INTEC JAPAN/BLOG

このブログは、異文化研修の教育機関(株)インテック・ジャパンの情報発信用です。(株)イー・メディアとの提携により、同社のドキュメント・レポート「Electronic Journal」をウィークデイの毎日お届けします。
「Electronic Journal」は様々な情報を400字詰原稿用紙7枚にまとめて配信する日刊メールマガジンです。

トップ カテゴリー:アポロ計画

2006年11月07日

人類月着陸はやはり捏造である(EJ第1390号)

 副島隆彦氏といえば、今やベストセラー書籍『預金封鎖』(祥伝社刊)の著者として
有名です。日米の政財界・シンクタンクなどに独自の情報源を持ち、鋭い評論で知られ
る人であり、EJでも何度もご紹介しています。
 この副島隆彦氏には、次の著作があります。今までの彼の著作を知っている人には、
少し意外と思われるはずです。
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           副島隆彦著、『英文法の謎を解く』
                     ちくま新書刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 調べて見ると、この本は30万部以上のベストセラーになっているのです。副島とい
う人は、何でもベストセラーにしてしまう凄い人です。
 さて、2004年6月30日に、この副島隆彦氏がまたまた意外な本を出版したので
す。
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        副島隆彦著、
        『人類の月面着陸は無かったろう論』(徳間書店刊)
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 『緊急指令!!これマジ!?/アポロは本当に月に行ったのか』の再現です。300ペ
ージを越す大書ですが、早速購入して読んでみました。しかし、期待した割にあまり新
発見はない――これが私の印象です。しかし、分析は鋭いと考えます。
 EJでは2002年10月15日の第966号から、同年10月30日の第977ま
で、この問題を取り上げていますが、結論は先送りしています。
 EJ第966号では次のような前置きがあって、この連載がはじめられています。再
現しておきます。
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       謎はたくさんあります。これからひとつずつ検証していきま
      すが、調べれば調べるほど「行っていない」という結論に導か
      れてしまうと思います。
       そこで、現時点での私の結論を最初に明らかにしておきたい
      と思います。結論は「行っている」と考えます。その理由は、
      月面に置いてきたとされるレーザー光反射装置を使って今でも
      月と地球の距離を正確に測定できるからです。
          ――2002年10月15日付、EJ第966号より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 現在、株式会社イー・メディアには、このテーマに関わる書籍と情報はほとんどすべ
てあります。そこで、副島氏の考え方を中心にもう一度この問題の検証をやってみよう
と思います。何しろ副島氏ほどの人が「人類の月面着陸は無かったろう」と考えている
のですから、再度検証する価値はあると思います。
 副島氏は、この本の冒頭に次のように書いています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       私は「アポロ計画」自体が無かったとは言っていない。
       アポロ計画は実際に有ったし、今も月面には何機かのアメリ
      カ製の月ロケットが軟着陸に失敗して地表に激突した痕跡が残
      っているはずである。従って、私は「アポロは月に行っていな
      い」という不正確な書き方はしない。アポロという名のロケッ
      ト(ただし、すべて無人)の残骸はあるのだ。だが、人間(人
      類)は、月には降り立っていない。そんなことは無理なのだ。
                     ――副島隆彦氏の前掲書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 なぜ、副島氏がこういうことを本のまえがきに書いたのかというと、月に置かれてい
るとされるレーザー光反射装置の存在を否定できないからです。これについては、あと
からじっくりと書くことにします。
 もし、副島氏の説――人類の月面着陸は無かったろう論に立つと、あの月面での宇宙
飛行士たちの映像は、すべてヤラセということになります。それでは、あの映像は誰が
どこで撮影したものなのでしょうか。
 副島氏はその作者は、スタンリー・キューブリック監督であると名指ししています。
スタンリー・キューブリック監督といえばあの映画『2001年宇宙の旅』の監督です
ちなみに、この映画が製作・上映されたのは1968年のことで、月着陸に成功したと
されるアポロ11号の打ち上げの1年前なのです。
 確かに時期的にはぴったりなのですが、衝撃的なのはキューブリック監督夫人である
クリスチャン・キューブリックがはっきりと次のように証言していることです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      人類月面着陸は、夫キューブリック監督も関係した捏造である。
                  ――クリスチャン・キューブリック
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この証言は、2003年12月31日の夜9時にテレビ朝日で放映された「ビート
たけしの世界はこうしてダマされた!?」の中で飛び出したのです。この番組は私自身も
見ましたし、確かにそういう証言があったことは確かです。
 その証言はもう少し詳しくいうと、次のようなものなのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       夫の遺品の書類の中から、NASAのトップ・シークレット
      の書類が出てきて、それによると、夫が月面着陸の2人の飛行
      士の様子を1969年にロンドンの撮影所で撮ることを米国政
      府に要請されて実行した。――クリスチャン・キューブリック
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここでいうロンドンのスタジオとは、シェパートン撮影所なのです。キューブリック
は、その後殺害されることを恐れてか、生涯飛行機には乗らず、亡くなるまでロンドン
を出なかったといわれているのです。       ・・・ [アポロ計画/001]

副島隆彦氏の新刊書.jpg

2006年11月08日

『月の雑学』のウラにはNASAがいる(EJ第1391号)

 かつてEJで人類の月着陸疑惑について書いたとき、参考になったサイトは次の「月
の雑学」のサイトです。URLを書いておきます。
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        http://moon.jaxa.jp/ja/popular/story03/index.html
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 このサイトは、「アポロは月に行っていない!?」と題してその数々の疑惑に対し、
「疑惑」「真実」に整理して答えているのです。私の結論にも大きな影響を与えたサイ
トです。
 ところが、このサイトは副島氏の言によると、NASAが関与していると指摘してい
るのです。確かにURLをよく見ると、NASDAという文字があるのです。NASD
Aとは、宇宙開発事業団――現JAXA(ジャクサ)の前身です。
 このサイトは疑惑のひとつ一つに対してある意味では異常な丁寧さで答えています。
まるで疑惑に対するいい訳サイトを意図しているようです。
 世界中に巻き起こっているアポロ疑惑に対して、NASAは当然いろいろな手を打っ
ているはずです。そのひとつがこの「月の雑学」のサイトであるというのです。もう
少し正確にいうと、「月の雑学」のサイトは、JAXAが出している次の「月探査情報
ステーション」の中の数あるサイトのひとつなのです。
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          http://moon.jaxa.jp/ja/index_fl.shtml
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 しかし、「月の雑学」はJAXAが作ったものではなく、次のサイトを翻訳したもの
なのです。あからさまにNASAとは明かしていないものの、実際はNASAと副島氏
は見ています。
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       http://www.badastronomy.com/bad/tv/foxapollo.html
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 ロケットのテーマのときに述べた通り、対米一辺倒のJAXAはNASAには頭が上
がらないのです。したがって、NASAにアポロ疑惑封じを依頼されれば、必ずやるで
しょう。
 「月の雑学」のサイトにおけるやり取りに次のようなものがあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      ≪疑惑≫
       日本が2005年に打ち上げる月探査衛星「セレーネ」な
       ら、アポロの着陸船や月面車、旗などが月面に残っている
       かどうか見つけられるはず。
      ≪真実≫
       可能性があるとすれば、月面の朝(夜明け直後)または、
       夕方(日の入り寸前)に撮影することです。そうすると、
       長く伸びた影を捉えることができて、そこに少なくとも物
       体があることはわかるはずです。ただこれでも、岩とアポ
       ロ着陸船の残骸を区別することは、おそらく極めて難しい
       でしょう。
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 ≪真実≫の記述はもっと長いのです。セレーネのカメラの解像度について詳しく説明
し、アポロ着陸船の大きさと比較しそれが点にしか見えないことを強調して、上記の記
述につないでいるのです。その書き方も可能性のあることを匂わせながら、結局はでき
ないというところへ結論を持ってきているのです。
 月への着陸に成功したアポロ宇宙船は、次の6つであり、その着陸地点は次の通りで
す。
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       アポロ11号 ・・・・・ 静かの海
       アポロ12号 ・・・・・ 嵐の大洋
       アポロ14号 ・・・・・ フラマウロの丘陵
       アポロ15号 ・・・・・ ハドリー峡谷・アペニン山脈
       アポロ16号 ・・・・・ デカルト高地
       アポロ17号 ・・・・・ タウロス・リトロー峡谷
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 月にこれだけ行っているのであるから、着陸船の土台部分や月面走行車や機材の残骸
が今もそれぞれの場所に残されているはずである――それを高性能なハッブル宇宙望遠
鏡で写せ――副島氏はこのように主張しているのです。
 ハッブル宇宙望遠鏡というのは、高度約600キロメートルの軌道を回る、直径2.
4メートルの反射望遠鏡です。副島氏は、それを使って月面を精密に写して見せて欲し
いといっているのです。疑惑を晴らすには、サイトなどでゴチャゴチャ長い文章を書く
よりもよほど効果的のはずですが、NASAは「できない」の一点張りです。
 ハッブル宇宙望遠鏡は0.05秒角の世界最高の分解能を持っているのですが、それ
では月面の幅90メートルのものを見るのがやっとである――JAXA関係者はこうい
う見解なのです。分解能というのは、こまかいところまで見る能力です。
 これに対して副島氏は、スパイ衛星の精度を持ち出して、次のように反論しているの
です。
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       実におかしな話である。地球の表面を現在のスパイ衛星では
      直径5センチメートルもの(タバコの箱大)まで識別できる。
      それぐらい合成開口レーダーに搭載する光学技術は進歩してい
      る。それなのに、月面の残留人工物は絶対に写せない、写らな
      いのですの一点張りである。月面には大気がないのだから透明
      だから、もっとキレイに写る。どうして「写せない」とばかり
      言うのか。写せ。そして全世界に公開せよ。
       ――副島隆彦著、『人類の月面着陸は無かったろう論』より
                           (徳間書店刊)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
                    ・・・ [アポロ計画/002]

SELENE/セレーネ.jpg

2006年11月09日

宇宙開発技術は逆戻りしている(EJ第1392号)

