の一環で左
の第1エンジンの出力を大きくしたところ、機体は右へ旋回し18時39分から45分
の間に、進路を北東から約420度右旋回し、真東を向かせることができたのです。
 この航跡を見て東京管制部は、「操縦不能といっているが、羽田に帰る力は残ってい
る」と考えたのです。横田基地はすぐ近くであり、機長は横田基地に着陸するつもりで
いたのではないかと考えられるのです。ちょうどその時点で機内では、スチュワーデス
の声で「予告なしに着陸する場合が・・・」というアナウンスを流しているのです。
 横田基地は合計13回にわたって「横田基地はスタンバイができている」ことを繰り
返しJAL123便に呼びかけていますがJAL123便はなぜかこれに応答していな
いのです。そして、不可解なことに、18時47分の時点でJAL123便は向きを大
きく北西方向に変えて、墜落地点である御巣鷹山に向かっ降下していくのです。
 18時54分20秒になってJAL123便の機長は、「リクエスト・ポジション」
といっています。「自機の位置がわからない」という意味です。これに対して、羽田の
東京進入管制所は次のように答えています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       45マイル羽田の北西、熊谷から25マイル西の地点です
                     ―――羽田東京進入管制所
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 墜落が18時56分とみられるので、54分といえば最終段階です。日本語で管制所
と交信していた機長があえて「リクエスト・ポジション」となぜ英語でいったのでしょ
うか。
 実は、「リクエスト・ポジション」は、要撃された民間機が軍用機に対して使用する
用語のひとつであり、池田氏はこの用語を使うことによって、誘導指示した自衛隊機の
存在を何らかのかたちで知らせたかったのではないかといっているのです。
                        −−[御巣鷹山事故の謎/08]

JAL123便航跡図

2007年08月30日

スコーク77と自衛隊機のスクランブル(EJ第1059号)

 「スコーク77」は、単なるエマージェンシー・コールとは異なるようです。これに
関する限りあまりにも情報がないので、ある程度推測するしかないのですが、とくに、
「スコーク77」を発信すると、なぜ自衛隊の軍用機がスクランブルをかけてくるのか
ということがいまひとつ理解しにくいと思うので、池田氏の本をベースにして説明しま
す。
 昨日ご紹介したICAO(国際民間航空機関)条約「付属文書2」というのは、日本
が支配する空域において、民間機が何かに要撃された場合の自衛隊機の対処法が決めら
れているのです。というよりも、日本の空域において民間機が何かに要撃されることは
想定しにくいので、日本の領空を侵犯してきた航空機に対する自衛隊機の対応を民間機
要撃のケースにそのまま適用しているというべきです。
 日本は、米国と日米安全保障条約を締結しており、当然のことながら、これは米軍と
無関係ではありません。歴史を遡ると、領空侵犯機に対する対応は、1959年9月2
日に、当時の米軍第5空軍司令官ロバート・バーンズ中将と日本の航空自衛隊総司令官
松前未曾雄空将との間で締結された「松前・バーンズ協定」にたどりつくのです。これ
によると、日本の航空自衛隊は、米国第5空軍の「交戦準則」をもとに規定を作ってい
るのです。何もかも米国任せのこの国の姿勢を示していると思います。
 それにしても、日本の領空で民間機が何かに要撃されたとき、その民間機を領空侵犯
機と一緒に扱うというのはどうかと思いますが、一応そういう規則になっているのです

 「スコーク77」は、民間機が何かに要撃の対象とされたということですから、自衛
隊機としてはスクランブル発進をかけて被要撃機を誘導し保護する必要がある――一応
そういう理屈になっているのです。
 そのとき、被要撃機は、自衛隊機の指示・誘導に従うよう定められています。スクラ
ンブルをかけた自衛隊機が使用する言葉は次の4つです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      1.当方に従え
      2.着陸のため降下せよ
      3.この飛行場に着陸せよ
      4.そのまま飛行してよい
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これに対して、要撃された民間機が使用できる言葉は、次の6つです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      1.了解、指示に従う
      2.指示に従うことはできない
      3.指示を繰り返してください
      4.自機の現在位置がわからない ← リクエストポジション
      5.○○に着陸したい
      6.降下したい
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 18時54分20秒に機長がいった「リクエストポジション」はこの中にあります。
実は、31分21秒の時点で、尋常ならざる事態と判断した東京管制部は、JAL12
3便に対して「日本語で交信してください」と指示しており、それ以降管制とはすべて
日本語で交信しているのです。
 無線交信は、万国共通、英語で行われているのですが、非常のさいには、パイロット
の負担を軽くし、かつ意思疎通の妨げにならないように日本語での交信を指示したので
す。
 しかし、なぜか、54分20秒のときだけは、「リクエストポジション」と英語で聞
いており、これは自衛隊機との交信と考えられるのです。限られた言葉の中で機長とし
ては、それを英語で「リクエストポジション」と発信することによって、JAL123
便の前後に自衛隊機がいることを管制に知らせたかったのではないかと考えられるので
す。
 もうひとつボイスレコーダの分析でわかったことがあります。18時33分38秒〜
34分52秒にかけて、日本航空の社内無線は、JAL123便を次のように呼び出し
ているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
           JAPAN AIR 123 JAPAN AIR TOKYO
           How do you read ?
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「JAL123便、聞こえますか」という意味です。そのあと日本航空の社内無線は
、36分00秒に「羽田に戻ってこれますか」と聞いています。機長自身は東京管制部
には「羽田に戻りたい」と伝えているのですから、社内無線に対しても「羽田に戻りま
す」と伝えるのが自然ですが、機長は社内無線に対しては、次のようにいっているので
す。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       ふたたびコンタクトしますので、このままモニターして
       おいてください −−−−−−−−−−−−−−−機長
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これはどういう意味でしょうか。池田氏は、自衛隊機とのやりとりを社内無線に傍受
させる意図でそうしたのではないかといっているのです。
 18時46分の時点でJAL123便は、明らかに横田基地に着陸体制にあったとい
えます。JAL123便の動きを外部から見た場合、今まで北北東に向かっていた飛行
機がぐるりと真東に機体を向けて高度を下げつつあったのですから、パイロットは機体
をコントロールできると考えても不思議はないのです。
 しかし、どうしても横田基地に降りられては困る事情が政府筋にあったのではないか
という疑いがあるのです。したがって、JAL123便は墜落必至と見て、横田基地周
辺の市街地に墜落させるわけにはいかないという大義名分のもと、自衛隊機が御巣鷹山
に強引に誘導したのではないかと考えられるのです。−−[御巣鷹山事故の謎/09]

