INTEC JAPAN/BLOG

このブログは、異文化研修の教育機関(株)インテック・ジャパンの情報発信用です。(株)イー・メディアとの提携により、同社のドキュメント・レポート「Electronic Journal」をウィークデイの毎日お届けします。
「Electronic Journal」は様々な情報を400字詰原稿用紙7枚にまとめて配信する日刊メールマガジンです。

トップ カテゴリー:百人一首

2006年12月20日

雰囲気が異なる2つの歌の謎(EJ第1270号)

 今日からテーマとして「百人一首」を取り上げます。年末ですし、前から取り上げて
みたいテーマだったからです。しかし、難しいテーマでもあります。
 私は学生時代に百人一首に凝ったことがあり、大学の図書館に通っていろいろ調べた
ものです。競技かるたとしての百人一首も子供の頃からよくやりました。何とか強くな
りたいとよく練習をしたものです。そのため、百人一首には愛着があり、一度EJに取
り上げてみたいテーマだったのです。
 ところで、百人一首には多くの謎があります。その最も大きな謎からはじめることに
します。百人一首は、中世初期の大歌人といわれる藤原定家が1235年頃に、古来の
歌人百人から一人一首を選び集めた秀麗な和歌集のことです。
 百人一首に選ばれている歌は、いずれ劣らぬ妖艶華麗な歌、あるいはしみじみ人生を
述懐する歌など、心楽しませる秀歌が並んでいるのに、2首だけふさわしくない歌が入
っているのです。この2首だけは他の歌に比べて雰囲気が違うのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       99.人も惜し人も恨めしあぢきなく
              世を思うゆえに物思う身は    後鳥羽院
      100.ももしきや古き軒端に忍ぶにも
              なおあまりある昔なりけり     順徳院
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 歌かるたには書かれていないのですが、百人一首の歌には配列順をあらわす歌番号が
ついています。1番は天智天皇の「秋の田のかりほの庵の・・」であり100番の「も
もしきや・・」の順徳院で終わるのです。
 したがって、江戸の川柳には「『智』ではじめ、『徳』でおさめる小倉山」というの
があるのです。天智天皇の歌ではじまって順徳院の歌で終わるという意味です。歌の
順番は、歌人の時代順といわれていますが、かなりアバウトであって、けっして厳密な
ものではないのです。
 この99番と100番の歌の作者はともに天皇です。後鳥羽院は、もと第82代の後
鳥羽天皇のことであり、順徳院はその第3皇子で第84代順徳天皇です。2つの歌の意
味は次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      「人も惜し」 ・・・・・ 後鳥羽院
       人がいとしくも思われ、また人が恨めしくも思われる。味気
       ない思いで世の中のことを考えている私にとっては。
      「ももしきや・・」 ・・ 順徳院
       皇居が荒れ果て、古びた軒端に忍ぶ草が生えているのを見る
       につけても、栄えた昔のことが忍ばれる。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これら2人の上皇は13世紀のはじめに武士の権力が強大化していく中で、京都王朝
の覇権奪回を期して鎌倉幕府に戦いを挑んで敗れた「承久の変」の首謀者なのです。戦
いに敗れた結果、後鳥羽院は隠岐の島、順徳院は佐渡ヶ島へ島流しにされ、20年にも
およぶ孤島生活のすえにその地に果てたのです。
 それでは、上記の2首はいつ詠まれた歌かというと、承久の変の前に詠まれているの
ですが、ともに朝廷の権勢が衰えていくことへの嘆きが歌い込まれています。つまり、
これらの2首は京都王朝を代表する公の立場から、時の世相、社会的、政治的情勢その
ものに対する憤りを歌った「政治歌」といえるのです。
 これらの2首が百人一首のトリに当たる99番と100番に配置されていることに
関しては多くの謎があります。それをまとめると次の2つになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      1.百人一首の選者といわれる藤原定家は、幕府に咎められる
        可能性のある両院の2首をなぜ百人一首に入れたのか。
      2.後鳥羽院、順徳院といえば当時の代表的歌人であり、名歌
        を多く残しているが、なぜこの2首が選定されたのか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 冒頭に百人一首が選集されたのは、1235年頃と書いていますが、実は諸説がある
のです。有力な説としては、この年に島流しにされている両院を都に還御してはどうか
という、いわば特赦申請が京都から出されていたのですが、幕府はそれを拒否し、両院
が生涯孤島に幽閉されることが決まったのです。
 藤原定家にとって後鳥羽院こそは、当時しがない中流貴族に過ぎなかった藤原定家を
その歌の才能を認めて引き上げてくれた大恩人なのです。したがって、定家としては、
両院の京都への還御がかなわないことが決まった1235年に、百人一首を選集して両
院の歌をその最後に置いたのではないか――こういう説があるのです。そして、百人一
首の97番に配置している自らの歌の中にある「来ぬ人を」とは両院を指しているとし
ているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      97.来ぬ人をまつほの浦の夕凪に
             焼くや藻塩の身もこがれつつ  権中納言定家
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「松帆の浦」とは淡路島の北端、明石海峡に面したところにあります。時刻は夕刻、
瀬戸内海特有の風がやんだ凪の蒸し暑いなかで、塩をとるために藻が火で焼かれてチリ
チリ音を立てている――そんな海辺の風景を背景に火に焼かれる海草に自分をなぞらえ
て「来ぬ人」をひたすら待っているというのが歌の意味です。
 問題の「来ぬ人」とは一般的には「恋人」のことと解釈されていますが、実はそうで
はなく、もう100%帰ってこない両院を身を焼かれる思いで私は待っているという意
味ではないかという解釈をしているのです。
 しかし、これには多くの反論があります。だいいち藤原定家という人は、後鳥羽院に
あれほど恩になっていながら、両院が島流しにされると、一転して現実的、自己保身的
な考え方で行動した人で、そんな殊勝な人ではない――こういう説が多いのです。
                         ・・・・・ [百人一首/01]

権中納言定家.jpg

2006年12月21日

なぜこの2首でないといけないのか(EJ第1271号)

 昨日のEJで、百人一首のトリに配置された後鳥羽院と順徳院の2つの歌に関して2
つの謎を挙げましたが、再現して話を続けることにします。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      1.百人一首の選者といわれる藤原定家は、幕府に咎められる
        可能性のある両院の2首をなぜ百人一首に入れたのか。
      2.後鳥羽院、順徳院といえば当時の代表的歌人であり、名歌
        を多く残しているが、なぜこの2首が選定されたのか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 藤原定家といえば、新古今時代の最高の歌人といわれ、歌道の宗家として二条・京極
・冷泉(れいぜい)家のいしずえを築いた人ですが、それは定家が晩年になってからの
ことであり、それまでは恵まれない境遇だったのです。
 藤原定家の生まれた御子左(みこひだり)家は、藤原全盛期の摂関・道長の六男から
発した名家のひとつです。しかし、定家の父である俊成の代になると家は没落し、「公
卿(くぎょう)」といわれる地位――「正三位非参議」という地位にまで落ちていたの
です。つまり、「卿」の地位から脱落寸前だったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
         太政大臣・左右大臣以上  ・・・・・・ 公
         大中納言・参議・三位以上 ・・・・・・ 卿
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかるに、藤原俊成は歌人としては有数の人であり、定家もその薫陶を受けて17歳
のときは一流歌人の歌会に父と同席を許されるほど、早くから歌道の天才として認めら
れていたのです。
 当時なぜ天皇家や公卿が歌道に力を入れたかというと、公卿が没落し、武士が台頭す
るなかで、文化の世界で武士に圧倒的な差をつけて、王朝文化を興隆させようと考えた
からです。しかし、発展途上にあった定家の前衛的・実験的歌風は、意味不明として評
価されず、定家はなかなか出世できなかったのです。
 その藤原定家が、宮廷歌壇の中心人物として飛翔できるようになったのは、ひとえに
後鳥羽院の引き立てによるものだったのです。それは、定家の反抗性を基調とする絢爛
・華麗なる歌風、自然の景色を詠みながら深い感情の述懐を織り込む抒情美――そうい
うものが後鳥羽院の心をとらえたからです。
 しかし、後鳥羽院のおかげで、歌壇の世界で力を得た定家ですが、歌の評価をめぐっ
てはしばしば院と対立したといわれています。定家は、歌の評価に関して自説を主張し
て譲らないところがあったのです。
 さらに批判の対象になっているのは、承久の変の後の定家の保身的な行動です。定家
の子息である為家は、順徳院の遊び相手としてしばしば宮中で寝所を共にするほどの仲
であったといわれています。そのため、順徳院の佐渡ヶ島配流にさいして、為家は当然
お供をすると誰も信じて疑わなかったのです。
 しかるに、定家はその為家に佐渡随行どころか、見送ることさえ禁じたのです。さら
に、定家はその為家を関東下野の領主・宇都宮入道頼綱という大富豪の娘と結婚させて
いるのですが、この頼綱は北条時政の女婿であり、為家の妻は時政の孫娘ということに
なるのです。つまり、定家はこともあろうに後鳥羽院の仇敵である北条家の血族と縁を
結んだのです。
 このような定家が百人一首を選集し、そのトリに両院を偲んで両院の歌を配すという
ことをするでしょうか。それほど百人一首の最後の2首には大きな謎が秘められている
のです。
 続いて、2つ目の謎について考えましょう。後鳥羽院と順徳院といえば当代有数の歌
人であり、たくさんの名歌を残しているのです。しかし、定家が選んだ両院の歌は、必
ずしも名歌とはいえない作品なのです。
 これについて百人一首の研究家として名高い丸谷才一氏は次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      藤原定家は後鳥羽院の最高の作品としてこの一首を選んだわけ
      だ。――実を言うとかつてわたしはこのことに不審をいだいて
      いた。定家が誰よりも恐れていたらしい当代の上手の、全作品
      を代表させるに足る歌とは思えなかったからである。
                           ――丸谷才一氏
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 確かに後鳥羽院の歌には、名歌の誉れ高き次の歌があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        ほのぼのと春こそ空にきにけらし
                天のかぐ山霞たなびく     後鳥羽院
        見渡せば山もと霞むみなせ川
               ゆふべは秋と何思ひけむ    後鳥羽院
        我こそは新じま守よ沖の海の
               あらき浪かぜ心してふけ    後鳥羽院
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 さらに石田吉貞氏は、後鳥羽院の歌について次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      『人も惜し人も恨めし』というお嘆きのなかに、歴史の嘆きや
      歴史の怒りさえ、深々と感じられて、妖艶の美に血をわかせて
      いる(他の百人一首の)歌とは、まったくちがった次元のもの
      であることが考えられる。それにしても・・・(百人一首は)
      なにゆえに後鳥羽院の多くの歌のなかから、特にこのような、
      暗い歌を選んだのであろうか。
                ――石田吉貞著、『鑑賞百人一首』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この謎については、実に多くの説があり、とてもすべてを紹介しきれませんが、その
ほとんどが間違っていると思われます。どうしてもこの2首でないと困る理由が別にあ
るのですが、これについてはやがて明らかになります。・・・・・ [百人一首/02]