 ごく常識的に考えてみたいと思います。そもそもアポロ計画は1967年1月27日
のアポロ1号から、1972年12月7日のアポロ17号まで、まるで何かにとりつか
れたように月を目指し、1969年のアポロ11号から13号をのぞく17号までの6
回にわたり月着陸を成功させて、その後実に35年間、月に行くことをぴたりとやめて
しまっています。
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              打 上   帰還      特 色
      アポロ11号 1969. 7.16 〜 7.24 ・・ 人類初の月着陸
      アポロ12号 1969.11.14 〜11.24 ・・ 観測機器を設置
      アポロ14号 1971. 1.31 〜 2. 9  ・・ フラマウロ高地
      アポロ15号 1971. 7.26 〜 8. 7  ・・ 月面移動車使用
      アポロ16号 1972. 4.16 〜 4.27  ・・ デカルト高地着
      アポロ17号 1972.12. 7 〜12.19  ・・ 最長月滞在期間
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 1962年2回、1971年2回、1972年2回というように年に2回月に行って
いるのです。これは、かなり異常なことといえます。1970年がないのは、アポロ1
3号が宇宙で爆発を起こしたためと思われます。
 1969年〜72年に、月に行って地球に無事に戻る技術を有していたとすれば、そ
れから35年も経てば宇宙開発に関しては、相当高度なことができてもおかしくないは
ずです。しかし、現在の米国の宇宙開発技術はもちろん世界最高ではあるものの、人類
の月着陸をぜんぜん超えていないのです。これは不思議なことであると思いませんか。
 アポロ11号が月着陸に成功したとき、世界中の人は米国の凄さに驚嘆したと思いま
す。 「やはりアメリカは凄いとても勝てない」と。とくに当時は一般の人にとって、
「コンピュータ」は遠い存在であり、「何でもできる神秘的なほど凄いマシン」という
イメージが強かった時代です。
 そのため、人類の月着陸にしても、コンピュータの力であんな凄いことができたのだ
と納得していたと思うのです。しかし、現代ではほとんどの家にコンピュータがあり、
それだけに多くの人がコンピュータの限界を知っています。つまりコンピュータという
ものを神秘的なマシンと見ず現実的なマシンとして見るようになっています。
 そのため、1969年のコンピュータで果たして月着陸のようなことができるのかと
いう素朴な疑問が出てきたと思うのです。35年という年月が経過して、はじめてそう
いう疑問が湧いてきたのです。それが「アポロ疑惑」ではないでしょうか。
 2003年2月1日に地上への帰還途中にスペースシャトルのコロンビアが爆発事故
を起こしていますが、スペースシャトルは宇宙といっても地上250〜400キロメー
トルを周回しているに過ぎないのです。それを35年も繰り返してきてまだ、その帰還
途中に事故を起こしているのです。人類の月着陸に比べればきわめて初歩的なミスとい
えます。
 月までには、24マイル=38万キロメートルも離れているのです。そんな遠いとこ
ろに生身の人間を運んで、そして、月面という真空の恐ろしいところで歩かせるなどし
てそれから発射台も司令塔もないのに、再発射して地球に無事帰還させる――そんな凄
いことを35年も前にやって6回も成功させているのです。あまりにもアンバランスだ
とは思いませんか。
 副島隆彦氏は、スペースシャトルについて次のようにいっております。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       スペースシャトル計画は、華々しく、1981年4月の「コ
      ロンビア号」の成功から始まった。ところが、スペースシャト
      ルというのは、何をやっている計画なのかがはっきりしない。
      地球の周りをぐるぐる回る以外のことをスペースシャトルとい
      うのは、やらない。ぐるぐる回ることが、そんなにすごいこと
      なのか。その最中に船内でいろいろの「無重量状態での実験」
      をすること以外に何があるのか。こうやって有人で地球をぐる
      ぐる回るだけでこの35年が過ぎたのだと言える。皆が夢見た
      あの月旅行は一体どうなった?
      ――副島隆彦著、『人類の月面着陸は無かったろう論』より。
                           (徳間書店刊)
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 先ほど「月面という真空の恐ろしいところ」という表現を使いました。一般人は真空
の場所で人間が生きるには、口に酸素マスクをあてて呼吸すればよいと簡単に考えてい
ます。しかし、人間は100%の酸素があっても生きられないのです。それだけでは呼
吸ができないからです。呼吸をするには気圧が必要なのです。
 呼吸というのは、肺の中にある肺胞の膜を酸素が通過して血液の中に溶け込んでいく
現象のことをいうのです。この場合、酸素に圧力がかかっていないと、酸素は肺胞の膜
を通過できないのです。だから、気圧が必要なのです。
 高度1万メートルまでの対流圏までは、大気の組成は一定ですが、高度が高くなるに
つれて空気の密度は減少し、気圧が低下します。気圧が低下すると、体内に吸収される
酸素が減少するので酸素不足の現象が起きるのです。
 気圧が48ミリHGまで下がると、体液が体温で沸騰点に達してしまい、体内の水分
が水蒸気になってしまうのです。そうなると、体内にガスが充満し、口、鼻などからガ
スが吹き出し、全身が風船玉のようになって死んでしまいます。
 したがって、宇宙船は約260ミリHGの気圧が保たれている必要があり、100%
の酸素を宇宙飛行士に呼吸させるような設計が必要になるのです。月にまで行って戻っ
てくるには、もっと気圧を上げる必要がありますが、そのためには宇宙船の外被を厚く
しなければならないのです。これは、宇宙船をできるだけ軽くするという設計に反する
ことになります。宇宙船ひとつとっても月に行くということはこんなに大変なことなの
です。・・・ [アポロ計画/003]

2006年11月10日

月への軟着陸は現在でもできない!?(EJ第1393号)

 副島隆彦氏は、人類の月着陸が現在の技術をもってしても困難である理由のひとつと
して、月面へのロケットの軟着陸の困難さを上げています。
 2003年2月1日にスペースシャトル・コロンビアが地球に帰還中に爆発炎上して
いますが、コロンビアは地表から約100メートルの高度から、大気圏に突入してその
あと地表62キロメートルのところで爆発しているのです。
 このときの落下速度は、時速2万2000キロメートルの猛スピード(マッハ18/
秒速6キロメートル)であり、スペースシャトルは、文字通り全身火だるまになって落
ちてくるのです。そのため、スペースシャトル全体を覆っているゼリー状の温度冷却物
質を溶かしながら船体の温度が上昇することを防ぎながら落下するわけです。生易しい
ものではないのです。
 これは、地上に降りる場合ですが、月に降りるのはもっと困難なのです。惑星を軌道
周回するときの速度から減速して、着陸船を垂直に着陸させるといいますが、そんなこ
とはとうてい無理な話なのです。
 何しろ着陸船は、月の地表からの高度100キロメートルぐらいの軌道上から、時速
7000キロメートル(マッハ6/秒速2キロメートル)の猛スピードで落下してくる
のです。その着陸船に、横方向から慣性減速を与えて姿勢を制御する装置は現在でも開
発されていないのです。それなのに、アポロ計画ではどのようにしてそれを克服できた
のでしょうか。まして月は真空であって摩擦、つまり空気抵抗がぜんぜんないのです。
それをどのようにして減速したのかについて何も明らかになっていないのです。
 一般人のイメージでは、着陸船が逆噴射をしながら少しずつ噴射口からの推進エネル
ギーを落として、月面に静かに着陸するというように考えます。そのような映像をわれ
われは見せられていますが、そういう芸当は「鉄腕アトム」の世界の中でしかできない
ことなのです。
 仮に月面に軟着陸できたとしてもです。その月面から着陸船を再発射し、月の周回軌
道上で待つ司令船とドッキングするという大仕事があるのです。それは、月面への軟着
陸よりも、はるかに難しい大変なことをしなければならないのです。それをどこからコ
ントロールしたのでしょうか。
 NASAによると、はるかかなたの地球のテキサス州ヒューストンの司令室から、電
波による遠隔操作によってやったとしているのです。あなたは信じられますか。
 2002年10月30日付のEJ第977号からの再現ですが、アポロ11号の月着
陸船「イーグル」とヒューストンで次の会話をかわしていることが記録に残っています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      ヒューストン:調子はどうだ。
      イーグル  :とてもいいよ。そちらはどうだい。
      ヒューストン:とってもいい。
      イーグル  :2000フィート。いよいよ、クライマックス
             だ。イーグルはすばらしいよ。
      ヒューストン:受像している。ゴー
      イーグル  :750フィート。540フィート。
             高度、風速よし。 220、200、100、
             80、85、40・・・
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このヒューストンとの会話はかなり怪しいです。初めての体験なのに、妙にリラック
スして、のんびりムードです。それに「風速よし」といっていますが、空気のない月に
風速があるはずがないではありませんか。
 資料を探していくと、次のような交信記録もあるのです。こういう交信が本当にあっ
たとした場合、こちらの方が、信憑性があるように思います。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      イーグル  :540フィート、30で降下、10で降下、
             400フィート、9で降下、前進、350フィ
             ート、4で降下、・・・(中略)
      ヒューストン:60秒
      イーグル  :ライトがついた。2.5で降下。
             前進、前進40、2.5で降下、ちりが舞い上
             がっている。(中略)
      ヒューストン:30秒
      イーグル  :コンタクト・ライト!OK。エンジン・ストッ
             プ。自動上昇システム。姿勢制御両方OK。
             降下用エンジン手動オフ。エンジンアーム・オ
             フ。413イン
      ヒューストン:了解、イーグル
      イーグル  :ヒューストン、こちら静かの海基地。イーグル
             は着陸した。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この交信で飛行士(アームストロング船長)がいう「30で降下」とは「秒速30フ
ィートで降下」というイーグルの速度をあらわしています。これに対して、ヒュース
トンのいっている、「60秒」とか「30秒」というのは、イーグルの燃料の残りを示
しています。
 しかし、実際にこんな交信があったかどうは、まったく不明です。それにしても「秒
速30フィートで降下」とは、秒速9.2メートルで降下という意味であり、非常にス
ローです。既に述べたように、月面から100キロメートルの高度から降りると、秒速
2キロメートルという猛スピードになるのです。こんな悠長な交信などできないはずで
す。
 月面への軟着陸など、現在の技術をもってしてもできるはずがない――この副島隆彦
氏の指摘に対して、NASAはどのように答えるのでしょうか。 
                      ・・・ [アポロ計画/004]

月着陸船「イーグル」.jpg

2006年11月13日

副島隆彦VS肯定派の論争(EJ第1394号)

