INTEC JAPAN/BLOG

このブログは、異文化研修の教育機関(株)インテック・ジャパンの情報発信用です。(株)イー・メディアとの提携により、同社のドキュメント・レポート「Electronic Journal」をウィークデイの毎日お届けします。
「Electronic Journal」は様々な情報を400字詰原稿用紙7枚にまとめて配信する日刊メールマガジンです。

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2006年07月26日

JFKジュニア/事故か謀殺か(EJ第1424号)

 1999年7月16日、米国で1機の自家用飛行機――6人乗りパイパー・サラトガⅡが消息を絶ったのです。この飛行機の操縦桿を握っていたのは、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ・ジュニア――同乗者はケネディ・ジュニアの妻キャロリンとその姉のローレンの2人だったのです。
 ケネディ・ジュニアが操縦する飛行機は16日午後8時38分にニュージャージー州フェアフィールドを離陸、目的地のマーサズ・ビンヤードに午後10時に到着する予定だったのです。ここは、ケネディ家の別荘があるのです。ケネディ・ジュニア一行は故ロバート・F・ケネディ司法長官の娘ロリーの結婚式に出席する予定だったのです。
 しかし、予定時間から4時間が過ぎても到着しなかったので、家族が連邦航空局に届け、事故が判明したのです。捜索の結果、7月21日に3人の遺体は収容されています。解剖の結果、ジュニアの妻は妊娠3ヶ月――結局4人の命がこの事故によって失われたことになるのです。
 ロバート・ケネディは、ケネディ・ジュニアにとって叔父にあたるのですが、彼が1968年、大統領選挙に出馬中にロサンゼルスで射殺されたとき、叔母のおなかの中にいたのがロリーなのです。ロバートの死後、5ヶ月して誕生したロリーの結婚式には275人が招待されていたのですが、不幸なことに、ケネディ・ジュニアの葬式と重なり、式は中止されたといいます。
 この事故に関して、米国の航空管制局は、夜、悪天候、操縦に慣れていない購入したばかりの飛行機といったいくつかのキーワードから、何らかの操縦ミスによる着陸の失敗という報告を公表しています。さらにジュニアは足をケガしており、ギブスが外れたばかりという事故を裏付ける情報も出ています。
 しかし、これに反する情報は多いのです。足のケガに関してはジュニアは飛行機に乗る前にジムで汗を流していたことがわかっており、操縦に支障はなかったと考えられます。
 また、このニュージャージーの海岸線一帯は霧で有名なところですが、ジュニアにとっては自分の庭のように飛び慣れており、まして妻が大事な赤ん坊をおなかに宿していることでもあるので慎重に操縦したことは間違いないと考えられます。
 着陸空港の管制官とのやりとりの記録でもジュニアは「これから着陸態勢に入る」ということばを交わしており、着陸寸前まで何も異常はなかったことがわかっています。
 あとになって判明したことですが、この事故には目撃者はかなりおり、飛行機は急スピードで海上に墜落したことがわかってきたのです。飛行機のトランクルームに爆薬が仕掛けられていたか地上からミサイルのようなものを撃ち込まれ、機体が爆発したという情報すらあるのです。
 公の報告書は操縦ミスによる事故死ということになっていますが、これとは別にこうした目撃情報のウラをとった事故報告書が存在するのです。しかし、奇怪なことに、その報告書の公開は差し止められ、国家の安全保障に関わるという理由で、2029年まで公開を差し止める封印措置がとられてしまったのです。
 これでは、父親であるジョン・F・ケネディ元大統領と同じ扱いになりますが、大統領と違い、ケネディ・ジュニアは一民間人なのです。その飛行機事故の報告を暗殺された大統領並みにそこまで封印する必要があるのか疑問に思います。
 しかし、このケネディ一族――不慮の事故があまりにも多過ぎるのです。飛行機事故だけを例にとっても、ジョセフ&ローズケネディの長男、ジョセフ・P・ケネディ・ジュニアは、第2次世界大戦中の1944年、自ら操縦する爆撃機が爆発し、29歳で死亡しています。
 これは戦時中のことであり、仕方がないともいえますが、長男に続いて次女のキャサリーン・ケネディは4年後の1948年、フランスのセベンヌ山脈でチャーター機が墜落して28歳で死亡しています。
 飛行機以外の事故を含めると、たくさんあります。暗殺されたロバート・ケネディの長男のジョセフは、1973年に車で事故を起こし、同乗者の女性が負傷、重度の身体マヒにさせてしまっています。三男のデービットは1984年に麻薬の過剰服用で死亡。四男のマイケルは彼の子供のベビーシッターと関係を持ったことを非難されて精神がおかしくなり、1997年にコロラド州のスキー場で滑走中に木に激突して死亡しています。
 現在、連邦上院議員であるエドワード・M・ケネディは、1969年にマサチューセッツ州チャッパクディックで運転していた車が橋から落ち、本人は助かったものの、同乗していた女性を死亡させています。ところが、事故の通報が10時間も遅れたことでスキャンダルに発展し、これが原因でエドワードは大統領の夢が絶たれてしまうのです。
 しかし、逆の見方をすると、エドワードが現在でも上院議員を続けていられるのは、大統領への道が完全に閉ざされた結果であるともいえるのです。ケネディ一家では、大統領を目指そうとする者は確実に殺されてしまうからです。
 JFKジュニアといえば、3歳になったばかりの自分の父の埋葬の日、最敬礼をしながら父親の棺を見送るシーンが目に焼きついています。JFKとジャクリーン夫人との間には、流産と死産を繰り返したあとに生まれた子供が2人います。姉のキャロラインとJFKジュニアです。
 病院の保育器の中にいるジュニアを見つめるJFKに記者団が「将来、ご子息にも大統領になって欲しいですか」と聞いたところ、「無事に育ってくれればそれで十分」と答えたといわれています。しかし、JFKの願いは空しかったのです。まさか38歳でこの世を去るとは・・・。
 ジュニアの死は事故ではない疑いが濃厚なのです。だからこそ政府は事故報告書の公開を封印したのでしょう。そうであるとすると、ジュニアはなぜ殺されたのでしょうか。・・・・・・・・[JFK01]


JFKジュニア.JPG

2006年07月27日

JFKジュニアは何を目指したのか(EJ第1425号)

 20世紀最大のアメリカン・ヒーローとまでいわれたジョン・F・ケネディ大統領――彼の存命中はもちろんのこと、つい20年ほど前までは、女性をめぐるスキャンダルとは無縁の清潔な政治家であり、家庭人であると考えられてきたのです。
 ダラスで凶弾に倒れたとき、JFKは46歳――彼には一回り若いエレガントで貞淑なジャクリーン夫人と2人の子どもがいたのです。しかし、JFKの死から40年以上経った現在、JFKのイメージが、こと私生活に関する限り、大きく変化してきたことは否定できないのです。これは、私の集めたJFKに関する資料からもはっきりといえることなのです。
 JFK夫人のジャクリーン――彼女はJFKの死の5年後、ギリシャの海運王、アリストレス・オナシスと再婚しています。しかし、この再婚を世間一般はあまり好意的には受け止めているとはいえません。「随分あっさりとしたものなんだな」と考えた人も多かったからです。しかし、それはわれわれがそれだけJFKを神格化し、偶像化していたからなのであり、真実は別なところに
あるのです。
 JFKの死後、ジャクリーンは2人の子どもを連れて、ジョージタウンのタウンハウスへ移り住んだのです。しかし、当時この一家は悲劇の主人公であり、一家を一目見ようと観光客が連日押しかけて、ジョージタウンはちょっとした観光地の様相を呈したといわれます。
 ジャクリーンはこれに危機感を抱いたのです。このまま米国にいると、自分たちにいつ危害が及ぶかわからず、子どもたちを守り切れない――ジャクリーンはこう考えたのです。しかし、自分と子どもたちをオナシスに託そうと決断したのは、ロバート・ケネディが大統領選挙中に暗殺された1968年6月6日のことなのです。そして、その年の10月20日にジャクリーンは、オナシスと結婚するのです。
 大統領の未亡人や家族には一応シークレットサービスが付くことにはなっているのですが、あくまで建前であって、弟のロバートは殺され、四男のエドワードも何度も暗殺未遂に直面しており当てにならないのです。
 その点オナシス家では、オナシス軍団といわれるオナシス自身が雇った軍隊が、24時間体制で身の安全を保障してくれる――ジャクリーンは自分と家族の安全をオナシスに託したのです。しかし、単にそれだけではないことが次のジャクリーンの独白でもわかります。
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  わたしはオナシスと結婚したことで、ケネディ家の呪いから解放された。
 アリ(オナシスの愛称)のお陰で救われた。彼の力で、わたしは幸せや愛情
 を感じることのできる世界に連れていってもらうことができた。――ジャクリーン
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 幸せや愛情を感ずることのできない世界――それがケネディ家であるとジャクリーンはいいたかったのでしょうか。ケネディ家とはどのような一族なのかについては、やがて明らかにしていくことにします。
 1983年になって成長したジュニアは、ギリシャから米国に戻り、ブラウン大学を卒業します。法律家として身を立てようとしたのです。そして弁護士の資格を取ります。しかし、その心中ではひそかに政治家を目指そうとしていたのです。
 ジャクリーンは、1994年5月20日に死去しているのですが、つねづねキャロラインとジュニアには「政治には決して関わらないように」と申し渡していたのです。「これが私の遺言である」と。しかし、ジュニアは、その母の戒めにもかかわらず、父の死に不審を抱き、それを解明するために政治の世界に入ることをひそかに目指していたのです。
 そしてその1ステップとして、「ジョージ」という名前の政治雑誌の出版事業に乗り出します。彼は、この雑誌を通じて米国の政治のタブーといわれるものを明らかにしたいと考えていたのです。この出版事業はそれなりに成功を収めます。
 創刊号は50万部を完売し、その後も40万部をコンスタントに売るという上々の滑り出しです。ケネディ家にはさまざまなコネクションがあり、有力企業がこぞってスポンサーとしてバックアップしたからです。
 といっても、この雑誌「ジョージ」発刊事業は、有名人の御曹司による道楽とは一概にいい切れないのです。政治雑誌でありながら、雑誌の表紙にはロバート・デニーロ、ジョン・トラボルタトム・ハンクスなどのハリウッドの一流スターを使い、中身の読み物には、ノーマン・メイラーをはじめとする有名作家を起用して、中身の濃い読み物に仕上げているからです。
若い人に政治に関心を持って欲しいという願いがそこにあったからです。
 中でも注目すべきことは、JFKジュニア自身が毎号話題の人物にインタビューしていることです。その話題の人物の中には、JFKの暗殺にからんだとされるジョージ・ウォラス元アラバマ州知事やキューバのフィデル・カストロもインタビューの相手に含まれていたからです。
 明らかにジュニアは、父親の暗殺にかかわった米国政治の暗部に焦点を当て、それらの正体を「ジョージ」を通じて暴くというきわめて危険な賭けをやろうとしていたのです。それというのも米国政府自体がケネディ大統領暗殺の真相を国民に目にさらさないよう封印しているからなのです。
 2000年の大統領選挙――共和党のジョージ・ブッシュ(現大統領)と民主党のアルバート・ゴアによって争われた選挙ですが、その前年の1999年のはじめにJFKジュニアは大統領選挙に出る意思を固めて、当時のゴア副大統領に会っていたとする情報があります。2000年の大統領選挙に出馬することを同じ民主党のゴアに告げて、仁義を切ったものと思われます。ジュニアには民主党の指名をとる自信があったのでしょうか。・・・[JFK02]