丸谷才一氏の本.jpg

2006年12月22日

百人秀歌というものもある(EJ第1272号)

 百人一首が選集されたのは、1235年頃ということになっていますが、何を根拠に
しているのでしょうか。
 根拠は、藤原定家の日記『名月記』です。その1235年5月27日に次のように書
いてあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      予モトヨリ文字ヲ書くコトヲ知ラズ。嵯峨中院障子ノ色紙形、
      コトサラ予ニ書クベキノヨシ、カノ入道懇切ナリ。極メテ見苦
      シキ事トイエドモ、ナマジニ筆ヲ染メテコレヲ送ル。古来ノ人
      ノ歌各一首。天智天皇ヨリ以来、家隆・雅経ニ及ブ。
                    ――名月記/原文は漢文である
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここで「カノ入道」とあるのは、定家の子息・為家の妻の父である宇都宮頼綱のこと
です。出家して「入道蓮生」と称したのです。宇都宮頼綱は下野の国宇都宮の領主であ
り、関東随一の富強といわれていたのです。
 入道蓮生は、定家が所有する京都の小倉山荘の北側に当る中院の地に豪華な別荘を建
てて、1235年4月に定家を招待したのです。当時は、神社・仏閣・貴族の邸宅など
の障子に色紙を貼ることが流行していたのです。
 入道蓮生としては、定家ほどの当代一の歌人の書いた色紙ならば別荘の自慢ができる
ということで、大広間の襖に貼るための色紙を書いて欲しいと定家に頼んだのです。
 定家は、最初は固辞していたものの結局は引き受け、京都一条京極の私宅に戻り、約
20日あまりで歌の選定と色紙を書き上げています。冒頭の名月記にはそのことを書い
ているのです。これによると、「古来ノ人ノ歌各一首。天智天皇ヨリ以来、家隆・雅経
ニ及ブ」とありますので、百人一首の原型ではないかといわれているのです。
 ここで、「天智天皇ヨリ以来、家隆・雅経ニ及ブ」の部分を解明しておく必要があり
ます。天智天皇は百人一首の1番歌ですが「家隆・雅経ニ及ブ」とは何でしょうか。
 この家隆・雅経は、ともに当時の有名歌人であり、百人一首には、94番と98番に
登場するのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       94.み吉野の山の秋風さ夜更けて
              ふるさと寒く衣うつなり     参議雅経
       98.風そよぐならの小川の夕暮は
              みそぎぞ夏のしるしなりける  従二位家隆
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、入道蓮生に贈ったのが百人一首であるとすると、99番、100番の両院の
歌には言及していないのはなぜかということになります。これについて石田吉貞氏は、
上皇のように身分の高い人の名をあげるのを遠慮して「雅経・家隆などの時代の歌人」
というように大略的に表現したものと説明しています。
 ここで考慮しなければならないことがもうひとつあります。それは、百人一首のほか
に「百人秀歌」というものが存在するということです。「百人秀歌」とは、1951年
になって宮内庁書陵において発見された古書です。ちゃんと『百人秀歌』というタイト
ルがついていたのです。
 「百人秀歌」は、97首は百人一首と同じものが収録されており、次の4つの点が異
なっているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
         1.99番と100番の両院の歌がないこと
         2.歌人の配列順序がかなり違っていること
         3.百人一首にはない3つの歌が入っている
         4.74番の歌が別な歌に入れ替わっている
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 百人一首にない3つの歌とは次の3首のことです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        夜もすがら契りしことを忘れずば
              恋ひむ涙の色ぞゆかしき   一条院皇后宮
        春日野のしたもえわたる草の上に
              つれなく見ゆる春のあは雪  権中納言国信
        紀の国の由良のみ崎に拾ふてふ
             たまさかにだにあひ見てしがな 権中納言長方
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 74番の歌は、源俊頼朝臣の「うかりける人を初瀬の」ですがこれがなくなって、同
じ源俊頼朝臣の次の歌に入れ替わっているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        山桜さきそめしより久方の
              雲井に見ゆる滝の白糸     源俊頼朝臣
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 注目すべきは、百人秀歌では両院の歌が省かれ、3首が入っているので、101首に
なっていることです。問題は、定家が入道蓮生に贈った色紙が百人一首なのか百人秀歌
なのかという点なのです。実はわが国の国文学界では、これをめぐって大論争が行われ
ているのです。具体的には、百人一首対百人秀歌との関係をめぐる論争です。
 一方を代表するのは、樋口芳麻呂氏による説です。氏によると百人秀歌の方が先にで
きて、それを定家自身の手で修正を加えたものが百人一首であり、中院別荘に貼られた
のは百人一首であるとするものです。後鳥羽院と順徳院の歌が入っている百人一首その
ものが中院別荘に貼られたというのです。
 これに対して、真っ向から反対を唱えるのは、石田吉貞氏による説です。石田氏によ
ると、中院別荘に貼られたのは百人秀歌であって、両院の歌は入っていないとしていま
す。そして、石田氏は、百人秀歌に両院の歌を入れ、現在の百人一首のかたちにしたの
は定家ではなく、定家の死後に息子の為家がやったことであるとしているのです。もと
もと最初の百人一首には両院歌は入っていなかったと石田氏はいっているのです。
                           ・・・ [百人一首/03]

2006年12月25日

新勅撰和歌集選集の秘話(EJ第1273号)

 22日のEJで、「名月記」とあるのは「明月記」の誤りです。読者からご指摘をい
ただきました。お詫びして訂正いたします。
 百人一首と百人秀歌の関係――どちらが先にできて、どちらが後なのか。百人一首に
は最初から99番と100番に両院の歌が入っていたのかどうか――謎はたくさんあり
ます。
 しかし、入道蓮生に定家が贈ったという色紙に両院の歌が入っていたかどうかについ
ては、客観的状況から考えると、入っていないとする方が正しいと思えるのです。
 藤原定家の立場から考えると、そうでなくても両院とは距離を置きたいし、それで成
功してきているのに、たかが親戚の別荘の障子歌に幕府を刺激する両院の歌を入れるは
ずがないのです。まして、入道蓮生の妻は北条時政の娘なのです。そんな危険なことを
保身主義者の定家がするはずがないのです。
 にもかかわらず、定家がしきりと両院の歌を入れようとしたのは事実です。だからこ
そ、現在伝えられている百人一首には、両院の歌が入っているのです。それにはちゃん
とした理由があり、それは、やがて明らかになります。
 一方、入道蓮生の立場かにら考えると、両院の歌の入った色紙を贈られたら、当惑す
るに決まっています。というのは、入道蓮生が宇都宮頼綱のときに、一時、北条義時に
謀反の疑いがあると睨まれたことがあるのです。このときは一族60余人が頭を剃って
鎌倉に詫びを入れたのです。そのため、入道蓮生は北条氏を刺激することを非常に恐れ
ていたといいます。
 当時の別荘というものは、多くの客人を招いてもてなすためのものなのです。その襖
に北条氏が神経をとがらせている両院の歌が入っていればどういう事態になるか――現
実主義者の定家がそんなことをするはずがないというのが石田吉貞氏の主張です。論旨
明快であり、説得力があると思います。
 それでは、両院の歌が入った百人一首は定家の選ではないのかというと、そういうわ
けではないのです。石田氏のように定家の没後に息子の為家が入れたという説は小数派
なのです。
 これに関して、樋口芳麻呂氏は非常に興味ある根拠を挙げて反論しているのです。そ
れは、両院歌(99.100)の直前に位置する次の6人の歌人の順序です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      93.鎌倉右大臣(実朝) 96.入道前太政大臣(公経)
      94.参議雅経      97.権中納言定家
      95.前大僧正慈円    98.従二位家隆
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 93番から95番までの実朝、雅経、慈円は没年順、96番からの公経、定家、家隆
は年齢順というように、故人と現存者を区別する配列がされているのです。これによる
と、家隆は現存生存歌人中の最高齢というわけです。つまり、百人一首の配列は、家隆
の生前に完了していることになり、選者はどのように考えても藤原定家ということにな
るのです。
 なぜなら、もし、百人一首の選定が定家死後のことであれば、この6人の順は、没年
順にしても、身分の上下順にしてもこれと異なることになり、説明がつかなくなる――
これが樋口芳麻呂氏の主張なのです。
 それに加えて、1963年に後鳥羽院の「人も惜し人も恨めし・・・」の歌が書かれ
た定家のものと思われる小倉色紙が発見されているのです。吉田幸一、片桐洋一両氏に
よる筆跡鑑定によって定家の自筆であることが明らかになっているのです。どうやら、
百人一首については、定家自身が両院の歌を入れたことは、間違いないと思われます。
 それでは、なぜ藤原定家は、両院の歌を百人一首に入れたのでしょうか。これを解明
する前提として、「新勅撰和歌集事件」というものについて知っていただく必要があり
ます。
 藤原定家は1232年から1235年にかけて「新勅撰和歌集」の選集を行い、12
35年3月12日に前関白・藤原道家に提出しています。後の世にまで残る勅撰集の独
力選集ですから、歌の道にたずさわる者にとって最高の栄誉のはずですが、定家として
は、懊悩として楽しめない事情があったのです。
 定家は勅撰集の完成草稿を1234年に藤原道家に提出しています。道家は前の関白
であり、鎌倉幕府の公卿将軍・九条頼経の父に当たり、政治的な実力者です。定家は、
道家のことを「大殿(おおとの)」と呼んでいたのです。
 1234年11月の上旬になって、定家は勅撰集の完成草稿のことで、道家から呼び
出されます。古歌については非常に褒められたのですが、同時代の歌人に歌については
大きなクレームがついたのです。その原因は、定家が草稿本の中に後鳥羽院や順徳院の
秀歌を公平に多数選入していたからです。既に述べたように両院は歌人としては大変優
れており、定家としてはそれを省きたくなかったからです。その数は100首を大きく
超えていたとされています。
 しかし、道家は、両院、とくに後鳥羽院は幕府の憎悪の的であり、これを入れるには
問題があるとして、すべて削れという命令を出したのです。定家としては、道家の命に
抗するすべもなく、それに従わざるを得なかったのです。
 これについて、樋口芳麻呂氏は、これによって定家がどれほど傷ついたか計り知れな
いとして次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      最終段階の本から、特定歌人たちの歌だけを100首以上削る
      のですから、歌の部類・配列の妙は損壊されざるを得ず、とく
      にそうした点に細心の配慮を心がける定家にとっては、あまり
      にも大きな痛手である。         ――樋口芳麻呂氏
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 既に完成している草稿本から100首以上を削るには、小刀を使って切り取っていく
のですが、定家にとっては両院の首をはねているように感じられ、いい知れぬ恐怖感を
味わったに違いないと思われます。そしてそれは現実のものになります。
                           ・・・ [百人一首/04]

