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2011年12月05日

古いトゲが抜けた

 「これで終わりにしよう」と何度思ったことか。知人から聞いて、禁じられ
ている事と知っていながら、止めることが出来ない。近所の人に通報されて警
察が来たら「外人だから、文字が読めません」「私有地の中のことですから」
「既に私の家族です」等と様々な言い訳を考えていた。
 フィンランドでは、野生動物に餌を上げることを、「自立を妨げ、生態系を
壊す」として、ほとんどの自治体で禁止している。しかし毎朝、庭に住むリス
がキッチンの扉を大きなシッポでドンドンと叩き、雉が扉をツンツンと突いた
りして、私にパンの耳を催促する。リスのつぶらな瞳や正直そうな雉の真ん丸
な目と視線が合ってしまうと、無視など出来るものではない。
 北欧では会社の帰りに男同志で一杯やることはご法度だ。「飲んだり遊んだ
りはもっぱらホーム・パーティーで」と決められている。私の仕事が始まって
からは、我家でも頻繁にホーム・パーティーが開かれるようになった。私は寿
司を握り、天ぷらを揚げ、豚カツを振る舞う。中でも私の作る一口カツは評判
が良い。市販のパン粉は粒子が小さすぎて、ふっくらと仕上がらない。そこで
パン粉は自分で作る。その為、沢山のパンの耳が常時残っている。ただ捨てる
のはもったいない。毎日それを、庭に住む家族にあげていたのだ。
 そんな十月中旬のある朝、雉にツンツンと催促されてキッチンのドアを開く
と、鉛色の空からは、真っ白い羽毛のような初雪がフワリフワリと舞い降り、
ドア先には父雉を先頭に6羽の雉が列を成していた。4羽の子供達も、親より
頭一つ背が低いだけに成長していた。パンの耳を食べ終わった後、父雉だけが
ドア先から立ち去らず、私の方をじっと見上げた。数秒後、父雉は突然身を沈
め、尾羽を軸に時計回りに回転し始めた。回転の推進力は胴の下に生える短い
羽の羽ばたきから生み出されているように見えた。すごい勢いで回転を続け、
積り始めた初雪と一緒に小さな木の葉を空中に巻き上げた。フィギュアスケー
トの選手がプログラムの最後に披露する高速スピンに似ていた。何秒回転が続
いたであろうか、仰天した私にはとても長く感じられた。雉は回転を止めると
私に背を向けて、すっくと立ち上がった。そして次の瞬間、雉は尾羽を中心に
身体全部の羽を一杯に広げた。孔雀には及ばぬものの、美しく大きな真円を描
いた。羽を閉じると、家族が待つモミの木の方向にゆっくり去って行った。以
後、雉の家族は私の前に2度と姿を見せなかった。多分、私に恩返しの舞を見
せた後、暖かい南の地に移動したのだろう。
 私が子供の時に桃太郎の本を読むたびに持った、小さな棘のような違和感、
「犬や猿と一緒に鬼が島に、あまり身近には居ない雉が、仲間に選ばれたのは
何故か?」から、解放された思いがした。