2007年08月31日

なぜ横田基地着陸阻止になったか(EJ第1060号)

 JAL123便が操縦不能に陥った真の原因は、演習用ミサイルが飛行機の垂直尾翼
に衝突してその3分の2が失われたという仮説を中心にこのレポートを書いています。
事故より14年が経過した時点で発刊された山崎豊子氏の『沈まぬ太陽/御巣鷹山篇』
(新潮社刊)には、この演習用ミサイル衝突説はどのように扱われているのでしょうか
。それとも無視されているのでしょうか。
 実はちゃんと取り上げられているのです。事前調査には定評のある山崎豊子氏のこと
ですから、あらゆる情報を集めて研究し、書いています。もちろん山崎氏が、荒唐無稽
な情報であると判断すれば無視するでしょうが、ちゃんと取り上げているのです。
 それは、事故調の藤波調査官に突撃取材を試みる週刊日本の記者のシーンで取り上げ
られています。本を読まれた方も多いと思いますが、その一部をご紹介しましょう。
 それにしても当時の内閣官房長官は、あの藤波孝生氏――山崎さんは皮肉を込めて「
藤波」という名を使ったのでしょうか。
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      「藤波調査官ですね」
      再び、声をかけられた。今度は三十そこそこの男性だった。
      「そうですが―――」
      「週刊日本の記者です、ちょっと話を伺いたいのですが」
      行く手を阻むように言い、名刺を差し出した。
      (一部略)
      「どのような話ですか」
      「実は、事故機の墜落原因について、聞き捨てならない重大な
      話を仕込みましてね、墜落の真相は、自衛隊がミサイル発射訓
      練に使う標的機が、たまたま飛行中の国民航空123便の尾翼
      に衝突したらしいのです、ご意見を聞かせて下さいませんか。
      (駅の)ホームで、記者は強引にコメントを求めた。
      「いきなりそんな突飛なことを言われても、答えようがないで
      すな」
      「おや、おとぼけですか、それとも政府、防衛庁は、事故調査
      官を棚上げして、真相を隠蔽するつもりなんですかね」
      嫌味な言い方をした。
      「確たる証拠でもあるのですか」
      「事故機が、最初に緊急事態を発信したあの時刻に、海上自衛
      隊の護衛艦『たかつき』が、相模湾でちょうど演習中だったの
      ですよ。現に事故の翌日、相模湾内に尾翼の重要部分である垂
      直安定版が浮いていて、回収されたではありませんか」
       −――山崎豊子著、『沈まぬ太陽(三)/御巣鷹山篇』より
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 どうでしょう。疑惑の追及者を週刊誌の記者という設定にしているのは、作家の山崎
氏自身が、そこに多少なりとも「真実かも知れない」という気持があったからこそそう
いう設定にしたのだと思います。
 さて、JAL123便の「スコーク77」の発信を探知して自衛隊機がスクランブル
発信したのは18時30分頃です。機種はF−4EJ戦闘機2機です。そして2〜3分
後にJAL123便を発見しています。F−4EJ戦闘機は、機種を識別する機能を持
つコンピュータを搭載しているので、標的はレーダー・スコープ上に表示されるのです

 そのときJAL123便は、焼津市上空で右方向に向かい、羽田もしくは横田基地に
戻ろうとしていたのです。F−4EJ戦闘機はJAL123便の後ろから垂直尾翼の状
況を肉眼で観察し、次に前に出て、ダッチロール(機体左右の揺れ)とフゴイド(機体
前後の揺れ)を減衰させる方法を指導しています。
 しかし、このとき、JAL123便のパイロットは、左右のエンジンの出力調整だけ
で、ダッチロールとフゴイドをかなり減衰させることに成功していたのです。垂直尾翼
の3分の2を欠いてこれをやることはきわめて困難なことですが、彼らはそれをクリア
しつつあったのです。そして、横田基地への着陸に向けて高度を下げていったのです。
 2機のF−4EJ戦闘機は、このことを要撃管制官に報告しています。このとき、要
撃管制官としては、横田基地への着陸を容認していたはずです。横田基地側も何度も直
陸許可を出しており救急体制も整えていたのです。
 それがどうして横田基地着陸阻止に変わってしまったのでしょうか。ここからは、池
田昌昭氏の推測にしたがって、記述していきます。
 JAL123便を追尾したF−4EJ戦闘機の航空基地指令への報告の中に、欠けた
垂直尾翼に巡航ミサイルの衝突痕跡――オレンジ色の塗料の跡があるというのがあった
のです。自衛隊では軍事演習用の機器は、オレンジ色に塗ってあるのです。
 この報告を受けた航空基地指令はがくぜんとします。そして、直ちにこの事実は上級
指令者(航空幕僚)に報告されたのです。その航空幕僚はそれをさらに上――自衛隊を
指揮命令する立場の者に報告して、指示を仰いでいるはずです。
 垂直尾翼にオレンジ色の塗料の痕跡が残っているということは民間機が軍事演習のタ
ーゲットになって操縦不能に陥ったことになり、日本国政府と自衛隊の立場は完全に崩
壊します。しかし、本来であれば、だからこそJAL123便に乗っている524人の
乗客・乗員の救出を何としてでも行うべきなのです。
 しかし、われわれは、この事件のあと、警察や自衛隊、各官庁の官僚たちの責任回避
体質をイヤというほど見てきています。彼らがこういう状況に直面したときどうするか
。何よりも現体制の維持と責任回避を考えただろうと思います。
 彼らは、もしJAL123便が横田基地着陸に失敗したときの被害の大きさ――50
00人規模の死傷者を予測――を理由にF−4EJ戦闘機に対して、指令を発するので
す。「JAL123便の横田基地着陸を阻止せよ」と。
                        −−[御巣鷹山事故の謎/10]