2006年12月26日

百人一首は祟り封じである(第1274号)

 百人一首の成立時期は、歌の作者表記からもおおよその推測ができます。百人一首の
選入歌の中で一番成立の遅い歌は、98番の藤原家隆の歌(風そよぐならの小川の…)
です。この歌は、1229年11月の「女御入内(にょうごじゅだい)屏風」の中にあ
る歌です。
 これによって、百人一首は少なくとも1229年11月以降の成立ということになり
ます。続いて、作者表記に注目して見ることにします。97番の定家の歌の表記は「権
中納言定家」となっています。定家が権中納言に叙せられたのは、1232年1月のこ
とですが、定家が百人一首成立時の官位で作者表記をしているとすれば、それは123
2年1月以降ということになります。
 そうであるとすると、ひとつ問題があるのです。それは家隆の官位についてです。百
人一首における家隆の官位は「従二位」となっていますが、家隆が従二位に叙せられた
のは、1235年9月10日のことなのです。したがって、これによれば、百人一首の
成立は、1235年9月以降となるのですが、明月記の関係記事によると、1235年
5月27日になっているのです。
 もし、5月27日に百人一首が成立していたとすると、家隆の官位は「従三位」でな
ければならないのです。ところが、百人秀歌の家隆の官位は「従三位」になっているの
です。そのため、国文学界では、百人秀歌を百人一首の草稿本とし、百人一首の「従二
位」は、9月10日以降の改訂とすることで、合理的に解釈されているのです。
 もうひとつ大きな問題があります。それは、99番と100番の後鳥羽院と順徳院の
作者表記です。これらの天皇の表記は「諡号(しごう)」というのですが、それは崩御
された後に贈られる称号なのであってそれまでは後鳥羽院は「隠岐院」、順徳院は「佐
渡院」と呼ばれていたのです。したがって、百人一首の成立が1235年5月であると
すると、その時点では両院ともに崩御されておらず、諡号は存在しなかったのです。
 実際に両院の諡号が定められた年代は次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
         後鳥羽院 
          死亡日/1239年 2月23日 
          諡号 /1242年 7月 8日
         順徳院
          死亡日/1242年 9月
          諡号 /1249年 7月20日
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 肝心の定家は、1241年8月20日に亡くなっていますから定家自身は、両院の諡
号を知らないのです。したがって、そのため、歌の選集は定家がやったものの百人一首
の作者表記は、1949年以降に定家以外の人によって行われている――少なくともこ
のことはいえると思います。
 さて、話を定家がなぜ執拗に両院の歌を百人一首の中に入れようとしていたのかに戻
します。結論からいうと、定家は後鳥羽院の生霊の祟りを恐れていたからです。現代人
であれば「祟りなんてばかばかしい」と考えるでしょうが、当時のことですから、かな
り現実味を帯びていたと思われるのです。
 それに定家という人は、人一倍そういうことを気にする人物であったと伝えられてい
るのです。とくに昨日のEJでお話しした新勅撰和歌集事件において定家は不本意なが
ら両院の歌を刃で切りすてているだけに生霊の祟りを恐れていたのです。
 それに加えて、当の後鳥羽院が「祟り」についてしきりに口にしていたという証拠が
残っており、後鳥羽院の祟りは一層現実味を帯びていたと想像されるのです。
 私の手元に「後鳥羽上皇置文案」という資料があります。これは遺書の下書きを意味
しています。増田繁夫氏による現代語訳でその一部をご紹介します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      私は法華経にお導きいただいて生死の境を超越したところにな
      んとかして出るつもりである。ただし、百千に一も現世への妄
      執の念にとりつかれて、魔縁になることになったら、現世に対
      して災害をもたらすことになるだろう。
      ・・・・・・・・・・・・・中略・・・・・・・・・・・・・
      関白以下の人々への祟りは、決してするつもりはない。私が祟
      りをしているという噂があったとしてもとりあげてはならぬ。
                   ―――「後鳥羽上皇置文案」より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 とにかく後鳥羽院という天皇は栄華の絶頂から一転幽閉の身になった人です。当時の
人から見れば、天皇が島流しにされるなど驚天動地のことなのです。祟りを恐れるのは
当然といえます。定家としては何とかして後鳥羽院の祟り封じをしたい――そう考えて
も不思議はないのです。その結果が百人一首であり、百人秀歌ではないか――こういう
壮大な仮説が存在するのです。
 後鳥羽院が崩御したのは、百人一首ができたときから4年後の1239年2月23日
のことです。その同じ年の12月に幕府評定衆三浦義村が頓死しています。さらに12
40年1月に北条時政も頓死したのです。次いで1242年6月、幕府の中心である執
権・北条泰時が熱病にかかり、辛苦脳乱して死亡。世間一般に後鳥羽院の祟りとして恐
れられたといいます。
 そして、北条泰時が死んだ同じ年の9月に順徳院が12日間の絶食のすえに崩御した
ので、このままではどんな祟りが生ずるかも知れないと、鎌倉側は、両院に対する慰霊
・謝罪の方向へと態度転換をしたのです。
 百人一首には多くの謎があります。少なくとも百人の優秀な歌を集めた歌集ではない
のです。百人一首全体で何かを訴えているのです。それに百人秀歌との関係ですが、一
般的に解釈されているものとは大きく違う不思議な事実があります。来週以降、その謎
を解いていきたいと考えています。・・・ [百人一首/05]

後鳥羽院.jpg

2006年12月27日

百人一首は平安朝和歌の総集編(EJ第1275号)