JFK関連本.jpg

2006年07月28日

JFKジュニアの大統領選出馬(EJ第1426号)

 実は、JFKジュニアは民主党から出馬するのではなく、第3の政党を率いて立候補する予定だったのです。当時JFKジュニアは「第3世代のケネディ家のホープ」として大変人気があり、女性や若者からは圧倒的な支持を得ていたので、第3政党から出ても相当の票を集める可能性があったのです。したがって、もし本当に出馬となると、ブッシュ陣営にとっても、ゴア陣営にとっ
ても、大変な脅威になったはずなのです。
 そのため、ゴアはJFKジュニアに会ったとき、今回は自分の副大統領候補として協力してくれないかと頼んだといわれているのです。ゴアにしてみれば、そうすることによって彼の出馬を断念させ、選挙戦を有利に戦えると踏んだからです。
 しかし、JFKジュニアはこれを断っているのです。彼は、父親が暗殺された1963年当時から今日にいたるまで、米国政治は何も変わっておらず、既に国民の信頼を失っている――そして国民のほとんどは、JFK暗殺の真相を米国政府は不当にも国民に明らかにしていないと思っているはずである。だから、既成政党からではなく、第3政党から出馬して、国民の政治に対する熱き思いをつなぎとめたい――そう考えたのです。彼はそのためにこそ政治雑誌『ジョージ』を発刊したのですから。
 『ジョージ』の刊行にからめて、ジュニアはブッシュ陣営やゴア陣営が表に出せない秘密もほとんど掴んでいたと考えられるのです。ブッシュ陣営のうさんくささについては、映画「華氏911」をはじめ今や有名になっていますが、ゴア陣営にもいろいろあるのです。彼は、クリントン政権時代に中国政府から不当な政治献金を受けていたという情報があります。
 JFKジュニアは、それらの情報を自らの大統領選挙にからめて、順次公開していくことも考えていたと思われます。これについては、「JFKはなぜ暗殺されたのか」というテーマに大きくからんでくるので、追って明らかにしていきます。
 このように考えると、JFKジュニアには、父の暗殺の真相を明らかにしたいという熱き思いがあったのだと思います。しかしそれにしてもジュニアは、あまりにも性急にコトを急ぎ過ぎたと思います。いきなり、大統領選挙に出るのではなく、上院議員としてデビューする手もあったと思うのです。
 ところで、JFKジュニアの選挙基盤はヒラリー・クリントンのそれと重なっているのです。したがって、もし、ジュニアが上院議員を目指すとすれば、ヒラリーには大変な脅威になります。それにクリントン夫妻が表に出したくない秘密についてもJFKジュニアは掴んでいたと考えられるのです。
 それがジュニアの飛行機事故による死亡で、ブッシュ陣営も、クリントン夫妻も、ゴア陣営も、いずれも誠に都合よく秘密が闇に消えてしまったというのです。少し話がうまくでき過ぎていると思いませんか。
 実は、JFKジュニアが2000年の大統領選挙に出馬しようと決意する少し前に、ジュニアは米国の有名なテレビキャスターであるバーバラ・ウォルターズのインタビューを受けて次のように答えているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ウォルターズ:もしあなたが将来お父さんの跡を継いで大統領を目指し、
        そして大統領になったら、何に一番力を入れてやりたい
        ですか。
 JFK ジュニア:一つは税金を減らして国民の税負担を極力少なくする。
        二つ目は情報を公開することです。
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 このときジュニアは具体的には述べませんでしたが、「情報を公開する」とは、明らかにJFK暗殺の真相ということを指しているのです。なぜなら、この情報を公開すると、現在の米国の政治の闇が晴れてくるからです。
 しかし、不思議なことに、この情報隠蔽疑惑には政府やCIAやFBIだけではなく、当のケネディ家自身も情報の隠蔽に深く加担していることです。当時、ケネディ政権の司法長官を務めていたロバート・ケネディ自身が、真相を表に出さないようさまざまな工作をやっていることがわかっているのです。なぜ、このようなことをする必要があったのでしょうか。
 それは、ブッシュ家、ケネディ家、クリントン・ファミリーなどに共通する大きな秘密が存在するからです。
 ところで、2000年の大統領選挙のとき、フロリダで票の数え直しがあり、最終的には裁判所の決定で、3対2でブッシュ陣営の勝利が確定するという出来事がありました。ブッシュ大統領はそのときお世話になった人たちをホワイトハウスに招いて夕食会を開いているのですが、第1のゲストとして招かれたのが、エドワード・ケネディとその家族だったのです。これは、一体どう
なっているのでしょうか。そのエドワード・ケネディは、今年の大統領選挙ではケリー候補を応援しているのです。
 さらにブッシュ大統領は、凶弾に倒れたロバート・ケネディの名前を、ワシントンの司法省のビルにつけることを発表し、ロバート・ケネディの未亡人であるエセル夫人を式典に招いて次のように演説しています。
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  アメリカはいま、かつてない試練のときを迎えている。9.11テロと
 その以後のテロリズムとの闘いを勝利するためにもわれわれはロバート・
 ケネディの精神によりどころを求めなければならない。それは不正を許さ
 ず、悪魔を恐れぬという気概である。――ブッシュ大統領 
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 ブッシュ大統領のケネディ一族に対するこの気の使い方は何に基づくものでしょうか。これは、ブッシュ家とケネディ家が水面下でつながっていることを意味しています。そういう人たちによって、JFK暗殺の秘密は何としても封印しなければならないものであり、それを暴こうとする者には死が待っているのです。・・・・・[JFK03]

ブッシュ家とケネディ家.jpg       

2006年07月31日

単なる事故でない数ある証拠(EJ第1427号)

 JFKジュニアが一族の集まった席で大統領選出馬のことを話したのは、1999年の7月初旬です。そのとき、同席した親族が一斉に反対したのはいうまでもないことです。
 とくに姉のキャロラインは、母ジャクリーンの遺言を持ち出して必死に反対したのですが、ジュニアの意志は変わらなかったといいます。既にその時点ではジュニアの選挙準備はかなり進んでおり、ジュニアとしては、マスコミに表する直前に一族に打ち明けたものと思われます。
 その時点で、既に一部のマスコミにはジュニア出馬の情報は伝わっており、NBCテレビのニュース番組「デイトライン」では次のようなスクープ情報まで流していたのです。
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 JFKジュニアの考えや政治にかける思いは、7月26日付の「ニューズウィーク」誌に「ホワイトハウスを目指す第3の候補の登場」というタイト ルで掲載される予定である。――「デイトライン」
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 このニュースが流れたのは、1999年7月10日前後のことです。したがって、テレビがニュースでここまでいうからには、「ニューズウィーク」誌は既にその時点で特集記事を書き上げて印刷に入っていたことは間違いないと思われます。
 ところが、ジュニアは7月16日に飛行機事故を起こしているのです。しかし、奇怪なことに7月26日付の「ニューズウィーク」誌は発刊されず、そのまま廃棄処分になっているのです。一体「ニューズウィーク」誌に何が起こったのでしょうか。
 「ニューズウィーク」誌のような一流の出版社が、特定の号の発行を取りやめるのは異常なことです。結局、次に出た「ニューズウィーク」誌は8月2日号であり、その号には「JFKジュニアが飛行機事故で死亡」という記事は出ていましたが、大統領選のことは一言も触れられていなかったのです。
 国際未来科学研究所代表の浜田和幸氏の情報によると、これはJFKジュニアが大統領選に出馬しようとしていた痕跡そのものを消し去る作業の一環であるというのです。なぜ、そのようなことをする必要があるのでしょうか。
 確かに、あの2000年の米国の大統領選挙のとき、第3の候補としてJFKジュニアが出馬する意思を持ち、その準備をしていたということを、どのくらいの人が知っていたでしょうか。
 ほとんどの人は知らなかったと思います。共和党のブッシュ候補と民主党のゴア候補――この2人の対決しか見えていなかったはずです。それほど完璧にJFKジュニアの大統領選出馬の動きが根こそぎ消されたのです。
 既にJFKジュニアの飛行機事故から5年が経過しています。しかし、その後の調査によると、政府の公式発表を覆す情報が、次々と判明してきています。それをまとめておきます。
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 1.公式発表では事故当日は悪天候で荒れ模様ということだったのだが、実は晴れており、霧も出ていなかった。
 2.JFKジュニアは着陸態勢に入っており、管制官とも話しているが、その後その交信記録がなくなっている。
 3.JFKジュニアの飛行経験は未熟であるといわれているが実際は、300時間の飛行経験を有していること。
 4.しかも、JFKジュニアが操縦していた自家用飛行機は、緊急時の自動操縦機能がついており、安全である。
 5.引き上げられた機体や遺留品類は、「遺族の要請」という理由で一切公開されないことになったということ。
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 JFKジュニアの飛行機事故原因についての政府の公式発表は次の通りです。
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  悪天候とJFKジュニアの飛行経験未熟による操縦ミス
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 事実はこれと全く異なるようです。仮に100歩譲ってこの政府発表を受け入れるとしても、それならどうして「国家安全保障の理由」まで持ち出して、その調査資料を2029年まで封印するのでしょうか。
 JKFジュニアの大統領選への出馬――ジュニアとしては相当慎重にコトを運んだつもりでしょうが、その情報はCIAにかなり早い段階から漏れていたのです。この情報は、元大統領のジョージ・ブッシュ氏に伝えられ、ブッシュとゴアの両陣営の知るところとなったのです。
 それにしても、なぜ、両陣営はJFKジュニアの出馬を恐れたのでしょうか。選挙戦でのジュニアによる情報暴露を恐れたのでしょうか。それとも、ジュニアが出馬したら、負けると思ったのでしょうか。
 現在、米国の大統領選挙の投票率は、せいぜい50%行くか、行かないかなのです。ブッシュとゴアの戦った2000年の選挙でも51%だったのです。
 そこにジュニアが「新しい政治」を掲げて出馬したらどうなるでしょうか。おそらく、投票率は20%程度は上がり、70%程度になる可能性は十分あったのです。そうなると、選挙の勝敗は一挙に混迷をきわめるはずです。ここにJFKジュニアの勝機が出てくるのです。
 しかし、両陣営がもっと恐れたのは、JFKジュニアの2大公約のひとつである「情報公開」だと思われます。米国政府が「国家安全保障の理由」を楯にして、公開を阻んでいるJFKの暗殺の真相をはじめとする数々の国家機密――これをJFKジュニアが政権を取れば公開するはずです。そうなることだけは何としても防ぎたい――こういう強い意志が闇の強い勢力から働いたもの
と思われるのです。JFKもロバートも、そしてJFKジュニアまでもその勢力に抹殺されたものと思われます。・・・・・[JFK04]