 副島隆彦氏が「人類の月面着陸は無かったろう論」を書いたのは、2003年4月2
9日付の副島氏の公式サイト「学問道場」<今日のぼやき>においてです。副島氏のサ
イトをご紹介しておきましょう。
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      副島の「学問道場」    http://soejima.to/
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 それからというものこの議論は異常に盛り上がって、遂に本の刊行という運びになっ
たのです。世界中に巻き起こっているこの疑惑に対してNASAは軍事機密であるとし
て、正式には答えていないのです。
 その代わり、NASAに関連がある団体が「月の雑学」というサイトを立ち上げ、指
摘されている疑惑に対して、ひとつずつていねいに答えるなどして、必死に対応してい
ます。
 また、日本でのアポロ疑惑に火をつけたテレビ朝日の『緊急指令!!これマジ!?/ア
ポロは本当に月に行ったのか』に対してもさまざまな圧力をかけて以後の放映を中止さ
せるなど、疑惑の火消しに必死なのです。
 副島氏の「学問道場」に対しても賛成論や批判論など、非常に多くの書き込みがある
ようですが、批判論については名前こそ伏せているものの、とても個人の書き込みとは
思えない精緻な記述の反論が多いのです。何か特別の任務を帯びて、プロとして反論を
しているように思えるのです。そのひとつをご紹介しておくことにします。
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       はじめてメールします。フランスのコートダジュール観測所
      で行われている月と地球の距離を測る実験で、アポロ計画で月
      の表面に残された反射鏡が使われているそうです。この実験に
      より、月と地球の距離が数センチメートル単位で測定すること
      ができるそうです。リンク先にはネット上で見つけた、この観
      測所の研究員による論文の要約があります。(アドレスが掲載
      されているものの、アクセスするとエラーになる/平野注)
       この実験は、地球と月の距離を測るというある種単純な興味
      から、一般相対論による重力誤差を測定するという理論的な問
      題まで、さまざまな用途があるようです。これで月の上にある
      反射鏡の存在は確認できます。(一部略)
       副島氏はこのような科学的な研究の積み重ねをも無視するの
      でしょうか。日頃の「科学」へのコミットメントはどうしたの
      でしょうか。今回の件は正直がっかりしました。
           投稿者/Bread’n’butter/2003.05.05
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 どうでしょうか。副島氏の一番痛いところを衝いていると思います。しかしこれに対
する副島氏の反論は、いささか感情的であり、反論にはなっていないと思います。副島
氏の反論は非常に長いのですが、そのほんの一部だけをご紹介しておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       このレーザー反射鏡式の距離測定用の目印の存在だけを、私
      副島隆彦の「人類の月面着陸は無かったろう論」への反証とし
      て鬼の首を取ったように言い募っている連中がいる。愚か者た
      ちよ。君たちは何をそんなに怯えているのだ?
       何か隠さなければならない重大なことでもあるのか?君たち
      のほうが本当は私よりも、ずっと早くから「NASAの人類の
      月着陸の捏造=大犯罪」を知っていたのではないですか。
                      ――副島隆彦氏の本より。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 副島氏は、投稿者/ブレドンバター氏が何者であるか、サイトを逆にたどって調査し
ています。その結果、このブレドンバターなる日本人は米国に居住していて、テキサス
州のある都市にいるらしいことがわかっています。もし、ヒューストンであるとすれば
この人がどういう職業の人であるかが、見当がつきます。
 このブレドンバターなる人物は、副島氏が反論に対する反論を送った同じ日にまた反
論を入れてきています。その一部を紹介しておきます。
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       副島さん、再びこんにちは。数学で「存在証明」つまり、あ
      る解が存在するという証明は、その条件を満たす解をひとつ挙
      げればよい。
       ですから、人類が月に行く技術を持っているという証拠は、
      反射鏡という精緻な機器が月上に残されているということを証
      明すれば足りる。後は、どんなに月着陸が「ありそうもない」
      という状況証拠を重ねても、この存在証明が揺るがなければ月
      着陸はあったと考えたほうがいい。
           投稿者/Bread’n’butter/2003.05.05
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 この人物がNASAの関係者であるとすると、アポロ疑惑に対する唯一の反証として
反射鏡の存在で対抗しようとしていることがわかります。これに対する副島氏の反論で
す。副島さん、かなり、怒っています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       「無かったことの証明」というのはできない、というよりも
      しなくていいのです。それよりもまず、「有ったことの証明」
      をしなければならないのです。月面着陸は有ったと主張する者
      たちこそ、まず証明責任はあるのです。(一部略)
       「一点を反証したら、科学になるのどうの」という幼稚なこ
      とを、この、私、副島隆彦に向かって言うな。ファイアアーベ
      ントや、トマス・クーンらいわゆる科学哲学者たちが展開した
      反証可能性の問題は、君らよりも私の方がずっとよく知ってい
      る。いちいちふざけたことを、この日本の碩学の私に向かって
      説くな。          ――――副島隆彦氏の本より。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
                        ・・・ [アポロ計画/005]

反射鏡.jpg

2006年11月14日

EORかLORかの選択(EJ第1395号)

 アポロの有人月着陸計画は本当にあったのか――副島隆彦氏とそれがあったとする肯
定派との論争は、いわば水掛け論になっています。副島氏も、かなり乱暴な指摘をして
いるところがあることは否めないし、肯定派も副島氏の主張に十分には反論できていな
い――私はそう考えます。
 「ああいえば上祐」というのが一時流行しましたが、ああいう論争になっているので
す。これではどこまくでいっても水掛け論になります。副島氏は「もう一度月に行って
こい」といっていますが、確かに反論サイトを作ったりメールでゴチャゴチャ攻撃など
せず、もう一度やって見せれば、世界中納得するのではないでしょうか。再現性のない
ものは科学とはいえないからです。
 既にロケットの話のときに述べましたが、2004年1月4日に米ブッシュ大統領は
、宇宙開発計画に関して次のことを発表しています。再現しておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      1.2010年までにISS(国際宇宙ステーション)を完成
        させる。ISS完成後スペースシャトルを引退させる。
      2.新しい宇宙船として深宇宙探査可能なCEVを2008年
        までに開発し、2014年までに有人飛行を実施する。
      3.2020年までに月有人長期滞在を実現し、月を基地とし
        て火星に有人探査、それ以遠には無人探査を実施する。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 最近米国は月よりもはるかに遠い火星や木星などに世界の人々の関心を向けさせよう
としているように感じます。月の有人探査ではなく、火星の有人探査をいい出していま
す。それにしても、2020年に月有人長期滞在をするとは、まるで35年前のアポロ
計画がなかったような話です。
 世界的な規模でアポロ計画が疑われているのですから、ここでもう一回35年ぶりに
月に人を送り込み、それらの人々を無事に地球に戻せば疑惑はすっきりしますNASA
はなぜやらないのでしょうか。それともできないのでしょうか。
 さて、不毛の水掛け論争をしないために、ここで検証すべきは次のことに尽きると思
うのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      1969年当時において、人類が月に行って月面に降り立ち、
      再び無事に地球に戻ってくる技術があったのかなかったのか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 EJでは今週からこのテーマを検証していきたいと思います。そのためにはもっとア
ポロ計画の内容について、具体的な知識を持っている必要があると思います。
 どのようにして月に行くのか――これに対して次の3つの方法が検討されていたので
す。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        1.新ロケットによる直接方式
        2.地 球軌道ランデヴー方式 ・・・・・ EOR
        3.月  軌道ランデヴー方式 ・・・・・ LOR
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「新ロケットによる直接方式」というのは地上から月まで直接飛んで行く方式です。
当時は「サターンVロケット」の開発が進められていたのですが、この直接方式では、
少なくともサターンVの2倍ぐらいのパワーを持つロケットが必要だったのです。ちな
みに、このロケットは「ノヴァ」と呼ばれておりその第1段目に1つのチャンバー(燃
料室)で680トンの推力を有する、F−1エンジンが使われる予定だったのです。
 「地球軌道ランデヴー方式」(以下、EOR)というのはサターンVロケットを2機
打ち上げて、地球を回る軌道上で出会わせるのです。仮にA機とB機にしましょう。
A機は、宇宙船を月に運んで帰還させるのですが、地球からの打ち上げのさいに燃料を
使い果たすので、B機がタンカーとなって燃料を運び、それをA機のタンクに充填する
という方式です。
 「月軌道ランデヴー方式」(以下、LOR)というのは、着陸船を月の周回軌道に運
び、着陸船のみを月に降ろし司令船は月軌道に待機するという方法です。「新ロケット
による直接方式」もEORも、地球帰還に用いるロケットとカプセルを月に降ろす方式
ですが、LORは、着陸船だけを月に降ろすので、燃料を大幅に節約できるというメリ
ットがあるのです。
 しかし、「月軌道ランデヴー方式」は、月に行く途中で着陸船を切り離して逆向きに
ドッキングし、さらに月の周回軌道に入ってから再び着陸船を切り離し、それを月面に
降ろしたあと、帰るときにまた司令船とドッキングするなど、ミッションが複雑である
という欠陥があるのです。
 それに、これらのほとんどが地球局から見えない月の向こう側で行われるので、コン
ピュータに大幅に依存することになるのですが、当時のコンピュータの能力では不安が
あったのです。
 EORかLORか――結局はこの2つの方式に絞られて、激しい議論が行われたので
す。しかし、不安であったコンピュータがIBMによる劇的なコンピュータの進歩によ
って、性能が飛躍的にアップしたこと、それに、1961年10月27日に開発中のサ
ターンⅠロケットが成功裏に打ち上げられたことによって、結局はLORが採用される
ことになったのです。
 1962年7月11日――NASAは正式にLORを採用することにして発表が行わ
れたのです。そして、幻のロケット「ノヴァ」に搭載される予定であったF−1エンジ
ンは、サターンVの一段目エンジンとして採用されます。そして、1962年末には月
飛行のコンセプトは、ほぼ内容が固まり、NASAの月への挑戦がはじまったの
です。                          ・・・ [アポロ計画/006]

アポロ計画マネージャ会議.jpg

2006年11月15日

どのようにして月に行くか(EJ第1396号)