 今週から百人一首の謎の核心に入っていますが、最初にお断りしておきたいのは、百
人一首の研究はいまだに普遍的な解釈には到達していないということです。つまり、百
人一首には、いろいろな考え方や多くの解釈のしかたがあって、これからEJで述べよ
うとしている解釈は、そのワン・オブ・ゼムに過ぎないということです。
 ある国文学者の解釈を紹介しましょう。同志社女子大学学芸学部教授の吉海直人氏は
、百人一首を「和歌で綴る平安朝の歴史」と考えています。吉海教授は、百人一首は藤
原定家による私撰集というよりも勅撰集的な性格が強いとしています。ここで勅撰集と
は、天皇や上皇の命によって編纂される和歌集のことです。
 吉海教授は、その証拠として、百人一首に含まれる和歌は平安朝の勅撰集を完全に網
羅しており、さながら平安朝和歌の総集編といってよい内容になっていること、さらに
百人一首が第1番の天智天皇ではじまり、第100番の後鳥羽院で終わっていることを
上げています。天皇の歌ではじめ、天皇で歌で終わっているのです。天智天皇は平安朝
の皇祖であり、後鳥羽院は平安朝の終焉を意味しています。
 つまり、吉海教授によると、百人一首は、単なる秀歌集とは異なり、「勅撰集の小宇
宙的世界」を形成している――このように想定しているのです。
 また、定家が後鳥羽院・順徳院など承久の変の関係者の歌を断腸の思いで削った「新
勅撰集」は、そういう意味からも不幸な運命をたどったといえますが、何よりも悲運だ
ったのは、肝心の新勅撰集の下命者である後堀川院の突然の崩御により、それを献上で
きなかったことにあります。
 そのため、定家としては、新勅撰集の延長線上にある百人一首を後鳥羽院・順徳院へ
の献上を想定した準勅撰集として、編纂したのではないか、これは晩年の定家の最後の
野望であったと吉海教授は述べています。この説は、おおむね国文学者を代表する意見
といってよいと思います。
 しかし、これから述べようとする考え方は国文学者的解釈とは大いに異なるのです。
百人一首は必ずしも秀歌ではない――これは多くの国文学者が投げかけている疑問のひ
とつです。それもそのはずで、定家は壮大なるある目的のために、歌の優秀性に関係な
く特定の条件を満たす100首を集めているからです。その証拠を探ってみたいと思い
ます。
 証拠としては、次の2つのことがあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      1.百人一首の中に1人で2首を詠んでいる歌人がいる
      2.他の歌集の「詠み人知らず」の歌が入っていること
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1の問題から考えていきます。
 百人一首というと、百人の歌人それぞれの一首ずつの和歌を集めたものと誰でも考え
ますが、実はそうではないのです。百首は間違いないのですが、歌人の方は99人しか
いないのです。ということは1人が2首詠んでいることになります。その問題の歌は、
次の2つの歌です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      22.吹くからに秋の草木のしをるれば
              むベ山風をあらしといふらむ   文屋康秀
      37.しらつゆに風の吹きしく秋の野は
              つらぬきとめぬ玉ぞ散りける   文屋朝康
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 22番の歌の出典は「古今集」です。藤原定家の家系である二条家の相伝本はこの歌
の作者を「文屋康秀」としています。しかし、この歌は「是貞親王家歌合」の席で詠ま
れているのですが、当時の参加者の年齢に比べて文屋康秀の年齢が飛び抜けて高すぎる
こと、それに他の歌集ではこの歌が朝康の作として載っていることから考えて、息子の
文屋朝康の作とするのが正しいとされています。これは、江戸時代の国学者・契沖によ
って指摘されたもので、現在では多くの国文学者によって正しいとされています。つま
り、かなり無理して特定の歌を集めているのです。
 続いて、2の問題です。
 百人一首の中で作者に疑問のある歌が4首あるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       1.秋の田のかりほの庵の苫をあらみ
              わが衣手は露にぬれつつ     天智天皇
       3.あしひきの山鳥の尾のしだり尾の
              ながながし夜をひとりかも寝む 柿本人麻呂
       5.おくやまにもみぢ踏み分け鳴く鹿の
              こえ聞くときぞ秋はかなしき   猿丸大夫
      27.みかの原わきて流るるいづみ川
              いつ見きとてか恋しかるらむ  中納言兼輔
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 順不同ですが、27の歌から説明します。兼輔には「兼輔集」という家集があります
が、その中にこの歌は見当たらず、「古今和歌六帖」で「詠み人知らず」の歌になって
いるのです。
 この歌は「古今和歌六帖」を出典として「新古今和歌集」に採られているのですが、
岩波文庫の『新古今和歌集』によると、この歌の撰者として定家と家隆の名前が上がっ
ているのです。したがって、定家と家隆は「詠み人知らず」であることを承知のうえで
兼輔の歌として百人一首に採ったことになります。なぜ、そのようなことをしたのでし
ょうか。
 第3番の柿本人麻呂の歌ですが、これは「万葉集」2802番に「或る本の歌にいわ
く」とあるだけで作者のわからない歌なのです。それが「拾遺集」に人麻呂作として採
り入れられていることから、定家はそれをそのまま採歌しています。
 残る天智天皇の歌と猿丸大夫の歌については、明日のEJで述べることにします。
・・・ [百人一首/06]

吉海直人氏の本.jpg

2006年12月28日

猿丸大夫という歌人の謎(EJ第1276号)

 百人一首の中で作者のはっきりしない4つの歌のうち2つについては説明が終わり
ましたが、残る2つの歌を説明します。対象の歌を再現しておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       1.秋の田のかりほの庵の苫をあらみ
              わが衣手は露にぬれつつ     天智天皇
       5.おくやまにもみぢ踏み分け鳴く鹿の
              こえ聞くときぞ秋はかなしき   猿丸大夫
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 第1番の天智天皇の歌は、「万葉集」2174番にその原型が出ています。しかし、
この歌は「詠み人知らず」なのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          秋田刈る仮庵を作り吾が居れば
                衣手寒く露ぞ置きにける
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 それが「後撰集」に天智天皇作として収められているのです。少なくとも天智天皇は
一流の歌人ではなく、この歌が天智天皇の作品ではないことは一般的な見方となってい
ます。
 第5番の猿丸大夫の歌については大きな疑問があります。この歌の出典は「古今集」
の215番なのですが、「詠み人知らず」になっているのです。
 この猿丸大夫という歌人については、多くの疑問があり「謎の人物」とされており、
その正体をめぐって分厚い単行本まで出版されているのです。もっとも百人一首には喜
撰法師や蝉丸など経歴がはっきりしない人物も何人かはいますが、猿丸大夫の不鮮明さ
は中でも際立っているのです。
 なにしろ生没年は不明、経歴も不明、勅撰集には「猿丸大夫」の名では1首も選ばれ
てはいない――わからないのオンパレードです。しかし、それでいて、藤原公任によっ
て「三十六歌仙」に選ばれ、その歌が公任の私家集である「三十六人撰」に載っている
のです。百人一首の100首のうち99首は「古今集」から採られています。いうまで
もないことながら「古今集」は勅撰集であるのに、第5番の猿丸大夫の歌は「詠み人知
らず」の歌としては「古今集」ですが、その出典としては公任の私家集である「三十六
人撰」から採られているのです。
 定家の歌集に「二四代(にしだい)集」(「八代集抄」とも称する)というのがあっ
て、1809首の歌を収めています。「二四代」というのは「2×4=8」の意味で、
「古今集」から「新古今集」までの八代の勅撰集の中から定家は歌を抄出し、秀歌覚え
とし手控えたものが「二四代集」です。
 その「二四代集」に「おくやまに・・」の歌があるのですが、作者名は「古今集」そ
のままに「詠み人知らず」になっているのです。これによって、定家はこの歌が「詠み
人知らず」であることを百も承知のうえ、それを百人一首に収めているのは間違いない
ことなのです。
 百人一首の猿丸大夫の歌にはもっと不思議なことがあります。それは百人一首の中に
猿丸大夫の歌とそっくりの歌がもう1首あるからです。それは第83番の次の歌です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      83.世の中を道こそなけれ思ひいる
              山の奥にも鹿ぞ鳴くなる 皇太后宮大夫俊成
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 どうでしょうか。「おくやまに・・」の歌に極めてよく似ています。この歌の作者は
俊成――つまり、藤原定家の父の歌なのです。つまり、定家は父の歌と同工異曲の猿丸
大夫の歌をあえて百人一首に選んでいるのです。
 わからないことが多いのですが、事実を少し整理します。藤原定家はある目的のため
に百人一首の歌を選んでいることは間違いないのですが、その目的を果たすためには、
歌だけでなく、歌人の名も必要としているのです。
 先ほど藤原公任が「三十六人撰」の中に猿丸大夫の歌を3首を収めていると述べまし
たが、それは次の3首です。なお、番号は「古今集」の通し番号です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        29. をちこちのたつきもしらぬ山中に
                   おぼつかなくも喚子鳥かな
       204. ひぐらしのなきつるなへに日はくれぬと
                   みしは山のかげにざりける
       215. おくやまにもみぢ踏み分け鳴く鹿の
                  こえ聞くときぞ秋はかなしき
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これらの歌は、いずれも暗い感じの歌で、歌のできも必ずしも秀逸とはいえないので
はないかと考えられます。それなのに、公任はこれらの歌を「三十六人撰」に収録し、
定家もその中の1首
「おくやまに・・」を百人一首の歌として採歌しているのは、その歌も歌人の名前も両
方とも必要としたと考えられます。
 百人一首の100首のうち、99首は勅撰集、1首は私撰集から採られている――こ
の事実は、何らかの事情で、猿丸大夫だけを100人から浮かび上がらせる意図がある
のではないかとは考えられないでしょうか。
 なお、非常にややこしい話なのですが、藤原公任の「三十六人撰」の他に、定家の父
である俊成にも「俊成三十六人歌合」という歌集があるのです。この歌集に俊成は公任
の選んだ3首を猿丸大夫として引き継いでいるのですが、これら2つの歌集と古今集に
は、明らかに深い関連があるものと考えられます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       藤原公任 ・・・・・ 「三十六人撰」
       藤原俊成 ・・・・・ 「俊成三十六人歌合」
       勅撰集  ・・・・・ 「古今和歌集」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
                           ・・・ [百人一首/07]

猿丸大夫に関する本.jpg

2006年12月29日

三十六人撰のからくりを探る(EJ第1277号)