映画「JFKジュニア」.jpg

2006年08月01日

JFKとキャメロット伝説(EJ第1428号)

 1963年11月20日の夜のことです。その夜は、ホワイトハウスの2階で、ケネ
ディ大統領が主催して最高裁判所判事たちをねぎらうパーティが開かれていたのです。
その席には海兵隊のバンドが入っていました。
 いつものことなのですが、大統領は海兵隊のバンドに2つのリクエストを出したので
す。1曲は「キャメロット」であり、もう1曲は「マイ・フェア・レディ」だったので
す。大統領はことのほか「キャメロット」という曲がお気に入りで、それまでに何度も
バンドにリクエストを出していたのです。
 しかし、これがホワイトハウスで演奏された最後の「キャメロット」になったので
す。なぜなら、それから3日後にこのパーティー会場の磨き上げられたフロアの上に、
木の棺に納められた大統領自身の遺体が安置されることになったからです。
 「キャメロット」――これはもともと中世ヨーロッパの英雄伝説で有名な英国のアー
サー王の宮廷があったといわれる場所の名称であり、その実際の所在地は今日も謎のま
まになっています。なお、「キャメロット」は、ミュージカル作品として、映画化もさ
れています。ずいぶん昔の話ですが、私はこの映画「キャメロット」を見たことを覚え
ています。
 実は、この「キャメロット」――わずか1000日で終わったケネディ政権のロマン
チックな別名なのです。今でも年配の米国人の多くは、この「キャメロット」という言
葉に出会うと、うっとりと目を細めて、楽しかった過去を振り返るような表情になると
いわれています。
 確かにあの時代、米国の経済力が世界を圧倒し、米国の文化が世界を席巻、米国の力
で世界の平和が保証された「パックス・アメリカーナ」の時代――こういってよいと思
います。政治が国民に心から信頼され、その頂点に立った大統領は、全国民に敬愛され
る、そんな時代だったのです。
 JFKの死後、JFKは伝説のアーサー王に擬せられ、彼を取り巻く忠実な側近たち
は、アーサー王の伝説になぞらえて「円卓の騎士」と呼ばれるようになっていったので
す。若き大統領と美貌のジャクリーン夫人、2人の幼い子供たち、そして彼らを補佐す
るスタッフたち――そういう一団が1000日を過ごした夢のようなひととき――それ
が次第に「キャメロット」と呼ばれるようになっていったのです。
 JFKが「キャメロット」の曲の中でとくに愛した一節があるのです。それは、最後
のところに登場する次の一節です。
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        ゆめゆめ忘るることなかれ
        かつてありにしこんな場所
        ただ、たまゆらのことなれど
        それが、かのキャメロット
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 調べてみてわかったことですが、リチャード・バートンとジュリー・アンドリュース
主演のミュージカル「キャメロット」が上演されたのは、1961年、すなわちケネデ
ィ政権が発足したときのことなのです。だから、ケネディ政権は「キャメロット」と結
び付けられるのでしょう。
 なぜJFKは神話となり、かくも美しく語られるようになっていったのでしょうか。
 それは、1972年にニクソン政権下で起こったウォーターゲート事件がきっかけだ
ったと思います。国民を信用せず、大統領権力の乱用によって、なりふりかまわず政権
の維持を図ろうとしたニクソンは、1974年8月に米国史上はじめての大統領辞任に
追い込まれてしまったのです。
 こういうニクソンに対してウソをつかなかった人物、国民と正面から向き合うのを恐
れなかった政治家としてのJFKの魅力が増幅されて高くなっていった――そのように
考えてよいと思います。かくしてケネディの神話はこのようにしてかたちづくられてい
ったのです。
 JFKが登場するまで、米国国民が最も偉大であると考える大統領のうち、上位3位
までは固定していたのです。
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  第1位 リンカーン ・・・・・・・・・・ 第12代
  第2位 ワシントン ・・・・・・・・・・ 初代
  第3位 フランクリン・ルーズベルト ・・ 第32代
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 リンカーンについてはいうまでもないことながら、南北分裂を回避し、国民の統一を
維持した実績があり、ワシントンは建国の父といわれる人物です。ルーズベルトは大不
況後の経済を再建し福祉政策を推進、そして第2次世界大戦を勝利に導いた大統領とし
て米国民の尊敬を集めています。
 これら3人の大統領は、いわゆる「ビック・スリー」であり、この3人を抜くことは
不可能とされてきたのです。ところが、JFKの登場で順位は次のように変化したので
す。
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        第1位 ケネディ
        第2位 リンカーン
        第3位 ルーズベルト
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 この順位は80年代から今日にいたるまで不変なのです。しかし、JFKは人気で第
1の座を確保しているのであって、実績ということになると話は違ってくるのです。
 生前JFKは「米国人が一番よく覚えている日は2つある。それは、真珠湾攻撃とル
ーズベルト大統領の死んだ日だ」といっていたそうですが、現在の米国人は「JFK暗
殺と真珠湾攻撃」といっています。しかし、これからは、9.11がそれに加わること
とは間違いないと思われます。大統領の実績による順位については来週に明らかにした
いと思います。 ・・・・・[JFK05]

DVD/キャメロット.jpg

2006年08月02日

歴史学者の下したJFKの評価(EJ第1429号)

 JFKの死後20年が経過した1983年に、ペンシルベニア州立大学のロバート・
マレー教授が、学位を持つ全国1000人の歴史学者に対して、偉大なる大統領、偉大
に近い大統領、平均以上の大統領は誰かというアンケートを出したのです。その結果は
次のようになったのです。
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 ≪偉大なる大統領 ・・・・ 4人≫
  リンカーン、フランクリン・ルーズベルト、ワシントン、ジェファーソン
 ≪偉大に近い大統領 ・・・ 4人≫
  セオドア・ルーズベルト、ウィルソン、ジャクソン、トルーマン
 ≪平均以上 ・・・・・・・ 8人≫
  ジョン・アダムス、リンドン・ジョンソン、ポーク、ケネディ、マディソン、
  モンロー、ジョン・クインシー・アダムス、クリーブランド
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 これによると、JFKは、「偉大」でも「偉大に近い」でもなく、「平均以上」の第
4位、しかも、リンドン・ジョンソンよりも下位になっています。そして、総合順位で
は、38人の歴代大統領(カーターまで)のうちの第12位にランクされているので
す。確かに実績で評価されると、在位期間の短いJFKが不利になるのは当然のことで
すが、国民に「偉大なる大統領は誰か」と聞くと、依然としてJFKが第1位を占める
のです。
 米国国民から誕生日を記憶されている大統領は初代ワシントンと第12代のリンカー
ンの2人です。なぜなら、これら2人の大統領の誕生日は祝日になっているからです。
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    ワシントンの誕生日 ・・・・・ 2月22日
    リンカーンの誕生日 ・・・・・ 2月12日
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 しかし、JFKについては暗殺された日、いや暗殺された時間までも記憶している米
国国民が多いといいます。それは、いかにこのことが米国国民にとってショックであっ
たかを示していると思います。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1963年11月22日/中部標準時間/午後0時30分
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 毎年11月22日になると、バージニア州アーリントンの国立墓地の一画に特別に設
けられたJFKの墓所に今も数多くの人たちが訪れ、周囲の石垣に刻まれている有名な
就任演説の一節を口ずさみ、ジャクリーン夫人が夫に捧げた「永遠の炎」を凝視する
――そういう光景が見られるのです。墓所を訪れる人の数は、年間を通じて400万人
といわれています。
 また、暗殺現場であるダラスでも、毎年11月22日になると全国各地からJFKを
慕う人たちが訪れ、暗殺現場に花束を置いて祈りを捧げる光景が見られます。
 また、オズワルドがJFKを狙撃したとされるテキサス教科書倉庫ビルの6階は、
そのまま「6階」という名の一種の博物館となっており、大勢の観光客が訪れるのです。
それは、事故を調査したウォーレン委員会の報告書――「ウォーレン報告」に教科書倉
庫ビルの6階から、オズワルドが教科書を入れた紙の箱を土台にして狙撃したと書いて
あるからです。
 このように、JFKに関しては、600冊を超える本はもちろんのこと、テレビドラ
マ、ミュージカル、小説、戯曲、映画、講演会、大学の講義課目のテーマにまでなって
おり、この傾向は現在も続いているのです。こういうJFKをビジネスにする産業を
「ケネディ産業」と呼んでいます。
 JFKが何をやったのかについては、それが暗殺理由の解明につながるため、いずれ
詳しく述べることになりますが、それにしても現在にいたるまで、JFKが高い人気を
保ち続けているのはなぜでしょうか。既に現時点では、事件のあとに生まれた世代が全
体の半分以上になっているのです。
 それは、JFKが国民にウソをつかなかった点にあると考えられるのです。彼は国の
現状をフランクに国民に訴えて協力を要請したし、自分のあやまちを素直に認め、それ
をジョークのタネにするユーモアのセンスも持っていたのです。
 これに比べて後継のジョンソンは、ベトナム戦争が不利に展開していることを最後ま
で隠し、結局再選断念に追い込まれています。そのあとのニクソンは、ウォーターゲー
ト事件への関与を最後まで否定して結局大統領を辞任させられています。
 また、レーガン大統領はイラン・コントラ事件への関与を否定して人気を凋落させ、
当時副大統領を務めていたブッシュ大統領(父)もそれに深く関与していたにもかかわ
らず、それを認めていないのです。
 ちなみに、イラン・コントラ事件とは、1980年代の米国最大の事件なのです。簡
単にいうと、米国政府が敵国のはずのイランに密かに武器を売り、その代金を中南米ニ
カラグアの右派反政府武装組織「コントラ」に渡して武器を買わせていたもので、米国
では、イランやコントラに武器を売ることが違法とされていたため、大問題となったの
です。
 映画俳優から大統領になったレーガンはほとんどの実務を副大統領のブッシュに丸投
げしていたので、イラン・コントラ事件はむしろパパ・ブッシュに大きな責任があると
いえます。
 1961年1月に大統領に就任したJFKは、よほどのことがない限り2期8年の任
期は保障されていたと考えられます。それがわずか2年10ヶ月で中断されてしまった
ので、同情心と共にJFKが公約したことは「きっと彼ならやったであろう」という好
意的な評価がなされているといえます。これは、人々がJFKに見ようとした「大いな
る幻影」といえると思います。 ・・・・・[JFK06]

2006年08月03日

米国黄金時代の最後の大統領(EJ第1430号)