 どのようにして月に行って戻るか――その方式がLORに決定したことについては昨
日のEJで述べています。EORとLORは、次のことばの略です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
         EOR ・・・ Earth-Orbit Rendezvous
         LOR ・・・ Luna -Orbit Rendezvous
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 アポロ計画で使われたロケットは「サターン」という名前が付いています。サターン
には次の3種類があり、月飛行には「V」が使われたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
               全長     重量   地球軌道運搬能力
     サターンⅠ   57.8m   528t     10t
     サターンⅠB  68.3m   590t     17t
     サターンV  110.6m  2900t    129t
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このうち「サターンⅠ」と「サターンⅠB」は、月へ何かを運ぶことを想定していま
せんが、「サターンV」については、月に45トンのものを運べる能力を有していたの
です。
 サターンVは3段式ロケットですがその3段目の先端に位置するのが、いわゆる「ア
ポロ宇宙船」であり、次の3つの部分から成っています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        1.司令船 コマンド・モジュール ・・・ CM
        2.機械船 サービス・モジュール ・・・ SM
        3.着陸船 ルナー ・モジュール ・・・ LM
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 CM/司令船には、3人の飛行士が乗り、誘導・制御・航法用機器、姿勢制御スラス
ター、出入口および船外活動用ハッチ、先端にはドッキングボード、パラシュートが装
備されています。
 SM/機械船には、月に向かう遷移軌道における推進システム姿勢制御システム、電
力供給用の燃料電池とその燃料、飛行士たちの酸素や水その他サブシステムが積まれて
います。
 LM/着陸船には、降下用エンジンとその燃料および4本の脚を持つ着陸用の下半分
と、はるかに複雑な上昇用の上半分からできているのです。つまり、降下用の下半分は
上昇するさいの発射台の役割をするのです。
 上昇用のシステムには、エンジンと燃料、飛行士を収容する生命維持装置を付けた加
圧室、出入り口であるハッチ、姿勢制御システム、通信システム、ドッキング用ハッチ
ランデヴー用の機器が積まれているのです。なお、LMにはアポロ宇宙船15、16、
17号では、月面車がコンパクトに畳まれて着陸部分に付けられたのです。
 さて、このシステムでどのように月に行くかです。まず、宇宙船を月への遷移軌道に
乗せるところまでをまとめると、次の5段階になります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
           1.宇宙船を地球周回軌道に乗せる
           2.主要システム最後の総点検実施
           3.ロケット着火/月への遷移軌道
           4.3段目ロケットの切り離し実施
           5.CSMとLMのオペレーション
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 一番大変なのは、実は地上からロケットを発射させて宇宙船を地球周回軌道に乗せる
までなのです。サターンVロケットの第1段と第2段、第3段が順に点火され、打ち上
げ後、約8分30秒で地球周回軌道に達するのです。
 この時点で第3段ロケットはまだ切り離されておらず、残っているのです。宇宙船を
月への遷移軌道に乗せるという重要な役目が残っているからです。
 地球周回軌道に入ったら軌道上で主要システムの最後の総点検を行い、月への遷移軌
道を正確に定めるのです。そして、3段目ロケットに再着火し、6分後に宇宙船を月の
遷移軌道に投入するのです。そのうえで、3段目ロケットを切り離します。分離された
3段目は、制御を失ったまま月に向かい、月面に激突することになります。
 これからCSM――すなわち、司令船と機械船の結合体――と着陸船LMとの間に複
雑なオペレーションが開始されるのです。まずCSMがLMから切り離され、少し前方
に加速し、そこで180度方向転換をして、前からLMとランデヴーし、CMの先端を
LMのドッキング用ハッチに結合します。これで飛行士たちは、CMとLMを自由に往
復でき、居住空間が広がってリラックスできるわけです。こうして飛行士たちは、月へ
の3日間を過ごすことになるのです。
 ここまでの一連のプロセスは、映画『アポロ13』において、すべて見ることができ
ます。ご存知のように、アポロ13号は、1970年4月11日に打ち上げられたので
すが、月までの行程の6分の5を過ぎた13日午後10時に機械船SMの中の酸素タン
クのひとつが爆発し、同時に3個ある燃料電池の2つまでが使えなくなってしまうので
す。つまり酸素と電力という宇宙飛行の生命線がほとんど断ち切られてしまったのです。
 ヒューストン飛行管理センターからの指示にしたがい、月への着陸を断念して、大変
な苦労をして地球に無事に戻るのですが、ロケットの地上からの発射から地球周回軌道
に乗り、月への遷移軌道へ移り、CSMとLMのドッキング、CMとLMの内部の様子
などすべて映画の中で見ることができます。
 私もこの映画を観たうえで、今朝のEJを書いております。今ならDVDの格安価格
で手に入りますので、参考のためぜひご覧いただきたいと思います。もっとも副島隆彦
氏は、この映画をボロクソにけなしてはいますが・・・。  
                     ・・・ [アポロ計画/007]

映画『アポロ13』/DVD.jpg

2006年11月16日

フォン・ブラウンとコロリョフ(EJ第1397号)

 LMとドッキングしたCSMが月に向かい、どのようにして地球に戻るかですが、そ
のステップは次の7段階です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
            6.月周回軌道に到達/LMを分離
            7.2人の飛行士LMで月面に着陸
            8.上昇エンジンでLM月面を離陸
            9.CSMと結合/飛行士CM移動
           10.LM廃棄/地球遷移軌道に乗る
           11.CMとSM分離/CM大気突入
           12.パラシュートの力を借りて着水
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 月の周回軌道に乗ると、LMに2人の飛行士が乗り込んでLMはCSMから分離され
月に向かい、降下用エンジンで減速しながら、月面に着陸します。副島氏は、そのよう
なことは現在の技術をもってしても不可能としていますが、・・・。
 月面活動を終えた2人の飛行士はLMに乗り込み、降下用エンジンを含む着陸船の下
半分を発射台に使って、上昇用エンジンに点火し、軌道で待機しているCSMとランデ
ヴー、ドッキングします。この段階で、飛行士と月面からの採集物――月の石などをは
じめ、必要な機器類をCMに移動します。この重量は最初から厳密に計算されているの
です。
 アポロ13号の場合、月着陸を断念したので、帰還するさいのCMの重量が足りず、
LMからいろいろな機器をCMに積んで指定の重量にするシーンが映画で見ることが
できます。
 そのあと、LMはCSMから分離され、廃棄されます。そしてSMのエンジンが点火
され、CSMは地球に向かう遷移軌道に投入され、一路地球周回軌道を目指すのです。
 そして、地球大気に到達する直前、CMとSMは切り離されCMは大気圏に突入し、
パラシュートの力を借りて減速し、指定の海域に着水する――これがアポロ計画の全プ
ログラムです。
 プログラムとしては完璧です。アポロ計画の詳細を知るには、どうしてもNASA
サイドに立って書かれた書籍を参照するのでここまで精緻に練られた飛行計画を示され
ると、当時の技術で十分実現可能であったのではないかと考えてしまいます。
 しかし、NASAサイドの資料では大きく抜け落ちていることがひとつあります。そ
れは、1958年にジェームズ・ヴァン・アレン博士が発見した「ヴァン・アレン帯」
が月に向かう宇宙飛行士に与える影響についてです。月には、ヴァン・アレン帯を突破
しないと行けないからです。ここを通っても人体に影響を与えない技術を人類は当時も
今も有しているのでしょうか。
 ヴァン・アレン帯については、改めて述べる予定ですが、NASAの記述によると、
この問題をあまりにも軽く考えているところがあり、それもアポロ疑惑が騒がれるよう
になってから、例の「月の雑学」のサイトなどで、「ロケットは超高速で通過するので
問題はない」とまるで問題にしていない説明ぶりです。
 確かに今まで、ヴァン・アレン帯の外に出た宇宙飛行士は27人いるのですが、放射
線の影響とみられる症状を示したのは、アポロ8号の宇宙飛行士、フランク・ボーマン
氏だけなのです。
 また、月面に降り立った宇宙飛行士12人のうち、1998年までに死亡した人はた
ったの1人であり、健康面には何も問題はないのです。もっとも月に行っていないので
あれば、十分納得できる話ではありますが・・・。
 しかし、EJでは、もう少し「人類を宇宙(月)に送り込む」という壮大なるプロジ
ェクトの歴史について、探ってみたいと思います。
 人類による宇宙旅行という壮大な夢を持ち、それを長年にわたる研究開発と実験によ
って、その目標をかなりのレベルまで実現させた科学者といえば次の2人が上げられま
す。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        ヴェルナー・フォン・ブラウン      ドイツ
         1912〜1977
        セルゲイ・パーヴロヴィッチ・コロリョフ ロシア
         1906〜1966
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この2人の科学者は、ドイツとロシアという別の国に生まれながら、実に数奇な運命
に左右された科学者なのです。あの米ソの有人宇宙飛行競争の米国の旗頭がフォン・ブ
ラウンであり、対抗するソ連の旗頭がコロリョフであるからです。
 1961年4月12日にコロリョフが率いるソ連のチームが、ガガーリンを軌道に乗
せて世界中の大喝采を浴びると、フォン・ブラウンが率いる米国NASAは、最初から
有人月着陸に目標を絞ったアポロ計画をスターさせ、遂に1969年7月20日にアポ
ロ11号による月着陸を成功させる、というようにです。
 フォン・ブラウンとコロリョフは、生涯を通じて一度も会うことはなかったのですが
、まさに2人は資本主義と社会主義の代表選手として、国家の誇りと名誉にかけて、1
960年代に息づまる先陣争いを戦ったのです。
 まさに史上最強のライヴァルというべき2人ですが、米国とソ連という20世紀の2
大強国を舞台とはしているものの、ともに人類を宇宙に送り出し、いつの日か宇宙旅行
を実現させたい−−この幼い頃の夢を大きく現実に近づけた2人だったといえます。
 アポロ計画による人類の月着陸はあったのか、なかったのか――疑問は数多くありま
す。NASAは、正式には軍事機密と称して何もコメントしませんが、そのウラでは数
々の手段を使って疑惑の火消しにやっきとなっているように見えます。
 このテーマの分析が単なる水掛け論に終わらせないためにも、フォン・ブラウンとコ
ロリョフの2人の科学者がいかにして、人類の宇宙旅行という自分たちの夢を実現させ
ようとしたのか、その軌跡をたどって見るのも無駄ではないと思います。明日から、こ
の2人について考えていきます。      ・・・ [アポロ計画/008]

フォン・ブラウンとコロリョフ.jpg
               

2006年11月17日

フォン・ブラウンとV−4ロケット(EJ第1398号)