 「三十六人撰」というのは、藤原公任が柿本人麿から中務まで三十六人の歌仙の歌、
百五十首を撰出して結番した歌合形式の秀歌撰のことをいいます。後年になって、藤原
俊成は公任の撰んだ三十六人の歌人につき、それぞれ各三首を選び直したのが「俊成三
十六人歌合」です。
 まず、これら2つの歌集の比較からはじめることにします。
 「三十六人撰」において藤原公任は、歌人の格付けをやっているのです。36人の歌
人を左右18人ずつに分けて、番号をつけたのです。左右では左が右よりも格が高く、
番号は1番から順に格が下がっていくのです。大事なポイントなので、すべてを書き出
しておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 
          左 1:人麻呂      右 1:貫之
          左 2:躬恒       右 2:伊勢
          左 3:家持       右 3:赤人
          左 4:業平朝臣     右 4:遍昭僧正
          左 5:素性       右 5:友則
          左 6:猿丸       右 6:小町
          左 7:兼輔卿      右 7:朝忠卿
          左 8:敦忠卿      右 8:高光
          左 9:公忠朝臣     右 9:忠岑
          左10:斉宮女御     右10:頼基
          左11:敏行朝臣     右11:重之
          左12:宋干朝臣     右12:信明朝臣
          左13:清正朝臣     右13:順
          左14:興風       右14:元輔
          左15:是則       右15:元真
          左16:小大君      右16:仲文
          左17:能宣朝臣     右17:忠見
          左18:兼盛       右18:中務
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 左と右の格の順序はこうなります。例えば、右の1番の貫之は左の1番の人麻呂より
も格は下ですが、左の2番の躬恒よりは格が上になります。
 藤原公任は、これら36人の歌人について最初の左右1番と2番の4人と最後の18
番の2人については、それぞれ10首、他の歌人については各3首ずつを採っているの
です。
 つまり、「三十六人撰」という歌集には、6人については10首ずつで60首、他の
30人については各3首ずつですから90首、合計で150首の歌が集められているこ
とになります。
 奇妙に考えられるのは、上位の格の高い4人については10首というのはわかります
が、なぜ、一番格の低い18番の左右2人が10首なのかということです。
 さて、後年の俊成の「俊成三十六人歌合」も公任の選んだ36人の歌人について歌の
選び直しをしています。そして、歌人の格付けも公任のものをそのまま踏襲しているの
です。しかし、歌の数については、36人から各3首ずつ集めているのです。36人か
らそれぞれ3首ですから、108首ということになり、俊成のそれとは42首の差が出
ることになります。
 注目すべきは、猿丸大夫のポジションです。猿丸大夫は左の6番という高いポジショ
ンを与えられています。ここで、次の表を見ていただきたいのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          ≪歌の通し番号≫ ≪左格通し番号≫
               59 −     30 = 29
               60 −     31 = 29
               61 −     32 = 29
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「59」という数が出ていますが、これは猿丸大夫の3首の歌のうち、先頭の歌の通
し番号です。歌は左1番、右1番、左2番右2番、・・・の順序に並ぶのです。最初の
4人は10首ずつですから、伊勢の歌の最後が40首目ということになります。
 続く、左3番以降右17番まではそれぞれ3首ですから、猿丸大夫の歌の前、すなわ
ち友則の歌までで、40+18で58首ということになり、59番が猿丸大夫の歌にな
ります。つまり、猿丸大夫の歌は59〜61番までです。
 続いて、左格の通し番号とは、これは右を無視して、左1番〜左18番までの歌の通
し番号のことです。左1番と左2番で20首、左3番〜猿丸の1つ上の左5番までは9
首ですから、合計して29首、猿丸大夫の歌は30番〜32番ということになります。
そして、左右順番の通し番号から左格の通し番号の差をとってみると、すべて「29」
という数字になります。
 この「29」という数は、左右の格付けをしているために、全歌仙の中で、猿丸大夫
だけに現れる数ということになります。この29番を、念のため、古今集の通し番号の
29番に合わせてみると、次の歌が現れたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       29. をちこちのたつきもしらぬ山中に
                  おぼつかなくも喚子鳥かな
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 何とこの歌は、猿丸大夫の3首のうちの最初の歌なのです。これは、単なる偶然でし
ょうか。既に述べたように、古今集においては「三十六人撰」の猿丸大夫の歌3首は、
いずれも「詠み人知らず」になっているのですが・・・。
 藤原公任はこの仕掛けを作るために、格付け上位4人と下位2人については10首、
他は3首ずつというややこしい歌の選び方をしたのでしょうか。
 しかし、それなら、なぜ「おくやまに・・」ではなく、「をちこちの」なのでしょう
か。その秘密は「喚子鳥(よぶこどり)」という鳥にあるのです。
                       ・・・ [百人一首/08]

斉宮女御色紙屏風.jpg

2006年12月30日

和歌の秘伝を伝える古今伝授(EJ第1278号)

 古今和歌集第29番の歌「をちこちの・・・」の中に「喚子鳥」という鳥が出てきま
す。この歌は古今和歌集では、「詠み人知らず」ですが、公任の「三十六人撰」では猿
丸大夫という謎の歌人の歌とされていることは既に述べた通りです。
 さて、この「喚子鳥」という鳥は人を呼ぶような鳴き声をする鳥のことで、カッコウ
などをあらわすのですが、歌道の世界では、特殊な意味を持っています。結論からいう
と、「古今伝授」の秘伝に使われる鳥なのです。
 古今伝授というのは、古今和歌集の解釈の秘説を師匠から弟子に秘伝として伝えたも
ので、形式化されたのは1471年の東常縁(とうのつねのり)から連歌師宗祇(そう
ぎ)へ伝授されてからといわれています。ちなみに古今和歌集(古今集とも略記)は醍
醐天皇の命を受けて勅撰したわが国初の勅撰集であり、編纂に携わったのは、紀貫之、
紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑の4人の歌人です。
 この古今伝授において非常に重要な事項については、一通ずつ切紙に書いて伝えられ
たといわれます。これを「切紙伝授」というのです。そのとき使われるのが「三木・山
鳥」(さんもく・さんちょう)といい、「喚子鳥」は三鳥のひとつです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        三木 ・・・ 御賀玉木、河菜草、めどに削り花
        三鳥 ・・・ 喚子鳥、百千鳥、稲負鳥
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、何しろ秘伝であり、三木・三鳥を具体的にどのように使うのかは残念ながら
不明です。それに「めどに削り花」などは8音であり、歌に使える言葉とは思えないの
す。したがって、古今伝授は三木や三鳥にかこつけて、言葉の意味以外のもっと大切な
ものを伝える手段ではないかと考えられるのです。
 しかし、藤原公任の「三十六人撰」に載っている猿丸大夫の歌3首について、歌の通
し番号と左格の通し番号の差「29」というキーワードから、古今集の29番に該当す
る歌を調べると「三十六人撰」では猿丸大夫の最初の歌「をちこちの・・」にたどりつ
くのです。ところが、この歌には三鳥のひとつ「喚子鳥」が歌われています。何か暗示
的であるとは思いませんか。
 この古今伝授が、歌道の世界でどれほど重要なものであるかを示す有名な歴史的事件
があります。
 東常縁から古今伝授を受けた連歌師宗祇は、三条西家の実隆にそれを伝授し、そこか
ら三条西家の公条、実枝、実条へと伝えられるのですが、実条が幼少だったので、一時
弟子の細川幽斉に預けられたのです。
 細川幽斎は、かつて細川藤孝のときに織田信長の命により、明智光秀とともに丹後を
平定し、その恩賞として丹後国を与えられます。そして、そこに宮津城と田辺城(通称
舞鶴城)を建立して息子の忠興(細川ガラシャの夫)とともにこの丹後地域を統治して
いたのです。
 この舞鶴城下では、細川幽斎の人気は上々で、武将であると同時に類まれな国家的文
化人である幽斎のことを誇りに思う人が多かったのです。それは関が原の戦いのときに
起こったある事件がきっかけで細川幽斎の人気が上昇したのです。
 1600年9月に起こった関が原合戦で細川一族は徳川家康についたので、忠興が全
軍を率いて会津征伐に向かっているときに石田三成は、福知山城主小野木縫殿助ら三成
方の軍勢1万5千騎をもって丹後に侵攻させたのです。
 宮津城で留守をあずかっていた幽斉は、石田勢の大軍が侵攻してくるのを聞き、決死
の覚悟で宮津、久美、嶺山の諸城を焼き払い、船で舞鶴城にわたり、籠城したのです。
敵の数1万5千人に対して、細川方はわずか5百人――当時の舞鶴城は北が海、東西は
川、南は馬が渡れないほど深い湿田で、難攻不落の城ではあったのですが、落城は時間
の問題だったのです。
 これを知って、幽斉から歌道を教わっていた八条宮智仁は、後陽成天皇に幽斉を救っ
て欲しいと願い出ます。天皇は「幽斉が討ち死にすると、古今伝授するものがいなくな
り、本朝の新道奥義和歌の秘密が長く途絶え、神国のおきてむなしくなる」と憂い、使
者を送って城を明け渡すようにと再三伝えます。
 最初のうち、幽斉は武士としてそれはできないと断り続けたのですが、何しろ天皇の
勅命でもあり、3日間の話し合いの結果、幽斉は城を明け渡すことを決めたのです。こ
うして守られたものが「古今伝授」というわけです。古今伝授はそれほどに重要なもの
なのです。
 幽斎の詠んだ歌に次のようなものがあります。この歌には、三木ならぬ十木が隠され
ており、「幽斎公十木御詠」といわれていますが、わかるでしょうか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
           必ずと契りし君が来まさねば
               強いて待つ夜の過ぎ行くは憂し   幽斎
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 答えは次の通りです。詠みにくいですが、歌はトレースされています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      か【楢】ず【栃】【桐】【樒】【柿】≪柾≫≪根≫≪葉≫
      【椎】て【松】よの【杉】【柚】【桑】うし
                        『古事類苑』神宮司庁
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 古今伝授がどのようなものかよくわかりませんが、何らかの意味で、百人一首に関連
しているように思います。「古今和歌集」、「三十六人撰」、「俊成三十六人歌合」、
「百人秀歌」と「百人一首」とは、すべてつながっているように考えられます。
 藤原定家は、これらの歌集を総動員して、何かを後世に伝える意図があって、そこに
複雑な仕組みを作っているような気がするのです。古今伝授もその重要な一環と思われ
ます。
・・・ [百人一首/09]