雉の羽ばたき

2011年11月07日

曜日で回る社会

 秋の日はつるべ落とし。北欧にこそピッタリな句だ。日照時間は急激に短縮
し、秋雨が暗さを助長する。フィンランドが日本に次いで自殺者が多いという
統計があるが、さもありなんと思える時期だ。幸い私の事務所は、3人の子持
ちの美人秘書殿の入社以来、来客数が激増し、笑い声が絶えることが無い。
 私が最初に彼女に与えた仕事は、「近い将来、顧客に成り得る」と思われる
企業の、購買責任者への電話によるアポ取りであった。アポ取りはゼロからイ
チを産む、企業にとって重要な仕事である。見知らぬ客に、見知らぬ商品を売
るためのアポ取りを、軽々とやってのける秘書などざらには居ない。どうした
事か、私が作った見込み客リストに、アポの日付がどんどんと埋まり、しかも
先方から我社にやって来る。その訳はしばらくして分かった。彼女はノキア社
という、大企業の秘書をしていた経験から、電話の相手を最初から呑んでかか
っていたのだ。相手はいつの間にか彼女のペースにはまり、彼女が指定する場
所に、時間通りにやってくるのである。お蔭で、私が最初に企画したユーロ紙
幣用の財布シリーズ、発明されたばかりの青色発光ダイオード、最新の電子顕
微鏡等の販売ルートが次々に開かれていった。深まる秋に反比例して、私の心
は希望で明るさを増していった。
 完璧に仕事をこなしてきた秘書殿が、思いがけずミスを犯した。私がフィン
ランド第二の都市、トゥルク市の港から船で隣国のスウェーデンに向おうとし
た10月20日金曜日の事である。週の初めに秘書殿に、予約してもらったは
ずの船室が取れていない。窓口で詳しく調べてもらったところ、翌週の10月
27日(金)に予約されていた。そういえば思い当るふしがある。私は10月
20日と言ったのに、秘書殿はカレンダーを見ながら『次の金曜日』と言って
電話予約を入れたのだ。それを受けた船会社は、月日を確認せず、次の週の金
曜日に船室を用意したのである。幸い、キャンセル客が出て、大事には至らな
かった。 
 翌週の金曜日、週末を迎えウキウキしながら帰宅しようとする秘書殿をつか
まえ、『日本では曜日ではなく、月日で予約する。そうすればそんなミスは生
まれない』と諭した。初めて犯した失敗を知って、顔を曇らせた秘書殿は『こ
れからは月日を使います』と素直に謝った。私は『貴女だけではない。フィン
ランド人皆がそうだ。習慣の問題だから、日頃の注意が肝要です』と優しく言
ってあげた。それを聞いて彼女は笑顔を取り戻し、事務室の扉を閉じながら、
『それでは次の月曜日』と言って去っていった。(・・・ダメダコリャ)
                            (長井 一俊)

フィンランド─スウェーデンを結ぶ豪華客船

2011年10月11日

言語ショック

 夏の終わりの寂しさは、北欧ではひとしおである。一月前、ポリの娘たちは
タンクトップにミニ・パンツ、笑顔で旅立っていったのに、8月中旬、涼し過
ぎる秋風から身を守るように、長袖シャツで腕を隠し、それぞれの夏の思い出
を胸にしまい、うつむきかげんでポリの街に戻ってくる。
 この上なく快適な夏のポリから離れる理由もない私は、卒業以来、経験をし
たことのない長い夏休みを、庭に住む先住民達に餌付けをしながら、心行くま
で満喫した。
 この町唯一のソコス百貨店の本屋に行って、英国人の書いたCD付「フィン
ランド語」を買いこんで、リンゴの大木に懸架したハンモックに揺られながら
フィンランド語に挑んでみた。その本は「フィンランド語は決して難しい言葉
ではありません。変わっているだけなのです」から始まっていた。やさしけれ
ば書かれるはずもないフレーズが、困難な先行きを暗示していた。
 かなりの猛勉にもかかわらず、いわし雲がたなびく晩夏になっても、フィン
ランド語を組み立てる脳細胞は、発芽の兆しさえも見せなかった。フィンラン
ド語はスペル通りのローマ字読みで、私の発音はかなり良いらしい。それが災
いしてか、相手は容赦ない早口で返答する。スーパーでレジ待ちのお年寄りに
話しかけても、スケート・ボードで遊ぶ少年に声を掛けても、戻って来る言葉
は宇宙人のそれでしかない。
 八月の末日に、近所の大工さんが私の事務所の内装工事を始めることになっ
ていた。ところが、約束の正午になっても現れない。真面目なフィンランド人
は決して時間を違えることはない。どうしたことかと思っていると、私の携帯
に彼から電話が入った。よほど急いでいるらしく、『ヘサスタ』と一言いって
切ってしまった。ヘサスタとは、どういう意味なのであろうか。辞書であれこ
れあたっても、全く分からない。私は現地の友人に電話で、状況を説明してか
ら、その言葉の意味を問うた。彼は『言葉の説明は後日するが、・・・・大工
さんは2時間程でそちらに着きますよ』と言ってくれた。その言葉通り、大工
さんはすまなそうな顔で午後2時丁度にやって来た。
 翌週、その友人がやってきて、ヘサスタの意味を教えてくれた。『最初のヘ
はヘルシンキという意味です。次のサはここに居ますという位置情報、スタは
fromの意味を含む接尾語で、方向性を表します。行間(文字間?)から察する
と“今、私は外国からの帰途でヘルシンキから電話をしています。次の便でポ
リに戻りますからお待ち下さい”と大工さんは貴男に伝えようとしたのです』
 私は、ショックで当分「フィンランド語」の本を開く気になれなかった。
                            (長井 一俊)