演習用はオレンジ色/ファイア・ビー

2007年09月03日

墜落場所は早くからわかっていた(EJ第1061号)

 JAL123便を御巣鷹山に誘導した2機の自衛隊機の存在はこの件に関するマスコミ報道では完全に伏せられています。しかし、この2機の自衛隊機を目撃した人物がいます。その人物とは、角田四郎氏といい、事故当日大月付近でキャンプをしていて目撃したというのです。後になって、角田氏は、JAL123便事件解明のため『疑惑/JAL123便墜落事故』という本を出しています。この本から、角田氏自身の目撃状況をご紹介します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       このとき私は日航123便を目撃していた。[山梨県大月市
      と神奈川県相模湖の中間地点の]東から南へ、南から西へ旋回
      しようとする地点である。18時42分頃になる。
       そして、44分か45分頃、ループ飛行を終えて東へ向かっ
      たであろう頃の日航機を追うように、東へ向かう2機の自衛隊
      機を私は見た。
       その時また飛行機が見える。木の間に見え隠れしていたが、
      私は「エッ」と驚きの思いで立ち止まって見つめた。しかし、
      今度はごく小さな機影で、北西に向かって夕焼けの中をどんど
      ん小さくなってゆく。「あれはさっきの飛行機[JAL123
      便]じゃないな」と思い、ふたたびバンガローへの坂道を登っ
      ていった。この間5〜6分の出来事である。――角田四郎著、
         『疑惑/JAL123便墜落事故』より。早稲田出版刊
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 2機の自衛隊機の目撃情報は角田氏だけですが、防衛庁側はこれに対して何もコメントしていません。自衛隊機がこの付近の空を飛んでいても別に不思議ではないからです。角田氏自身もあとでJAL123便の墜落を知って、自衛隊機とJAL123便とをはじめて結びつけたのです。ところで自衛隊機はどのようにして、JAL123便の進路を変更させたのでしょうか。
 自衛隊機は無線で直接JAL123便と交信して旋回するよう指示したか、あるいは、航空基地を経由しての交信により横田基地に着陸しないよう伝えたはずです。
 おそらくJAL123便の機長は、あくまで横田基地着陸を訴えたはずです。機長が当初「羽田に戻りたい」といったのは、羽田空港の方が、救急医療体制が整っているからです。いずれにしても、まともな着陸はできないと考えていたのでしょう。
 しかし、機を完全にコントロールできないこともあり、この時点では横田基地しか選択肢はなかったはずです。とにかくボイスレコーダには、自衛隊機とのやりとりは記録されていないので、推測するしかないのですが、もしかしたら自衛隊機の指示を拒否したことも考えられます。
 このことを裏付けるようにJAL123便は横田基地に向けて高度を下げつつあったのです。そこで、自衛隊機はJAL123便の前方に出て、飛行進路を遮断するなど妨害し、埼玉・長野・群馬の県境の山岳地帯に向かうよう強引に左旋回飛行指示を出しているのです。
 これに対して、JAL123便の機長は、あくまで「ターンライト」を主張して抵抗しています。しかし、結局、横田基地から北方向に向かわされ、御巣鷹山に入っていくことになります。この2機の自衛隊機の存在を肯定すると、JAL123便はエンジンの出力調整によって何とか左旋回できたことになります。
 ここで奇妙なことは、JAL123便は何者かにミサイルなどで攻撃され、垂直尾翼を破壊された「被要撃機」になっているという事実です。
 この場合、既に述べたように、自衛隊による日本の防空上の規定では、スクランブルをかけられた領空侵犯機と同じ扱いになることです。もし、領空侵犯機がスクランブルをかけた軍用機の指示に従わないときは、攻撃してもよいことになっているのです。
 このようにして、JAL123便は、2機の自衛隊機によって御巣鷹山のある山岳地帯に入っていくのですが、どのようにして墜落したのかについては、あとで明らかにするとして、墜落直後の状況について述べることにします。
 墜落事故のあった1985年8月12日――私は今でも鮮明に覚えていますが、テレビでは夕方から大騒ぎになり、安否を気遣う乗客の家族や知人が続々と羽田の日航の事務所に押しかけて、ごった返していたのです。
 しかし、JAL123便の行方はわからず、つねに日航側の発表は「捜索中」の繰り返しだったのです。私は13日の午前2時頃まで起きていて、テレビを見ていましたが、とうとう朝になるまでわからなかったのです。
 しかし、今となって考えると、これは実に奇妙な話なのです。というのは、JAL123便は墜落直後からその場所は特定されており、自衛隊機をはじめ、米軍機もその墜落地点の上空までは行っているからです。
 当時の防衛庁長官であった加藤絋一氏は、当日夜、救難ヘリコプター・バートル107で現場上空に飛んでいるのです。これを受けて防衛庁では13日の午前0時5分から、緊急会議を開いています。出席者は、加藤長官以下、内局幹部、陸幕長、空幕長です。ですから、加藤長官はそれ以前の時間に――午後9時頃ではないかと考えられますが、墜落現場の上空までヘリで視察しているのです。しかし、少なくともそのとき、乗客・乗員の救助は行われていないのです。
 もちろんその間テレビでは相変わらず「捜索中」が繰り返されていたのです。なぜ、発表しないのでしょうか。なぜ、墜落場所が特定できていたのに、なぜ、いち早く救助に向かわなかったのでしょうか。
 こういう問いかけに防衛庁、政府関係者は完黙の構えです。だからこそJAL123便の墜落事故に自衛隊が深くコミットしていたと考えざるを得ないのです。明日からは、もっと驚くべき事実を出していきます。  ・・・ [御巣鷹山山事故の謎/11]