古今伝授書三巻.jpg
                 

「INTEC JAPAN/BLOG」は、本号が年内最終号となります。12月31
日から2007年1月4日まで通常号の発行をお休みさせていただきます。読者の皆様
には今年もご愛読頂きまして、まことにありがとうございました。どうぞ良いお年をお
迎え下さい。

2007年01月05日

喚子鳥/百千鳥と紀貫之(EJ第1279号)

 百人一首に入っている歌の中で、5番の歌「おくやまに・・」の作者である猿丸大夫
は、次のような理由により、特異な存在になっています。今まで検討してきたことを6
つにまとめておくことにします。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      1.藤原公任は、古今和歌集で「詠み人知らず」である歌3首
        を猿丸大夫という名前で「三十六人撰」に収めている。
      2.猿丸大夫は生没年、経歴ともに不明の謎の人物であり、猿
        丸大夫の名前では勅撰集に1首も選ばれていないこと。
      3.藤原俊成は、「三十六人撰」に入っている猿丸大夫の同じ
        歌3首を、「俊成三十六人歌合」の中にも収めている。
      4.藤原定家は、「三十六人撰」および「俊成三十六人歌合」
        の中の猿丸大夫の歌1首を百人一首の中に収めている。
      5.藤原定家は、百人一首のうち99首を勅撰集から採歌して
        いるが、猿丸大夫の1首は私撰集から採っていること。
      6.定家は百人一首の中の猿丸大夫の歌「おくやまに・・」と
        よく似ている俊成の歌を83番の歌として収めている。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 以上により、これらの歌集において、猿丸大夫は特異の存在であり、何らかのキーワ
ードとして使われているのではないかと考えられるのです。
 28日のEJ第1277号において、「三十六人撰」における猿丸大夫のポジション
(左格6番)について、「三十六人撰」全体の歌の通し番号と左格の通し番号の差をと
ったところ「29」という数があらわれましたが、古今和歌集の29番は次の歌である
ことがわかったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       29. をちこちのたつきもしらぬ山中に
                  おぼつかなくも喚子鳥かな
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この歌は、「三十六人撰」に猿丸大夫の作として公任によって選ばれている歌であり
しかも、この歌には古今伝授の三鳥のひとつが歌い込まれており、古今伝授とも関係が
あるようです。
 このあと、猿丸大夫に関連してキーワードとなりうる数としては、次の4つが上げら
れと思います。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
         1.「三十六人撰」と「俊成三十六人歌合」の
          全体の通し番号の差
         2.「三十六人撰」と「俊成三十六人歌合」の
          左格の通し番号の差
         3.「俊成三十六人歌合」における全体と、左
          格の通し番号との差
         4.「三十六人撰」と「俊成三十六人歌合」に
          おける歌数の差42
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1については、次の結果となります。繰り返しますが、猿丸大夫は、左格6番のポジ
ションです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          ≪歌の通し番号≫ ≪左格通し番号≫
               59 −     31 = 28
               60 −     32 = 28
               61 −     33 = 28
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この「28」で古今和歌集を引くと、次の歌が出てきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       28.ももちどりさへずる春は物ごとに
                あらたまれども我ぞふりゆく
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここで「ももちどり」とは「百千鳥」――またまた古今伝授の三鳥の中のひとつが登
場してきました。
 続いて、2と3を計算します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      ●「左の格の通し番号の差」
          ≪「三十六人撰」≫ ≪「俊成三十六人歌合」≫
               30 −     16 = 14
               31 −     17 = 14
               32 −     18 = 14
      ●「俊成三十六人歌合」の通し番号の差
          ≪全体の通し番号≫ ≪左の格の通し番号≫
               31 −     16 = 15
               32 −     17 = 15
               33 −     18 = 15
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この「14」と「15」については、試行錯誤の結果、次の事実が判明しています。
「三十六人撰」の中で猿丸大夫の名前で採歌されている歌は3首あり、その最初の歌は
59番の「をちこちの・・」です。この歌が古今和歌集の29番に「詠み人知らず」と
して出ていることは既にお話ししましたね。
 この古今和歌集29番の歌から14番目の歌が何であるかを調べると次の歌が出て
きたのです。番号は42番です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      42.人はいさ心も知らずふるさとは
               花ぞ昔の香ににほひける     紀貫之
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この歌は百人一首の35番の歌です。ここで、やっと百人一首の歌との関連が出てき
ました。しかも、この「42」という数字は、「三十六人撰」と「俊成三十六人歌合」
の歌の数の差なのです。そして古今和歌集の42番から15番さかのぼると――つまり
「をちこちの・・」の前の歌が古今伝授に関係のある「ももちどり・・」の歌なので
す。「14」と「15」という数字はいずれも古今和歌集の選者「紀貫之」に結びつく
のです。                      ・・・ [百人一首/10]

2007年01月09日

紀貫之をめぐる歌の分析(EJ第1280号)

 2007年になって早くも1週間が過ぎました。百人一首のテーマはしばらく続きま
すが、結論はかなり先になりますので、区切りのよいところでいったん終了し、別のテ
ーマをいくつか取り上げて、再び百人一首のテーマに戻るというスタイルで記述します
ので、ご了承願います。
 古今和歌集の42番は、紀貫之の次の歌です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      42.人はいさ心も知らずふるさとは
               花ぞ昔の香ににほひける     紀貫之
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この「42」という数は「三十六人撰」と「俊成三十六人歌合」の歌の数の差です。
「三十六人撰」の方が「俊成三十六人歌合」よりも歌の数が42首多いのです。
 ここで、百人一首に採用された36歌仙を洗い出してみると、次の25歌仙になりま
す。左右の格で示しておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          左 1:人麻呂      右 2:貫之
          左 3:躬恒       右 4:伊勢
          左 5:家持       右 6:赤人
          左 7:業平       右 8:遍昭
          左 9:素性       右10:友則
          左11:猿丸       右12:小町
          左13:兼輔       右14:朝忠
          左15:敦忠       右18:忠岑
          左21:敏行       右22:重之
          左23:宋干       右28:元輔
          左27:興風       右34:忠見
          左29:是則
          左33:能宣
          左35:兼盛
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 さて、ここでひとつの実験をします。百人一首では上記25人の歌人が1首ずつです
から、歌の数は25首ですが「三十六人撰」の独特の数え方と「俊成三十六人歌合」の
1人3首の数え方で、この25歌仙を数えるとどうなるか――そんなことをしても意味
がないではないかという疑問を持つ方もいると思いますが、やってみることにします。
 「三十六人撰」における歌の数え方とは、左格1〜左格2と、右格1〜右格2の4人
の歌人、それに左格18と右格18の2人の歌人については、それぞれ10首ずつ、そ
れ以外の歌人についてはそれぞれ3首ずつという選び方です。意味がわからない方は、
1月28日のEJ1277号を参照願います。
 百人一首に選ばれている25人の歌人のうち、10首と計算する歌人を次に示してお
きます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
           左格 1:人麻呂    右格 1:貫之
           左格 2:躬恒     右格 2:伊勢
           左格18:兼盛
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 全部で5人ですから50首、それ以外の20人は3首ずつですから60首――合計し
て110首ということになり、「110」という数字があらわれました。
 これに対して、「俊成三十六人歌合」は25人がそれぞれ3首ずつですから75首と
なり、「75」という数字が出てきます。そこで次の計算をすると、「35」という数
字になります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
             110 − 75 = 35
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 百人一首でこの「35」番の歌をひくと、次の歌になります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      35.人はいさ心も知らずふるさとは
               花ぞ昔の香ににほひける     紀貫之
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 話がかなり複雑になっていますが、ご理解いただけますでしょうか。こうなると、と
ても偶然とは思えなくなります。そこに一定のルールのようなものがあるからです。
 紀貫之の「人はいさ心も知らず」の歌は、古今和歌集では42番の歌になっています
が、この「42」という数字は「三十六人撰」と「俊成三十六人歌合」の歌数の差――
150−108=42――なのです。
 ところが、藤原定家は、公任がやったのと同じロジックを使って「35」という数字
を出し、百人一首の35番の歌として「人はいさ心も知らず」の歌を配置しているので
す。これで、百人一首の歌番号が年代別などではなく、ある目的のために、一定のロジ
ックの下に決められている――そのように考えられます。
 さて、古今伝授の三鳥――喚子鳥、百千鳥、稲負鳥のうち、稲負鳥については、まだ
お話ししていません。稲負鳥を詠み込んだ歌は古今和歌集の208番に載っています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      208.わがかどにいなおほせどりの鳴くなへに
                   けさ吹く風に雁はきにけり
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 古今和歌集を見ると、この歌の5首前に「ひぐらしの・・」の歌(204)がありま
す。「三十六人撰」に載っている猿丸大夫の歌3首のうちの2番目の歌です。
 そして、この歌から数えて8番目に、猿丸大夫の3番目の歌で百人一首の5番に置か
れている「おくやまに・・」の歌があるのです。つまり、古今和歌集208番の「わが
かどに・・」の歌はその前後を猿丸大夫の歌によってはさまれたかたちになっているの
です。ここに、「5」と「8」という数字が浮かび上がってきますが、この解明は明日
のEJでやることにします。             ・・・ [百人一首/11]

2007年01月10日

『百人秀歌』との関係の分析(EJ第1281号)