北欧の秋空、いわし雲

2011年09月12日

言葉の砦

 北欧は白夜の季節を迎え、我が町ポリの住人は、道に張り出したパブの椅子
に座って、地ビールのカルフーを煽りながら、寒く長い冬の沈黙を取り戻すか
のように、早口の会話を深夜まで楽しんでいる。私は、南の島パラオに移住し
た友人から「700程の現地語を憶えれば、あとは身振り手振りで意思は通じ
る」と書かれた手紙をもらったことがある。そこで私はフィンランドに転居す
る前に、英・芬(フィン)辞典からよく使われそうな700の日常語を選んで
暗記した。ところが、フィンランドに到着して5か月が経ったというのに、私
の耳にはそれらの言葉がいっこうに聞こえてこない。「どうしたことか?」と
ノキア社に10年間勤務し、フィンランド女性を嫁にしたアメリカ人技師にそ
の理由を問うてみた。すると、『辞書に出ているのは原形で、原形はあまり使
われないようだ。俺はフィンランド語をとっくにギブアップした。女房や子供
とも英語でしか話せないんだ。うちの会社には外人技師が沢山いるけれど、誰
一人フィンランド語は話せないよ』との答えが戻ってきた。後日、私はレスト
ランのオーナ・シェフになり、数人の中国人留学生をアルバイトとして雇うこ
とになるが、彼らの一人が私に『ポリ工専には50人の中国人が勉強していま
すが、一人を除いて、全員フィンランド語をギブアップしました』と話してく
れた。どうやら、フィンランド語は語尾変化が複雑で、それが『ギブアップ』
の理由らしい事が判ってきた。私は、「フィンランド語では、動詞の語尾は何
通りに変化するのですか?」と現地人に聞きまくったが、誰一人として明快な
答えを出してくれなかった。
 意を決して私は、ポリ大学の比較言語学の教授を訪ねて、同じ質問をしてみ
た。先生から『フィンランド語では動詞だけではなく、形容詞、副詞、名詞、
それに固有名詞も語尾が変化します。14回語尾が変化する語彙もあります』
との答えを頂戴した。と言うことは、文章の基本であるSVOC(主語、動詞
目的語、補語)はヒョッとすると14の4乗の組み合わせすらあるということ
か。それでは、「全ての文章を丸暗記しなさい」という事に他ならないではな
いか。そんな馬鹿な!まるで、「ポリ」の語源が熊から身を守る「砦」を意味
するように、「フィンランド語」は外国人を排斥する為の「言葉の砦」ではな
いか?
 隣の丸テーブルに、可愛いオヘソを出した若い娘達がやってきて、いっこう
に沈まない太陽の淡い光を浴びながら、金色に輝く地ビールを一気に飲み干し
てから、ヒバリのようにフィンランド語を話し始めた。
 いつの日か私も、彼らと現地語で会話を楽しもう、と猛然とファイトが湧い
てきた。                        (長井 一俊)