2007年09月04日

自衛隊はなぜ米軍の救助を断ったか(EJ第1062号)

 1994年9月25日のことです。テレビ朝日「ニュース・ステーション」では「米
軍幻の救出劇」と題して、御巣鷹山日航機墜落事故関連の番組を放映しています。
 1985年8月12日当日、沖縄嘉手納基地から横田基地に帰投中の米軍C−130
輸送機は関東南A空域にさしかかっていたのです。そのとき、同機のマイケル・アント
ヌッチ航法士(ナビゲーター)は、横田基地からJAL123便の探索命令を受けたの
で、一帯を捜索した結果、午後7時30分前にJAL123便の墜落現場を確認してい
ます。番組では、マイケル・アントヌッチ航法士が次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       あたりはちょうど夕暮れだったが、地面はまだ見える明るさ
      でした。燻る機体も炎も見えた。  ――アントヌッチ航法士
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 米軍C−130のジョン・グリフィン機長は、JAL123便の残骸の上空600メ
ートルで旋回飛行をし、横田基地からの位置を測定し、20分後には正確な墜落場所の
位置を横田基地に知らせているのです。
 午後8時30分になって、横田基地からC−130に再び連絡が入り、「60キロ離
れた米陸軍キャンプ座間から救難ヘリUH−1が、そちらに向かっている」と知らせて
きたのです。
 やがて救難ヘリUH−1は飛来し、乗員2人を下ろそうとして木の梢から15メート
ルのところまで降下したのです。そのときC−130に横田基地からいきなり「直ちに
基地に帰還せよ」という命令が入ったのです。
 しかし、ヘリは「救助に入りたい」――と連絡。これに対して、横田基地の司令官は
「日本側の救助隊が向かっている。繰り返す直ちに基地に帰還せよ」と短兵急に帰還を
命じたのです。時刻は午後9時20分――地上に降りかけていたヘリの乗員も再びロー
プを登ってヘリに戻り、救難ヘリも去っていったのです。そしてC−130は横田基地
に帰還するのです。
 横田基地で待っていたのは、第316戦術航空団のジョエル・シルズ副司令官――グ
リフィン機長が報告を終えると、シルズ副司令官は「良くやった。しかし、このことは
一切マスコミには話してはいけない」といったといいます。
 このヘリの音を生存者の落合由美さんは聞いており、次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       やがて真っ暗闇のなかに、ヘリコプターの音が聞こえたので
      す。あかりは見えないのですが、音ははっきり聞こえていまし
      た。それもすぐ近くです。これで、助かる、と私は夢中で 右
      手を伸ばし、振りました。けれど、ヘリコプターはだんだん、
      遠くに行ってしまうんです。このときもまだ何人もの荒い息遣
      いが聞こえていたのです。 ――――――― 落合由美さんの証言
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このように、1994年9月25日の「ニュース・ステーション」は、日本側の都合
による米軍救援活動中止要請が事実であることを報道しています。何ということでしょ
う。米C−130は午後7時30分に墜落場所を特定し、20分後には横田基地に正確
な墜落場所を知らせているのです。もちろん日本側にもその時点で伝えられています。
 それなのにテレビでは、次の日の朝まで墜落場所を特定できていないと報道している
のです。これは明らかに意図的です。加藤紘一防衛庁長官(当時)にいたっては、12
日の夜に墜落場所の上空までヘリで飛来しながら救援を指示せず、次の日の朝まで放置
したのです。
 C−130の航法士、マイケル・アントヌッチ氏は『週刊文春』1995年9月28
日号でも次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       あの飛行機事故のことは、10年経った今も脳裏に焼き付い
      て離れない。JAL123便が管制塔に『緊急』を告げたとき
      たまたま近くを飛んでいた。現場はすぐに確認できた。墜落の
      2時間後には、アメリカ海軍(陸軍?)の救助ヘリが現場に着
      いた。あの時、ストップがかからなければ、もっとたくさんの
      人が助かっていたに違いない。日本の救援隊が現場に着いたの
      は、その14時間も経ってからというではないか。 ――『週刊
      文春』1995年9月28日号より。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これに対して防衛庁は、米軍ヘリが墜落現場上空に到着し、救助寸前であったことに
ついて次のように否定の見解を示しているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       「米軍ヘリが現場上空に飛来した事実は認められない」
                        ―――― 防衛庁
       「当時の記録がないので、ノーコメント」
                      ―――― 米国防総省
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 そのうえ、自衛隊の松永貞昭中部航空方面司令官(当時)は次のようにコメントして
いるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       「夜間でしかも急斜面への降下は自殺行為である」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これに対して、米陸軍救難ヘリのスタッフは次のように反論しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       「陸軍のヘリにはサーチライトはもちろん、1980年代
       から、夜間暗視装置を標準装備しており、夜間でも急斜面
       でも、救急隊員であれば、だれでも降下できる」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 その頃、墜落場所付近では奇怪なことが起きていたのです。
                       ・・・[御巣鷹山事故の謎/12]