 「5」と「8」の数字の解明ですが、「5」に関しては、百人一首における猿丸大夫
の5番の歌「おくやまに・・」が頭に浮かびますが、「8」とは何を意味するのでしょ
うか。
 ここまでは、古今和歌集を中心に、猿丸大夫という謎の歌人の歌をひとつのキーワー
ドとして、「三十六人撰」と「俊成三十六人歌合」という2つの歌集を分析手段として
使いながら、それを百人一首に結びつけるという作業をやってきました。
 しかし、もうひとつ重要な歌集があるのです。「百人秀歌」がそれです。百人秀歌に
ついては、1月21日のEJ1272号で解説していますが、その特色を再現しておき
ます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
         1.99番と100番の両院の歌がないこと
         2.歌人の配列順序がかなり違っていること
         3.百人一首にはない3つの歌が入っている
         4.74番の歌が別な歌に入れ替わっている
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この百人秀歌の中に、百人一首の5番の歌「おくやまに・・」が入っているかどうか
を調べてみると、何と8番に入っているのです。ここで「5」と「8」が結びついてき
ます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      「百人一首」の5番歌−「稲負鳥」−「百人秀歌」の8番歌
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 何度も述べているように猿丸大夫の歌は謎を解くキーワードとなっています。中でも
百人一首の5番歌「おくやまに・・」は主要な歌といえます。それに「稲負鳥」は古今
伝授の三鳥のひとつです。したがって、藤原定家は『「百人一首」と「百人秀歌」の両
歌集を一対のものとして、古今伝授を探れ!』といっているのではないかと思います。
 既に述べたように、定家は、「三十六人撰」に収められている三十六歌仙のうち、二
十五歌仙を百人一首に採り入れています。それを左格と右格に分けると、左格14人、
右格は11人というように、アンバランスな数になります。
 次の表を見てください。左格18人、右格18人で36歌仙がすべて揃っています。
このうち、★印がついているのは、百人一首に取り入れられている歌仙です。左格が1
4人、右格が11人です。A、B、Cの意味は次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       A 「三十六人撰」に公任によって採り入れられた歌の数
       B 「俊成三十六人歌合」に俊成によって採り入れた歌数
       C 「三十六人撰」と「俊成三十六人歌合」おける共通歌
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
               A B C         A B C
      左 1:人麻呂★10 3 1 右 1:貫之★10 3
      左 2:躬恒★ 10 3   右 2:伊勢★10 3 1
      左 3:家持★  3 3   右 3:赤人★ 3 3 2
      左 4:業平★  3 3   右 4:遍昭★ 3 3 1
      左 5:素性★  3 3 1 右 5:友則★ 3 3
      左 6:猿丸★  3 3 3 右 6:小町★ 3 3 2
      左 7:兼輔★  3 3   右 7:朝忠★ 3 3 3
      左 8:敦忠★  3 3   右 8:高光  3 3 3
      左 9:公忠   3 3 2 右 9:忠岑★ 3 3 1
      左10:斉宮女御 3 3   右10:頼基  3 3 1
      左11:敏行★  3 3 2 右11:重之★ 3 3 1
      左12:宋干★  3 3 3 右12:信明  3 3 1
      左13:清正   3 3 2 右13:順   3 3 1
      左14:興風★  3 3 2 右14:元輔★ 3 3
      左15:是則★  3 3 1 右15:元真  3 3
      左16:小大君  3 3 1 右16:仲文  3 3 2
      左17:能宣★  3 3 1 右17:忠見★ 3 3 1
      左18:兼盛★ 10 3 2 右18:中務 10 3 1
 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
              75  21        75  21
                54            54
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 表の読み方を説明します。例えば、人麻呂はABCがそれぞれ「10.3.1」とな
っていますが、これは「三十六人撰」からは10首、「俊成三十六人歌合」からは3首
という意味であり、その中に共通歌は1首ということをあらわしています。
 したがって、全部同じ歌というのは、「3.3.3」になっている歌人――猿丸、朝
忠、高光、宗干の4人だけです。これも何かのキーワードになっている可能性がありま
す。
 重箱の隅を突っつくような話ですが、左→右の順序で上から★印を数えて見てくださ
い。猿丸は11番目、朝忠は14番目になります。ここに左格14人、右格11人の数
値があらわれます。定家が25歌仙を14と11に分けたのは、われわれの目をこの共
通歌に向けさせるものではなかったのでしないでしょうか。
 その証拠をお目にかけましょう。共通歌の数を合計すると左格も右格も21となりま
す。その合計は42――古今和歌集の42番は紀貫之の歌です。そして、今度は定家が
百人一首に選んだ★印の25歌仙の共通歌の合計は16+12で「28」になります。
この「28」とは何かを調べると、何と「百人秀歌」の28番も紀貫之の歌になってい
るのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
         人はいさ心も知らずふるさとは
               花ぞ昔の香ににほひける     紀貫之
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この歌は古今集では42番、百人一首では35番、百人秀歌では28番――これらの
数字は、今まで検討してきた通り、すべて意味のある数字なのです。紀貫之の歌を利用
して、定家は、全歌数の差の42首と35首で古今集と百人一首をつなぎ、共通歌数の
差42首と28首で古今集と百人秀歌とつないでいるのです。・・[百人一首/12]

2007年01月11日

百人一首五歌とは何か(EJ第1282号)

 藤原定家の家系は、孫の代になってから家督相続の争いが起こり、次の3家に分立し
ています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
         1.二条家 ・・ 為氏 ・・ 百人一首
         2.京極家 ・・ 為教(為氏の弟)
         3.冷泉家 ・・ 為相 ・・ 百人秀歌
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 定家の長男である為家には為氏という嫡男がいます。しかし、為家は、50歳を過ぎ
てから後妻――阿仏尼を迎えています。この阿仏尼が為家との間に生まれた為相(ため
すけ)に宗家を継がせようとしたことから宗家をめぐる争いが起こるのです。
 こういう場合、宗家は先妻の子に継がせるのがすじというものであり、為家は荘園の
権利を為氏に与えていたのです。しかし、阿仏尼の執拗な訴えにより、為家は為氏に権
利を為相に渡すよう迫ったのです。ところが、為氏はそれに抵抗して権利の譲渡を拒否
――結局、為家の生存中にはそれは実現せず、これが原因で、定家の家系は3家に分割
されたのです。
 そして、百人一首は二条家、百人秀歌は冷泉家に伝えられたのですが、百人一首の方
は積極的に流布されたので、多くの人の知るところになったのに対し、百人秀歌の方は
徹底的に秘匿され、1951年になってやっと発見されたのです。
 もうひとつ藤原家の歴史について、百人一首の謎を解くための鍵となる事実がありま
す。それは、為家が彼の先妻の父、入道蓮生から嵯峨中院の山荘――百人一首の色紙を
貼った障子がある山荘――を相続しており、それは為相(冷泉家)に受け継がれている
ことです。
 これから少しずつ明らかになっていきますが、百人秀歌は百人一首の謎を解くために
は不可欠なものであり、これが発見されるまでは、誰も百人一首の謎に迫ることはでき
なかったのです。百人秀歌が厳重に隠されたのは、そういう理由によるのです。
 ところで、百人秀歌には、巻末に次のような奥書があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      上古以来歌仙之一首 髄思出 書出之。名誉之人秀逸之詠、皆
      漏之。 用捨在心。自他不可有傍難歟。
      ――上古以来の歌仙の一首を思うままに選んだ。名誉の人や秀
      れた歌は皆漏らしたが、なぜそのようにしたかという理由は自
      分の心の中にあるので、他からとやかく言わないで欲しい――
      ――藤原定家
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 もうひとつ百人一首には、古今伝授が明らかに深く関与していると考えられます。古
今伝授に関しては元禄14年に刊行された「和歌極秘伝」に、秘伝内容として次の12
項目が上げられています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      1.歌のとまり字の口傳    7.古今和歌集山鳥の口傳
      2.詠歌制の詞口傳      8.同七首の秘歌
      3.百人一首五歌の口傳    9.三木の口傳
      4.同他流の口傳      10.一首十躰
      5.伊勢物語七ヶの秘事   11.一首五躰
      6.つれづれぐさ三ヶの秘事 12.木綿袴の歌
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この中に「百人一首五歌の口傳」とあることを見ても、百人一首が古今伝授に関係の
あることは確かです。古今伝授の伝授者である細川幽斉自身も「幽斉抄」の中で次のよ
うに述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      和歌の骨髄は此百人一首なり。余情比類なき物也。十の内実は
      六七分、花は三四分たるべきにや      ―――細川幽斉
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 さて、古今伝授の秘伝の内容に上げられている「百人一首五歌の口傳」の「五歌」と
はどの歌を指すのでしょうか。
 これは、二条家と冷泉家では違うのです。歌人の名前で上げておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        二条家: 忠岑 人麻呂 仲麻呂 喜撰 定家
        冷泉家: 忠岑 家持  忠道  実朝 経信
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 最初に冷泉(れいぜい)家の五歌から分析することにします。五歌とはどのような歌
でしょうか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      30.有明のつれなくみえしわかれより
              暁ばかり憂きものはなし       忠岑
       6.かささぎのわたせる橋に置く霜の
              白きを見れば夜ぞふけにける     家持
      76.わたの原こぎいでてみればひさかたの
              雲居にまがふ沖つ白波        忠道
      93.世の中はつねにもがもな渚こぐ
              あまの小舟の綱手かなしも      実朝
      71.夕ざれば門田の稲葉おとずれて
              あしのまろやに秋風ぞ吹く      経信
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これら五歌は、百人一首だけではなく、百人秀歌にも選ばれています。それぞれの歌
番号を合計して見ましょう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       ≪百人一首≫
        忠岑 家持  忠道  実朝 経信
        30+ 6 +76+ 93+71 = 276
       ≪百人秀歌≫
        忠岑 家持  忠道  実朝 経信
        30+ 5 +79+ 98+70 = 276
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 驚くべきことですが、合計数が276で一致しているのです。
                       ・・・[百人一首/13]