白夜の下、夏の草花

2011年08月15日

ジプシーのキャデラック

 春の日の昼下がり、私のオフイスはいつになく緊張感が漂っていた。
 「会社ができる前に、雇用を約束する」などは、車を買う前にガソリンを注
文する様なものだ。そんな愚を犯すべきではない。秘書として入社を希望する
3人の子持ちの美女に、私は懸命に逆転を試みていた。
 『医療費や教育費はともかく、子供は大変な金食い虫ですよ。三人もいたら
暮らし向きも、楽では無いでしょう?うちはノキア社のような高給は到底払え
ませんからね』と、率直な気持ちをぶつけてみた。すると彼女は、『貴方は街
でジプシーがキャデラックを乗り回しているのを見た事はありませんか?』と
意外な問い掛けをしてきた。
 そういえば確かに、落ち着いたポリの町には不似合いな、コバルト色のキャ
デラックのリムジンから、ジプシーの子供達がゾロゾロと降りてくるのを見た
ことがある。
 『そのジプシーがどうかしたのですか、貴女に?』『あの車に乗っている子
供達の父親は、職業に就いてはいないそうです。子供手当で豪華な生活をして
いるのです。手当の額が子供の数に従って、累進的に上がるからです』『そん
な事がよく許されますね。国は早晩、破産しますよ。貴女の国の政治家達は何
をやっているんですか?』私は敢えて「貴女の国」と言ってみた。
 『ある議員が、“子供手当が移民達に悪用されている”と国会で発言しまし
た』『それは当然な発言でしょう。そして、どうなりましたか?』『貴殿の様
な金持に、弱者のささやかな幸せを妬む資格は無い、と多くの議員から逆に非
難され、それがニュースになって、次の選挙では落選しました』
 私は言葉を失いかけたが、それでも必死に食い下がった。『それは大変な美
談ですね。しかし金持ちの議員さん達は別として、貴女達一般市民はキャデラ
ックに乗るジプシーをどう思っているのですか?』私は、偽善的な答えは許さ
ないぞ、とばかり彼女を睨みつけた。『あのキャデラックは、高福祉がきちん
と維持されている事を証明する、良い広告塔だと思います。お蔭で、私達は欲
しい数の子供達を安心して産めるのです』・・・この国は少子化しない・・・
さすれば、将来の年金源も確保されているという事か・・・
 『合格、貴女は合格です』と言う言葉しか、私からは湧いてこなかった。私
は、落とす自信の無いままに、絶対落とさねばならぬ、約束手形を振出してし
まった。彼女は勝者の笑みを残して、足早にオフイスを出て行った。
 数秒後、重厚なエンジンの初動音が聞こえて、オフイスの窓越しに、ダイム
ラーの大きな黒のワンボックス・カーが、颯爽と走り去る光景が見えた。
                            (長井 一俊)

タンポポ制圧された裏<br />
庭

2011年07月19日

美人秘書

 北欧の萌える春は、タンポポとの戦いで始まる。早く摘まねば、芝生や他の
草花はタンポポに覆われて、隣人から「だらしない」とそしられ、不動産価値
も下落する。この鬼タンポポを摘みながら、ふと庭先を見ると、その日まで広
告しか入っていなかった我家のポストから、封筒が溢れ出ていた。差出人も、
投函地も様々だ。何事かと、急いで開封してみると、どの封筒にも履歴書が入
っていた。手紙の内容から、数日前、私が会社設立の登記手続きをしたことが
「近くポリ市に国内史上8番目の日本法人が出現」と言う記事になって、全国
紙に掲載されていた事を知った。
 企画していた「ユーロ紙幣用財布」の製作が順調に進み、会社を設立する事
になったのだ。しかし、すぐに社員を雇用すること等、毛頭考えてはいなかっ
た。私はその日の午前中に「会社設立許可が下りてから、ご連絡いたします」
と差出人全員にメールを入れた。
 午後、オフイスのチャイムが鳴った。ドアを開けてみると、「私こそがビジ
ネス・ウーマンです」と言いたげな、ピシッとした黒スーツの女性が、大きな
封筒を抱いて立っていた。面接を受けに来たと言う。私は、『まだ会社は出来
ていません』と断ると、『履歴書だけでも見て下さい』と吸い込まれそうな大
きな瞳を一杯に開いて、私に迫ってきた。美人だ。私はオフイスに通してしま
った。
 履歴書を見ると、前年までノキア社のポリ支店・市店長秘書をしていたとい
う、堂々たるキャリアの持ち主である。ノキアの組織替えでポリ支店がサロ本
社に統合され、支店長も本社に栄転されたが、3人の幼子を持つ彼女はポリに
とどまった、と言う。美しい英語と簡潔な説明で、彼女が有能な秘書であるこ
とはすぐに分かった。しかし、3人の子持ちでは仕事に打ち込める訳が無い、
と私は踏んだ。
 『いつ始まるか分からない職場を、待っている訳には行かないでしょう?』
『現役時代の手取りと変わらない失業保険をもらっていますので、待つことは
出来ます』『出勤したら、3人の子供はどうなりますか?ほったらかす訳にも
いかないでしょう?』『近所の人達がボランティアで喜んで面倒を看てくれま
すから、問題はありません』『幼子は良く病気をしますから、医療費もかかる
でしょう。それに教育費だって?』『医療費はタダ。教育費も大学院を出るま
でタダです』
 私はロンドン経由で入手している日本の新聞に「生活保護手当をもらってい
るので、夏が来てもエアコンは入れられません」と書かれた記事を思い出して
恥ずかしさで、自分の頭が段々下がって行くのを感じた。  (長井 一俊)