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2007年09月05日

特殊部隊は墜落現場で何をしたか(EJ第1063号)

 JAL123便が墜落したのは、午後6時56分です。それから約1時間後に、上野
村三つ岐というところに自衛隊の一団が集結しはじめたのです。その数50人〜100
人――彼らは何かの合図を待っているように静かに待機していたのです。1985年8
月12日のことです。
 ちなみに、墜落現場から一番近い自衛隊の基地といえば、長野県松本市の陸上自衛隊
第13普通科連隊、陸上自衛隊第12師団司令部のある群馬県相馬原の部隊です。しか
し、ここに集まってきていたのは、そのいずれでもないのです。
 この上野村三つ岐は群馬県にあり、神流川主流に沿って浜平鉱泉・諏訪山方面から御
巣鷹山付近へも、または長野県境のぶとう峠方面へもいける交通の要衝に当たります。
とくに群馬県側から御巣鷹山付近に行くには最適の待機地点といえます。
 午後9時30分過ぎになって、JAL123便の墜落現場――御巣鷹山方向から信号
弾が上がったのです。その信号弾に呼応して、上野村三つ岐に待機していたその自衛隊
とおぼしき一団は整然と移動を開始したのです。そして、御巣鷹山の墜落現場に入って
いったというのです。
 この時刻は、米軍のC−130と救難ヘリが横田基地からの連絡により、乗員・乗客
の救出を断念して引き上げた時刻と一致するのです。つまり、米軍が去るのを待ってい
て、信号弾を打ち上げたと思われます。彼らはそこで何をしたのでしょうか。はっきり
していることは、救助ではないことです。
 その一団の行動は整然として無駄がなく、特殊訓練を受けた部隊のように見えたとい
います。おそらくその一団は自衛隊の秘密部隊であると考えられます。どこの国にもそ
ういう部隊は存在し特殊任務を遂行するのです。
 もうひとつ重要なことは、JAL123便が墜落した御巣鷹山一帯が、自衛隊特殊部
隊の秘密訓練地帯になっていることです。したがって、墜落場所からそう遠くないとこ
ろにその秘密部隊の基地があったとしても不思議はないのです。
 それにしても、2機の自衛隊機がJAL123便を強引に御巣鷹山付近へ誘導したこ
とといい、墜落場所へ行く絶好の地点に少なくとも50人を超える人数を午後8時(墜
落の1時間後)に集めていることといい、そこに何か意図的というか計画的なものを感
じるのです。
 池田昌昭氏によると、その秘密部隊は、墜落現場で、機体の前部・中部の様子を入念
に調べ、何やら作業をしていたそうです。そして、スゲノ沢の機体後部付近で、無線交
信妨害電波を出しながら、何かをやっていたといわれます。その時点ではかなりの生存
者がいたと考えられますが、そういう生存者の救出は一切行ってはいないのです。まさ
に見殺しです。
 いったいこの特殊部隊は何をしていたのでしょうか。
 JAL123便が御巣鷹山に墜落した直接の原因について、池田昌昭氏は恐ろしい仮
説を立てています。それは、自衛隊機のミサイル発射によってエンジン部分が破壊され
たことによる墜落という仮説です。あまりにも恐ろしい、考えられない推測であり、に
わかには信じられない思いがあります。
 しかし、仮にそうであったとするとツジツマが合ってくるのです。自衛隊――いや、
自衛隊は一応軍隊組織であり、上の命令によって動く存在であるので、「自衛隊を動か
している存在」−つまり、政府としては、どうしても隠さなければならないものがあっ
たのです。
 それは、日米でひそかに開発を進めていた巡航ミサイル―――それ自体が極秘である
のに、こともあろうにその演習用ミサイルが、民間機であるJAL123便の垂直尾翼
にぶつかってそれを破壊してしまったことです。
 しかも、その痕跡がはっきりと破壊された尾翼の跡に残っているということが緊急発
進した自衛隊機によって確認されているのです。もし、JAL123便が横田基地や羽
田空港などに着陸を試みたとして、大勢の人が亡くなるようなことになったら、その原
因が白日の下に晒されることになる――そんなことになったら政府や自衛隊は持たない
と考えて不思議はないのです。
 この場合、「自衛隊を動かしている存在」によって一番都合が良いのは、JAL12
3便が、人が容易には近づけない険しい山岳地帯に激突して、機体がこなごなに破壊さ
れ、垂直尾翼の痕跡もろとも、すべてが隠蔽されることだと思います。
 そのため、JAL123便を方向転換させ、自衛隊の特殊部隊の演習場である御巣鷹
山付近の山岳地帯に誘導したのです。しかし、JAL123便の機長は、それでも必死
の不時着を試みようとしているので、ミサイルを発射して墜落させたのではないかとい
うのです。
 「自衛隊を動かしている存在」にとってさらに都合が良いことは、全員が死亡するこ
とでしょう。生存者――とくにすべての事情を知る機長をはじめとする操縦クルーに生
存者がいることは、「自衛隊を動かしている存在」にとって、致命的になります。
 生存者はいない方が良い――これが米軍の救出の申し出をあえて断り、墜落場所が特
定されているにもかかわらず、直ちに救出しようとしなかった理由であったとしたら、
これほど人の道に外れる行為はないといえます。
 仮にそうであったとしたら、墜落現場での自衛隊特殊部隊の任務は、機体の墜落状況
の調査、ミサイルで粉砕されたあらゆる痕跡の回収――とくにミサイル痕が残っている
遺体の回収、垂直尾翼の痕跡の除去などになります。
 とくにコックピット内は焼き尽くされ、何もなかったし、操縦クルーの遺体はなく、
ただ歯が残されているのみという状況であったといわれます。いかに激しく地面にぶつ
かったとはいえ、遺体の一部は残るはずであるし、コックピット部分には燃料タンクは
ないのに焼け爛れていたといわれます。それは、まるで火炎放射器で焼いた跡のようで
あったといいます。機首前部付近では「遺体がない」という声が相次いだといいます。
                       ・・・[御巣鷹山事故の謎/13]