 JFK暗殺30周年の1993年11月、AP通信社は世論調査を実施しています。
 それによると、回答者の71%は、この事件がオズワルドもからむ陰謀説であるとし
その56%はそれにはCIAかマフィアがからんでいると指摘しています。さらに、
全体の78%の回答者は、「政府は意図的に真実を隠す工作をしている」と断じ、それ
でいて、56%の回答者が「暗殺事件の真相は知りたくない」として、暗殺事件の再捜
査を望んでいないことを明らかにしています。この結果をどう解釈すればいいでしょう
か。
 実は、世界の米国を見る目は、JFKの暗殺前と後とでは大きく異なるのです。ある
意味でJFKは米国黄金時代の最後の大統領であったといえるのです。
 第2次世界大戦前から戦時中、戦後を通して、米国という国は政府、議会、言論界、
財界、企業など、どれをとっても一定の秩序というものがあり、米国の自由と民主主義
の価値観を守るために国が一丸になっていたのです。戦後においては、大統領はルーズ
ベルト、トルーマン、アイゼンハワーと続き、そしてJFKにいたるのですが、ここま
では米国は世界中から理想の国であると思われていたのです。
 しかし、JFK暗殺後、状況は一変します。著名な経済学者であるアーサー・バーン
ズ氏――アイゼンハワー政権では大統領経済諮問委員会議長、ニクソン政権ではFRB
議長、さらにレーガン政権では西ドイツ駐在大使を務めた大物経済学者は、JFK暗殺
20年後に、ニューヨーク・タイムズ紙に次のように書いているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ケネディ暗殺は大変なショックを与え、アメリカのイメージを一変させた。多くのヨ
ーロッパ人は、これほど愚かな暴力行為をやってのける国が、一度は自分たちの理想
の国であったのが理解できなかった。ケネディ暗殺のあとに、ロバート・ケネディ
(上院議員)、マーチン・ルーサー・キング牧師の恐ろしい暗殺事件、ベトナム戦争、
公民権暴動、ウォーターゲート事件と続き、黄金のアメリカのイメージは粉々に打ち
砕かれたのである。――アーサー・バーンズ、1983年12月27日付
                         ニューヨーク・タイムズ紙より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 冒頭のAP通信社の世論調査で、JFK暗殺の真相を知ることを望んでいない人が
56%もいたのは、この事件の背景を徹底的に解明すると、何らかのかたちで政府機関
が最高指導者の暗殺に関与していたという忌まわしい事実が明らかになるかもしれない
ということを国民は恐れたのでしょう。調査によれば、米国国民の78%は政府機関の
関与を疑っているからです。もしそのようなことになると、史上最大の民主主義国とし
ての米国のイメージは泥にまみれることになると考えたからです。
 よく知られているように、JFK暗殺に関する調査は、JFKの後任者であるリンド
ン・ジョンソン大統領の指示によって組織されたウォーレン委員会が中心になって行っ
たのです。そして作成された報告書が「ウォーレン報告書」です。
 このウォーレン報告書の結論は、JFK暗殺は、キューバの革命政治家カストロ首相
を支持する孤独な左翼青年オズワルドの単独犯行というものでした。しかし、この結論
は、年を追うにしたがって、国民のほとんどが疑問視するほど内容がずさんなもので
あることがわかってきたのです。
 ウォーレン報告書が発表された1964年の時点では、JFK暗殺はオズワルドの単
独犯行ではなく、オズワルドを含めた陰謀の結果であるとする人は31%でしたが、4
年後の1967年には、それが国民の3分の2の67%にふくれ上がってるのです。
 さらに、1993年11月にCBS放送が独自に行った調査によると、実に89%の
人がオズワルドの単独犯行説を疑問視していることがわかっているのです。
 ウォーレン報告書は、全文296000語、888ページのほか、26巻の膨大な資
料集がついています。その内容は、はじめに「オズワルドの単独犯行」という結論を先
に作り、その結論に対して都合の悪い事実はすべて抹消し、都合の良い事実だけを採用
して、ウソを含めて記述したものといってよいと思います。
 したがって、皮肉なことに、ウォーレン報告書は、事件の真相を知ろうとする米国国
民にとって、逆に大きな壁となって立ちはだかっているのです。それほど、その内容は
大きな矛盾に満ちたものであり、政治的色彩の濃い表面的な調査に過ぎない代物なので
す。これでは内容を疑問視する人が増えるはずです。
 ウォーレン報告書は、米国の政、財、官界、それに言論界のエリートたちが、史上最
大の民主主義国家、法治国家としての米国のメンツを守るための渾身の努力が凝縮され
たものなのです。
 犯人は、アメリカン・ドリームに背を向け、共産主義国ソ連や社会主義国キューバに
ゆがんだ関心を持つ世をすねた一匹オオカミ的存在でなければならなかったのです。そ
して、それに適合する人物が用意されたのです。それが、オズワルドなのです。
 ウォーレン報告書に付けられている26巻の膨大な資料集は、約10ヶ月にわたる調
査の間に、連邦捜査局(FBI)や大統領警備隊、ウォーレン委員会が行った面接や尋
問、種々の証拠品などをまとめたものであり、ウォーレン報告発表の3ヵ月後に公表さ
れています。
 しかし、事件に関連した人物、組織、問題別の索引が一切なく膨大なナマデータが国
民の前にドンと投げ出されたかたちになっているのです。これは、項目や索引が付いて
いない百科辞典のようなものであり、ほとんど使い物にならない代物なのです。
 しかし、そのような批判を浴びてもウォーレン委員会は索引は作らず、最終報告書を
提出するやいなや委員会をサッサと解散してしまったのです。委員会としては、そんな
資料集を丹念に読む人などいないという確信を持っていたからです。・・・[JFK07]

2006年08月04日

ウォーレン報告を否定したジョンソン(EJ第1431号)

 ウォーレン報告書の26巻、2万ページの資料集――これにはアルファベット順、問
題別などの一切の索引はなく、ある問題についての証言や証拠品を調べるには、2万ペ
ージを1ページずつ当るしかなかったのです。
 なぜ、そのような不親切な資料集を作ったのか――おそらく、わざと探しにくくする
というのが狙いであったと思われます。しかし、ウォーレン委員会の委員がそう考えて
資料集を作ったとすれば、それは大きな誤算だったというしかないのです。
 というのは、JFK暗殺以後、全米はもちろん、全世界に何百何千の暗殺研究者が誕
生し、それらの資料を丹念に読んで分析し数多くの矛盾やごまかし、改ざんなどを発見
したからです。
 その暗殺研究者の一人であるシルビア・ミーガー女史は、全ページを丹念にチェック
したうえで、次の7つの問題点を指摘しているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.資料を検討して不正確であるとわかったことが、報告では事実として記載されて
   いる。
 2.報告には記載されているのに、資料集ではその裏づけを十分とっていないものが
   ある。
 3.証言の趣旨を違えて、いやあえて都合の良いように勝手に解釈して結論を出して
   いる。
 4.報告の結論に、はっきりと反対する証言については、すべて削除処理をしている
   こと。
 5.オズワルドにとって有利になる証言や資料は、すべてカットされ、ボツにされて
   いる。
 6.疑問ある状況を徹底的に調査せず、自然に導かれる推論とは異なる結論を出して
   いる。
 7.きわめて重要な一部の証人からの証言が、資料集では全面カットされ出てきてい
   ない。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここで、ウォーレン報告の結論をまとめておくことにします。全部で5つのポイント
があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.ケネディ大統領を暗殺した犯人は、リー・ハービー・オズワルドであり、単独犯
   行であること。
 2.オズワルドは大統領のほかに、ダラス市警のティピット巡査を10番街で、射殺
   していること。
 3.オズワルドは、逮捕後護送される途中、ジャック・ルビーによって拳銃で殺害さ
   れていること。
 4.ケネディ大統領を撃ったすべての銃弾は、テキサス教科書倉庫ビルの6階から発
   射されている。
 5.銃弾の数は3発であり、1発は大統領の背中に、もう1発は頭部に命中し、1発
   は外れている。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 歴代の米国政府は、このウォーレン報告を全面的に支持し、これまでにその結論を何
ひとつ訂正していないのです。しかし、ほとんどのJFK暗殺の研究者たちが疑問なし
に受け入れられるのは、上記5つのポイントのうちの「3」だけなのです。
 現在、オズワルドの単独犯行に疑問を唱える人は多いのですが中でも事件の渦中の人
物のひとりが単独犯行に対して疑問を呈しCIAの関与までほのめかしていることは注
目されます。その渦中の人物とは、ウォーレン委員会を設置し、JFK暗殺の調査を命
じたリンドン・ジョンソンその人なのです。
 殺人事件などで犯人がわからないとき、それによって一番利益を得る人物がまず疑わ
れますが、ジョンソンこそはJFKが殺されたことによって大統領の地位が転がり込ん
できたのですから、
一番疑われてもおかしくない人物です。事実、ジョンソン犯人説を唱える研究家も多い
のです。
 ジョンソンは、大統領を退任して4年後の1973年1月22日に64歳で亡くなっ
ているのですが、死ぬ少し前に評論家で作家のレオ・ジャノスと会見して、JFK暗殺
のことについて話しているのです。
 ジャノスは、この会見を1973年7月号の雑誌『アトランチック』に掲載している
のですが、ジョンソンは10年前のJFK暗殺に関して次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  自分としては、オズワルドがケネディ大統領を撃ったライフルの引き金を引いた
 ことまでは承服できる。だが、委員会が暗殺事件を徹底的に掘り下げたかどうかに
 は確信がない。私のカンだが、オズワルドはキューバ侵攻作戦への復讐をねらう親
 カストロ派キューバ人たちと関連があったのではあるまいか。
                           ――リンドン・ジョンソン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ジョンソンは、ジャノスとの会見ではこのようにかなり抽象的に述べているのですが
1975年になって、米テレビ界の大御所的存在であるCBSアンカーマンのウェォル
ター・クロンカイトが既に故人となっていたジョンソン大統領をテレビに登場させて、
衝撃的な報道を行ったのです。彼は密かにジョンソンと単独インタビューを行い、その
模様を収録していたのです。
 それによるとジョンソンは「ケネディの暗殺には1人以上の人物が関係している。自
分としてはオズワルドが単独でケネディ大統領を暗殺したと考えたことは一度もない」
と明言しているのです。このクロンカイトの報道は、ウォーレン報告を正しいとする立
場をとる政府関係者を打ちのめしたのです。
 また、ジョンソンの長年の腹心といわれる郵政長官を務めたアービン・ワトソンは、
「ケネディ暗殺事件に関してジョンソン大統領は、陰謀が存在したと現在では感じてい
る」と述べたことを証言しているのです。
 死を前にしてジョンソンは、いろいろなことをしゃべっているのですが、それは果た
して真実なのでしょうか。・・・・・[JFK08]

ウォールター・クロンカイト.jpg

2006年08月07日

ジョンソンはなぜ副大統領になったか(EJ第1432号)