 1919年1月18日のことです。第1次世界大戦の後始末のためのパリ平和会議が
フランスのベルサイユで開かれています。この会議には、第1次世界大戦の戦勝27ヶ
国から70名の代表が参加して、さまざまな取り決めを行っています。
 この会議は、敗戦国のドイツから多額の賠償を搾り取るためのものであり、また、締
結されたベルサイユ条約は、ドイツの再軍備を徹底的に封じ込める内容になっていたの
です。
 ドイツとしては、その後必死に再軍備の方向を探ったのです。そして条約の抜け穴を
発見します。条約は、ロケットの開発についてはふれていなかったのです。そこでドイ
ツは液体推薬を燃料としたロケットの開発に踏み出していったのです。
 このことによって、ドイツでは1920年代にロケット・ブームが巻き起こります。
そして30年代には、兵器としてのロケットが開発されるようになっていったのです。
1931年、当時ベルリン工科大学の学生だったフォン・ブラウンは、「VfR」、ド
イツ宇宙旅行協会の熱心なメンバーだったのです。このVfRというのは、宇宙旅行を
目標に民間からの寄付金を基にしてロケットを開発する人たちの集まりだったのです。
 フォン・ブラウンは、人類は宇宙に積極的に出るべきであるという幼いころからの夢
があり、それを何とか実現したいという強い意思を持っていたのです。
 当時のドイツ陸軍は、VfRのロケット開発には関心を持っていて、その実験場には
よく見学に来ていたのです。そして、陸軍の指定する区域内で実験をしてくれるなら、
もっと大型のロケットを開発する費用を出してもいいと勧誘してきたのです。
 VfRのメンバーのほとんどは、軍のこの申し出に反対したのですが、フォン・ブラ
ウンはひとりこの誘いに乗るのです。彼は民間の乏しい寄付金だけで、ロケットを開発
していても宇宙飛行など不可能という現実的な考え方を持っていたからです。
 兵器としてのロケットの開発はやりたくないが、たとえ悪魔に魂を売り渡しても宇宙
旅行を実現させるとして、軍に協力する決心をしたのです。
 1932年11月、彼は陸軍兵器局に入って大型ロケットの開発をはじめたのです。
そして、豊富な資金を使って次々とロケットを制作し、1937年にはバルト海沿岸に
建設された秘密基地ベームミュンデにおいて、技術の責任者に昇格します。ときに、フ
ォン・ブラウン、弱冠25歳だったのです。
 1939年にドイツがポーランドに侵攻・降伏させて第2次世界大戦が勃発します。
そのころになると、VfRの同志がフォン・ブラウンのところに馳せ参じたのです。そ
して、彼らの力もあって、フォン・ブラウンは近代ロケットの元祖ともいうべき、A−
4ロケット(V−2)の開発に成功するのです。
 A−4ロケットは、1000キログラムの弾頭を積み、290〜340キロメートル
の射程を持つよう設計されたのです。全長14メートル、直径165センチメートル、
重さ1万2000キログラムという当時世界最大のロケットだったのです。
 画期的だったのはその誘導システムなのです。あらかじめ決められたコースを記憶し
ておき、ジャイロスコープとドップラー・レーダーが示す変化をもとにして、実際の飛
行経路を電子回路でチェックするというものです。そして、その結果を記憶している予
定のコースと比較して適切な指令を出して、尾翼の舵と噴射版を動かして誘導するとい
う驚くべきものだったのです。
 A−4ロケットは、1942年の春にテスト飛行を行ったのですが、失敗。2号機も
失敗に終わっていますが、1942年10月3日、遂にA−2ロケットは飛行実験に成
功するのです。
 このA−2ロケットの成功のあと、ヒットラーはロケットに異常な関心を示し、A−
4ロケットの量産を命じてくるのです。しかし、フォン・ブラウンはA−4ロケットを
兵器として使うことに反発します。
 そのため、1944年2月にフォン・ブラウンは、東プロセインのゲシュタポ(国家
秘密警察)本部から呼び出しを受け、そのまま拘束されてしまうのです。拘束理由は、
フォン・ブラウンは軍のめざす開発をさぼって、宇宙探査のことばかりやっているとい
うものだったのです。
 これに驚いたのは、フォン・ブラウンの上司であるドルンベルガーです。彼はフォン
・ブラウンなくしてA−4ロケットの前進はないとして、ヒットラーの側近であるシュ
ペーアへの根回しでフォン・ブラウンを釈放させるのです。
 一方、ドイツがベーネミュンデで、新兵器を開発しているという情報を掴んだ連合軍
は、1943年8月に英国空軍がベーネミュンデを爆撃します。米国空軍も1年後の7
月と8月にベーネミュンデを爆撃しますが、これによるドイツ側の技術面での被害は、
ほとんどなかったといわれます。
 この事態になってベーネミュンデの支配権は完全に軍の手に握れ、遂に1944年9
月8日、A−4ロケットはベルギーに配置された可動発射台からパリとロンドンに向け
て発射されたのです。そしてその時点から、A−4ロケットはゲッペルス宣伝相によっ
て、報復兵器を意味する次のことばで呼ばれるようになるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       Vergeltungswaffen = 報復兵器 → V−4ロケット
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このV−4ロケット――推定では、この兵器によって1万2685人の死者を出し、
3万3700もの住居や建物が破壊されたのです。不幸なことに人類のロケットの近代
化は、このような恐るべき殺人兵器を元祖とすることになったのです。
 とくに英国の被害は深刻だったのです。1500発を超える殺人兵器V−4が南イギ
リスに落ち、2500人以上の命を奪い多くの住居や施設を破壊したのです。しかし、
それも1945年3月27日に終了するのです。  ・・・ [アポロ計画/009]

V-4ロケット.jpg

2006年11月20日

コロリョフも逮捕されている(EJ第1399号)

 ドイツのフォン・ブラウンとソ連のコロリョフ――お互いの名前もやっていることも
熟知しているのに、生涯一度も会うことのなかった2人です。この2人について調べて
いると、そのあまりにも似ている運命に宿命的なものを感じてしまいます。
 セルゲーイ・コロリョフは、3歳のときに両親が離婚をしており、9歳のときに母マ
リア・ニコラーエヴァナは、グレゴリー・バラーニンという電気技術者と再婚します。
この新しい父にコロリョフは大いに感化されるのです。
 義父バラーニンはオデッサの空港発電所の所長をしており、その関係があってコロリ
ョフは航空に関して興味を抱くようになります。彼は、キエフ工科大学の航空学部に入
学し、「全ソ連グライダー・ラリー」に参加するために、グライダーの建造に夢中にな
った時期があったのです。
 1925年の秋、大学のグライダー活動がうまくいかなくなり、さらに両親がモスク
ワに引っ越すことになって、コロリョフもモスクワに行くことにしたのです。1927
年7月、コロリョフはモスクワ高等技術大学への入学許可を受けるのです。
 この大学は、1872年にニコライ・ジューコフスキーが赴任してから航空学の強力
な伝統ができていたのです。それに、コロリョフは、この大学で師としてアンドレイ・
ツポレフに仕えることになるのです。
 ツポレフは、多くのソ連の軍用機や民間機を50年以上の長きにわたって設計した人
であり、彼は「中央空気水力研究所(通称ツァーギ)」の数あるプロジェクトに精力的
にかかわっていたのです。したがって、モスクワ高等技術大学の学生は、何かを設計し
、建造することが義務づけられていたのです。コロリョフは、ツポレフの指導の下で、
グライダーと軽飛行機の設計と建造に取り組んだのです。
 このツァーギにおいて、コロリョフは、フリードリッヒ・ツァンダーという人物に出
会うのです。ツァンダーは、ソ連のロケットの先駆者といわれる人物であり、モスクワ
に本拠を置くロケット・グループGIRDのリーダーだったのです。このGIRDは、
フォン・ブラウンがかつて属していたVfRと同じような目的を持つ団体だったのです
 このフリードリッヒ・ツァンダーについて少し述べると、幼いときから非常な天分を
示し1908年にジェット推進の理論的研究をはじめ、その結果、飛行機とロケットの
能力を組み合わせた乗り物を作るアイデアを考え出しています。今日のスペース・シャ
トルと同じ発想です。
 さらにツァンダーは「ソーラー・セイル」――太陽の光の圧力で惑星間を飛行する着
想を生み出しており、1924年には、火星への飛行について論文を書いています。そ
して、1929年には、実際にロケット・エンジンの制作に着手し、実際にガソリンを
燃料とする小さなロケット・エンジンを完成させているのです。このささやかな実験は
、後に有名なロケット「OR−1」に受け継がれていくのです。
 コロリョフがこのツァンダーの影響を受けたことはいうまでもないことであり、彼ら
とともにGIRDでロケットの研究開発に情熱を燃やし続けたのです。
 1933年8月17日午後7時モスクワの西方約32キロメートルにあるナハビーノ
の森から、ソ連最初の液体燃料ロケット「ギルド09」が発射されたのです。これは、
GIRDのミハイル・チホヌラーヴォフの設計になるロケットで、最大高度400メー
トルに達したあと滑らかな弾道を描いて隣の森に落下しています。この時点でソ連は、
米国のゴダードによる液体燃料ロケットの打ち上げ成功に7年遅れていたのです。
 この「ギルド09」の成功の数週間後に、ツァンダーの「OR−2」ロケットの改良
型「ギルドX」が同じ地点から打ち上げに成功しているのです。今でもナハビーノの森
には、発射成功を記念する石碑が建っており、ツァンダー、チホヌラーヴォフ、コロリ
ョフに対する賞賛の辞が刻まれているのです。
 1933年10月31日、新組織RNII(反動推進研究所)が発足し、それまでモ
スクワとレニングラードの二手に分かれて進められていたロケット開発が組織として一
本化したのです。RNIIの初代所長は、レニングラードGDLからの軍事技術者イヴ
ァン・クレイメーノフ、コロリョフは副主任技術者という地位を与えられたのです。
 RNIIIの発足から5年、クレイメーノフ所長とコロリョフは精力的にロケット開
発の仕事を続けたのですが、その実績がソ連のロケット開発の進展という結果にはつな
がらず、無駄な足踏みをすることになったからです。
 それは、いわゆるスターリンの粛清によってソ連の多くの科学者、技術者、軍の指導
部が弾圧を受け、それから7年間、ソ連のロケットの研究開発はストップしてしまった
のです。
 1938年6月27日の早朝、内務省の役人がコロリョフの家にやってきて、コロリ
ョフを連行します。ときに、コロリョフは31歳だったのです。逮捕理由は、コロリョ
フよりも前に逮捕されていたクレイメーノフ所長、コロリョフの同僚のグルーシュコら
の陳述によるもので、ドイツにおける反ソ連団体と共謀しているという容疑だったので
す。そして、コロリョフは、禁固10年の刑に処せられ、収容所に収監されてしまうの
です。
 フォン・ブラウンもゲシュタポに逮捕されていますが、コロリフも内務省の国家機密
組織に逮捕される――ともにロケットの開発に従事し、大きな成果を上げていた2人が
です。しかし、フォン・ブラウンがそうであったように、コロリョフの逮捕に対して、
師のツポレフが動いたのです。
 そして、事件の再審議を求める嘆願書が提出され、それが認められてコロリョフは収
容所を離れ再審議を受けるためにモスクワに護送されることになったのです。しかし、
ことは簡単には済まなかったのです。        ・・・ [アポロ計画/010]

Iソーラー・セイル.jpg

2006年11月21日

乾坤一擲のレポート(EJ第1400号)