2007年09月06日

共通点の多いもく星号遭難事故(EJ第1064号)

 大きな飛行機事故で国家が何らかの事実を隠蔽しようとするとき、その結果として、
墜落原因、墜落場所、墜落後の原因究明調査などにおいて不透明なものが多く残るもの
です。
 そういう意味において、JAL123便墜落事故は、1952年(昭和27年)に発
生した日航機「もく星号」の墜落事故に酷似しています。今朝はこの話からはじめます。
 戦後民間航空が再開されたのは昭和26年10月のことです。日本航空のマ−チン2
02「もく星号」が、羽田−大阪−福岡間の飛行を再開したのです。これは、当時、敗
戦で失意のどん底にあった日本人を大いに勇気づけるものだったのですが、次の年に不
幸な大事故を起こすことになります。
 もく星号事故について考えるとき、留意すべきは、当時が朝鮮戦争の最中であったこ
とです。朝鮮戦争は、1950年6月25日に勃発し、激しい攻防を繰り返しながら、
1953年7月に休戦協定を結ぶまで続くのです。
 朝鮮戦争はソビエトや中国に後押しされる北朝鮮軍と、米国と国連に加盟する15カ
国が支援する韓国との戦いですが、共産主義対資本主義の戦いといってよいでしょう。
1950年の時点では、韓国の首都ソウルは北朝鮮軍の手に落ち、米国を中心とする国
連軍は釜山周辺まで追い詰められ、朝鮮半島全体が北朝鮮の手に落ちる寸前までいった
のです。
 しかし、国連軍は同年9月にソウル近郊の「仁川」へ上陸作戦を敢行し、同年11月
にソウルを奪回、怒涛の勢いで北進し、北朝鮮の首都ピョンヤンも占領したのです。
 しかし、北朝鮮側に中国軍が参戦し、人海戦術に国連軍は押し返され、1951年1
月に再びソウルを占領されてしまいます。そこで、国連軍も兵員を増強してソウルを奪
回し、38度線まで押し返して、1953年7月に休戦協定が結ばれるのです。
 もく星号の事故は、そんな最中に起きているのです。現在北朝鮮が新たな脅威となっ
ていますが、かつての朝鮮戦争のことを振り返ってみるのも無駄ではないと思います。
 もく星号は、1952年4月9日、午前7時34分に激しい風雨をついて羽田空港を
離陸、大阪経由福岡に向けて出発しています。当時の日本の空は朝鮮戦争中ということ
もあって、まだ米軍の占領下にあり、米軍によって完全に支配されていたのです。その
ため、民間機といえども航路は厳しく制限され、管制業務もすべて米軍が行っていたのです。
 それに民間航空再開といっても、当時はノースウエスト航空から機体とパイロットに
運行管理技術の提供を受け、日本航空の名称で開始したに過ぎないのです。したがって
当日のもく星号のパイロットもノースウエスト社のパイロットだったのです。
 もく星号は、羽田離陸後まもなく、館山の航空標識をチェックしたあと、消息を絶っ
てしまいます。そして、行方不明が伝えられてから8時間が経過して米軍横田基地から
日本の名古屋航空保安事務所に次の連絡が入るのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      もく星号が静岡浜名湖西16キロの海上より発見され、米軍巡
      視艦により、救助が開始されている。―――――米軍横田基地
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 この発表の1時間後に国警静岡県本部発表で、「米軍からの情報」と前置きして、次
の発表があったのです。
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      浜名湖西南16キロの海上で、第5空軍(小牧基地)の捜索機
      が遭難機を発見、乗員・乗客を全員救助した。なお、救助隊の
      入港先は不明
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 その後航空庁(当時そういう官庁が存在)も、この情報を追認して「もく星号の遭難
地点は静岡県舞阪沖」と発表します。おそらく「全員救助・全員無事」の報を聞いて、
家族はホッとしたと思います。乗客家族や日航、報道陣は東海道線で舞阪に急行したの
は当然です。
 しかし、この情報は大ウソであったのです。その日の夜の10時30分になって米軍
は「何も発見していない」と前言を翻す発表を行ったからです。
 そして、日航が仕立てた捜索機が、翌日10日の午前8時34分、伊豆大島の三原山
外輪山東側で、散乱する機体を発見するにいたるのです。直ちに船で救難隊が大島に出
動したのですが、乗客・乗員36人は全員死亡していたのです。そして、事故は「悪天
候によるパイロットの操縦ミス」ということで片付けられ、大きな疑惑を残しながらも
原因究明に幕が引かれているのです。
 しかし、これに異議を唱えたのは、作家の松本清張氏です。彼は独自に調査を積み上
げて、独自の見解を世に問う目的で、次の書をまとめようとしたのですが、完成を見る
ことなく亡くなっています。
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        松本清張著
        『1952年日航機「撃墜」事件』 角川書店刊
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 タイトルに「撃墜」という文字が使われていることからわかるように、もく星号は米
軍機によって「撃墜」されたといっているのです。これはきわめて重大なことです。
 そして、その事後処理の時間を稼ぐため、米軍は日本側にあらぬ方向で発見されたと
いうウソの情報を流して注意をそちらに向けさせ、その処理が終わった時点で、「米軍
は何も発見していない」と発表し、突き放しています。事故当日に米兵多数が大島に上
陸して、雨の三原山に登っている事実があるのです。
 また、事故発生時点もJAL123便のときと同じ相模湾の伊豆沖上空であり、状況
はよく似ています。それに加えて大韓航空機事件とも奇妙に共通する点もあるのです。
とりあえず、明日は、もく星号遭難事故を少し詳しく分析することにします。
                       ・・・[御巣鷹山事故の謎/14]