春盛、庭の片隅

2011年06月20日

突然の春

 「苦あらば楽あり」は北欧にも通じていた。北極おろしの洗礼を受けて、や
っとの思いでポリに辿り着いた私を、法外な幸運が待っていた。到着したホテ
ル「ランタカルタノ」では、トウミネン教授の計らいで、ホテルのオーナーの
キモさんが新聞記者と大男の通訳を用意して待っていてくれた。キモさんはホ
テルの他、建築、不動産、食品会社等を経営し、『パパ』と敬愛される、この
町のドンである。ランタカルタノはコケマキ河を望み、白樺に囲まれた美しい
ホテルで、ポリの人たちの多くが、このホテルの素敵な庭とダイニングで結婚
披露宴を挙げる。キモさんは祝辞の代わりに得意のバイオリンで新郎新婦を祝
うのがしきたりになっている。パパと言う敬称は、ここから来ていた。英語が
苦手なキモさんの横で、通訳をしてくれた大男の名はベリペッカ・ケトラ。北
欧で最も人気のあるスポーツ、「アイス・ホッケー」のフィンランド初のプロ
選手で、この国で彼を知らぬ者はいない。長野オリンピックでは、監督として
ナショナルチームを率いて日本にやって来た。この日同席した新聞記者は、私
を大物ビジネスマンと勘違いして、翌朝の地元紙に大きく私の記事を載せた。
 私が住むことになったこのポリは、市制453年を誇る由緒ある西北地方最
大の町で、港があり、飛行場があり、隣国ロシアの古都「サンクトペテルスブ
ルグ」からくる横断列車の終着地でもある。市内の人口は8万程だが、周囲の
町村を併せた商圏人口は30万を超すと言われている。この国最大のビール会
社「カルフー(熊)」があり、競馬場があり、郊外には北欧第一の砂浜「ウーテ
リ海岸」もあって、ポリは一流の観光地である。それ故か、他の町に比べて酒
場の数が異常に多く、活気と華やぎに満ち、左利きの私にはぴったりの地だ。
 新聞のお蔭で、地元企業から毎晩のように接待を受け、キモさんの紹介で副
市長や役所の幹部達とも親しくなった。隣接市にある世界第三位の精銅会社か
らも重役が挨拶にやってきた。日本にいたら決して起こるはずのないことが次
々と起こって、ポリに到着してからの2か月があっというまに過ぎた。この間
にキモさんの斡旋で、オフイス兼、自宅が見つかった。建坪330平米の平屋
で、敷地は1450平米もある大きな屋敷だ。ちなみに家賃は1月20万円。
東京ならいったい幾ら払えばよかろう。そして、我家には先住民が暮らしてい
た。白樺の根元に大白兎1匹、モミの木の下に6羽の子連れの雉夫婦、リンゴ
の木の上には大きな尻尾のリスが3匹。
 5月7日、それまで吹いていた北風が突然南風に変わり、コケマキ河に張っ
ていた氷も、街路ぎわに山と積まれていた雪塊も一度に溶け出して、町中は水
浸しになった。ところが、人々の顔は笑いに満ち溢れていた。待ちに待った北
欧の春がやってきたのだ。                (長井 一俊)