 リンドン・ジョンソンは、なぜ死ぬ間際になって「JFK暗殺には陰謀が存在してい
る」などということを評論家やキャスターにしゃべったのでしょうか。それは、彼自身
が命じたウォーレン委員会による報告の結論とは100%違う内容であったので、米国
民は衝撃を受けたのです。
 JFK暗殺にはジョンソンも一枚噛んでいるという説があるのです。なぜら、JF
Kが急死して一番トクをする人物がジョンソンであるからです。推測ですが、そのこと
をジョンソンは生涯気にしていたといわれます。そのため、死ぬ間際に本当のことをい
っておきたいと考えたのではないでしょうか。
 当時ジョンソンとケネディ兄弟はいろいろなことでもめており仲が良くなかったの
です。副大統領という役職は、大統領が若くやる気があって優秀な人物の場合は、名誉
顧問的な影のような存在でしかないのです。
 逆に大統領に実務能力がない場合――ちょうどレーガン政権のときのレーガン大統領
とブッシュ(父)副大統領のケースは、大統領が副大統領に実務を丸投げするので、副
大統領は実質的に影の大統領として力をふるうことができるのです。
 ジョンソンは、「どうしてJFK政権の副大統領を引き受けたのか」と親しい人に尋
ねられたとき、次のように答えたといわれています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 調べたんだが、アメリカの大統領のうち、4人に1人は在任中に死んでいる。私はギ
ャンブラーだから、残された唯一のチャンスに賭けたのさ。       
――リンドン・ジョンソン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ケネディ兄弟は、ジョンソンの副大統領の仕事ぶりに大きな不満を持っており、次期
大統領選ではジョンソンを副大統領職から外す計画を持っていたといわれています。そ
れには、ジョンソン副大統領が、全米の犯罪捜査を一手に指揮していたFBIのフーバ
ー長官と大変仲が良く、そのフーバー長官とJFKの弟のロバート司法長官が何かにつ
けて険悪な対立を繰り返していたことと無関係ではないと思います。
 もともと超保守派のフーバーは、JFKを「うわついた進歩派のインテリ」の代表と
して、非常に嫌っており、とくにその実弟のロバート・ケネディが司法長官として自分
の上司になったことにがまんがならず、ロバートとは険悪の間柄だったのです。
 不思議なことといえば、JFKは、宿敵フーバーの盟友、ジョンソンをなぜ副大統領
に選んだかということです。これには“ある取引”があったという説があるのです。
 1960年の大統領選を迎えたとき、フーバーFBI長官は公職にあり、特定の大統
領を支持できなかったのですが、彼は何としても30年来の友人であるジョンソンを、
大統領にしてやりたいと考えたのです。
 しかし、ケネディの人気は圧倒的でとても太刀打ちはできない――そこで戦略を変更
したのです。ジョンソンを副大統領に送り込み、そのうえで大統領を狙わせるという戦
略です。そのため、フーバーは、ケネディが民主党大統領候補の座を手に入れたときそ
れまでに地位を利用して手に入れていたJFKの多彩な女性関係についての内部情報
をJFK側にぶつけて、盟友ジョンソンを副大統領に指名するよう追い込んだというの
です。
 ジョンソン大統領自身も晩年になって「もし、フーバーFBI長官がいなかったら、
この私は大統領にはなれなかったろう」と述懐しているのです。そして、JFKが暗殺
され、ジョンソンが大統領になった結果、フーバーはFBI長官の地位に大統領の特例
措置によって、40年以上も座り続けることになります。
 このフーバーFBI長官――JFKが暗殺されたあとの行動が問題視されているので
す。それは、まるでJFKが暗殺されることを事前に知っていたかのような行動を行っ
ているのです。
 JFKが暗殺されたのは1963年11月22日の午後0時30分(中部標準時間)
のことですが、ダラス市警は、午後2時50分にオズワルドを逮捕しています。そのと
きの容疑はダラス市警のティピット巡査殺害容疑です。
 ところがそれから5時間後に、オズワルドはティピット巡査殺害容疑で起訴され、そ
れからさらに6時間近くたった翌23日の午前1時30分、今度はケネディ大統領暗殺
の容疑で起訴されたのです。これは、どう考えても早すぎると思います。まるで何かを
スケジュール通りに進めているように感じます。
 しかし、それよりも早い判断をした人がいたのです。その人はその時点でダラスから
遠く離れたワシントンにいたフーバーFBI長官なのです。フーバー長官は、22日午
後5時15分――オズワルドに対して、別件逮捕のティピット巡査殺害容疑で起訴もさ
れていない時間に早くもFBIに次の部内メモを回したことが確認されているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ダラス市警は多分まちがいなくケネディ大統領の暗殺犯と思われる人物を逮捕し
た。この男は変人で、親カストロ極左の過激分子である。――フーバーFBI長官
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 オズワルドは、12時間に及ぶFBI、テキサス州司法当局、ダラス市警による取調
べに対して、ケネディ大統領とティピット巡査のいずれの件についても無実を主張し、
記者団の前に姿を現わしたときには「私ははめられた」と叫んでいるのに、その時点で
既にフーバー長官は、オズワルドを犯人と決めつけているのです。彼は異常であるほど
早く、オズワルドの単独犯行を主張していたことになります。
 その後のウォーレン委員会の真相調査においては、フーバー長官の主張するオズワル
ド単独犯行説が中心軸となって、結論が出されることになるのです。このフーバーFB
I長官――JFK暗殺事件に何か関係しているのでしょうか。・・・・・[JFK09]

フーバーFBI長官.jpg

2006年08月08日

ウォーレン委員会設立の経緯(EJ第1433号)

 JFKが暗殺され、思いもかけず大統領に昇格したリンドン・ジョンソン――彼が
まずやらねばならないことは、次のことだったのです。これに対してフーバー長官らの
助言があったことは、いうまでもないことです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.ケネディ大統領暗殺の調査を中央政府の手で1本にまとめ地方自治体などの独自
調査を封じ込めること。
 2.翌年−1964年の大統領選挙で、自分に不利なかたちでこの事件が取り上げら
れないように配慮する。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ジョンソン大統領筋があわてたことは、米国内はもちろん外国において「ある噂」が
しきりと流されるようになったからです。その噂とは、次のようなものです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ケネディ大統領の暗殺は、ジョンソン大統領の実現を欲していた政府内の一部の人た
ちの手によるクーデターである。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 噂の中には、ジョンソン大統領自身が暗殺の首謀者であるというものまであったの
です。その根拠は次の3つです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.JFK暗殺の場所がジョンソンの本拠地であるテキサスで 起こっていること。
 2.副大統領の職務をめぐって、ケネディ兄弟とあまりうまくいっていないこと。
 3.ケネディ大統領が急死して一番トクをするポジションにいる人物であること。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、ジョンソン大統領首謀説は、ほとんど根拠のないものであるといえます。な
ぜなら、JFK暗殺事件はもっと根の深い事件だからです。
 ジョンソン大統領がまずやらねばならない2つのことについて精力的に動いたのは
フーバーFBI長官です。暗殺に関する陰謀説にストップをかける――この目的のため
に、7人の委員から成る中央政府としての調査委員会が設置されたのです。
 重要なのは、ジョンソン大統領にしても委員会のメンバーにしても、最初から真実を
追究しようなどという気持ちなど、さらさらなかったことです。このことは、後に発見
された委員会内部の次の極秘メモがはっきりと示しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  われわれの目的は、完全な正確さで事実を解明するのではなく
  オズワルドが単独で犯行を行ったという、仮定の結論に肉づけ
  することにある。        ――委員会内部の極秘メモ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ひどい話だと思いませんか。目的は陰謀説を打ち消すことにあり、そのためにすべての
真実を破壊してしまったといっても過言ではないのです。国家ぐるみで真実を隠そうと
していることになります。JFKジュニアは、この不正を暴こうとして殺されたのでは
ないでしょうか。
 そういう目的から、委員会のメンバーはいろいろなことを配慮して巧妙に決められて
いるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 委員長:アール・ウォーレン最高裁判所長官
  委員:リチャード・ラッセル上院議員(民主党)
  委員:ジョン・シャーマン・クーパー上院議員(共和党)
  委員:ヘイル・ボッグズ下院議員(民主党)
  委員:ジェラルド・フォード下院議員(共和党)
  委員:アレン・ダレス前CIA長官
  委員:ジョン・マックロイ元世界銀行総裁
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これは濃厚な政治的配慮のこらされた顔ぶれなのです。議会内部の多数派は、ラッ
セルとボッグズという強力なボスたちが押さえ、クーパーとフォードは共和党をなだめ
る――リベラル派は、ウォーレンの存在で安心させ、東部エスタブリッシュメントは、
エリート中のエリート、マックロイが代弁し、CIAやFBIなどの強力な官僚組織か
らは、理想的な代表として、アレン・ダレスがいるという配置です。
 こういうメンバーによって、議会内に設置の動きがあった暗殺調査のための特別委員
会の設置を封じ込めたのです。しかし、ここで知っておくべきことは、このメンバーが
とてもジョンソン大領やフーバーFBI長官のいいなりになるような人物たちではない
ということです。
 委員長のウォーレンは、かつてのアイゼンハワー大統領から密かに恐れられたほどの
人物であり、年齢を超えたケネディの盟友なのです。また、クーパー、ラッセル、ボッ
グズらの3議員はいずれも独立心の強い有能な議員であり、マックロイも公正で献身的
な人物として知られていたのです。
 問題のある人物は、フォード共和党下院議員とアレン・ダレス前CIA長官の2人で
す。結果的には、これらの2人がウォーレン委員会の調査の方向を大きく誤らせること
になったのです。
 このうち、アレン・ダレスは、ケネディ大統領に首を切られているし、後に大統領に
なったフォード下院議員は、ニクソン元副大統領(当時)が直接ジョンソン大統領に売
り込んで委員にしているのです。
 フォード議員がウォーレン委員会の委員になったことを一番喜んだのは、フーバー
FBI長官なのです。フーバー長官としてはれまでの捜査結果に批判が加えられるのを
非常に恐れていたのですが、既知の盟友フォード議員が委員になったことによって、
安心したといわれます。
 このフォード委員は、委員会での極秘の審議内容をフーバーに逐一伝えており、FB
Iは恩恵を蒙ることになります。・・・・・[JFK10]
                 

2006年08月09日

知られざるウォーレンとフーバーの仲(EJ第1434号)