 1939年、再審議の結果コロリョフの刑期は10年から8年に減刑になったのです。
彼はシベリアのコリマの収容所に送られるはずであり、もしそうなっていたら、彼は
生還することは困難だったと思われます。コロリョフは壊血病を患っており、当時相当
悪化していたからです。
 しかし、ツポレフをはじめとする大勢の人の嘆願により、シャラーシュカの収容所に
送られたのです。ここは、かつてツポレフも入れられていたことがある小さな収容所で
、同僚などの密告で犯罪者にされた科学者や技術者が中心だったのです。
 しかし、コロリョフは、その後シャラーシュカからプチールスカヤ刑務所に移行され
、1941年にはシベリアのオムスク、さらに次の年にはモスクワから650キロメー
トル離れたカザンへと移され、1944年7月になってやっと長い長い囚人生活から開
放されたのです。この間、ソ連のロケット開発は停止したままだったといっても過言で
はないでしょう。
 その頃、ドイツのフォン・ブラウンは、ペーネミュンデの秘密基地でV−2計画を遂
行中だったのです。しかし、1944年になると、連合軍の足音は日増しに大きくなっ
てきたのですが、フォン・ブラウン以下、元VfRのメンバーは、きちんとロケットの
建造に取り組んでいたのです。
 それは、祖国が勝利するための兵器としてのロケットの開発というよりも、彼らが抱
く未来の夢――宇宙を探査し、宇宙に人類を送り出すためのロケットを開発する――そ
ういう気持だったのです。彼らはこの時点で、ドイツがどのような巨大なロケットづ
くりに成功しても、もはや戦況を逆転する力にはならないことをよく知っていたのです。
 フォン・ブラウンは、こうした状況の中にあって、冷静に戦後のことを考えていたの
です。重要なことは次の3つです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
           1.V−2計画機密書類を死守する
           2.ロケット開発技術者の安全確保
           3.必要な機材・部品の移動と確保
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 フォン・ブラウンとしては、戦後になっても宇宙開発のためのロケットづくりを続け
たい――そのためには、ペーネミュンデにある上記の3つものを死守する必要がある。
それには、どうすればよいか――フォン・ブラウンは、自分たちの夢を実現できるのは
米国しかないと考えていたのです。
 1945年1月、ソ連軍はペーネミュンデの東150キロメートルのところまで迫っ
ていたのです。そのとき、フォン・ブラウンは、上層部から次の2つの命令を受けてい
たのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       ●ナチス親衛隊(SS)将軍/ハンス・カムラー
        ペーネミュンデの全人員、全機材を中部ドイツのブライヒ
        ェローデに移動せよ
       ●ポメラニア地方の長官
        ペーネミュンデを死守せよ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 フォン・ブラウンはどちらの命令を選んでも未来はないと判断したのです。まして、
ポメラニア地方の長官の命令は自殺行為そのものです。そこで彼は仲間と相談をして、
上記の2と3、すなわち、技術者と必要な機材の移動についてはカムラーの命令を受け
入れるふりをして、ペーネミュンデの部局をひとつずつ南のブライヒェローデに向かわ
せ、状況を判断して西側の連合軍に投降するというシナリオを組んだのです。
 1945年3月、ソ連軍はペーネミュンデの30キロ東まで接近してきます。その時
点においてペーネミュンデからは技術者はすべて脱出し、設備の破壊を担当する人たち
がナチスのSS隊員の監視の下に作業をしていたのです。しかし、ソ連軍はすぐにはペ
ーネミュンデに進入してこなかったのです。なぜなら、ペーネミュンデはソ連軍の主要
なターゲットではなかったからです。
 さて、フォン・ブラウンは、上記1の機密書類については、彼の2人の腹心にハルツ
山脈のデルンテンの廃坑を隠すよう委託したのです。そのとき、SSの将軍カムラーか
ら、次の命令を受け取ります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      ブライヒェローデを去って、さらに南のバイエルン・アルプス
      のオーバーアンマーガウをめざせ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1945年4月、500人から成るペーネミュンデ・チームは列車でペーネミュンデ
を出発し、オーバーアンマーガウに到着します。そこにはSS隊員が大勢おり、フォン
・ブラウン一行は彼らの厳重な監視の下に置かれたのです。
 しかし、4月30日にヒットラーの死がラジオで伝えられるとオーバーアンマーガウ
からは、目に見えてSS隊員の姿が消えていったのです。
 そして、1945年5月2日、フォン・ブラウンを中心とするロケット技術者のグル
ープは、米国第44歩兵師団第324連隊に身柄を確保されます。フォン・ブラウンの
狙い通りに米軍に投降することができたのです。
 フォン・ブラウンは、ガルミッシュ・パルテンキルヒェンで連合軍の専門的技術者た
ちから、いろいろな質問を受け、ドイツのロケット開発についてレポートを書くよう命
令されるのです。そのレポートの中でフォン・ブラウンは、今まで6万回に及ぶロケッ
トの改良を詳細に述べたあと、ロケット技術はまだ発展途上であること、さらに努力す
れば、人工衛星を実現することは可能であり、月や火星に人間を送れることを力説した
のです。未来の夢の実現をめざして、乾坤一擲のレポートを書いたのです。
                     ・・・ [アポロ計画/011]

2006年11月22日

ドイツロケット遺産の争奪戦(EJ第1401号)

 ドイツのペーネミュンデにおけるロケット開発は、米国はとくに強い関心を持ってい
て、開発責任者とそれに従事していたスタッフ、それにロケット本体や部品などを確保
し、それを少しでも早く米国本土に持ち去るというある意味でとんでもない計画が立て
られて実行に移されたのです。
 このうち開発責任者であるフォン・ブラウンの身柄は本人の投降により労せずして確
保したものの、残りのターゲットについては時間との勝負だったのです。そして、この
任務に当たったのは米陸軍ホルガー・トフトイ大佐だったのです。
 1945年春に連合軍がドイツに西から侵入したときに、多くの人の協力を得て、ト
フトイ大佐は100台分のロケット、ロケット部品、搭載機器、材料部品などを発見し
ています。それらを341両の貨物列車に乗せ、戦火のドイツをくぐり抜けて、ベルギ
ーのアントワープ港まで陸路を運んだのです。
 何しろことは急を要したのです。というのは、ヤルタ協定ではドイツの技術関係の設
備を占領地域から運び出すのを禁じていたからです。しかし、多くの検問を奇跡的にか
いくぐり、何とかアントワープまで運ぶことができたのです。そして、そこから先は1
6隻の貨物船に分散されて太平洋を渡り、ミシシッピの河口の町ニュー・オーリーンズ
まで運ばれたのです。
 一方、フォン・ブラウンの命を受けてデルンテン町の廃坑に隠された重要機密書類は
ステイヴァー少佐が現地の技術者の協力により、ソ連軍と英国軍がデルンテン町を占領
する3日前に、米国の占領地に運ばれたのです。これには、もちろん投降したフォン・
ブラウンが積極的に協力したのはいうまでもないことです。
 さらにトフトイ大佐のチームは、ノルトハウゼン、ブライヒェローデ、イルメナウ、
それにもっと東のペーネミュンデからの人々を1000人ほど確保(女性と子どもを
含む)し、至急に西に移動させたのです。それは、これらの地方にソ連軍が怒涛のよう
に侵入してくる寸前のことだったのです。
 フォン・ブラウンはこれら1000人ほどの人々をすべて米国に運んで欲しいと米軍
に掛け合ったのですが、結局本国からの指令によって米国に渡ることができたのは12
7名だったのです。
 考えてみると、米国は最初からドイツに侵入したら、ロケット開発に携わっていた人
物やロケット本体や部品をできる限り多く確保しようとしていたのに対し、ソ連は、そ
こまでは考えていなかったことがわかります。それは、ソ連軍がペーネミュンデに侵攻
しながら、ペーネミュンデをいち早く占領下に置いていないことでもわかることです。
 このことの差は大きいと思うのです。フォン・ブラウンを確保した米国が、ドイツが
世界に先行したロケット開発をそのまま引き継いで進めることができたのに対して、ソ
連はコロリョフを解放し、ロケット開発の責任者にしたものの、ロケット開発について
は、ほとんどゼロからのスタートになったといえるからです。
 それだけに、いったんはロケット開発において米国をリードしたソ連の宇宙開発の進
歩は素晴らしいものがありますが、後からアポロ計画――それが実際に行われたと仮定
しての話ですが――その計画によって、ソ連は米国に決定的な差をつけられる原因にな
ったのではないかと思えるのです。
 実はソ連がコロリョフを解放し、ペーネミュンデの調査責任者にしたのには理由があ
るのです。1944年7月14日に英国首相であるウィンストン・チャーチルは、ソ連
軍の最高司令官スターリンに対して一通の書簡を送っているのです。悪魔の兵器V−2
ロケットがロンドンに打ち込まれる2ヶ月前のことです。
 チャーチルの書簡というのは、ドイツが新しいロケット兵器を開発し、そのロケット
がロンドンにとって深刻な脅威となっている。そこで英国の専門家を派遣するので、ペ
ーネミュンデを調査できるよう秘密基地の裏側に接しているポーランドへの立ち入りを
許可して欲しいというものだったのです。
 スターリンは、チャーチルのこの申し出を理解できると回答し直ちにソ連側も技術者
のチームを作り、調査するとともに、英国の調査団をポーランドに受け入れたのです。
そして、その発射台などを空から観察し、戦時中にこれほどのロケットを開発するドイ
ツの底力に驚嘆したといわれるのです。
 しかし、その2ヵ月後の9月8日、ロンドンに1500発のV−2ロケットが打ち込
まれ、英国は壊滅的な被害を蒙ることになるのです。このように事前にその脅威に気が
付いていながら、英国もソ連も、ドイツに侵攻しながら、あまりペーネミュンデにこだ
わっていないというのは、今もって世界史の謎といわれているのです。単なるポカミス
なのでしょうか。
 このときコロリョフは、既に解放されており、カザンでロケットの研究を行っていた
のです。1945年の夏にコロリョフは赤軍の将校に任命され、9月8日、奇しくもV
−2ロケットによってロンドンが攻撃された一年後にドイツに飛び、北ドイツの秘密基
地ペーネミュンデを訪れるのです。
 もちろんその頃ペーネミュンデにはほとんど何も残ってはいなかったのですが、発射
台などの残骸から、自分が罪人であった空白の時代にこのペーネミュンデにおいて、宇
宙開発のためにいかに多くの偉業が成し遂げられたかを目撃して愕然とします。自分が
シベリアで夢見たロケット技術の構想がほとんど実現していたからです。そのときコロ
リョフは、フォン・ブラウンを生涯のライヴァルとして強く認識することになるのです。
 このときのソ連の遅れは、陸上の長距離競技にたとえると、2〜3周回遅れに等しか
ったと考えられます。しかし、その時点からは、フォン・ブラウンとコロリョフのロケ
ット開発の条件は逆転してしまうのです。
 というのは、社会主義の優位性を誇示するために宇宙を重視し始めたソ連は、三軍が
ばらばらに宇宙戦略をやろうとしていた米国と比較して、明らかに開発環境において勝
っていたからです。コロリョフは、巨額の予算を手にして、先行しているフォン・ブラ
ウンを少しずつ追い詰めていったのです。・・・ [アポロ計画/012]