「世界最北の日本レストラン」

2011年05月23日

北極おろし

 降り出したばかりというのに、雪ははや、センターラインを消そうとしてい
た。前日、ノキア詣でを無事に済ませて、サロのホテルに一泊した。タクシー
の運転手に手配してもらった精神安定剤が効いたのか、良く眠れて、爽快な朝
を迎えた。青空の下、空気は澄み、時折聞こえる自動車の音を除けば、無音の
世界だ。ポリまでは北北西へ180キロ。タクシーを使うには遠すぎるし、バ
スを乗り継ぐには、荷物が多過ぎた。そこで、レンタ・カーを選んだ。
 私は狗年生まれ。鼻が利く。方向感覚には自信があった。サロの町を出て、
地図に従って北に向かうと、すぐに森に入った。森は国土の86%を占め、国
中が富士の裾野に広がる青木が原のようなものだ。出発して40分、アウラの
町を通過した頃から風が出て、北国独特の黒雲が空を覆った。エンジン音に混
ざって聞こえていた、「ピュー」という風の音が「ビュー」に変わった。霰の
ような粉雪は横殴りになった。この国の一般道は雪解け水が側溝に落ち易いよ
うに馬の背状で、路肩近くを走ると側溝に滑り落ちる心配がある。そこで、車
はセンター側を走行する。その頼りのセンターラインが消えようとしているの
だ。風の音に意味など在ろうはずもないが、『フィンランドの自然を甘くみる
な』と叱りつけるような「ゴーゴー」という音に変わった。これは地吹雪、ど
こまで激しくなるか分からない。もし、ガソリンが切れたら。エンジンが止ま
ったら。携帯電話はポリ市で落ち着いてから買おうと決めていた。甘かった。
フィンランドの3分の1は北極圏なのだ。走っている地点の北緯61度は、東
京から見れば、北海道、カラフト、カムチャッカを超えて、あの植村直己が遭
難したアラスカのマッキンレー山にあたるのだ。私は、フィンランドに何度も
来たが、ほとんどは首都ヘルシンキで快適な夏を過ごしただけだった。そうい
えば、ナポレオンはロシアの厳寒に追い返され、以後没落の道を辿った。その
ロシアが、第二次大戦でフィンランドを攻めたがこの地吹雪に拒まれて、西進
を諦めたという歴史がある。それほど冬の厳しい地に、私はご機嫌でレンタ・
カーを借りて、軽装で北に向かっているのだ。自分の浅はかさを後悔しながら
ハンドルにしがみつき、前照灯を上向きにして、必死で前に進んだ。気持ちが
滅入らないようにと、ラジオをつけてみると、フィンランドの音楽が聞こえて
きた。欧米のヒップホップとは違う、どこか東欧風のメロディーが流れ、気持
ちがなごんできた。この地吹雪は私への洗礼なのだ。洗礼とは葬る為ではなく
誕生を祝うものだ、と思えてきて、地吹雪を鑑賞する余裕が生まれてきた。…
阪神に住む人ならこの猛烈な風を「六甲おろし」ならぬ「北極おろし」と命名
するに違いなかろう…。やがて車は、この国最長の大河「コケマキ河」にさし
かかった。さすれば、私の新天地ポリはすぐ向こう岸にある。(長井 一俊)

Salo から Poriへ

2011年04月25日

寒くて暖かい国

 3月初旬のフィンランドは、まだ冬のさ中だった。この国の人を揶揄する…
「フィンランド人が無口なのは、寒気を体内に入れない為だ」という言葉が、
空港を出てタクシーを待っている私には、にわかに冗談とは思えなくなってき
た。周りの人とは違って帽子を被っていない私は、タクシーがすぐに来てくれ
なければ、脳内の血液が凍ってしまうのではないか、という恐怖に襲われた。
幸い、黒のメルセデスがすぐにやってきて、若い運転手が私の大きな旅行バッ
グを軽々とトランクに入れてから、後部座席のドアを開けようとした。私はそ
れを断わり、いつものように運転手の隣の席に乗り込んだ。子供の頃、乗り物
酔いがひどく、以来、乗車の際はいつも前列に座る習慣がついている。見晴ら
しは良いし、運転手とも親しくなれる。運転手はその地方の貴重な情報源だ。
 運転手は、私の行き先をサロと聞いて、急に笑顔になった。サロ市までは直
線で90キロ。最上の長距離客である。『ノキアですね』『その通りです。よ
く分かりますね』『日本人のビジネスマンはノキア行きって、決まっているん
ですよ』 確かに、日本の通信業界では「ノキア詣で」と言う言葉が生まれる
ほど、ノキアとの関係構築に力を入れている。私はトウミネン教授から、「ノ
キアの幹部を紹介するから、ポリ市に来る途中でサロに寄って、ノキア本社を
訪ねると良い」と言う言葉をもらっていた。日本人の仕事仲間から、「いきな
りノキアの幹部と会えるなんて、すごい事ですよ」と言われていたので、長旅
の疲れを押して、その日のうちにノキア社を参拝することに決めていた。
 それにしても、私は疲れていた。日本出発の前、仕事の整理で一週間ほど、
ほとんど寝ていなかったし、飛行機内でも全く眠れなかった。電車やバスでは
すぐ居眠りをするくせに、飛行機では眠れない。レールの繋ぎ目や路面の凹凸
から生じる、眠気を誘う心地よいリズムが飛行機には無いからだ。私は運転手
に『眠れないでまいったよ。時差になれるまで当分眠れそうもない』と愚痴を
こぼした。すると運転手は携帯電話でどこかに連絡を入れた。暫くして、車は
高速道路を降り、森を抜けて小さな町に入り、教会に併設されている病院の前
で止まった。すぐに、白衣の医師と看護婦がやって来て、車の窓越しに小さな
紙袋を手渡してくれた。そして、タクシーは元の高速道路に戻った。紙袋を開
けてみると2週間分の精神安定剤が入っていた。『請求書が無いよ。支払いは
どうすればいいんだ。長期移住者なので旅行保険には入っていないんだ』『只
のものに請求書も保険もいりません』『私は外国人で、まだ税金も納めていな
いんだよ』『この国に入ったからには、あなたはもうフィンランド人です』
 タクシーを降りた時、私にとってフィンランドは暖かい国に変わっていた。
                            (長井 一俊)