 JFK暗殺事件の謎を解くには、ウォーレン委員会のメンバーをもう一度ていねいに
見直す必要があります。ウォーレン委員会は、委員長のアール・ウォーレンをはじめそ
れなりの人物が集められており、問題のある人物としては、アレン・ダレスとジェラル
ド・フォードの2人である――このようにEJ第1433号で指摘しています。
 しかし、ダレスとフォードがいかに画策しても、委員長をはじめ、他の5人の委員が
公正な措置をとっていれば、オズワルドの単独犯行説などという調査結果にはならない
はずなのです。そういう意味ではこれら5人の委員にも何か問題がある――そう疑って
も不思議はないと思います。
 まず、委員会の顔であるアール・ウォーレンから見ていくことにします。アール・
ウォーレンは、アメリカ合衆国の第14代最高裁長官を1953年から69年までの1
6年にわたって務め、歴史に残る名長官といわれた人です。
 大統領のジョンソンやフーバーFBI長官は、ウォーレンを委員長にすることによっ
て委員会の信頼性を高めようとしたわけです。しかし、ウォーレンは、なぜ委員長を引
き受けたのでしょうか。なぜなら、ウォーレンはこれによって後世から、善悪2つのま
ったく違った評価を受けることになったからです。
 最高裁長官をやっていることから、ウォーレンは根っからの法律家と思われています
が、もともとは共和党のリベラル派を代表する政治家なのです。地方検事をやったあと
1939年にカリフォルニア州司法長官に共和党から立候補して当選し、太平洋戦争が
はじまったあとにカリフォルニア州知事に挑戦し、全米あげての民主党ブームにもかか
わらず、当選しているのです。
 1948年に共和党に請われて、デューイ大統領候補の副大統領を引き受けたのです
が、このときはトルーマン大統領にデューイが負けて副大統領にはなれなかったので
す。しかし、今度は大統領候補として名乗りを上げるのです。
 しかし、そのとき共和党には最強の大統領候補者であるアイゼンハワーがいて、ウォ
ーレンは夢をかなえられなかったのです。逆に大統領に就任したアイクこと、アイゼン
ハワーは、与党リベラル派を代表するウォーレンをライバルとして警戒し、たまたまビ
ンソン連邦最高裁長官が急死したことをいいことに、ウォーレンを連邦最高裁長官のポ
ストに押し込んだのです。
 しかし、ウォーレンは最高裁に進歩的色彩を持ち込み、公立学校での人種差別教育を
違憲とする画期的な判決を下したのです。1954年のことです。しかし、1960
年の大統領選で共和党がアイクの子飼いの保守派、ニクソン副大統領を党の大統領候補
として選んだとき、ウォーレンは共和党を見限り、民主党候補のケネディを支持するの
です。ここにウォーレンとケネディは26歳の年齢差でありながら、心の通う友人同士
としての付き合いがはじまったのです。
 以上はウォーレンについてよく知られている表の情報です。裏の情報としては、ウォ
ーレンとフーバーの関係があり、これはあまり知られているとはいえないのです。
 最初の出会いは1932年、ウォーレンは41歳で故郷であるカリフォルニア州アラ
メダ郡の地方検事、フーバーは、37歳で司法省の検察局長を既に8年も務める中堅の
実力官僚だったのです。この検察局が3年後にFBIに改称されるのです。
 このフーバーという人物は肝胆相照らす友人・知人に対してだけ、自分が職務上知り
得た重要情報を定期的に提供していたのです。いかにもフーバーらしいやり方ですが、
ウォーレンもそのリストに入れて情報を流していたのです。
 1951年にはウォーレンはカリフォルニア州知事になっていましたが、フーバー
長官は部下に次のように命令していたといわれています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ウォーレン知事の要求には何であれ、迅速に対応せよ。――フーバーFBI長官
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ウォーレン知事はまさに特別待遇で、知事が所用でワシントンにくるときは、FB
I長官差し回しの運転手付きの公用車が提供されていたといいます。それに甘えたのか
ウォーレンも自分の娘にいい寄ってくる男の身元調査をフーバーに頼んだり、後の最高
裁長官にしては、かなり公私混同の人間関係があったのです。
 このことと、後にウォーレンがジョンソン大統領の求めに応じて、当初気が進まなか
ったJFK暗殺事件に関する調査委員会の委員長を引き受けたことは無関係ではないの
です。当然、フーバー長官からも委員長就任の強い要請があり、断り切れなかったと
考えられるのです。
 そういうわけでウォーレンは、最初からFBIの捜査資料を重視する方針を取り、オ
ズワルド単独犯行説を支持せざるを得ない立場に追い込まれていったのです。
 しかし、ウォーレンは、7人の委員と捜査を担当するFBIやCIAの間を取り持つ
事務局長ともいうべき「首席顧問」にかねてからその手腕を熟知していたオルニー元司
法次官補を任命し、調査のリーダーシップを握ろうとしたのです。このオルニーとい
う人物は1953年から4年間FBIの刑事局長を務め、組織犯罪捜査の権威として有
名な人だったのですが、フーバーの独善的なやり方にはかねてから批判的だったのです。
 この動きを知ったフーバーは、委員の一人であるフォード下院議員に依頼して、たち
まち、この人事を葬り去ったのです。そして、中立派のランキン元司法次官を代わりに
送り込んだのです。
 このように、ウォーレンは委員長とはいいながら、フーバーとの永年にわたる人間関
係が災いして、自分の右腕になる首席顧問ですら自分で選べなかったのです。ウォーレ
ンとしては、FBIとCIAの引いた線路の上をただ、ひたすら超特急で突っ走るしか
なかったのです。 ・・・・・[JFK11]

ウォーレンとフーバー.jpg

2006年08月10日

委員会結論に反対した3人の委員(EJ第1435号)

 ウォーレン委員会の委員でありながら、委員会の結論に対して反対の立場をとった委
員が3人いるのです。その3人の委員を上げておきます。
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   リチャード・ラッセル上院議員(民主党)
   ジョン・シャーマン・クーパー上院議員(共和党)
   ヘイル・ボッグズ下院議員(民主党)
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 リチャード・ラッセルは、上院軍事予算委員会委員長という要職にあり、その強力な
地位を利用して、地元のジョージア州に多くの軍事基地を建設させた実力議員です。ラ
ッセルは、ウォーレン報告に疑問を抱き、それを公にした最初の人物です。
 ラッセルが報告に関して疑問を持ったのは、主にFBIとCIAが重要情報を委員会
に提出せずそれらを次々と抹殺してしまった点にあります。そして、1970年1月1
9日付の「ワシントンポスト」紙上で、ラッセルはJFK暗殺が陰謀であったことをウ
ォーレン委員として書いているのです。
 しかし、その後、間もなくして彼は他界しているのです。詳細な情報は不明ですが、
普通の死にかたではなかったという情報があるのです。
 続いて、ジョン・シャーマン・クーパーは、委員会の中においては、多くの反対意見
を出しているのです。とくにJFKの首に当った弾丸とコナリー知事の胸を貫通した弾
丸が同一であるとする「単発説」には、最後まで反対の立場を貫き通したといわれてい
ます。
 しかし、報告書が出たとたん、なぜかそのことに関してはまったく喋らなくなってし
まったのです。そして、クーパーは後にインド大使に任命されます。その任命者は、ほ
かでもない、あのリチャード・ニクソンだったのです。クーパーは地位で取引きしたの
でしょうか。何ともすっきりしない話なのです。
 最後は、ヘイル・ボッグズです。ウォーレン報告書にサインはしたものの、最後まで
委員会の結論に疑問を抱いていたのです。とくに委員会に提出されたFBIの報告書は
デタラメであると主張したのです。
 ウォーレン委員会が解散して7年後のことです。ボッグズは突如として、FBIの批
判をはじめたのです。ウォーレン委員会で委員をしていたとき、彼の電話がFBIによ
って盗聴されていたことがわかったからです。実は、他の委員に関しても同様の盗聴が
行われていたことが、あとで明らかになっています。
 ボッグズの批判は、FBI長官のフーバーに集中し、それについて彼は議会内で特別
演説を行い、フーバーを「無能な老害」と決めつけ、その辞職を迫ったのです。永年に
わたって「アンタッチャブル」といわれていたフーバー長官を攻撃し、議会から彼の辞
職を迫ったのは、後にも先にもボッグズ一人だったのです。
 下院で最も雄弁家といわれるボッグズの演説は迫力があり、法を守るべきFBI自
身が法を無視し、人権を抑圧していると指摘して次のようにいっているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ミッチェル(当時司法長官)は、法と秩序の信奉者を自認している。しかし、その
法と秩序が、基本的人権を抑圧し、個人の自由を剥奪するようなものであるなら
ば、私には「神よ、我々を助け給え」というほかにいうべき言葉がない。
                  ――国家記録保存所・合衆国下院演説記録より
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 この演説は、ワシントンを引っくり返すような反響を巻き起こしたのです。この演説
の直後に、ボックズが救いようのないアル中患者であるという噂がワシントン中に流れ
たといいます。これを流したのは、もちろんフーバーのFBIだったのです。
 それから約1年後の1972年10月のことです。ボッグズの乗った飛行機
がアラス
カ上空で行方不明になります。事故か、それとも謀殺か――ボッグズの死体はもとより
飛行機の機体さえも発見されなかったのです。
 そして、第2次ニクソン内閣のインディアン問題委員会に、ローラ・バークトという
女性が起用されたのです。この人は、別にインディアンの専門家ではなく、多くの人が
首を傾げたといわれます。調べによると、この女性は、ボッグズが乗って行方不明にな
った飛行機の持主であるアラスカ・インターエア社の社長夫人であることがわかったの
です。
 一体、これはどうなっているのでしょうか。JFKジュニアも飛行機事故――あま
りにも変死が多過ぎると思いませんか。
 ボッグズはもし生きていれば、下院議長には就任したであろうといわれています。も
し、彼が下院議長になったら、その強力な地位を利用して、真のJFK暗殺調査委員会
を設立していると思われるのです。FBIやCIAがそれを恐れたとしたら、飛行機を
操作して墜落させるぐらいやりかねないのです。
 このように、ウォーレン委員会において、委員会の結論に疑問を抱いた委員のうち3
名に関してはクーパーをのぞいて変死しています。これは実におかしなことであると思
います。
 あとの4人――委員長のウォーレン、マックロイ、フォード、ダレスについては、い
ずれもFBIかCIAと深い関係があることがわかっています。それも何らかなかたち
で、ニクソンとつながっていることがわかっているのです。
 委員は7人中5人(クーパーを含む)がニクソンにつながっていることから、その
ことを15人の専門スタッフ――関連資料を分析したり、証人を選んだりする実務スタ
ッフについて調べてみると、実にその12人までが、なんらかのかたちでニクソンにつ
ながっていることが判明したのです。そして、そのうちの多くが後にニクソンが大統領
になったとき、いろいろな政府委員会の委員長や委員などに任命されているのです。
「ウォーレン委員会」ではなくて「ニクソン委員会」になっているのです。
                       ・・・・・ [JFK12]

ウォーレンとフーバー.jpg

2006年08月11日

トロイの木馬/フォードとダレス(EJ第1436号)