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2007年09月07日

もく星号も米空軍に銃撃されている(EJ第1065号)

 JAL123便墜落事故は、1952年に発生したもく星号遭難事故と不思議な一致
点がたくさんあります。それに、1983年に起こった大韓航空機事件にも多くの共通
点があります。JAL123便事件の真相を究明するためにも、まず、今朝は、もく星
号遭難事故をもう少し詳しく分析したいと思います。
 世界地図を開いて朝鮮半島を見ていただきたいと思います。韓国の首都ソウルが休戦
ラインの38度線に非常に近いことがわかると思います。そのため、軍事戦術上ソウル
の防衛は非常に困難であり、つねに大規模な反攻を可能とする準備が必要なのです。朝
鮮戦争において首都攻防が何回も繰り返されたのは、そういう理由によるものです。
 また、何かというと、北朝鮮側が「戦争になると、ソウルは火の海になる」と威嚇す
るのもあながち誇張とはいえないのです。それほど、ソウルは守りにくい首都といえま
す。そのため、奪われたら、すぐ奪い返す準備と訓練をしておく必要があります。
 そのため、1950〜1953年当時の在日米軍はソウル奪回作戦の訓練を日夜行っ
ていたのです。ソウルのすぐ東に「仁川」(インチョン)という港があります。195
0年9月に連合軍が起死回生のソウル奪回作戦に成功したのは、この仁川に上陸作戦を
敢行したからです。
 さて、その仁川のすぐ北に「江華(カンファ)湾」というのがあります。江華湾は3
8度線のすぐ下です。この江華湾と仁川の周辺は空から見ると、伊豆の相模湾周辺と、
とてもよく似ているのです。
 さらに、北緯38度東経126度の「延安(ヨナン)」付近と北緯35度東経139
度の日本の「熱海」とを重ね合わせると、ソウルと入間はほぼ同じ位置になるのです。
そして、愛知県の小牧基地周辺をピョンヤン付近に見立てれば、北朝鮮軍との戦闘シミ
ュレーションが可能になるのです。
 したがって、もく星号が遭難した当時の空域には、そういう戦闘シミュレーションを
繰り返す米空軍機がたくさん在空していたのです。これらの軍用機は、まことにけしか
らん話ですが、民間機を敵機と見立てて訓練するのが常態化しているのです。
 1952年4月9日、午前7時34分、もく星号は羽田空港を離陸したのですが、機
長は羽田の管制官から「館山通過後10分間南へ2000フィート」という指示を受け
ています。
 もく星号はプロペラ機ですが、通常の高度は次のようになっており、2000フィー
トは低すぎるのです。
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       上り便 ・・・・・ 5000または7000フィート
       下り便 ・・・・・ 6000または8000フィート
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 それが「2000フィートで飛べ」という指示です。ちなみに館山通過後10分間南
に飛べば三宅島北側上空に達するのです。しかし、三原山自体が2500フィートなの
で、2000フィートで飛べば、山にぶつかる恐れがあるのです。
 もく星号の機長は、離陸後、この不安をジョンソン基地(入間)の管制官にぶつけま
す。以下は、機長と管制官との羽田離陸直後のやりとりです。
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      機長:高度2000でA3を飛行、館山よりG8
      入間:G8付近は演習中、館山より10分間南へ飛べないか
      機長:ラジオビーコンだけが頼りだ。南へは飛べない
      入間:了解。ただし高度は2000フィートを維持せよ
      機長:通常は6000だ。低すぎないか
      入間:上に複数の空軍がいる。差木地の真上を飛べば大丈夫
      機長:了解。その指示に従う
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 このとき管制司令官の頭にあったのは、三宅島北方より大坂方面に直行する方位28
0度のルートなのです。しかし、頭上に空軍がいるので、かなり低い高度で、雨の中を
ラジオビーコンだけを頼りに飛んでいるパイロットとしては、不安がいっぱいだったの
です。なお、差木地は伊豆大島で2番目に大きい集落です。
 実は、もく星号とジョンソン基地の司令官との交信記録には続きがあり、それは次の
ようなものだったのです。
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      機長:7時57分館山通過。G8へ8時7分差木地予定
      入間:了解
      機長:雲中で盲目。至近距離に空軍がいて危険だ
      入間:彼らは友軍だ。心配ない
      機長:ガッデム、機銃掃射をしやがった
      入間:大丈夫か
      機長:右翼にショックがあったが、大丈夫のようだ
      入間:それは良かった。空軍に早速抗議する
      機長:間もなく差木地だが、少し右に寄っている
      入間:三原山に注意しろよ
      機長:わかっている。進路を修正する。右に傾いているがなん
         とかするよ
      入間:大丈夫か
      機長:左旋回しているが、うまく回らないんだ
      入間:大丈夫か
      機長:アッ!目の前に山がある。オー・ゴッド!
      入間:どうした。応答せよ
      機長:・・・・・
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 事実は明白です。米空軍の無謀なる機銃掃射によって、もく星号は左旋回できなくな
り、差木地から三原山のある右方向に傾いて行って、山に激突したのです。明らかに、
米軍のミスであり、ジョンソン基地の管制官にも責任があります。
 しかし、事実は、米軍、日本政府、マスコミのいずれもがこれを隠し、日本国民は騙
されたのです。                 ・・・[御巣鷹山事故の謎/15]
              