2006年11月24日

米国を一歩リードするソ連(EJ第1402号)

 ソ連は、宇宙を制するには、ドイツが既に達成しているロケット建造技術のレベルに
少しでも早く達する必要があると考えたのです。そして、そのためには、ペーネミュン
デその他でロケット建造にかかわっていたドイツ人の技術者を一人でも多く集める必要
があると考えたのです。
 昨日のEJで述べたように、既に米国がロケット建造にかかわる秘密書類やロケット
の本体、部品、それにフォン・ブラウンをはじめとする中心エンジニア127名を米国
に持ち去ってはいましたが、約30機分のロケットの本体や部品それにロケット・エン
ジニアの大半はドイツに残っていたのです。
 ソ連のロケットの専門家は、カリーニングラードというところにあるNII−88
(科学研究所88)にほとんど集められていたのですが、そこにドイツ人の技術者が増
えてきたので、ドイツ人は、モスクワ西方ゼーリガー湖に浮かぶゴロドムリヤ島に集め
られたのです。そして、中心はNII−88、その支所がゴロドムリヤ島というかたち
で開発が進められたのです。
 ゴロドムリヤ島での目標はV−2ロケットの完全なコピーである「R−1」ミサイル
の完成だったのです。ドイツのロケットのコピーを作りながら、それをマスターする
――この方針は、スターリン自身が指示を出したといわれています。
 そのとき、コロリョフは主任設計技師を務めていたのですが、この方針は彼自身不満
だったのです。そんなことをしなくても、V−2よりも、より長距離を飛び、より信頼
性の高いロケットを開発できると考えていたからです。しかし、当時、スターリンの命
令に背くことなどできることではなかったのです。
 V−2ロケットのコピーであるR−1ロケットの発射が成功したのは1、1948年1
0月10日のことです。12機のR−1のうち9機が発射され、7機が成功したのです。
 このあとR−1A、R−2というロケット開発が同時並行で進められます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        R−1  ・・・ V−2のコピー
        R−1A ・・・ R−1と同じエンジン+アルファ
        R−2  ・・・ 新エンジン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 R−1AロケットはR−1ロケットと同じRD−100エンジン(推力28トン)を
使っていますが、何がプラス・アルファかというと、核弾頭が取り外しできるという点
なのです。これはコロリョフのアイデアであり、これをテストするのが目的であったの
です。
 R−2ロケットは新エンジンRD−101(推力35トン)を使い、600キロメー
トル飛ぶように設計されたのです。このR−2は、1950年10月26日に打ち上げ
られ、計画通りに600キロメートルを飛んで成功し、次の年から赤軍に配備されてい
ます。
 その頃、米国に渡ったフォン・ブラウンたちは、何をしていたのでしょうか。
 フォン・ブラウンを米国に連行したトフトイ大佐は、フォン・ブラウンの意見を入れ
て、800キロメートルから1600キロメートルの射程を持つロケットの開発を考え
ていたのですが、陸軍の首脳は、そのようなものは望んでいないなど、なかなかフォン
・ブラウンの考え通りにことは進まなかったのです。
 米国は、当時兵器としてのロケットの開発を陸・海・空の3軍で別々にやっており、
兵器としてのロケット開発と見せかけて、宇宙に人を送り出すロケットを作ろうとする
フォン・ブラウンと陸軍首脳とは、なかなか意見が合わなかったのです。
 それでもフォン・ブラウンは、陸軍軍需局に対して、大型多目的のブースター・ロケ
ットの開発を進言しているのです。彼は、そのとき既に長距離戦略爆撃機よりも長距離
の誘導ミサイルの方が空を制するのに有利であることを主張していたのです。
 考えてみれば、ソ連のコロリョフも同じ考え方であったということができます。両者
共に宇宙開発のための大型のロケット開発を主張し、そのつど上層部にそれを阻まれて
いたからです。しかし、その当時としては、国家として宇宙開発の重要性を認めていた
ソ連のコロリョフの方がかなり有利であったといえるのです。
 もし、フォン・ブラウンの提案が、1948年当時に受け入れられていたら、米国が
最初の衛星を1955年か1956年には打ち上げていたことは確実であるといわれ
ますが、事態はフォン・ブラウンの思惑通りには動かなかったのです。
 しかし、朝鮮戦争の足音が近づくにつれて、陸軍首脳は射程数百キロメートルの誘導
ミサイルの開発をフォン・ブラウンに命じるのです。1950年7月のことです。これ
は、フォン・ブラウンたちが米国にきて、はじめて命じられた大型開発プロジェクト
だったのです。
 この開発は、それまでフォン・ブラウンたちがいたテキサス州フォート・ブリスから
、アラバマ州北部の町ハンツヴィルに移って行われたのです。このハンツヴィル軍需工
場は隣にあるレッドストーン軍需工場とともに大戦中は化学兵器の生産が行われていた
のですが、フォン・ブラウンが率いるチームが移ってきて、ここは米国の一大ロケット
開発基地となったのです。
 フォン・ブラウンのチームが命令された誘導ミサイルは「レッドストーン」と命名さ
れ、「レッドストーン計画」として推進されたのです。1953年8月20日に1号機
の打上げが行われ、3号機ではじめて成功します。
 このレッドストーンの誘導制御は、ジャイロを使った完全な慣性誘導で、自分自身で
現在位置と速度を判断して、目標に向かって飛んで行くシステムであり、フォン・ブラ
ウンの構想によるものだったのです。
 ちなみに、1955年4月15日付でフォン・ブラウンと40名の同僚たちは正式に
米国人として認められています。・・・ [アポロ計画/013]

R−1ロケットとレッドストーン.jpg

2006年11月27日

ソ連世界初の人工衛星成功(EJ第1403号)

 副島隆彦氏の『人類の月着陸は無かったろう論』に関して、書き始めてからちょうど
15日目です。このところ米ソのロケットのことを細かく書いており、また、ロケット
の話に戻ってしまったのかと錯覚される方もあると思いますので、このあたりで、問題
を整理して先に進むことにします。
 上記の書籍で、副島氏は「人類の月着陸はなかった」という立場に立って、その数あ
る矛盾点を突いています。しかし、それは結局は水掛け論になります。
 そこでEJでは、NASAのアポロ計画が行われた1969年当時において、米国に
月に行って人類を月に降ろし、月面活動のあと、着陸船を発射させて母船とドッキング
して、地球に戻る技術が果たしてあったのかどうかを調べることによって、それが本当
に行われたかどうかを検証してみることにしたのです。
 具体的には、人類を宇宙に送るという幼いときから抱いていた夢を、ただひたすらに
実現させるべく努力した2人の男――米国のフォン・ブラウンとソ連のコロリョフのロ
ケット開発の軌跡をたどることによって、アポロ計画が本当に実現可能であったかどう
かを推理してみようというわけです。
 1955年7月29日、アイゼンハワー米大統領は次の発表を行ったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      1957年から1958年にかけての国際地球観測年に米国は
      人工衛星を打ち上げる。   ―――アイゼンハワー米大統領
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、この発表を受けてソ連は、1955年秋にコペンハーゲンで開催されたIA
F(国際宇宙航行連盟)総会において、初参加のソ連の代表団が、ソ連もゲームに参加
することを表明し、次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       技術的に見て、新聞に報道されたものより規模の大きい衛星
      を創り出すことは可能であり、・・・ソ連のプロジェクトは、
      比較的近い将来に実現される見通しです。ただし、わたくしは
      その日程を正確に特定する立場にはありません。
               ――ソ連アカデミー/レオード・セドフ氏
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この1955年のアイゼンハワー大統領の宣言により、米ソのロケット開発の方向は
、ミサイルではなく、衛星の打ち上げへと舵を切ったことになるのです。
 既に述べたように米国では、陸・海・空の3軍に分かれて、ロケット開発を進めてお
り、海軍の「ヴァンガード」計画と、フォン・ブラウンを擁する陸軍の「レッドストー
ン」計画が競っていたのです。
 ヴァンガードかレッドストーンか――この判断が国防総省に委ねられたとき、国防総
省は自ら判断することを避けて、カルフォルニア工科大学のスチュアート教授に丸投げ
したのです。自ら判断してあとで責任をとらされることを恐れたからです。
 さらに、そのスチュアート委員会(メンバー9人)も、計画を細かく検討することを
せず、多数決で決めてしまったのです。結果は次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
         ヴァンガード → 6 レットストーン → 3
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 この投票を受けて、国防長官は陸軍に対し、衛星についてのすべての作業を中止し、
ミサイルの開発に専念せよという命令を発しているのです。フォン・ブラウンは敗れた
のです。
 一方、ソ連でも似たようなことが起こっています。フォン・ブラウンと違って、その
当時のコロリョフは、フルシチョフをはじめ共産党中央委員会の幹部に対しても、強く
ものがいえる立場にいたのです。というのは1957年8月21日、コロリョフは大陸
間弾道弾「R−7/セミョールカ」の打上げに成功していたからです。
 R−7は、ダミーの水爆弾頭をつけて、バイコヌールからカムチャッカ半島まで、お
よそ6400キロメートルを飛んでいるのです。これはその当時の世界新記録であり、
ソ連におけるコロリョフの立場は強かったのです。
 当時世界初の人工衛星打ち上げに対して「ノー」の態度をとっていたのは、共産党中
央委員会だけだったのです。そこで、コロリョフは、中央委員会に対して、次の質問を
試みたのです。
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       ソ連邦は衛星打ち上げを実現する世界で最初の国家をめざし
      ているのか。それをやらずして、ソ連邦は歴史的責任を取れる
      のか。                  ――コロリョフ
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 これに対して、中央委員会は臆病きわまる黙秘を決め込んだのです。誰もスケープゴ
ートになりたくないからです。しかし、コロリョフの提案に対して、無線信号機と電池
および温度測定装置のみを搭載する衛星という条件で、人工衛星打ち上げの承認を事実
上与えています。
 しかし、当時のソ連の最高幹部たちの意識において、非軍事的な米ソの宇宙競争の軍
事的価値が認識されていなかったことは、注目に値することといえます。そのため、そ
れ以後コロリョフは米国という大国に宇宙開発で対峙するとともに、自国の大物たちを
相手とする消耗戦を死ぬまで続けることになるのです。
 そして、1957年10月2日、スプートニクという人工衛星を装備したR−7ロケ
ットは打ち上げに成功し、世界初の人工衛星は軌道に乗ったのです。そして、スプート
ニクの地上でのコールサインを聞いたとき、コロリョフは、「私が生涯かけて待ち望ん
でいたのは、ただこの日のことだ」と述べたといわれます。かくして、人工衛星世界一
はソ連に奪われたのです。コロリョフ一歩リードです。 ・・・ [アポロ計画/14]