 ウォーレン委員会の7人の委員のうち、委員長と委員会の結論に反対の立場をとった
3人の委員――ラッセル、クーパー、ボッグズについては分析を終わっています。
 続いて、委員会の結論を支持した3人――マックロイ、フォード、ダレスの3人につ
いて述べていくことにします。
 ジョン・マックロイ元世界銀行総裁――この人物についての情報は多くないのですが
はっきりしていることが2つあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      1.ロックフェラー家に非常に近い
      2.CIAとの結びつきが強いこと
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 ジョン・マックロイは、1920年代にスタンダード・オイルの顧問弁護士をしてい
ます。スタンダード・オイルはロックフェラー家の所有なのです。また、マックロイは
チェースとマンハッタンの合併を成功させ、ロックフェラーに高く評価され、非常にそ
の信頼は厚かったといわれます。
 それと同時に、このマックロイはCIAとの結びつきも強いのです。もともとマック
ロイはCIAの前身であるOSS――オフィス・オブ・ストラテジック・サービス/戦
略情報事務局)の幹部をやっていたことがあるのです。このOSSには、同じウォーレ
ン委員会の委員であるアレン・ダレスも第2次大戦中にスイス支局長を務めており、マ
ックロイとは関係が深いのです。
 マックロイは、チェ−ス・マンハッタン銀行会長を務めるかたわら、ユナイテッド・
フルーツ社の理事もしています。このユナイテッド・フルーツ社はもちろんロックフェ
ラー系の企業です。
 1954年にユナイテッド・フルーツ社はCIAと組んでグァテマラの左翼政権アル
ベネス政府転覆を成功させるという荒っぽいこともやっているのです。さらに、マック
ロイは、あのベクテル社の顧問も務めているのです。ベクテル社については、昨年6月
16日のEJ第1128号で詳しく紹介しております。
 まだあります。マックロイは、ニクソンにも近いといわれています。こんな話があり
ます。ウォーターゲート事件の最中のことですが、ニクソンがウォーターゲート特別調
査委員会検事としてこのマックロイを任命するよう指示したことをニクソンによってク
ビにされた元司法長官エリオット・リチャードソンが明かしているのです。
 このマックロイは、ウォーレン委員会の結論を最初から最後まで強力に支持したこと
で知られています。いずれにしてもマックロイも、JFK暗殺には何の陰謀も存在しな
かったとしなければならない一派を代表する人物であったようです。
 さて、残るはフォード委員とダレス委員です。実は、この2人――トロイの木馬とい
われているのです。なぜ、トロイの木馬かというと、委員会の結論を一定の方向に内部
から誘導し、委員会内部で行われた審議、尋問、証言などの情報をそれぞれの組織に対
して情報伝達する任務を負っていたからです。フォードとダレスにおけるそれぞれの組
織とは次の通りです。
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    ジェラルド・フォード ・・・・・ FBI
    アレン・ダレス ・・・・・・・・ CIA
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 ウォーレン委員会は、ジョンソン大統領から任命され、JFK暗殺事件の真相を究明
するという重大任務を負っていたにもかかわらず、委員たちの出席率が低いことで、歴
史に名を残したのです。その中にあって、フォード委員とダレス委員の出席率はズバ抜
けて高かったのです。そのことも、フォードとダレスが、情報内通をやっていた証拠と
されています。
 とにかくウォーレン委員会に与えられた期間は次のようにわずかであり、委員の出席
率がよくなければ真相に迫ることなど最初からできなかったはずなのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 スタッフの編成 ・・・・・・・・ 1964年1月末日
 調査(聴聞会を含む)完了 ・・・ 1964年5月1日
 報告書の起草完了 ・・・・・・・ 1964年6月1日
 大統領に提出/報告書発表 ・・・ 1964年7月1日
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 委員会では、このきつい日程の中で94人の証人を尋問しているのですが、その尋問
に7人の委員が全員出席したことは一度もなかったのです。しかし、フォードとダレス
の出席率は次のように、際立って高かったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 フォード 94人中70人の証言聴取 ・・ 74.5%
 アレン  94人中60人の証言聴取 ・・ 63.8%
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ジェラルド・フォードは、数ある米議員の中でも、FBIやCIAに理解のある人物
であり、副大統領時代のニクソンの友人だったのです。そのニクソンがジョンソン大統
領にフォード議員を委員として売り込んだことは既に述べました。
 フォードとニクソン――ニクソンが陰湿で陰謀めいたイメージであるのに対して、フ
ォードはネアカのスポーツマンタイプであり、爽やかなイメージの持主であって、性格
は好対照であるといえます。
 そのことを意識していたニクソンは、何かにつけてフォードを重用したのです。フォ
ードもニクソンについていったことで彼は一度も選挙を経験しないで、副大統領、大統
領へと上りつめた唯一の人物となったのです。
 最初は、1973年にニクソン政権下のスピロ・アグニュー副大統領が収賄疑惑で辞
任したときに副大統領となり、続いてニクソン大統領がウォーターゲート事件で辞任し
たあと、そのまま押し出されて大統領に就任するという信じられないような幸運がフォ
ードに舞い込んだのです。           ・・・・・ [JFK13]

マックロイ/ダレス/フォード.jpg

2006年08月14日

ダレス兄弟の正体を探る(EJ第1437号)

 いよいよ、アレン・ダレス委員について述べるときがきたようです。アレン・ダレス
は、フォード議員とともにウォーレン委員会の結論を一定の方向に誘導する働きをした
人物です。
 私たちは「ダレス」という名前を聞くと、日本になじみの深いかつての米国務長官の
ダレスを思い浮かべてしまうのですが、それは、ジョン・フォスター・ダレスのことな
のです。アレン・ダレスはジョン・フォスター・ダレスの実弟に当たります。
 このダレス兄弟は、第1次世界大戦〜第2次世界大戦にかけて外交面で大活躍をして
いるのです。JFKの問題を考えるときアレン・ダレスについて詳しい知識があると、
いろいろなことが見えてくるので、お話しておきたいと思います。
 1933年1月4日のことです。ドイツのシュローダー男爵はケルンにある自分の大
邸宅に、4人の人物を招いていたのです。シュローダー家というのは、ロスチャイル
ド家やハンブロー家と並び称される古くからマーチャント・バンカーとして活動してき
た名門です。
 そのとき、シュローダー邸には男爵の他に政権をとる前のヒットラーとパーペン元首
相、それに加えて、ニューヨークの法律事務所「サリヴァン&クロムウェル」のジョン
・フォスター・ダレスとアレン・ダレスの兄弟がいたのです。このときダレス兄弟は、
シュローダー銀行を代表して出席していたのです。
 この日の会談の目的は、ヒットラーを首相に就任させるために必要な資金を確実に提
供する確約を与えるためだったとされているのです。このとき得られた巨額の資金を使
って、ヒットラーは選挙に勝利して政権をとることができたのです。ダレス兄弟は、ヒ
ットラーが第2次世界大戦を起こすまで、ナチス・ドイツと米国を結ぶ資金ルートに
深く関与していたのです。
 少し余談ですが「シュローダー男爵」というと、何かを思い出さないでしょうか。
実は、『サウンド・オブ・ミュージック』という映画に登場してくるのです。
 といっても、シュローダー男爵自身が登場するのではなく、男爵夫人が出てくるので
す。映画の中間部分です。『サウンド・オブ・ミュージック』の舞台1939年のオー
ストリアです。その時点で男爵は亡くなっていて、男爵夫人はトラップ大佐と結婚
の話が出ていたのです。男爵夫人を演じていたのは、エリノア・パーカーという女優だ
ったと思います。
 アレン・ダレスはハーバード大学出身の法律家・弁護士出身であり1916年から外
交官の職にあったのです。1920年にベルリンの米国大使館第一書記に選ばれ、第1
次大戦のドイツ賠償問題など、多数の軍事外交に関与しているのです。そして長年にわ
たってシュローダー男爵の銀行である「J・H・シュタイン銀行」の理事を務めていま
す。
 さらに、重要なことは、米国のスタンダード・オイルの顧問弁護士も務めているので
す。スタンダード・オイルといえば、ロックフェラーの所有であり、ウォーレン委員会
の委員であるマックロイも同社の顧問弁護士なのです。ここで、マックロイとアレン・
ダレスは完全につながっていることがわかります。
 ちなみに、兄のジョン・フォスター・ダレスもハーバート大学出身の優秀な弁護士と
して鳴らし、ウォール街の法律顧問を務め「BIS(国際決済銀行)」の創立者の一人
として活躍。米国が参戦する前は、ドイツの「I・G・ファルベン社」の重役陣に名を
連ねる米国きってのドイツ通の一人であったのです。
 第1次大戦のパリ講和条約では叔父の国務長官ロバート・ランシングの秘書官を務め
ジャネット・ポムロイ・エーヴリーとの結婚によって、ロックフェラー家の一員となり
ロックフェラー財団の理事長も務めています。兄弟ともにロックフェラー家とは近い関
係なのです。
 1942年11月、アレン・ダレスは、スイスの米国大使補佐官という外交上の地位
を与えられ、OSSのスイス支局長に就任したことは昨日のEJで述べた通りです。
 アレン・ダレスに与えられた任務はナチス・ドイツ内における反ヒットラーの動きを
探り、その進展具合を分析するという広範なものだったのです。そのため、彼は第2次
世界大戦中のスイスで活動する多くのスパイ組織とパイプを作る機会に恵まれスイスに
彼の情報帝国が誕生するまでになったのです。
 米国の歴史学者であるマーク・マスロフスキーは、アレン・ダレスについて、次のよ
うに述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  彼は非常に自己中心的な男で、スイスから戦争を指揮しようと考えていた。企業弁
 護士としての実績は相当なもので、ドイツの実業界や法曹界の友人は数え切れないほ
 どであった。親ナチスではないものの親ドイツで、保守派の抵抗運動にかなり肩入れ
 していて、無条件降伏を画策していた。ヨーロッパ各地の社会の奥深くまで潜入して
 情報活動を展開し、人脈を築いていたのである。終戦後に予想される冷戦時代に備え
 て、彼のアンテナは、はっきりソ連の方向に向けられていたのである。
                          ――マーク・マスロフスキー
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1947年にOSSはCIAに再編され、アレン・ダレスは3代目CIA長官に就任
しています。そして、兄のジョン・フォスター・ダレスも米国の国務長官に就任し、第
2次大戦後も幅広い活躍をしているのです。
 ところで、このアレン・ダレス――ケネディ大統領就任直後にピッグス湾事件にかか
わり、JFKからCIA長官を解任されています。ピッグス湾事件というのはCIAを
中心にアイゼンハワー大統領時代に計画されたものであり、JFKはそれを引き継いだ
のです。そして、JFKは手痛い失敗をするのです。
 ピッグス湾での米国の敗北――これはJFK暗殺の背景のひとつとなっており、避け
て通ることはできないのです。ピッグス湾事件については明日のEJで取り上げます。
                        ・・・・[JFK14]

ダレス兄弟.jpg

2006年08月15日

ピッグス湾侵攻作戦計画(EJ第1438号)