2007年09月10日

もく星号「撃墜」事件の背景を探る(EJ第1066号)

 神田・神保町の古本屋で、松本清張氏の本『1552年日航機「撃墜」事件』(角川
書店刊)を発見し、手に入れました。ずっと探していた本です。
 これを読んだ結果、国家(この場合は米国)が自国に都合の悪いミスを犯したとき、
どのような手段――それが人道上許されないことであっても――それを使ってそれを隠
蔽するということです。そのため、もく星号墜落事故は、その本当の原因が今もって不
のまま幕が引かれ、現在にいたっているのです。
 松本清張氏の本は、小説のかたちをとっていますが、その内容は事故の原因究明に鋭
く切り込んでいます。JAL123便の事故にも自衛隊と米軍が深くかかわっており、
その墜落原因は不可解なことがいっぱいあります。
 とくにJAL123便が、自衛隊機の発射したミサイルで撃ち落とされたのではない
かという恐ろしい疑惑を解明するには、似たような航空機事故の事例を分析してみるこ
とは無駄ではないと思うので、もく星号墜落事故の分析をもう少し続けます。
 最初に、1952年当時の日本における米軍の配置状況を頭に入れておく必要があり
ます。米国の対日占領軍の総司令部(GHQ)は東京の第一生命ビルに置かれ、総司令
官にはマッカーサー元帥が大統領によって任命されています。
 日本の降伏直後に日本軍と交戦または侵略を受けた諸国によって極東委員会が設置さ
れています。日本の占領政策を遂行する機関ですが、実際にこれを取り仕切ったのは、
日本中に占領軍を配置した米国だったのです。
 極東委員会には、対日理事会という主要国の協議機関があり、そこで占領政策が協議
されたのですが、ここでも主導権は米国が握っていたのです。ソ連などは米国の占領政
策に強い反対を述べていますが、マッカーサー総司令官はこれを無視し、米国主導の占
領政策を進めたのです。
 1950年6月に朝鮮戦争が勃発します。そうすると、米国の主張で国連軍が組織さ
れ、国連軍最高指揮官にマッカーサーが任命されています。マッカーサーという人は、
太平洋戦争以降、次の3つの肩書きを持っていたことになります。
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      太平洋戦争中 ・・ 連合軍最高指揮官
      日本占領中 ・・・ 総司令部最高指揮官/極東軍最高指揮官
      朝鮮戦争 ・・・・ 国連軍最高指揮官
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 米占領軍の配置状況は次の通りです。マッカーサーは日本において陸・海・空の三軍
の総司令官だったのです。
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           陸軍第8軍 ・・・・・ 横浜
           極東海軍 ・・・・・・ 横須賀
           極東空軍 ・・・・・・ 横田
           第5空軍 ・・・・・・ 小牧
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 ところで、GHQのあった第一生命ビルのすぐ近くにある明治生命ビルは当時米占領
軍に接収されており、そこに極東空軍司令部とノースウエスト航空の東京支社があった
のです。このことは、もく星号の墜落事故に深くかかわってくることになります。ちな
みに、明治生命ビルの2階には豪華な会議室(第一会議室)があるのですが、この会議
室で対日理事会が開催されたのです。
 さて、「もく星号発見」の第一報を入れたのは、小牧基地の米第5空軍なのです。事
故当日の4月9日、午後2時54分のことです。これは、航空庁小牧事務所から第四管
区本部に次のような報告によって、もたらされます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      米第5空軍小牧基地からの連絡によれば、舞阪上空を飛行中の
      米軍機が北緯34度35分、東経137度30分の沖合いで、
      (もく星号が)機尾を海上に出して沈んでいるのを発見した。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここから日本側は完全の米国側の情報に振り回されることになります。とくに「全員
救助」の報道が、一転して「全員死亡」になった経緯について質問された当時の運輸大
臣である村上義一氏は、1952年5月9日の衆議院運輸委員会で次のような不可解な
答弁をしているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       実はこの誤報の伝わった原因は、極東空軍のある人が日本の
      航空会社に、全員助かっているということを報告せられたのに
      起因いたしておるのであります。
       そういう誤報の組み立てられた原因は、当時名古屋の飛行場
      から飛び立った軍用飛行機が、浜松の南方約10マイルの海上
      に機翼が漂流しておるのを認めたという報告を小牧飛行場へせ
      られまして、もし墜落したのであるならば、入水と同時に飛行
      機は粉砕されるされるはずであるが、機翼が浮かんでいるとい
      うことは、意識的に着水したものと考える。しからば、2時間
      や3時間は浮いていることは可能であるということと、一方に
      おきまして、その報告を極東空軍が受けると、時を移さず、そ
      の近くを航行しておりました米国の船――掃海艇2隻と米国国
      籍の1万2000トン級の貨物船に、その救助、協力を電報し
      たことは事実だったのであります。これらの事実から今の誤報
      が組み立てられた次第であります。
                     ――――村上義一運輸大臣答弁
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 要するに極東空軍のある人の個人的な報告を軽率に信じたために「誤報が組み立てら
れた」といっているのです。何しろ情報が米軍によって操作されているために、こうい
ういい加減な答弁になってしまうのです。
 それにしても、運輸大臣が米軍に対して敬語を使っているのは当時の日本の立場を象
徴していると思います。            ・・・[御巣鷹山事故の謎/16]

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