スプートニク.jpg

2006年11月28日

ソ連に大差をつけられた米国の焦り(EJ第1404号)

 世界初の人工衛星の打ち上げ成功――この画期的なニュースは世界中に大きな波紋を
巻き起こしたのです。
 ちょうどそのときアラバマ州のハンツヴィルでは、国防長官に任命されたばかりのマ
ッケルロイ長官が他の陸軍高官を率いて、陸軍弾道ミサイル局(ABMA)を訪問中で
あり、フォン・ブラウンも当然その場にいたのです。
 そこに広報部長のゴードン・ハリスが次のように叫びながら会場に飛び込んできたの
です。
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           ソ連が衛星を打ち上げました!
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 この叫びは、マッケルロイ長官をはじめ、その場にいた一同を打ちのめしたのです。
一瞬の静寂――そのとき、フォン・ブラウンは、訪問者に向かってこういったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      レッドストーンを使えば2年も前に同じことができたのです。
      長官、やれといってください。60日で衛星を打ち上げてお目
      にかけます。            ――フォン・ブラウン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1957年10月5日の『ニューヨーク・タイムス』紙は、第一面の全幅を横切る二
分の一インチの大活字で、めったに使わない三行のベッドラインで次のように伝えたの
です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          ソヴィエト、地球周回衛星を宇宙に発射
          時速1万8000マイルで地球を周回
          球体はアメリカ上空を四回横断 !!
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 これに対してフランスの『フィガロ』紙は全段抜きの次の大見出しをつけています。
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        神話が事実に変わり、地球の引力は征服された!?
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 そして、「技術の分野において多少の屈辱感を体験したアメリカ人の幻滅と苦渋の反
省」と報道し、米国を皮肉っています。しかし、これほどの快挙にもかかわらず、肝心
のソ連内部の直後の反応は実にそっけないものだったのです。
 発射翌日の『プラウダ』紙によると、一面の右下のところに控え目に打ち上げの事実
だけを伝えているだけです。それに、コロリョフをはじめとする打ち上げ関係者につい
ては、ソチ市にあるブルガーニンのダーチャ(田舎の別荘)で、5日間の休暇が与えら
れただけなのです。
 打ち上げ成功についてインタビューを受けたフルシチョフ首相は、次のようにいった
そうです。
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       コロリョフがまたロケットを打ち上げたということだ。
                  ――ニキタ・フルシチョフ首相
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 こういうソ連の態度を知ると、ソ連という国にしては「何とまあ、謙虚なこと」と考
えるかも知れませんが、そうではないのです。実は、フルシチョフ首相をはじめ、ソ連
は人工衛星というものの意味がよく理解できていなかったのです。
 その証拠に、ソ連の人工衛星打ち上げについての西側の報道を見たあとの10月6日
の『プラウダ』では、一転して、次のような見出しをつけたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        世界初の地球軌道上の人工衛星、ソ連邦で誕生!
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 フルシチョフ首相は、事態を理解すると、早速コロリョフにクレムリンにくるよう命
じたのです。そして、コロリョフの成果を称えるとともに、あることを実現させて欲し
いとコロリョフに依頼したのです。
 その「あること」とは途方もないことだったのです。それは、革命四十周年記念を祝
賀するため、金はいくらかかってもよいから、何か目立つものを宇宙に打ち上げて欲し
いということだったからです。
 打ち上げて欲しいといっても花火ではないのです。しかも、革命四十周年記念日まで
には一ヶ月しか時間がないのです。そのようなことは、現在の技術をもってしても不可
能なことです。そういう誠に無理な、困難な要請だったのです。
 しかし、コロリョフはそれを引き受けるのです。何しろソ連の最高首脳から頭を下げ
て頼まれたのです。できないとは口が裂けてもいえなかったと後年コロリョフは述懐し
ています。そして、史上最短の宇宙ミッション、スプートニク2号計画がスタートした
のです。
 1957年11月3日、革命記念日の当日、スプートニク2号は打ち上げられたので
す。その重量は、スプートニク1号の6倍に相当する504キログラムだったのです。
 このスプートニク2号には、黒白まだらのテリア「ライカ」が乗っていたのです。ラ
イカはその孤独な宇宙滞在の間、心臓の鼓動を地球に送り届けながら宇宙で餌を食べ、
吠え、眠り、目覚めながら結局7日間生存したのですが、ブースターを切り離したとき
に熱制御システムが故障を起こし、カプセルの過熱によって死亡しています。しかし、
ライカは世界初の宇宙旅行者となったわけです。
 このスプートニク2号の成功によって、ソ連は改めて米国との技術力の差を全世界
の人々に見せつける結果となったのです。米国、とくにアイゼンハワー大統領のあせり
は頂点に達しつつあったわけです。
 それまで米国は何をしてきたのでしょうか。なぜ、ソ連にこれほどの差を許してしま
ったのでしょうか。                ・・・ [アポロ計画/015]

ライカ.jpg

2006年11月29日

ドイツのフォン・ブラウン米国を救う(EJ第1405号)

 1955年7月にアイゼンハワー大統領は、1957年〜58年にかけての国際地球
観測年に人工衛星を打ち上げると宣言したのですが、その1957年10月2日と11
月3日の2回にわたり、ソ連によって人工衛星が宇宙軌道に投入されたのです。残るは
あと1年しかないのです。米国の焦りは相当のものです。
 しかし、その国際地球観測年に打ち上げる予定のロケット――スチュアート委員会が
選んだ海軍の「ヴァンガード」のテストは遅れに遅れていたのです。このままでは、ソ
連に出し抜かれると考えたフォン・プラウンは、既にテストの済んでいるレッドストー
ンを「ヴァンガード」の名前で使ったらどうかという譲歩までしたのですが、海軍首脳
の答えは「ノー」だったのです。
 ここまで追い詰められても海軍首脳がフォン・ブラウンの申し出を素直に受け入れな
かったのは、心の中ではフォン・ブラウンがドイツ人であったことが原因であったかも
知れません。ドイツ人ごときに負けてなるものか――そういう意識が働いたものと思わ
れるのです。
 実は、アイゼンハワー大統領は、ソ連がスプートニク2号を打ち上げた11月3日の
数日後に、フォン・ブラウンの率いる陸軍のプロジェクトに、ゴーサインを出していた
のです。たび重なるヴァンガード計画の遅れに業を煮やしたのでしょう。
 追い詰められた海軍は、1957年12月6日にヴァンガード衛星を打ち上げること
を発表します。打ち上げられるロケットはテスト・ロケット3号と命名された文字通り
のテスト発射用のものだったのですが、スプートニク・ショックによって打ち上げが数
ヶ月も繰り上げられ、本格的な衛星打ち上げ用のロケットに格上げせざるを得なかった
のです。
 12月6日が初の試射日と決まったとき世界中が注目したのです。何しろソ連が11
月3日にスプートニク2号を成功させてから1ヶ月しか経っていないのですから、文字
通り世界注視の中でロケットの打ち上げは行われたのです。
 しかし、無残なことに3段式ロケットは数センチメートルしか上昇せず、真っ二つに
裂けて火の玉となって崩れ落ちたのです。それは、ロケット先進国米国の姿そのものだ
ったのです。「米国敗れたり」と世界中が思ったのも無理はないことでしょう。
 アイゼンハワー大統領のゴーサインをもらった陸軍のフォン・ブラウンのチームは、
急ピッチで作業を進めていたのです。何が何でも国際地球観測年中に打ち上げないと、
米国は世界の笑いものになる――大統領はそう考えたのです。
 そして、1958年1月17日、「ジュノー1」と呼ばれるロケットがフロリダのケ
ープ・カナべラルに運ばれて発射台にセットされ、そして、打ち上げ予定日は1月29
日と決められたのです。実は海軍のヴァンガードの再挑戦が2月のはじめに組まれてお
り、陸軍の打ち上げ可能期間は数日の幅しかなかったのです。この時点においてもまだ
海軍が優先されていたわけです。
 ところが29日の天気は最悪だったのです。しかし、日がないので、打ち上げを決行
する予定でいたのですが、天気は悪くなる一方で遂に当日の打ち上げは断念し1月31
日まで延期されたのです。
 1958年1月31日22時55分に点火、ジュノー1はゆっくりと上昇しやがてぐ
んぐん速度を増して雲の中に消えていったのです。大きなスクリーンに映し出されるデ
ータはすべてが順調であることを示しています。
 やがてすべての上段ロケット・モーターの点火を確認――不気味な沈黙のあと、バハ
マのダウンレンジ局で衛星からの電波が受信されたのです。問題は、発射から約90分
後に地球を一周してきた衛星からの電波をカルフォルニアのゴールドストーン局が受信
できるかどうかです。
 どうやら衛星は予想よりも高い軌道に入ったらしいのです。そのため衛星からの電波
が数分遅れ、受信を待っているフォン・ブラウンたちをイライラさせたのです。そして
正式に衛星からの電波を受け取ったとき、フォン・ブラウンは記者団に対し、次のよう
にコメントしています。
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       これでわれわれは、宇宙に確固たる橋頭堡を作りました。絶
       対に手離しません。        ――フォン・ブラウン
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 衛星打ち上げの成功を固唾を飲んで見守っていたアイゼンハワー大統領は、この衛星
を「エクスプローラ1号」と命名したのです。翌朝の新聞にはそのエクスプローラ1号
を頭上に掲げた幸せな3人の男たち――ジェット推進研究所長ピカリング、米物理学者
ヴァン・アレン、フォン・ブラウン――の写真が大きく掲載されたのです。やっと米国
は、国際地球観測年中に人工衛星を打ち上げるという約束が実現できたのです。
 エクスプローラ1号の成功のあと、フォン・ブラウンには全世界から祝福の言葉が寄
せられたのですが、おそらく彼が一番印象に残ったのは、英国のダンカン・サンディー
ズ戦争局長から電報であったと思われます。
 彼は、ウィンストン・チャーチルの娘婿であり、1943年8月に英国軍がペーネミ
ュンデを空爆したときの総指揮官だったのです。その後、フォン・ブラウンが開発した
V−2ロケットがロンドンを襲い、英国は大被害を蒙るのですが、エクスプローラ1号
の偉業を素直に称えて次の祝電を送ったのです。