厳冬のフィンランド

2011年03月28日

日本脱出

 「ベルリンの壁崩壊」によって、ソ連の傘下から離れたフィンランドは、携
帯電話メーカー「ノキア社」に牽引されて、国際社会の表舞台に登場した。一
方、日本はバブルがはじけた後の「失われた10年」のまっただ中にあった。
企業経営者達は一様に自分たちだけは生き延びたいと、下向きの螺旋トンネル
の壁に必死にしがみついていた。私もまさにその中の一人であった。
 そんなある日、古い友人であるフィンランドのトウミネン教授から『我が国
は通貨のマルカを放棄して、ユーロを導入する事を決めた。今や明治維新の様
相だ。ビジネス・チャンスはいっぱいある。貴君の仕事場を東京から、私の大
学のあるポリ市に移してはどうか』との誘いの電話が来た。トウミネン教授は
昭和50年代、留学生として来日し、その後日本ノキア、韓国ノキアの設立に
尽力し、現在、大学で電子工学の教鞭をとる貴重な日本通の一人である。
 フィンランドは通信分野、特に携帯電話に関しては、革新的ソフトと優れた
組立技術を有している。しかし、人口の少ないこの国では製造に要する多くの
部品や素材は外国から輸入せざるを得ない。もし私が、日本の商社に先駆けて
フィンランドに事業所を持って、世界の覇者であるノキアに対し、日本の電子
部品や製造設備を売り込んだら…と想像すると胸が躍った。しかし同年に創立
20周年を迎えようとする会社を外国に移転する決心は中々つかなかった。
 そんな時、トウミネン教授から2002年に発行されようとするユーロ紙幣
の原寸大コピーが郵送されてきた。デザインや色彩は美しかったが、何か妙な
感じを覚えた。翌月、出張先の米国で、ドル紙幣を見た時、その妙な感じの原
因が分かった。ドル紙幣は金額が変わっても、紙幣の大きさは一定なのに、ユ
ーロ紙幣は金額が大きくなると紙幣のサイズも大きくなる。最高額の5百ユー
ロ紙幣はかなり大きい。それまで使っている財布でははみ出してしまう。「大
きい財布を作ったらユーロ全土で売れる」と言う企画が湧き上がった。
 私はかって、東芝が日本初のノート・パソコン、ダイナ・ブックを発売した
時、そのキャリング・ケースが必要になると予想して“ダイナ・バッグ”なる
名前の商標登録を出願し、皮革製ケースを製造してその売り込みに成功した。
以来、皮革会社や縫製会社と親しい関係を持っていた。スピードを要したこの
企画は、フィンランドに転居しようとする私の背を強く押した。私は会社を出
来る限り縮小して東京に残し、単身でフィンランドに移住することを決めた。
 2001年3月7日、私を乗せたフィン・エアーが、サンクト・ペテルブル
グの上空を通過して間もなく、延々と広がる森の先に、おびただしい数の湖が
見えてきた。フィンランドだ。機体はヘルシンキ・バンター空港に向かって、
ゆっくり高度を下げて行った。              (長井 一俊)

フィンランドで製作・販売した財布