2007年01月12日

猿丸3歌と4歌集は相互関連する(EJ第1283号)

 前回、古今伝授によって示されている「百人一首五歌」は、藤原定家の後継三家のう
ち、二条家と冷泉家によってそれぞれ異なること――そのうち、冷泉家についてはそれ
ら五歌の作者の歌番号の合計が百人一首と百人秀歌で一致することを指摘しました。再
現しておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       ≪百人一首≫
        忠岑 家持  忠道  実朝 経信
        30+ 6 +76+ 93+71 = 276
       ≪百人秀歌≫
        忠岑 家持  忠道  実朝 経信
        30+ 5 +79+ 98+70 = 276
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この「276」という数字は何を意味しているのでしょうか。今まで検討してきたこ
とから考えると、キーワードである「猿丸大夫」とそれに関わる次の4つの歌集の関連
数値から割り出せるはずです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        1.百人一首       3.三十六人撰
        2.百人秀歌       4.俊成三十六人歌合
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これら4つの歌集は、今後も登場しますので、どのような歌が収録されているか、参
照していただくサイトをご紹介しておきます。必要なときにダブルクリックすれば、そ
れぞれ歌集の掲載歌を参照できます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     ★百人一首
     http://homepage2.nifty.com/100-1/HYAKUNIN/KENKYU/100_1.htm
     ★百人秀歌
     http://homepage2.nifty.com/100-1/HYAKUNIN/KENKYU/100_s.htm
     ★三十六人撰/俊成三十六人歌合
     http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/36k_t.html
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 結論からいうと、「三十六人撰」と「俊成三十六人歌合」における猿丸大夫の歌番号
の合計が「276」になるのです。猿丸大夫の歌は、これら両歌集に3首ずつ同じ歌が
選ばれていますが、歌番号はそれぞれ異なります。
 その理由は、既に何度も述べているように、「三十六人撰」では上位4人と第18位
2人については10首ずつで他は3首ずつ「俊成三十六人歌合」では、すべて3首ずつ
採歌しているので、歌番号が異なってくるのです。
 そこで両歌集の猿丸大夫の歌3首の歌番号を合計してみると276」になるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       「三十六人撰」    「俊成三十六人歌合」
       (59+60+61)+(31+32+33)=276
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これによって、4つの歌集と猿丸大夫の3つ歌と古今伝授は、明らかにつながってい
ることがわかります。
 続いて、二条家について冷泉家と同じことをしてみることにします。二条家における
「百人一首五歌」とは、次の5人の歌人です。忠岑以外はすべて別の歌人です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        二条家: 忠岑 人麻呂 仲麻呂 喜撰 定家
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 二条家の五歌は、次のような歌です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      30.有明のつれなくみえしわかれより
              暁ばかり憂きものはなし       忠岑
       3.あしひきの山鳥の尾のしだり尾の
              ながながし夜をひとりかも寝む   人麻呂
       7.あまの原ふりさけ見れば春日なる
              みかさの山にいでし月かも     仲麻呂
       8.わが庵は都のたつみしかぞ住む
              世をうじ山と人はいふなり      喜撰
      97.こぬ人をまつほの浦の夕なぎに
              焼くや藻塩の身もこがれつつ     定家
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これらの五歌はもちろん百人秀歌にもあります。それぞれ歌番号を合計してみましょ
う。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       ≪百人一首≫
        忠岑 人麻呂 仲麻呂  喜撰 定家
        30 + 3 + 7 + 8+97 = 145
       ≪百人秀歌≫
        忠岑 人麻呂 仲麻呂  喜撰  定家
        24 + 3 + 6 +14+100= 147
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 今度は一致しません。しかし、「147」については、「俊成三十六人歌合」におけ
る猿丸大夫の3歌の全体の通し番号と左格の通し番号を加えると「147」になるので
す。しかし、145については何を意味するのかわかっていません。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      「俊成三十六人歌合」
       全体の通し番号     左格の通し番号
       (31+32+33)+(16+17+18)=147
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 以上の分析ではっきりしてくることは、これら4つの歌集の歌の順番や歌の数、その
歌番号には何か大きな秘密が隠されていることについては、わかっていただけたと思い
ます。百人一首のテーマはまだ続きますが、その第1部は明日で終わります。
                          ・・・ [百人一首/14]

2007年01月15日

番号が移動していない11首(EJ第1284号)

 12月20日(水)から、14回にわたって百人一首の謎の解明に取り組んできまし
たが、本日でその第1部は終了します。そして、しばらくしてから、続きをやりたいと
考えています。最終結論は実に驚くべき結果になります。百人一首については、図書館
の本も含めてほとんどの本を手に入れており、それらを総動員して謎の解明に取り組ん
でおります。
 古今伝授が示唆した「百人一首の五歌」は、「百人秀歌」にはすべて入っています。
しかし、百人秀歌は百人一首の歌をほとんど取り込んでいますが、その順番は大きく変
動しており同じ歌でも歌番号はそれぞれ違うのです。冷泉家の場合、それでいながら、
なぜ、5首の合計が一致するのでしょうか。
 もし、数を一致させる作業が百人一首と百人秀歌が作られた後で行われたとしたら、
数を一致させようとすると、かなり面倒な作業になります。しかし、最初から百人一首
と百人秀歌が一体のものとして作られているとしたら、その作業は容易です。百人秀歌
の番号の順番が大きく変わっているのは、そのためではないでしょうか。
 それはさておき、そのように歌番号が変化している百人秀歌において、ぜんぜん歌番
号が移動していない歌が、11首あるのです。ほとんどの歌が移動しているのに、移動
していない歌がある――それだけできわめて暗示的です。「移動しない」ことによって、
後世に何かを伝えたい――そういう意図があるのではないでしょうか。その11首をご
紹介しましょう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       1.秋の田のかりほの庵の苫をあらみ
                わが衣手は露に濡れつつ ・・・・ 秋
       2.春過ぎて夏来にけらし白妙の
                衣干すてふ天の香具山 ・・・・・ 夏
       3.あしびきの山鳥の尾のしだり尾の
                ながながし夜をひとりかも寝む ・ 秋
       4.田子の浦にうちいでてみれば白妙の
                富士の高嶺に雪は降りつつ ・・・ 冬
      19.難波潟みじかき葦のふしの間も
               「逢はで」この夜を過ごしてよとや
      20.わびぬれば今はたおなじ難波なる
               みをつくしても「逢はむとぞ思ふ」
      32.山川に風のかけたるしがらみは
               流れも「あへぬ」紅葉なりけり
      44.「逢ふことの絶えて」しなくばなかなかに
               人をも身をもうらみざらまし
      77.瀬をはやみ岩にせかるる滝川の
               われても末に「逢はむとぞ思ふ」
      84.「ながらえばまたこのころやしのばれ」む
               うしと見し世ぞ今は悲しき
      85.「夜もすがら物思うころは」明けやらぬ
               閨のひまさへつれなかりけり
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これら11首は、最初の4首とそれ以外の7首に分けることができます。最初の4首
は季節を詠んでいる歌であり、残りの7首は「心情」を詠んでいる――すなわち、恋心
の移り変わるさまを詠んでいるのです。
 恋の心情を詠んだ7首については、それぞれ解説本を参照して確かめていただきたい
のですが、一言でいうと「片想いの心情」を詠んでいる歌といえます。
 ところで、百人一首には「逢う」という言葉を詠み込んだ歌があと3首あるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      43.「逢ひみての後」の心にくらぶれば
               むかしは物を思はざりけり
      56.あらざらむこの世のほかの思ひ出に
               今ひとたびの「逢う」こともがな
      57.「めぐり逢ひて」見しやそれともわかぬ間に
               雲がくれにし夜半の月かな
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これらの3首は先の移動しない11首中の7首が「逢いたい」「逢えぬ」「逢うこと
が絶える」「生きていれば逢える」というように、逢いたいが逢えない心情を歌ってい
るのに対し、上記3首は、「逢った後の」「逢う」「めぐり逢う」など、逢ったあとの
心情を詠んでいます。明らかに違うのです。
 万葉集などを見ると、恋の歌には次の2つがあるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          1.不逢帰恋 → 逢わずしてかえる恋
          2.逢後別恋 → 逢ってのち別れる恋
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このように分類すると、移動しない11首のうちの7首は明らかに「不逢帰恋」であ
り、移動している3首は「逢後別恋」ということになります。とても偶然とは思えず、
定家は明らかにていねいに歌を選り分けているのです。
 百人一首の歌の意味の分析については、多くの学者や研究家が挑戦しています。中で
も百人一首の成立論において新説を発表している織田正吉氏の研究は、実にユニークで
す。織田氏は、百人一首の歌は共通する言葉によっていくつかの歌群に分かれるが、そ
れらは、最終的にはすべてつながり合ってしまうと述べているのです。これらの歌群の
ひとつに「逢う」の歌群があるのです。
 こぼれ話ですが、百人一首をテーマとして取り上げようとしたとき、実は最初に探し
たのはこの織田氏の本なのです。しかし、なかなか見つからず、結局、梅木氏の協力に
より、練馬図書館から借りてもらったのです。しかし、百人一首には、その織田氏でも
気がついていない驚くべき秘密が隠されているのです。以上で百人一首の第1部は終り
です。                       ・・・ [百人一首/15]

織田正吉氏の本.jpg

カレンダー