 1959年1月1日、フィデル・カストロが率いるハバナ大学生たちの革命評議会や
労働組合がバチスタ政権を打倒したとき、米国の世論は、双手をあげてそれを歓迎し、
『ニューズ・ウィーク』誌などは、カストロを英雄と呼んだほどです。
 しかし、その後急速にキューバと米国の関係は悪化します。カストロが米国からの経
済支配、軍事支配を嫌ったからです。そこでカストロ政権は、ヨーロッパ諸国とソ連と
の連携を深める政策を推し進めようとします。
 英国とジェット戦闘機購入計画を締結したり、ソ連人の記者を国内に受け入れたりす
るなど、米国を挑発するような行動をとるようになったのです。このソ連人の記者は、
タス通信のアレクセーエフと名乗っていたのですが、CIAはアレクセーエフがKGB
幹部であることを掴んでいたのです。
 ソ連に対しては、弟のラウルをモスクワへ訪問させ、1960年2月には、「ソ連産
業貿易展」を開催――その開会式にソ連の第一副首相のミコヤンを招き入れるという、
かなり米国を刺激させることを連発します。
 カストロとしては、こうすることによって米国の妥協を引き出そうとしていたのです
が、これはキューバにとって、極めて危険なカケであったといえます。
 米国はこれに対抗して英国に圧力をかけて契約を破棄させるなどの妨害し、さらに砂
糖の輸入をストップし、経済制裁を強化します。そうすると、キューバは国内の米企業
を接収するなどの報復を行い、その関係はドロ沼化していったのです。これにより、キ
ューバからの避難民は続々とフロリダ州のマイアミに集結し、その数は実に10万人
に達しつつあったのです。
 こういうキューバとの状況の中で、米国ではケネディとニクソンの間で激しい選挙戦
が行われていたのです。両陣営のキューバに対する公約では、「必要とあればキューバ
を侵攻する」という点では一致していたのです。
 時の政権であるアイゼンハワー政府内では、キューバをめぐって次の2つの意見があ
ったのです。
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 1.平和的解決 ・・・ アイク大統領を中心とする国務省
 2.軍事的解決 ・・・ 副大統領ニクソンとCIAの主張
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 アイゼンハワー大統領は、万一の場合に備えて、亡命キューバ人をグァテマラにある
CIAの秘密基地においてゲリラ戦に対応する訓練を受けさせ、解放軍を結成しつつあ
ったのです。これを主張したのは、もちろん副大統領ニクソンとCIAです。
 しかし、既にアイクはキューバ問題に関しては、この時点で手を引き、すべては彼の
任命したスペシャルグループ――CIA、国防省、国務省に委ねられていたのです。こ
のグループの最高責任者は副大統領のニクソンだったのですが、この時点ではCIA関
係者はニクソンが負けるとは考えていなかったのです。
 その時点での亡命キューバ人の軍団は、1000人程度であるのに対して、カストロ
の正規軍はそのサイズにおいて、前バチスタ政権時の10倍以上に達しており、軍事
物資も東欧やソ連から2万8000トンも流れ込んでいたのです。
 このように強力なカストロの正規軍に対して、1000人規模のにわか仕立ての軍隊
では常識的には対抗できるはずがないのです。キューバ侵攻を成功させるには、何ら
かのかたちで米軍が介入するしかないですが、正面きって下手に米国が介入すると、ソ
連を巻き込むことになってしまいます。
 しかし、CIAは、何らかのかたちで米空軍の援護が受けられれば、キューバ侵攻は
成功すると考えていたのです。しかし、そのことの前提は、あくまでニクソンが当選し
て大統領になるということだったのです。
 しかし、当選したのはケネディ大統領だったのです。1961年1月、就任式が終わ
るとCIAは直ちにJFKを説得にかかったのです。実は、ケネディは就任前にパーム
ビーチの別荘でCIAからキューバの件は聞いていたのですが、彼はことの重大さと作
戦の大胆さに言葉を失ったといわれています。
 CIAの大統領説得のポイントは次の2点です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.カストロ正規軍はソ連の支援を受けて強化されつつあり、カストロを倒すなら、
   今しかチャンスがないこと。
 2.CIAの基地には1500人の亡命キューバ人による武装集団がおり、空軍の
   支援によって侵攻は成功する。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 CIAによる具体的な作戦は次のようなものだったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.1961年4月17日の真夜中に1500人の武装した亡命キューバ人グルー
   プが、海からカストロ軍が少ないとされているキューバのピッグス湾に侵攻す
   る。
 2.亡命軍がピッグス湾に上陸した時点でキューバ革命協議会が武装亡命政府樹立
   を宣言し、キューバ国内にいる反カストロ派キューバ人民の一斉蜂起を促すこ
   と。
 3.侵略前と侵略時の2回、亡命軍空軍はカストロの空軍基地を爆撃してカストロ
   空軍を無力化する。もし、失敗の場合近くの山に逃げ込み、ゲリラ戦を展開す
   る。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この作戦が成功するかどうかは、亡命軍空軍の2波にわたる爆撃で、カストロ空軍を
完全に破壊し、制空権が握れるかどうかにかかっています。カストロの空軍には経験豊
富なパイロットもおらず、まったく組織化されていないので、勝算は十分にあるという
CIAの説明だったのです。
 この説明に対して、JFKはとくに反対はしなかったのですが「どのような状況でも
米軍は決して投入してはならない」という条件を出したのです。CIAもこれを了承し
たのです。・・・・・ [JFK15]

最初はよかったのだが・・・.jpg

2006年08月16日

JFKの最初にして最後の敗北(EJ第1439)

 1961年4月15日――キューバ・ピツクス湾侵攻開始2日前のことです。CIA
の立てた計画通りに亡命軍のB26はニカラグアから発進し、キューバの空軍基地を爆
撃します。
 実はこのキューバ空軍基地の爆撃にはキューバ亡命軍のB26以外に米軍機(尾翼に
米国旗なし)が含まれており、相当の成果を収めています。CIAはこの時点では、計
画通り第2波の攻撃を行えばキューバ空軍は全滅できると考えていたのです。
 さて、爆撃を終えたほとんどのB26は、ニカラグアの基地に戻ったのですが、2機
だけではフロリダに着陸したのです。これは、かねてからの計画でした。
 この2機はその尾翼にキューバ国旗が描かれており、フロリダ入国管理事務所は、2
機の飛行機はキューバ空軍に所属し、そのパイロットたちはカストロの圧制に耐えかね
て逃亡したものであるとの声明を発したのです。
 しかし、国連本部では、その日のうちに、キューバ大使が爆撃現場の写真を振りかざ
して米国を非難したのです。その写真には爆撃に使われたロケット弾の破片が写ってい
たのですが、そこには、はっきりとUSAのマークが刻まれていたのです。それにして
も、ラテン・アメリカ諸国の反応は異常なほどリステリックなものだったのです。
 これにJFKは動揺したのです。なぜなら、JFKはその3日前に「キューバに対し
て米国は決して介入しない」と公言したばかりだったからです。それに、モスクワと北
京は、この事態を受けて、ベルリン、ラオス、朝鮮半島で行動を起こすことをにおわせ
る行動をとりはじめていたのです。
 そのためJFKは、17日のピッグス湾侵攻と同時に行われる予定であった第2波の
爆撃中止を命令したのです。当然のことながら、これにCIAは猛反発します。しか
し、CIAもここで大きなミスを冒すのです。彼らは、第1波の爆撃でキューバ空軍の
飛行機のほとんどは破壊したと考えたからです。ところが結果論からいうと、キューバ
空軍はその時点でも相当数の飛行機を温存していたのです。しかし、もし、計画通り第
2波の爆撃が行われていたら、おそらく壊滅していただろうと思われます。
 こういう情勢の中で、4月17日の真夜中に1500人の亡命キューバ軍はピッグス
湾に上陸を開始するのです。しかし、ここに2つの誤算が生じたのです。
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 第1の誤算:ピッグス湾には、少ないという予想だったキューバ軍が2万人近くもい
       たこと。
 第2の誤算:残存のキューバ空軍の爆撃により、食糧、弾薬な どを積んだ船舶を失
       ったこと。
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 この2つの誤算によって、ピッグス湾に上陸した亡命軍は苦戦を強いられることにな
ります。この事態を重く見たCIAの幹部たちは、国務省にラスク国務長官を訪ねて、
今までの大統領の公けの誓約をくつがえして、米空軍と海軍をピッグス湾に投入して欲
しい旨大統領を説得して欲しいと訴えたのです。ラスク国務長官は、その場で大統領に
電話を入れてその旨を伝えたのですが、大統領の返事は「ノー」だったのです。
 そのため、その頃ピッグス湾で亡命キューバ軍はますます苦境に陥り、もはや亡命軍
が敗北するのは時間の問題だったのです。この事態に、ピッグス湾上陸の最高責任者で
あるCIAの副長官のチャールズ・カペル将軍は、午前3時頃にラスク国務長官の自宅
を訪ねて、大統領に電話を取り次いでもらい、せめて空軍の援護はさせて欲しいと大統
領を説得したのですが、やはり同意は得られなかったのです。
 かくして、CIA主導で進められたピッグス湾上陸作戦はみじめな失敗に終り、上陸
部隊は全員捕えられ、ハバナに連行されたのです。かくして、ベイ・オブ・ピッグス
はJFKにとって、最初にして最後の完璧なる敗北に終わったのです。
 この作戦の失敗の原因はすべてCIAにあるのです。CIAの作戦は、初めから米国
の空軍と海軍、それ加えて海兵隊まで投入することを前提としていたのです。そして、
そのことを亡命軍に約束していたのです。
 もともとこの作戦は、ニクソンが大統領選に勝つことを想定して決められたものだっ
たのです。しかし、接戦のすえ選ばれたのはJFKだったのです。それでもCIAと
しては、いかにJFKでも侵攻がはじまったら、CIAや軍部の圧力に屈して、米軍が
直接介入することを容認する――そう考えていたのです。
 当時の米国は、かつてのローマ帝国がそうであったように、圧倒的な軍事力の下での
平和を目指し、いわゆるパックス・アメリカーナ(米国による平和)を実現させようと
していたのです。当時の米国軍部は、陸、海、空、海兵隊、予備を含めて350万人の
人間を擁し、あらゆる近代兵器を有しており、そのメカニズムと力において、他に類を
見ない組織となっていたのです。
 さらに軍部は2万2000に及ぶ企業と組んで巨大な軍産複合体を形成し、急速に巨
大化していたのです。その軍産複合体の手先となって諜報活動を行っていたのがCIA
なのです。1953年の発足以来、とくにアレン・ダレスが長官になってからは、議会
や大統領府は、CIAの活動に関して何の疑問も抱かず、すべてめくら判を押してきた
のです。
 しかし、JFKは「パックス・アメリカーナではなく全人類の恒久的平和」という理
想を掲げ、それも口先だけでなく、本気で実現させようとしたのです。そういうJFK
とCIAを含む軍産共同体との最初の激突が、ベイ・オブ・ピッグスであったといえる
のです。
 このときのJFKはどちらかというと、どっちつかずの対応で敗北を喫しています。
そこでJFKは、このベイ・オブ・ピッグスの失敗を契機として、それ以降はCIAを
含む軍産複合体に対して挑戦的な政策を精力的に進めていくことになるのです。
                       ・・・・・ [JFK16]

現在のハバナ市内.jpg

2006年08月17日

誰がパレードルートを変更しか(EJ第1440号)

 デタント――緊張緩和という意味です。JFKが大統領になってから、このことばが
使われるようになったのです。ピッグス湾上陸作戦の失敗後の1962年、いわゆる
「キューバのミサイル危機」が起こります。これは、映画『13デイズ』で詳しく知る
ことができます。DVDで入手可能です。
 映画『13デイズ』については、かつて4回にわたってEJで取り上げています。
2000年12月25日のEJ第525号〜12月28日のEJ第528号までの4回
です。
 さてJFKは、CIA長官のアレン・ダレスと副長官のチャールズ・カベルの2人を
ピッグス湾上陸計画失敗の責任をとらせて解任しています。そして、親友のジョン・